Act2 放課後の優等生

 ダンッ、と激しい衝突音がして、細身の身体が白い壁に激突した。

 衝撃で、掲示物の幾つかが床に音を立てて散乱するが、そんなものを気にする余裕はなかった。相手が体制を整える前に両手首を押さえ込み、痕が残る程きつく握り締める。不意を突かれなければ腕力は絶対に負けない。否、負けてなるものかとその突然の暴挙に出た城之内はギリギリと両手の力を強めていく。

 その様を、やられた側である彼……海馬瀬人は、身体を打ち付けた痛みに一瞬顔を歪めたものの直ぐにいつもの感情の読めない無表情に戻り、城之内を苛立たせるあの透明な眼差しでゆっくりと暴力に等しい行為を働いた男の顔を見つめていた。

「……痛いよ」
「うるせぇ」
「そんなに力を込めなくても、僕には君を攻撃する意思はない」
「うるせぇって言ってんだろ!馬鹿にしやがって」

 「何故」でも「どうして」でも「やめろ」でもなく、ただ単純に手首を締め上げられる痛みに対して無感動にそう呟く唇は酷く赤い。体制の所為でやけに近いそこから紡がれる声と、微かな呼吸に何処か違和感を感じながらも、城之内は彼を拘束する手を解くつもりはなかった。けれどこれから先何を口にし、彼をどうするかまでは決めていなかった。
 

 ただ、衝動を。

 この男をどんな形でもいいから己のいる場所まで引きずりこんでやりたい衝動を覚えたのだ。
 

 どうしてこんなに腹立たしいのか、その理由はよく分からない。理由もなしに人を傷つける事の理不尽さなどよく分かっている。けれど城之内自身、自らの実父によって幼い頃から酒により制御できない暴力を受け続けてきたのだ。何の落ち度もない子供に繰り返されたそれは、何時しか城之内の正義を腐らせ、自暴自棄へと走らせた。結果、何もかもが酷く淀んだ混沌の中に佇んでいる彼がいる。

 愛情・信頼・正義、かつては信じていたそれらは最早彼の中ではただの残骸として埋もれていた。今は全てが煩わしく、鬱陶しい。日々溜まって行く鬱憤は些細な喧嘩では掻き消す事が出来ずに濁った層となって心の奥底に積もっていく。その重く淀んだ汚い感情を吐き出せるものが欲しかった。
 

 そこに偶然現れたのが、この『海馬瀬人』だったのだ。
 

 ギリ、とより一層手首を掴む指先の力を強める。細い、と思う。このまま力を入れ続けたら握りつぶせてしまうのではないだろうか。入れた力を考えるに相当な痛みを感じているはずなのに、やはり目前の顔は涼やかだ。その顔がこの苛立ちを増長させているというのに、そんな事など知った事かといわんばかりに彼は口元に笑みさえ刷いて、緩やかに言葉を紡いだ。

「……また、勝手な思い込みで人を憎んでいるんだね。今度は僕の何が君の気に障ったの?」
「取り澄ました顔しやがって。この間のアレを忘れたわけじゃねぇだろ?」
「……なんの事?」
「数日前の屋上で……てめぇ、オレを投げ飛ばしただろ」
「ああ、そんな事、すっかり忘れてたよ。まだ、覚えてたんだ?君、結構記憶力がいいんだね」
「っふざけやがって!」
「それで?今度は僕に仕返しをしたいと、そういう訳?」
「……別に、そんなつもりはねぇよ」
「つもりがないなら手を離してくれないかな。結構痛いんだ」
「その気持ち悪い喋り方やめろよ。この間はそんなんじゃなかっただろ」
「これが僕だよ」
「嘘吐け。最後のあの台詞。あれがてめーの本性だろうが。猫被るのもいい加減にしろよ」
「どうして、それが僕の本性だと分かる?一度や二度話した位で何が真実かなんて分からないじゃないか」
「………………」
「仮に今のこの姿が君の言う『猫を被っている』んだとすれば……本当の僕はどんな僕なんだろうね」
「だから、それを見せてみろって言ってんだよ」
「どうして君に見せなくてはいけないんだ。君の好奇心を満足させる義理など僕にはない」
「それは」
「大体どうしても見たいというのなら、見せろという前に自分で引きずりだしてみればいいじゃないか」
「何?」
「自然と出てしまうものに対しては、どうしようもないからね」

 くくっ、と喉奥で笑い、この状況を全く理解していないのか、どこまでも余裕を持って海馬は城之内を見つめている。……気持ちが悪い、心底そう思う。得体が知れないという事がこんなにも不気味なものだとは思わなかった。静かに瞬きを繰り返す青い瞳が、城之内の顔を映して揺れている。

 何処かで下校時刻を告げるチャイムの音が響く。
 夕日は既に地平線ギリギリまで落ちていて、教室に濃い影を落としていた。
 

 放課後の教室で二人きり。

 息が詰まるような静寂が、至近距離で見詰め合う彼等を緊張感と共に包んでいた。
 

 
 

「海馬くん?……うーん、良く知らないけど……なんかいつも車で送り迎えされてるみたいだから……」
「そうそう。黒塗りの高級車!ありゃ相当の金持ちだね。どこのお坊ちゃまだよ。持ってるものもすげぇぜ。オレブランドとかよく分かんねぇけどよ」
「学校に来ないのは何か理由があるみたいだけど。勉強が嫌いとか、クラスに馴染めないとか、そういうんじゃないみたいね。イジメとかも聞かないし」
「人当たりは凄くいいみたいだよ。女の子には人気があるしね。え?城之内くん、知らなかったの?」

 屋上の一件があった次の日、それからずっと海馬の事が気になっていた城之内はそれとなく周囲の友人に海馬の事を聞いてみた。するとどの人間を当たっても、彼に対する評価はおおむね良好で悪い噂など微塵も聞こえてこない。それを一つ一つ耳にしていく内に、城之内の中での彼の心象は悪い方へ悪い方へと傾いていった。聞けば聞くほど、自分が尤も嫌悪する人間像に近づいていくからだ。

 金持ちで頭が良く、何一つ苦労も不自由もない完璧なお坊ちゃま。学校の登校ですら己の気が向いた時に自由に行っているんだとすれば、相当に許し難い話だ。学費の為、生活の為に必死にバイトバイトで寝る暇もない自分からすればその優雅さは犯罪だとすら思う。

 何もかもが違いすぎる。どうにもならないその差を彼にぶつけるのはお門違いだと分かってはいても、城之内は彼に大きな怒りを感じた。

 屋上でのあの屈辱を言い訳にして、より強く、憎んだのだ。

 今度顔を合わせたら、三倍にして返してやる。密かにそう思いながら、彼は自らもちかけたのにも関わらず、周囲の人間が口にする海馬の話をこれ以上聞きたくないと遮断した。

 これほど強く、一人の人間にこだわりをみせたのは、その実初めての事だった。
 

 
 

「……気にいらねぇんだよ。お前の存在が」

 怒りの為に低く掠れてしまったその声が、夕闇に沈む室内に木霊する。それに特に驚きもせずに、ただ静かに耳を傾けている様に更なる苛立ちを掻き立てられる。本人にはそのつもりがなくても、澄んだ青の眼差しは己を密かに見下しているようにも見えた。

 殺気さえ込めた己の眼差しを僅かの苦もなく受け流して、ただ悠然とそこに在る身体。城之内が嫌と言うほど経験した、人生における苦しみや痛みやあらゆる不幸の一欠片も整ったその顔からは感じられない。その身体とて、同じ様なものなのだろう。何もかもを手に入れている金持ちとはそういうものだ。全て城之内の想像の範疇だったが、外見で判断せざるを得ないこの状況では仕方のない事だった。

 この世の中の不幸や理不尽さや憎悪や汚さ、どろどろとした汚泥にも似たそれに塗れた自分と同じ思いを味合わせてやりたい。

 そう彼が強く思った、その時だった。

 とん、と壁に頭を預ける形で、海馬が一旦身体の力を抜いて目を閉じる。そして小さな吐息を一つ付き数秒ほど沈黙すると、ゆっくりと……それこそスローモーションにも見える動きで顔を上げ、緩やかに目を開いた。

 瞬間、先程とはガラリと印象を変えた冷たい眼差しと凍えた表情がそこにはあった。
 窓から差し込む赤紫の光が反射して、青い瞳が鈍く光る。
 

「世の中で自分が一番不幸だ。……そんな腐った考えは改めるんだな城之内」
 

 あの屋上の時と同じ、聞くものの身を一瞬にして凍らせるような、冷たい声が耳に届く。同時に僅かに上がる口角に、城之内は『彼の本性』が首を擡げた事を知る。引きずり出せばいいと大口を叩いていたものの、こんなに簡単に現れるようじゃたかが知れている。そう思い、口元に嘲笑を浮かべつつ、瞬時に沸いた暴力的な衝動のまま、手首を掴んでいた片手を離すとその頬を殴りつけた。

 鋭い衝撃音と共にその顔が大きく傾ぐ。白い頬が見る間に朱に染まり、口元から血が滲んだ。それでも、彼の笑みは消える事がない。以前のように反撃が来るかと身構えたが、それもなかった。

「痛ぇ?こんな事されるの、始めてだろ?」
「………………」
「始めてついでに、もっとすげぇ事してやろうか。てめーが嘲笑ってる世界をその身体で持って体験させてやるぜ。なぁ?優等生の海馬くん?」
「………………」
「腐ってるのはオレじゃねぇ。お前等の様な人生舐めきったふざけた野郎共だ。金さえ払えば全て解決できると思って札束ちらつかせて、それじゃあ心象が悪いから?貧乏人を気の毒がって偽善者ぶる馬鹿を見てると腹が立つんだよ。お前もどうせそのクチだろうが。これ見よがしに高級車でご登校?学校は金持ちの道楽で来るとこじゃねぇんだ。さっさと消えちまえ!!」

 未だ殴られた状態のままうつむいているその顔に唾でも吐きかけてやりたい気分だった。理不尽な暴力を振るっている筈なのに、そこに罪悪感は微塵もなく、それどころか忘れかけていた正義という言葉が胸に過ぎる。

 その言葉の本来の意味と今の城之内が掲げるそれとはまるきり正反対のものだったが、そんな事はどうでも良かった。沸々とした、言いようのない感情が湧き上がる。今彼をどうこうしたところで何かが変わるわけでもないのに。何故かそうせずにはいられなかった。

 長い沈黙が二人を包む。その間、反論は愚か反応すらしない海馬にいい加減城之内が焦れ始めたその時だった。

 突然、小さな笑いが部屋の空気を振るわせる。肩を揺らし、さも可笑しいと言わんばかりに、ただひたすら笑い続けたのは、頬を酷く腫らした海馬だった。彼は訪れた笑いの衝動に暫くの間身を任せた後徐にそれを収め、ゆるりと顔を元に戻す。切れた口の端から流れた血は顎を伝い、ぽたりぽたりと床に落ちる。けれどそれを一切気にせずに、やはり彼は笑って見せたのだ。

 不気味なほど綺麗な……しかし、酷く歪んだ……その顔で。

「痛いかだって?こんなものは痛みのうちに入らない」
「!嘘吐けよ!」
「この間も言っただろう。オレは愉快な人生は送っていない、と。それに、外見だけで判断できるほど人は甘くはないとも」
「……だからなんだよ!」
「貴様は体験したことがあるか?家畜のように鎖で繋がれ鞭で皮膚を裂かれる衝撃を。火を直接肌でもみ消される熱さを。男なのに女の様に弄ばれ、その様を高らかに嘲笑われる屈辱を」

 未だ血を流す唇からすらすらと淀みなく吐き出される言葉は全て現実感のないものばかり。想像すら難しいその世界をまるで面白い話をするかの様に雄弁に語るその声は、微かに掠れて震えていた。

「──── っ!……嘘、だろ?でたらめ言ってんじゃねぇよ」
「全て真実だ。だが、貴様がそう思うのならそれでもいい」
「………………」
「ただ、もう一度だけ言っておく。思い込みだけで人を判断するな。別にオレは誰にどう思われていても構わんが、無駄な悪意は鬱陶しい。そんなものはもう沢山だ」
「……だから、猫かぶってんのかよ……」
「それは違う。どちらもオレだ。何の偽りもない。ただ、使い分けが出来るだけだ」

 そこで始めて彼は口元の血を拭い、手の甲についたそれを舌で舐め取る。そしてその手を緩やかに下に下ろすと、何時の間にか圧倒されただ呆然とその姿を見ているだけとなった城之内に一歩近づき、徐に顔を寄せた。そして。

 薄く開き、呼吸を逃していた唇をやんわりと塞いだのだ。

「──── っ!」

 瞬間、城之内の口内にほぼ血の味しかしない海馬の唾液が流れ込む。むせ返るような鉄の匂いに吐き気を覚え、慌てて目の前の身体を突き飛ばした。再び鈍い音が教室内に響き渡る。けれどやはり、返って来たのは余裕すら見せる微笑だった。

「城之内くん」

 つい、と唇を拭い、声色を元に戻した海馬が、城之内の名を紡ぐ。それに返事すら返せずにただ呆然とその顔を見返すだけのその瞳を一瞥すると、彼は表情を変えずにこう言った。
 

「僕も、金持ちは嫌いだよ。その点は気が合うね」
 

 その言葉に大きく瞠目した城之内に、最後にくすりと笑って見せると、海馬はもう何も言わずに鞄を手にし、教室を後にする。遠ざかる足音を聞きながら、震える指で唇に触れると、そこには赤い血がついていた。勿論それは己のものではなく、海馬の口の端から滲んだものだった。

 慌ててそれを拭い思い出したように口内に広がる嫌な味に、急いで駆け出した彼は水のみ場に直行し、蛇口から勢い良く水を含み、吐き出す事を繰り返す。何度漱いでも拭えないその味が不快だった。気付けば顔すら水浸しで、濡れた前髪からぽたぽたと雫が垂れていた。

 何をやっているんだオレは。何をやったんだ……オレは。
 暗闇に沈む廊下に、声なき声が吸い込まれる。
 

 それから暫く、口内の血の味は消える事がなかった。
 

 あの、鋭い眼差しや声と共に、城之内の中に残り続けたのだ。