Act4 平日の優等生

「その場所はオレの指定席だっつってんだろ。座るなよ」
「早いもの勝ちだろう?君が来るのが遅いんだよ」
「授業抜け出してる奴に言われたかねぇ。出ろよ、体育」
「必要ないね」
「それはてめぇが決めるもんじゃねぇだろうが。てめぇ、体育1だろ」
「お生憎様。体育も5だよ。運動神経はいい方なんだ」
「……どうだっていいけどよ。そこを退け」
「邪魔なら退かせばいい。持ち上げてね」
「嫌だね」
「じゃあ諦めて隣に座れば?……痛いなぁ。蹴る事ないじゃないか」
「うるせぇ。いい加減その喋り方やめろ」
「僕の勝手だろう?」

 その日も朝から気持ちのいい位晴れ渡った少し暑い陽気の日だった。

 常と同じ様に簡素な昼食を抱えて屋上に来た城之内は、再び奪われていた己の特等席に居座る海馬になんの躊躇もなく近づいて、その身体を蹴り上げた。そんな彼に海馬は、こちらもいつも通り読んでいたらしいタイトルすら分からない本を手にしたまま、あの透明な眼差しで城之内を見あげる。

 こうしていると初めてこの場で顔を合わせた時のようで、城之内は一瞬デジャヴを覚える。それは相手も同じだったらしく、海馬は少し表情を和らげると「なんか、覚えがある光景だね」と言って、くすりと小さな笑みを零した。

「体育は無理なんだ。見える場所に痕があるから、皆の前で着替える事、出来ないしね」
「!………………」
「今度から使う場所を考えないといけないな。そうそう君に見られるわけにもいかないし」

 海馬を蹴り上げた事で満足した城之内は、そのまま少しだけ距離をとって彼の隣へ身を落ち着け、フェンスに背を預けつつ立ち尽くす。なんとなく、海馬と同じ目線で話をしたくはなかった。あくまでも憎い相手を見下していたい。城之内のそんな些細な反発心に気づいたのかどうかは分からないが、海馬は特にその事には何も言わず、会話の続きを口にした。

 その内容に、城之内の眉がきつく寄る。それは暗にあの夜の事を指しているからだ。

 話題に乗ってはいけないと思いつつ、首を擡げる好奇心には勝てずに城之内はつい口を開いてしまう。

「……ああいう事しょっ中やってんのか?」
「君の言うしょっ中の頻度が分からないけれど……必要があればね」
「そういや社長なんだってな。海馬コーポレーションって言やぁ、大企業じゃねぇか。てめぇみたいなガキが社長とか予想外もいいとこだぜ。……学校に来ねぇのもその所為かよ?」
「ああ、見たんだ、新聞」
「社長なら学校来る必要ねぇだろ。なんで高校生やってんの。すげぇ目障りなんだけど」
「別に社長だからって学校に来ちゃいけないって事はないだろう?」
「昼間は仕事で夜はアレで……時間ねぇだろうが。つーか社長ってのはてめぇの身体でオヤジに奉仕して接待?すんのかよ。最悪だな。親の顔が見てみたいぜ。そういや、てめぇ、親は?」
「親?いないよ」
「いない?」
「ああ、いない。僕には……親なんていない」

 不意に、二人を強く照らしていた真昼の太陽が雲に隠れた。急に翳ったその空に呼応する様に海馬の顔も僅かに陰り、視線が城之内から逸らされる。明らかに変化したその様子に、城之内は今の台詞は口にしてはいけない類のものだった事を理解する。しかし、気に食わない相手に気を使うのも癪な気がして、今の言葉を撤回する事も、話題を変える事もせずにただ、沈黙した。

「母親は大分前に死んでしまったし、父親は……僕が、殺したから」
「は?殺す?」
「そう。僕が、殺した」
「…………また嘘かよ」
「僕は今まで嘘を吐いた事はないよ。信じる信じないは……君の自由だけど」
「………………」

 余りにも衝撃的なその台詞に、城之内は暫し声を失った。海馬の顔からは何時の間にか笑みが消え、酷く真剣な眼差しが眼下から真っ直ぐに射抜いてくる。軽く瞬きを繰り返すそれは何時の間にか色が変わっていた。

 そして、再び顔を出した太陽の光を受けて、強く輝く。

 その瞬間、城之内は彼が『彼』に変わった事を知った。

「親殺しの悪魔。そう、周囲の人間からは陰口を叩かれている。それが現実だ」
「マジなのかよ」
「言っただろう。それは貴様の受け取り方次第だ」
「この間もアレもマジか」
「アレとはどれの事だ」
「その……鎖……とか、鞭、とか」
「ほう、貴様意外に記憶力がいいな。……証拠として体中に痕があるが。見るか?」
「!!べっ……別に見たくねぇよそんなもの!近寄んな!」
「威勢の割に、案外臆病なのだな」
「臆病とかそう言うんじゃねぇから!てめーがおかしいんだろうが!」

 さもおかしそうに肩を揺らしながら笑う眼下の顔を、これまでと同じ様にやはり呆然と眺めながら、城之内はどこか歪んだその笑い顔から目が放せなかった。何時の間にか持っていた本を手放し、上体をやや城之内側に傾けて、上目遣いに見上げてくる青い瞳。緩い弧を描く唇は不自然に赤い。

 それに気づいた瞬間、城之内の鼓動はまた高まる。……なんだこれは、気持ち悪い。そう思い、ほんの僅かに後ずさった。そんな彼の様子を直ぐに気づいた海馬はやはり楽しそうに喉奥で笑うと、姿勢を元に戻して本を拾う。そして表紙についた僅かな砂埃を軽く払った。

 それに緊張を孕んだ空気が、少し緩む。その事に何故かほっと胸を撫で下ろす自分を忌々しく思い、城之内は気持ちを落ち着かせるために大きな溜息を一つ吐いた。温い風が、再び沈黙した二人の間を吹き抜けて行く。

「……なんで、オレにそんな事をベラベラ喋るんだよ。今の話が全部本当ならてめ、殺人犯じゃねぇか。この間のあれは淫行罪かなんかだろ」
「何故だろうな。貴様がオレを嫌いで、オレも貴様が嫌いだからだ」
「なんだそれ」
「オレは、オレを好きだという人間を信用しない。好意や愛などという単語は、大抵はなんらかの下心がある薄汚い言葉の一つだからだ」
「……薄汚ねぇって……」
「熱っぽい声でその言葉を囁く人間は、笑顔でえげつない事をしてくるものだ」
「………………」
「その点貴様は裏が無くていい。分かりやすいしな」
「馬鹿にするんじゃねぇよ。誰が!」
「褒めているんだが」
「うるせぇ!」

 高鳴る動悸と、それに呼応する感情の昂ぶりに自身でも自制がきかなくなった城之内は、それを払拭するが如く右腕を振りかぶる。間髪入れずに振り下ろしたそれは、またも敢え無く海馬の白い掌に衝撃音と共に吸い込まれた。握りこんでくる指先はやはり酷く冷たかった。

「殴らせろ!」
「貴様に殴られる謂れはない」
「てめ、前々から自分で殴ってみろとか言ってたじゃねぇか!」
「今日はそんな気分ではない」
「気分で決めんな!!ちくしょう、マジむかつく!!」
「そんなに近づいていいのか?また、キスされるかもしれないぞ?」
「はぁ?!」
「それともして欲しいのか」
「死ねよてめぇ!手を離せ!!」

 手を捕らえられた所為で至近距離に近づいた顔に相手の暖かな吐息が触れてぞくりと背に悪寒が走る。慌てて渾身の力で手を振り解き、そのまま思い切り眼前の身体を弾き飛ばすと、城之内はフェンスからも離れて海馬と距離を取った。その様子に海馬の笑みがまた深まる。

「何も逃げなくてもいいだろうが」
「オレは変態じゃねぇって言ってんだろ!」
「オレとて変態ではない」
「男にヤられて喘いでる野郎の何処が変態じゃねぇって言うんだよ!言われたくなかったらそういうのやめろ!好きでやってんじゃねぇんだろうが!」
「……何故、貴様がそんな事を言う。関係ないだろうが。自分でオレの事など興味が無いと言っていた癖に」
「……うっ、そ、そりゃ……そうだけどよ」
「仕事だと思えばある程度は割り切れる。仕方の無い事など、この世の中に幾らでも転がっているだろうが」
「………………」

 それまでとはガラリと違った、僅かにも笑いや冗談の類を含まない真剣なその声に、城之内は二の句が告げずに黙り込んでしまう。少しずつ、彼の事が分かるにつれてふざけた野郎だと嫌悪しか感じなかった感情が、ほんの僅かだが別なものに変化しつつあった。勿論今でも腹が立つし、憎らしいし、気味が悪い。得体の知れなさが不気味だとすら思う。けれど、それだけではないような気がした。

 気がした、だけだったが。
 

「あ、予鈴が鳴ったよ城之内くん。そろそろ昼休みが終わってしまうね。次は美術だったっけ?」
 

 不意に遠くから聞こえる耳慣れた音に、雰囲気が元に戻った海馬が、立ち上がりながら笑顔を見せる。そして至極あっさり城之内に背を向け、「先に行くよ」と言って歩き出した。体重を感じさせない、酷く軽い足取りで。風が、柔らかな髪を靡かせ、寸分の乱れも無い制服の裾を軽く揺らす。その姿をなんとはなしに見送っていた城之内の目の前で、彼は一瞬立ち止まり、呟いた。
 

「僕にはね、親はいないけれど、弟が一人いるんだ。凄く凄く大事でね。彼を守るためならばどんな汚い事だってやってみせる。そう、思ってるんだよ」
 

 だから、男に抱かれる事なんて大した事じゃない。まあ、君にはこれも嘘に聞こえるんだろうけどね。
 

 風の流れと共に小さく聞こえたその声は、それでも掻き消える事はなく、城之内の脳裏に焼きつくように残された。

 暫くして、本鈴の大きな音が鳴り響く。
 

 それでも城之内は、その場から暫く動けなかった。