Act8 恋に堕ちる優等生

「……っく、……は……っ……」

 くちゅりと、粘着質な音がやけに大きく響いた。汗が滲んだ、普段は酷く冷たい筈の肌は発熱して熱く、口元から漏れ出る吐息の生暖かさも相まって、それを頬に受ける城之内の身体をも熱くする。上にのしかかられている筈なのに体重は殆ど感じず、ただ繋がった部分の火のように熱い温度と、触れ合う肌の感触だけが生々しい。

 シャツが肌蹴、露わになった胸の上にぽたぽたと落ちてくる体液。汗と涙と唾液と、彼から滲み出る白く濁った精液。独特の匂いが鼻をつき、何故か甘い香りと混ざって妙な興奮を呼ぶ気がする。

 ギシ、と揺れる安物のパイプベッド。漂う薬品の匂い。僅かに隙間が空いた硝子窓から吹き込む風に揺れる白い仕切りカーテン。徐々に闇に染まる空。感じない人の気配。何故、こんな事になったのか、城之内は幾度も逡巡しては頭を振る。

「っ、なぁ、海馬」
「……んっ、……な、んだ……?」
「……ってめぇっ……こんな事して……っ……楽しいのか?……気持ちいいのか?」
「…さ、あ……どう、だろうな……ぁっ!」
「オレ、全然……気持ちよくねーよ」
「はっ、その、割には……萎える事がない、ようだ、が?」
「!……仕方ねえだろ、男、なんだからよ!」
「ならば……余計な事を考えずに……っ、集中、しろっ」
「オレ、こんな事はしたくなかった」
「……っ、はっ……んぅっ……!」
「こんな、意味の無いセックス、したく、なかった!」
「!あぁっ!── っ!」

 それまで、ただ腰に添えるだけだった手で思い切り触れていた其処を掴み上げ、力任せに引き寄せる。言葉とは裏腹に身体は正直に快楽を求める。揺れる白い身体はそのしなやかさを極限に生かすようにのけぞり、与えられた衝撃をただただ享受する。

 未だ纏った白いシャツの合間から見える様々な色の傷痕、古いものから新しいものまで全て濃く薄く刻まれている、その全てに言いようのない感情を覚えた。全ては他人事なのにその後を刻んだ見知らぬ相手に、鍛えぬかれほぼ凶器と化した硬く握り締めた拳を叩きつけてやりたいと思う程の怒りを感じた。

 その傷を持つ当人にも、また然り。

 海馬の掌が城之内の肩を掴む。指先よりも少し長く整えられたそれは日に焼けた皮膚を浅く抉り、鋭い痛みを齎した。その痛みに苛立ちを感じ、より一層強く突きあげる。一際大きく上がる声に、悦など微塵も感じられない。それはまさに悲鳴だった。暴力を受けて傷を抑え、たまらず上がってしまうあの声と、なんら変わりの無い痛々しいそれだった。

 こんなのは、セックスではない。恋に付随する、甘く優しい行為なんかじゃない。こんなもの。

 けれど、これが海馬の言うセックスなのだという。恋愛の最終地点であるはずのそれが、彼にとっては始まりであり、終わりだった。一人の相手と二度同じ事をする事はないという。快楽の意味など知らない。そこにあるのはただ、身を切り裂くような痛みだけ。それしか知らないと彼は言った。

 言って、自嘲気味に笑ったのだ。

 そして笑いながら、泣きそうな顔をした。あの悪魔のような微笑が僅かに歪んで、それまで全く見せる事のなかった彼の隠された感情が、ついぞ城之内の前に現れたのだ。

 本当に一瞬の出来事だった。けれど城之内は、それを見逃す事は……しなかった。
 未だ自らの上で荒い呼吸を抑える事も出来ず、瞳からは涙を、口元からは糸を引いた唾液が流れるままに任せながら、海馬はただ黙ってそこに存在していた。大きく震える胸元で一際目立つ赤い突起、それと同じ位赤い鬱血の跡が白い体中至るところに残されている。

 勿論その全てが新しいものではなく、日々繰り返される行為の中で消える事無く在り続ける刻印のようなものだった。その一つを自らで刻んだ城之内は、甘い余韻に浸る気持ちにもなれず、ただ酷い後悔を覚えて吐き気がした。

 行為自体は今までに経験したどのセックスよりも夢中に……否、必死になれた。しかし心はどこか置き去りで、襲い来る快感であるはずの感覚が快感とは受け止められず、背をはいずるような嫌悪にしかならなかった。これまで見下してきた海馬を初めとするこんな気色の悪い行為に没頭する大人達と同じ場所に、否、もっと汚い場所まで転がり落ちてしまった感覚に陥る。
 

 どうしてこんな事に。

 幾度も幾度も自問する声が、再び胸に蘇る。
 

 不意に、ずるりと妙な感触がして、先ほどまで温かな肉に包まれていたそこが冷やりと外気にさらされる。同時に腹部の上から引いた重みと熱に海馬が城之内から身を引いた事を知る。

 ゆっくりとまるでその様を見せ付けるように隣に腰を落ろした彼は、近間にあった常備されているタオルやティッシュを引き寄せて、一人淡々と後始末を初めた。薄暗い室内でその生白い身体は仄かに発光してさえいるのではないかと錯覚する程、やけにはっきりと目についた。

 ずっと俯いたその横顔に汗に濡れて少し重くなっているだろう乱れた髪が降りかかり、その表情を見えなくしている。誘ったのは自分の癖に、城之内が口を開かなければ一言も言葉を発しようとしないその態度に、城之内は強い怒りを感じた。

 常ならばここで殴りかかるところだったが、何故か今はそうしようとは思わなかった。無意識に握り締めた指先が、ギリ、と嫌な音を立てる。

「……海馬」
「満足したか、城之内。これがオレの答えだ」
「……っ」
「貴様等にとってはセックスは最終段階なのだろうが、オレにとってはこんなものはただの手段だ。何の意味もない」
「じゃあ、なんでしたんだよ」
「貴様がしたいと言ったからだろうが」
「オレ、そんな事一言も言ってねぇだろ。てめぇが勝手に!」
「あぁ、そうだったな。だが、ノッて最後までしてしまったのならしたいと言っているのと同じ事だ」
「………………」
「皆同じだ。どう言い訳をしようと、だたセックスがしたいだけ。自らの欲望を満たせれば何でもいいのだろう?オレなどその道具に過ぎない。まあ、そうでも全く構わないがな。こんな身体で…今更惜しむものなどない」

 言いながら海馬はシャツを羽織り、学ランのボタンを首まで止める。そしてさらりと髪をかき上げて整えれば、数刻前とまるで同じ寸分の隙もない優等生だ。つい数分前まで男の上に乗って喘ぎながら腰を振っていたその姿はまるで夢か幻のようで。未だ半裸の城之内の身体の至るところに残る疼痛や、腹の上に散った海馬が吐き出した青臭い滑る液体がなければ、現実とは受け止められないかもしれない。

 半ば呆然としながら城之内は半透明のそれを指先で掬う。人差し指と親指の間で糸を引くその様に軽く眉を寄せると、不意にその手を掴む力強い指があった。間髪入れずにそれは何時の間にか寄せられていた海馬の口内へと消えていく。

「……ひっ……!」

 ぺろり、と温かな舌が城之内の指を舐める。指先はおろか根元まで含まれたそれは生暖かく湿った口内で一通り嘗め尽くされ、直ぐに解放された。それに驚く間もなく、その舌先が己の腹まで舐め上げた時はさすがに城之内も悲鳴を上げた。

 自ら吐き出した精液を丁寧に舐め取る行為。その姿は余りにも自然過ぎて、海馬が普段その行為をしているという事実をまざまざと見せ付けられるようで余りにも気色が悪い。

「やめろ馬鹿っ!何しやがんだッ!」

 これには城之内も思わず手が出た。ぐ、と右手で海馬の髪を掴んで力任せに引き離す。掴んだ髪の質感と引きつる頭皮の感触が酷く不快だったが、この際そんな事はどうでもよかった。そうして無理やり引き上げた顔は、城之内の想像とは裏腹に酷く無感情で。やや虚ろな目が怒りに顔を紅潮させる城之内の顔をただ眺めている。

 カクン、と海馬の身体から力が抜ける。そして彼は、この学校では常に見せている不自然なほど穏やかな笑顔で「ごめん」と謝った。
 

 『いつもの』海馬が、戻って来たのだ。こんな時に。
 

 城之内は思わず髪を掴む手を離してしまい、急に解放された海馬は緩やかにベッドに手をついて己を支える。さらりと戻る栗色の髪。室内は、不気味なほど静まり返っている。

「……もう、なんなんだよ。訳分かんねぇよ……てめぇ、一体何がしたいんだよ!」
「訳が分からないのは僕の方だ。君こそ、一体何がしたいんだ?暴力も受け止めて、セックスもしてやっただろう?他には何を望んでるんだ」
「オレは……っ!」
「僕の事が嫌いなんだろう?憎いんだろう?それならどうして構うんだ。傍に寄ってくるんだ。この間君は言ったよね。僕が視界に入るから悪いんだと。でも、それは何も僕の所為だけじゃない。君が意図的に視界に入れてるんじゃないか。追ってくるんじゃないか!」

 突然向けられた海馬の怒りに、城之内は思わず目を見開いて身を引いた。それだけではない、彼の発する言葉の尤もなその響きに、心臓を鷲掴みにされる程の衝撃を受けたのだ。

 そうだ、憎い、嫌いだと思っている割に彼に積極的に近づいたのは自分の方だ。姿を見れば追って行き、傍に近づいて手を出した。理由をつけては殴りつけた。単純に腹立たしいから、日ごろ溜まった鬱憤を晴らす為だけにそうしていると思っていた。海馬の存在は自分の中ではそれだけのものだと思っていた。

 しかし、それは本当にそうなのだろうか。
 

『ねぇ、城之内くんには好きな人っている?キスとか、エッチしたいなぁって思える人、いる?』
 

 同日の昼間、至極無邪気な顔で仲間と高校生らしい話題に興じていた最中、笑顔の遊戯から不意に投げつけられたそんな言葉を思い出す。その時は「そんなもんいねぇよ」と軽く受け流したが、その瞬間城之内の頭に浮かんだのは何故か海馬の事だった。そんな事はありえないのに、絶対にありえないのに、その脳裏から当の本人の顔をみるまで、ずっと頭を離れなかった。

 恋だの愛だの、そんな甘いイメージの沸く言葉に、どうして彼の顔が浮かんだのか。意味が、分からなかった。

 その得体の知れない不気味な感情は城之内に恐怖にも似た不安を与え、遅れて登校してきた彼を即座に捕まえた城之内は、その意思を確認する事無くこの保健室に連れ込んだ。連れ込んで、内側から鍵をかけて……そこから先は余り覚えがない。気がつくと、いつもの様に頬を腫らした海馬が上に乗っていた。

 何故、と問いかけると、あの低い掠れ声で「貴様が勝手にサカったんだろう」と返ってきた。

 それを深く考える間もなく、そのセックスらしき行為は再開された。断片的に浮かんでは消える記憶。たった数時間前のそれがバラバラに千切れて空中に浮遊してるかのようだ。拾い集めて一つにしなければ。そう思っても今はその気力すら持つ事が出来ない。

 ただ呆然と空を見る。目の前の海馬を通り越して、闇に沈んだ窓の外を、ただ見つめる。そんな城之内の様子をどう取ったのか、海馬は少しだけ口の端を持ちあげると小さな溜息を一つ付き、ベッドを降りる。キシリ、と小さな音がして一人分の重みが消えた。

 ゆっくりと上履きを履いて、二、三歩前へ進むと、海馬は徐に後ろを振り向き、先ほどの激しさは何処へやら、また穏やかさを取り戻して笑顔になる。

 その笑みは、いつもの彼が刷く毒々しいあの微笑。暗さでよく見えない事も相まって、それはいつも以上に不気味なものに感じた。
 

「僕の事を変態と散々罵った割には、やる気だったじゃないか。……なかなか良かったよ、城之内くん。君が望むなら僕は幾らでも相手をしてあげる」
「……ふ、ざけんじゃねぇ。誰がてめぇなんかと……」
「そう。じゃあ、あれは聞き間違いだったのかな」
「なんの話だよ」
「凄く必死だったから、きっと君は覚えてないんだろうね。まぁ、そんな事僕にはどうでもいい事だけど」
 

 じゃあね。

 そう言って、海馬はそれ以上何も言わずに部屋を出る。規則正しく聞こえる硬質な足音がゆっくりと遠ざかる様を聞きながら、城之内は無意識に額を手で押さえて唇を噛み締めた。未だ強く残る海馬の香りと体温が今になって思い出されて、胸が悪くなった。
 

 けれど、それに何故か……安堵した。
『遊戯達と話をしたんだ。誰か好きな奴がいるかって。オレには勿論そんな奴はいねぇから、素直にいねぇって答えたんだ。けど……なんか、なんか分かんねぇけど、そん時てめぇの顔が浮かんだんだ。浮かんで、消えねぇんだ』

『てめぇみたいな変態、ただ気持ち悪いだけだって、むかついて、殴りつけるだけの価値しかないって、思ってたのに。どうしてあの時思い出しちまったんだろう』

『訳分かんねぇ。もうずっと、訳分かんねぇ事ばっかりだ!てめぇが屋上に現れてから!』
 

 カタン、と大きな音がしてしまおうとしていた金属製のペンケースが下に落ちる。人の気配がまるでない教室内で一人、のろのろと帰り支度をしていた海馬は、その音に思わず視線を下方に向けた。落ちた衝撃で蓋が外れ、中のペンやら定規やらが埃っぽい床の四方に散らばる。

 それを無感動に眺めていた彼は、一瞬の間の後ゆっくりと身体を曲げてそれらを一つ一つ拾いあげる。ガチリと金属のペンケースと定規が触れ合って嫌な音を立て、その耳障りな摩擦音に眉を潜める。そして、一番遠くに飛んでしまった万年筆へと手を伸ばした。立ったままでは拾うのが困難な場所に転がっていたそれに、舌打ちと共にその場に膝を着き、手を伸ばす。

 瞬間、妙な感触を身体の奥で感じた。否、それは海馬にとっては酷く慣れた感覚。己の身内から溢れ出てしまう他人の残滓。どろりとしたその感触は何時まで経っても受け入れられずに嫌悪を呼ぶ。

 既にすっかり暗闇に沈んだ部屋の隅で、思わずずるずるとその場に座り込んでしまう。

 身体が重い。頭の芯が鈍く痛む気がする。こみあげる吐き気を押さえる為に口元をきつく手で覆う。その手すら細かく震えていて滑稽な程だ。幾度も幾度も経験し、既にどうとも思わなくなってしまった事なのに、相手が見知らぬ男ではない事に酷く動揺した。その行為に誘ったのは確かに自分だ。けれど、そうなるように仕向けたのは間違いなく相手の方だ。

 あんなに必死な顔で、視線だけで人を射殺すかのように睨みつけて、過去幾度も繰り返された理不尽な暴力を振るいながら。最後には、無意識だろうが羽交い絞めにして来たのだ。あれは抱くなどという生易しいものじゃない。骨すら強く軋む様な、力任せの拘束だった。

 あの時は、自分も必死だった。数時間で消えてしまうような生温い痣や傷痕なら気にする事もないが、さすがに骨でも折れたら事だった。

 今日も明日も、これからもずっとこの頭で、身体で、あらゆる犠牲を払ってでも生き抜かなくてはならないのだ。そこには約束の履行は絶対条件で、どんな理由があろうとも反故にする事や拒む事は許されなかった。だから海馬は己の身を守る為に、ただそれだけの為に、半ば正気を失いかけているだろう城之内の唇を塞いだのだ。そうしたら、案の定彼は動きを止めた。驚愕の表情で海馬を見て、今まで自分の方から力任せに捕らえていた身体を突き飛ばしたのだ。

 何が起こったのか分からないという風に大きく開いた琥珀の瞳に苛立ちを感じ、海馬はまるで見せ付けるように口の端を吊りあげると、直前までの城之内の行動を大げさに揶揄し『なんだ貴様、オレとセックスがしたいのか。だからこんな場所に連れ込んだのか』と吐き捨ててやったのだ。

 元々、あの男とそんな事をするつもりなどなかった。やる気の相手なら問題はないがやる気もないのに無理矢理そんな事に及ぶなど、いかに海馬とて回避したかった。セックスはあくまで生きる上で事を優位に運ぶ為の、余計な手間を回避する為の手段だ。したくてするものじゃない。ましてや相手にいらない悪意を呼んだり、嫌がらせをする為にやる事では決してない。

 だから、あくまでその台詞は場の勢いに任せて口にしてしまった戯言で。まさか、相手がそれを真剣に受け止めるとは思わなかったのだ。そのまま本当にセックスをする事になるなんて、思わなかったのだ。男同士なんて気持ち悪い、この変態野郎。幾度も幾度もそう罵って来た相手がまさか、と。
 

『……オレの本位はそうじゃねぇけど。もし、そうだって言ったら、てめぇはどうすんだよ。ヤらせてくれんの?他の誰にでもそうするように、オレに向かっても足開けるのかよ』

『セックスってそういうもんじゃねぇだろ。もっと……!』
 

 怖気づいたのか何やらごちゃごちゃと口にする相手を至極冷静に眺めながら、海馬はこの場はこのまま終わってしまうのだろうと思っていた。けれど、予想に反して城之内は海馬に向かって手を伸ばしてきたのだ。また、殴るのだろうか。そう思い、痛みを覚悟して僅かに身体を硬くした瞬間、海馬の身に降りかかったのは別の意味での衝撃だった。
 

 そして、全ては予想外の結末を迎える。
 

「……うっ……ぐ!」

 せりあがる嘔吐感に幾度もえづきながら、それでもこんな場所で吐く事は躊躇われて必死にその衝動を押さえ込む。額に汗が滲み、小刻みに身体が震える。気持ち悪い、苦しい。こんな事は初めてだった。心の底から嫌悪する義父と言う名の悪魔に触れられたわけでも、見ただけで全身に怖気が走るような男に抱かれた訳でもないのに、何故。

『……海馬』

 絶え絶えの息の中、己の名を呼び目を細めて、その後何か言おうと動かした口の形が忘れられない。その声にならなかった言葉は、それでも海馬には聞こえてしまった。そして、それまでは何も感じなかった心に、訳の分からない痛みを齎したのだ。この強い吐き気はそこから来ている。理解が出来ない、余りにも唐突なそれに拒絶反応を起こすが如く。

 海馬はそのまま暫く立ち上がる事が出来なかった。

 暗闇に沈む教室で一人きり。嗚咽にも似た声を上げて、ただ、そこに座ったままだった。