Immoral Kiss Act17(Side.城之内)

「城之内くんは明日のクリスマス……どうするの?」

 乱暴に脱ぎ捨てて、裏返ったままのパーカーに手を伸ばし、ぐちゃぐちゃになっていたそれを適当に元に戻していたその時、背後からかけられた声にオレは一瞬動きを止めて後ろを振り返る。そこには如何にも熱そうに湯気を立てているカップを二つ持った彼女がその内の一つを差し出しながら立っていた。

 未だ滴を滴らせている長い栗色の髪が肩から零れてカップの中に入りそうになる。それを避けるように素早く差し出されたそれを受け取ると、ふわりと香ばしい匂いがした。なみなみと注がれたミルクが多めの甘いカフェオレ。ピンクを基調とする室内装飾や、一般家庭では珍しい天蓋付きのベッドを好む彼女らしい飲み物だと思う。

 一口飲むと、ミルクのまろやかさと蜂蜜の甘さが口内に広がった。不思議と後には引かない優しい味だった。

「……クリスマスか……」

 パーカーを裏返す作業を中断し、Tシャツのままカップを煽る。少し暖か過ぎるこの部屋は上着を着ると暑い位だ。もう何日位ここに滞在しただろう。そろそろ自宅に帰らないと玄関が新聞で埋まっちまうかもしれない。けれど相変わらずバイトをしていないから金がなかった。家に帰っても明日食うものが何もない。

「特になんもしねぇかな。いつもはバイトしてっけど、今年はそれもないし」
「そうじゃなくて、誰と過ごすの?って聞いてるの」
「誰って。誰もいねぇよ」
「え?彼女は?」
「オレのカノジョはみーんな彼氏持ちだからな。こういう時はお呼びでないの。お前もそうだったろ」
「そうだったって言わないでよ」
「だって別れたんだろ?だからオレを誘ったんじゃん」
「城之内くんが言ったんでしょ。寂しい時はオレを呼べって」
「そりゃそーだ。で、お役に立てた?」
「うん。ありがと」
「どーいたしまして」
「ね、このまま彼氏になってくれる気はない?クリスマス、過ごす相手もいないんでしょ?このままうちに居て、私と一緒に過ごそうよ」
「お前と?」
「うん」
「無理に決まってんだろ。彼氏の浮気が原因で別れた様な女がオレと付き合えるかよ。お前の元彼なんて目じゃないぜ、オレは」
「………………」
「今度はああいうチャラ男じゃなくて、真面目な奴探せよ。お前は男を見る目がねぇんだよ」

 大体、失恋直後にオレに声をかける事自体間違ってる。オレは別にコイツを慰めようと思ってここに来たわけじゃない。単に金もないし、時間も持て余してたから誘いに乗っただけの事だ。暖かいベッドと、美味しい飯と、なんの苦労もなくセックスが出来る事。オレがここに見出す価値は精々それ位だ。他には何もない。ましてやコイツ本人に興味なんてある訳もない。

 ただ、星の数ほどいる食えそうな女の中でコイツを敢えて選んだ理由が一つだけあった。それは彼女の髪の色と、目の色だった。この後に及んで似ても似つかない外見なのに、手を伸ばしてしまった自分が物凄く情けない。けれど、そうせずにはいられなかった。

 今は虚しさだけが空っぽの胸を満たしている。馬鹿馬鹿しい、と悪態をつきたくなった。

「そっかぁ……クリスマスに一人なんて……なんか嫌だなぁ」
「クリスマス本番には後一日あるだろ。男探せよ」
「そう簡単には行かないわよ」
「オレを簡単に引き摺り込んでおいて良く言うよ。どうせヤリたいだけだろ。あー女って怖ぇなー」
「それは男の台詞でしょ。一緒にしないでよね」
「そうとも言うよな。お互い様だ」
「……ねえ、本当に帰っちゃうの?帰ったってお金ないんでしょ?」
「一つの所に長居すんのニガテなんだ」
「情が移るから?」
「相手がね」

 言いながら、空になったカップを彼女の手に押しつけると、オレはさっさとパーカーを着込んで決して趣味がいいとは言えないピンク色の水玉模様が目に痛いシーツから腰をあげる。その動作をじっと見つめて来る彼女の瞳は水色に近い青だった。

 ただし、コイツの色は紛い物だ。カラコンを入れてそれっぽく見せてるだけ。髪色も根元からきっちりと染めた栗色だ。オレが知っている本当に綺麗なあの色とはどちらも似ても似つかない。

「じゃ、もう帰るわ」
「待って、連絡先位教えてくれてもいいでしょ?また何かあったら相談とかしたいし……」
「アレは嘘だぜ。今回はたまたま気が乗ったから来ただけだし。オレ、お前が思う様な都合のいい男じゃないんだわ。ごめんな」
「城之内くん!」
「早くいい男見つけろよ」

 未だ追いすがる様にオレの名を呼ぶ彼女を無視する形でさっさと部屋を後にする。外に出ると、一瞬にして頬や耳が痛くなる様な寒さに襲われた。今年はホワイトクリスマスとかなんとかテレビでやっていたのを聞いた気がする。下らない。雪なんてただ迷惑なだけじゃねぇか。バイクにも乗れなくなるし、正直勘弁して欲しい。

 階段を下りる足が寒さで強張る。そう言えば最後に燃料を入れたのは何時だっただろう。そろそろタンクが空になるかもしれない。でもそんな金なんか勿論ない。仕事をしなければ、そう強く思ってはいても身体も気持ちも言う事をきかなかった。何もかもが嫌になる。

「……クリスマスか」

 改めて、その単語を口にする。去年のクリスマスははっきりとは思いだせないけれど、仕事三昧で夜はダチと大騒ぎしてそれなりに充実していた気がする。その時、来年は彼女と過ごしたいなんて大口を叩いて、それは無理だと一斉に否定された。確かに現状をみれば無理だった事は一目瞭然で。これからも、きっと駄目なのかもしれないと、そう思った。

 仮に海馬と続いていたとしても、恋人らしいクリスマスを過ごせる自信なんかなかった。どうせきっと顔を合わせた途端にベッドになだれ込む様なそんな時間しか過ごせないだろう。

 尤も、奴にはもう遊戯がいるから考えるだけ無駄な事だ。
 

『早くいい男見つけろよ』
 

 それは、本当は自分に言いたい言葉だった。こんなフラフラした生活をしてたっていい事なんか一つもない事は分かってる。帰る所もない、誰もいない。今までは当たり前だったその事が、こんなにも辛いなんて思わなかった。

 こんな事なら海馬と別れなきゃ良かったと何回思った事だろう。けれど、その度にあのままではどうしようもなかったと否定する自分がいて。相反する感情に段々と気持ちが投げやりになっていくだけだった。

「一体どうすりゃいいんだよ……」

 自然と口から零れ落ちた言葉が誰もいない冬の空に溶けて行く。

 不意にその時、ポケットの中の携帯が微かに震えた。そう言えば彼女の部屋に来る前から携帯を見る事すらしなかった。栗色の髪の彼女……アイツの名前がなんていうのか、もう思い出せない事に驚愕する。

 慌ててポケットから携帯を取り出し、中を見る。そこには着信が三件残されていた。
 

 本田と、静香と……遊戯。
 

 その三つの名前を見比べながら、オレは思わずその場に立ち止まり、深い溜息を一つ吐いた。
「は?補習授業?なんでんなもん受けなきゃなんねーんだよ!」
「オレに言うな。オメーはサボり過ぎたんだよ。この間の学期末、受けもしなかったじゃねぇか」
「お前は受けたのに補習か。オール赤点でも取ったのか?」
「……今回はちっとばかしヤマが外れたんだよ」
「何言ってんだ。お前のヤマが当たった事なんてあったかよ」
「うるせぇ。とにかく伝えたからな。これをサボったら留年決定だとよ」
「チッ……あ、じゃあ遊戯からのメールもこれの事だったのか?」
「アイツからも来てたのか?じゃあ、そうじゃねぇの?尤も遊戯は今回初めてのトップ200入りみたいだったけどな。補習にもこねぇぜ」
「えっ、マジで?!」
「マジマジ。なんか最近海馬から勉強見て貰ってたみたいでよ。スゲー点数上がってやんの。やっぱ頭のイイ奴に教えて貰うと違うのかね。今度オレも頼みたい位だ。っつか、最近あいつら仲イイのな。吃驚したぜ」

 そういや近頃海馬の例の噂聞かなくなったよなぁ。もしかして、遊戯と付き合ったりしてねぇよな?オレやだぜ、アイツがああいう男にハマんの。

 そうペラペラと景気良く口を動かしながら、Lサイズのコーラを一気に飲み干す本田をオレはただじっと眺めている事しか出来なかった。奴の口から齎される情報の一つ一つが胸に突き刺さるようで居心地が悪い。

 夕方の、駅から離れた場所にあるファーストフード店。時間が時間故か、学生の姿が多く見えるそこは相変わらず賑やかで僅かに気持ちがほっとする。さっきまで感じていた少し息苦しい様な感覚は今は大分薄れていた。それは、目の前にいるコイツのお陰でもあるのかもしれない。

 少し型遅れの革のジャケットに黒いジーンズを穿いている本田は、そのオヤジ臭さを覗けば一般的な高校男子だ。尤もさも当然の様に煙草を咥えてる時点で『普通』とは言い難かったが、オレの高校で煙草を吸ってない奴を探す方が難しいから、そこは余り問題じゃない。

 手を差し出すと、律儀にも未開封の箱をくれて寄越した。タールの殆どないライトなメンソール系。似合わねぇな、と言ってやると、「最近は健康に気を使う事にしたんだ」とアホな答えが返ってきた。健康に気を使うんなら吸わなきゃいいのに、ほんとコイツも馬鹿だよな。安心する。

「……ところでよ。最近はどうしてたんだ?」
「どうしてたって?」
「オメーが学校に来ねぇのは今更だけど、家にも殆ど帰ってねぇって聞いてたからよ。気になって」
「あー……今オヤジが家にいねぇからさ、帰るのも面倒で。適当に宿見付けてフラフラしてた」
「女のとこか」
「他に何があるんだよ」

 銀色の灰皿に几帳面に灰を落としながら本田が呆れた溜息を吐く。「全く、オメーは青春を無駄にしてるよなぁ」そんな事を言いながら奴は煙草に口を付けると軽く息を吸い込んで煙を吐いた。紫煙が渦を巻いてゆらゆらと揺れる。それを鬱陶しげに払いのけて、オレは渡された煙草の封を切った。いびつな形で破れたビニールが途中でぷつりと千切れてイライラする。

「そういうのってさぁ、楽しいか?その辺の女捕まえてただセックスするだけだろ?」
「はぁ?何言ってんだお前」
「え、だってそうじゃねぇのかよ」
「そうだけど。それが何だって?楽しいって?楽しい訳ないだろ。単なる暇潰しだ」
「暇潰しねぇ……オメーはよっぽどする事ねぇんだな。最近はバイトもしてねぇんだろ。金とかどうすんだよ」
「んー女から貰ってた」
「逆援交みたいなもん?」
「いや、金はついで。別に欲しいって言ってねーけどくれるから貰ってるだけ」
「爛れてんなー」
「イマドキの高校生と言ってくれ。オレはお前みたいにラブレターのやり取りしたり、手を繋ぐ繋がないで大騒ぎする大昔の恋愛には興味ねぇんだよ」
「オレの純愛にケチつけんな。オレはなー顔を見ればセックスみたいな味気ないのはお断りだね」
「少女漫画の読み過ぎだろ。未だにリボンちゃんとキスもしてねーくせに」
「そこがいいんじゃねぇか!楽しみは後に取っておいた方がいいだろ?」
「めんどくせぇ」
「恋は面倒臭いものなんだぜ。お前等が色々すっ飛ばしすぎだっつーの。大体、お前は恋なんてした事無いだろ?恋っていうのはなぁ、相手の事を思うと切なくなって胸がギュッと痛くなったりするんだぜ。まあ時たま股間が痛くなる時もあっけどよ」
「うっわ、キメェ。そしてダセェ」
「そういう経験はあるのかね?爛れた男子高校生の城之内くん?」
 

 ── 本当の恋をした事があるの?
 

 得意気な本田の声と重なる様に遊戯のあの言葉が頭の中に木霊する。相手の事を思って胸が痛くなる。そんな経験を今までした事なんてなかったし、これからもする事はないだろうと思っていた。今も本田の言葉に即座に鼻で笑っちまったけれど、実際は笑い飛ばす事は出来なかった。

 何故なら、今オレは恋にも似た感情に振り回されている。しかも自分から捨てた男相手に未練がましく。

 アイツの事を考えると、訳もなく胸が痛んだ。呼吸が苦しくなって、苛立ちに心がざわついた。けれど今更どうしようもない事も知っているから、最後には虚しさと絶望感だけが残される。まさか自分がこんな感情に振り回される事になるなんて想像すらしなかった。オレはこんなに女々しい、うざったい奴だったんだろうか。もう訳が分からない。

 火の点けない煙草を握り締めたままなんとなくテーブルの上に突っ伏してしまう。顔をあげるのさえ億劫だった。

 そんなオレの事を多分上からじっと見下ろして、本田が灰皿に煙草を押しつける。そして徐にジャケットの中から携帯を取り出して重々しくテーブルの上に乗せ上げた。

「……静香ちゃんがよ、凄く心配してたぜ。何回かメールくれてよ、オメーが今何してんのかって聞いてきて」
「え?」
「連絡、取って無かったのか?」

 言いながら本田は左手で携帯を操作すると、とある一通のメールをオレに見せて来た。そのメールの差出人は本当に静香本人で、ちらりと見た内容も確かにオレに関する事だらけだった。何時の間に本田と静香はメールのやり取りをする仲になったんだろう。動揺する頭の片隅でそんなどうでもいい事を考えながら、オレは改めてそのメールをじっくりと読んでみた。そして、一番最後に書かれた一文にきつく眉を寄せてしまう。

『お兄ちゃんもそうですけど、海馬さんはどうしていますか?二人の事がとても心配です』

 一瞬の沈黙がその場を支配する。気まずさに何か言おうと口を開いたものの、静香のこの言葉から受けた衝撃が余りにも強すぎて直ぐに言葉を発する事が出来なかった。あいつはなんでこんな事を本田へのメールに書いたのだろう。……どうして。

「オレは幾らダチでも本人が何も話さねぇ事に首を突っ込んだりする趣味はねぇから、今まで黙ってたんだけどよ。……お前と海馬はそーゆー関係だったのか?静香ちゃんまでこんな事を言うって事は、公認だったんだろ?違うのか?」
「………………」
「あ、言っとくけど、オレはその点に関しては偏見とか持ってねーから。聞きたいのはそういう事じゃねぇ。海馬の噂は知ってるし、オメーが特に拘り持ってなさそうなのもわかってっから。まぁ、ちょっとは驚いたけどよ」
「……じゃあ、何が聞きたいんだよ」
「敢えて言うなら『今はどうなってんだ?』って事を知りてぇな。つか、マジ付き合ってたのかよ。その辺は否定しねぇんだな。でもオメー、特定の相手がいた割には全くそんな素振り見せなかったじゃねぇか」
「……そういう付き合いだったからだよ」
「そういう付き合いってどういう付き合いだよ」
「だから、オレが誰と何してても一切文句を言わない、逆にオレもアイツが誰と何をしててもどうでもいい。そういう付き合い方。モクバにはセフレとか言われたっけ」
「……セフレだろ、それ」
「いや、オレ達的にはそうじゃなかった。それでも一応恋人だって思ってたと思う」
「………………」
「今はもう別れたけどな。お前がさっき言ってた様に、アイツは今遊戯と付き合ってる。オレとはもう何の関係もねぇよ」
「なんだそりゃ。何で別れたんだ?」
「何でって……」

 うざったくなったからに決まってんだろ。そう言おうとして、口がそのままの形で固まった。何故かその台詞を言葉にして言ってはいけない気がしたからだ。言葉にしてしまったら、それが真実となってしまう。第三者に誤解された所で痛くも痒くもなかったが、今のオレはそれを何でもない事として笑い飛ばせる気力すらなかった。

 どうして海馬と別れたのか。本当の理由は幾つもあって、そのどれも全てオレの身勝手と利己主義が原因だ。本当に馬鹿馬鹿しい。しかもこの後に及んでそれを後悔しているなんて滑稽以外の何者でもない。

「なんか混み入った事情がありそうだな」
「……んなもんねぇよ」
「まぁいいや。じゃー質問変えるわ。遊戯と海馬が付き合ってるっていうのはマジなのか?ダチじゃなく?」
「ああ。それは間違いねぇ」
「ふーん……オレがさっきああ言ったのはあくまで冗談だったんだけどな。アイツ等がそこまで親しいとは思わなかったぜ。遊戯はそういう風には全然見えねぇしよ」
「なんでも外見で判断しねぇ方がいいぜ。お前だって何時そう言う対象にされるかわかんねぇんだし」
「それはないわ。オレをそっち側に引き摺り込むなよ」
「引き摺りこまれたくなきゃ首突っ込んでくんな。静香には今オレが話した事そのまま伝えてもいいぜ。事実だし」
「お前が直接連絡してやらないのかよ」
「少し前までは散々連絡してたんだぜ。それをシカトして来たのはアイツの方だ。今更……」
「でも、連絡来たんだろ?電話したって言ってたぜ」
「………………」
「中学生を心配させるなよ。何やってんだテメーは。折角高校入って落ち着いて来たかと思ったらまたコレか。こりねぇなぁ、オイ」
「うるせぇな。説教しに来たのなら帰れよ」
「テメーに説教垂れる程こちとら暇じゃないんでね。これ以上は言わねぇよ。ただ、静香ちゃんに頼られてる身としては、責任位は果たさなきゃいけねぇと思っただけだ」
「………………」
「ま、少し考えるこったな。このままじゃマジヤバいんじゃねぇの?そういやーこの間赤間達とやりあったろ。アイツら相当頭に来てたみたいだから気を付けろよ。まぁ、お前に直接ちょっかいかけるほど馬鹿じゃないだろうけどよ」

 じゃ、また明日、学校で。

 そう言ってさっさと席を立つ本田の後姿をオレはただ黙って見つめていた。自動ドアの開閉する音と、聞き慣れたバイクのエンジン音が一瞬にして遠ざかっていく。その事に、また脱力する。まるで見捨てられた気分だった。

 静香や遊戯に連絡を取らなければならないだろうか。そのどちらも酷く億劫ではあったけれど、それ位しかする事がなかった。

 とりあえず、家に帰ろう。そう思い、重い身体を無理矢理持ち上げようとしたその時だった。

 ポケットの中が強く震えて、小さな音が鳴り響く。最近は一切聞く事がなかった特殊なその響きは、ある特定の人物……海馬からのメールの着信音だった。音だけでそれと分かる様に設定した事を忘れていた。だけど何故今この音がオレの携帯から鳴り響くのか理解が出来なかった。

 慌てて携帯を取り出して、ディスプレイを覗き込む。そこには確かに『海馬』の文字が点滅していた。

 意味が分からないと思いつつ、震える手でボタンを押す。瞬時に現れるメール本文。けれど、そこには空白があるばかりで、言葉は一言も記されてはいなかった。

「……間違えたのか?」

 思わず携帯を投げ捨てたくなる。わざわざ空メールを送ってくるなんてどういう嫌がらせた。馬鹿じゃねぇの。そう思う気持ちとは裏腹にオレは直ぐにそのメールを削除する事は出来なかった。何故なら奴は今まで一度だって空メールなんて送って来た事はなかったし、ましてや間違いメールなんてするわけがない。それならどうして。……一体何が。

 真っ白な画面を数分間見つめ続け、その不毛さに気付いて携帯を閉ざそうとする。やっぱり、何かの間違いだったんだ。アイツが今更オレに連絡を取ろうとする訳がない。この間学校で顔を合わせた時にそれが嫌と言うほど分かってしまった。

 拒絶する眼差し、感情のない表情。オレの事なんてまるでどうでもいいと言わんばかりの態度を見せた挙句、遊戯の元に歩いて行った後ろ姿を思い出す度に言い様のない苦しさで息が詰まる。

 開いたままの携帯を握り締め、オレは今度こそ店を出ようと席を立った。その瞬間、今まで気が付かなかったものを握り締めたディスプレイの隅に発見し、慌ててそこをクリックする。何もないと思っていた空メールには添付ファイルが一つ付いていた。随分大きい画像なのかダウンロードまで時間が掛る。

 一体なんだろう……息を詰めてそれを見守っていたオレは数秒後、現れた画像を見て思い切り固まった。そして思わず携帯を取り落とす。

「………………!!」

 ガシャンと小さな音を立てて落ちた本体は画面を伏せたままオレの足元へと転がった。その刹那、再び着信を知らせる音が鳴り響く。即座に携帯を拾い上げ再び画面を見ると、そこにはたった一言、短いメッセージが入っていた。

『例の場所。鍵が掛る前に迎えに来てやった方がいいんじゃねぇの?』

 海馬のメールアドレスから発信されたそれは、多分海馬本人が打ったものじゃない。何故ならさっきの添付ファイルの中身はぐちゃぐちゃに乱された学ランを着て、目を閉じている海馬の写真だったからだ。それがどういう状況によって撮られたかをオレは嫌と言うほど良く知っている。

 何故なら、オレも過去に何度か似た様な嫌がらせをした事があったからだ。これは『オレ達』が気にくわない他人にやって来た常套手段だ。

「…………くそっ!」

 あいつらだ、そう思うより先にテーブルを弾き飛ばして駆け出した。何人かの客の視線と、店員の咎める様な声な聞こえたけれど全て振り切って外に出た。ここから学校に行く位までは燃料が持てばいい。そう思いながらオレは勢い良くバイクにキーを叩き込む。

 今更、何でこんな事に。

 沸き上がる怒りと共に合わせた奥歯が鈍い音を立てて噛み締められる。

 ハンドルを握る指先が寒くも無いのに震えていて、それが酷く滑稽だった。