Act9 恋に惑う優等生

「学校を、辞める事にしたんだ、城之内くん。だから君ともお別れだね」
「……何、言ってんだよ。ずっと来やしねぇと思ったらいきなり……」
「僕も色々忙しくてね。暇がないんだよ。無い時間を必死にやりくりしてまでこんなところに来るメリットなんてもう何もないしね」
「………………」
「これで君も清々するだろう?顔を見るだけで殴りつけたくなるような相手がいなくなれば。前はよく言ってたじゃないか、消えてしまえって。お望み通り、消えてあげるよ。君の前から、綺麗にね」

 残暑の厳しい、夏の終わりが近づいた或る日。

 昼休みの長い時間、ずっと給水塔下のコンクリートの上に無造作に転がっていた城之内の前に突然現れた不躾な来訪者は、薄雲に隠れて弱弱しく輝く逆光の中、鮮やかに微笑んだ。気温は既に30度を超え、じっとしていても額に汗が滲んでくる陽気だというのに、彼は純白の長袖のシャツを僅かにも着崩さずに着用し、至極涼しげな顔で立ち尽くしている。

 暑さを助長するような生暖かい湿った風が、彼のこの数ヶ月の間に少し伸びたかもしれない栗色の髪をさらりと揺らし、吹き抜けていく。その額にはやはり汗の名残すらない。相変わらず病的なほど白い肌は夏というこの季節には酷く不似合いで、いっそ寒々しい位だ。そういえば、少しだけ痩せた気がする。

 久しぶりだ。本当にそう思う。

 何故ならほんの少し前……まだ梅雨が明けず、連日の雨に鬱陶しさと苛立ちを募らせていたあの日以来の再開だったからだ。目の前の身体の全てを知ってしまったあの瞬間は、未だ記憶の片隅に、鮮やかさを失わずに残っている。

 当時感じた、形容し難い……複雑で苦しく切ない思いと共に。
 

 
 

 あの日以来、海馬は城之内の前に姿を見せなくなった。

 それまではどんなに拒絶し避けようとしていても、まるで何かに引き寄せられるようにあらゆる場所で遭遇していた筈なのに、本当に、その気配すらも感じなかった。学校自体毎年訪れる夏期休暇に入り、顔を合わせる機会が減ったとは言え、ここまでその存在が感じられないのは初めてだった。

 それはまるで数ヶ月前、まだ城之内が海馬の存在を殆ど認識していなかったあの頃に戻ったかのようで。それまでの出来事は夢か何かだったのかと錯覚してしまうほど、本当に鮮やかな身の隠し方だったのだ。尤も、それがただの偶然だったのか、海馬が意図的にそう行動したのかどうかなど、城之内には知る術もなかったが。

 互いに傷つけあうような、酷く虚しいあの一度きりのセックスが、何かを変えてしまったのだ。何も分からなくてもそれだけは確信できる。

 それまでも散々挑発した癖に、あの日は自ら誘い込んできた癖に、行為自体には慣れきっていた癖に、いざ自分とそんな事態になった途端まるで逃げるように姿を消した海馬の事を、城之内は酷く不快に思った。しかし、自分の方から進んで海馬を探しにどこかに行こう等とも思えなかったし、そんな事をする理由も見つからなかった。

 ただ時折、深夜のバイト先である一度だけ海馬を見かけたあの通りを注意深く見渡してしまったり、空席が当たり前の教室の隅の席を事あるごとに振り返ったりしてしまう。城之内は、そんな自分を心底軽蔑すると共に、馬鹿馬鹿しいと嘲った。けれど、忘れる事など出来なかった。

 存在しない故の存在感。どんなに振り払おうとしても払えないそれに、城之内は何時しかその事にすら慣れてしまい、特に思い悩む事はなくなっていた。

 そんな悶々とした思いを抱えながら、それでも日々は過ぎて行き、夏期休暇も終わり、生活も元に戻り、言葉通り平穏無事なありふれた日常の中で、漸く気持ちも落ち着き始めていたその矢先。

 突然、海馬が目の前に現れたのだ。何事も無かったような顔をして、何事かあったと丸分かりな様相で。
 

 
 

「……学校を辞めるって。てめぇ、弟と約束してたんじゃ無かったのかよ。見かけだけは普通でいるって言ったんだろ」
「君、意外に記憶力がいいんだね」
「うるせぇな、どうでもいいだろ。そういう事情があんなら、辞められねぇだろ」
「そうだね。僕が学校に通い続けた理由はそこにあるからね。でも、もう必要ないんだ」
「は?なんでだよ」
「知られてしまったから」
「!…………何?」
「モクバに、全部、知られてしまった。本当に、全てを」
「………………」
「だから、もうカモフラージュは必要ないんだ。意味が無い。……まぁ、それは理由の一つに過ぎないけどね」

 海馬の笑みが深くなる。それは既に嫌というほど見慣れた悪魔のような微笑ではなく、暗い嘲笑だった。僅かに痩せた体の一端を担ったのだろうその告白に、城之内は瞠目する。あの穢れの一つもなさそうな純粋な弟に、全てを知られてしまったという事実。

 海馬の暗部を知る数少ない人間であるだろう城之内に対し、話したら殺す、とまで言い切り頑なに隠し続けたそれがどのように露呈されてしまったのかなど知るべくもないが、それがどれだけ海馬にダメージを与えたかは見て取れる。何故、どうして、一体何があったのか。自分に取って尤もどうでもいい筈のそんな思いが、城之内の胸を満たす。

「そういう訳だから。最後に、君に会いに来たんだ。君に、というよりも、この場所に」
「……なんで、オレに」
「さぁ、何でだろう。どうでもいいだろう、そんな事」
「本当に、辞めるのかよ」
「あぁ。さっきも言ったけれど、ここに来たって僕にはなんの価値もない。せいぜい理由もなしに君に殴られる位だ。そんなのもうゴメンだ。僕は変態でもマゾでもない。ごく普通の人間だよ。普通じゃない事はしているけどね」
「………………」
「君も、僕が居なくなれば溜まりに溜まった暴力的ストレスの捌け口がなくなってしまうね。どうするの?次を見つける?それとも、これを機に更生でもしてみるの?……どっちにしても僕にはもう関係のない話だけれど」
「……っ」
「さようなら、城之内くん」

 先程からまるで休み無く降り注いだ驚愕の事実の数々に、城之内は見下されている事すら気付かずにただコンクリートの上に僅かに身を起こした状態で、少しだけ懐かしいと感じた小憎らしいその声を聞いていた。

 最初から最後まで感情の起伏無く淡々と話をする目の前の男は、確かに海馬である筈なのにやはりどこか違っていて、何時の間にか出会う前に戻ってしまったようなその不快な空気に、城之内は何故か激しい憤りを感じた。そして同時にそれを酷く嬉しいとも感じた。無意識に握り締めた拳に力が入る。

 ゆっくりと、まるでスローモーションのようにこちらに背を向けて、歩きさって行こうとするその背を睨みつけ、城之内はそれまでの様相が嘘のような俊敏さを発揮して立ち上がった。

 散々人をかき回し、振り回しておいて、あっさりと逃げていく。何事も無かったように目の前から消えていく。そんな事が許されるとでも思っているのだろうか。相手に何があったのかなどどうでもいい。元々こちらに何があるかなどお構い無しに現れて、かき乱して行ったのは海馬の方だ。そんな事は知った事か。

 自分でも何がどう等と理由のつかない、けれど爆発的に沸き起こる感情に突き動かされ、城之内は思わず去り行くその背に向かって左手を伸ばした。そして触れた肩を力任せに引き寄せると間髪入れずに殴りつける。やや肉の削げた頬に当たる硬い骨の感触。殴りつけたこちらにも激しい痛みをもたらしたそれは、元より華奢な海馬の身体を地面へと叩きつけた。

 コンクリートに倒れこむ長身が齎す激しい音と、城之内が吐き出す荒い息が空に溶ける。

「ふざけんなよ!てめぇ一人で何もかも終わった事にしてんじゃねぇ!」

 握り締めた拳が熱く痺れる。もしかしたら衝撃でどこか痛めてしまったのかもしれない。こちらでさえそうなのだとすれば、殴られた海馬の方はもっと酷い有様になっているだろう。現に彼が倒れこんだコンクリートの上には、既に僅かな血が散っていた。地に伏せる形で転がっている彼の肩は激しく上下し、掠れた小さな呻きが聞こえる。

 さぁ、早く出て来いよ。城之内が無意識に呟いたその声に、海馬の身体がぴくりと動く。

 ざり、と投げ出された海馬の足がコンクリートを擦りあげる。ついでゆるりと上半身と共に乱れた髪に覆われた白い顔が上げられた。そこに現れたのは想像通りの表情だった。醜く切れた口の端から流れる血が白いシャツをも染めあげる。見あげる瞳には冷たい青の輝きがあった。

 その身体を居丈高に見下ろして、城之内は何時に無く低い声で、こう吐き捨てた。
 

「逃げんなよ海馬。このまま逃げるなんて、オレは絶対に許さねぇ」
 何時の間にかコンクリートに這い蹲った海馬の直ぐ前に膝を付き、殺気立った瞳で睨みつけて来た城之内を同じ瞳の強さで見つめ返しながら、海馬はゆるりと身を起こしその視線と正面から対峙する。口内に溢れた血液を直ぐ横の地面に吐き捨て赤黒く染まったそこを忌々しく思いながら、こんな馬鹿げた茶番も今日で終わりだと口元に一瞬笑みを刷いた。

 眼前の男を振り回すつもりで振り回され始めたのは自分の方だ。その事に、そこはかとない恐怖と不安を感じた。そんな事は初めてだった。だから、もう潮時だと思ったのだ。これ以上深みに嵌る前に抜け出すのが得策だ。遊びはもう終わりだ。全てを捨ててまた意味のない、しかし己の生を繋ぎ止める日常に戻って行くべきだ。そう思い、ここに足を運んだのだ。

 奴に取っては嫌悪の対象である自分が姿を消す事は、手放しで喜びこそすれ決して厭いはしないだろう。消えてしまえと何度も言われた。これで貴様の望み通りだ。後はどう過ごそうとオレの知った事ではない。……心のどこかでそうではないだろうと呟く声が聞こえたが、そんなものは聞こえない振りをした。

 この間の、放課後の事は夢か幻だったのだ。あんなもの、取るに足らない出来事の一つであり、気にするまでもない。今更セックスの一つや二つ惜しむものでもあるまいし、誰とやろうが同じ事だった。だから、関係ない。そう思っているのに。

 常に自分のペースに相手を堕とし、いいようにされる振りをして好き勝手してきたのは海馬の方で、そんな自分に翻弄される様を心底馬鹿にしながらも幾度も幾度も繰り返した。憎まれても、恨まれても、執着されても最後は相手を容赦なく切り捨ててきた。この男だって同じ事だ。少々勝手が違うものの、最終的には同じ筈だ。何も惑う事はない。何も。
 

── 逃げんなよ海馬!
 

 けれど、目の前の男は、それまでのどの男とも違う反応を示したのだ。突き放す事を「逃げ」等と言われるとは、予想外もいい所だ。こんな事は初めてだった。

 初めて故に、どうしたらいいのか、分からなくなった。
 

「……何故だ」
「知らねぇ」
「関係のないっ……事、だっただろう」
「そうだな。最初はそう思ってたよ。でも、無関係じゃなくなっただろ。散々人を振り回しやがって!」
「それは貴様が」
「うるせぇ。もう一発殴られてぇのか」
「殴ればいいだろう。今までもそうして来た癖に」
「ほら、そうやって挑発する。そして、ノッて来た人間に好き放題させて、ここぞって時に突き放してきたんだろてめぇは。そんな事をして何が楽しいんだ?何になる?」
「……さぁ、何になるんだろうな」
「そうやって、人生何もかも捨てたみてぇにしてんなら、死んじまえば?オレがやってやろうか?」
「………………」
「それも出来ないんだよな、てめぇには。命よりも大事な弟がいるんだもんな」
「………………」
「馬鹿だな」
「何?」
「馬鹿だって言ってんだよ。オレも大概馬鹿だけど、てめぇにはかなわねぇよ」
「一体何が言いたい!」
「分かんねぇ」
「?!」
「分かんねぇよ!オレにも全然分かんねぇんだ!」
「……きっ……」
 

 人を責め立てている人間が発するとは思えない程悲痛なその叫びと共に、何時の間にか未だ鈍い痛みを感じる体は、目の前の男に強く抱き締められていた。最後に会ったあの時のように、骨が軋むほどの強く息苦しい抱擁は、余りの事に硬直した海馬の身体を不愉快なほど締め付ける。

 一体何が。そんな事を思う暇もなく、何故か唇が塞がれた。荒れてかさついた皮膚の欠片が柔らかな海馬のそれをなぞり、血に塗れた口内に温かな舌が潜り込む。傷口に触れるその痛みに顔を顰めて背けようとしても、何時の間にか力任せに顎を掴む手によって逃げる事すら出来なかった。口内を這い回る舌が不快だ。呼吸が苦しい。喘ぐように僅かに顔を反らせた瞬間、生理現象で涙が零れた。

「── っ、う……ん……くっ…」

 硬く閉ざした目尻から流れ落ちたそれは頬を伝い、口の端から溢れた血液交じりの唾液と共に城之内の手を濡らしていく。酸欠になる程長く激しい口付けに、頭の芯が鈍く痺れ、訳が分からなくなってくる。余りの苦しさに僅かに開いた瞳には、今までに見た事ないほど真剣な顔が映りこんだ。その表情に、酷く胸が痛む気がする。

 一体何をしてるんだこいつは。気持ち悪い、早く離れたい。そうは思ってもその意思に反して拘束などされていない両手は思い通りに動かない。まるで熱を発しているような眼前のやや逞しい細身の身体を押しのけようと、漸く持ち上げた両手は、だらしなく開かれた学ランの胸元を掴んだだけで、何の意味も成さなかった。

「……すっげぇマズイ、てめぇの口ん中。吐きそう」

 それから暫く城之内の気が済むまで、キスというには余りにも思いやりのないそれを唐突に終えてぐいと唇を拭いながら、彼は最大限の渋い顔でそんな事を言う。その顔を殆ど視界が定まらない瞳で見返した海馬は、荒い呼吸で満足に言葉も紡げずただ相手を掴む指先に力を込めて思い切り良く引っ張った。その手を、骨ばった褐色の手が上から強く握り込む。

 先程の抱擁と同じ、ギリギリと掴み締めるような力に痛みを感じで顔を歪めると、その様をさも面白いものをみるような目で眺めながら、こんな暴挙を敢行した城之内は掠れた低い声でこう言った。

「オレは、てめぇの事を逃がさねぇよ。振り回しやがった落とし前はきっちりとつけて貰うぜ」
「……それは……どういう意味だ」
「てめぇがいなくなったら。オレのはけ口がなくなっちまうだろ。それじゃあ困るんだよ」
「………………」
「安心しろよ。好きだなんて死んでもいわねぇから。オレは、『てめぇの事が大嫌いだ』」

 感覚が無くなるほど強く握り締めて来る右手の熱さと共に、耳元に囁かれたその台詞に、海馬は瞠目してそれきり何も言えなかった。

 けれど、その熱と痛みが、不快ではなくなってしまった事には気付いていた。

 何かが変わっていく。否、変わってしまった。
 

 そんな埒も無い事を心の片隅で感じながら、海馬はもう相手の顔を見る事が出来ずにただ静かに瞳を閉じた。