Immoral Kiss Act21(Side.遊戯)

「ね、見て!このコート、凄く可愛いと思わない?!あーん、もっと早くこっちに来てれば良かったなぁ」
「今日の目的はそれじゃなかったでしょ。これ以上見てると杏子は皆欲しくなるんだからそろそろ帰ろうよ」
「はいはい。どっちみちお財布はもう空っぽだし、お年玉をあてにするしかないわね。ね、帰る前に甘いものでも食べていかない?あたし喉乾いちゃった」
「ちょっと疲れたし、そうしようか」
「ごめんね、一杯荷物持たせちゃって。でも遊戯が付き合ってくれて助かっちゃった」
「ううん、僕も最近余り付き合えなかったから……」
「そうよね。遊戯ってば、一緒に帰ってもくれないんだから。本田達がぼやいてたわよ。たまには寄り道して帰りたいのにって」
「そっか……悪い事しちゃったなぁ」
「でもそのお蔭かどうか知らないけど、成績も良くなって冬休みだって学校に行く必要もなくなったし、良かったじゃない。順位表に名前が載ってて吃驚しちゃった。急にどうしちゃったの?塾でも行き始めた?」
「塾っていうか……」
「ま、その話は座ってゆっくりしましょ。あそこのカフェのパンケーキ、美味しいって評判なのよ」

 昼間でもキラキラと輝くイルミネーションの中、そのきらめきにも負けない程眩しい笑顔を見せる杏子を眺めながら、僕はどことなく重い足取りで歩いていた。童実野駅から電車で3駅程先にある、最近出来たばかりの大きなショッピングモール。もうどの学校も冬休みに突入し、更にクリスマス前の休日だからどこも人で一杯だ。遠くの方で大きなぬいぐるみを抱えた女の子が、お母さんと手を繋いではしゃいでいる。ここにいる誰もがどことなく浮足立っていた。目の前にいる彼女も勿論その一人だ。

 杏子から「買い物に付き合ってよ」と言われたのは終業式の最中だった。海馬くんの所へ通い始めてからというもの杏子や他の友達と遊ぶ時間が全く取れていなかったから、いい機会だと思って二つ返事でOKした。年末年始は海馬くんも忙しいと言っていたし、僕もその間は友達を優先してこれまでの不義理の埋め合わせをするつもりだった。

 海馬くんとの事はまだ誰にも話してはいない。ただ、廻りの皆は僕が急に付き合いが悪くなった事や、期末考査で極端に成績が上がった事。そして学校に海馬くんが来た時は常に彼と二人で行動していたから『海馬くんと仲良くしている』という事実には気づいているみたいだった。

 ただ、杏子だけは、知っていて知らないふりをしているのか、敢えてその事には触れないようにしているのか僕と海馬くんの事については何一つ言って来なかった。杏子と海馬くんは僕を挟んで多少のやりとりがあった程度で接点なんて殆どなかったから当然と言えば当然だったけれど、それはどこか不自然に見えた。

「凄く混んでたけど、以外にすんなりと席につけたわね」
「時間が丁度良かったのかもしれないよ。今二時だから。丁度お昼とおやつの間だもん」
「何にしようかなぁ。遊戯はどれにする?」
「僕はスフレパンケーキがいいかな」
「じゃああたしはこのチーズパンケーキにしようっと。飲み物は?」
「珈琲」
「……えっ」
「え?」
「ううん。何でもない。じゃああたしはアップルティで」

 女子に人気!の触れ込みで連日大行列を作っているらしいパンケーキ屋に入り、可愛らしい内装と周囲の賑やかな様子に少しだけ気おくれしながら、言われるがままにメニューを決める。それにパタリとメニューを閉じた杏子は慣れた仕草で店員を呼び、二人分の注文を済ませると先に運ばれてきたアップルティーを一口飲んで小さくほっと息を吐いた。僕も同時に目の前に置かれた珈琲に手を伸ばし、ミルクと砂糖を入れてスプーンでかき混ぜる。まだ少し熱いから口を付けるのはもう少し後にしよう。そう思いスプーンをソーサーに置いた時、「ねぇ」と唐突に声がかけられた。顔を上げると、杏子が微妙な表情をして僕を見ていた。

「何?」
「遊戯、いつの間に珈琲派になったの?ちょっと前まで珈琲は苦くて不味いって嫌がってたじゃない」
「……そうだったっけ?」
「そうよ。自販機のカフェオレだって飲まなかった癖に」

 変なの、とちょっと口を尖らせながらそういう杏子の言葉に、僕は思い切り動揺した。流石小さい頃から誰よりも近くにいた幼馴染だ。僕の事を良く見ているし、良く知っている。そして僕も杏子の事は良く見ているし、知っていた。だから、この瞬間に分かってしまった。

 彼女は、僕に『何か』を話したかったんだって。

「ねぇ、杏子」
「何?」
「杏子は、僕に何か言いたい事があるんじゃないの?だから今日誘ってくれたんでしょ?」

 今度は僕が彼女に向かって話しかける番だった。お互いに口にした『何』の言葉にほんの少し動揺が混じっている。僕の呼びかけに杏子は少しきまり悪そうに俯いて、けれど直ぐに気持ちを切り替えた様に顔を上げた。

「やっぱり、分かっちゃう?」
「そりゃ分かるよ。何年一緒にいると思ってるのさ」
「そうよね。うん、ごめん。本当は遊戯とちゃんと話したかったの」

 さらりと彼女の髪が揺れる。海馬くんよりも色の濃い、艶やかなその髪は少しだけ複雑に歪んだその顔をほんの少しだけ覆い隠した。

「あなたと、海馬くんの事」
「……うん」
「聞いてもいい?」
「杏子は、僕と海馬くんの……何が知りたいの?」

 無意識に触れた珈琲カップは少しだけ熱が冷めて暖かかった。取り上げて、一口飲む。海馬邸で飲むような、香りが良く口に残らない味ではなく、ミルクですら誤魔化せない尖った苦みが舌に残った。彼と最後に交わしたキスを思い出す。直前に飲んでいたカフェオレと彼の涙が混じって、甘苦いキスだった。数日たった今もその味がまだ消えないでいる。

「最近、遊戯は良く海馬くんといるようになったよね。学校でも、多分……家に帰ってからも」
「………………」
「少し前に、夕方ちょっとした用事があって遊戯の家に行った時におばさんに聞いたの。最近よく海馬くんの所に行ってるんだって。泊まっても来てるって。……おばさんは勉強を見て貰ってるんだって言ってたけど、普通それだけの為に泊まりになんていくかなぁって、ずっと思ってた」
「……そっか」
「本当は何をしに通ってたの?ううん、通ってるの?」
「杏子はどう思ってる?友達同士の付き合いだと思ってる?」
「……あたしは……」
「もし君が考えている通りの事だったとしたら、僕の事を軽蔑する?」

 最後は杏子の言葉を遮る様に口を開いた。彼女が僕に言いたかった事は僕が今彼女に言ったのと同じ事だ。『海馬くんと付き合っているのか』もっと言えば『関係があるのかどうか』を。

「失礼致します。こちら、スフレパンケーキと、チーズパンケーキです」

 杏子が再び口を開く前に、僕たちの元に大きなパンケーキの乗った皿が二枚運ばれてきた。感じる仄かな暖かさと甘い匂い。誰もが笑顔になるその香りにも、今の僕らの表情を和らげる力はない。

「話は後にして、食べようか?折角のパンケーキが勿体ないよ」
「……そうね」
「写真、撮らなくていいの?杏子はいつも撮ってるじゃない」
「あ、じゃあちょっと待って。二つ並べて撮るから」

 パンケーキのお蔭でほんの僅かに和んだ空気に少しだけほっとして、携帯のカメラを構える杏子をなんとはなしに眺めてしまう。この後、どうやって話をしたらいいんだろう。そんな事を考えながら、僕も携帯を取り出そうとしてある事に気が付いた。着信ランプが点滅している。こっそりとディスプレイを覗き込むと、そこには珍しい名前が表示されていた。

『海馬モクバ -- PM14:20』
『なぁ遊戯。お前の所に兄サマ、行ってないか?』

 近くで数人の男女がじゃれあいながら笑い声を上げている。その賑やかさに交じって耳に届いたその言葉に、僕は一瞬息を飲んだ。

 モクバくんからの着信に気が付いてから少しの間迷った後、杏子に断って席を立った僕は化粧室の近くにある休憩スペースで大きな時計塔の陰に隠れるようにしながらリダイヤルボタンを押していた。数秒後、すぐに繋がった通信にほっとする間もなく聞こえてきたモクバくんの声に動揺する。

 その実、モクバくんが僕に直接連絡をしてきたのは始めての事だった。海馬くんの恋人として認めて貰った関係上連絡先の交換はしていたけれど、特に電話をするような事もなかったからだ。いつもは無邪気に弾んだ声を出す相手の緊張を孕んだ言葉に、自然と僕の顔も強張っていく。

「僕のところに?どうして?」
『実は……兄サマと昨日から連絡が取れないんだ。制服を着て出て行ったから学校には行ったんだと思うんだけど、その後どこにいるか分からなくなっちゃって……もしかしたらお前の家にでも泊まってるのかなって』
「海馬くん、家に帰ってないの?」
『うん。昨日は帰ってこなかった。今までならよくある事だったんだけどさ、最近は無くなってただろ?だからちょっと気になって』
「会社の方は?仕事は、大丈夫なの?」
『んー、色々とやる事はあるんだけど、そんなに急ぐようなものじゃないから仕事は大丈夫なんだけどさ。っていうか、お前がそういうって事は、兄サマそっちには行ってないんだな?』
「うん。海馬くんとは数日前に会ったきりだよ。忙しいから暫く会えないねって言って……僕も今出先だしね」
『そうなんだ。あ、じゃあこんな事してる暇ないよな、ごめんな、邪魔して』
「ちょっと待ってモクバくん。大丈夫だから」

 海馬くんがいない。その事実に僕は大きな衝撃を受けていた。

 どんな理由があったとしても最近は必ず毎日家には帰っていたし、モクバくんに心配をかけるような事もしていなかった筈なのに、一体どうしたんだろう。僕の目が離れたこの隙に枕営業を再開したとでも言うのだろうか、それとも何か別の理由があって帰れなかったのか。どちらにしても普通の状況じゃない事だけは確かだった。

『遊戯?』
「他の人には連絡を取ってみた?」
『一応心当たりは全部当たってみたけど、クリスマスが近いから相手だって忙しいみたいで、皆知らないって言ってた。そもそも営業を全部やめさせてくれたのお前じゃん。兄サマだってそこまで馬鹿じゃないと思うよ』
「じゃあどこに行ったんだろう……?」
『それが分かんないから困ってるんだぜぃ。万が一事件に巻き込まれてたら事だしさ……』
「事件?」
『……あんまり言いたくないけど、オレも兄サマもボディーガードつけてるだろ。そういう事だよ。最近はそういうの、全然ないけどさ。だからオレは兄サマに勝手な行動をして欲しくなかったんだ。今まで何事もなかったのは奇跡みたいなもんだよ。城之内といた時はいつも冷や冷やしてた。あいつとは結構派手に遊び歩いてたからさ』

 モクバくんの口から飛び出た『城之内』の名前に、僕の心臓が軋む音が聞こえた。それと同時に『まさか』という気持ちが沸き上がる。
 

 ── まさか、城之内くんと一緒に?
 

 そんな筈はないと頭では分かってはいても、心がいう事をきいてくれなくなる。最後に抱き合ったあの瞬間、『好きだ』と言った彼の言葉は、一体誰に向けて言ったものだったのか。
 

 …………でも。
 

 でも、海馬くんは。簡単に僕を裏切るような人じゃない。
 

 僕は携帯を強く握りしめて、震える体を時計塔に押し付けながら唇を噛み締めた。高鳴る心臓を押さえつけるように、空いた手でそこをぎゅっと押さえつける。探さなきゃ、彼を。何処にいたとしても、あの手を握る権利はまだ僕にあるんだから。

「モクバくん」

 ほんの少しの沈黙の後、僕は掠れる声を必死に絞り出しながら口を開いた。

「もう少し待っててくれる?僕が探して来るから」
『えっ?心当たりでもあんのかよ?』
「………………」
『遊戯』
「必ず、連れて帰るから」

 モクバくんにただそれだけを言って、返事を待たずに携帯を閉じてしまう。気が付くと、もう20分も経ってしまった。しまった、杏子を待たせたままだった。パンケーキはまだ一口も食べてない。

 逸る気持ちを抑えてその場から走り出す。頭の中はもう大混乱だった。けれど、僕は行動しなければならなかった。

 彼の為に。そして、自分の為に。
「遅くなっちゃってごめん!」
「随分遅かったじゃない。迷ってるのかと思ったわ」

 僕が離れている間に出来ていた店の入り口を塞ぐ行列を押しのけて席に戻ると、つまらなそうに雑誌を捲っていた杏子が呆れたような目で僕を見た。随分と待たせてしまったから怒っているのを心配したけれどその表情は穏やかだ。良かった、と思うと同時にどうしようもない申し訳なさがこみ上げる。

「いいけど、折角のパンケーキも冷めちゃったし。珈琲も取り替えて貰った方が……」

 けれどそんな酷い僕の仕打ちにも杏子は小さく溜息を吐いただけで、特に何も言わなかった。それどころか、優しく面倒までみてくれる。店員さん呼ぼうか?と呼び出しボタンに手を伸ばした彼女を制止して、僕はその優しさを無下にするような一言を言わなければならなかった。

「ううん、いい。僕、帰らなきゃ」
「え?」
「用事が出来ちゃったんだ。だから……」

 ボタンに指を掛けたまま止まってしまった杏子に謝りながら、僕は座る事もしないで席に置きっぱなしにしていた鞄から財布を取り出して伝票を手に取った。そして慌ただしく頭を下げる。

「最後まで買い物に付き合えなくてごめんね。また連絡するから」
「待って、遊戯!」

 そのままレジに向かおうとした僕の腕を反射的に杏子が掴んだ。前に進む力と引き留める力が鬩ぎ合い、がくんと体が大きく揺れる。思った以上に強い彼女の力に僕は驚いて振り向いた。そこには、さっきとは違って酷くむっとしている杏子の顔があった。腕に食い込んだ長い爪がぎゅ、と大きな音を立てる。賑やかなお店には人の騒めきや軽快なBGMも流れている筈なのに僕の耳には聞こえなくなっていた。

「電話、誰からだったの?」

 無音の世界に、杏子の声がやけにはっきりと響き渡る。いつの間にか真っ直ぐに僕を見ていた彼女は問い詰めるような眼差しでただじっと僕の口元を見つめていた。答えを言うまでは離さない。そんな心の声まで聞こえてくる。

「また、『海馬くん』?」

 たった一言。それ以上何一つ口にしていないのに、僕には彼女の怒りが手に取る様に分かった。今まで押さえつけていた何かがついに溢れだしてしまったかのように、杏子は静かに立ち上がり、僕に有無を言わせない調子でこう言った。

「あたしも一緒に行くわ。帰りながら話しましょ」

 それから僕が会計を済ませてお店の外に出るまで杏子は一言も口をきかなかった。ただずっと僕の腕を離さずに何かを考えるように俯いて足だけを動かしていた。外に出ると冬特有の刺すような冷たい風が剥き出しの頬に強く吹き付けてくる。寒くない?と聞いてみたけれど、返事は返って来なかった。

 とにかく彼女を家に送り届けないと……焦る気持ちがそのまま歩調に現れて少しだけ早歩きになっていたその時、杏子が漸く静かな口調で声を掛けてきた。

「……さっき言ったよね。もし、あなた達があたしが考えている通りの関係だったとしたら、軽蔑するのかって」
「うん」
「軽蔑は、しないわ。だって、人が人を好きになるのはどうしようもない事だもの」
「……じゃあどうして杏子は怒っているの?さっきも、電話は海馬くんからなのかって聞いたよね。もしそうだったら、どう思うの」
「……どう思うって……」
「杏子も僕も『この事』には敢えて触れないようにしてたよね。後ろめたい気持ちがあった訳じゃないけど、やっぱり普通じゃないって事は分かってるから、僕もなかなか言えなかったんだ」
「………………」
「海馬くんと僕は付き合ってる。海馬くんの家に通ってたのも、そこで何をしていたのかも、全部杏子の想像通りだよ。黙っててごめん」

 きっかけが与えられたら最後、すらすらと言葉が流れ出た。その瞬間僕は一種の安堵感を胸に抱く。誰にも言えない秘密を漸く口に出来たような、そんな解放感に襲われたからだ。

 海馬くんとの事は家族には勿論、友達にも言えない事だった。今まで余り隠し事をした事がない僕にはそれが思った以上にストレスになっていた事に今更ながらに気づいてしまった。これが普通の穏やかな恋だったらこんな気持ちにはならなかった。

 普通じゃないから、苦しいんだ。

 無意識に開いている方の手で心臓の辺りを強く掴む。その瞬間、少し凸凹しているレンガ道に足を取られ、躓きそうになった。直ぐに掴まれている腕に力が入って、傾きかけた身体は安定を取り戻す。ありがとう、と言おうとして僕は小さく息を飲んだ。そのまま、杏子が立ち止まってしまったからだ。

「あたしは男子の事情は余り良く分からないけど……噂位は知ってるわ。海馬くんは、あなたとまともに恋愛出来る様な人じゃないでしょ。色んな人と隠れもせずに堂々と付き合ってたって言うじゃない。その中には城之内もいたんでしょ?あいつもあいつで色んな女の子に手を出して馬鹿ばっかりやって、本当にどうしようもないんだから」
「………………!」
「でも、城之内が学校に来なくなってから、今度は急にあなたが海馬くんと仲良くするようになって、あたし達と距離を置き始めて……それでも遊戯が楽しそうにしてるのならあたしだって色々と言いたい事はあったけど、言わずに我慢しようと思ってたんだ。だけど……」
「待って杏子。僕は別に変わってないよ。海馬くんとだって、全然……」
「じゃあどうして泣きそうな顔で帰って来たの?今、そんなに辛そうな顔であたしを見るの?」
「え……」
「海馬くんといる時だって無理して笑ってばかりで。あなただけが空回りしてたのよ。気づいてなかった?」

 空回り。その言葉が鋭く心に突き刺さる。

「……僕は」
「ねぇ、遊戯。その恋は、本物なの?」
「……本物?」
「あなたは確かに本気かもしれない。けれど、海馬くんは本当にあなたの事を想ってくれてるの?好きだって言って貰えた?あたしはあなた達が『笑いあっているところ』を一回も見た事がない。ただ側にいるだけじゃ、なんの意味もないんだよ?」
 

『なぁ遊戯。お前の所に兄サマ、行ってないか?』
 

 海馬くんは一回も自分から僕の所に来てくれた事なんかない。今もどこで何をしているか、僕は知らない。好きで好きで仕方がないのに、僕が好きだと明確に言ってくれた事もない。僕の方を見て、僕の腕の中で眠っているのにきっと僕の夢なんか見た事はないんだ。

 どんなに体を繋げた所で、心に指先すら届かない。
 

 ── それでも、僕は。
 

 杏子の声を聞きながら、僕は自分の視界がぼやけている事が気になって仕方がなかった。早く行かなきゃ、と焦る心に体が応えてくれなくなった。つらい、苦しい。今までずっと蓋をして来たその思いに、何故このタイミングで気づいてしまったのだろう。
 

「……ごめんね、遊戯。余計な事言って。でも、あたし……」
 

 目の前で小さく謝りながら腕を掴んでいた手を離す杏子の顔は、もう滲んで見えなかった。

 遠くでジングルベルの音が響いたけれど、耳を塞ぎたくなるような不協和音にしか聞こえなかった。


-- To be continued... --