Act1 屋上の優等生

 季節の割に気温が低めの初夏の昼下がり。丁度昼食時にあたるその時間に城之内がいつもの通り屋上に行くと、そこには先客がいた。

 その男は城之内がこの空間で常に陣取っている場所に腰を下ろし、辞書のような分厚い本を静かに読んでいる。爽やかな夏の風が微かに俯く彼の髪を揺らして吹き抜けていく。

 その男の顔も名前も、城之内には見覚えがあった。海馬瀬人。確か同じクラスに所属するクラスメイトだ。けれど、余り良くは知らなかった。何故なら彼は不登校気味で滅多に教室に顔を出さないからだ。その理由はよく分からない。そもそもいない奴の事など気にする城之内ではないから、その存在はないものとして扱っていた。

 そう言えばコイツの席、今日は埋まってたっけ。珍しく一番後ろの廊下側の席に収まっていたその姿を思い出し、城之内はだからなんだと舌打ちする。滅多に学校に来ねぇ癖に、来たら来たでオレの指定席に我が物顔で居座ってやがる。気にいらねぇ。

 そう内心ぼやきながら、手にした昼食代わりのパンの袋をくしゃりと握り締めながら、城之内は未だ人の気配に気づきもしない彼の元へとゆっくりと歩んでいった。

 海馬瀬人。

 その顔や素性はよく知らない癖に、何かやけにひっかかると思ったら彼の名前だけはよく目にしていたのだ。城之内の大嫌いなテスト順位が表示された大きな紙に常にトップで、そして、校内新聞の片隅によく書かれる優秀な生徒が何の賞を受賞したとかいう、およそ自分には一切縁の無い記事に。それを見る度に城之内は「学校にもきやしねぇ癖に」と無駄に苛立っていたのだ。

 優等生。彼を称するならそんな単語が尤も相応しいだろう。だから、常には視界にも入らないこの男が嫌いなのだ。その呼称がつく人種は問答無用で気に入らない。外見や性格などどうでもいい。ただ、気に入らないのだ。

 ザリ、とコンクリートの上に転がる細かい石粒を踏みしめる音が響く。それにやっと自分以外の人間がその場にいる事を知った彼……海馬は、漸く目が痛くなるほど細かい文字がびっしりと書かれた本から顔を上げ、目の前に立ちはだかった城之内の顔を見た。

 丁度グラウンドを背にする形でフェンスに凭れ、城之内が眼前にいる所為で淡い影になってしまったが、それでも良く分かる白い頬に青の瞳。そういやこいつの顔って始めてちゃんと見る。そんな事を思いながら城之内は小さく息を吸い込むと、敵視している相手によく使うややドスの効いた低い声で口を開いた。

「何でここにいるんだよ、海馬瀬人」

 最初に話しかける言葉としては酷くおかしい、と自分でも思ったが、それ以外に話しかける言葉を持たなかった。大抵の人間はこの時点で萎縮するなり苛立ちを見せるなりなんらかの反応を示すはずなのに、目の前の海馬は僅かにも表情の変化を見せず、ただ城之内を見上げている。その事に更に理不尽な怒りを覚えながら、城之内は苛立たしげに次の言葉を探していた。その時だった。

「君は……ええと、誰だったかな」
「テメーと同じクラスの城之内克也。二年も一緒にいんだぞ。名前位覚えろよ」
「ああ、ごめん。クラスメイトの名前、全然分からないんだ」
「学校に来ねぇからだろうが」
「で、僕に何か用?城之内克也くん」
「別に用なんてねぇよ。そこを退け。その場所はオレの指定席だ」
「……屋上にも席があるとは知らなかったよ」
「うるせぇよ。滅多に来ねぇ癖に教室にさえ居つかねぇでこんな所にいるんじゃねぇ。大体お前、なんで学校来てんの?来ねぇんならやめちまえよ」
「君には関係のない事だろう?」
「てめーみたいなのはムカつくんだよ!」

 相変わらず表情の変化もないまま淡々と、さりとて無視するでもあしらうでもなく真っ直ぐに目を見返して答えを返してくる相手の態度に、城之内の苛立ちは嫌が応にもつのって行く。なんだコイツ、根暗なガリ勉野郎の癖に生意気だ。よく知りもしないで勝手な判断でそう思い込み、だから頭のいい奴は嫌いなんだと嫌悪感に拍車が掛かる。

 これ以上食って掛かってきやがったら、その横っ面に一発お見舞いしてやる。そんな不穏な気持ちにまでなりかけた、その時だった。それまで座り込んだ姿勢のまま微動だにせず城之内を見上げていた海馬だったが、荒げられたその声にパタリと本を閉じてしまうと、徐に立ち上がる。

 すっと言う静かな風の流れと共に、眼下の青い眼差しが上に行く。それは己の目線を通り越し上昇して留まった。彼の背は、城之内よりも大分高かったのだ。しかし身体はイメージ通りの『優等生』らしく酷く細く、同じ学生服を着ているのに全く違うものの様に目に映る。

「……なっ……」
「君は、僕の事が嫌いなんだ?よく、知りもしないのに?」

 それまで無表情だったその顔に、初めて感情の欠片がにじみ出る。その口元に笑みさえ浮かべながらそんな事を言う彼の目は、背後に広がる青空のように何処までも青く澄んでいる。綺麗な青色。けれど、どこか同じ人間のものではないような錯覚に陥る。こんなに負の感情を叩きつけているのに、相手はその全てをまるで吹き抜ける風のように全て受け流してしまっている。こんな事は始めてだった。

「てめぇ……」
「そうだね。僕も君のような人は嫌いだよ。自分の劣等感を全て他人のせいにして勝手に憎むような人間とは一生分かり合えない」
「!!」
「その右手で僕を殴る?殴ってみればいいさ。根暗な不登校学生に抵抗なんかできやしない。力で捻じ伏せて、思い知らせてやる。そう思ってるんだろう?」
「うるせぇ!!」

 留まる事を知らない表面だけは上品で流暢な台詞についに怒りも頂点に達した城之内は、握り締めた拳をやや上にある彼の頬めがけて振り上げた。数多の修羅場を潜り抜けてきた武器でもあるそれを避けられるものなど早々いない。何時の間にかただの怒りが憎しみに変わり、その全てを叩きつけてやろうとした、その刹那。

 鋭い衝撃音と共に、その拳は彼の白い掌に吸い込まれた。そして長く冷たい指が強くそれを握りこむ。顔は相変わらず淡い笑みを湛えたまま、立ち尽くしたその場から動きもせずに、海馬は右の掌だけで城之内の渾身の力を受け止めたのだ。

 風圧でふわりと薄茶色の前髪が揺れて止まる。
 見上げたその顔が、怖いくらい綺麗に……歪んだ。

「──── っ!!」

 刹那、城之内の身体は手首が捻られたと感じる間もなくガシャリと派手な音を立ててフェンスへと叩きつけられた。ずるりと地面に崩れ落ち、己を投げ飛ばしたらしい細く長い右腕の、その見かけからは到底想像できない腕力の強さに驚愕する。

 くつりと、少し離れてしまった距離から、嘲るような笑い声が聞こえる。

「見かけで人を判断するなんて簡単な事ではないと思うよ?城之内くん?」
「………っ、この野郎………」
「悔しそうだね。残念だった?僕が君が思う程脆弱ではなかった事が。生憎、僕も余り愉快な人生を送っているわけじゃないんでね。自分の身は、自分で守らないといけないんだ。だから……」
「………………」

 ゆっくりと、海馬の視線が彼が膝を折る仕種と共に下に下りてくる。既に笑みは消え、先程見せた感情の欠片も見出せないその顔が静かに眼前で留まった。ともすれば、吐息が触れてしまうほどの近い距離で。咄嗟に今度こそ殴り飛ばしてやろうと力を込めた手は、即座に海馬の両手で封じられる。この陽気に氷のように冷たいそれは城之内に痛覚よりも冷気を感じさせた。

 こいつ、こんな顔をしていて相当場数踏んでやがる……!そう思った時には、もう遅い。せめてもと、相手を射殺さんばかりに睨み付けた視線をやはり鷹揚に受け止めて、海馬はすっと唇を城之内の耳元に寄せると、それまでとはまるで違う声色で、鋭く言った。
 

「貴様みたいな人間は大嫌いだ。城之内克也」
 

 その言葉とは裏腹に、即座に離れ再び城之内に見せた顔には鮮やかな笑み。それきり、海馬は音も立てずに立ち上がり、そのまま屋上から姿を消した。残されたのは、彼が読んでいたタイトルすら読めない分厚い洋書。
 

「……一体、なんだったんだ、今の……」
 

 数秒後、まるで呪縛から解き放たれたみたいに、地面についたままだった両手を持ち上げて、城之内は呟いた。言葉通り、何が起こったのかわからなかったのだ。あの海馬が。無口で根暗で、頭はいいけれど不登校で、正体不明の……あの、男が。

 何時の間にかかいた冷や汗が一筋、城之内の背を伝う。押さえつけられていた両の手はその力の強さゆえか、未だ少しだけ痺れていた。その感覚と共に覚えた、重労働や喧嘩など一度も経験した事のないような柔らかな指先。けれど、ぞっとするほど冷たかった。

 なんだあれは。

 城之内は無意識にそう呟いて、指先を握り締めた。今まで対峙してきたどんな奴とも違う。ただ不気味で、不可思議な感覚。それらは海馬瀬人の名と共に城之内に余りにも鮮烈な印象を残してしまった。

 そして、更なる嫌悪感を植えつけた。それは思い込みではなく、本能で。
 

『貴様みたいな人間は大嫌いだ』
 

 脳裏に過ぎる。鼓膜に焼きつくような低い声。てめぇなんかこっちから願い下げだ。頭でっかちの根暗野郎が、ふざけんな。そう思いつくままに罵詈雑言を並べ立てるが、それが声としては出てこなかった。
 

 優等生海馬瀬人。
 

 この瞬間、城之内の中にあったその呼称は粉々に砕け散り、新たな呼び名を探して逡巡する。けれど、あらゆる驚愕に支配された思考では、それは叶わなかった。怒りとそれ以上の複雑な感情が混ざり合い上手く考えが纏まらない。

 俯いた視界に、置き去りにされたあの本が入り込む。思わず唾棄したい気持ちに駆られ、それを実行しようと顔を向けるが、ついぞする気にはなれなかった。

 緩やかに身を起こし、手を伸ばして拾いあげる。ずしりと重いその感覚。手の中のそれを痛い程きつく握り締めながら、城之内はゆるりと空を仰いだ。何処までも澄んだ青空を睨み上げ、小さな溜息を一つ吐く。

 そして、一言呟いた。
 

「オレも、てめぇなんか大嫌いだ」
 

 それから暫く、城之内の脳裏にはずっと大嫌いなその名前がこびりついていた。

 その憎しみにも似た気持ちは、後に彼自身にも到底理解できない感情へと変化していく事になるのだが、今はまだその片鱗すらも見出す事は出来なかった。
 

 午後の授業開始のチャイムが鳴る。

 日差しに温められ、暖かな風が酷く不快だった。