消えない痕 Act15

「やっぱり兄サマは凄いね。先生がクリスマス辺りには退院できるかもって言ってたよ」
「そうでなければ困る。こんな場所で、何時までも寝てなど居られないからな」
「退院したって当分は仕事復帰なんて無理だからね」
「何故だ」
「何故じゃないでしょ。兄サマ、自分がどれだけ凄い事故に合ったか分かってないでしょ。普通の人はね、まだまだ起き上がる事すら出来ないレベルなんだからね!」
「では、動けるようになったらいいのか」
「そういう問題じゃないの。もうっ、こういう時位仕事の事を忘れたらどう?会社の方は、そりゃ兄サマがいた時とは比べ物にならないけど、一ヶ月や二ヶ月兄サマがいなくたってビクともしないよ。株価だって徐々に元に戻ってきてるでしょ。クリスマス商戦の件は、兄サマが前に作ってた案をそのまま通して、ちゃんと準備してるから大丈夫だよ」
「……だが」
「この部屋にも大掛かりな機材とか必要なくなったし、顔の包帯が取れたらパソコンは繋いでもいいって言うから、ガマンして。本当はそれだって余りさせたくないんだけどさ」
「ああ、そうしてくれ。退屈で死にそうだ。なるべく早くな」
「片目が見えない状態でパソコンをしたら目が悪くなるでしょ。もうちょっと待ってて」
「飽きた」
「もう、我侭だなぁ兄サマは」

 でもそれだけ話が出来るなら心配ないね。そう言ってモクバは元気良く席を立ち、瀬人が徐に差し出して来た経済新聞を取り上げてサイドボードに置いてしまう。瀬人の治療に使われていた機材をすっかり取り払ってしまった特別室はやけに広々として小さな声すらも良く響く。

 おざなりにつけたままの巨大スクリーンからは、この季節に相応しい賑やかなCMソングが流れていた。来週にクリスマスが控えている所為か、プレゼントを抱えた子供の姿や、恋人達の甘い夜を演出した内容の物が多い。

 それらを特に感慨もなく聞き流しながら、瀬人はカーテンを閉め忘れたままの窓へと視線を送り、外の暗さと室内の明るさの所為でそこに鏡の様に映りこんだ自身の姿をじっと見つめた。

 事故が起きてから既に一月以上が過ぎ、外見的には大分元の様相を取り戻して来たものの、体の至る所を覆う包帯や少しだけ痩せたかも知れない頬を見ると、深く溜息を吐いてしまう。

 その中でも一際目立つ右目の辺りを覆っているガーゼの所為で視界も余り良好ではない。酷くもどかしい気持ちもあったが、医師が言うには角膜に少し傷がついているという話だったから、取る訳にも行かないのだろう。別に二目と見られない顔になっていなければどうでもいい話だったが。
 

『兄サマの顔の傷、見せて貰ったけど大した事なかったよ。ただ、ちょっとだけ額に痕が残るかな。でも、兄サマはいつも前髪を下ろしてるし、気にならないと思う』

『目は大半を自然治癒に任せるから暫くはそのままだって。無理をすると見えなくなると悪いからって先生が言ってたよ』
 

 まるで気遣うように瀬人が自らの手で顔に触れる度にその事を先取りしたかの如くそう口にするモクバの言葉に、瀬人は素っ気無く「別に気にしてないが」と呟いた。

 そう、自分は特に己の顔の事など気にはしていないのだ。ただ、万が一どうにもならないような傷痕を残した場合、あの男の事を更に萎縮させてしまうだろうと、そう思って。だからどの程度のものなのかを知りたかった。ただ、それだけだ。

 遊戯とあの男……城之内の話をしてから、既に数週間が経過していた。学校自体も学期末考査の時期に入り大分忙しくなってしまったのか、遊戯もあれ以来姿を見せてはいない。モクバの話だと「テストが終わったら直ぐに行くから」との事だったが、成績如何によってはそんな暇など無い筈だ。

 そこまで考えて再び大きな溜息を吐く。モクバがそれを気にした様に、一瞬顔を覗き込んでくるが特に反応を示さずにいた。しかしそれは許されず、「どうしたの?」と気遣わしげに効聞いてくる声に「何でもない」と応えを返す。

 そう、何でもないのだ。ただ、少し気分が重いだけで。

「………………」

 過去に感じていた不安は、もうなかった。モクバの話では遊戯は城之内と会う事が出来たらしいし、こちらの意向が伝われば後は向こうの気持ち次第だ。とりあえず物理的に消える事がないのであればどうでもいい。何時までも逃げて廻っている様ではこちらとしても考えがあるが、当初の悩みが解消されただけでもよしとしなければならないだろう。
 

『……ごめん、全部オレの所為で、こんな事になっちまって。……オレ、もう二度とお前に関わらないようにするから。お前の前から、消えるから』
 

 それこそ消え入りそうな声でそう呟いて、みっともなく泣き続けたその顔を渾身の力で殴り付けてやりたかった。そうだ、こうなったのも全部貴様の所為だ。責任を取って最後まで付き合え、そう言ってやる前に別れてしまった。

 それに。それよりももっと重要な言葉すら口にする機会を失ったままで。
 

『兄サマは、どうしたいの?』
 

 少し前に初めてモクバと真剣にこの事を話し合った時、その時は良く分からなかったその問いの答えは、今はもうはっきりとした形で瀬人の中に存在していた。どうしたい、などと本当は最初から決まっていた。そう決めていなければ、何も出来なかった筈なのだから。

 瀬人とてそこまでお人好しではない。誰彼構わず手を差し伸べてやるなどという事は決してしない。瀬人に取って大切にするのは弟とごく一部の者だけで、それ以外は例え命を落とすような事になっても気になどしない。そんなものに一々心を奪われていては何も出来ないし、それほど殊勝な心かけを持っている訳でもなかった。

 けれど、あの男にはつい手を差し伸べてしまった。関係を続けてしまった。散々な事をされた筈なのに、恨む気持ちを持つ事もなかった。それだけを考えてもどういう事か分かる筈だ。どうでも良ければまして嫌いであるならば、意に介す事すらしない筈だからだ。

 今はただ、会いたいと思う。

 胸に抱いたこの気持ちも喉奥に押し込めている様々な言葉もあの男が来ない限りは何処にも曝け出す事は出来ないのだ。……だから。
 

「兄サマ、オレちょっと磯野に電話してくるね」
 

 瀬人がそんな事を考えながら、雪がちらつき始めた窓の向こうから視線を外さずにいたその時だった。会話が無くなった事に少し居心地の悪さを感じたのか、モクバがそう言って立ち上がる。

 特に何も言わずに歩き出すその背にかける言葉も無く、瀬人は視線を窓から夕方のニュースが始まったスクリーンへと移し、抑揚の無い声で読み上げられる特に面白みも無い事件をただじっと眺めていた。
 
 

 一方、病室の外に出たモクバはその言葉通り社へと連絡を取ろうと携帯を取り出し、リラックスルームにもなっている瀬人の部屋と反対側にある広い洋室へと向かっていた。慣れた手つきで幾つかあった仕事のメールに返信しつつ、漸くディスプレイに磯野の名を出して通話ボタンを押そうした、その時だった。

 彼が歩いている場所から直ぐ傍にあったエレベーターの階表示の数字が強く明滅する。12階、13階、最上階であるこの部屋に徐々に近づいてくるそれは、途中で止まる事無く20の文字の所で留まった。それはすなわち彼が今立ち尽くすその階で。

 微かな機械音と共に真っ白に塗り潰された両扉が緩やかに開く。今この階を独占しているのは瀬人一人だから医師や看護師以外の人間は滅多にやって来ない筈だった。しかし、彼等は専用のエレベーターを使う為ここには来ない。面会時間もとうに過ぎたこの時刻に、一体誰が。

 そう思い、殆ど凝視する形でその場所を見ていたモクバは、開かれた扉の向こうに佇むその姿に一瞬目を疑った。エレベーターにしては広く豪奢な、眩し過ぎるその空間の中央に立ち尽くしていたのは、この事件に関わった人間誰もが様々な思いを抱いて切に会いたいと願っていた男だった。
 

「……じょ……うのうち……!」
 

 瞬間、カシャンと大きな音と共に濃い藍色の携帯が床の上へと転がった。それを拾いあげる事も思いつかずに、モクバはただ息を飲んで、余りにも印象が変わってしまったその男の事を眺めていた。彼が最大の勇気を振り絞り、その一歩を踏み出そうとするまで、その奇妙な見つめ合いは続いた。
 

 静か過ぎる空間に、互いの微かな呼吸音だけが、酷く大きく聞こえた気がした。
「……お前……っ」

 長い長い沈黙の後モクバが絞り出す様に発したその声に、城之内は無言のまま落ちた彼の携帯を拾い上げて差し出した。同時に城之内が内部にいた所為でずっと開いていたエレベーターの扉が静かに閉まる。再び数字が明滅する様を視界の端に捉えながら、モクバは差し出された携帯を手にし、次に目の前の彼に言うべき言葉を探していた。

 言いたい事も聞きたい事も沢山あった。その顔を見たらまず一番初めに思い切り殴りつけてやりたいと思っていた。けれど、身体は硬直したまま僅かにも動けなくて、喉奥に何かが詰まってしまったように声を出す事も出来ない。しかし感情の昂りは否応なしに訪れて、複雑に混ざり合ったそれはついぞ涙となって柔らかな頬を伝い落ちた。泣きたくなんかないのに、後から後から溢れて止まらない。

「モクバ」

 その様をじっと無表情のまま見つめていた城之内は、徐に膝を折り視線をモクバの高さに合わせると、深々と頭を下げた。項垂れているのとは違う、きっちりとした角度を維持していたそれは、何分もの間微動だにする事はなかった。その全身から感じる謝罪の意思。その身を地に伏す事はしなくても、それ以上に真摯な気持ちである事は見て取れた。肩が少し震えている。握り締め、強く力を込めている指先が白すぎて。

「ごめんな。本当に……悪かったと思ってる。今回の事は全部オレが悪いんだ」

 言い訳も何もなくただそれだけを口にした城之内の頭部を、モクバはただじっと見つめていた。そうだ、お前が全て悪い。兄サマにあんな大怪我をさせて、苦しめて、それなのにその場から逃げだして、ずっとずっと逃げていて。最低だ、お前なんか。お前が兄サマの代わりになればよかったんだ。……そうまで思っていた筈なのに、やっと開いたモクバの唇が吐きだした言葉と、振り上げた右手が取った行動は、まるで別なものだった。

「馬鹿ッ!オレが……っ、兄サマが、どれだけお前の事を心配したと思ってるんだよ!」
「ごめん」
「お前が来ないから、兄サマは……!」
「ごめんな」
「オレは、お前に謝って欲しくなんか!!」
「ごめん、モクバ」

 ボロボロと涙を流しながら縋りついてくるその身体を力一杯抱き締めて、城之内はただひたすら謝罪の言葉を繰り返した。どんなに責められても罵られても、殴られたって文句は言えないのだ。死んでしまえと言われても仕方がない。それだけの事をしてしまった。彼の大切なモノを踏み躙り、傷つけて、捨てようとした。一生かけても償えない、そんな気がしたから。

「オレの事、好きにしていいんだぜ。それだけの事をしたつもりだし、覚悟もして来た。だから……」
「だから、オレに兄サマが何よりも大事に想ってる奴をめちゃくちゃにしろって言いたいのかよ?!」
「……えっ」
「本当はオレだってお前の事殴ってやりたい気持ちはあるよ。兄サマと同じ目に合わせてやりたいって何度も思ったよ!でも、兄サマはお前をかばうんだ。オレにそんな風に思うなって、お前は何にも悪くないんだってそう言って!」
「………………」
「意識不明だった時、眠っていた兄サマはお前の名前しか呼ばなかったんだ。今でもそう。オレと話している時だってオレの事なんか見ていないんだ。兄サマの頭の中はずっとお前の事ばっかりで、こんなのって……!」
「……嘘だろ」
「嘘じゃねぇよ!ふざけんな!お前が兄サマをあんな風にしたんだろ?!なのに何で逃げたんだよ!!」
「……………っ」
「……オレ、お前の事本当は許せないけど、兄サマがお前を大事に想ってるんならどんな気持ちも我慢するって決めたんだ。オレはやっぱり兄サマの事が大好きだし、大切だから。お前を責めたり傷つけたりして、これ以上兄サマを悲しませたくなんかないから」
「モクバ」
「だから、今までの事はもういいんだ。でも、これからは……絶対に許さない」
「……うん」
「許さないからな」
「分かったよ。……でもお前はそれでいいのか?お前の大切な兄サマの相手がこんな最低な奴でも認められるのか?」
「お前の事は嫌いじゃないよ。大手を振っていい、とも言えないけどしょうがないじゃん」
「そうだけど!」
「誰でもいいんだ。……誰でもいいから、兄サマを幸せにして欲しい。お前と一緒にいた時の兄サマは……オレはその時お前と兄サマがそんな事になってるなんて知らなかったけど……凄く優しくて、幸せそうだった」
「…………!!」
「とにかくお前は兄サマに土下座して来いよ。オレ、邪魔しないから。もう帰ったって言っておいて」
「おい」
「こんな顔で病室に帰れないだろ!いいから早く行けよ!」

 それまで縋りついていた身体をドン、と強く弾いて、モクバは城之内から距離を取る。そのままくるりと背を向けて「病室は向こうだから」と一言口にした彼は、速足で反対方向へと消えて行く。微かに聞こえる話し声に迎えを呼んだのだと知った城之内は、再び押し寄せる強い緊張と共に重い足取りでモクバから指示された部屋へと歩き出した。
 
 

 静寂が戻った空間は余りにも広くて靴底が床を叩く音が幾重にも聞こえる気がする。やがて見えて来た白く大きなスライド式の扉を前に城之内は速足で駆け寄って、立ち止まった。……この扉の向こうに海馬がいる。あの雨の日にまるで捨てる様に置き去りにしてしまったあの、男が。

 もう二度と生身のその姿を目にする事は出来ないと思っていた。言葉を交わす事は出来ないと思っていた。一生許されないと、許さないで欲しいと願い、永遠に逃げ続けるつもりだった。……けれど。

 震える手でゆっくりと扉に手をかける。然程力を込めなくても簡単に開いたそれは、音もなく城之内を部屋へと招いた。病室らしい清潔な空気、薬品の匂い、上着を着ていると少し暑い位の部屋の温度。そして、その広い部屋の中央にある純白。

 そう、それは目に痛い程の白だった。そこに置かれたベッドも、その中で眠りについている彼もはっとするほど白に塗れていて、余り良くは見えない。久しぶりに見るその顔をまるで隠すように覆う『白』にも驚愕した。これらは全て自分の所業の結果なのだと思うと、絶望した。

 膝が震える。声が出ない。自分の存在を相手に伝えたいのに、どうしたらいいのか分らない。呼吸すらもままならず、自然と息苦しくなる胸に手を添えて、城之内がその場に立ち竦んだ。その時だった。

「……モクバ?」

 少し掠れた、それでも余りにも耳に馴染んだ深い声が、静けさをかき乱すように大きく響く。瞬間、それに思わず肩を揺らしゆっくりとその顔を凝視しようとした城之内の瞳と、ゆるりと開かれた鮮やかな蒼が重なった。

 そして、互いにそれを大きく見開き、息を飲む。

「……城之内……!」
「か、いば。オレ……」
「……やっと、来たのか」
「本当は、来たくなかった。ずっと、一生逃げるつもりだった。……いや、すぐにでも、全部から逃げようとしてた。ここから、消えようかと、そう……思って…っ!」
「来い」
「……えっ」
「いいから来い」
「………………」
「償いたいと思うのならここに来い、今直ぐに!貴様が来ないのならオレが行く……っ!!」
「?!っ待て!お前何やってんだ!やめろ!!」

 ギシ、と大きくベッドが揺らぎ、海馬が起き上がる気配がする。どう見ても無理をしようとしているその行動に、対面した直後戸惑っていた城之内は一気に血の気を失い、慌てて海馬の元へと駆け寄った。刹那、ぐらりと揺れた細い身体に反射的に手を伸ばし、危うい手つきで抱き止める。白に覆われた厚みのない身体、苦しそうに肩で息をするその顔は強く歪んでいる。
 

 けれど、その口元は緩い弧を描いていた。

 いつの間にか捕らわれた背を抱き締める腕の感触が懐かしい。
 

「馬鹿野郎!……まだ起き上がれねぇんだろ!なんでこんな……っ」
「会いたかった」
「……なっ」
「ずっと、貴様に会いたかったのだ」
「……かい、」
「好きだ、城之内」
 

 あの夜に告げられなかった一言を、そのたった三文字の言葉を伝える為だけに待ち続けた。
 もし伝える事無く終わってしまったら、そんな恐怖にも似た思いに駆られる日々はもう終わった。痛みも苦しみも不安もない。

 心の底から安堵した。……この瞬間に。

 力の入らない指先を酷くもどかしく思いながら、海馬はそれ以上何も言わずに顔を伏せた。無茶をした身体のあちこちが酷く軋んで痛んだが、そんな事すらどうでも良かった。

 嬉しかった。そして、それ以上に、幸せだった。
 

「……お前、本当に、馬鹿じゃねぇの?」
 

 そんな彼に城之内はこみあげる感情を必死に堪えながら、ただそう言う事しか出来なかった。そしてそれきり唇を噛み締めて押し黙る。そうしないと酷く大きな声を上げて泣いてしまいそうだった……まるで幼い子供の様に。
 

「ごめん……」
 

 詰まる息の間から途切れ途切れに吐き出した謝罪の言葉は、受け取っては貰えなかった。
 それでも城之内は全ての想いを込めてその一言を繰り返した。
 

 堪え切れなかった嗚咽と共に。