Immoral Kiss Act19(Side.海馬)

 久しぶりに訪れた学校は冬季休暇に入った事も有り、人気も無く閑散としていた。昇降口に入り、下足箱から上履きを取り出しながらざっと目をやると、所々に汚らしい外用スニーカーが乱雑に放り込まれているのが見える。

 確か補習授業も今日からだと言っていたか。何故満点を取れないのか不思議に思う様なレベルの低いテストで、赤点を取る様な奴等と同じ教室で学ばなければならないのは嫌気が差すが、進級の為に必要とあらば仕方がない。そういえば、夏季休暇の時も似た様な手間を踏んだ事を思い出し、一人重い溜息を吐いた。成績がいいだけではどうにもならないこの制度は面倒臭い以外の何者でもない。

 靴を履き替え、とりあえず呼び出しをしたらしい担任の元へと足を向ける。鞄の重みの殆どを担っている課題の束を早く置き去りにしたいという気持ちもあった。既に授業は始まっているのか廊下を歩いていても行きかう生徒や教師の姿はない。余りの静けさに本当に今日で良かったのかという疑念を覚えたが、職員室へ繋がる階段に足をかけた時、頭上から耳障りな男達の声が聞こえた。

 大方、補習を受けに来た出来の悪い奴等なのだろう。辺りが静まり返っているのにも関わらずゲラゲラと下品な笑い声を立てながら、必要以上に床を踏み叩きながら上階から降りて来る。勿論オレには関係のない集団だった為、素知らぬ振りをしてさっさと行き違おうと足を速めた。

 しかし狭い階段で、相手は礼節やら常識やらの単語を頭に過らせる事もない様な連中だ。当然階段をすれ違う人間の為に左右どちらかを空けて通る、等と言う真似をする筈もない。程無くして、オレはまるで壁の様な数人の男達と階段上で対面する事になってしまった。惜しい事に後一歩で少し広い踊り場があるというその手前でだ。

「あれ、こいつ海馬じゃね?」

 チッと心の中で舌打ちし、素直に「そこを通るから退いてくれないか」と言おうとした矢先、三人いる男達の内の一人が徐にオレの顔を覗き込み、不躾にも人の名前を呼び捨てにした。勿論オレには一切面識のない男だったから余計に面喰ってしまう。こんな低俗な輩がオレに何の用があるというのだ。名を呼ばれた所為で思わず顔を上げてしまうと、他の二人も口を合わせて「あ、マジで海馬だ」等と言い出した。ますます不可解だ。

「丁度良かった。いつかお前を捕まえられたらって思ってたんだよな、オレ達」
「そうそう」
「……何の用だ?オレは貴様等に用はないが」

 ガムでも噛んでいるのか、些か不明瞭な声が真正面から投げつけられる。本当に意味が分からない。何故このオレが、目線さえも交わした事がない様な奴等にこんな事を言われなければならないのか。途端に胸に不快感が込みあげる。どうせ碌でもない事なのだろうと言う事は雰囲気で分かる。ならば相手をしてやる道理はない。そう即座に判断したオレは直ぐに目線を外すと、奴等の壁を突破する事は諦めて別のルートを使おうと踵を返した。が、何故か翻した身体を強い腕に掴まれてしまう。

「何だ?触るな!」
「まぁ待てよ。職員室に行くつもりだったんだろ?ここ以外じゃ遠回りになるぜ?」
「ならばそこを退いて貰おう。オレは急いでいる」
「んじゃ、お前の用事を待っていてやるからオレ達に付き合えよ」
「何を言っている?大体、貴様等は何だ?オレに何の関係がある」
「お前には直接関係はねーよ。まぁ、関係を持ちたいとは思ってたけど?」

 オレの肩を掴んだ男がそういうと、隣の二人は何故かニヤニヤと笑いながら「赤間君やーらしー」等と囃し立てる。下らん、と心底軽蔑し掴まれた肩を振り解こうと力を込めたその時、男の口から意外な名前が飛び出してオレの動きを封じてしまった。

「城之内、知ってんだろ。オレ達、あいつのダチなんだわ。んでも最近とんとお見限りでよ、何してんのかなーと思ってたら、お前と仲良くしてんの見かけた訳」
「!!…………」
「お前と城之内がダチって訳はねぇよな?オトナの関係だったんだろ?お前、元々そういう事ばっかりしてたもんな。奴も沢山いるペットの内の一匹だろ。幾ら払ってヤってんのかしらねーけど、城之内のオトモダチのオレ達もお前のペットに加えて貰えねぇかなぁって思ってた訳」

 元々はこんな言葉遣いをする様な連中じゃないのだろう。妙に気色の悪い、言うなれば猫撫で声の様なそらぞらしい物言いで、とんでもなく下劣な事を言って来る。言葉を発しない男達の下品た笑いも気に障り、オレは一瞬止まってしまった己の身体を叱咤すると、身を捩って男の手を振り解き持っていた鞄をその顔面に叩きつけてやろうと振りかぶった。

 が、相手は場数を踏んでいる喧嘩のプロだ。オレの動きなど直ぐに見越して鞄を力任せに弾き飛ばすと、そのまま腕をがっちりと掴んで来る。

「おっと、無駄無駄。喧嘩でオレ等に勝てる訳ないだろ。で、どうなんだよ」
「ふざけるな!誰が貴様等に!」

 空いている左手で対処しようと試みたが、それは直ぐに他の男に拘束された。幾ら人より身体能力が勝っていたとしてもこの不安定な場所で、三人の男に囲まれた状態ではどうしようもない。握り締められた二の腕が悲鳴をあげる。無駄に大柄なその体躯に似合った馬鹿力だった。

「城之内とはヤれても、オレ等とは出来ねぇって言うのかよ。似た様なもんだろ?」
「むしろオレ等の方が紳士的なのにな。テクニシャンだし」
「自分で紳士的とか言っちゃうか。くだんねー」
「オレはやんねーぞ。男とかマジ無理ってこないだ言ったじゃん」
「別にてめーに参加しろとは言ってねーよ。とりあえずここじゃ不味いから場所移そうぜ」
「ヤリ部屋に男連れ込むとか頭イカれてんなーま、いいけどよ。見学すんのも勉強ってね」

 最早オレの事など完全に無視をする形で奴等は勝手にそう話を纏めてしまうと、強引にその場から移動しようとする。なんとか逃げ出そうにも身体を拘束された状態で、しかも人の気配も感じない。こんな場所で何をどうする訳にも行かなかった。

 それでも抵抗を試みた結果、鳩尾に強い衝撃を感じ、激痛や吐き気と共に視界が暗転した。その方が手っ取り早いと判断したのだろう。ゆっくりと手足の力が抜けていく。

 最後の瞬間、どこか遠い場所で、酷く愉快そうな笑い声と共にこんな台詞が耳に届いた。
 

「城之内の野郎の反応が楽しみだよな。怒り狂うぜきっと。オレ達の好奇心も満たせるし一石二鳥ってヤツ?」
「お前ってほんと性格悪いよなー。素直にボコり返せばいいじゃねぇか」
「それじゃー芸がねぇだろ。勿論こないだのお礼もきっちり返してやるぜ」
「はいはい。センコーに見つからねぇ内に早く行こうぜ」
 

 馬鹿な事を、とそう思った。今更オレに何をしようとあの男にはなんの関係もないと言うのに。

 心中でそうほくそ笑みながら、オレは意識を手放した。男達の笑い声が何時までも頭の奥底で響いていた。
 沁み入る様な冷気がコンクリートの床から粗末なマットを通して身体を震わせる。息を吐くと視界が僅かに白く濁った。大分気温が下がってきているらしい。冬も深まりつつあるこの季節では当たり前かとオレは投げ出したままだった手足を苦労して引き寄せて、重すぎて自分のものではないような身体を仰向けた。

 しかし思った以上にダメージが酷く、立ち上がれない。無理もない、男の扱いなど知らない連中に弄ばれ、不利な体勢で抵抗すれば容赦なく殴られた。身じろぐと激痛と共に身内からドロリと精液が溢れ出る。口内も同様にあの青臭い独特の匂いと、切れた箇所から滲んだ血液の生臭さで至極不快だった。

 当てつけ目的の強姦など企てる奴等に躊躇や配慮などある筈もない。むしろオレが抗えば抗う程エスカレートした。それがまた女とは違って愉快だったのだろう。全く、馬鹿馬鹿しい事この上ない。終始きつく握り締めていた指先は悴んでいる事もあってなかなか開かず、開こうとすると鈍く痛んだ。

 ……そう言えば今は何時なのだろう。冬時間である所為か外は暗くなり、窓から差し込む明かりも弱弱しく僅かに周囲の様子を探る事位しか出来ない。

 奴等が「ヤリ部屋」と言っていたこの場所は足を踏み入れた事は無いが、存在自体は知っている旧体育館隅にある用具庫で、旧と言う名の着く通り今は殆ど利用される事がない、まさに不良どもが塒として利用するには打ってつけの空間だった。汚らしくまき散らされたゴミや煙草の吸殻、下衆な玩具やコンドームなどが床に無造作に散らばっている。奴等の私物なども多量にある事から普段から頻繁に利用されているのだろう。

 現にオレが今転がっているこの場所も、饐えた匂いと共に血やそれ以外のものがかなり色濃く沁みついている。苦手な煙草の匂いも相まって猛烈な吐き気を覚えたが、これ以上汚物に塗れたくはなかったから、浅く呼吸を繰り返す事でやり過ごした。その些細な仕草一つとっても身体の奥に痛みを感じる。忌々しいと唾棄したい気分だったが、そんな気力すら残されていなかった。

 しかし、これから一体どうすればいいのか。

 最悪な事に制服を取り去らずに暴行された所為で、身に着けている物は見るも無残な有様だった。一目見て何があったか分かる様な格好で家や社に戻る訳にはいかず、かと言ってそれ以外に身を落ち着かせる事が出来る部屋も持ってはいなかった。それどころかこの様相では外を歩く事すら出来ないだろう。尤も物理的にも無理がある為、一人ではどうしようもないのだが。

 だが、ここでぐずぐずしている訳にもいかなかった。今更腕時計の存在を思い出し、時刻を確認すると午後6時を回っていた。後1時間もすれば見回りの教師が訪れて倉庫の鍵を施錠してしまうかもしれない。その前に声をかければいいだけの話だったが、こんな所を他人に見られる位なら死んだ方がマシだった。それ位のプライドがまだ自分の中にある事にオレは密かに安堵した。安堵して、心の中で嘲笑った。

 とりあえず、痛みを堪えつつ身を起こす。一応身繕いらしい事をしてくれたのか、ただ前を合わせてあるだけのシャツと学ランをきっちり着込み、ジッパーとベルトが放置されたままだったスラックスもしっかり身に着けた。

 その間にも頭の芯が鈍く痛み、目眩を感じる。徐々に暗くなる室内では吐く息の白さだけが鮮明だった。マットに着く指先が疲労のせいか、それとも寒さの所為なのか細かく震えて止まらない。

 不意に、のろのろと上げた視界の先に明滅する小さな光が飛び込んで来た。酷く目に馴染んだ淡いブルーの光は、携帯の着信ランプだと言う事に気付く。そう言えば携帯は制服の内ポケットに収めたままだった。押し倒された衝撃で床に転がり落ちたのだろう。まるで這う様に身を伸ばし、光の元へと手を伸ばす。指先に触れたそれは確かにオレの携帯で、乱雑に扱われた割にどこも傷ついてはいなかった。引き寄せて、握り締める。

「………………」

 この携帯で誰かに連絡を取る事は可能だった。しかし、取るべき相手が定まらない。己が好んで『仕事』や『遊び』でした事なら身内の人間やモクバにさえ、堂々と告げる事が出来る。何くわぬ顔で、何時もの声で、一言「迎えに来い」と言えただろう。何故なら仕事や遊びなら行為に利害は伴えど危険など皆無だったし、これまでも体調不良はあったものの身体を傷付ける真似だけは決してしなかったし、された事もなかった。

 だが、今は違う。

 見知らぬ相手複数人に、しかも学校で強姦されたなど前代未聞だ。身内に知られでもしたら、あからさまに騒ぎになるだろう。彼等にいらぬ心配をかけるのは本意では無い。故に即座にその考えは脳内から削除した。それと同時に、遊戯の名前も除外する。

 この事を身内に知られる以上に遊戯に知られるのが嫌だった。事の現凶が城之内である為に巻き込まれてしまう可能性がある。関わらせない方がいいのは明白だった。勿論そんな理由は建前に過ぎ無かったが、兎に角絶対に知られたくない。

 奴と暫く会う事がないのは幸いだった。問題だったクリスマスを越してしまえば多忙を理由に年明けまでは引き延ばせる。一週間もすれば外見上は何事もなかった様に見せる事が出来るだろう。……最近浮かない表情ばかりしているあのあどけない男の顔をこれ以上悲哀に歪ませたくはなかったし、オレ自身惨めな気持ちになりたくなかった。

 ……二つの可能性が潰えた今、残すは数多の交際相手だったが、やはりこれも学校という場所がネックで利用する事は出来なかった。これがせめてその辺のホテルや路地裏であったならば、社会的信用面が災いし決してこの事を口外などしない……いや、『出来ない』相手に助けを求める事は可能だった。だが、ここでは人を介さずに直接本人と会う事は難しい。本人の口が固くてもその周辺の人間が漏らさないとも限らないからだ。

 忌々しさに舌打ちする。結局、どうあっても自力で抜け出さなければならないのだ。とにかく、学校を出る事が出来ればなんとでもなる。そう決意し、なけなしの力を振り絞り立ち上がろうとしたその時だった。

 ガタ、と少し遠くにある錆びついた扉が音を立てた気がした。まさか、もう見周りの教師が来たのだろうか。今の音が施錠を確認するものだったらお終いだ。明日の朝まで……否、既に冬季休暇に入った今では最悪の場合『奴等』が再びこの場に訪れるまで閉じ籠められてしまう事になる。冗談じゃない。かと言って声を張りあげる事も出来ない。

 万事休すだ。

 唇を噛み締めながらオレが首を垂れたその刹那、音を立てた扉は勢い良く左右に開かれた。

 そして、予想だにしなかった男が現れたのだ。

「海馬!!」

 耳を劈く様な怒号と共に男の視線がオレを捉える。瞬間、鋭く息を飲む音が響き、まるで転がり込むように奴は目の前へと駆けて来た。酷く急いで来たのだろうか、荒い呼吸をおさえもせず、額に流れる汗をそのままに、奴は……城之内はその場に膝を着くと言葉も無く顔を伏せた。そして、力任せに両肩を掴みあげる。

 その事に酷い痛みを感じたが、オレは余りの驚愕に言葉を発する事が出来なかった。
 

 息苦しい程の沈黙が、この狭く汚い空間に重く圧し掛かっていた。
 遠くで、酷く大きな音が響いていた。

 その悲鳴の様な甲高い音はオレの日常生活の中では全く馴染みの無いものだったが、何処か懐かしい気がして頬を緩めた。しかし、それは直ぐに感じた人が室内を歩く気配と、かちりという響きと共に訪れた妙な静けさに一瞬にして引き締まる。そして、はっとして自らが置かれた状況を把握し、身を起こそうとして出来なかった。

 素肌に触れている安っぽい毛布の感触が妙に刺激的に肌を刺す。鼻の辺りまで覆っていたそれを取り払う事もせずに深く息を吸い込むと、埃っぽさに交じって覚えのある匂いがした。もう二度とこんなに近くでこの香りを感じる事はないと思っていた。だが、オレは今奴の部屋の奴の寝具に横たわり、ぼんやりと薄汚れた壁を見つめている。

 毛布からはみ出た右手首にはかなり色濃い紫色の痣が出来ていた。掴まれた時に出来たものだろうか。こんなものが身体のあちこちにあると思うとうんざりする。消えるまでどれ位の時間が掛るだろう。本当に迷惑な事だった。

「起きたのか?」

 不意に背後から声をかけられ、図らずも肩を跳ね上げてしまう。それを見たのかどうかは分からなかったが、声を上げた男は無遠慮に人の身体を跨って目の前にやってくると徐に口元に指で触れて来た。その指先の余りの冷たさに少しだけ顎を引いたが、構わず奴は目を眇めてその場所を凝視している。そしてまるで独り言のように「酷いな」と呟いた。

「その口じゃ、食うのは無理かも知れねぇな。柔らかいものならいけそうか?」

 言いながら、手にしていたらしい白いビニール袋の中を見分している。その間も奴……城之内は一度もオレの目を見ようとはしなかったし、話しかけている口調ではあるが、言葉も全て独り言だった。そして、そんな奴にオレも一言も言葉を発せずにいた。

 こんな時、何を言ったらいいのか見当もつかなかったからだ。
 数時間前、どういう訳か件の倉庫に現れた城之内は、無言のままオレをその場から救い出し、自宅へと連れ込んだ。旧体育館を抜け出す際、校舎からは死角となる裏門脇の狭い路地の片隅に置かれていた見覚えのあるバイクを見つけた事から、奴はそれであの場までやって来たのだと理解した。

 普通ならそれで帰るのだが、オレがこの状態では無理と判断したのだろう。何処からかタクシーを調達して来て無理矢理乗せられた。汚れた身形の事が気になったが、奴は何時の間にかオレの荷物を抱えていて、その中にあったコートで外見上は事無きを得た。この間もオレ達は一言も会話を交わさなかった。

 タクシーに乗った時点でオレは意識を失って、気付けば素肌に毛布を巻き付けられた状態でこの布団に転がっていた。身体に残る不快感が痛みだけを残して綺麗に拭い去られていた事から、奴はご丁寧にも表面上の汚れや体内の残滓まで処理をしてくれたらしい。頬に掛る己の髪が少し湿っていた事がいい証拠だ。昔なら、こんな面倒臭い事は死んでもお断りだと豪語していた癖にどういう風の吹き回しだと驚いた。

 だが、元はと言えばオレがこんな目にあったのもこいつの所為だ。そう考えるとして当然だと言いたくもなる。尤も、その事について奴を責めるつもりもなかったし、実際災難だったと思う位で留まっていた。あの下劣な男共に対しては怒りを感じるが、城之内には非など無い。「奴等の下らない勘違いで、互いにとんだ目にあったものだ」とさえ言ってやりたい気分だった。

 それから数分経ち、相変わらず無言で手を動かす城之内にいい加減焦れたオレは、再び触れて来ようとした手を掴み取り「おい」と小さく声をあげる。散々声を絞り取られた後に長時間無言でいた所為で、酷く掠れて聞き難い声だったが別段気にする必要はなかった。すると、漸く奴はのろのろとした動作でオレの顔を見て、常に見せる無表情のまま、また「大丈夫か?」と疑問符付きの言葉を口にした。

「……大丈夫な訳ないだろうが」
「だよな、知ってる。傷、結構深いみたいだから。当分動かない方が良さそうだぜ」
「何故ここに連れて来た」
「他に行けるとこねーもん。あの状態で家に帰すのもアレだったし。お前制服着てたからホテルじゃ怪しまれるだろ」
「金は?」
「タクシー代の事?そん位は持ってるよ。まぁ、そろそろ無一文ですけど」

 前よりもずっと適当な生活をしてっから。マジヤバいんだよな。

 そう言いながら奴は未だ着込んだままだったジャケットの右ポケットを探ろうとして留まった。その動作の意味が直ぐには分からなかったが、暫くして気が付いた。奴の服からほんの少しだけ煙草の匂いがしたからだ。オレと別れた後にまた吸い始めたのだろう。以前なら文句の一つも言ってやる所だったが、今は関係のない事だった。だが、こうして無意識に思い留まっているのを見ると、奴にも少しは遠慮をする気持ちがあるのだろう。

 遠慮とか気遣いとか、恋人だったオレ達には無縁の言葉だった。なのに一歩その関係を抜け出せば、驚くほど相手の事を考えている。

 奇妙な事だった。そして、酷く馬鹿馬鹿しいと思えた。

「……何故、あの場所に貴様が現れた」

 それから暫く互いに探る様に視線をさ迷わせていたが、それも無駄な事だと判断したオレは尤も基礎的な疑問を投げかけた。すると奴は酷く重苦しい溜息を一つ吐いて、徐に自身の携帯を差し出して来る。充電残量が殆どなく、直ぐにディスプレイが暗転するそれを握り締めながら、オレは目を凝らして指し示されたメール画面をじっと見つめた。

 そこには、オレの名前で送られてきた端的な一文と、多分あの時に撮られたのだろう画像が映っていた。なるほど、奴等は敢えてオレの携帯でこいつに連絡を取ったと言う訳か。馬鹿の癖に嫌がらせに関してはよく頭が回ると感心する。

 しかし、何故こいつは何の疑問も無くオレからのメールを開いたのか。そして何故、この携帯にオレの名前がまだ残されたままだったのだろう。

「こんなメールを安易に開いたのか」
「そうだよ」
「何故だ」
「何故って……オレは来たメールは漏れなく開く主義なんだよ」
「嘘吐け。以前は尽く無視していただろうが」
「………………」
「それで?これを見てわざわざあの場まで飛んで来たと、そう言う訳か」

 馬鹿か?

 そう言おうとして、さすがにそれは留まった。飄々とした態度をしているが、こいつが確実に動揺しているのが見て取れたからだ。幾ら人でなしでも自分の所為で被害を被った人間に対しては、例え過去の男でも申し訳ないと思う気持ちはあるらしい。そう思い、僅かに感心していると目の前の男が突然感情を剥き出しにした鋭い表情で、吐き捨てる様にこう言った。

「悪かったよ、くだらねぇ事に巻き込んで」
「何?」
「オレもまさか、あいつ等がお前にちょっかい出すとは思って無くて……くそっ、こんな形で……!」

 それは、オレには意外過ぎる言葉だった。まさかこの男がこの事態にこんなに感情を露わにするとは思っていなかったからだ。そう言えば倉庫に駆けつけて来たあの瞬間もこいつらしくない振る舞いだった。以前ならば「めんどくせぇ」と容赦なく口にして、「オレに迷惑をかけるな」と身勝手な事を喚き散らしていた筈なのに。

 オレの複雑な眼差しに気が付いたのか、奴は怒りを抑えきれずにきつくつり上げていた眦を至極ぎこちない動作で元に戻すと大きな溜息を一つ吐いた。そして何かを振り払う様に頭を軽く振り、再びオレの顔を見つめて来る。そして、少しトーンを落とした声でこう言った。

「……とにかく、もう少しマシな状態になるまでここにいろ。帰るって言うんなら止めはしねぇけど、絶対何があったかバレるぜ?モクバや遊戯に知られたくなかったらそうした方がいい」
「貴様はどうするんだ」
「どうするって?どうもしねぇよ。別に何処か行く予定もねぇし……ああ、補講があるっていったっけ。それには行くかもしんねぇけど……」

 違う、そうじゃない。貴様はオレがここに居る事に嫌悪や苛立ちを感じないのか?面倒臭いと切り捨てた相手を自分のテリトリー内でも尤も重要なこんな場所に置いておく事に違和感はないのかと聞いているのだ。

 そう言おうとしたが、奴がこれ以上の会話を拒否するように立ち上がり部屋を出ていく素振りを見せたので、オレは再び口を開く事が出来なかった。

 意味もなく、唇を噛み締める。

 身を包む毛布の暖かさが、何故か酷く遠く感じた。