Immoral Kiss Act16(Side.海馬)

 重い瞼を持ちあげると、目の前にあったのは広い男の背中だった。

 薄暗がりの中では余り良く見えないものの、日に焼けて浅黒いとさえ感じるその肌の持ち主は、オレの記憶の中では一人だけだ。営業の相手は誰もが皆インドア派の金持ちばかりで、無駄に磨かれた素肌を日に晒す様な真似をする筈がない。そもそも彼等と会う時は、眠る事など殆どなかった。

 今何故コイツの背を眺めているのだろう。

 胸に過ったのはそんな些細な疑問だった。昨夜は確かに自室のベッドの上で奴ではない誰かと眠っていた筈で、その『誰か』が今は思い出せない。本当にそうだったのかどうかすら曖昧だ。スプリングの効きが悪い固いこのベッドには覚えがある。しかし、これがどこのものだったかは分からない。様々な事が曖昧な現状に頭痛を覚え、眉を寄せて舌打ちをしたくなる。

 ただ、そこにあるこの背だけは『奴』のものに違いなかった。肩の下まで伸びている痛んだ金髪、古傷や黒子の位置まで記憶に残っているものと変わらない。

 手を伸ばせば触れられるのだろうか。そう思い投げ出したままの手を動かそうとしたが、意に反してピクリとも動かなかった。そもそもここにオレの身体があるのかすら分からない。

(……ああ、これは夢だ)

 考えなくても、それだけは明確だった。この光景を『懐かしい』と感じる事がいい証拠だ。奴の背をこんな風に眺めていたのはもう随分と前の様な気がする。たまに夢を見たかと思えばこんな下らない内容なのか。これなら夢など見ない方がマシだ。眠った瞬間に起きる様な、そんな深い眠りに身を任せている方がどれほど心が休まるだろう。

 夢なら早く覚めればいい。心の底からそう思い、目を閉じた。
 

『……つーかさー。お前はこれでいい訳?』
 

 不意に物音一つ、息遣いすら聞こえなかった空間に低い声が響く。驚いて再び目を開けると視界の中にはあの素っ気無い背ではなく、不機嫌な顔があった。奴は睨め付ける様にじっとオレの顔を凝視した後呆れた様な溜息を吐き、横になっていた身体を仰向けて組んだ腕の上に頭を乗せると、天井を見ながら口を開く。

 その姿にデジャヴを感じる。瞬間、これは昔の記憶だと理解した。何時とまでは分からなかったが、さほど遠くない過去にこんな事があった気がする。

「……何がだ」
「何がって、大企業の社長さんが金にもならない貧乏人とこんな事してさぁ。暇じゃねーんだろ」
「何を今更。誘ったのは貴様の方だろう」
「そりゃそうだけど。まさかノるとは思わなかったからさぁ」

 大体、あんな告白を受けてドン引かないってのもあり得ないし。
 お前、どっかおかしいんじゃねぇの?

 その誰が聞いても『おかしい事』をなんの躊躇も無しに持ちかけて来た自分の事を棚に上げて、人を変人扱いするとは何事だ。あの時は、確かそんな趣旨の事を言い返したと思う。すると奴の顔には場にそぐわない笑みが浮かんだ。肩を震わせながらさも可笑しそうに笑いを堪える気配がする。

「まぁ、そうなんだけど。オレは別にいーんだよ。元々どうしようもないんだし、これ以上駄目になりようもねぇだろ」
「ふん、そんな事はどうでもいいが。何故オレに声をかけた」
「お前ならヤらせてくれると思ったから。そういう噂も聞こえてたし」
「何処から」
「知らねぇ。皆言ってるんじゃねぇ?まあそれはいいんだけど、はっきりいって恋人ってもんに憧れてたんだよね、オレ。でもこんな体たらくじゃ恋人を作るのってなかなか難しいだろうし……セフレ以外の女って浮気するとすげー煩いんだぜ。知ってるだろ?」
「さぁな。女は分からん」
「マジで男ばっかりかースゲェな。でもお前位見目良かったらそういうもんなんだろうな。理解したくねぇけど」
「……本気で好きになった人間はいないのか?」
「それをオレに聞く?逆にオレが聞きたい位だぜ。本気になったって何のいい事も無いじゃん。窮屈なだけだろ」
「まぁ、その通りだが」
「……あー、でもお前はそういう意味では特別かもしんねーな。だって好きだって思うもん。男だけど、恋人にしたいって思ったの初めてだぜ?」
「好きや愛してるはリップサービスなのだろう?自分でそう言っていたではないか。どうせ女の様な面倒がないとか、そういう単純な理由なのだろう」
「うん。でもさ……なんかお前は違う気がする」

 気が……するだけだけど。

 そう言って再びこちらを向いたその顔は先程の不機嫌さを滲ませたものではなく、落ち着いた穏やかさがあった。直後身体ごと近づいて来た奴の手がオレの頬に触れ、耳朶を緩やかに撫であげると、細波の様な快感が背を走った。オレの身体は、間違いなくここにあったのだ。自らの肌で、指で、奴の体温を捕まえる。

 大きな掌は耳朶を過ぎ、髪ごと頭を包むだけでそれ以上の動きを見せなかった。つい先程まで雄弁に物を語っていた唇も、軽く閉ざしたまま開く気配がない。微妙な距離を隔てた膠着状態。オレも城之内も、それ以上の動きを見せる事はない。

 いつもならここで口付けの一つもするのだろうが、そんな気持ちにはなれなかった。過去なら当たり前だった行為が、今はもう出来ないものに変わっている。目の前にいるこの男が本当はいないのだという事を、今のオレは嫌という程分かっていた。夢の中だから触れあえる。そんなのはただの下らない戯言だ。

 過去を振り返る主義じゃない。己の信条はそうだった筈だ。
 振り返っても取り戻す事など出来はしない。例え取り戻した所でいい結果が得られるとは思わない……けれど。

 頭に添えられた暖かな手を握り締める。ギリギリと爪を立てて、相手が痛みに顔を歪めるまで力を込める。けれど城之内は表情の変化がないまま、ただオレを見つめている。
 

「オレは別に、貴様の特別な何かになりたいと思った事はない。大勢の内の一人で良かった。それでこの関係が持続出来るのなら、構わなかった」
 

 勝手に口から零れ落ちた本音。放った言葉は、目の前の男には届いていないだろう。だが、その方が都合がいい。今更こんな思いを知られた所でどうにもならないからだ。だから、これは独り言でいい。夢の中で吐き出して、目覚めた時には忘れる程度のもので構わない。
 

「しかし貴様はオレを一人違う場所に隔離して、貴様なりの特別扱いをしてくれた。それがオレにどんな苦痛を齎すか分かりもせずに、ただ気の向くままに構い倒して、捨てて行った。貴様は、今までオレが出会った人間の中で最悪最低の男だった。……けれど、オレは」
 

 ── 貴様を失いたくはなかったのだ。
 

 喉奥から、熱い熱の塊がせり上がる。
 堪えようと奥歯を強く噛み締めても、抑える事が出来なかった。

 この行為をなんと言っただろうか。目の淵から溢れ出て頬を濡らすこれは何というものだっただろうか。強く締め付けられる胸を押さえながら、オレは必死にこの衝動から逃れようと目を閉じた。

 夢の中でさえ痛みを感じ、苦しむのはもう沢山だ。

 視界を閉ざし暗闇の中に身を置くと、全ての感覚が一瞬にして失われた。

 目覚めた時には全て忘れているといい。過去を気にせず前だけを見据えて歩く自分に戻れればいい。そうすれば、何事も無く日々は過ぎる。後は時が解決する。全ては「慣れ」だ。今の環境に慣れてしまえばどうという事はない。誰も、何も……傷付ける事はない。

 意識が失われる瞬間、一度だけ名前を呼んだ。

 その声は酷く掠れていて、奴には届かないだろうと……そう思った。
 
 
 

「──── っ!」

 はっと目を開けると、そこは見慣れた天井だった。古めかしくも豪奢な天蓋が視界の端で揺れている。……ああ、ここはオレの部屋だ。昨日も規則正しい時刻に寝た所為で、頭がすっきりしている。辺りはまだ薄暗い事から起床時刻ではないのだろう。こんな風に夜中に目覚める事など最近なかった為か、妙な感じがする。

「………………」

 ふと、喉の渇きを覚えて身を起こす。室温を高くし過ぎただろうか。水を飲むついでに空調の温度も変えて来ようと腰を浮かせた瞬間、隣に遊戯の姿が見えない事に気が付いた。もう奴が起き出す時間なのかと思ったが、それにしては部屋が暗すぎる。ならば遊戯も手洗いにでも行ったのだろうとさして気にせずベッドの端に移動したその時だった。

 ぽたりと、膝の上に生暖かい何かが落ちる。

 驚いて下を見ると今度は別の場所に同じ様に何かが落ちた。触れてみるとそれはただの水の様だが、何故か温んで暖かい。奇妙なものだと顔をあげると、頬を何かが伝い落ちた。指で触れると、そこは冷たく濡れていた。

 涙だ。そうオレが事実を認識する前に閉ざされていた部屋の扉が音も無く開かれる。みれば、遊戯がそこに立っていた。奴もオレが起きていた事に驚愕し、「あ」と短い声をあげる。

「……海馬くん」

 小さなその呟きがオレの耳に届く前に、遊戯が手にしたものを落としそうになる。奴が持っていたのは真っ白なタオルだった。辛うじて受け止めたそれは、落下時の状態から見て多分濡れているのだろう。それを何に使用するかなど、今のオレに推測出来ない筈がない。

 手の甲で濡れた頬を擦りあげる。未だ意味が分からず呆然とするオレを、いつの間にか傍に来ていた遊戯が柔らかく抱き締めた。まるで子供相手にする様な仕草に不満を示し顔をあげると、遊戯は笑おうとして笑顔になっていない複雑な表情でおどける様にこう言った。

「怖い夢でも見た?」
「いや、覚えがない」
「僕、少し喉が乾いちゃって。起きたついでに濡れタオル持って来たんだ。そのままじゃ目元が腫れると悪いしね」
「………………」
「……海馬くんも喉が渇いたの?この部屋、ちょっと暑いよね」
「……そうだな」

 遊戯の指が、頬に触れる。

 覗き込むようにオレの顔を見るその瞳はほんの僅かに揺れていて、まるでこの男の方が泣いている様だった。

 ……夢を見ていたのだろうか。それすらも分からない。

 知らず吐いた溜息は、寄せられた唇に吸い取られる様に消えて行った。
 この男の唇は何時触れても暖かい。

 何度目かのキスの後緩やかに離れて行くそれを目で追いながら考えていたのはそんなどうでもいい事だった。床に立ったまま静かにオレを抱き抱えていた遊戯は何時の間にかオレの顎を掬う形で少しだけ強引に上向けさせると、また唇を寄せて来る。

「遊戯?」

 常にない相手の強引さに不思議に思い、唇が触れたままその名を呼ぶと、答えの代わりに柔らかな舌が入って来た。最初から口内を犯す目的で伸ばされたそれは、歯列を辿り上顎を舐めると奥に引いていた舌を絡め取って吸いあげる。遊戯が顔を少し動かす度に広い部屋にやけに大きく響く濡れた音が酷く耳障りだった。

「……ふ、うっ……!」

 余りにも長い口付けに唇の端から唾液が溢れ落ち、呼吸が苦しくなる。それを訴えるべく頬に添えられた遊戯の手首を掴んで力を込めると、漸くオレの口に吸い付いていた唇は名残の糸を引いて離れて行った。しかし濡れたそれは言葉を紡ぐ事はなく、立ち尽くす身体も動かない。動かないまま、頬にあった指先は首筋をなぞる様に滑り落ち、元々最後まで留めていなかった首元のボタンを弄ぶ。

 何時もならここで窺う様にオレの目を見る筈なのに、今は目線を合わそうとはしなかった。既に胸元近くに降りていた細い指先が肩に掛り、柔らかく押してくる。多分横になれと言う意味なのだろうが、それが寝ろという意味であっても、それ以外の意味であってもベッドの端にいるこの状態では不自然だった。

 それ故オレは肩に掛った遊戯の手に己の手を添えて、視線でベッドの中央へ戻る様に促してみる。それは視線を反らしたこの状態でも無事伝わった様で奴は直ぐにオレの前から退き、抜けだしたまま形が変わっていなかった己の位置へと戻って行った。それに倣い、オレも元の場所へと身を落ち着ける。

 普段なら遊戯はここでオレを寝かしつける様な素振りを見せるのだが、今は捲れ上がった上かけを取ろうともせずじっとシーツの上に視線を落としている。仕方なくオレが上かけを取ろうとすると、不意に伸びて来た奴の手がオレの腕を掴み、痛みを感じる程力を入れて来た。そして、ごめん、と一言口にする。

 その謝罪の意味が分からず問い返そうとする前に再びボタンに触れて来る遊戯に、オレは相手の意図を知り出しかけた言葉を飲み込んだ。そして了承の意を示す為に、少し大げさに身体の力を抜いて見せる。横になった方がいいのかと一瞬逡巡したが、流れに任せた方がいいと判断し、そのままでいた。

 直ぐに不器用な指先が一つ一つ丁寧にボタンを外し、前を暴く。肌蹴られた夜着の腕を抜こうと身を捩ると、遊戯はそれを阻止する様に今度こそ肩を押して来た。素直にその場に倒れ込む。瞬間、頬に触れた冷たい感触にオレは一瞬驚いて目を瞠った。確かめる為に後ろ手に指を伸ばすと、枕の大半が濡れてる事に気付く。何故……そう口にする前に落ちて来た遊戯の唇に再び口を塞がれた。

 肩に置かれた手は明確な意図を持って降りて行き、緩く快感を引き出す様に身体のあちこちを這いまわる。じわり、と腰元に熱が溜まり、額に僅かに汗が滲む。口内で絡み合う舌先は、最早どちらがどちらの物か分からなくなっていた。

 自然と腕を遊戯の背に回す。オレが両腕を回すとすっぽりと包みこめてしまう様な小さな背。薄く頼りないそこに縋る事に最初は酷く躊躇した。他の男達とは違う、子供の様な柔らかな肌に爪先で傷を付けてしまう事を厭ったからだ。

 けれどそれでは寂しいと逆に悲しい顔をさせてしまった為、今は余り意識しない様にしている。首筋を這い、掌で後頭部を押さえ付ける形で唇を深く重ねるとその柔らかさに安堵を覚えた。ただ、遊戯とはキスだけで射精する事は出来なかった。

 コイツとこんなシチュエーションで事に及んだ事は無かったが、基本的に求めに応じるのは苦ではない。無理矢理でも、おざなりでもない。ましてやただの性欲の吐け口でもない。心の底から慈しんで来る様な遊戯とのセックスは、オレに不思議な感覚を齎した。

『身体の充足よりも心の充足を大事にしたい。君を救いたい』

 一番初めに遊戯と寝た時に、オレを抱きながらコイツはまるでうわ言の様にそう繰り返した。その言葉を聞きながらオレが感じていたのはやはり優しい温もりだった。この男の全てが暖かくて柔らかい。遠い昔に何処かに置き忘れて来た様なその感覚を全身で感じながら、オレは『あの日』以来一度も果たしていなかった物理的要因以外での射精と絶頂を極めたのだ。

 快感が苦痛や不快感を上回ったのは、本当に久しぶりの事だった。

『ごめん、僕、こういう事するの君が初めてで……どこか痛くしてない?ちゃんと気持ち良かった?』

 人が絶頂の余韻に喘いで呼吸も整わずにいる内から無粋にもそんな事を口にして来るその顔を睨んで「貴様は馬鹿か」と吐き捨ててやると、呆れた事にその言葉を素直に認め、笑顔すら見せていた。その時、オレは初めて遊戯の手が酷く震えている事に気が付いた。

 押し広げる為に太股を掴んでいた指先も感覚で伝わる程ガクガクと揺れていた。その事を指摘すると即座に「初めてだから緊張していたんだ」と返ってきたが、多分それだけではないのだろう。

 何故なら、奴の指先は今この瞬間も震えている。今だけじゃない、オレを抱く時はずっとだ。

 本当は、コイツは男を抱く事に嫌悪と抵抗があるのかもしれない。もしそうだとしたら無理をする必要はないのだと何度目かの夜の時きっぱりと告げてやったら、『いかにも心外だ』という表情と共に全力で否定された。余りに必死に、しかも本気で怒りをあらわにして「そんな事を言わないで」と強く詰られたのでそれ以来その事には触れていない。ただ、震えとして伝わってくる奴の複雑な感情の揺れは嫌が応にもオレの意識を支配した。それでも。

『好きだよ、海馬くん』

 そう言って優しく抱き締めて来るその腕に縋る以外術はなかった。遊戯の事は好きだ。それは間違いない。けれど、その言葉を声に出して言う事がまだ出来ない。キスもセックスもした。身体の中で暴かれていない所はもうない。けれど、心はそうはいかなかった。

 ……結局はあの男の時と何も変わらない。否、変われない事に酷い嫌気がさしていた。
 

「枕、びっくりした?」
「…………?」
「冷たくて、驚いたでしょ」
 

 緩やかな愛撫に身を任せながらそんな事を考えていると、不意にそれまで一言も話さなかった遊戯が、意外な事を口にした。未だ頬に当たっている例の場所は冷たく湿っている。確かにそれに驚いた事は事実なので肯定すると、遊戯は僅かに眉を寄せてまるで泣くのを堪えている様な表情でその場所を凝視した。そして鎖骨の辺りをさ迷っていた指先でオレの目元に触れ、小さな溜息を一つ吐く。その指先は、やはり少し震えていた。

「……君の枕が濡れていたのはね、今日が初めてじゃないんだよ?」
「……何だと?」
「気付いていなかったかも知れないけど、今までも何度か……君は眠りながら泣いていたんだ」
「……まさか」
「嘘じゃないよ、本当の話。夢を見ていたのかな……よく分からないけど、寝言も表情の変化も一切なくって、ただ涙を流すだけ」
「………………」
「そんな君の姿をみていると、悲しくなるんだ。僕じゃやっぱり、駄目なのかなって」
「遊戯」
「……ごめんね。君自身がコントロール出来ないのに、こんな事言っても困るよね。本当に、ごめん」

 そう言って俯く目の前の顔を凝視しながら、オレはどうしたらいいか分からなかった。今日の様な事が一度だけでは無かった。その事に酷く衝撃を受けたからだ。しかもその姿を何度も遊戯に晒してしまった。その事実に背に冷たい汗が滲む。明らかに失態だ。だが奴の言う通り、オレの意思とは無関係に起こった事象はどうする事も出来ないのだ。

 もどかしさに、唇を噛み締める。勝手な思い込みで落ち込まれては堪ったものじゃ無い。けれど、そう思われるのも無理はなかった。せめてオレが強くコイツの事が好きだと、心の底から救いになっているのだと、言葉にして言えれば良かったのだが、この後に及んでまだ口にする勇気を持てずにいた。

 静寂が場を支配する。痛いほどの沈黙が己を責めている様で辛かった。

 耐えきれず、目の前の身体を引き寄せて抱き締める。何故か涙が出そうだった。

「ごめんね」
「……謝るな。意味がわからん」
「うん、そうだね。僕も何に対して謝ってるのか良く分かんなくなっちゃった」
「馬鹿め」
「……じゃあ、この話はもうおしまいにして、続き、していいかな?なんか勝手に始めちゃったけど、どうしても君に触りたくなっちゃって」
「……好きにすればいいだろう」
「うん。好きにする」
 

 君の事が好きだから。
 

 耳元でそう囁いて、遊戯は行為を再開する。既に熟知している快感の在り処を辿りながら何時もの通りの手順でオレを暴いた。優しい指先が熱を煽り、閉ざされた場所を抉じ開ける。膝を割り、身を進めて来るその背を「好き」の言葉の代わりに強い力で抱き寄せた。

 その瞬間、目の淵から熱い涙が零れ落ちる。生理現象かと思ったが、オレはセックスで涙を流した事は殆どなかった。ましてや痛みも苦しみもないこの行為の何処に涙を流す要素があると言うのか。意味が、分からなかった。
 

「泣かないで、海馬くん」
 

 優しく目元を拭われると、余計に涙が溢れる気がした。

 誤魔化す為に首を振り、キスをする。重ねた唇は微かに涙の味がして、鬱陶しさに眉を寄せた。けれど一向に頬を流れるそれは止まる気配がない。

 結局、事が終わるまでオレの頬は濡れたまま乾く事はなく、翌朝目元の熱が引くまで苦労した。鈍く痛む頭を抱えながら何とか着替えを済ませて私室へ向かうと、遊戯が普段通りの声色で「おはよう」と声をかけて来た。
 

 けれどその顔にいつもの様な笑顔は無く、何故か酷く悲しく見えた。