Immoral Kiss Act20(Side.城之内)

 携帯を三度握り返した所で、勢い良く閉ざして捨てる。充電コードが刺さったままのそれは特に遠くに行く事もなく、無様な格好のまま転がった。誰かに連絡しなければ。そう思いつつ既に一時間が経っていた。消えた携帯の画面には宛先が空白になっているメールが幾つも残されたままになっている。

 時刻は既に12時を回っていた。こんな時間に例えメールであっても受け取った方は迷惑に違いない。けれど、海馬がここにいる以上心配をしている人間が少なくても一人いる。そいつにだけはなんとか連絡を取りたかったけど、何と言えばいいのか分からずに結局そのまま放置した。オレが海馬を預かってるなんて知れた日には、奴が行方知れずになる事以上に心配をかけると思ったからだ。

 それに、海馬もオレが身内に接触する事を快くは思わないだろう。そもそもオレが奴の元に駆けつけた事自体に酷く驚いていた様子だった。勿論海馬はオレが『この事』を知っているとは想像もしなかっただろうし、仮に知っていたとしても駆けつけるとは思わなかっただろう。確かに昔のオレだったら放置していたかもしれない。過去に何度か「噂になっているから気を付けろ」と忠告をしていたのだから。

 けれど、今回の事は奴の噂とは余り関係無い、オレ自身が引き寄せた出来事だ。見て見ぬ振りなんか出来るわけがない。例え今は関係が無くても最低限の責任位は取らなければ。それ位の常識はオレにだって残っている。そう思って、取るものも取らずに駆け付けた。元々最悪の事態だったけれど、それ以上悲惨な事にならなくて済んだのは幸いだった。その事に、心の底から安堵した。

 ふと、喉の渇きを覚えて席を立つ。そう言えばオレも海馬も何も口にしていなかった事を思い出す。少し前に本田とファーストフードにいたオレはともかく、海馬は朝から学校にいたとすれば碌なものを食べてないだろう。奴が学校で昼食を取っている所を見た事がない。尤も、遊戯とはどうだったのか分からないが。

 そんな事を考えて、自然と大きな舌打ちをする。なんだろう、やけに苛立つ。以前なら海馬がどんな状態だろうとどうでも良かったし、オレの知らない所で何をしていようが大して気にも留めなかった。なのに、今は。

「………………」

 キッチンに向きかけた身体を留めて、隣の部屋へと足を向ける。この家に寝具はオレと親父のものしかないから、必然的にオレの布団に寝かせるしかなかった。こんなに寒くなるまで自宅に帰る事がなかったから、冬布団の在り処を思い出せず、仕方なく数枚の毛布と石油ストーブで対処した。

 一歩部屋に入ると乾燥しきった暖かい空気が押し寄せて喉を刺激する。こんな中で寝ていたら喉が乾かない方がおかしいだろう。奴は相変わらず眠っているのか、盛り上がった毛布は呼吸の為に上下するだけでピクリとも動かない。

 無理もないか。マワされただろうしな。

 そう思うに付け、一旦収めていた怒りが沸々と沸いて来る。けれど、それを全面的に詰る資格等オレにはなかった。奴等とつるんでいた時に、似た様な事を散々して来たからだ。して来た事なのに、こうなる事を予想出来なかった。本当に、馬鹿としか言いようがない。この落とし前は今度きっちり付けてやる。骨が軋む程左手を強く握り締めて、オレは戸惑いがちに足を進めた。そして水分を取らせる為、眠る海馬の背後へ座り込む。

 毛布から僅かに出ている表情はあんな目にあったにも関わらず、苦しそうでもなく穏やかだった。そう言えば最後に見た奴の顔は酷くやつれていて、眠っている事すら辛そうでとても見ていられなかった事を思い出す。この手で散々弄び、傷付けて、言葉で留めを刺した後に捨て去った。

『お前ってさ、飼い馴らされた挙句捨てられた野良猫みてぇ』

 昔、海馬を捨て猫に例えた事があった。あの時は我ながらすげー上手い事を言ったと面白半分に考えていたけれど、今は心の底からその例えが的確だったと思える。興味を持って拾った捨て猫を、構えるだけ構った挙句飼う事も出来ずに手放して、別の思いやりのある飼い主に拾われた事。新しいご主人様に大事に大事に育てられ、見かけは元より、表情さえも変わって行った。今の穏やかさは、そのままこいつの幸福度を露わしているんだろう。

『僕と一緒に寝ると、海馬くん……たまに泣くんだ』

 寂しそうに笑う遊戯の顔を思い出し、溜息を吐く。嘘吐け、こいつはこんなに安心しきって寝てるじゃねぇか。こんな寝顔、オレは一度も見た事がない。勿論泣いた顔も……そんなの想像すら出来ずにいる。今日だって一度も、気配さえも見せなかった。泣くシチュエーションとしては十分だったにも関わらず。

 仮に遊戯の前で泣いて見せた事があるとすれば、それはきっと幸福であるが故だ。昔からそういうものとは縁が薄い奴だったから、突然降って沸いた幸せな時間に対応しきれなかっただけだろう。嬉し泣きって言うじゃないか。きっとそれだ。そうじゃなければ、この身も心も凍りついた様な男が泣く訳がない。

 そこまで考えて、何故か堪らなくなってオレは海馬の肩に手を伸ばした。毛布ごと軽く掴んで、出来るだけ傷に触らない様に優しく起こしてやるつもりだった。けれど、その指先は奴の肩に届く寸前で留まった。何故ならその唇が、ある名前を呼ぶ様に動いたからだ。

 そして。

 伏せられた目の淵に僅かに光るものを見つけた。部屋が薄暗い所為で良く見えなかったけれど、うっすらと盛りあがったそれは、まるで溢れる様に肌を伝って落ちて行った。

 涙だ。

 そう思った瞬間息を飲む。ここはオレの家で、傍らに座るのは遊戯じゃなくてオレの筈なのに、何故この男はこんなにも無防備に泣いて見せるのだろう。今まで散々その事に想いを巡らせていた分、それは余りにも衝撃的な事実だった。思わず、伸ばした指先を引いてしまうほどの。

 それから暫く、オレは僅かにも動く事が出来なかった。ただ無性に目の前で声も立てずに泣く元恋人を抱き締めてやりたくなった。

 随分と身勝手な話だけれど。
 それから数時間後。何時の間にか海馬のすぐ横で寝ちまってたらしいオレは、肌寒さに目を覚ました。近間の時計を覗き込むと時刻は午前6時前。カーテンの隙間から見える外は真っ暗でちらほらと白いものが落ちていた。雪だ。……という事は、今日はホワイトクリスマスイブになる。そんなどうでもいい事を思いつつ、すっかり乾いてしまった喉を潤す為、置き上がる。

 海馬は未だ静かに眠っている。昨夜は思いがけず目にしてしまった涙に心底動揺したけれど、今はもうその痕跡すら見当たらず、至って普通の寝顔だった。……海馬もこの乾燥した部屋で長時間寝ていたのだから、喉は乾いてるに違いない。勿論腹も減ってるだろう。そう思ったオレはとりあえずお湯を沸かそうと、台所に行って薬缶に火をかけ、昨夜店から買って来た幾つかのレトルト食品を吟味した。

 暫くして甲高い音が響き慌てて火を止めに行くと、そこで漸く海馬が目を覚ました。身動きするのすら辛そうな様子で、酷く掠れた声で呻いたので、「大丈夫か?」と声をかけた。そこから細々とした会話をして、とりあえず食事をさせなければと再びオレは台所に戻ってくる。

『貴様はどうするんだ』

 結局、これが一番いいだろうと選んだたまご粥のパッケージを開けながら、オレは最後に紡がれた奴のその言葉の意味を考えていた。どうするんだ、とはどういう意味なのだろうか。オレ自身の事なのか、それとも海馬に対しての事なのか。余りにも曖昧なその問いかけに、オレは無い頭を絞ってあれこれと考えてみたけれど、結局明確な答えは浮かんで来なかった。

 今のオレに出来る事は、オレが原因で酷い目にあっちまったアイツをとりあえず動ける状態にまで回復させ、奴のテリトリーに帰してやる事だけだ。それ以上の事は特に考えてもいないし、考えてはいけないと思った。当然だ。もうオレと海馬は何の関係もない他人同士だ。ましてや関係を壊し、奴を捨てたのはオレの方で、向こうにはれっきとした新しい恋人が存在している。しかも、その恋人はオレの大親友だ。何をどうする訳にもいかないだろう。

 でも、とオレの脳裏に響く声がある。それは紛れもない自分自身の声だ。

(でも、お前は海馬の事を本当に捨て切れていないじゃないか)

 その声に、違う、とはっきり言い切る事は出来なかった。現にオレの脳内には「未練」という二文字がまるでタールの様にこびりついている。海馬と別れた後色んな女と寝てはみたけれど、好きになれる相手なんて一人もいなくて。皆ただ、その場凌ぎみてぇな扱いになっちまった。尤もそれは海馬と付き合う前も、付き合っていた時も変わらなかったけれど。

 そもそもオレの事を本命にするような女に巡り会う事すら無かったかもしれない。そう考えると、後にも先にも本当に好きだと思えたのは海馬だけだった。唯一の男で、唯一の本命で。そんな存在を「相手を思い遣るが故」いう実にオレらしくない理由で捨ててしまった。そして案の定、後悔している。

『貴方は何時からそんなにいい子になったのかしら?』

 年上の彼女に言われた言葉が今になって重く心に圧し掛かる。そうだ、オレはいい子なんかじゃない。近年稀に見る最低な駄目男だ。自分がやりたいと思った事は全てやって、嫌な物は全部投げ捨てた。それで人が泣こうが傷つこうがどうでも良かった。今だってその本質は変わってない。変わっていないけれど、それが当然とも、楽しいとも思えなくなった。ただ、虚しい。

「………………」

 頭が混乱する。考えれば考えるほど、自分が何をどう思ってるのかすら分からなくなってしまった。仕方なく、軽く頭を振って小難しい事を脳内から追い出すと、数分温めて熱くなったたまご粥を茶碗に移して白湯や薬と一緒に盆に乗せた。とりあえずは目の前の怪我人の介抱が先だ。後の事はなんとでもなる。

 大きく肩で息をして、オレの部屋に続く扉に手をかける。

 奴と対面する事に妙に緊張する自分がおかしかった。
 意外な事に海馬は出したものを全て平らげて空の器をオレに返して来た。この時点で時刻はまだ7時にもなってなくて、今日予定されている補習までは大分時間がある。何となく手持無沙汰になってインスタント珈琲の存在を思い出したオレは、自分用のカレーの最後の一口を飲み込むと「珈琲でも飲むか?」と聞いてみた。すると海馬は、驚く事にミルクはあるのかと聞いて来た。

「最近はカフェオレしか飲んでいないからな」
「カフェオレ?お前が?……いつも胃がぶっ壊れるレベルの濃いブラックしか飲まなかった癖に」
「慣らされたのだ。仕方あるまい」
「……遊戯にか?」
「……他に誰がいる」

 それきり膠着してしまった会話に、オレは気まずさから席を立つと珈琲を入れに行く。確か棚の中にまだ期限が切れていない珈琲用ミルクが有った事を思い出し、探してみるとまだ未開封のものが見つかった。量なんて分からないから適当に蓋で量ってカップに入れる。ついでだからオレのにも同じ分量を足してみた。カフェオレなんて飲むのは随分と久しぶりだ。見た目通りの優しい匂いが珈琲の香ばしい香りを暖かく包み込む。まるで遊戯のようだと、なんとなくそう思った。

 適度に熱いカップを注意を促しながら渡してやると、その事に不思議そうな顔をしながら海馬が応じる。受け取ったカップを両手で優しく包み込み、緩く息を吹きかけている様は、なんだか小さな子供の様で可笑しかった。思わず小さな笑いを零すと、蒼い目がちらりとオレの顔を見る。カーテンを開けない所為で部屋の中は薄暗いのに、その輝きはやけに鮮明に目に映った。

 不思議だ。コイツの顔なんて今まで嫌と言うほど見て来た筈なのに。何故か始めてみた様な感覚に陥る。こんな空気も今まで経験した事が無い。何かがおかしかった。オレがその事を素直に海馬に告げようとすると、奴も同じ事を思っていたのか、未だぼんやりとした顔付きのままカップを離し、静かな声で口を開く。

「……妙なものだな」
「何が」
「貴様とこういう時間を過ごした事など数えきれない程あると言うのに、何かが違う」
「え?」
「そうは思わないか?」

 余り抑揚のない、けれどもはっきりと感情を露わにしたその声に、オレは一瞬答える言葉を失ってしまう。海馬の言う事は一字一句全て違わずオレが言いたい事だった。そう、何かが違う。場所とか時間とか、そんな当たり前の事は置いておいて、以前と決定的に差が有るのはなんなのか。それは、勿論恋人じゃ無くなったというその一点だけで。こんなに単純で明快な事を敢えて言うのも馬鹿馬鹿しいとオレも海馬も思っている。

 それを『理解』出来ている事が、『何かが違う』この雰囲気に影響されているのだろう。  

 以前はこんな風に相手の事を考える事はなかった。いつも優先するのは自分の事ばかりで、相手もそれを望んでいるのだと思っていた。それが、オレ達の思う自由な恋愛のスタイルだと思っていた。けれど、それは大きな間違いで。本当はオレもお前もこんな風に相手の事を思い遣れる恋をしたかったんじゃないだろうか。

 ……けれど。それに今気づいた所でどうなると言うんだろう?

 オレはさっき一度手を伸ばして思い直した内ポケットを探り、煙草を一本取り出した。そして、目の前にいる海馬に特に訊ねもせずに火を点けて深く吸う。煙を十分肺に行き渡らせた所で、溜息と共に吐き出した。頭が少しくらくらする。

「前とは違うだろ。今は」

 本当は、ちゃんとした話がしたいのに、何故かただ単語を並べる様な物言いになってしまう。未だ自分の中でごちゃごちゃになっているものを整理もせずに口に出す事は出来なかった。それでなくても、オレは自分の気持ちを人に言うのが苦手だった。上手く言う事が出来ない所為で、妙な誤解をされる事が多かったし、言えたとしても理解を得られる事がなかったからだ。

 面倒臭い、どうでもいい。そんな投げやりな言葉で自分も人も切り捨てて、適当に、好きなように生きて来た。だから、頭も心もからっぽでどうしようもない男になっている。くだらねぇ、と心の中で吐き捨てる。今更何をどうしようとも、失ったものは戻らない。例え、目の前にいたとしても。

「……確かに、違うな」
「だろ?だから違って当たり前なんだよ」
「昔の貴様はこんな風に情を見せたり、甲斐甲斐しく世話などしなかった」
「ああ」
「ともすれば『オレに迷惑をかけるな』と罵ってさえいただろうな」
「そうかもな」
「ならば何故、今はこんな真似をする?まさか責任を感じた訳ではあるまい。今回の事はあの馬鹿共が勝手に勘違いをしただけの話だ。発端は貴様だったとは言え、直接の原因ではないだろう。それこそ貴様自身が迷惑を被った事例だろうが」
「………………」
「オレが、貴様のものではなくなったからか?」
「何?」
「『恋人』じゃなければ、貴様は優しく出来るんだろう?過去にそう言っていただろうが。これがその一例か?」
 

『オレもどうしてかわかんないけど、お前にだけは優しくしようとか思えないんだ。他の誰にでもそんな事は簡単にできるのに、恋人の……お前にだけは』

 

 海馬の言葉にどう返したらいいか分からなくて答えに窮していると、不意に昔の事を思い出した。そうだ、昔のオレは間違いなくそう言っていた。恋人にだけは優しく出来ない。オレのモノだから優しくする必要はない。それが嫌ならやめちまえばいい、と。結果、そのスタンスに逆らいもせずに付いて来た海馬を手放したのはオレの方だった。自分で貫いていたものを自分自身が一番嫌になったなんてどうかしている。けれど、それが事実だった。

「……そんな事も言ってたよな。そう言えば」

 言葉は過去形だったけれど、この気持ちが既に過去形かは分からない。あれ以来、新しい恋人もなく、真偽が確かめられなかったからだ。それを言おうか言うまいか迷っているうちに、海馬は再び目を伏せて、手の中のカップを握り締めた。そして、小さな声で先程と意味は違えど同じ言葉を口にする。

「貴様はオレの事情を知っているだろうが、貴様はどうなんだ」
「どうって?さっきも似た様な事言ってたけど。どうなんだとか、どうするとか、オレには意味がわかんねぇ」
「恋人は、いるのか?……そして、オレをここに置いておいてもいいのか?……オレが貴様に問うてる『どうなんだ』と『どうする』の言葉の真意はその二つだ。まぁ、二つとも意味合い的には同じだがな」
「………………」
「どうなんだ、城之内」

 海馬は何時の間にか真っ直ぐにオレを見て、まるで尋問する様な音声でオレの名前を呼ぶ。名を呼ばれた、ただそれだけで、オレの心臓は馬鹿馬鹿しい程跳ね上がり、ぎゅっと胸が痛くなった。その瞬間、ぐちゃぐちゃになっていた心の中で、これだけは確かだと思うものを一つだけ見つけ出す。

 それを見えない手で強く握り締め、オレは乾燥している空気の所為で少しひび割れてしまった唇を噛み締めた。そして、海馬の目を見ない様に目を閉じて口を開く。

「いねぇよ、そんなの。見つける事すらしていない。だから、別に心配しなくてもここには誰もこねぇし、オレを呼び出せる権限がある奴もいない」

 その言葉を海馬がどう受け取ったのか、頑なに奴の顔を見なかったオレには良く分からない。でも、微かに息を飲む気配だけは伝わった。それはどう言う意味なんだと今度はオレが聞きたかったけれど、「そうか」と事も無げに返された声にそれ以上何も言えなかった。

 カップに半分だけ残ったカフェオレは、既に酷く冷たくなっていた。