Act6 保健室の優等生

 つんと香る消毒液の匂い。目に眩しい白を貴重とした清潔な空間。その只中で静かに存在するその姿は酷く異様で、けれども不思議と馴染んでいる。……そう、城之内は思った。

 少しだけ開いた窓からは薄曇に相応しい湿った冷たい朝の空気が僅かに入り込み、ベッドの間の仕切るカーテンを軽く揺らす。二つ並んだそれの窓際の方に、城之内が見下ろしている彼……海馬瀬人は存在していた。

 寝るつもりだったのだろうか。常に首元まできっちり締められている学生服のボタンは全て外され僅かに肌蹴、白いシャツが見えている。ただそれだけの事なのに何故か物珍しいものを見てしまった感覚に陥り、無意識にドキリとする心臓に忌々しさを感じながら、城之内は態と渋面を作り大きく舌打ちをすると、ベッドに座る海馬を見下して、吐き捨てた。
 

「なんでオレの行く先々にてめぇがいるんだよ……もううんざりだ」
「君こそ、今日は屋上じゃないんだね。それに、今は大好きな体育だろう?」
「うるせぇな。調子悪いから保健室に来てんだよ。当たり前だろ。てめぇこそ何してんだよ。こんな所でサボるんならとっとと帰れ」
「僕も、用があるから保健室に来ているんだ」
「あっそ。今日子センセイは?」
「そこにメモがある。昼まで用があって不在だそうだよ」
「……何の為のセンセイだよ。ったく使えねぇな。ここでてめぇのツラ見てんのもうぜぇし……帰るか」
「僕で良かったら、手当て……してあげるけど」
「はぁ?」
「こう見えても手先は器用なんだ。そこに座って」
「………………」
 

 言いながら、海馬は殆ど強引に立ち尽くす城之内の手を引き、向かいのベッドを指し示す。冷たいその指先が触れた瞬間、思わず強く払ったが彼は全く意に介さずに、今度はやや早急な動きで城之内の手首をも掴んでしまうと、あの想像も出来ない力で握り締め、無理矢理そこへ座らせる事に成功した。

 城之内は即座に立ち上がろうと思ったが、ここに来た最大の理由である今朝受けた外傷の所為で足に上手く力が入らない。相手に特に危害を加える意思がないという事を本能で察した彼は、仕方なくそのまま海馬の顔を睨み据えた。

 ゆっくりと、目の前の体が立ち上がる。多分薬の類を取りに行く為だろう。薬棚までの僅かな距離を歩く微かな足音に、気の所為だろうか、いつもの彼とは違いどこか覚束ない印象を受ける。なるほど、彼が保健室に用があると言ったのも本当の事なのだろう。

 だったら帰ればいいのによ。再び胸に過ぎるその言葉を城之内は声に出す事はしなかった。
 

 
 

「城之内くん、次は体育だよ?着替えないの?」
「あー悪い。今日オレパスする。保健室行って来る」
「顔の腫れはちょっと引いたみたいだけど……他にもどこか痛いところあるの?」
「まあな。結構派手にやったからよ」
「……喧嘩?」
「うん、そんなとこ。ま、いつもの事だからそんなに気にすんなよ」
「保健室、ついていかなくて大丈夫?」
「大丈夫大丈夫。ほら、お前こそ授業に遅れちまうぜ。早く行けよ」
 

 今朝は……正直に言えば昨夜から城之内は少しだけついていなかった。深夜バイトから帰宅して早々、酒浸りの父親と派手な殴り合いをして家を飛び出した彼は、そのまま一睡も出来ずに学校へと向かう矢先、先週の週末に絡まれて病院送りにした他校の生徒の仲間と思しき人物数人に待ち伏せされ、朝からかなり激しい喧嘩をしてしまったのだ。

 喧嘩自体には見事勝利を収めたものの、元々体調が優れない上に複数人対一人という状況に無傷でという訳にも行かず、結構なダメージを受けてしまった。お陰で教室に着くまでの数分間好奇の目に晒された挙句、扉を開けた瞬間女子の悲鳴が上がる、と言う様な事態になってしまった。しかし、それも最早慣れたものだった。

 そんな城之内をこちらも常と同じく気遣ってくれる遊戯の優しい言葉を鬱陶しいという気持ちを上手く隠してやんわりと退けながら、まるでその場から逃げるように彼は保健室へとやって来たのだ。静かで独特の雰囲気があるこの場所は、好きでもなかったが嫌いでもなかった。傷はどうでもいいけれどとにかく眠い、整えられた簡易ベッドに横になるだけでいい。そう思って足を踏み入れたのに。
 

 まさかそこに、海馬瀬人がいるとは思わなかったのだ。
 

 
 

「随分派手にやったね。喧嘩慣れしてる割に顔を腫らしてるのはみっともないよ」
「うるせぇ。てめぇにゃ関係ねぇだろ」
「血は止まってるみたいだからバンドだけでいいかな。手は包帯を巻いておくけど……後は?」
「もういい。どーせいつもそのまんまにしておくからよ」
「痣は早めに消さないと痛みが長引くよ」
「ほっとけよ。余計なお世話だ」

 包帯を手に城之内の片手を軽く握り締めていた海馬の手を強く振り払う。手の甲同士が上手く当たってバシンと鋭い音が響いた。それに一瞬海馬の表情が変わった気がするが、気がしただけだった。間近にある白い顔は、相変わらず穏やかな雰囲気を崩さずにいる。
 

 奇妙な光景だ、と城之内は思った。
 

 あれだけ忌み嫌い、果ては憎しみまで抱いていた男とこうして静かに向かい合い傷の手当てを受けている。彼といると常に感じる、妙な緊張を孕んだ嫌な空気は今は無かった。今はただ、緩やかで静かな時間がここにある。

 視界の端に入るその言葉通り存外器用な指先は、持って来た救急箱の中から適切な道具を迷い無く選び出し、全く無駄のない動きで城之内の傷を癒して行く。お陰で見るも無残だった両手は清潔な包帯とガーゼで覆い隠され、切れた口の端も先程よりは痛みが軽減した気がした。

 ……こいつ坊ちゃまの癖に手馴れてやがる。

 そう思った気持ちを隠しもせず視線に乗せて睨みつけると、曖昧な微笑が返って来た。そして、仕上げとばかりに頬の傷へと手を伸ばす。コンクリートに擦り付けられた所為で出来た浅い擦り傷。軽く湿らせたガーゼで汚れを拭い、消毒液を手にしたところで、その動きは止まった。

 そして次の瞬間、冷たい指先の変わりに暖かく湿った柔らかな感触が触れるのを感じる。それが、海馬の舌だと分かるまで城之内には結構な時間が必要だった。長い間の後、微かな吐息が耳を掠めた刹那、漸くそれが何か思い当たった彼は「ひっ!」と鋭い悲鳴をあげると、慌てて目の前の身体を突き飛ばす。ドン、という重い衝撃の後、海馬の靴が床を擦る音が小さく部屋に響いて止まる。

「!!……てめぇっ!!何しやがる!!」
「こういう傷は、舐めたほうが治るんだけど?」
「気色悪い真似すんな!!死ね!!」
「元気だね。これなら大丈夫かな。じゃ、治療終わり」
「ふざけんなよ馬鹿!!」
「終わったんだから出て行ってくれないかな。寝るんならそこで寝ればいい」
「人の話を聞きやがれ!」

 ごしごしと痛みを我慢して舐められてしまったらしいその傷を擦りながら、城之内は打って変わって背を向けてしまった海馬の肩を掴んで力を込める。それに一瞬びくりと強い反応を示した彼だったが、すぐに何事も無かったように振り向くと、先程とは違った強い口調でそう言った。

 そして彼は、寝台に腰かけると今まで城之内のために手を伸ばしていた救急箱に再び手を伸ばし、薬と、もう一組包帯とガーゼを取り出して側に置く。そして徐にシャツの手首部分のボタンを外して捲り上げた。

 瞬間、もう一言何か言ってやろうかと開いた城之内の口から妙な悲鳴が上がる。純白シャツの下から現れたのは僅かに血の滲んだ包帯。それをも躊躇無く取り外したそこに現れたのは、思わず顔を背けたくなるような酷い傷痕だった。表面の皮膚だけではなく、その下の肉すらもえぐられたような、凄惨な痕。

「な、んだよそれ……!」
「特殊なベルトでね。皮膚に強く食い込むようになってるんだ。そのまま一晩だったから、結構深く傷が……」
「そうじゃねぇ!てめぇ、まだそんな事やってんのか!」
「……やってるよ。最近は増えた位だ。マンネリ化すると、刺激を求めようとするのは人間の悪い癖だね」
「馬鹿じゃねぇのか。変態野郎」
「もうその悪口は聞き飽きたよ。もう少しボキャブラリーを増やしたらどう……っ!」

 その言葉が最後まで響く前に、城之内の右手が空を切った。ひゅ、という音と共に海馬へと振り下ろされたそれはまるで狙ったかのように以前殴りつけた場所と同じ所に鋭く当たった。衝撃に、海馬の身体がベッドへと倒れ込む。間髪入れずにその身体へと乗りあげると、城之内は傷ついた彼の右腕を手首には触れずに強くシーツの上に押し付けた。

 その動きで僅かに覗いた海馬の喉元にも紫色の変色を認め、盛大に顔を歪める。いつの間にか弾かれてころころと転がる包帯が、近間に脱ぎ捨てられた海馬の制服に当たって留まった。
 

「何をする、離せ。重い」
「てめぇ、自分の身体がこんなになって、何も感じねぇのか?」
「日々喧嘩を繰り返し、顔を腫らす貴様に言われたくは無い」
「オレは好きでやってんだ。てめぇはそうじゃねぇだろうが」
「……貴様に余計な事を話したのは失敗だったな。では、オレも好きでやっている。こう言えばいいのか。許されるのか?」
「許されるとか許されないとかじゃねぇ。おかしいっつってんだよ!」
「貴様には関係の……」
「ああ関係ねぇよ!でもよ、てめぇがオレの視界に入るんじゃねぇか!関わりたくなくても、勝手に!!だからオレは……!」
 

 そう、そうなのだ。本来はこんな男、関わり合いになど一生なる筈も無かったのだ。けれど、この学校で、あの屋上で、教室で、深夜の繁華街で……出会ってしまった。色んなものを見てしまった。目を背けられなくなってしまった。

 関係がないのに、どうでもいいはずなのに、気にせずにはいられなくなってしまった。今更、全て忘れてなかった事に出来る程軽い記憶ではない。重苦しく不快なべったりと頭の奥底に残るようなそれに顔をしかめつつ、今日もまたこうして顔を付き合わせている。そして新たな記憶を刻まれる。海馬の手首から滲み出る血のような生々しいそれは、城之内の何かを強く刺激するのだ。
 

「気にされたくないなら、オレの前から消えちまえ!オレだってもうこんなもの見たくねぇ!てめぇの口から余計な言葉も聞きたくねぇよ!」
 

 視界に入らなければ、耳にしなければ、気になどする必要はない。存在を忘れて、穏やかではないが自分にとっての普通の日常に戻れるはずだ。

 傷だらけの手を覆う清潔な白い包帯。頬の傷を辿った生暖かい舌の感触。……こんな非日常など不快なだけだ。鬱陶しいだけだ。何もかもを振り払って逃げ出したい、そんな気分にさせられる。

 けれど、掴んだ海馬の腕から手が離れない。その細い身体に乗りあげるこの身体は動こうとはしなかった。意味が分からない。考える事とやっている事は裏腹だ。

 混乱する思考の中で、城之内は興奮の為に激しく上下する肩の動きを感じながら、ただじっと海馬の顔を見下ろしていた。そこにあるのは今までに見た事がないほど、驚きと困惑に染まった表情だった。

 青い瞳が静かに瞬いて城之内を映している。
 そこに見える己の顔は、何故か酷く必死だった。

 重苦しい沈黙が、妙な体制で見詰め合う二人に重くのしかかる。その重みを払拭したのは、やはり海馬の方だった。彼は何かを否定するように、二三度緩やかに首を振るといつもの透明な眼差しに戻り、城之内を静かに見あげる。そして、先程と同じ至極穏やかな声でこう言った。
 

「学校は、やめられないんだ。モクバと約束をしているから。だから、申し訳ないけど君の前から消える事は出来ない」
「……約束?」
「彼は僕に普通の兄でいて欲しいんだよ。社長ではあるけれど、年相応に学校に行って、勉強をして……」
「………………」
「その制服を、僕は彼を欺き、身体に残る傷を隠すためだけに着る。確かに、おかしいよね。分かってるよ」
「だったら!」
「でも、もうどうにもならない所まで来てしまった。今更後戻りなんか出来ない。他に道を見つける気力も無い。そんな時間もないんだ」
「海馬!」
「いい加減そこをどいて。君、凄く重いんだ。もう用は済んだだろう?授業も終わるし、早く出て行ってくれ。それとも……僕がしたように、君も僕の手当てをしてくれるのか?」
「………………」
「そんな目で僕を見るな!」
 

 最後は、殆ど悲鳴だった。変わらず城之内の下で仰向けになっていた彼は、激しく顔を歪め、あの殺意にも似たきつい眼差しで城之内を射抜く。これまではその眼差しに少なからず嫌悪や怒りを感じた城之内だったが、今は不思議と負の感情を抱く事は出来なかった。

 ただ、虚しさを。何に対するものかは分からない酷く虚しい感情が、胸を満たした。
 

 不意に遠くで授業終了のチャイムが鳴る。それをどこかで聞きながら、城之内は海馬の上から身を引き、何も言わずに手を差し伸べた。そして、それに応えるそぶりの無い指先を無理矢理掴んで引きあげる。

 その指先を離さないまま、城之内の手が消毒液とガーゼ、そしてシーツの上に転がる包帯を掴んで引き寄せた。
 

 つんと鼻につくその薬品の匂いは、その日一日身体に染みついて取れなかった。

 そして、甘い血の匂いも。