消えない痕 Act14

「海馬!……ってめぇ!手を離せよ!!」
「貴様、全く見当もつかないのか?!」
「心当たりがありそうな場所は全部見て回った!!でも、どこにもいなかったんだ!」
「意識はあるのか」
「家にいた時は、ちゃんとオレの事分かってたから、多分」
「何故出て行った」
「酒が無くなったからだろ。いつもの事だ。でも、今日は……!」
「落ち着いてもう一度良く考えてみろ。あの状態だ、いつもの場所に行っているつもりで、全く見当違いの場所をうろついている可能性もある」
「……っ、そんなの、どこだかさっぱり分かんねぇよ!」
「ならば手当たり次第に捜すだけだ。何処から行く?」

 ザァザァと叩きつける雨の中で、二人は争いながら人気のない道の真中で佇んでいた。直前までの激しい動きと興奮で二人とも激しく肩を上下し、唇からは白い息を吐き出しながらまるで敵同士の様に睨みあう。どちらも例えようもない程真剣だった。振りほどこうとする腕と、それを許さない腕が強く鬩ぎ合い、微かに震える。

 城之内は怒りと焦りで歪んだ顔を隠しもせず海馬に幾度も腕を離せと怒鳴りつけた。けれど、声を上げればあげるほど、左腕を拘束する白い指先の力は強まって行き、握り潰されそうな程の圧力を感じた。

 それほど、海馬も必死なのだ。必死で、逃げようとする城之内に食らいついている。

「お前は帰れ!」
「帰らない」
「頼むから、帰ってくれ!これ以上迷惑かけたくねぇんだよ!分かってんだろ?!後はオレ一人でなんとかするから!」
「迷惑など最初からだ。今に始まった事ではない。それでもいいと、オレは言った筈だ」
「でもっ!!」
「嫌ならば、とっくに逃げている。……どうしてそれに気付かないのだ、馬鹿が!」
「…………っ!」
「貴様は自分の事ばかりで、何故オレの事を考えない!気持ちの押し付けは沢山だ!勝手に一人で決めつけるな!」
「!!……かい……」
「自ら手を伸ばした癖に、無責任に手放そうとするな!!」

 その余りの必死な形相に城之内は非情だと思いつつ強い言葉を叩きつけたその時だった。それまで憤りを露わにしていた海馬の顔が一瞬歪み、瞳が薄く細められた。

 刹那、噛み締めた唇から微かな嗚咽が溢れ出る。激しい呼吸音に交じり、引き攣るようなそれは雨音に紛れる事無く城之内の耳に届いた。

 泣いている。そう認識する前に、城之内の身体が動いた。濡れた身体同士がぶつかり合い、びちゃりと不快な音がする。あんなに手放したくて仕方がなかった男なのに、何故かそうせずにはいられなかった。必死に抗っていた左腕で背を包み、右腕を首に回す。

「なんで、お前が泣いてるんだよ。泣きたいのはオレの方なのに…!」

 そう絞り出すように口にした言葉に、海馬の答えは無く、代わりにドン、と胸を強く叩かれた。まるで子供が駄々を捏ねる様に、何度も。元々力が弱い方ではない為、その衝撃は多大な痛みとなって城之内に響いたが、彼は海馬を拘束する腕の力を緩めようとはしなかった。
 

 弱くてごめん。どうしようもない馬鹿でごめん。今更何を言っても遅いかもしれないけれど、好きになって、ごめんな。
 

 冷たい冬の嵐の中でただ言葉を発する事しか出来ずに、城之内は震える声で繰り返し繰り返しそう言った。そんなものを今の海馬が僅かにも望んでいない事を知っていても、そうする事しか出来なかった。

 どうしてこんな事になってしまったんだろう。誰が悪かったのだろう。考えれば考えるほど心は冷えて行く。冷たくなっていく手足と共に。

「……………………」

 けれど、どう足掻いた所で現実が変わる筈もなく、過去をやり直せるわけでもないのだ。今、しなければならないのはこの危急の事態を何事もなく収束させる事。これからの事は、その後でゆっくりと考えて行けばいい。

 考えなければ、ならないのだ。
 

「オヤジを探しに行く。こうなったら手当たり次第に。……お前、車で来たんだろ?」
「……ああ。すぐそこにある」
「またシート汚しちまうかもしれねぇけど……頼む、助けてくれ」
 

 抱きしめた身体を解放し、しっかりと目線を合わせてそうはっきりと口にする。向けた瞳も、受け止める瞳も涙に濡れて少し赤くなっていたけれど、それでも互いに強い光を湛えていた。そこには先程までの慟哭は何処にもなかった。

「急ごう、あいつが何かやらかさねぇ内に!」

 いつの間にかしっかりと握りしめた右手を強く引いて、城之内が一歩踏み出す。それに無言で方向を指し示した海馬の指先が降りる前に、二人は勢いよく駆けだした。

 不安定な雷鳴がいつしか遠くで鳴り響く。薄暗く明滅していた外灯が一瞬途切れて、辺りは闇に包まれた。寒い?そう問いかけた言葉に、分からない、と返って来る答えが嬉しかった。
 

 ……嬉しくて、城之内は既にしっかりと掴んでいる海馬の指先を、もう一度強く握りしめた。
 外を眺めると、いつの間にかぽつりぽつりと雨が降り出した。

 そう言えば今日は冬にも関わらず、日中は大分気温が高かった。故に雪ではなく、雨が降り出して来たのだろう。どうせ直ぐに雪に変わってしまうのだろうが随分と懐かしく思えるその響きに、城之内は酷く重い溜息を吐いた。その些細な動作に、ズキリと左膝が痛む気がする。

 あの事故の日に痛めたまま治療もせずに放置しているその傷は、未だ完治するに至ってはいなかった。時折、思い出したかのように鋭く痛み血を滲ませるそれを、城之内は酷く無感動に見つめるだけだった。それに気づいた周囲の人間が幾度か手当てをしようと手を差し伸べたが、彼は頑として誰にも触らせようとはしなかった。

 この傷の痛みも永遠に続く様な重苦しい後悔の念も全て自分が背負っていかなければならない。時折壁に叩きつけ自ら痛めた右手の傷と同様に、事実何の役にも立ちはしないがそれは彼なりの贖罪のつもりだった。

「お兄ちゃん?あ、やっぱりここにいた。そろそろ面会時間が終わる時刻よ。遊戯さんは?」

 不意に廊下の隅に佇む城之内の背に向かって、優しい声がかけられる。ゆっくりと振り向くと、そこには声と同じく柔和な顔をした静香が暗がりに紛れる様に立っていた。既にすっかり日は落ち、降り出した雨の所為でその空間は大分薄暗く目に映る。

 やや暫くして、時間が来たのか一斉に点いた蛍光灯の明かりに2人は少しだけ目を細めた。

「遊戯?……大分前に帰ったぜ。お前によろしくってさ」
「……そう」
「うん」

 それきり、二人の間に気まずい沈黙が流れる。静香は険しい顔のまま何時までも窓の外から視線を外さない兄の顔をそっと見つめて小さく息を吐く。

 最近は、いつもこうだ。

 ほんの少し前まで明るさと賑やかさを絶やさず、常に笑いを振りまいていた彼が、その欠片さえも見せなくなってしまった。表情もいつも沈んでいて、口数も少なく、何かをじっと考えている時間が多くなった。どうしてそうなってしまったのか、静香には分からない。けれど昨日、遊戯から携帯に連絡を貰った時、初めてその理由に気づいた気がしたのだ。
 

『静香ちゃん、城之内くん、君の所に来ていないかな?もうずっと学校にも来ていないんだ。携帯の電源も切ってるから連絡も取れなくて……どうしてるかなって凄く心配してるんだけど……』
 

 携帯の向こうで、酷く慎重に言葉を選びながらそう話しかけて来た遊戯の声を聞きながら、静香はその時は同じ部屋にいなかった兄の事を考えていた。彼は11月のある日、突然何の前触れもなしに下校時間に合わせて静香の元へとやって来て「暫くこっちで暮らしたい」と言って来た。

 その当時は丁度母親の入院が決まり、兄に連絡を取らなければと思っていた矢先だった為、どんな理由にせよ彼自ら会いに来てくれた事が純粋に嬉しくて、二つ返事で承諾した。そんなに長い期間ではなかったが、母の不在で一人暮らしをしなければならない事に強い不安を抱いていた事もあり、静香にとって城之内の来訪は有難いばかりだった。

 来てくれてありがとうお兄ちゃん。宜しくお願いします。

 そう言って笑顔で差し伸べた手を彼は「水臭い事すんなよ」と呟いて、やんわりと退けた。その声は確かにいつもの兄のものだったが、その顔は今までに見た事がないようなものだった。よくよく考えてみればあの時の彼は、纏う雰囲気さえも違っていた。それは、今も変わる事はないけれど。

「それじゃ、帰るか。今日の晩飯何にする?カレーなら作ってやるけど」
「ううん、いい。お兄ちゃん、疲れてるみたいだし。私が作る」
「お前、最近料理上手くなったよな。誰か好きな奴でも出来たのか?」
「好き……って、なんでそうなるの?!」
「や、だって女が急に料理の腕あげるのって、好きな奴に弁当作ったりするからだって、杏子が言ってたから」
「杏子さんも、誰かにお弁当を作って上げたりしたのかしら?」
「さぁ、あいつ元々料理好きだから。オレらにたまーに振舞ってくれたりするぜ。ま、一番多いのは遊戯にかな?」
「あ、やっぱりそうなんだぁ。ふーん。……って、人の事より、お兄ちゃんにはお弁当を作ってくれるような彼女、いないの?」
「……彼女?」
「うん。お兄ちゃん、昔私に自慢してたじゃない。オレはカッコイイから、学校ではモテモテなんだぜーって」
「………………」

 静香がからかい半分に口にしたその言葉に、城之内の顔が急に強張る。今しがた、ほんの少しだけ綻んでいた口元はきつく結ばれ、寄せられた眉と相まって酷く厳しい表情を作っていた。柔らかな眼差しで静香を見ていた琥珀の瞳は、今は微妙に視点を反らして虚空を見つめている。

 余りに急激なその変化に、静香は自分が失言をしてしまった事を知る。けれど、自分の今の言葉の何が彼の気に障ったのか、事情を知らない静香にはまるで見当もつかなかった。昔からこの手の話には楽しそうに絡んで来た分、この変化は余りにも大きい。

「……お兄ちゃん?どうかした?」

 沈黙が訪れる。不自然な程に長いそれに、不安になった静香が城之内の顔を伺いながら声をかけたその時だった。ふっと視線を上げた城之内が多少のぎこちなさが残る笑顔でこちらを見て、ゆっくりと首を振る。

「……いや、何でもない。そろそろ玄関が閉まっちまうから急ぐか」
「?うん」
「やっぱり今日はオレがカレーを作ってやるよ。久しぶりに食いたいしな」
「材料、あったかなぁ?」
「途中で買い物に寄ってけばいいだろ。近所の……アレなんていう店だっけ?あそこだと駅からすぐじゃん」

 お前んトコそういう店が近くていいよな。オレの近所に安いスーパーなくってさ。

 少しだけ早口でそう言って、城之内はくるりと静香に背を向ける。そして少し不自然な動きをする足をそうとは悟らせない様に無理をして歩きだした。キュ、とゴム底が床と擦れる音が、大きく響く。

 その兄の後ろ姿に静香はおぼろげな不安を抱かずにはいられなかった。いつもと同じ言葉、いつもと同じ笑顔。けれどその合間にふっと見せる翳りのある表情は、まるで知らない人の様で。

 慌ててその後を追いながら静香は先程彼が垣間見せたあの厳しい表情の事を考えていた。そう言えば、あんな顔を見たのは初めてではない。そんなに遠くもない過去の事。

 あれは確か城之内がここに来て直ぐの頃だったと思う。テレビではずっと前日に起きた海馬の事故のニュースが流れていて、少なからず知り合いであった彼の不幸に驚いた自分がすぐ傍にいた兄に慌てて話した時だった。
 

『お兄ちゃん、知ってる?!海馬さんが事故にあったって!意識不明の重体で……!』
『知ってる』
『お見舞いとかに行かなくていいの?もし行くんなら私も……!』
『静香』
『……えっ?』
『ごめん。あいつの事は、口に出さないでくれ。頼む』
『……どうして?』
『どうしても、だ。その内、なんとかするから』
『なんとかって……どういう事?お見舞いに行くって事?海馬さんと喧嘩でもしてるの?お兄ちゃん』
『……ああ』
 

 あの時の兄も先程見せた形容しがたい厳しく翳りのある表情をして、どこか分からない一点を見つめているのみだった。そして時折何かを堪える様に唇を噛み締めては深い溜息を吐いていた。今思えば、兄がここに来たのもあの事件の直後だった。
 

 そして彼が変わってしまったのも、あの時からだったのだ。
 

「お兄ちゃん」
「ん、何?早くしろよ。置いてっちまうぞ」
 

『君にこれを言ってしまうのはちょっと卑怯かなって思うんだけど……海馬くんが、城之内くんに会いたいって言ってるんだ。だから、僕は……』
 

 不意に、遊戯がぽつりと告げた言葉を思い出す。兄に会いたいと言っている海馬。その海馬の名を出す事を頑なに拒否する兄。その相反する思いが齎す真実は一体何なのか。

 既に遠くにある兄の背中を追いながら、静香は右手をきつく握りしめる。
 

 目の前にあるその身体に触れた瞬間、自分は何が言えるだろうと考えながら、彼女はただひたすら人気のない廊下を速足で進んで行った。
「冷蔵庫に何が残ってたっけ?人参はあった気ぃすっけど……ジャガイモと玉葱は……」
「昨日買い物をしてないから、多分何もないと思うけど……」
「そっか。じゃあとりあえず適当に買ってくか。使えないって事、ないもんな」
「うん」
「あー後1時間早く帰って来れたらタイムサービスに間に合ったのに惜しかったなー」
「………………」

 言いながら慣れた手つきで手にしたカートに商品を放り込んでいく城之内の背を、静香は何処となく落ち着かない眼差しで眺めていた。

 結局、あれからどうでもいい話をぽつりぽつりと途切れがちに繰り返しながら、二人は病院から家までの然程遠くない距離を何処か噛み合わないまま戻って来た。そして最後に彼が宣言した通りカレーの材料を買う為に立ち寄ったスーパーで、ついにそれは途切れてしまう。

 世間一般で言う夕飯の時間からは大分遅れてしまった所為か何時もは主婦でごった返す狭い空間も、人がいなければ酷く広い場所になり、俯きがちの視界の端に映る少し色褪せたジーンズ製のジャケットが微かに揺れる。

 不意にドサリと大きな音がして、カートに積まれた食材の上に無造作に複数の野菜が追加された。放り込んだ時の勢いがあり過ぎたのかごろりと僅かに低くなっている位置に転がり落ちたそれに手を添えた彼の背を、静香はただ黙って見つめていた。内装を変えたばかりで、酷く眩しい店内にあっても尚その後ろ姿は聊か翳りを帯びて見える。何気ない風を装ってはいても、彼の言動はやはり不自然だった。

「静香?……どした?具合でも悪いのか?それとも疲れた?」

 急に応えを返さずに黙りこんでしまった静香に流石におかしいと思ったのか、陳列棚ばかりを眺めていた城之内の瞳がゆっくりと振り返り、落ちて来る。少しだけ屈み込み顔を覗き込むような形で見上げて来る琥珀はいつもの兄のものだったがその輝きはやはり鈍い。未だ薄らと存在する顔の至る所にある傷痕に、静香はきつく右手を握り締めると、震える声で口を開いた。

「……お兄ちゃん」
「うん?なんかまだ足りないもん、あったか?」
「お花」
「は?花?花なんか買う余裕ねぇよ。おふくろんとこの花、まだ枯れてなかったろ?」
「違うの。母さんのじゃなくて……海馬さんの」
「……え?」

 海馬の名が出た途端ビクリと身体全体を震わせて顔を強張らせた城之内に、静香は握りしめた指先に更に力を込めて視線を強めた。その先にあるつい数秒前まで優しかった兄の瞳はその表情と同じく硬く凍りつき、怯えさえ滲ませた。やはり、彼の不自然さの原因は海馬にあったのだ。今までずっとその望み通り敢えて『彼』の事には触れないようにしていたが、触れてしまえばこんなにも鮮やかに浮かび上がる。

 一瞬息を飲みそのまま呼吸を忘れたかのように閉ざされた唇の奥で、ひくり、と小さく喉が震える。日に焼けて小麦色に染まったそこを敢えて強く睨みながら、静香はやや強い声で言葉を続けた。

「明日、一緒にお見舞いに行こう?海馬さんの所へ。遊戯さんが、もう起きて話も出来るって言ってたから」
「と、突然何言い出すんだよ。何で海馬の所なんかに……!」
「お兄ちゃん」
「帰るぞ。もう何もないだろ?足りなかったら後でオレが買いにくっから」
「お兄ちゃん!」

 咄嗟に逃げを打つ強い兄の腕を両手で捕らえ、静香は身体ごとその腕に縋りついた。反射的に振り払おうと動いたそれは、相手が妹だと自覚すると強く力が込められたままその場に留まる。ガシャンとカートが音を立てて僅かに揺れた。場にそぐわない緊迫した空気が二人を包む。呼吸に合わせて揺れる互いの肩を見つめながら彼等は暫し無言のままその場に立ち尽くしていた。

「……なんで、急に、そんな事……」
「お兄ちゃんこそ何で?どうしてそんなに海馬さんの所に行くのを嫌がるの?」
「……別に、嫌がってなんか……!」
「私の所に来てからずっとそうだったよね。何時も不安そうな顔をして、イライラして。それに、眠るとたまに凄く魘されて」
「………………」
「遊戯さんがね、海馬さんがお兄ちゃんに会いたいって言ってたって、私に教えてくれたの。今日遊戯さんが病院に来てくれたのは、お兄ちゃんにその事を言いに来たからでしょ?お兄ちゃん、学校にも行ってないみたいだったし、あれだけ仲の良かったお友達とも全然連絡を取らなくて、おかしいなぁって私、ずっと思ってた」
「………………」
「それに、お兄ちゃんがここに来たのは、海馬さんの事故があってから直ぐだったわ。最初は母さんの入院をどこからか聞いて来てくれたんだと思ってたけど、そうじゃないよね?」
「……オレは……っ!」
「お兄ちゃんが言いたくないって言うんなら、何があったのか話してくれなくてもいい。でも、海馬さんの所には行ってあげて?……遊戯さん、本当に辛そうな顔をしていたから。お兄ちゃんにだって、このままずっとそんな悲しそうな顔でいて欲しくない」

 お願い。

 そう言って捕らえた腕をきつく掴み締めて来る静香の指先が、服の下に隠された打撲痕に食い込んで痛かった。ともすれば泣いてしまいそうな程歪んだその顔を見下ろしながら、城之内は唇を噛み締める。

 分かっている。分かっているのだ。このままでいい訳がない事など。逃げ続けていてもどうにもならない事も。けれど、怖い。既に何に恐れを感じているのか分からない程、全身で恐怖を感じる。これからどうなるのか、どうしたらいいのか。海馬に会って何を口にすればいいのか。謝罪をしなければならないのにその言葉が見つからない。償い切れない、とても。……けれど。
 

『海馬くんね。君が来ないなら、病室から飛び降りてやるって言ってたよ。オレを殺したくなかったら戻って来いって!』

『城之内くん。僕も、海馬くんも……君を信じてるよ』
 

 遊戯の良く通る高い声が強く脳裏に響き渡る。言外に伝わる「逃げちゃ駄目だ」の言葉。目の前の静香と共に、進路も退路も塞いでただ一つの道を指し示している。海馬の元へと続く、その道だけを。
 

『城之内!!』
 

 ずぶ濡れのその手を、全てを救ってくれたその指先を掴む事が出来なかった。必死に何かを告げようとしたけれど雨音に掻き消されてしまったその声を聞きとってはやれなかった。遠くに弾かれ、血に塗れたその身体を抱きあげてはやれなかった。それなのに、まだ、信じていると言ってくれた。会いたいと言ってくれた。
 

 自分にはそんな価値など、一欠片も残されてはいないのに。
 

「…………オレは、海馬を……」
「え?」
「海馬を、見殺しにしようとしたんだ。……いや、見殺しにしちまったも同然だ。……あの、事故の日に、オレは」
「……お兄ちゃん」
「オレは、海馬よりも、オヤジを選んだんだ。本当はあの事故に巻き込まれるのは、オヤジの筈だった!それなのに!!」
「お父さんが?!どういう事?」
「オレが死ねば良かったんだ!……あの時に……っ!」
 

 ギリ、と食いしばった歯の間から僅かに漏れ出た呻きの様なその声に、静香は驚愕に息を飲み、身を竦めた。徹底した温度調節がなされている筈なのに背筋にぞくりとした寒気が走り、声が出ない。何を言っているの、お兄ちゃん。直ぐにそう言おうとした唇は強張ったままぴくりとも動かなかった。

 彼等の横を買い物籠を携えた親子連れが何気なく通り過ぎて行く。子供の笑い声がやけに大きく響き渡った。
 

「お兄ちゃ……」
「だからオレは、海馬には会えないんだ。……会える、筈がない」
 

 引き攣った呼吸と共にそう吐き出されたその言葉に、静香はもう何も言う事が出来なかった。掴んだ城之内の腕から徐々に力が抜けて行く。だらりと垂れ下がったそれを、それでもきつく掴みながら、静香はただ深く項垂れる兄の顔を見つめていた。
 

 見つめる事しか、出来なかった。
「一体どういう事?お兄ちゃんは、あの事故の事を知ってたの?」
「……知ってたってレベルじゃない。……目の前でっ……」
「それならなんで?目の前で見ていたんなら、その後に一緒に」
「……ああ。本当は、ついていてやらなきゃならなかったんだ。……でも、オレは逃げたんだ」
「逃げた?」
「今も、逃げてる。……怖くて怖くて、どうしたらいいか分からないんだ。オレの、所為で」
「……それは、海馬さんから責められるから?お兄ちゃんがした事を海馬さんが許さないと思っているから?」
「違う。あいつはそんな事言わない。オレを責めるなんて事もしねぇ、絶対に」
「じゃあどうして……」
「……許される方が、怖い。誰が見たって酷すぎるだろ、こんなの」
「だから、逃げてるの?逃げて来たの?ここに」
「………………」

 膝の上で堅く握り締められた指先がギリ、と微かな音を立てた。自宅へと帰り、女の二人の生活の場らしい小綺麗な部屋で、二人は軽い夕食を取った後向かい合わせに座り込み、先程の話を続けていた。

 あれから城之内は殆ど口をきく事は無く、静香の問いにも頷く程度しか反応を示さずにいた。つい先刻彼の口から飛び出した余りにも衝撃的な告白に静香もまた何も言えずに居たのだが、話が話故にこのまま放置する訳にもいかないと、彼女は意を決して彼と真剣にこの話に向き合う事にしたのだ。

 そして、今に至る。

 眼前に座す兄の姿は俯いて身を縮めている姿勢もあってか、明るい蛍光灯の下では酷く小さく見えた。その顔からいつも浮かべていた笑みを取り去ってしまえばその変化は鮮やかだ。あの明るい兄がこんな顔をするなんて。その瞬間、静香は彼が自分の前ではどれだけ無理をしていたかを悟り、強く胸が痛んだ。

「でも、どうしてお兄ちゃんが海馬さんと?事故が起きたのは真夜中だって聞いたけど……」
「ああ」
「そんな夜中に、あの場所で何をしてたの?それに、お父さんって」

 静香の小さな声が静かな部屋に僅かに響く。それに先程同様、大げさな程反応した身体は強張りを更に硬化させて萎縮する。俯いた顔に長い金髪が降りかかり表情が良く見えなかったが、その様子からやはり彼は自分で口にした通り何かに怯えていた。自然と不規則になる呼吸に、静香は少しでも気を落ち着かせようと立ち上がり、兄の肩を抱き締めようと手を伸ばした。その時だった。

「オレ、は……オレと、海馬は……付き合ってたんだ」
「……え?付き合ってたって……」
「ダチとしてじゃねぇ。意味、分かるよな?」
「……恋人?」
「どうだろうな。オレはそういう意味ですげー好きだった。今でも、好きだ」
「………………」
「でも、オレがあいつにやった事は酷い事ばかりで…………ごめんな、静香」
「……どうして謝るの?」
「だって嫌だろ、こんなの。自分の兄貴が男が好きで、好き勝手やった揚句に犯罪者だぜ?最低だろ。お前に聞かれなかったらずっと言わなかったかもしんねぇ。……言いたくなかった。こんな事」
「……お兄ちゃん」
「オレ、お前にはいい兄貴でいたかったけど、やっぱ駄目だった。駄目な奴は何やっても駄目なんだよな。他人に迷惑をかけてしか生きられねぇんだ。オヤジの面倒だって満足に見られなかった。だから、こんな事に……!」
「違う、お父さんは」
「あいつをあんな風にしたのも、もしかしたらオレの所為だったかもしれない。……全部オレが悪いんだ!」
「そんな事無い!お兄ちゃんは何も悪くなんか…!」
「海馬との始まりが暴力まがいのレイプだったとしても?」
「?!…………」
「オヤジの命を救ってくれて、その為に死にそうになっているのに置き去りにして逃げちまっても?それでもお前はオレが悪くないって言えるのかよ?!」
「そ、んな……」
「オレだったら、そいつを殺してやりたい程憎むね。絶対に許さねぇよ!」
「……でも、海馬さんは許してくれてるんでしょう?お兄ちゃんの事、憎んでなんていないんでしょう?」
「………………」
「だったら、逃げなくてもいいじゃない!海馬さんに会って、謝らなきゃいけない事はちゃんと謝って、そしてまた」
「続けろって言うのか?こんな事。こんな、一方的な、海馬には何一ついい事なんかない事を!」

 だからあの時、オレが死んでいれば良かったんだ。そうしたらこんなに苦しむ事もなかったのに。

 荒い呼吸の合間に途切れ途切れにそう吐き捨てて、空いていた右手で自身の髪を掴み締めながら、城之内はいつの間にか溢れ出た涙を拭う事もせず強く唇を噛み締めた。頬を伝って流れ落ちたそれは彼の濃い水色のジーンズに染みを作り、その色を藍に染めて行く。

 一度溢れてしまった感情は留まる事を知らず、幾ら泣きやもうと思ってもその意志に反するが如く目の奥が熱くなるばかりで、堪え切れない嗚咽がみっともなく部屋中に響いてもどうする事も出来なかった。

 まるで子供の様に泣きじゃくる兄の姿を、静香は先程よりも幾分冷静に眺めていた。確かに彼の言う事は想像すら出来なかった事ばかりで、今でも直ぐに全てを理解する事は到底出来ない。けれど、目の前で慟哭する兄の姿や、余りにも悲しげな顔で自分を見上げた遊戯の顔を思い出せば、今の告白が現実にあった事なのだと言う事を受け入れざるを得なくて。

 静香は、中途半端に空に留めていた腕を改めて城之内へと伸ばす。
 そして、恐怖と悲哀に押しつぶされ、身動きが取れなくなっているその身体を強く抱きしめた。
 

「……お兄ちゃん。やっぱり明日、海馬さんの所にお見舞いに行こう?」
「……嫌だ。……行けない!」
「大丈夫。怖くなんかない。海馬さんには、私も一緒に謝るから」
「……何、言って……お前はっ、全然、関係無い……!」
「関係あるよ。妹だもん。お兄ちゃんが海馬さんにしてしまった事も、お父さんの事も……何があったのかは余り良く分からないけど、迷惑をかけたのなら、お父さんを助けて貰ったのなら、謝って、ありがとうって言いたいもの」
「…………でも!」
「私、お兄ちゃんの事、大好きだから。大切だと思ってるから。……信じてるから。だから、お兄ちゃんが何をしても、嫌いになんてなれないし、誰とどんな事になったとしても、それを応援してあげたい」
「静香」
「お兄ちゃんが私を助けてくれたように、私もお兄ちゃんを助けてあげたいの。だから勇気を出して?」
 

 目が見えなかった私が、勇気を出して一歩踏み出した時の様に。ここで震えていてもどうにもならないから。

 抱き締める腕に力を込めてそう耳元で囁かれた静香の声に、城之内はただ黙って嗚咽を漏らす事しか出来なかった。誰もがこんな自分を好きだといい、信じていると言ってくれる。その事自体が酷く重くはあったけれど、こんなものにも耐えられないのならそれこそ死んだ方がマシだった。

 胸の中が痛くて苦しくて、呼吸すらもままらない。けれど、立ち上がらなければならないのだ。自分の為に、静香の為に、遊戯の為に、そして……海馬の為に。
 

 静香の柔らかく温かな腕の中で体中の水分を全て流し尽くしてしまったと思える頃、城之内は泣き腫らした酷く情けない顔で、それでも何かを覚悟した眼差しでゆっくりと彼女を見上げた。

 そして、たった一言……掠れた声で小さく一言呟いた。
 

「……わかった。もう、逃げない。……明日、海馬の所へ行く」