消えない痕 Act13

 それは何の根拠もない、ただの予感だった。

 平凡な言葉で言い表せば『胸騒ぎがした』のだろう。

 どうして、そう感じたのか分からない。
 けれど一つだけ言えるのは、それすらも『運命』だったと言う事だけだ。

 だから、こんな結果になってしまったのは誰の所為でもない。
 

 ……誰が悪い訳でも、なかったのだ。
 

 
 

「兄サマ?……あ、起きてたんだ。夕食は食べられる?」
「……余り食欲はない」
「ダメだよそんなんじゃ。どうせ朝も食べてないんでしょ。家にいる時位はオレと一緒に食事はして貰うぜぃ。ちょっとでいいから。ね?」
「……ああ、分かった」
「何か食べたいものある?あるんなら、それにして貰うけど」
「いや、特にはない。何でもいい」
「もー。兄サマがそう言ってちゃんと食べた試しがないから言ってるのに。……じゃあオレの好きなものにして貰っちゃうからね!」

 そう言ってわざとらしく顔を覗き込んで来たモクバを苦笑のまま見下ろして、瀬人は僅かに肩を竦めた。好きにすればいい、そう口にして頭に手を置いてやるとモクバは照れ臭そうに鼻を擦り、元気な声で「でも兄サマが元気で良かった」と呟いた。その声に、ドキリとした。

 現在は11月10日の夕刻。

 数時間前の、ほぼ正午と言っていい時間に、城之内に連れ込まれた件の病院から帰宅した瀬人を待っていたのは、家中の人間の不安気な眼差しと、モクバの心配し切った叫び声だった。

『一体何処に行ってたの?!皆で大騒ぎしてたんだよ?兄サマがいないって!』

 そう言って、普段よりも勢いを付けて抱きついて来ようとしたその身体を瀬人は右腕だけで押し留めた。既に少し包帯を染めていた左手首からの出血がコートをも通して外に滲めば事だからだ。

 その仕草に、一瞬モクバは戸惑った様だったが、それ所ではなかった所為か特に言及はされなかった。その事に、瀬人は密かに安堵した。やはりモクバには余計な心配をかけたくは無かったからだ。

 その後休むと短く告げて一人で部屋に篭り、ほんの少しだけ睡眠を取って今に至る。何気なく見遣った時計は午後7時を指していた。

 あれから城之内はどうしているだろう。人を置き去りにして勝手に姿を消してしまったが、あの父親を放置して何処かに行くとは考えにくい。城之内が自分の所に姿を見せた時は、当人は眠っていたのだろう。

 しかし、酷かった。暗がりの中でよく状態を確認など出来なかったが、あれはほぼ錯乱状態だった。酒に関する知識など皆無だったが、それでも酷く危険な状態だという事は分かる。酒に酔って暴れるというレベルではもう無かった。

 あんな人間を、あの男は一人で面倒を見ていたと言うのだろうか。

 今回の事も偶然のあの電話がなければ分かる筈もなかった。何故、もっと早くにその事を自分に告げなかったのか。助けを求めようとしなかったのか。それを思うと悔しさに歯噛みしたくなる。けれど城之内がそれを言わなかった理由も痛いほど分かっていた。

 中途半端で、どうしようもない男だと吐き捨てたくなる。

 ごめんと謝る位なら最初から本気にならなければ良かったのだ。全てを見せ合い、本気の恋愛をしようなどと嘯いて、結局は肝心なところを全て隠されていた。頼られてなど、居なかった。……否、彼の本能的な優しさがそれを自らに許しはしなかったのだろう。

 馬鹿な奴だと思う。迷惑なのは何も今更始まった事じゃない。初めの第一歩からだったのだ。故にもう何が起ころうと結局は同じ事。だから、一度手を伸ばしたら最後まで縋り付けばいいのだ。下らないプライドなど捨てて、助けてくれと一言言えば良かったのだ。

 そうすれば何が出来たかは分からないが、少なくても今の様な状況にはならなかった筈なのに。
 

「……兄サマ、どうしたの?」
 

 知らず自分の考えの中に入り込んでいたのか、僅かに俯いて沈黙してしまった瀬人に、モクバは控えめに声をかける。それに思わずはっとして顔を持ち上げた瀬人は、ややぎこちない笑みを見せると小さな溜息を一つ付き、幾分穏やかな顔で応えを返した。

「……いや、なんでもない」
「ほんとに?まだ、疲れが取れてないんじゃないの?」
「そんな事はない。十分に睡眠も取った」
「そっか、ならいいけど。……あ、じゃあさ、夕食が終わったらオレと遊んでくれる?デュエルしようよ、久しぶりに」
「……デュエル?」
「うん。オレも友達になら勝てるようになったんだぜぃ。だけど、もっと強くなりたいんだ!時間があって兄サマも疲れてないならいいでしょ?少しだけ」
「そう、だな。いいだろう」
「やったー!」

 本当は余り乗り気ではなかったがここで渋るとまたいらぬ詮索をされそうで、瀬人は仕方なく頷いた。それでも事情を知らないモクバにとっては、最近随分とご無沙汰をしていた兄との時間が持てる事が至極嬉しいらしく、つい今し方見せていた少しだけ翳りのある表情は瞬時に消え失せた。

 そして彼ははしゃぐ仕草そのままにぎゅ、と瀬人の両手を握り締める。刹那左手に痛みが走り、瀬人は一瞬顔を強張らせ、無意識のうちにモクバの手を退けた。ぱしん、と小さな音が響く。

「……………!」
「?……兄サマ?」

 瀬人の仕草に、モクバの不思議そうな声が上がる。咄嗟の事で弁解する言葉も持たずに黙っていると、彼は特に気にした様子もなく「じゃ、夕食が出来たら呼びに来るから」とだけ言い残して部屋を出て行った。

 パタンと扉が閉まる音に、深く吐き出された溜息が重なった。

 疼く左手をやんわりと包みこむ。鼓動に合わせてドクドクと熱く脈打つその感覚に瀬人は何故か小さな不安を覚えた。
 
 

「やっぱり兄サマは強いよ。全然敵わないや」
「当たり前だ。昨日今日始めたお前にそう簡単に負けられるか」
「うん、そうだね。でもその内追いついてみせるぜぃ!」
「それは楽しみだな」
「えへへー。じゃ、オレはもう寝るよ。兄サマも今日は早く休んでね。本当は明日も会社、休んで欲しいけど……」
「気が向いたらな。まだ仕事が残っているから直ぐにとはいかないが」
「……もー。休みは気の向きようで取るものじゃないと思うんだけど……。でも、まぁいいや。お休みなさい、兄サマ」
「ああ、お休みモクバ」

 ガシャリと装着していたデュエルディスクを机に置いてモクバは笑顔でそう言うと、自室に帰るべく立ちあがる。そして、最後に「約束だよ兄サマ、早く寝てね」と念を押して、浮足立った様子で部屋を出て行った。彼が消えた扉の向こうからは「磯野お休みー!」と明るい声が聞こえて来る。

 モクバと夕食前の軽い会話を交わした数時間後、二人は瀬人の部屋で約束通り小規模だったがデュエルを楽しんでいた。本当はデュエルディスクなど使わないテーブルデュエルで十分だったのだが、左手の動きの鈍さを誤魔化す為に態々ディスクを装着した。最近改良を重ねた最新のディスクは極限まで軽量化を図り、不使用時の収納力も格段にアップした為、然程邪魔にはならなかった。けれど、そんな些細な重みすらも今はキツイ。

 モクバが部屋を出て行き、一人きりになった瀬人は今日幾度目か知れない疲労に彩られた吐息を一つ付き、丁寧に揃えたデッキをケースにしまって退けた。体中が重く、傷みすらも遠く感じる。モクバの言う通り、もう寝てしまった方がいいのかとも思ったが、何故か寝室に行こうとする気が湧かなかった。

 不意にソファーの上に置き去りにしていた携帯を手に取り、カチリと開く。今朝病院で開いたきり放置していたそれは、随所に血がこびりついたままだった。その事に多少の不快を覚えてクリーナーで強く拭う。真っ白な布状のそれは瞬く間にどす黒い赤で汚れ、屑かごに放られた。

 改めてディプレイを凝視する。城之内からの着信は、勿論ない。

 知らず舌打ちをし、瀬人はそのままかなり溜めこんでしまった仕事関連のメール処理をし始める。企画会議の日程の調整、先日の商談の結果、新商品発表会の会場と日取り、個人的な慌ただしさの所為ですっかり頭の中から追いやられていたそれらを急遽思い出し、高速でスケジュールを構成する。こうして見ると、自分には余分な時間など全くありはしないのだ。立ち止まれば止まる程山積みになって行く仕事、目の回るような忙しさ。休んでいる暇などない。けれど……。

 そこまで考えた時、瀬人の指がぴたりと止まった。携帯を弄り始めてから小一時間は経過した頃だった。同時に鳴り響く耳を劈くような落雷の音。顔を上げ、耳を澄ませるといつの間にか部屋に響く程の大雨が降っていた。この時期に珍しい事だ、そう思い留めていた指の動きを再開しようとしたその時、彼は何故かメール画面を閉じてしまった。

 再び、雷鳴が響き渡る。その事に、どうしようもない不安を感じた。

 そして。

 瀬人は何時しか半端にしていたメール画面を閉ざし、着信履歴を操作していた。手早く画面を切り替え、通話ボタンを押す。ワンコール、ツーコール。幸いな事に相手は電源を切ってはいなかった。何でもいいから電話を取れ、祈るような気持ちで携帯を握る手に力を込めたその時だった。
 

『っ遊戯?!』
 

 携帯から聞こえて来たのは、酷く切羽詰まった様子の、城之内の声だった。
 

「違う。オレだ」
『……!!か、海馬……っ』
「城之内。貴様、今何処にいる」
 

 瞬間、ひっ、と息を飲む音が、聞こえたような気がした。
『オヤジ?!……ちっくしょ。出て行きやがった!』
 

 短いやり取りの後、携帯越しに聞こえた叫びに瀬人は直ぐに立ち上がりクローゼットの中からコートを一着手に取ると開け放しの扉はそのままに勢い良く駆けだした。握りしめた手の中で途端に鳴りだす着信音が煩わしくて即座に電源をオフにする。

 大きな衝撃音、悲鳴のような声。否、それよりもまず動揺しきったその口調を聞けば危急の事態だと言う事は嫌でも分かる。

 今飛び出して行けば今度は何があるか分からない。事件に巻き込まれる可能性もゼロではない。けれど、瀬人は立ち止まる事が出来なかった。一瞬頭を過った自身が背負う様々なものよりも、あの男に手を差し伸べたいと思ったのだ。

 それは恋とか愛とか好きとか嫌いとか、そんな単純な言葉で表せる感情ではない。偽善的な優しさでも勿論ない。ただ、衝動を。自身でも説明の付かない激しい衝動に突き動かされて、瀬人は走った。

 ここから車を飛ばして城之内の家まではそう時間はかからない。外は聞こえる雨音から推測するに相当天候が悪い様だったが、それは返って好都合だった。この雨ならば然程周囲に気を使わずとも雨音が上手く紛らわせてくれるだろうと思ったからだ。

 自室のある屋敷の奥から一番目立たずに出入り出来る裏門までのルートは結構な距離がある。その間、誰にも会わずにすめばいいと祈ったが、人の多い屋敷の中ではそれも叶わなかった。

 それでも、瀬人がこうして夜中に飛び出していくのは珍しい事では無かった為、すれ違う使用人は僅かに首を傾げるだけで、特に何も言わなかった。このまま、何事もなく屋敷を抜ける事が出来ればいい、そう思いながら昨夜の名残で聊か鈍い足の動きを歯痒く思った、その時だった。
 

「……兄サマ?」
 

 小さく扉が軋む音と共に思いもよらない声が聞こえた。はっとしてその方角に視線を向けると、そこには少しだけ眠そうな顔をしたモクバが居た。余りにも激しい雷鳴に目を覚ましてしまったと、眠そうな声がそう呟く。

「……モクバ……!」
「そんな格好してどうしたの?出かけるの?外、凄い雨だよ?」
「……ああ、今日中に済ませなければならない用事を思い出してな。少しだけ」
「用事?でも……」
「直ぐに帰ってくるから気にするな。今度は連絡を取れるようにしておく」
「もう夜も遅いし、明日にしたら?疲れてるんでしょ?」
「大丈夫だ。昨夜の様に騒ぐなよ」
「あれは兄サマが勝手にいなくなったからじゃない。で、何処に行くの?会社?」
「……………」
「兄サマ!」

 苦し紛れの言い訳に、モクバはほんの少しだけ訝しむ顔を見せたが、彼の疑問を解消している暇など瀬人には無かった。瀬人は僅かに歯噛みすると多少不審に思われるのは覚悟の上で、モクバの肩に一瞬手を置いて「心配するな」と短く言い、そのまま振り返らずに駆けだした。背後で何度も名を呼ぶ声が聞こえたが、それに応える事はしなかった。

 そして、無事他の誰にも見つからず裏口から外に出る事が出来た瀬人は、激しい雨が降り注ぐ中車庫へと飛び込み、車のキーを握り締める。ハンドルを握る左手に鋭い痛みが走ったが、もう気にはならなかった。

 自動シャッターが完全に開く前に、勢いよくアクセルを踏みしめる。
 

 どうしようもない不安だけが、闇を見つめる瀬人の胸を強く強く絞めつけた。