消えない痕 Act11

「本当に吃驚したんだ。オレが帰って来たら、ベッドの上が血だらけで」
「……それで、その後どうしたの?」
「どうしたって。とりあえず傷口を縫合して、兄サマはそのまま眠ってしまって……眠ったっていうよりも無理矢理眠らせたって感じだったけど……」
「どうして海馬くんはそんな事をしたの?モクバくん、何か心当たりは……」
「そんな事、オレが分かる訳ないじゃん」
「……モクバくん」
「兄サマは昔からそうなんだよ。オレには大事な事、何一つ話してくれないんだ。こんなに近くにいるのに、兄サマの事を一番知らないのはきっとオレなんだ!」
「お、落ち着いてモクバくん。海馬くんが起きちゃうから。それよりもあのね、僕今日……」
「これが落ち着いていられるかよ!また、同じ事が起きたら……城之内のヤツ、一体何処で何やってんだよ!」
「城之内くんに、会って来たんだ」
「え?!あいつ、見つかったの?!」
「うん。見つけた。見つけて、追いかけて、ちゃんと話、して来たよ」
「だったら、なんでお前は一人で帰って来たんだよ!!ここに連れて来ないんだ?!」
「海馬くんに、頼まれたから」
「兄サマに?何を?!」
「城之内くんは、自分の意思でここに来なくちゃいけないんだ。僕や君が引きずって来たって意味が無い」
「なんで?だって兄サマは……城之内に会いたいって!オレが絶対連れて来てやるって言ったら、ちゃんと……!」
「頷いてた?」
「……あ」
「頷いては、なかったでしょ?」
「………………」

 空調が齎す僅かな機械音だけが微かに聞こえるその部屋で、モクバの上げた悲鳴のような声だけが幾重にも響いていた。その響きを遮る様に、遊戯の抑えた音声が静かに甲高いその声に重ねられた。小さく、息を飲む音。モクバの視線が思わず眼前の遊戯から、直ぐ傍で眠りにつく兄の方へと注がれる。

「……どうして」
「それは僕にも分からないよ。想像する事は幾らでも出来るけど。真実なんて、ましてや本心なんて、その本人にしか分からないんだ」
「………………」
「モクバくんは、海馬くんが何も言ってくれないって怒ってたけど、海馬くんは何もモクバくんに意地悪をして隠してた訳じゃないと思う。今までの事だってそう。多分、君に余計な心配をかけたくなかったからじゃないのかな」
「……でも、結果的にこんな事になって、オレは凄く凄く心配して……!」
「そうだね。予想外の事だったんだろうけど、君を悲しませた事は事実だもん。きっと、悪いと思ってる」
「オレは、兄サマの力になりたいんだ。そりゃまだ子供だし、なんの役にも立てないかも知れないけど。悩み位なら聞いてあげられる。もしかしたらオレにだって助ける事が出来るかもしれないし。……でも今のままじゃ何も出来ない。どうしようもないんだ!」
「海馬くんが君に何も話さないのは、きっとまだ話せる段階じゃないからなのかもしれないね」
「……どういう意味だよ」
「僕も海馬くんと城之内くん、二人の話を聞いたけれど、どちらも肝心な事は何も教えてくれなかったよ。聞き出そうとしたって、無理だと思う。だからこれは二人以外の人間がどうにか出来る問題じゃないんだよ」
「でも!」
「待とう、モクバくん。僕達に出来るのはそれだけだよ。辛いけど、歯がゆいけど、我慢して待ってよう。大丈夫、きっと最後には全部教えてくれるよ。ううん、教えてって言う権利があるんだ、僕達は。……だから、ね?」
「………………」
「僕は、城之内くんに信じてるって言ったんだ。だから君も海馬くんに言ってあげて?信じて待ってるからって」

 そう言うと、遊戯は無意識の内にモクバの肩に手を置き、少し強い力でぎゅっと握り締めた。そのあまりの力強さに痛みすら感じ、思わず視線を上にあげると真っ直ぐな視線とかち合った。彼が常に見せる柔和で優しい表情とはかけ離れたその酷く真剣な眼差しに、モクバはそれ以上何か反論をする事も出来ずにただ、小さく頷く事しか出来なかった。

 そう、幾ら自分が激しい口調で追い詰めても、涙ながらに懇願してみせても、瀬人は頑として口を割ろうとはしなかった。形だけの謝罪を口にして、目の前にいる自身ではない誰かを追う様に遠くを見つめ、ただひたすら無言を貫き通したのだ。そんな彼に、酷い絶望を感じた。自分の存在は彼にとってそれほどまでに希薄なものなのかと、そう思って。

 けれど、遊戯の言葉にも頷ける部分はあった。瀬人は決して、モクバに何も言わないとは言ってはいない。ただ、『今は』何も言えないとそう言ったのだ。全てが解決したら全部話して貰うから、と語気強く迫った自分に、彼は否とは言わなかった。絶対に話さないとも、お前には関係のない事だとも言わなかった。と、言う事は。
 

 ……結局は遊戯が言う通り、待つ事しか術がないのだ。信じて、待つしか。
 

「……待つしか、無いんだね。オレは。……オレ達は」
「うん」
「でもオレは、凄く不安なんだ。このままじゃ、兄サマが壊れてしまう気がして」
「……壊れる?」
「……さっき、オレがここで血だらけの兄サマを見つけた時、兄サマはオレを見たけど、本当は……見えていなかったんだ」
「どう言う事?」
「分からない。けど、何か訳の分からない事を呟いてて。オレ、本当に怖くて!」
「モクバく……」
「兄サマのあの左手首の傷、開いたのは二度目だって」
「え?」
「先生が言ってた。あれは一度縫ったのが裂けてしまって、もう一度縫合し直したものだって。その痕があったって。だからあれは事故の傷なんかじゃないんだ。事故よりももっと前に何処かで!」
「……君は、それを勿論……」
「知らないよ。そんな事、知らなかった!でも怖いのはその事じゃないんだ!あの傷が」
「……あの傷が?」
「兄サマが、自分でやったんじゃないかって……!」
「それって、海馬くんが自……」
「違う!そんな事は絶対にないって分かってるけど!でも、ありえない話じゃないって!現に自分でそれを裂いてしまったじゃないかって!」
「………………」
「だから、オレは。早く何とかしないとって思ったんだ」
 

 そうでなければ、兄サマは死んでしまうかもしれない。今日だって発見が遅かったらどうなっていたか分からないんだ。震える声でそう呟くモクバの顔は酷く青褪めていて、何時の間にか硬く組んだ両手は指先が白くなるほどきつく握り締められていた。小さな身体の震えが、掌を通して遊戯の腕にも微かに伝わる。そこにあるのは、漠然とした恐怖そのものだった。
 

 ── オレを殺したくなかったら戻って来い、と。そう、言ってくれ。
 

 そんなモクバの身体を出来る限り強く抱き締めながら遊戯は不意に、今でも強く印象に残っている瀬人のあの言葉を思い出していた。何処までも白く無表情なあの顔を苦し気に歪め、まるで何かを祈るようにそんな台詞を口にした彼の気持ちを思うと、酷く胸が痛かった。それと同時に形容し難い不安を感じた。いても立っても居られないほどの焦りと共に。

 背に嫌な汗が伝う。

 しかし遊戯はそれきり何も言えず、ただその場に立ち尽くすのみだった。
 確かに、何も違和感を感じなかったといえば嘘になる。余り動揺を見せるという事をしない兄が、あの頃は自分の些細な言葉にも少し過剰な反応を示していた。いつもはしない行動をしていたのも気になった。当時はさほど気にも留めない些細な事だったが、今思えば、それが前兆だったのだろう。

 どうして、あの時気付かなかったのか。

 幾ら思い悩んでも、過ぎ去った過去を取り戻す事など出来ないのだ。
 
 

「確かあの日は……ううん、その前の日にもずっと兄サマと連絡が付かなくて一体どうしたんだろうって皆心配してたんだ。夜中までは会社にいて仕事をしていた事は知ってるんだけど、急にいなくなったって、磯野が。次の日の朝に……土曜日だったからオレも何回か携帯に電話したりメールをしてみたりしたんだけど、結局返事は返って来なかったんだ」
「海馬くんがそんな風に連絡を一切絶つ事ってありえるの?」
「ないよ。どんなに忙しくてもメール位は必ずくれる。だって、取引には一分一秒を争う事だってあるし」
「じゃあどうして、その時は連絡が一切取れなかったのかな」
「電源が切られていた訳じゃなかったから、自分から連絡を拒否したとか……そう言う事はないと思う。……と、いう事は」
「それって『出なかった』って事じゃなくって、『出られない状態』だったのかもしれないって事?」
「うん、多分」
「………………」
「それで、大騒ぎになる所だったんだけど……。お昼近くに、兄サマは普通に帰って来たんだ」
「え?その時は何か変わった様子とかは?」
「あったかもしれない。けど、帰って来たって事が最優先だったから、オレも他の連中もそこまで良く観察なんてしてなかったし、兄サマはその後すぐに疲れたって言って部屋に引っ込んじゃったから、追いかけてまで訳を聞こうとは思わなかったんだ。後で話を聞けばいいやって。そうしたらすぐこの事故だろ?」
「そっか……」
「でも、確かに今思うと変だなって所は沢山あった。思い返してみれば、だけど」
 
 

 そう。思い返してみれば、確かにおかしい所は幾つかあったのだ。それも本当に取るに足らない、普段であれば全く気にも留めないような事が、幾つか。
 

「兄サマ!一体何処に行ってたの?!皆で大騒ぎしてたんだよ?兄サマがいないって!」
 

 瀬人が事故に合う前日。その日の深夜から行方不明だった彼が海馬邸に何食わぬ顔で帰って来たのは既に正午に近い時刻だった。その姿を見るなり、大げさな程騒ぎ立てた使用人達の声に、モクバは慌てて自室から飛び出してエントランスに立ち尽くす彼の元へと走ったのだ。

 瀬人はその騒ぎに些か面食らったような顔をして、逆に「一体これは何の騒ぎだ」と不快そうに問い返した。そして走って来たモクバにさえ怪訝な顔を向けたのだ。こんなに周囲に心配をかけておいて本人は何処吹く風のその様子に皆一斉に脱力し、しかし何事もなくて良かったと、その不可解な出来事は特に目立った解決も見せぬままさらりと流されてしまったのだ。

 モクバもまた周囲の焦りように煽られて散々心配をした一人だったが、とりあえずいつもの兄の様相であった事に安堵しそれ以上その事について及言する事はしなかったものの、しかし少しだけ小言を混ぜた言葉を口にした。それに苦笑する彼に「もー、ちゃんと分かってる?」と少し身を乗り出して口を尖らせた際、僅かな違和感を感じた。

 ……否、もっと良く思い出してみればそれ以外にも確かに胸に引っかかる事があったのだ。

 その一つが、当時のモクバに対する瀬人の接し方だ。常ならば駆け寄ってくるモクバに直ぐに向き直り、乞われるままに腕を伸ばして抱き締めてくれる筈の彼が、その時に限って逆に一歩身を引いて、まるで身体に触れるなと言わんばかりに右手で強く肩を押さえつけられたのだ。その時は特にどうとも思わなかったが、それが少しの疑問としてモクバの心に残ったのは事実だった。

 それと、もう一つ。

 その時の瀬人が纏っていたコートの色が、モクバの記憶にはない色だった。そもそも彼は白や黒、寒色系以外のものを好んで着用することはまずありえない。薄茶色のしかも丈の短いコートなど持っている筈がなかったのだ。あの時はその事について何か訊ねたのか、そう不思議に思っただけで口にはしなかったのか覚えがないが、とにかく当時のあやふやな記憶の中でそれだけは鮮明に覚えていた。それほど、印象的な事だったのだ。

「今日はこれからどうするの?すぐ会社に行くの?」
「……いや、少し休む。まだ終えてない仕事があるにはあるが、然程急ぐものでもないからな」
「疲れてるんだったら、一日二日位休みなよ。兄サマ、このところずっと休んでないじゃない」
「そうだな」
「今日と明日は丁度土日だしさ、ちょっとはオレにも構って欲しいぜぃ。カードでも教えてよ。疲れ取れてからでいいから」
「……ああ、わかった」
「約束だよ。あ、そうだ、食事は?ちゃんと食べた?」
「今はいい」
「そっか。じゃあ夕食だけ用意しておくね。時間になったら迎えに行くよ。いいよね?」

 そう言って上を見あげるモクバの顔を、何とはなしに眺めながら、瀬人は無言のまま頷いて、それきり何も言わずに自室へと去って行った。常と同じきっちりと背を伸ばして足早に歩いていくその姿を見送りながら、モクバは何時になく強く握り締められた左肩に微かに痛みを感じた。そして、小さな溜息を一つ吐くと、自らも自分の部屋へと引き上げて行ったのだ。
 
 

「見慣れない、薄茶のコート?それって、どんなコートだった?」
「オレもよくは見てないから分かんないけど……結構大き目の襟がついてて……何処にでもある普通のコートだったぜ。ただ、兄サマにはちょっと短いなって思ったんだ。丈とか、袖とか……」
「……それ、きっと城之内くんのコートじゃないのかな。確か彼、膝丈の薄茶のコート、持ってた気がする」
「え?」
「そのコート、まだ家にある?」
「知らない。兄サマの部屋なんて触って無いから。……ある、かもしれない。でも、そのコートが本当に城之内の物だとしたら。兄サマは連絡の取れなかったあの日はあいつと一緒に居たって事に……」
「そういう事になるんじゃないかな」
「全部城之内絡みかよ。やっぱり、あいつと何かあったんだね。じゃああの日の夜、兄サマが出かけて行ったのも、やっぱり……」
「うん。君にも、誰にも言っていなかったけれど、あの日僕の携帯に城之内くんから頻繁に着信があったんだ。僕は丁度出かけててその電話に全然気付かなくて出る事が出来なかったんだけど。普段は城之内くん、携帯なんて殆ど使う事がなくってこっちからかけても出る事もしないのに、あの日だけは本当に数分おき位に……」
「それ、どう言う事だよ」
「……わかんないよ。でも、海馬くんの行動と城之内くんの行動。その二つを合わせて考えてみれば、多分関係があったんだと思う。城之内くんはきっと僕に何かを話したかったんじゃないかなって……君と同じで、今ならそう思うんだ」
「……あの夜……か」
 

『直ぐに帰ってくるから気にするな。今度は連絡を取れるようにしておく』
『もう夜も遅いし、明日にしたら?疲れてるんでしょ?』
『大丈夫だ。昨夜の様に騒ぐなよ』
『あれは兄サマが勝手にいなくなったからじゃない。で、何処に行くの?会社?』
『………………』
『兄サマ!』
 

 あの夜。瀬人は確かに酷く慌てた様子で偶然出くわしたモクバにおざなりな言葉をかけると、その様子に少し不思議なものを感じて素直に疑問を投げかけたモクバの前から、まるで逃げる様に駆け出して行った。

 照明を落としている所為で明度が落ちた回廊の奥へと消えて行くその背が何故か気になって、モクバは時間帯にも関わらず少し大きな声で「早く帰って来てね」と念を押した。どうしてかは分からない。だが、何となくそう言わなければならないような気がしたからだ。

 しかし、その言葉とは裏腹に瀬人はその後連絡を途絶えさせ、あの事故にあった。

 時間にして数時間程度の事だったが、その間に何があったかモクバには当然心当たりすらない。けれど数回に渡って遊戯の携帯を鳴らし続けた城之内や、隠し切れない動揺を見せながらも駆け出していった瀬人の姿を思うに、確かにその夜彼等の間には『何か』あったのだ。

 この、事件の根幹となる、何かが。