Immoral Kiss Act18(Side.海馬)

「僕ね、学期末テスト、初めて200位以内に入れたんだよ。海馬くんのお陰だね」

 クリスマス商戦の真っ只中で毎日酷く忙しく、珍しく数日メールだけのやりとりで顔を合わせていなかった遊戯が、そう言って満面の笑みを浮かべて社長室までやって来たのは丁度クリスマスイブ前の休日だった。

 聞けば丁度その日から学校が冬期休暇に入り、漸く一日自由な時間が取れたと言う。オレが忙しいのは勿論だったが、遊戯も遊戯なりに怒涛の様に押し寄せるテストや課題をこなすのに精一杯だったらしい。

 最初の頃はオレも奴の勉強に付き合ってやる事が出来たが今の時期はそうはいかず、自分に課せられた課題すら手つかずの状態だった。たしか、提出期限が間近に迫っていた様な気がする。どちらにしても一度学校に行かなければならないだろう。本当はそんな暇など殆ど無かったのだが。

 そんな事を考えながらはしゃぐ遊戯を来客用のソファーに落ち着かせ、最終段階に入っていた年頭の会議における数百もの資料を纏めあげる。海馬ランドにおける新アトラクションの設備計画、ゲーム市場の規模拡大、ソリットヴィジョン技術を始めとするバーチャルリアリティ事業の改革事案など、しなければいけない事は山程ある。身体が幾つあっても足りなかった。

 最後のキーをタッチして、全文を一つのフォルダに収納すると、専用のネットワークを開き、部下へと一斉送信する。赤字で指摘しまくった事項を年末までに全て修正し返信する事、と通達すると、漸くオレはデスクの前から立ち上がり、ソファー横に既に用意してあったティーセットに手を伸ばした。普段は勿論専属の秘書がやる事だが、遊戯の場合は客ではないし他人に介入されるのも嫌だったからモノだけを置いて行け、と指示していたのだ。

 適度に温められたカップに珈琲を注ぎ、ミルクと砂糖を同じ分量だけ放り込む。どちらがどちらを飲んでもいい様に差を付けず全く同等なものを二つ作ると、一つを盆を介さず直接遊戯の前に置いてやる。特に声をかけずに行動したものだから、遊戯は一瞬びくりと肩を揺らして読んでいた漫画から顔を上げ、そこにオレの姿を認めると何が可笑しいのか満面の笑みを見せた。そしてそのままカップを持ち上げてオレが適当に入れてやったカフェオレを口に含む。

「わぁ、美味しい。これ、海馬くんが淹れてくれたの?」
「このワゴンに自動で飲み物を提供する機能はない」
「もー、そんなの見たら分かるよー。でも、言ってくれたら僕が淹れてあげたのに。どうせ暇してたんだし」
「客に珈琲を淹れさせる会社が何処にある。大体貴様、何故こちらへ来た。屋敷に来れば良かっただろうが」
「うん、本当は家に行こうと思ってたんだけどね、海馬くん忙しそうだったし、僕も長居出来ない様にこっちで顔を見たら帰ろうかなって思ったんだ。一応受付の人にはちゃんと目的を話して通して貰ったんだけど……迷惑だった?なんか凄く吃驚されちゃったし」
「オレの学校関係者が社に来た事など無いからだろう。受付の動揺がオレにも伝わって来たわ。『社長の御学友が面会を希望していらっしゃいます』と言われた時は何事かと思ったぞ」
「御学友……クラスメイトって言ったんだけどなぁ。あ、でも、僕が初めてって本当?城之内くんは……」
「凡骨はこの場所に近寄りもしなかったわ。大体奴が貴様と同じ様な理由で受付に来た所で摘み出されるのがオチだ。我が社の受付連中は人を見る」
「そ、そっか。ごめん、変な事言って……」
「……まだポットの中に珈琲が残っているが、もう一杯飲むか?貴様、飲むペースが速すぎるぞ」
「あ、頂きます。速いって言うけどさ、このカップが小さいんだよ」
「何時もは顔ほどもあるマグカップだものな」
「もーすぐそうやってからかって!でも海馬くんは何でも上手なんだね。海馬くんの家ではメイドさんが全部してくれるから、こんな事、やった事無いんじゃないかって思ってた」

 そう言いながら差し出される遊戯のカップを受け取って、一度濯ぎ用の湯で流してから新しく珈琲を注ぎ入れる。しかし、何故か一度目よりも上手くいかなかった。

 その理由は分かっている。奴が唐突にあの男の名前を口にしたからだ。時間が経つにつれてこんな下らない動揺も減るかと思っていたのだが、そう簡単にはいかないらしい。意識外にあれば忘れていられるが、意識してしまうと駄目だった。忌々しい、そう思いつつも指先の微かな震えを止める事が出来ずにいる。

 誰かに飲み物を淹れる事、それはむしろ得意な方だった。対象となる人間の好みを完璧に把握し、絶妙なタイミングでそれを提供する事。カップを手渡す時にわざわざ指先を触れ合わせる事。一つの飲み物を二人で飲む事。小さなカップに注がれた熱い珈琲すらオレにとっては道具の一つであり、武器でもあった。

 男なんて簡単なものだ。相手が折角淹れた珈琲を遠くに押しやり、香ばしい香りに包まれた唇を身体で受ける度に何度そう思い、ほくそ笑んで来ただろうか。

 だがそれも、今では少し遠い過去の記憶だ。

「ほら」
「ありがとう」

 ぞんざいに差し出したカップを両手でそっと受け取る遊戯を見ていると、思わず目を細めたくなる。柔らかな笑顔、温かな空気。「海馬くんも隣に座りなよ」と指し示された場所に腰を下ろすと僅かに体重をかけて来る。その事に安心し、嬉しいと思う反面、頭の片隅で『オレは城之内に珈琲を淹れてやった事があっただろうか』と考えていた。そんな自分に心の底から嫌気が差した。

 沸き上がる鬱々とした気持ちを晴らそうと小さな溜息を一つ吐くと、遊戯が小さく身動ぎをした。溜息を吐いた事に気付かれただろうか、と身を固くしていると、奴はオレの様子など全く意に介さずに笑顔を見せたまま、ゆっくりと口を開いた。

「あのね、今日海馬くんに会いに来たのは勿論顔も見たかったからなんだけど……昨日先生から追加の課題を受け取って来たのと、伝えなきゃいけない事があったからなんだ」
「……なんだ?」
「明日か明後日の内に一度学校に来なさいって。その二日間は補習の日なんだ」
「授業を受けろと言う事か?」
「んー。先生はそうは言って無かったなぁ。顔を見せろって事じゃない?」
「どの道課題を提出しなければならないからな。分かった。時間が空いた時に行って来る」
「多分教室には皆いると思うけどね。僕は今回逃れたけどさ」

 君のお陰で!

 そう言っておどけて舌を出す遊戯に苦笑すると、奴は一転して少し真面目な顔になり、早くも空になったカップをソーサーに戻し、視線を下に落としてしまった。なんだ?とこちらから聞く前にややトーンの落ちた声が静かな室内に小さく響く。

「……その補習の面子にさ、城之内くんも勿論入ってるんだ。彼の場合はもっと深刻で、補習に出ないと留年が決定するって」
「留年?」
「うん。君はほら、成績で出席日数をカバーしてるから大丈夫だけどさ。城之内くんの場合はそうもいかないじゃない。担任の先生も困っちゃってて……。何度か電話してるんだけど、出てくれないし……まぁ、僕とは連絡取りにくいのかもしれないけどさ」
「……そんな事をオレに話してどうする」
「あ、ごめん。君にどうこうして欲しいとかじゃないんだ。問題はそこじゃなくって……」
「………………」
「教室で、ばったり会ったりするかもしれないなって……」

 段々と聞きとり辛くなって行く遊戯の声にオレは奴が何を言わんとしているのか手に取る様に分かってしまった。多分遊戯は心配なのだろう。何気ない振りをしていてもコイツは真実をきちんと見抜いている。オレが遊戯に対して最後のラインを越えられない事や、未だに城之内の件に関して動揺を隠せないでいる事、全てを。

 けれど、それを遊戯に知られた所で、知られている事をオレが分かった所で、自分ではどうする事も出来ないのだ。

 深呼吸を一つして、真っ直ぐに遊戯を見る。何時の間にか預けられていた重みが消えていた。それを僅かに寂しく思いながら、今度はオレが奴の身体に身を凭れさせる。

「同じクラスなのだ。当たり前だろう」
「そうだけど」
「だから、別に意識する必要もない。通常通りだ」
「……うん」

 でも君は、動揺してるじゃないか。

 オレの台詞に自然と向けられた視線は言葉よりも雄弁にオレを責めて来たが、僅かに睨み付ける事でその全てを封じてしまう。卑怯だと思ったがそうする以外に術はなかった。幾ら言葉を重ねても見えている真実を覆す事など出来はしない。

 何時の間にか言葉は途切れて、室内は微かな互いの呼吸音が聞こえるほどの静けさに満たされていた。それをどう取ったのか、遊戯は今日初めてオレの方へと手を伸ばし、頬に触れて、唇を押し当てて来た。部屋の乾燥の所為なのか、少しだけかさ付いたそれがほんの僅かな痛みを齎す。舌を出して舐めてやると、擽ったそうに首を竦めた。その仕草に欲を覚えた。

 自ら身を寄せて、キスをする。場所を考慮する余裕はもうなかった。それは多分、遊戯も同じで。何時の間にか首元まで降りて来た指がネクタイの結び目を掴みながら、問う様にオレを見ていた。

「クリスマスはさ……杏子達と約束があるんだ。だから、君の所にはいけないかも」
「知っている。前に聞いた」
「君も予定があるんだよね?」
「ああ」
「じゃあ今が、クリスマス前に会える、最後……だよね?」

 だから……。

 そう掠れた声が耳元に触れるのと、オレがこの部屋のセキュリティロックボタンに手をかけるのは同時だった。外界から全てシャットアウトされたこの空間ではどんな事があろうと他者が入り込む事は出来ないし、様子を窺う事も出来ない。

 遊戯の指先がネクタイを不器用に解いて行く。この部屋で、この場所で、スーツを脱ぐのはさして珍しい事では無かった。奥の部屋には簡素な宿泊施設があり、シャワーも着替えも常備してある。尤も、『そういう事をする』という想定の元で作られた施設ではなかったが、主にその事で役に立っていた。どうでもいい事だったが。

 大の大人が3人座ってもまだ余裕がある高価で重厚な客用ソファーは、オレ達二人の体重を音もなく受け止める。

 鏡の様に磨かれた黒い大理石の床に一つずつ衣服が落ちて行くのをなんの感慨もなく見詰めながら、オレは目の前の細い体を力の限り抱き締めた。
「……ふぁっ……あっ……!!」
「わ、一杯出たね。丁度一週間ぶりかな?……凄く濃いよ。……海馬くんって自分でシたりって、あんまりしない?」
「…………っ!」
「僕は結構我慢しないでしちゃうんだけどなぁ……あ、でも君は我慢なんかする必要今までなかったもんね」

 言いながら奴は今まで丁寧に舐めしゃぶっていたオレのモノから口を離し、射精の勢いで顔面に少し散ってしまった精液を指先で拭ってペロリと舐める。その仕草は子供が何か甘い菓子を口にする様な至極幼い仕草で、その行動としている事のギャップに知らず頬が熱くなる。同時に達したばかりの下半身も熱く疼き、身体全体が大きく震えた。

 そんなオレの姿に奴は満足気な笑みを漏らす。添えられた手がゆっくりとした動きで形を確かめるようにソレをなぞり、やがて溢れた液体を追う様に下へと降りて行く。深爪で整えられた短く細い指先がまるで玩具を弄ぶように熱源の元を揉みしだき、その下の入口へと伸びて行く。

 遊戯と身体を重ねる様になって然程日数は経っていないが、回数的にはそれなりにこなしていた。オレは営業に回していた時間をコイツと過ごす様になったし、遊戯は遊戯で他の高校生男子と同様覚えたてのセックスに夢中になっていた。尤も、それは多分建前で、本音はどちらも必死だったのだと思う。

 奴は奴なりにオレに心身の充足を与えようとしていただろうし、オレもまたこれまでの生活を改めようと足掻いていた。そして、それらの事に意識を集中させて頭の片隅に常に存在している城之内のとの事を忘れるつもりだった。

 だが、実際は互いに自分の思う様に行かない事に不安と焦りを覚えている。身体を繋げば繋ぐほど二人が願い、欲する充足とは程遠い、一種の罪悪感めいたものが胸に過った。繋いだ指先が快感以外のもので震えている。それでも今は、こうする他術がないのだ。

 遊戯の指が、舌が、快感の在り処を探してオレの身体の奥底を探る。それは自分の欲望に忠実で前戯などまどろっこしいと突き入れる事にしか興味のないあの男とは正反対の動きだった。そうやって、一つ一つ比べる度に息が苦しくなる。

 何故、比較対象に奴を持って来てしまうのか。豊富すぎる経験の中で同じ様に比べられるものなど星の数ほどあると言うのに、それらの行為の事など何一つ頭に残ってはいなかった。

「……っく、あ!……ぁっ……んぁっ!」
「……凄く気持ち良さそうだね。君のそういう顔見てるの、好きだなぁ」
「あっ……も、いいっ……加減に……っ」
「駄目。僕の方が、まだ準備出来ていないもん」

 ぎこちない指が体内を優しく探り、時折緩く曲げてかき混ぜる。その度に跳ねあがる腰が忌々しく、開きっぱなしの口の端から垂れる唾液が不快だった。拭おうと手を持ち上げようとしても押さえ付けられていて叶わない。愛撫の合間に一々話しかけて来るその声が酷く恥ずかしい。

 遊戯は終わるのを先延ばしする様な行動をとる事が多い。無駄口を叩き、無駄な行為をして、少しでも長くこの時間を保とうとしている。こちらとしては、ほぼ生殺し状態のそれは苦痛以外の何者でもないのだが、奴は他の男達の様に幾度も射精できる体力を持っていなかった。これは本人が自分で言っていた事だから事実なのだろう。
 

『だってああしてる間だけは、君が僕だけを欲しがってくれるから』
 

 何度目かの行為の後、前戯が長すぎると文句を言ったオレに返って来たのはそんなあっさりとした言葉だった。だが、その響きは何よりも重く、僅かな悲しみを滲ませていた。

 確かに、例え頭の片隅で何を考えていたとしても、その瞬間に縋る相手は目の前にいる遊戯だけだ。その一瞬に差し伸べられる手を掴む事が何よりも大事だと奴は言う。ずっと繋がってはいられない指先。物理的に繋がってはいても距離がある心。そんなものに縋って何になるというのだろう。オレも、遊戯も。

「っゆう……ぎっ!」

 射精出来る程の決定打を与えられず、もどかしい刺激を延々と繰り返されると快感も苦痛となる。知らず名を呼び、僅かに爪を立てて目の前の肩に縋りつくと、漸く、太股の辺りに遊戯の熱が触れた。準備が出来ていないというのは大嘘だ。こいつの雄はキスの段階から既に濡れて熱を持っていた事をオレは良く知っている。

 自ら手を伸ばし、煽る様に握り締める。生温かい液体が指を濡らし、奴の口からも小さな喘ぎが漏れていた。早く入れて欲しい。楽にして欲しい、ただそれだけの思いで足を開き、己の体内にある指を抜こうとする。力を込めると、それは意外にあっさりと抜き取られ、オレの腰へと添えられる。代わりにピタリと押し当てられた熱に思わず顔をあげると、唇を塞がれた。

 ぐちゅりと、粘膜が擦れ合う音がする。

「僕が欲しい?」
「…………っ!」

 熱い吐息と共に耳朶に唇を押しつけて、そう囁く。頷くだけでは許されない。はっきりと、己の声で奴が欲しいと口にしなければ、どれだけ極限の状態でも与えられはしなかった。最初は勿論こんなセックスではなかった。
 

 ── 遊戯が変わったのは、涙を指摘されたあの夜からだ。
 

「……ほ、し……い……っ!」
「じゃ、力抜いて。呼吸を合わせて……?」
「……くっ……あ!!」
 

 途切れ途切れにその言葉を口にする。瞬間酷い圧迫感が下肢を襲い、喉奥から悲鳴の様な声が上がり、クリアだった視界が熱く滲んだ。まただ……ときつく目を閉じると、目元から零れ落ちた液体が頬を伝う。泣きたい訳じゃないのに、それは快感に伴う連鎖反応の様にオレの瞳から溢れ、流れて行った。

「海馬くん」

 それを当たり前の様に舌で拭い、瞼に軽く口付けて、遊戯がオレの名を呼ぶ。行為の最中にしては余りにも生真面目なその声に、思わず閉ざした目を見開くと、奴は真っ直ぐにオレの顔を見返してぎこちなく笑った。

「……僕の事、好き?」

 ぽたりと、遊戯の汗がオレの頬に落ちて流れて行く。初めて問われたその事に息をする事も忘れて戸惑っていると、奴は更に心臓を鷲掴みにする様な一言を投げて来た。
 

「城之内くんよりも?」
「────っ!」
 

 オレはこの後に及んで、その問いに即答がする事が出来なかった。たった一言、そうだ、と口にすれば全ての苦痛から逃れられる筈なのに。本心を隠すのは上手い方だと思っていた。なのにどうして、一番肝心なこの瞬間にそれを発揮出来ないのだろう。首を僅かに振るだけでいい。ただそれだけの事が何故……。

 急速に、身体が冷えて行く。互いにキスで誤魔化す事はもう出来なかった。僅かに距離を開けて見つめ合うオレ達は、多分同じ事を考えているだろう。クリスマスを共に過ごさないのはある意味賢明な選択かもしれなかった。

「ごめん」

 遊戯の声が、小さく震える。この男はオレに謝ってばかりいる。本当に謝らなければならないのは、このオレの方なのに。

「……好きだ」

 主語をぼかして、呟いてみる。酷く重いその一言は相手に届く前にオレの胸元に落ちて行く。意味がない呟き、何時の間にか逸れた視線を戻す事すら出来ない。繋がっているのは互いの身体と力の入らない指先だけ。

 少しだけ冷えたそれが、緩やかに離れて行く。

 次に発する言葉を、オレも遊戯も見つける事が出来なかった。