Act3 深夜の優等生

 その光景を見た瞬間、城之内は一瞬目を疑った。

 余りにも見慣れた男が、余りにも不似合いな場所で、信じられない行為をしていたからだ。まさかあいつが、いや、そんな事はない。見間違いだ。必死に否定する頭とは裏腹に僅かにも反らせない目が伝えてくる視覚情報は時間が長引けば長引くほど、振り払いたい仮定が事実に変わっていく。

 煌く七色のネオンに彩られる淡い髪。気味が悪いほど白い頬、細長い手足。そして……一度間近で見たら記憶の底に焼き付けられてしまうような青い瞳。

 深夜の繁華街の裏道で、高級そうなスーツに身を包んだ壮年の男と、熱烈に抱きあい、淫猥な行為をしている若い男。
 

 それはどこからどう見てもあの海馬瀬人、そのものだったのだ。
 

 ── 嘘だろ?
 

 ドサリと、持っていたゴミ袋をその場に落とし、城之内は薄暗がりの中に立ち尽くす。一服しようと右手に挟んだ煙草の存在すら忘れ、ただひたすら身を強張らせた。

「……っう……ぁ……は…っ……」

 微かに聞こえる、吐息とも喘ぎとも付かない掠れ声は、確かに耳に馴染んだものだ。持つものがなくなった指先は握られてうっすらと汗をかいている。何時の間にか地面に落ちてしまった煙草を拾う気にもなれず、城之内は震える吐息を一つ付き、落ち着こうと努力するがそれは全て無駄だった。見てはいけないものを見た、早くここから立ち去らなければ、そうは思っても足は衝撃に竦んで動かない。

 その光景そのものを見る事に対しては何の躊躇も驚きもなかった。城之内の深夜のバイト先でもあるこの場所は、主に飲み屋がはびこる繁華街の裏通りで、更に一本奥に行けば歓楽街へと抜けられる。

 夜ともなれば酔った男女がふらつく足取りでずらりと居並ぶホテルへの道すがら、待ちきれなくなりそこいらで始める事も多かったからだ。今更セックスは勿論レイプの一つ二つで驚くほど繊細ではない。問題なのは、それを目の前でしている人間にあったのだ。

 城之内が注視する彼らの他にも数人似たようなカップルが妙な声を上げて壁際に寄りかかったり、地べたに寝転んで互いの身体を探りあっている。そんな光景の一つをあの男が作り上げていると思うと、嫌悪以上に寒気を感じた。混乱する脳内には「何故」の二文字がぐるぐる廻り、眩暈がしそうだ。

 何、やってんだよこんな所で。優等生で、金持ちのお坊ちゃま……海馬瀬人が。

 男の肩に縋るように腕を回し、声を抑える為か自らの手で口を塞いで相手の動きに翻弄されるように揺れている、苦痛とも快楽とも付かない歪んだ顔を凝視しながら、城之内は心中でそう問いかける。

 どれ位長い時間そうしていただろうか。

 城之内の視界の中で、漸く大きく息をついた二人は、互いの身体を緩やかに離し、何か小声で話をしているようだった。海馬が男の耳元に何かを囁くと、くい、と眼前の口角が上がり、微かに頷く仕草を見せる。そして男はまるでいとおしむ様に海馬の頭部を抱いて、最後に深い口付けを一つ落す。呼吸をも奪うような口付けは、距離があるここまで舌が絡み合うあの粘着質な音が聞こえてしまいそうなほど激しかった。

 城之内はそこで漸く視線を反らす事に成功する。何時の間にかガクガクと震える己の膝が滑稽で、同時に至極腹が立った。大きく息を付き、呼吸を整えて理由の分からない震えが収まるのを待つ。

 なんだか吐き気がする。気持ちが悪い。気を落ち着かせなければ。忘れなければ。

 そう思えば思う程、今の光景が脳内で鮮やかにリピートし、より明確に記憶される。思わず頭を激しく振ってそれらを強く振り払うと、持ち場に戻るためにゴミを捨てて、落ちた煙草を拾おうとした、その時だった。

 城之内より一瞬早く、薄汚れたコンクリートの上に落ちた煙草を拾いあげる指があった。

 その細く白い指先には……見覚えがあった。
 

「──── っ!!」

「こんばんは、城之内くん。こんな所で会うなんて奇遇だね?」
 

 その口元に何時ものように笑みを浮かべながら煙草を手に微笑んだのは、やはりあの、海馬瀬人だった。
「……海馬……」
「嫌だな、幽霊を見たみたいな顔をして。高校生の君がここにいるのなら、僕がいたって不思議じゃないだろう?君は何?アルバイト?」
「……てめぇには関係ねぇだろ。そっちこそ、何でこんなところにいるんだよ。金持ちの坊ちゃんがいるようなとこじゃねぇだろうが」
「僕?僕もそう……仕事、かな」
「仕事?!はっ、その年で風俗かなんかやってんのかよ?そこいらの犬猫みてぇに路上で盛りやがって……!」
「見てたんだ。多分そうじゃないかな、とは思ったけれど」
「見てたんだ、じゃねぇよ。頭おかしいんじゃねぇのか?!しかも相手はオヤジかよ。てめぇホモかなんかか。気色悪ぃ、寄るんじゃねぇよ!」
「…………!」

 先程までリアルに情事を目の当たりにしていた、その当人が眼前にいる事実に、城之内は焦る心も相まって酷く棘のある言葉を投げつけてしまう。瞬間、海馬の顔が微かに歪んだ。今までどんな台詞も、暴力でさえまるで応える様子もなく鷹揚に受け止めていた彼が。

「………………」

 一瞬にして城之内の頭が冷える。けれど、吐き出した言葉を取り戻す事など出来ない。二人の間に落ちてきた重い沈黙が、吹き付ける冷たい冷気と共に身体の芯まで冷やしていく気がした。

 閉ざされた唇と共に俯いてしまった白い顔がぼんやりと闇に浮かぶ。軽く瞬きをしたその顔の印象が僅かに変わる。それは、合図だった。彼が『彼』に変わる瞬間の。

 しかし、緩やかに上げられた顔には変化がなかった。ただ、眼差しが。どこか透明な色を湛えていたあの瞳が、はっきりとした意思のある光を宿す。

 城之内の心臓が、ドキリと鳴った。それはどういう意味の鼓動なのか、彼自身よく分からなかった。
 

「……オレとて……好きでしているわけではない」
 

 次に海馬の唇から零れ落ちた言葉に、城之内の鼓動は更に早まる。場所が違うからだろうか、時刻が違うからだろうか。深夜の暗闇の中に佇むその姿や声は、今まで苛立ちしか感じなかった城之内の感情を酷く揺さぶる。

「す、好きでしてんじゃねぇならやらなきゃいいだろ。てめ、ただの馬鹿か」
「貴様に馬鹿と言われるのは心外だな。何も知らない癖に」
「当たり前だろうが、てめぇの事なんかどうだっていいんだよ。ああ、なるほど、夜にこんな事してりゃーそりゃ学校に来れないよな。優等生が聞いて呆れるぜ」
「優等生?……オレが?」
「周りの人間は皆そう思ってるぜ。頭脳明晰、容姿端麗、財産豊富!オレの一番嫌いなタイプだ」
「ああ、だから貴様はオレを嫌うのか」
「……うるせぇな。関係ねぇだろ。煙草返せよ」
「こんなものを吸っているから脳に血液がいかなくなるのだ」
「っ!殴られてぇのか」
「今夜は勘弁してもらいたい。流石に疲れている」
「………………」

 何時の間にか常と同じ調子に戻った海馬に、どこかほっとしたものを感じ、同時に何故オレがこんな奴の事を気にするんだと自問が入る。眼前で微かに微笑み城之内の煙草を手にした海馬は、不意にポケットに手を入れると高級そうなシルバーのライターを取り出して火をつけた。そして緩やかに口に挟み込み、ゆっくりと吸いあげる。

「……煙草、やんのかよ」
「いや?この匂いは大嫌いだ。吐き気がする」
「……じゃあ、なんで。ライターもってんじゃねぇか」
「自分で使うとは限らないだろう」
「…………ああ」

 それは暗に、先程のような『相手』をほのめかしているのだろう。目の前の顔が、歪んで揺れている様をこんな時に思い出し、思わず頬が熱くなる。馬鹿じゃねぇのか、相手は野郎だぞ。しかも大嫌いな。そんな自分の内なる声が聞こえても、身体的な変化はどうにもならない。

「返せよ」
「何、間接キスでもしたいのか」
「ばっ……んなわけねぇだろ!変態と一緒にすんな!」
「この間は大人しかったが」
「ふざけんな!あれは、不意を付かれたから……っ!」

 そう城之内が、海馬に噛みつくように叫んだその時だった。きつい煙草の香りと共に柔らかな唇が城之内の叫びごと彼の口を塞ぐ。今度はなんの味もしないただのキス。触れ合わされただけのそれは直ぐに離れて、同時に落とされた煙草の火は海馬の靴底でもみ消された。

 思わず前回同様、目の前の身体を弾こうとして、すい、と身をかわされる。一瞬靡いた首筋の髪の陰には、明らかに鬱血の痕と分かる赤い痣があった。

「!……てめえっ!またっ!」
「貴様は案外ガードが甘いな。それで喧嘩慣れしていると豪語するとは片腹痛い」
「うるせぇ!マジぶん殴る!」
「早く仕事に戻れ、バイト中なのだろうが」
「てめぇこそこんな所でふらふらしてねーで家に帰れ!」
「今日は帰らない。これからホテルだからな。先程の『彼』が待っている」
「………………」

 言いながら顎で歓楽街の方を指し示し、艶然と微笑んで見せた海馬は、それきり何も言わず背を向けた。そして数歩歩いた後、まるで独り言のようにこう言った。
 

「ああ、そうだ。城之内くん。言っておくけど、僕は『風俗』の仕事はしていないよ。たまには新聞を読んでみるといい。君には縁がないだろう経済面をね」
 

 何を、と聞く前にその姿は華やかなネオンの中へと消えていく。またやられた。城之内は我に返ってそう歯噛みしながらも、それでも以前のように強い怒りや嫌悪は余り沸かなかった。ただ自分自身説明の付かない不可思議な感情が胸中に渦巻いている。

 不意に、遠くから店のオーナーが名を呼びつける声が聞こえた。それに慌ててゴミを指定地に放り投げ、店に戻るべく踵を返す。

 ふと、一瞬立ち止まり背後を何気なく振り返ったが、そこには変わらずネオンが煌くだけだった。
 翌朝、城之内は配達された新聞をいの一番にひったくり、彼の言う通り今まで一度も見たことがなかった経済面に目を通し、昨夜以上に驚愕に目を見開いた。

 そこには見慣れた『彼』の名前と共に、想像も付かない肩書きが添えてあったのだ。
 

 ── 総合アミューズメント企業海馬コーポレーション社長 海馬瀬人。
 

「若き、高校生社長……?」
 

 思わずぽつりと呟いた自身の声に、城之内は己の顔が酷く歪むのを感じていた。