消えない痕 Act12

 カチコチと静寂の部屋に置時計が秒針を刻む音がだけが聞こえる。未だ頭の芯が鈍く痛むのを知覚で捉えながら、瀬人は緩やかに目を開けた。

 少し頭を動かして確認した時刻は午前二時。最後に時間を認識したのは確か昼を大分過ぎた辺りだったから、ほぼ半日以上経過した事になる。否、日付が分からない為それ以上だって有り得るのだ。

 ふと、右胸の横に微かな重みを感じる。目線だけでその箇所を見遣ると、そこには見慣れた小さな頭があった。闇に紛れている為によくは見えないが、それはモクバ以外に有り得ない。

 最近瀬人が必死に言い聞かせた結果、夜は自宅に帰るようになって傍にいる事などなくなっていた。故に現在の様に近間の仮眠用のベッドにも横にならずこうしている事は珍しい。瀬人の上かけの上に顔を伏せ、微かに上下するその肩は大分薄くなったような気がする。

 不意に左手に疼く様な痛みを感じた。正常なものとは程遠いどこか自分のものではないようなその感覚に、瀬人は漸く昼間の出来事を思い出す。同時に何故モクバが今日に限ってこの場に留まっているのかを理解した。

 そう言えば、最後にモクバの声を聞いた気がする。……あの『現場』を目撃してしまったのなら、相当な不安や心配をかけた筈だった。それを思うだけで、元から憂鬱な気分が更に重くなる気がした。

「……ん」

 他にする事も無く瀬人がなんとは無しにその寝姿を眺めていた矢先、僅かに動いてしまったからだろうか、モクバが起きる気配がした。なるべくなら起きて欲しくないという気持ちと、こんな場所で寝るよりはせめてベッドに横になって欲しいという気持ちが鬩ぎ合い、直ぐに反応できずにいると彼は眠そうな顔を持ち上げて、目を擦りながら瀬人を見上げた。

 暗闇の中で、二人の目線がピタリと重なる。

「兄サマ、目を覚ましたの?!」

 途端に勢い良く上体を跳ね上げたモクバは椅子を蹴って立ち上がり、直ぐ傍にあったヘッドライトのスイッチを押す。暗がりに急に灯された明かりに瀬人は一瞬目を細める。それに「ごめん」と小さく口にして、モクバは少しだけ身を乗り出す形で瀬人の顔を凝視した。そして、徐に手を伸ばして頬に触れる。

「……良かった。熱は下がったみたい。兄サマ、丸一日以上寝てたんだよ」
「……丸一日……?」
「うん。多分、薬の所為だと思うんだけどね。そろそろ切れる頃だから……手、痛くない?」
「……いや、まだ。余り感覚がないな」
「そっか。痛くなったら言ってね。何か飲む?」
「……いい。何も、いらない」

 時刻が時刻故に、ひそやかに交わされた会話はそこであっさりと途切れてしまう。最初は少しだけ明るく振舞っていたモクバも、徐々に表情が翳っていき、蹴り飛ばしてしまった椅子を元に戻し、そこに静かに腰を下ろした頃には眉間に軽い皺が寄っていた。

 何かを言いたくて仕方が無い、けれど言っていいものか迷っている表情。膝の上に握り締められた小さな拳が軽く震える。その様をはっきりと分かっていながら瀬人は自ら水を向ける事は出来なかった。「まだ夜中だ。お前も疲れているだろうから早く寝ろ」そう言おうとした言葉は、不意に響いた静か過ぎるモクバの声に遮られてしまう。

「……ねぇ、兄サマ。オレ、本当は兄サマが教えてくれるまで、何も言わないつもりだったんだ。でも、こんな事があるんじゃ、やっぱり黙ってなんかいられないよ。昨日だって心配で心配で、胸が潰れそうだったんだよ?」
「………………」
「兄サマのその手首の傷、事故の怪我じゃないんだってね。傷が裂けたの、二回目だって、先生が言ってたよ。それに、不自然だって」
「……不自然、とは?」
「自傷、したんじゃないのかって。だから、オレは昨日からここに……薬だって、痛み止めだけじゃない。兄サマは、『そういう風に』見られてるって事だよ」
「……放って置くと自殺でもするのではないかと、そういう意味か」
「そうだよ!だって兄サマ、遊戯に言ったんでしょ?!城之内が来なかったら飛び降りてやるって!!」
「それは」
「本気だとか本気じゃないとか、そんなのはどうでもいいよ!オレは、兄サマがそんな事を口にする事自体が……!」

 モクバの声が、静寂の中幾重にも反響して消えて行く。叫んでから現時刻を思い出した彼がはっとして口を押さえたが、余り効果はなかった。

 幸いな事に、特別室でもあるこの部屋は院の一番奥まった場所にあり、このフロアに病室は一つのみだった。医師や看護師が待機する部屋は丁度対奥にある。故に、余程の騒ぎを起こさなければこの部屋に人が駆けつける事はないだろう。

 しかし、問題はそんな事ではなかった。

 瀬人が余りにも淡々と口にした自殺という言葉にモクバは心底驚愕したのだ。まさか、そんな事、兄サマが冗談でも言う訳ないじゃないか。昨日遊戯から聞かされた「飛び降りてやる」の一言に、引き攣った笑顔で必死に否定した、それなのに。当の本人からいともあっさりとその単語を吐き捨てられてしまうとは。

 遠い昔、「何があってもお前だけはこのオレが守ってやる」と、そう言って強く強く抱きしめて来た細い両腕。もしもその言葉が彼の中に確かなものとして根ついていたならば、手酷い裏切りにも等しい自殺などと言う単語を口にする事すら厭うだろう。なのに、何故。

 何が瀬人をそこまで変えてしまったのだろう。それは全て、城之内の為なのだろうか。それとも所為、なのだろうか。

「……兄サマ」

 震えるモクバの声が、静けさが戻った室内に重く響く。
 

 置時計の秒針が動く音が、再び大きく時を刻み始めた。
『僕は、城之内くんに信じてるって言ったんだ。だから君も海馬くんに言ってあげて?信じて待ってるからって』
 

 長い長い沈黙が続く。空調が完璧に調整されているはずの部屋なのに、深夜という時刻とそれに付随する暗闇の所為で、酷く肌寒く感じる気がする。モクバは、最後の一言を口にしたきり、次の言葉を紡げずにいた。

 その脳裏には昨日遊戯が嫌に真面目な顔をして発した台詞が浮かび上がり、モクバに僅かな後悔を植えつける。そうだ、あの時遊戯と「二人を信じて待つ」と言い合ったばかりなのだ。その時が来たら必ず全てを話してくれるから、今は深く追求しないで置こう……そう決めた筈なのに。

 あの後一人この部屋に取り残され、静寂の中昏々と眠る瀬人の姿を見ている内に、その細い身体や顔や手を覆う痛々しい包帯の白に、不安と恐怖に押し潰されそうになった。まさか、そんな事はないと幾度も強く否定はした。けれど、心の何処かで信じきれない部分もあったのだ。

 自分に対して余りにも隠し事の多い瀬人。日々平静を装って自分には何気ない笑顔を見せていたその裏では、こんな重苦しいものを抱え込んでいたのだ。それは、心配をさせたくないという彼の気遣いからだという事は重々承知している。けれど、結果的にこうして一時も心が休まる事のない状況に追い詰められたのだ。苦しくて悲しくて、どうにかなってしまいそうだった。

「モクバ」

 不意に、低く掠れた……それでも確かな声が耳に届いた。慌てて少し俯けていた顔をあげると、ほの暗いオレンジの光の中、それまで無言を貫き通していた瀬人が何かを決意したようなしっかりとした顔付きでこちらを見ていた。真っ直ぐに、モクバの瞳を射抜くように。

 それは、彼がこの状態になってから始めて見せた精気ある表情だった。それまで見せていた、何もかもを諦めたようなどこか覇気のない様子とは比べ物にならない、モクバが自信を持ってついて行けると信じている海馬瀬人の姿だった。

「……オレは、お前を裏切るような真似だけは絶対にしない。それだけは約束する。医者の言っている事は勝手な見解だ。オレが、そんな真似をする訳がないだろう」
「に、兄サマ。でも……」
「……今回の出来事も、予想外の事だった。まさかこんな事になるとは思いもしなかったのだ。お前にも、その時が来たら全て打ち明けるつもりでいた。最後まで隠し通そう等とは思っていなかった。それだけは信じてくれ」
「……全部?城之内との事も?」
「ああ。言える様になったら……と、ずっと思っていた。だが、オレ自身整理が付かないものをお前に伝える事など出来ないだろう?……もうおぼろ気に分かっているとは思うが……色々な事があったしな」
「……うん。だからオレは心配して……また兄サマに何かあったらって!だから、言えるのなら今全部教えてよ!何があったのか、これから何が起こるのか、じゃないとオレ…!」
「それは……一人では、言う事は出来ない」
「どうして?!」
「どうしてもだ」
「……だったら!城之内を今すぐここに連れて来てよ!遊戯は居場所を突き止めたって言ったよ?追いかけて、話もしたって!それでもここに来ないのは、城之内が逃げてるからでしょ?!兄サマをこんな風にしておいて、逃げるなんてズルイよ!」
「モクバ」
「オレは……城之内を……!」
「奴の所為じゃない、モクバ。そんな風に言うな。……そんな風に、思わないでくれ」
「……だって!」
「信じてくれ。オレは決してお前を裏切らない」

 最後に、一際強くそう言って、瀬人はそれきり口を噤んだ。それ以上はもう何も言わず、何も言わせないと言わんばかりに、視線だけはモクバから外さずに黙り込む。こうなってしまうと、彼が梃子でも口を開かないのをモクバは身を持って知っていた。

 ── 兄サマはズルイ!

 モクバは、強く握り締めた右手を震わせながら、心の中でそう叫ぶ。そんな声で、そんな眼差しで、信じろと言われてしまったら、自分にはもう彼を信じる事しか出来ない。

 祈る事しか、出来ないのだ。

「……もう休む。……お前も、ベッドにきちんと横になって眠れ。明日も学校があるのだろう?」
「……学校なんて!」
「お前はいつもオレには行けと言う癖に、自分は行かないつもりなのか」
「…………う」
「お休みモクバ」

 それきり部屋には穏やかな静寂が戻り、張り詰めた空気も消え失せた。モクバは既に目を閉じてしまい、身動きをしなくなった瀬人をじっと見つめ、深い溜息を一つ吐く。

 そして自らも朝まで眠りにつくべく、静かに立ち上がり、踵を返した。
『城之内。貴様、今何処にいる』
「何処って……お前、なんで電話なんかかけてくるんだよ!もう関係ねぇだろ?!家で寝てるんじゃなかったのか?今まで、一回もお前から連絡取って来た事なんかねぇ癖に。オレの話聞いてなかったのかよ?!」
『貴様に言われずとも家には居る。……何をそんなに焦っている?何かあったのか』
「な、何にもねぇよ!切るぞ。もう、オレの事なんか放っといてくれ!頼むから!」
『城……!』

 携帯から海馬の叫ぶような声が聞こえた瞬間、背後で激しい衝突音が響いた。はっとして城之内は繋がった携帯はそのままに、勢い良く背後を振り返る。するとそこはドアノブ部分が破壊され、中途半端に開いた扉が風雨に晒され、激しく左右に振られていた。

「オヤジ?!……ちっくしょ。出て行きやがった!」

 一瞬携帯が繋がっている事を忘れて思わずその場で叫んでしまい、城之内は息をのむ。ヤバイ、聞こえてしまった。そう思った時にはもう遅い。慌てて再び携帯を耳にしたがそれはもう切れていて、かけ直してももう繋がる事はなかった。危急な事態故に相手を確認せずに出てしまったのは失敗だった。今更そう嘆いても、もう遅い。
 

 時は11月10日夜。前日深夜に騒ぎがあった、その数十時間後の事だった。
 

 何時の間にか外は煩いほどの雨が降り注ぎ、時折雷鳴まで聞こえて来る最悪の状態だった。冬の嵐、確かテレビでそんな情緒溢れる単語を聞いた気がする。

 ともかく父親を連れ戻さなければ。酩酊状態に輪をかけて中毒症状特有の殆ど意識のない状況で外に野放しにすればどうなるか分からない。怪我をした海馬の介抱に気を取られている間、一人にしていたのは不味かった。あの時、無理にでも共に病院に押し込めて置けば良かった。まさか更に酒を煽るなんて思ってもみなかったのだ。

 誰かに見て貰おうにも、頼れる人間など何処にもいない。海馬が居ない今、城之内はたった一人で全てを背負わなければならない。今までも一人だった。これからだって父親が生きている限り、一人でなんとかしなければならないのだ。

 即座にすぐ傍にあったジャケットを羽織り、既にどうしようもなく荒れている室内を危険物を器用に避けながら走り抜け、部屋を飛び出した。取られるものなど何もないが誰かに中を見られたら事だと外側から鍵をかけ、風雨の中走り出す。既に時刻は深夜に近づき、辺りは重い闇に包まれていた。父親らしき人影は、何処にも見えない。

 走りながら携帯を操作し、通話ボタンを押す。即座に返って来たのは『電源が入っていません』の無情な機械音声。常ならば驚きながらも直ぐに出てくれる相手は今日に限って全く連絡が取れなかった。

「遊戯……っ!」

 荒い呼吸の合間に短く吐き出したその名前は雨音に混じって消えてしまう。今まで何も言わずにいたけれど、今日だけは話を聞いて欲しいと切実に思っていたのに。

 海馬が今更この件に関して手を引くなどとは城之内も考えてはいなかった。馬鹿がつく程真面目な奴だから、幾らこちらが拒絶をした所で手を差し伸べて来る事は分かっている。故に早急に手を打たなくてはまた迷惑をかけてしまう事になりかねないのだ。否、あれは迷惑などというレベルではない。命に関わる事だった。だから、遊戯に。海馬との関係を唯一知っている遊戯に頼みこもうと思ったのだ。

 結局はまた他人に迷惑をかける。身勝手なのも、無責任なのも承知している。けれど、大切にしたいと思う相手が傷つくのだけはもう見たくなかった。

「……なんで、今日に限って出ないんだよ…!」

 オレの所為でもう取り返しの付かない事が起きてしまった。お前にだけは全て話すから、助けて欲しい。オレをじゃない、海馬を。既にもう動き始めているだろう海馬を止めて欲しい。もしまた何かあったら、それを思うだけで胸に突き刺さるような痛みを感じた。

 昨夜この目ではっきりと見てしまった血塗れの姿を想像するだけで息が止まる。恐ろしさに、身体が震えた。

 今この場から何もかもを投げ捨てて逃げる事が出来たらどんなに楽だろう。焦りや苛立ち、どうしたらいいのか分からない不安感、そんな負の感情が混ざり合い重みを増して、走る城之内の身体に圧し掛かる。その苦しみは何時しか涙となって瞳から溢れ出た。しかしそれは空から降り注ぐ冷たい雨に紛れて虚しく流れゆくのみだった。呼吸が荒い所為で、嗚咽を堪える事すらままならない。

 暗闇の中必死に目を凝らし、気配を探る。アルコールの所為で足元もおぼつかない人間がそう遠くに行ける筈もないのに誰もいない。もうどの位捜し歩いたのだろう。天気の所為で猫の一匹すら見当たらない住宅街の中心で城之内は唇を噛み締めた。
 

 どうすればいいんだよ、震える声は白い息と共に闇に溶ける。

 その時だった。
 

「城之内!!」
 

 バシャリと水を撥ねあげる音と共に、背後から鋭い声が耳に届いた。驚愕に、足が竦む。既にずぶ濡れになったスニーカーの爪先が、出来たての水溜まりの中に深く沈んだ。冷たさは、感じられなかった。

 その名を、誰が呼んだかなど嫌と言うほど分かっている。分かっているから、振り向く事が出来なかった。どうして……そんな言葉を吐き出すまでもない、『彼』はあの叫びを聞いてしまったのだ。聞いてしまったからこそ、こうしてこんな嵐の中飛び出して来たのだろう。

 昨夜の、あの時の様に。

「城之内、貴様の父親は何処だ!?」
「……か、いば…っ!」
「出て行ったのだろう?あの状態で!!何処に行ったのだ!」
「…………っ!」
「泣くな馬鹿が!そんな暇などないだろう、死ぬ気で捜せ!!早くしろ!!」

 その顔を見つめる前に、強く肩を掴まれた。強引に振り向かされ、酷く険しい瞳が泣き濡れた目を射抜く。ぼんやりと浮かぶほの白い街頭の光は遠いのに、その瞳の色だけははっきりと見て取れた。

 掴まれた場所が、酷く痛い。その事に直ぐに反応出来ずにいると、その強い腕はがくがくと城之内の身体を揺さぶり、それでも凍りついたままの表情に、彼は……海馬は、肩を掴んでいた手を翻して強く目の前の頬を打ちつけた。

 その衝撃に、漸く城之内の口が動く。ぎこちなく、言葉を紡ぐ。

「……なんで………お前……っ!!」
「……許さないと言っただろう。父親に殺される事など、このオレが許さないと」
「……何が…っ!」
「それは、貴様の肉体だけの話ではない」
「意味が分かんねぇよ!!」
「今はそんな事はどうでもいい!!行くぞ!」
「………………」
「城之内!!」

 最後の叫びと共に、その身体は駆けだした。右手にしっかりと城之内の腕を捕らえたまま、余りにも強い力を持って。

 二人分の耳障りな足音。引き攣れた呼吸。相変わらず響く強い雨音。

 海馬。

 幾ら呼んでも目の前の白い身体は振り向きはしなかった。
 

 ただ、熱さを。繋がった個所から痛みを伴った酷い熱さを感じるのみだった。