Dearest Act1

「兄サマッ!兄サマオレが分かる?!」
「そんなに騒ぐなよモクバ、海馬ちゃんと目ぇ開けてるじゃん。生きてる生きてる」
「でもっ……!」
「まー確かに乗ってたバイク大破したのにメット無しで無傷ってのはある意味すげーっつーか。さすがっつーか。むしろこえぇ」
「お前ほんとに心配してるのかよッ!」
「心配してただろ?バイト中なのにすっ飛んで来たんだぜ。何時間掛ったと思ってんだ。お前から電話貰ってこっちが死ぬかと思ったんだぞ」
「それもこれも全部お前の所為だろ!馬鹿!」
「オ、オレに当たんなよ。確かにオレも悪かったかもしんねぇけど、喧嘩は一人じゃ出来ないだろうが。お前の兄サマだって悪いんだぜ?」
「それは分かるけど……」
「まぁそれはとりあえず、置いておいて。海馬、さっきからひとっことも喋んないんだけど……」
「え?あ!……兄サマ、大丈夫?何処か痛くない?」
「ったく、まだ怒ってんのか?あーもーオレが全部悪かったから、機嫌直してモクバに応えてやれよ。可哀想だろ。めっちゃ心配したんだぞこいつ」
「………………」
「お前マジいい加減にしろよ?!」
「じょ、城之内。今はやめてよ、兄サマだってショック受けてるのかもしんないじゃん」
「こいつがこんな事位でショック受けるタマかよ。なんだよ、オレがここにいるのが気に入らないのかよ。だったら出てってやるよ。わざわざ来てやったのにムカつくったら!」
「もー城之内ってばぁ」
「もうオレは知らねぇ。勝手にすりゃいいだろ!」
 

 瀬人がふと気がつくと、目の前で二人の人間が人の顔を間に挟んで何やら盛大な言い争いをしていた。片方は忘れるべくもない、命よりも大事な最愛の弟、海馬モクバだ。癖の強い長い黒髪に大きな瞳、自分を必死に『兄サマ』と呼んでいるから間違いない。間違いないのだが……その姿は瀬人が記憶しているものとは多少なりとも違っていた。

 ── モクバは、こんなに大きかっただろうか?

 誰に訊ねる事もないその台詞は、瀬人の心の中で幾重にも反響して消えて行く。一瞬夢かと思って瞳を瞬かせてみたが、現実はやはり変わる事がなかった。おかしいと内心首を傾げつつひとまずそれは横に置いておく事にして、瀬人は視線を変わってしまった弟ではなく彼と激しく口論をしているもう一人の男へと移した。

 いかにも紛い物と分かる、それでも見事な金髪を無造作に伸ばし、日に焼けた肌を惜しげもなく晒して人の上に身を乗り出して騒いでいるその男の事を、瀬人は何か不可思議な生き物を見る様な目で凝視した。誰だ、こいつは。自然と零れ落ちてしまったその言葉は掠れていて、言い争いをしている彼等の耳には届かない。
 

 海馬が、海馬が、と人の名を連呼しているが、瀬人は彼の事を知らなかった。

 否、知らないのではない。『分からなく』なっていたのだ。
 

 勿論瀬人がそんな状況に陥っている事など目の前の二人には分かる筈もなく、目覚めたにも関わらず無言を貫く彼の事を見遣った城之内は、つい先日盛大にやってしまった大喧嘩をまだ引きずっているのかと同じく引きずったまま燻っていた自分の事は棚に上げて腹立たしく思っていた。
 

『いちいちグダグダとうるせーんだよ!お前の我が儘なんかに付きあってられっか!』
『勝手にしろ馬鹿犬!死ね!』
『うっせぇ!お前が死ね!あーやっぱ夏休み長期バイト入れて良かったー!お前の顔見なくて済むもんな!』
『夏季休暇と言わず一生オレの前に姿を見せるな!』
『お前こそオレに顔見せんな!!毎日毎日テレビだ新聞だでうぜぇんだよ!アメリカにでも行っとけ馬鹿!!』
『知った事か!早く出ていけ!』
『物投げんじゃねぇ!ったくどうしようもねぇなこのヒステリー男!』
 

 それは、一週間前の夕刻の事だった。その日は朝から酷く蒸し暑い真夏日で、バイトだテストだと数日前からフル回転していた城之内が、その合間に無理矢理捻出した貴重な空き時間を利用して久しぶりに海馬邸を訪ねた事から始まった。

 夏休み前のこの時期というのは、瀬人の方も夏季休暇に入る子供達をターゲットに新商品の開発や新アトラクションの設置など、文字通り目が回る程の忙しさだった。6月に入ってからは学校には顔すら出さず、黒板の隅にある欠席者の所に記入される名前を書く手間を惜しまれる始末だ。学業ですらそんな状態なのだから、城之内の事がそれ以上に疎かにされるのは当然で、城之内がKCや海馬邸に顔を出しても素っ気なくあしらわれる、そんな日々が続いていた。

 最初の頃は、『まぁそんな奴だって分かってて付き合ってるんだし』と自分を慰めつつ、ありとあらゆる事を我慢して忙しさに不機嫌極まりなくなる相手の理不尽な態度にも必死に耐えて来た。しかし自分にも相当の激務が圧し掛かり、余裕がなくなってくると、海より広い城之内の心の器にも限界が来て、ついにヒビが入ってしまった。そんな矢先の出来事だった。

 喧嘩の原因は多分、酷く些細な事だったと思う。何故『多分』だったのかというと、その後の怒りが激し過ぎて切欠の部分の記憶が何処かに行ってしまったからだ。けれど、そんなものはどうでも良かった。きっとあの時の自分は、もう何を言われても爆発していただろうという自覚があるからだ。

 相手だって疲れてるんだからオレが我慢しなくちゃ駄目だ。けど、あいつだってもっとオレの事を気遣ってくれてもいいんじゃねぇの?

 あの時、何か嫌味の様な事を言って来た瀬人に、城之内はそんな事を思ったのを覚えている。そして「恋人関係はあくまで対等であるべきで、主人と犬ではないのだから、こんなのはおかしい」と、妙なタイミングで気付いてしまったのだ。気付いてしまったら最後、押さえつけていた不満が噴出した。あの喧嘩が起きた経緯は、簡単に言えばそれだけの事である。

 その後、城之内は兼ねてからスケジュールに入れていた、童実野から遠く離れた避暑地にあるペンションでの住み込みのアルバイトへ出かけてしまい、瀬人とは一切連絡を取らなかった。取ったとしてもどうせまた喧嘩になるだけだし、時期が時期という事もあるから、忙しい時には無理して会わずに少し冷却期間を置いた方が互いの為にいいと思ったからだ。

 まぁ、それは殆ど建前で、本音は『ムカついてしょうがないから、海馬が謝るまで無視してやる』だったのだが。

 そんな事があってから一週間後の今日だった。音信不通のまま、それはそれで平和に過ごしていた城之内の元に一本の電話が掛って来たのは。
 

『兄サマが事故を起こしたんだ。バイクで転倒して……!』
 

 携帯の向こうで半ばパニックになりながらそう声を上げたモクバの言葉に、城之内は取るものも取らずにバイト先を飛び出した。

 そして、今現在この場所に立ち尽くしている。苛立つ心を抱えたまま。
 
 

「なんだよ。ピンピンしてんじゃねぇか。心配して損した」

 モクバの声が余りにも切羽詰まっているから、あわや大惨事に?!と心臓が止まる思いで駆けつけてみれば、当の本人は掠り傷程度ですぅすぅと寝息を立てていた。その姿を見た途端盛大に脱力した城之内が開口一番発したのがそんな素っ気ないとも言える一言だったのだ。

 本来ならば良かったと言わなければならない所なのに、敢えてそんな台詞が、しかも自然と出てしまった事に城之内は自分で酷く驚いた。けれど罪悪感など微塵も感じられなかった。

 我ながら酷過ぎる、内心そう思いつつも己の心を偽る事など出来る筈もなく、今も湧き上がる怒りを抑える事が出来ない。ちくしょうもうやめてやろうかな、盛大な溜息と共にそう声なき声を発してさっき自分が口にした言葉通り一旦部屋から出て行くか、と踵を返しかけたその時だった。

 今まで無言のまま己を見あげるだけだった瀬人の顔が僅かに動き、首を傾げる仕草をする。何だよ?!途端に出そうになる言葉が喉の奥からせりあがって来た瞬間、城之内は信じられない言葉を耳にしたのだ。

「お前は誰だ?」
「は?」
「何故、ここにいる。そして……お前は、モクバなのか?」
「はぁ?頭大丈夫か?」
「……に、兄サマ?何言ってるの?オレは勿論モクバだよ、そしてこいつは……」
「知らない、そんな奴。誰だ」
「!!てめ、そういう事すんのかよ!」
「そういう事とはどういう事だ。何を怒っている」
「っかー!!ふざけんじゃねぇ!マジぶん殴るぞ!!」
「やめてよ城之内!!何か変だよ!!兄サマ、ふざけてない!」
「いやふざけてるだろこれは!オレの事忘れたふりとかやる事が性格悪ィんだよ!!」
「違うよ!だって兄サマの手元見てよ!」
「手元?…………!!」
「ね?兄サマは真剣なんだよ。本当に、お前の事、分からないみたい……」
「……嘘だろ」
「……嘘だといいけどね。とにかく、オレちょっと人呼んでくる」

 そう言って顔を強張らせてベッドサイドに置いていた携帯を取るモクバを視界の中心に捕らえながら、その端で不思議そうな顔をして己の顔を見上げている瀬人の視線を、城之内は信じられない面持ちで受け止めていた。モクバの言う通りいつの間にか起き上がった彼の両手は未だ上かけの上に落とされたままで、彼が人をからかう時に必ずする癖……両腕を組んで口角をあげる仕草をする様子が微塵もない事から、今の態度が全て彼の真実だという事を知る。
 

 お前は誰だって、分からないって、嘘だろ?

 知らずごくりと生唾を飲み込む音がやけに大きく耳に届く。
 

「じゃ、すぐ帰ってくるから、城之内はここに居てくれよ」
「う、うん……」
「どうしよう、とりあえず磯野かな……」

 不安そうな面持ちでそう呟きながら、モクバが踵を返して部屋を出ようとしたその時だった。一歩足を踏み出したその後ろ姿に向かって、それまで黙っていた瀬人が本当に何気ない口調でこう言った。
 

「モクバ。義父さんはどこにいる」
 

 その一言には、場にいた二人の心臓を一瞬にして凍りつかせるだけの衝撃があった。義父さん?!聞き慣れない単語に城之内は驚愕し、モクバは絶句した。そしてモクバだけは何故瀬人が自分の姿を見て『モクバなのか?』と疑問形で訊ねて来たその理由を理解した。

 ── もしかして。いやそんな事は、でも、そうに違いない。

 混乱する気持ちを押さえつける術を持たないまま、モクバは至極ぎこちない動作でゆっくりと瀬人を振り返りそして震える声で訊ねてみた。

「……兄サマ、今、幾つ?」
「何を言っている」
「いいから、今何歳か教えてよ」
「何歳って……」

 そう言いながら少しだけ眉を寄せた瀬人は暫し俯いて無言で首を傾げていたがやがて徐に顔を上げ、はっきりとした声でこう言った。
 

「この間進級したばかりだから、今は十四だ。今年で十五」
 

 瞬間、場が再び凍りついたのは、言うまでもない。
「お前、本当に自分が十四だと思ってんの?」
「………………」

 モクバが人を呼びに言って来ると部屋を飛び出してから数秒後。暫し茫然とその場に佇んでいた城之内が、ぎこちなく身体を瀬人に寄せてそんな言葉を口にした。問われた瀬人は一瞬酷く不審そうに城之内を見つめ返した後、心持逃げるように身を引きつつ無言で首を縦に振った。その動きにさらりと揺れる前髪が見慣れた蒼い瞳を隠してしまう。

 いつも邪魔そうだなと思いながら目についた時にはかき上げてやっていたそれに、城之内は今も特に意識しないで普段通りの行動をする為についと手を伸ばすと、さっと白い手が伸びて来てパシンという音と共に払われた。え?と思った時には、瀬人の顔には嫌悪にも恐怖にも似た複雑な表情が浮かんでいた。城之内には全く馴染みのない顔だった。

「……お前、マジかよ」
「………………」
「マジで、オレの事分かんねぇの?なんでそんな顔するんだよ」
「……知らない」
「海馬!」
「お前の事なんか知らない。本当に誰なんだ?何故ここにいる」
「オレは、お前の!」
「近づくな!」

 全く見た事もない様な表情と、少しだけ子供染みた口調。モクバが居なくなった途端急に急に警戒心を露わにして広いベッドの上で後ずさったその仕草に、城之内は先程から必死に否定していた事実を嫌と言う程見せつけられた気がしてつい反射的に声を荒げてしまう。同時に縋る様に伸ばした指先はやはり激しく振り払われた。

 違う、やっぱりこいつは『今の』海馬じゃない。『オレの知らない』海馬瀬人だ。こいつの中身は本人の言葉を信じれば十四歳に戻っちまったんだ。その辺りの事情は良く知らないが、たった一人で多くの人間と対立していたあの頃に。

 ごくり、と大きく喉が鳴る。嫌な汗が背を伝った。

 それがもし紛れもない事実であるならば、一体どうすればいいのだろう。時間が巻き戻ってしまったという事は自分の存在も勿論そうだが、今の瀬人が抱えている様々なモノを一瞬にして喪失してしまったという事になる。これは瀬人に関わる全ての人間、事柄に置いて膨大な損失になるのではないだろうか。いや、なるに違いない。それは絶対だ。

「……海馬」
「気安くその名で呼ぶな」
「じゃあ、なんて呼べばいい?」
「知らない人間に呼ばれたくない」
「お前がオレを知らなくても、オレはお前を知ってるんだよ。モクバに聞いてみ?ちゃんと……」
「モクバと話す事もない」
「え?だってさっきは普通に……」
「出ていけ。知らない人間と同じ部屋に居たくない。それでなくても訳が分からなくて苛々するのに一体なんなんだ!」
「だからそれは」
「出ていけッ!」

 常の瀬人が発するものとは明らかに違う、揺らぎが大きく混じった……ともすれば泣きだしそうな大声が妙な空気で凝り固まった室内に響いては消えて行く。キッ、とこちらを凝視するその眼差しも見ただけで震え上がる様な殺気立ったそれではなく、憎悪や悲哀や嫌悪が複雑に混じり合った、見る者の心を突く様な不可思議なものだった。

 お手上げだ、オレには何とも出来ない。

 まるで隙を見せまいと必死に睨み上げて来るその瞳を見つめながら、城之内は心の中でそう呟いて落胆した。目の前のこの瀬人にとって見知らぬ他人でしかない自分には現状を打破する術など何一つ有りはしないのだ。ここは一端身を引いてモクバ達にある程度事情を説明して貰い、少し落ち着く必要が瀬人にも自分にも必要なのだ。……何がなんだか分からないのは城之内も同じなのだから。

 城之内は深い溜息を零しそうになり、慌てて喉奥に押し込める。瀬人はこういう時、相手に溜息を零される事を酷く嫌がるからだ。誰が悪い訳でもない、ましてや瀬人が積極的に忘れようと思って忘れた訳ではないのだから、こんな呆れた様な素振りは見せてはいけない。それに、まだ本当に『そう』なってしまったという決定的な証拠がないのだ。殆ど絶望的だとは分かっているが、少しでも望みがあるならそれに賭けたいと思った。

 そう思わなければ、到底自分を保ってなど居られないから。

「── 分かったよ。じゃあ、オレは出てく。また、後でな」
「後で……って」
「言っただろ?お前はオレを知らないかも知れないけど、オレはお前を知ってる。こうしてしょっ中顔を見せに来てるような間柄なんだぜ。まぁ、最近はちょっと事情があって……久しぶりなんだけど」
「………………」
「後でモクバから色々聞かされるかもしんねぇけど、今のお前は、『お前が思ってる海馬瀬人』じゃないんだぜ。……んな事今言われても分かんねぇかもしんねぇけど」
「今の僕は、僕が知っている海馬瀬人じゃない?……どういう意味だ?」
「僕ってお前……中坊の頃、そんな喋りしてたのかよ。想像出来ねぇ。……とにかく、そう言う訳だから」

 心底不思議そうな顔で城之内の言葉に耳を傾けていた瀬人は、放たれた言葉の意味を必死に理解しようとしているようだった。けれど、誰もが事実さえ飲みこめないこの状況ではどうなる訳でもなく、結局は諦めたように顔を俯けて眉を寄せる事しか出来なかった。ぎゅ、とシーツを握り締めた指先が微かに震える。それを無意識に見つめていた彼は一瞬ギョッとして目を見開いた様だった。そして次の瞬間、己の両手を持ち上げてじっと凝視する。

「……?どした?」
「手、が」
「は?手?お前、手なんか怪我してたっけ?」
「違う、そうじゃない」
「じゃあ、なんだよ。なんも変なとこ無いぜ。いつものお前の手だ」
「………………」
「お前も目ぇ覚めたばっかで混乱してんのかもな。もう一回眠っちまえば?もしかしたら元に戻ってるかも知れないぜ?」

 な?

 そう言って、城之内はここ最近は彼相手に殆ど見せなくなった優しい笑みを口の端に乗せると、まるで小さな子供を相手にする様に距離は保ったまま、その顔を覗き込んだ。彼が見せるにしては至極柔らかなその表情にも気を反らす事は無く、瀬人は相変わらず自分の手を見つめている。その姿に、少し不安を覚えなくもなかったが、どちらにしても自分は今必要ないのだろうと直ぐに判断した城之内は、そのまま踵を返して振り返らずに部屋を後にした。

 パタン、と小さな音が、再び静かになった室内に小さく響く。

 そんな城之内の行動も意に介さず、瀬人は目の前にある己のものであるらしい二つの白い手を驚愕と共に眺めていた。そこにあるのは、良く見知ったと形容するのさえ馬鹿馬鹿しい自分本来のそれでは無かったからだ。

 細く長い、骨に申し訳程度に肉がついた白くて大きな男の手。明らかにこれは少年のものではなかった。裏返して甲を見る。適度な長さを保ち綺麗に整えられた爪先も、知っているものとは大分違っている。そう、強いて言うならばこれは大人の手だ。少し長さの足りない、丸みを帯びていた筈の己の手が成長したら、こんな風になるのだろうと、漠然とそう思った。

 その、刹那。

 彼は今まで気付かなかった、様々な事に気付いてしまう。まさか、そんな事が。声に出すのも怖い様な非現実的な発想を必死に打ち消し、それを確かめる為に行動しようとベッドの端までにじり寄り、その下に置かれていたスリッパを履いて、立ち上がった瞬間息を飲む。

「── ひっ!」

 自分の爪先が、酷く遠くに見えた。視点が違う。高すぎる。

 くらりとした目眩を覚え、成す術も無く再びベッドに座り込んでしまった瀬人は呆けたようにただ瞳を空に向けて浅い呼吸を繰り返した。一体なんだこれは、何がどうなって……僕は、どうしてしまったんだろう。

 混乱する気持ちを必死に抑え瀬人は勇気を振り絞って再び立ち上がり、覚束ない足取りで部屋の隅にある鏡の前まで歩んで行く。確認するのは怖かった。けれど、いつ自覚しようと同じ事なのだ。そう思い恐る恐るその前に立ち、映り込んだ己の姿と対面する。そして二度目の悲鳴を上げそうになり、きつく唇を噛み締めた。

 磨き上げられた大きな鏡に映っていたのは、毎日当たり前の様に目にしていた『自分』の姿ではなかった。否、確かにその面影は自分のものであったが、高くなった視点が物語る様に完璧に成長していたのだ。すらりと伸びた長い手足、有り得ない程に伸びた身長。そして、佇む自分を見つめ返すその顔は、はっとする程大人びていて、まるで知らない誰かの様だった。

「……どうして」

 震える吐息と共に呟かれたその声も、良く聞けば少し低い。確かにここにいるのは自分の筈なのに、自分じゃない。先程の金髪男が言っていたあの言葉は本当だったのだ。本当に……自分は。

「兄サマ?!」

 不意に遠くで扉が開く音がして、数人の足音が近づいて来る。それにはっと振り向いた瀬人は、いつの間にか酷く近くにいた弟のその声に反射的に身を翻す。そして、己の意志とは無関係に手の触れられる位置にいた小さな身体を抱き締めた。抱き締めて、しまった。

「僕は……」
「兄サマ、落ち着いて。今からちゃんと説明するから。大丈夫だから!」
「モ、モクバ様、これは一体。本当に瀬人様は……」
「とりあえず、ベッドに戻ろう?ここじゃ話がし辛いよ」
「………………」
「磯野、もう見て分かったかも知れないけど今話した通りだから、直ぐに先生を呼んでくれる?城之内にはちょっと待っててって伝えて置いて」
「か、かしこまりました。直ぐに手配致します」
「屋敷の連中には必要ならオレが話すから、まだ伏せて置いて。下手に騒いでもしょうがないしね」
「はい」
「じゃあ兄サマ、こっち。歩けるよね?」

 いつの間にか縋る様に己の身体を拘束している大きな兄の背を軽く抱き返し、モクバは極力優しくそう言って、立ち上がる様に促した。もし先程瀬人が言った事が本当ならば、『当時の彼』がこんな行動をするのは有り得ないのだ。多分本人もそう思っているのだろう。ちらりと見遣った横顔は何故自分がこんな事をしているのか分からないと言った表情をしていたからだ。それ以上に驚愕に彩られてはいたけれど。

「………………」

 ゆっくりと、瀬人の身体が離れて行く。遠ざかるその温もりを名残惜しげに眺めながら、モクバは胸に過ぎる不安を必死に押さえつけて無理に笑顔を作って「さぁ、早く」と促した。

 これから一体どうなるんだろう。

 声にならない声を唇の形だけで吐き出して、モクバは緩やかに瀬人の背を押して、自らも歩き始めた。
「『あの時』の兄サマはどうしてか分からないけどオレにも凄く冷たくて、本当にたった一人で剛三郎と闘ってたんだ。兄サマの周りに部下はいたけれど……お前達も知ってるかな、えっとデュエリストキングダムでペガサス側についてた……あいつらばかりで多分誰も信用なんかしてなかったと思う。結果的には裏切られる形になった訳だし」
「………………」
「だからあの兄サマはオレが傍にいる事に驚いていたし、お前の事も……同年代の友達どころか人と関わる事もしなかったから」
「え、でもよ。あいつ中学には行ってたんだろ?」
「行ってたけど……お前がその辺は一番良く分かるだろ」
「……ああ、うん」
「兄サマにとっては『今』の方が予想外なんだよ。『まさかこんな事になるなんて』、って言葉、オレ何回聞いたか分かんないよ」
「まぁ、色々苦労したからな。今もしてるし」
「……兄サマが元に戻らなかったらどうしよう。またオレの事、嫌いになっちゃうのかな」
「嫌いって、んな事ある訳ねぇじゃん。さっきだって」
「凄く嫌な顔をしてた」
「え?」
「あの『兄サマ』はオレに触りたくなんてなかったんだ。でも今の兄サマはオレを事あるごとに抱き締めてくれて」
「奴も混乱してるってわけか。中身と外見が違うんだもんな」
「うん、多分」

 結局自宅に居ては精密な検査が出来ないと近間にある病院へと瀬人を連れて行き、待合室で殆ど無理矢理海馬邸に残る事を懇願された城之内と二人、シンプルな革張りのソファーに腰かけて俯きながら、モクバはかなり断片的にだが『当時』の事を話してくれた。

 しかし当のモクバでさえ意図的に避けられていた状態にあった所為か、瀬人側の事情は殆ど分からずじまいで直ぐに会話は途切れてしまう。後に残ったのは重苦しい沈黙だった。

 モクバの話を聞きながら、城之内はこっそりとバイト先に今日突然仕事放棄をしてしまった事に対する謝罪と、迷惑ついでに明日まで休みを貰えないかとメールを打つ。病院を出てから送ろうと未送信ボックスに放り込み、パチリと手の中の携帯を閉ざすと城之内はゆっくりと顔を上げた。

 完璧な防音処理が施された診療室では当然の事ながら内部の物音は一切聞こえない。その事が余計に不安を掻き立てるのか、いつもは何があっても穏やかな表情を崩す事のないモクバの顔は僅かに強張り、握り合わせた両手には酷く力が入っていた。

(無理もないよな、兄貴が事故った上に記憶喪失だもんな……)

 俯いている所為で余り良く見えない横顔を眺めながら城之内は少しでも気休めになればという思いで、努めて明るく「大丈夫だって。全部忘れた訳じゃねぇんだから直ぐに戻るよ」と口にして、瀬人が良くモクバ相手にやる様に肩を抱いてぽんぽんと軽くあやす様に叩いてやる。けれどモクバの様子は僅かにも変わる事はなかった。
 

── ……兄サマが元に戻らなかったらどうしよう
 

 瀬人が元に戻らなかったら。この三年の間に彼が必死に築き上げてきた全てを一からやり直さなくてはならなくなる。しかも彼を取り囲む状況は全て変わってしまった。同じ道を歩む事は、もう出来ない。

 まだ何も決まった訳でもないのに、それを考えるだけでぞくりと背筋が寒くなる気がする。当事者は勿論の事、周りも相当覚悟しなければならないだろう。そこには当然城之内自身も含まれている。あれだけ近くにいた筈なのに今は近づく事はおろか、同じ空間にいる事さえ許されないのだ。

 拒絶と嫌悪を露にした嫌という程見慣れた蒼の瞳がやけに鮮明に思い出されて、それまで怒りだけが満ちていた胸中に急に寂しさと不安が押し寄せる。

「…………長いな」
「全部検査するって言ってたからね。良く分かんないけど、大変なんだろ」
「なぁ、モクバ。海馬は何で昨日に限ってバイクなんか乗ってたんだ?あいつ、どっか行く予定だったのか?」
「それが……オレにも良く分んないんだ。兄サマ、急に昨日と今日は休暇を取るって言い出して、一昨日夜中まで仕事してて……何処に行くからとか何も言ってなかったし。ただ、磯野には日帰りで出かけて来るって話してたみたいだけど」
「出かけるって。出かけるにしたって普通は車だよな。……まぁ、今はそんな事話してる場合じゃねぇけど」
「……多分、兄サマは、」

 そうモクバが言いかけたその時だった。診察室の扉が開き、先程瀬人の事を室内まで導いていた看護師が顔を出し「ご家族の方は……」と声を上げた。それに弾かれるようにソファーから飛び降りたモクバは、その勢いのまま城之内を振り返り、携帯を握りしめたままだった彼の手をぎゅっと掴んで来た。

「……一緒に来てくれよ城之内」
「え?いいのか?」
「いいに決まってるじゃん!……頼むよ。一人じゃ怖いんだ」
「……おう。お前がいいって言うんなら」
「こちらへどうぞ。貴方は弟さんかしら?こちらの方は?」
「あーえっと……オレは……」
「家族だよ。オレのもう一人の兄です」
「ちょ……モクバっ」
「そうですか。ではお入り下さい。中で先生からお兄さんの事について説明がありますから」
「説明……」
「行こうぜモクバ。大丈夫だって」
「う、うん」

 きつく縋りついて来るような細い指先を力任せに握り返して、城之内はそう言って促す様にモクバの背を軽く押した。その腕に従う様に一歩足を踏み出したモクバはそのままゆっくりと開かれた白い扉の中へと歩んで行く。

 妙な不安と緊張に彩られた空気の中、城之内もまた目の前に背に続いてつんと香る薬品の匂いに顔を顰めながら、診察室の中へと足を踏み入れた。
「事故の衝撃による記憶障害ですね。一時的なものか恒久的なものかは判断しかねますが、ある程度の覚悟はしておいて下さい」
「……ある程度の覚悟?それって……」
「記憶が戻らないかもしれないって事かよ」
「そういう事です。現在の医学では記憶障害に対する適切な治療法が確立されては……」
「そんな!だって兄サマは!!」
「ご理解下さい」
「──── っ!」

 診察室に入ってすぐ、進められた椅子に座るのもそこそこに酷く恰幅のいい初老の医師に二人が告げられた言葉は予想以上に厳しい一言だった。

 それから何を言われてももう頭に入る筈もなく殆ど上の空で流れる低い声を聞いていた城之内は、「では、そういう事で」と言葉を切り、退出を促す様に背を向けた医師の皺の寄った白衣の裾を眺めながら立ち上がった。そして先程の看護師に案内されるまま瀬人がいると言う部屋へと歩いて行く。

 カツカツと前を行く彼女のナースサンダルが床を叩く音が小さく響いて消えて行く。その音をどこか遠くに聞きながら城之内は直ぐ横でずっと左手を握り締めたままのモクバを見た。唇を強く噛みしめて、俯いてただ足を動かしているだけの彼の様子はここからではよく見えない。けれど、先程の医師の言葉に相当のショックを受けている事は確かだった。

「……モクバ」
「………………」

 小さく声をかけてみるが、答えはない。代わりに強くなって行く指先の力を感じながら城之内は一人こぼれ落ちそうになる溜息を僅かずつ逃がしながら天を仰いだ。これからどうしたらいいのか、勿論彼に分かる筈もない。

「こちらです。今日はもう何もする事はありませんからこのまま帰宅して下さって結構ですよ」

 いつの間にか少しだけ離れた個室前に案内された二人は、そう言って白い扉を指し示す。それ以上何も言わずくるりと踵を返して歩き去って行く姿を眺める間もなく、モクバはそれまでの沈黙が嘘の様にがばりと顔をあげると、飛びつく様に扉へと手をかけその勢いのまま室内へと駆け込んで行く。

「おい、モクバっ!」
「兄サマっ!!」

 バン、と大きな音がして開かれた扉が壁に当たって跳ね返り、城之内の視界を阻む。それを手早く押しのけてモクバに続く形で中に入った城之内は、簡易ベッドの上に腰かけている白い姿を見た瞬間、はっと小さく息を飲んだ。それは、先に駆け込んだモクバも同様だった。

「煩いな。こういう場所で位静かに出来ないのか」

 しんと静まり返った部屋に響いた低い声。感情を全て削ぎ落した様な抑揚の無いそれは、向けられた無感情な相貌と相まって余計に冷たく耳に届いた。見かけは常と同じ瀬人である筈なのに、纏う雰囲気がまるで違う。常ならばどんな状態の彼でも躊躇なく傍に寄れる筈の二人が思わずその場に縫いとめられてしまう位に。

「ごめんなさい。でも……!」

 余りの急激な兄の変化にやはり顔を強張らせたモクバは、反射的にそう謝罪の言葉を口にして、足をもう一歩前に踏み出す。しかし、それ以上近寄る事は出来ずにいた。瀬人の眼差しがそれをさせなかったからだ。

「もう全て終わったんだろう?帰ってもいいのか?」
「……う、うん」
「じゃあ、帰るよ。車は?」
「……今、表に回すよ。連絡して来る」

 結局じっとこちらを見つめて来るその視線に気押されてその場から動く事が出来なかったモクバは、淡々と紡がれる瀬人の声にただ是と答える事しか出来ず悲しそうに顔を歪めると、自らの言葉通り携帯を片手に直ぐに部屋を出て行ってしまう。

 パタパタと遠ざかって行く軽い靴音に眉一つ動かさず、疲れた様に溜息を一つ吐いた白い顔をそれまで無言で見ているだけだった城之内は、流石にこのやり取りには我慢出来ずに、ずかずかと瀬人の傍まで歩み寄ると、上から見下ろす形で口を開いた。

「おい、海馬。お前、ああ言う言い方はないんじゃねぇの?モクバがどれ程お前の事を心配したと思ってるんだよ?」
「……まだ居たのか。何の用?」
「何の用って……。お前、医者の話ちゃんと聞いたのかよ。お前は……!」
「記憶障害を起してるんだろう?聞いたよ」
「だったら、オレがなんでここにいるか分かんだろ。お前には全然見覚えの無い人間かも知れないけどさ、オレはお前の……知り合いなんだからよ」
「だったら何だって言うんだ」
「は?」
「僕の知り合いだからどうしたって聞いてるんだよ。知り合いと言っても所詮他人だろう?僕が誰にどう接しようと関係ないじゃないか」
「!!……関係ねぇって!確かにそうかもしんねぇけど!」
「『この僕』の人間関係がどうであれ、僕には関係ない事だから」
「なっ……」
「だから、構わないでくれ」

 ふい、と顔を背けながらきっぱりとそう言った瀬人はやはりそれきりじっと口を噤んでしまう。それが彼の素なのかただの防衛線なのかは分からないが、先程と違い大人びた顔に不釣り合いな程感情を露わにしたその姿に怒りよりも先にもどかしさを感じてしまう。

 ……違う、そうじゃねぇよ海馬。少なくても今のお前には心の底から慕ってくれる弟がいて、沢山の味方がいて、仲間もいて……そしてちゃんと気持ちを確かめあったオレという恋人もいる。何もかもを敵に回してたった一人で戦っていたあの頃とは違うんだ。

「……かい……」
「何が目的?」
「え?」
「あんたが僕に構う理由だよ。モクバと仲良さそうにしていたけれど、本当の目的は何?」
「目的って、何言ってんだ!オレはただ純粋にお前が事故ったって聞いて、心配して!バイト中だったけど全部放り投げてすっ飛んで来てやったんだ!」
「ただの知り合いなのに?」
「何だよ、ただの知り合いじゃてめぇの心配をしちゃいけねぇのかよ?!マジ心臓止まるかと思ったんだぞ?!」
「そう。ありがとう。でも、余計なお世話だ。迷惑だよ」
「…………っ!」
「そこを退いて。あんたも早く帰った方がいい。バイト中だったんだろう?」

 まぁ、僕には何の関係も無いし、興味もないけどね。

 そう言って近間にあった上着を着込み、瀬人は目の前にいる城之内を押しのけながら立ち上がる。そのまま振り返りもせず歩き出そうとして一瞬身体が揺らいだ。数少ない事故の後遺症の所為なのか、それとも未だ僅かな影響を及ぼしている『彼にとっては』急激な身体の成長にバランスが上手く取れない所為なのか、ともかく危うげにふらついたその姿を城之内は慌てて支える。途端に強張る相手の顔に反応するより早く思い切り突き飛ばされた。意外にリーチがあり、力も出た所為で今度は城之内の方がよろけて留まる。

「っなんだよ!」
「僕に触るなと言ってるだろう!」
「触るなって……お前なぁ!」
「………………」
「海馬!」
「……知らない人間と、話す事なんかない」

 そう一言だけ口にして、今度は少し慎重に足を踏み出した瀬人は、それきり城之内の存在を無視した様にゆっくりと歩き出す。全身で拒絶を表わすその後ろ姿に一瞬絶望を感じた城之内だったが、それ以上に怒りも似た衝動に駆られて再び腕を伸ばした。部屋を出る寸での所で小さく振られた右手首を捕まえて、反射的に込められる力を凌ぐ程の強さで握り締める。それでも、瀬人は振り向かなかった。無言のまま、離せと強く手首を引く。

 その頑なな背に向かって、城之内はほとんど無意識に口を開いた。

「海馬、お前がどう思おうとオレは……オレとモクバはお前の味方だから。オレ達だけじゃない、今のお前には沢山の仲間がいる。もう一人じゃない」
「………………」
「一人じゃねぇんだよ、海馬」

 まるで縋る様に吐き出したその声にも、瀬人は僅かな反応も見せず真っ直ぐに前を見たまま動かない。更に言葉を重ねるべきかそれとも今はやはり引くべきか、そう思うより早く外から車を呼びに行ったモクバがやって来て、小さな声で「迎えが来たよ」と口にした。それに一瞬気を逸らした瞬間、捉えていた手が再び痛みと共に振り払われる。

「兄サマ!」

 そのまま逃げる様に歩き去る姿にすれ違う事となったモクバが慌てて声をかけるがその歩みは止まらない。あっという間に見えなくなった細い背に彼は微かに俯いて、深く大きな溜息を吐いた。小さなその肩は少しだけ震えている。

「モクバ」
「……分かってるんだけど……やっぱり、辛いよ」
「……そうだな」
「ごめんな。お前にもなんか言ったんだろ、兄サマ」
「まぁ、オレはああいう海馬には慣れてっし、そんなでもねぇよ」
「………………」
「オレ、なるべく早くバイト切り上げて帰ってくっから。それまであいつの面倒よく見てやってくれ。今夏季休暇中で良かったよな。不幸中の幸いって奴だ」
「城之内」
「んな顔すんなって。あいつ頭いいんだからすぐに思い出すよ。どーしても思い出せないっつー時はオレが頭ぶん殴ってやるよ。衝撃与えれば嫌でも元に戻んだろ」
「乱暴はやめろよ。お前はすぐ……!」
「ま、それは冗談だけど。とにかく、頼んだぜ」
「……うん」

 そんな城之内の言葉に、ぎゅっと眉を寄せたまま重々しく頷いたモクバを見ながら、城之内は未だ少し痺れたままの指先を握り締めた。思い切り振り払われた手、拒絶の眼差し。最後に見た正常な状態の彼の顔が思い出せなくなるほど、その印象は強烈だった。まだ何も始ってすらいないのに背に冷たいものが過り、目の前が暗くなる。

 沈黙が、場を支配する。近間を行き交う人の気配や声すらも無言で立ち尽くす二人には全く聞こえてはいなかった。

「兄サマ……」

 小さな声で吐き出されたその呼び声に、胸に小さな痛みが走った気がした。