Act5 素顔の優等生

 自分とこの男は何か運命のようなもので結ばれているのではないかと、その瞬間さすがに城之内は瞠目した。
 

 ぽたぽたと前髪から落ちる雫を忌々しげにかき上げようとすると、すっと目の前にタオルが差し出される。余りにも白くて柔らかそうで、一目見ただけで高級と分かるそれに手を付ける事を躊躇っていると、ばさりと頭から被せられた。頬に触れたそれは、想像通り至極気持ちが良かった。

 「拭いてやろうか」というご親切痛み入る言葉を「うるせぇ」の言葉と共に撥ね付けて、城之内は吹っ切れたように手渡されたそれでガシガシと頭をかき回す。そのタオルの隙間から見えるのは、普段よりも少し軽装の海馬瀬人だった。

「……ここ、本当にてめぇん家だったのか。ありえねぇな」
「それはオレの台詞だ。まさか貴様がここに来るとはな」
「家では猫被らねぇのかよ」
「貴様は家でも畏まった佇まいをしているのか」
「しねぇけど……」
「なら、その質問自体愚問だとは思わないか」
「………………」

 腕を組み偉そうに人を見下して、フンと小さく鼻で笑うその姿をいつも通り殴りつけてやりたいと思ったが、背後に家人が控えているこの状況で実行するのは難しく、城之内は乱雑にタオルを投げ返すだけで我慢をした。それを勿論難なく受け止めて、海馬はその使用済みのタオルを渡しがてら物言わずに状況を見守っていた使用人らしき男女に向かって「もういい、下がれ」と口にした。すると彼等は即座に頭を下げて退出していく。

 その一連の出来事は、城之内の思う『鼻持ちなら無い金持ち』像そのままだった。
 

 
 

 城之内が海馬邸を訪れる事になったのは、本当に偶然の出来事だった。

 この日は昼間から突然降り出した大雨により、町全体が薄暗く陰気な雰囲気だった。こんな日は寄り道などしないでさっさと帰るに限ると、傘さえ持たずに濡れ鼠のまま、城之内はひたすら通い慣れた道を進んでいた。

 その最中に、妙な光景に出会ってしまったのだ。それが、この数奇な出来事に繋がっている。
 

「てめぇら、何やってんだ!」
 

 丁度自宅まであと少しという所の大通りの裏側で、一人の少年が複数の男に囲まれて何やら揉めている現場に遭遇した。それだけでも十分異様な光景だったが、それ以上に異様だと思ったのはその男達が黒のスーツにサングラス着用というまるで映画のような様相だった事だ。

 ……なんかヤバそうだ。そう思い、その直感に追い討ちをかけるように耳に届いた少年の怯えるような叫び声に、思わず身体が反応してしまった城之内は、男達が城之内を意識する前に至極鮮やかな手練でその場に伸してしまった。その中の一人が地面に付した際、水溜りの中に転がり落ちた拳銃にぞっとはしたものの、とりあえず事無きを得たのだ。
 

「おい、大丈夫か、お前。怪我はねぇか?」
「う……うん。ありがとう」
「なんだよこいつら、まさか知り合いって事はないよな」
「まさか!全然知らない奴等だよ!……なんかよく分からないけど……いきなり車に押し込められそうになって」
「ゲッ、誘拐かよ。ヤバかったなぁ。初めてか?……つーかお前これから一人で帰れんのか?家は何処だよ」
「家はここからそう遠くないけど……迎えを呼ぶよ。多分、すぐ来てくれると思う」
「じゃー直ぐに呼べ。それまでオレここに居てやっから」
 

 開け放たれた車のドアの前で驚愕の表情で佇んでいた、被害者である少年は、男の背を踏みつけつつ眼前に現れた城之内に思わず縋りつき、ほっとした表情を見せた。

 震えるその肩を無意識に抱きしめつつ、彼をさり気無く観察する。小さく細い身体に無造作に伸ばした艶やかな黒髪と大きな瞳、服装はどこにでもいる子供のそれとなんら変わりがなく、特に目立つ要素は無い。その辺を見渡せばどこにでもいるような小学生が何故こんな物騒なものを所持した男に狙われるのかよく分からなかったが、犯罪が横行しているこの世の中では特に珍しい事でもないのだろう。

 そう思った瞬間、不意に脳裏にあの男の名前が浮かんで、城之内は軽く舌打ちしたい気分になった。
 

「磯野?うん、オレ。悪いけど迎えに来てくれる?場所は……」
 

 その後、念の為その場所を離れた二人は、近間のビルの裏口で雨よけをしつつ、少年が言う『迎え』とやらを待っていた。その間特に会話はなく、城之内は眼下で携帯を弄るその姿をただ黙って眺めていた。雨音は、ますます激しくなるばかりだった。

「────── !」

 数分後、二人の目の前に滑り込むように留まった車を見て、城之内は何故この少年が狙われるに至ったのかおぼろげに理解する。黒塗りの高級リムジン。なんだよこいつも金持ちの馬鹿息子か。即座にそう思い、ともあれ誘拐事件を未然に防げて良かったと、投げやりにそう思ったその時だった。そのまま直ぐに車に乗り込むだろうと思っていた少年が城之内を振り仰ぎ、共に車に乗ってくれ、と言い出したのだ。

「えっと……助けてくれてありがとう。そのまま帰すのも悪いから、一回一緒にうちに来てくれよ」
「はぁ?オレが?い、いいよ別に!」
「いいから」
「モクバ様もこう仰っている事ですし、是非。ご自宅にはお送りしますから」

 何時の間にか少年の背後に立っていた、先程の誘拐犯とよく似た黒服サングラスの男が少年の言葉を後押しするように声を重ねる。二人がかりで詰め寄られてはいかに城之内と言えど拒否し続けるわけにも行かず、殆ど渋々と言った風情で、彼は車に乗り込んだ。

 そして、余りにも広すぎる車内で、何気なく訊ねた少年の名前から、驚愕の事実が分かったのだ。
 

「オレの名前?海馬。海馬モクバ。兄弟?うん、いるよ。海馬瀬人っていうんだ。確か、その制服と同じ童実野高校に通っていたと思うけど」
 

 海馬モクバ。多分この少年が、海馬瀬人の言う『弟』の事なのだろう。脳裏に、海馬が最後に残したあの声が脳裏に蘇る。
 

『僕にはね、親はいないけれど、弟が一人いるんだ。凄く凄く大事でね。彼を守るためならばどんな汚い事だってやってみせる。そう、思ってるんだよ』
 

 城之内は複雑な感情を覚え、自分を見上げてくる幼い少年の顔を眺めていた。あの海馬瀬人が、どんな事があっても守り抜いてやりたいと豪語していた、その、顔を。
「弟を、モクバを助けてくれた事には礼を言う。……で、何が欲しい?金か?それとも……ああ、貴様は『変態』ではないからやると言っても受け取らないだろうな。なんなら、貴様が大好きな暴力でもいいぞ。殴られる位なら慣れている」
「………………」
「どうした。何を呆けた顔をしている」
 

 ざあざあと煩い位に響く雨音が、たった二人が存在するにしては広すぎる空間に大きく響いていた。来客用にと差し出された珈琲は少し口をつけただけで放置した所為で何時の間にか冷め切っていて、空しくテーブルの上に置かれたままだ。半ば無理矢理ソファーに座らされた城之内の右横……腕一本分の距離を空けて佇む海馬は、常に見せる歪んだ、けれど酷く美しい笑顔で、常人が聞いたら気が触れていると取られかねない言葉を口にする。

 一瞬、閃光が眩しいくらいの明りに満ちた部屋により鋭く煌いた。次いで聞こえる轟音に、大雨がついに嵐に変わった事を知る。綺麗過ぎる窓を叩く大きな雨粒が幾筋もの流れとなって硝子を伝って落ちて行った。
 

 

 『モクバ』を助けてから数十分後。

 彼に押し切られるまま海馬邸に足を踏み入れた城之内は、そこで家の主である海馬瀬人と対面した。顔を見るなり兄に抱きつき、泣きながら事情を説明する弟の身体を強く抱き締め、今まで聞いた事のないような柔らかな声で労わり、宥め、一先ず落ち着かせる事に成功した海馬は、兎に角少し休むように、後で必ず部屋に行くから……と口にすると、周囲に控えていた使用人に彼を預け、城之内を客間へと案内した。

 そして、タオルと暖かい飲み物を提供し、とりあえず弟の危機を救った恩人への表面的な礼を尽くすと、二人きりの状況を作り上げ、今に至る。
 

 そして暫しの沈黙の後、突然奇異な事を口にしたのだ。
 

 その余りにも異様な言動に、城之内は思わず手を出してしまった。パシッ、と渇いた音が軽く響き、眼前の顔が驚きに染まる。軽く振り上げた城之内の右手が、平手の状態で海馬の頬を殴りつけたのだ。ただし、力的には大分抑えていて、眼前の白いそれが赤く腫れる事もなかった。
 

「……てめぇ、やっぱり頭可笑しいんじゃねぇの。自分の言ってる事、分かってんのか?」
 

 再び雷鳴が鋭く響く。近くに落ちたのかもしれない、そう思った。けれど今は目の前の顔から目を反らさずにいる事で精一杯で、それを気にしている暇などない。そのまま瞬きもせずに睨んでいると、海馬は小さく溜息を吐いて、何を今更……と言った風状で頬に手を添えもせずに肩を竦める。
 

「分かっている。何だ。選択肢に不服でもあるのか」
「不服とかそう言うんじゃねぇよ。他人にする『礼』の気持ちの表し方が異常だって言ってんだよ。二言目には金だの身体だの、そんなもんばっかりチラつかせて。挙句の果てには暴力だぁ?馬鹿にするのもいい加減にしろ屑が!」
「……なんだそんな事か。仕方がないだろう、そう、学んだのだから。しかし、屑に屑とは言われなくないな」
「うるせぇ。てめぇのそういう姿、弟は知ってんのかよ。随分慣れた口ぶりだから、今までもこん位の事はあったんだろうが。拳銃持った奴等に付け狙われるとかありえねぇだろ。一体、何をすればこんな風になんだよ」
「貴様には関係のない事だろう」
「ああ、関係ないね。関係ないけど言ってやる。てめぇ、いい兄貴ぶって弟を守りたいとか、ご大層な口聞いちゃいるが、やってる事は正反対だぜ。モクバとか言ったっけ?あいつ、完璧に巻き込まれてんじゃねぇか、可哀想に。見た所、弟はてめぇと違ってまだフツーっぽいよな。そのフツーの子に今自分のやってる事話せんのかよ。言えねぇだろ?」
「…………黙れ」
「黙らねぇよ。てめぇがこんな事を『恩人』のオレに言ったって、あいつに言ってやろうか?」
「黙れ!」
「てめぇこそ黙れ!」
 

 感情の荒ぶるままに、城之内は思わずソファーから立ち上がり、海馬へと詰め寄った。海馬の言動が余りにも現実離れし過ぎていて、気持ちが悪くて、それらを全て払拭したい一身で、叩きつけるように容赦ない言葉を浴びせかけた。どうしようもなく気持ちが苛立つ。関係ないのに、どうでもいいのに、どうしても言わずにはいられなかった。

 しかし、最後の叫びを口にしてから、城之内は多少自分の言動が行き過ぎた事を知る。何故なら勢いのまま胸倉を掴もうとした手を逆に掴まれ、間髪入れずに何時の間にか伸びていた海馬の指が己の喉に食い込んだからだ。氷のように冷たく長い指先は、片手ではあったが城之内の頚部を締めあげるには十分だった。

 ひゅ、と小さく喉が鳴る。一瞬強い圧迫感に眩暈がしそうになったその時、海馬の低い声が聞こえた。
 

「モクバに……弟に、オレの事を話したら……貴様を殺す」
 

 それは、本物の殺意すら込められた、酷く真剣で……冷たい、一言だった。
 

 ガタリと大きく窓が鳴る。

 そのまま緩やかに解放され、息苦しさに激しく咽こんだ城之内の姿を無表情で眺めながら、海馬はきつく右手を握り締めた。その皮膚から、赤い血が流れ出るまで……きつく。

 それきり、彼等は一切口を開かなかった。

 強い稲光が、一瞬消えた明りの変わりに俯く彼らの顔を青白く輝かせた。