Dearest Act2

 海馬邸に帰って直ぐ瀬人は自室へと引き籠り、疲れた身体をベッドへと投げ出していた。外出から帰って来て着替えもせずにこんな真似をする事は潔癖症の気がある彼にとっては許し難い事だったが、今は身を起こしている事さえ億劫だった。目覚めた瞬間から彼にとっては予想もしなかった出来事の数々に気持ちも、身体も付いていかない。身を包む衣服や頬に触れるシーツに至るまで全て違和感しか感じなかった。

 自分の部屋の自分のベッドなのにここはまるで別世界だった。

 勿論瀬人が成長するにつれて家具や調度品が入れ替わり、あらゆるものの好みが変化していた。シーツ一つにとっても以前は滑らかで柔らかいシルクのシーツを好んだが、城之内と関係を持つようになり利便性や相手の好みにより、コットン系に変えてしまった。枕やその他寝具も同等の理由で変化していたのだが、そんな事は『この』瀬人が知る由もない。

 進んでしまった時の中で自分一人だけが取り残された感覚。医者が言うには自分は事故を起こして衝撃で記憶の退行が起きているとの事だったが、全く自覚が出来ない為理解はしても納得がいかなかった。いかな瀬人でもこんな状況に陥れば混乱もするし恐怖も芽生える。だが、それを素直に言う事は愚か、表面に出す事さえも出来なかった。先程の乱雑な態度はそんな彼の不安を表面化したものだった。尤も、素の状態でも然程変わりはなかったが。

 枕に頬を預け、深い溜息を一つ吐く。少し先に見えるシーツを握り締める己の手は相変わらず細くて白い、大きな男のものだった。動けと脳が命じれば、その通りにきちんと動く。けれど、やはり何処か他人事の様な気がした。

 しかし、自分の身に起きた事実をひとまず置いておいても、『今の』自分は一体何をしていたのだろう。それを考えた時に、何も浮かばない事に焦りを感じた。会社の事、学校の事、弟の事、全ては漠然と覚えているのに、具体的に今何をしなければならないのかが分からない。何か急ぎの課題を溜めては居なかっただろうか、仕事は何を手がけていたのだろうか、父親から何か言われてはいなかっただろうか。考えれば考える程頭の中は空っぽでそれが余計に瀬人を焦らせた。

 確かに自分はおかしい。海馬瀬人でありながら、海馬瀬人ではなくなっている。これから一体どうすればいいのか、何を目指して歩いて行けばいいのか。こんな所で怠惰に身を投げ出している暇などない筈なのに、やる事が分からない。思わず叫び出したくなるような気持ちに駆られた刹那、遠くで控えめなノックの音が聞こえた。それは聞き慣れた磯野の声だった。

「瀬人様、いらっしゃいますか?」

 幾度目かの呼びかけの後、鍵が掛っていない事を確認するようにドアノブを回す音がする。最初は無視を決め込んでいた瀬人だったが、このまま一人でいても碌な事にならないと思い直し、ゆっくりとベッドから立ち上がり私室のソファーへと腰を下ろした。そして、乱れてしまった前髪を手櫛で整えながら「入れ」と声をかける。

「失礼致します」
「兄サマごめん、オレも一緒に入らせて貰うね」

 扉が重々しく開閉する音と共に室内へと入って来たのは、想像通りの磯野の姿とその後ろに遠慮がちに付いて来るモクバの姿だった。先程、撥ねつける様な態度であしらってしまったからなのだろう。彼は何処となく居心地が悪そうにこちらの顔を伺いながら目の前までやってくる。

「何の用だ?」
「お疲れの所申し訳ありません。現状の御説明と今後についてのお話に参りました」
「………………」
「さっき、ちゃんと話が出来なかったから。ちょっとだけ、時間、いい?」

 言いながら、モクバはおそるおそる瀬人と向かい合わせになる場所に腰を下ろすと、何処か緊張の面持ちで瀬人と磯野を交互に見上げた。磯野は座るつもりはないのか一歩離れた場所に下がり、モクバを伺う様に片眉を上げている。その彼の表情に意を決したのか、モクバは大きく頷くと磯野に小さく礼を言って今度は真っ直ぐに瀬人を見た。

 そんな二人のやりとりの意味が分からず、瀬人は僅かに眉間に皺を寄せる。そのタイミングで磯野は軽く一礼すると、部屋の外へと出て行ってしまった。扉が閉まると当時にモクバはゆっくりと顔をあげる。その顔に瀬人はすかさず一瞥をくれてやると冷たい声でこう言った。

「何故奴は出て行った。あの男が何か話があるんじゃなかったのか」
「磯野には付いて来て貰っただけだよ。だって兄サマ、オレが一人で来ても部屋に入れてくれなかったでしょ?」
「……何の話をするつもりだ?」
「今回の事について、ちゃんと説明しようと思って。兄サマだって、何が何だかわからないでしょ?」
「………………」

 一つ一つゆっくりと言葉を選びながらモクバは真っ直ぐに瀬人の瞳を見詰めた。警戒を現す様に僅かに細めた蒼い瞳は、遠い昔に見たものと同じで。それだけで、モクバは兄の内面の状態を知る事が出来た。

 この兄をどうやって元の兄に戻せばいいのか。一番手っ取り早いのは記憶を取り戻して貰う事だったが、科学的、医学的にどうこうする事が出来ない以上自力でなんとかするしかないのだ。そして最悪の場合も想定して動かなければならない。それは瀬人に記憶を取り戻させるのではなくやり直して貰う事だ。が、余りにも予想外だらけだった彼の数年間を再び刻む事はもう出来ない。

 モクバは短い沈黙の中でそんな気持ちを胸に過らせながら小さな深呼吸を一つした。そして、何から話そうかと更に少しだけ考えて、とりあえずは、と決めた事を口にする。

「……まず、兄サマは今は16歳。童実野高校に通う高校二年生だ。そして、海馬コーポレーション代表取締役社長になってる」
「何?」
「一年前に義父さん……海馬剛三郎は亡くなって、もういないんだ。だから兄サマが社長で、オレが副社長になった。今の海馬コーポレーションはゲーム・レジャー産業を中心としたアミューズメント関連企業になってる。業務形態も勤めている従業員も、きっと兄サマが知ってる奴は誰もいないよ。あ、さっきの磯野は知ってるかな……あいつだけは居残ってくれたけど」
「………………」
「詳しい事は少し時間をかけて覚え直して貰う事にして、最重要なのはそんな所かな。ちなみに今は夏休みだから学校の方は行かなくても大丈夫だし、会社の方もずっと休んでなかったから長期休暇が取れる様に手配しておくよ。丁度プロジェクトが一つ終わった所だから大丈夫」

 モクバは徐々に険しい顔になって行く兄を見つめながら、努めて明るくそう言った。そう振舞わなければ、目の前の彼は勿論自分も不安に押しつぶされてしまいそうだったからだ。そんなモクバの気遣いもよそに、相変わらず瀬人は眉間に皺を寄せて口を真一文字に引き結び、沈黙を貫いていた。その様子からは話の内容を理解したのかしないのか分からない。

「……多分、今の段階じゃどうしたらいいのかわからないと思うけど……ちょっとずつやって行こうよ。オレもさっきの磯野も協力するし!あ、家の奴等には何も言ってないからアレだけど、あいつらは昔とあんまり変わってないから普通にしていれば問題ないよ」
「……普通に?」
「あー、えっと……オレには兄サマの普通がどんなものか、よくわからないけど……」

 思わず聞き返した言葉にモクバが慌てて口ごもる。その顔を眺めながら、瀬人はやはり強い違和感を拭えずにいた。こちらを真っ直ぐに見て、多少物怖じはしているもののしっかりと自分に語りかけて来るモクバ。己の記憶の中にいる弟はいつも物陰からこちらを伺い、話しかけて来る事すらしなかった。当然だ。自分がそう仕向けたのだから。

 そこまで考えた瞬間、瀬人の脳裏に一つのヴィジョンが蘇る。同時に、当時の(今の彼にとっては『今の』だが)己の目的を思い出した。義父相手に密かな勝負を仕かけていた、あの事を。

 だが、今モクバは言わなかっただろうか?義父はもういないのだと。

「……兄サマ?」

 頭痛がする。思わず瀬人は額を押えて小さく呻いた。

 目的を思い出した瞬間に失った。付き放していた筈の弟が、不安げな顔をして席を立ち、自分の傍へと何の躊躇もなく駆け寄ってくる。気遣う様に肩に触れ、あまつさえ抱き締めて来た。本当は心の底から望んでいたものなのに、心を鬼にして突き放して来た今までの苦労はなんだったのか、訳が分からなくなる。
 

『一人じゃねぇんだよ、海馬』
 

 小さな腕を無意識に振り解こうともがきながら、瀬人はつい先程耳にした、何者か分からない男の声を思い出していた。それは全てに霞が掛ったような不明瞭な記憶の中で尤も鮮明に浮かび上がったものだった。その声に何故か心がざわついた。その事にすら驚愕する。

 一人じゃないと言われたにも関わらず、その心は孤独だった。

 肩に触れる弟の体温さえも彼に現実味を与える事はなく、遠く感じた。


-- To be continued... --