Act7 諦めの優等生

「うわ、見てみてまた海馬くん全教科満点でトップだって!」
「……すげぇ、どういう頭してんだ?死ぬ気で勉強して60点のオレの頭と交換して欲しいぜ」
「ほんと、凄いよね。いいなぁ。お金持ちだし、カッコいいし、それに頭もいいって、何でも持ってるって事じゃん」
「『カッコイイ』にはオレは同意しかねるけど、確かに羨ましいっちゃ羨ましいよな。女にもモテるしよ」
「そういえば本田くん。この間告白するとか言ってたけど、どうだった?」
「……聞かないでくれ。思い出したくない」
「あっ、ご、ごめん。……駄目だったんだ」
「もうとっくに彼氏いるってよ。あーちくしょう!!オレも彼女が欲しー!!」
「あはは、本田くんなら直ぐに出来るよ。頑張って」
「お前絶対そんな事思ってねぇだろ!」

 廊下に張り出された実力テストの結果表を前に騒ぎながらそんな事を言う遊戯と本田を眺めながら、城之内は一人彼等に気づかれないよう顔を歪めて、チッ、と小さく舌打ちをした。

 見上げた白い模造紙に堂々と記された海馬瀬人の名前。その下に輝く500点の文字にその10分の1すら取れなかった己の成績を思い出し、城之内はやけに腐った気分になる。何が500点満点だ、こんな誰でも入れるレベルの低い公立校でトップをとった所でなんの自慢にもなりゃしねぇよ。つーかそんなに頭がいいなら高校なんかやめて大学に入りやがれ。心の中で恨みがましく呟くその台詞は、既に毎度御馴染みになりつつある。

 城之内は足元に落ちていた何かのプリントをぐしゃりと足で踏み潰し、人だかりの中に蹴りこんだ。それはあっという間に複数人の靴底によって小さなゴミに成り果てた。

 なんだかイライラする。ここ数日間のテストのストレスやバイトのハードさも相まって城之内は酷く疲れて苛立っていた。そして、こんなに自分が大変な思いをしているのに、暢気にはしゃいで笑っている遊戯達にも理不尽な苛立ちを感じていた。最近は特にそうだ。

 高校に入り、札付きの不良から少しずつでも脱しようと周囲に『ごく普通の高校生』として振舞い、気のいい友人を演じて来た。擬態は直ぐに身に付き、近頃は特に意識しなくても明るい笑顔とふざけた言動で人と戯れる事ができるようになった。

 けれどそう簡単には本質など変えられず、時たま酷く息苦しくなる。それを適度に解消する為に、裏では相変わらず激しい喧嘩を続けていた。時折、しくじってしまって顔に痣を作ったまま学校に来なければならない事もあったが、その時は適当にごまかした。「大丈夫?痛くない?」と心配する声に「全然。だから心配すんな」と笑顔を見せた。その心の内では鬱陶しいと吐き捨てながら。

 しかし、それもそろそろ限界だった。喧嘩の頻度も増え、内容も徐々に暴力的なものに変化していった。じわじわと不良時代の自分が今の自分を侵していく。

 そんな最中に出会ったのが、海馬だった。

 つんと澄ました表情にお似合いの人の苛立ちに火を点ける小生意気な言動と、まるで挑発するような態度に城之内は素直に反応を示してしまい、日ごろの鬱憤を晴らすが如く彼に暴力を、言葉を、叩き付けた。そんな手前勝手の理不尽な行為をそれでも彼は鷹揚に受け止める。受け止めて、あの不可思議な色の瞳でじっとこちらを見つめながら、口元に笑みを刷くのだ。

「あ、海馬くん!おはよう!」

 不意に大勢の話し声に混じって遊戯の弾んだ声が響く。つられてそちらの方を振り向くと、そこには件の海馬の姿があった。常と同じく紺の学ランを寸分の隙間なくきっちり着込み、名前は分からないが酷く高価なブランド物らしい鞄を手に、姿勢正しくゆっくりと歩いてくるその姿は完璧なまでの優等生でお金持ちのお坊ちゃまだ。彼は遊戯の姿を見るや否や、にこりと人当たりのいい笑みを見せてごく普通に挨拶など交わしている。

 他の人間は滅多に顔を出さない事や、海馬の真横にある順位表の500点の文字、そしてその隙のない姿に気圧されて、些か遠巻きにその様子を見つめている。その中で遊戯だけが彼の正面に立ち、遠慮もなしに何も持っていない白い左手に触れながら、他の友人と接するのと同じように気軽に話しかけていた。

「ね、海馬くん。ほら見て?テストの結果が出たんだよ。また全教科一位だったね。海馬くんは凄いなぁ。今度僕に勉強、教えてよ」
「学校にいる間だったら、分からない所ぐらい教えてあげるよ」
「ほんと?じゃ、じゃあ早速なんだけど、今日の宿題で詰まってるところがあるんだけど……」
「いいよ。じゃあ、君の席に行こうか?」
「うん!」

 クラス一背の高い海馬と、クラス一背の低い遊戯が向かい合ってにこやかに笑い合うその姿に城之内の苛立ちは増幅する。海馬のあんな顔を城之内は見た事がない。いつも人を小馬鹿にした空々しい笑みや嫌悪一歩手前の無表情や、殺意さえも込められた鋭く硬い表情しか知らなかった。その事に、沸々と怒りが沸く。何故そんな下らない事にまで感情を揺さぶられるのかは分からなかったが、どうしてもそう思わずにはいられなかった。いてもいなくても、意識するようになってしまった。

「あ、城之内くん、僕教室に入ってるね!」
「あ、うん。オレも直ぐに行くよ」
「お前の名前なんかいっくら探したって載ってねぇって、城之内!」
「うるせぇ本田!てめぇだって似たようなもんだろうが!」
「残念でした。ちゃんと入ってるぜ。一番後ろだけどー」
「そんなちっせぇ字でビリけつに入る位なら入らねぇ方がましだっつーの」
「ひがむなひがむな。飴やるから」
「ぶっ殺すぞ!」

 相手の遊戯が海馬に取られた事でこちらにちょっかいを出してくる本田の相手を適当にこなしながら、城之内の目線はやはり無意識に海馬を追いかけてしまう。彼は廊下側の一番前の席である遊戯の机の前に立ち、せがまれるままに教科書を覗き込んで何やら丁寧に説明している。それに幾度か首を傾げる遊戯に彼は机上にあったシャープペンシルを手に取ると、ノートになにやら書き始めた。

 その刹那、紺色の袖口の合間から見えた手首に白い包帯が巻かれている事に気づく。城之内がはっとして目を見開くと、その事この距離でも過敏に感じたのか、海馬は一瞬目線だけで城之内を見て小さく笑った。それは、今遊戯に見せていた笑みとはまるで別種の……あの、冷たい歪んだ笑みだった。

 ── 今すぐその横っ面を殴りつけてやりたい。

 城之内は、視線を海馬からはずさないまま、硬く右手を握り締めた。
「随分と遊戯と仲良さそうだったじゃねぇか。いい加減優等生ぶるのやめろ、この変態」
「僕が君の『お友達』と仲良くするのが気に入らないんだ?大丈夫、取ったりはしないよ」
「そうじゃねぇよ。てめぇが関わる事自体がイラつくっつってんだよ。遊戯はな、てめぇと違って普通の奴なんだぜ。汚ねぇ手で触るんじゃねぇ」
「わざわざ屋上までやって来てこうして口を出してくるって事は、結局は同じ事だろう?……お言葉だけど、僕から遊戯に何か言ったわけでも、積極的に触れたわけでもないよ。彼の方が先に近づいて来たんだ。それを君から文句を言われる筋合いはないと思うけど」
「うるせぇよ。相手すんなって言ってんだ。それにここはもともとオレの場所だ。てめぇが荒らしたんだろうが」
「あぁ、そうだったね。ごめん、もう行くから。雨も降ってきたしね」

 今日はもともとこれで帰る予定だしね。そういうと、海馬は至極あっさりと城之内に背を向けて一歩足を踏み出す。瞬間朝からどんよりと空を覆いつくした灰色の雲から、ぽつりと一粒の雨が落ちてきた。薄汚れたコンクリートの上にじわりと黒い染みが出来る。

 その様を酷く無感動に眺めながら、城之内はとっさに離れ行く海馬の腕を捕らえた。距離が近かった所為で手首では無く、二の腕をがっちりと押さえ込み、強く引く。そして逃れられないように眼前に迫った栗色の髪を掴み上げた。

 キシリ、と海馬の頭皮が引き攣れる音がする。

「!何……!」
「別に、何でもねぇけど。殴ってもいい?オレ、朝からすげぇ気分が悪ぃんだ」
「幾ら僕でも、理由もなしに殴られるのはお断りだけど」
「じゃ、理由つける。オレのダチに手を出した」
「出して……なッ……っ!」

 海馬が城之内の言葉に反応する前に、鋭い音が辺りに響いた。瞬間海馬の顔が衝撃に強く傾ぎ、白い頬が瞬く間に朱に染まる。同時に城之内が勢いをつけて頭髪を掴んだ手を離すと、はらりと数本の髪が空に散る。海馬の身体がぐらりと揺れた。

「痛いな」
「当たり前だろ。殴ったんだから」
「貴様はオレを汚いというが、貴様だって似たようなものだろうが。こんな姿、あの遊戯に見せられるか?」
「見せられねぇよ?見せたくねぇし、見せる必要もない」
「では何故オレに見せる」
「それはオレが聞きてぇよ。なんでオレに見せた?……あぁ、過去形じゃねぇよな。今もだよな」
「先に手を出してきたのは貴様だろう。自業自得だ。勝手に見た癖に責任をオレに押し付けるな」
「それは違うだろ。ここに来たのはてめぇだろ。だから後先を言うならてめぇが先だ」
「勝手な言い分だな」
「あぁ、お互いにな。馬鹿くせぇ!」

 苛立った言葉と共に、今度は直ぐに足が出た。避け様と思えば避けられる勢いで持ち上げられたそれは、簡単に海馬の脇腹にめり込んだ。ドン、という鈍い音がして海馬の身体が僅かに浮き、そのまま地面に倒れ込む。ぽつぽつと降り出した雨がその顔を、身体を濡らしていた。勿論立ち尽くし冷ややかな表情でそれを見つめる城之内も。

「今日は抵抗しねぇんだ?避けられただろ、今の」

 地面に付したまま蹴られた脇腹を押さえ顔を歪めて、ごほごほと咽こむその姿に暗い愉悦を覚える。ああ、これで漸く見慣れた海馬の姿になった。さっきのあれは幻か何かだったんだ。そんな現実逃避的な何かが城之内の中をゆっくりと満たしていく。

 あの笑顔に、自分の知らない表情に、殺意にも似た苛立ちを覚えた。ただそれだけの事で何の落ち度も無い相手を傷つける。本来なら許されない事だ。けれど、今はそんな罪悪感など微塵もなかった。どうしてこの男相手にこんな感情を覚えるのか。訳が分からない。その分からなさが恐怖となる。恐怖は暴力となって相手に返る。

 人が羨む物全てを持っている優等生。その一つすら持ち得ない『不良』と称される自分。けれど今は、汚いコンクリートの上に這い蹲るのは相手であり、それを笑顔で踏み躙っているのは自分だ。決して楽しくも嬉しくもないが、高揚感が胸を満たす。己の中で燻っていた何かが綺麗に消えていくのを感じる。

 最高に、いい気分だった。

「てめぇはそうやって生きてて息苦しくならねぇ?オレは駄目なんだ。自分を偽って生きてくのってすげぇ辛い。けど、生きてく為にはそうしなきゃなんねぇって事は分かる。分かるけど、どうしようもない。だから喧嘩して、少しずつ解消しながらなんとかやってる。……てめぇは?」
「………………」
「何もかも諦めてるっつーけど、限度があんだろ。家や学校では弟や他人相手に猫被って、何の為かはしらねぇけど身体売るような真似して年柄年中血ぃ流して。そして挙句の果てにはこんな暴力まで受けて転がされて。何とも思わねェのかよ。それでもてめぇに取っちゃ『仕方ない』で済む事なのか!?」

 最早自分が何をどうしたいのかすら分からなかった。目の前で顔を歪める海馬を更に苦しめたいのか、それとも、そうではないのか。一貫しない己の言動に城之内は困惑する。何時の間にか握り締めた拳が大きく震える。怒りの為か、先ほどから感じる恐怖故か、分からない。

 暫く二人はじっと黙ったままだった。雨脚が強くなり、全身がずぶ濡れになる。立っている城之内は勿論、倒れている海馬は更に酷い様相だった。さすがに少々やり過ぎたかと思い始める。けれど、微塵の後悔も沸かなかった。沸かないまま、だらりと力なく投げ出された腕を取り、上半身を引きあげる。

 ぽたぽたと繋がった腕から雫が落ちる。それを無表情で見つめながら、海馬が抑揚のない声でこう言った。
 

「……それがオレの選んだ道だ。だから、仕方が無いだろう」
 

 それから数秒後、雨音に混じってまた大きな衝撃音が響いた。
 叩かれた白い頬も、叩いた褐色の掌も冷たい雨に冷やされてさほど熱を感じなかった。

 暫く二人はそのままの距離でじっと互いの顔を見つめていた。
 

 それきり、会話は続かなかった。