Immoral Kiss Act15(Side.遊戯)

 広いテーブルの片隅で、問題集を片手に唸っていると不意に温かな空気が身体に触れた。後ろを振り向くと、そこには無造作に髪から水滴を滴らせた海馬くんが立っていた。大きなバスタオルで下まで水が落ちない様にガードはしているけれど、その頭はびしょ濡れだ。

 海馬くん、と呼ぶ前に彼は無言のまま僕の投げ出したシャープペンを取り上げて、回答欄じゃない場所にサラサラと答えとその解き方を記入する。僕が一時間近く悩んだ問題は、彼にとっては3秒で解ける程度の難易度だったらしい。

 そう言えばこの間の全国模試、全教科100点だったもんね。頭の出来が違い過ぎる。

 ひたすら感心して見ていると、頭の上から酷く気の抜けた溜息が降ってきた。同時に、ぽつりと僕の額に落ちてくる温かな水。

「貴様はこんな問題に何時間悩んでいるのだ」
「しょうがないでしょ。数学は苦手なんだよ」
「物理も世界史も英語も全部苦手だろうが」
「そうだけど。あ、でもね、昨日の小テストで80点取れたんだよ。君が前にここが出そうだって教えてくれた所、あの頁がちゃんと出題されたんだ」
「ふん、良かったな。満点でないのが頂けないが」
「あー、えっと……それはちょっとスペルミスしちゃって。時間が足りなくて見直せなかったんだ。今度は絶対に100点を取ってみせるよ」
「まぁ、精々母親の期待を裏切らない様にする事だな」
「それは大丈夫だよ。今まで50点も取れた事なかったのに、この点数でしょ?ママ、海馬くんにすっごい感謝してたよ」
「80点で満足して貰っては困る」
「はいはい。100点取れるように頑張ります。じゃ、ここに座って」
「いい」
「良くないよ。そのままだと風邪ひいちゃうでしょ。一緒に寝る僕の事も考えてよ」

 言いながら目の前でふわふわと揺れるバスタオルの端を掴むと、海馬くんは渋々ソファーの上に腰かける。それに良く出来ました、と声をかけると、凄く嫌そうな顔をしたけれど文句は飛んで来なかった。

 僕は座っている海馬くんの足を跨ぐようにしてソファーの上に膝立ちになり、濡れていてしっとりと重くなっているバスタオルで丁寧に髪を拭ってしまう。僕と違って柔らかくて細い髪は直ぐにタオルに水分を奪われてサラサラになる。

 仕上げはドライヤーでって言うんだけど、海馬くんが熱風を嫌がるがらいつもタオルドライだけで放置してしまう。仕方なく僕は一旦彼の膝を下りて浴室へ新しいバスタオルを取りに行くと、もう一度頭を包んで、最後に肩に落ちていた水分も綺麗に吸った。そのまま身体が冷えないように肩にタオルを乗せたまま、抱き締める。

 僕は海馬くんの前にシャワーを済ませていたから、彼よりも随分冷えていると思ったけれど、こうして触れ合うと僕の方が体温が高いみたいだ。ふわりと香る甘いシャンプーの匂い。ボトルデザインを見る限り花だと言う事は分かるけれど、表記されていた英語が読めないから結局何の匂いか分からなかった。けれど僕はこの甘い香りがとても好きだった。

 つい口を寄せたくなるような、そんな匂い。

 濡れた髪をかき上げて、現れた額にキスをする。唇はそのまま柔らかな頬を辿って薄い彼の口にもキスをした。ちゅ、と響くリップ音に触れた口元が微かに緩む。

 今日は一度抱き合った後だからそれ以上する気も無くて、いつもよりも少しだけ温かなその身体にただ甘える様に身を寄せる。こんな事も他の誰かがやれば色っぽく見えるんだろうけど、僕がするとまるで兄弟の触れ合いだ。現に海馬くんも僕とモクバくんを比べて笑いの種にする。小学生と比較されるのは正直少し不本意だけれど、それで彼が笑ってくれるなら安いものだと思った。

「ちゃんと湯船に浸かった?身体、もう冷えちゃってる」
「入ったぞ。5分ほどな」
「たったそれだけ?君がちゃんと長く入れる様にお湯を温くしておいた筈だけど」
「何もしないで座っているのは勿体ない」
「お風呂はそういうものでしょ。退屈なら本を持って入ったら?」
「そういう習慣がない」
「なら僕と一緒に入る?二人ならただ座ってる事なんてないでしょ」
「貴様と入る位ならモクバと入る」
「モクバくんね。モクバくんもお風呂、すっごく早いよね。ああいうの、烏の行水って言うんだよ」
「そういう言葉だけは良く知っているな」

 しかし貴様は小言が多い、なんてぼやきながら海馬くんも僕の背中に手を回す。その仕草はまるでぬいぐるみを抱く子供の様だ。そう言えば、海馬くんは眠っている時もこんな風に僕を抱き締めて来る。まるで何かに縋る様に、心臓の辺りに頬を寄せて。

「……課題はもう終わったのか?」
「うん、やらなきゃいけない事は終わったよ」

 背後の問題集は悩んでいたのが最後の一問だったから閉じても構わない。そろそろ日付も変わる頃だし、もう寝てもいい時間だ。明日も平日だから朝6時には起きなきゃいけない。家にいる時は起こされるまで絶対に目を覚まさないけれど、この家では必ず時間よりも少し早く目が覚めた。きっと海馬くんを起こすっていう使命があるからなんだろうけど、この変化には僕が一番驚いた。
 

『海馬くんの所に行くようになってから変わったわね。少し大人になったみたい』
 

 海馬くんと付き合うようになってからずっと、週の半分を海馬邸で過ごす僕に最初は心配をしていたママも、最近は快く送り出してくれるようになった。勿論ママには海馬くんの所に行く本当の理由は隠していて、デュエルやモクバくんの相手をする事を条件に勉強を見て貰っているという設定を通している。

 それを完全な嘘にしない為に毎日こうして一時間、机に向かう。海馬くんも仕事を家に持ち帰っているから丁度良かった。お陰で僕の成績は徐々に上がってママの海馬くんに対する評価は上がる一方だ。

(まぁ、『大人』になったって言われればそうだけどね)

 逆を言えば、僕はすぐに精神的にも肉体的にも大人にならなければならなかった。
 子供のままじゃ二人の間に入る事なんか出来なかったから。

「寝ようか。明日も早いし。今日は久しぶりに学校に行って疲れたでしょ」
「相変わらずつまらん場所だったな」
「また暫く仕事?あ、来週テストがあるよ」
「ならばその日に合わせるまでだ」
「もうそろそろ冬休みだよ。早いなぁ」

 『学校』の二文字が出た瞬間、海馬くんの身体が少しだけ強張るのを感じた。昼間の事を思い出したのかもしれない。結局あの後二人が話す事はなく、城之内くんはいつの間にか教室から消えていた。一応メールを送ってみたけれど、答えはない。

 海馬くんの膝から降りて、テーブルの上を片付ける。それを黙ったまま見つめていた海馬くんの手を取ると、行こう、と優しく促した。

 力のない指先は、申し訳程度に僕の掌を包み込む。
 
 

「海馬くんは……今の生活、嫌じゃない?」
「……何の話だ?」
「今日城之内くんと話してたよね。最後の言葉、聞いちゃったんだ」

 暖かなベッドの中、少しだけ距離を置いて横になると、目線がぴたりと重なり合う。海馬くんと眠る時僕は必ず彼の方に顔を向ける事にしていた。普段は遠い距離にある蒼い瞳がなんの無理も無く近くに来るこの瞬間がとても好きだったからだ。海馬くんも僕と向かい合う事に特に抵抗は無いらしく、いつもされるがままにしている。お陰で僕は海馬くんの背の温かさを知る事が出来ない。

 でも、これは酷く幸せな事だった。
 

『ま、あいつじゃーお前が満足するとは思えねぇけど』
 

 城之内くんの吐き捨てる様な冷たい声が耳の奥底に残っている。その言葉を聞いた時、僕は別に悲しいとも悔しいとも思わなかった。何故なら、とっくに分かっていた事だからだ。

 海馬くんの今までの生活を考えれば、僕とのままごとみたいな毎日なんて退屈に決まっている。セックスだって毎日する訳でもなく、海馬くんの体調がいい時に少しだけする程度だ。けれどそれに対して文句を言われた事もないし、我慢が出来ない様な素振りを見せる事もなかった。勿論僕といない時間までは分からないけれど、それでも前の様な無茶はしていないと思う。

「海馬くんが何か不満に思う事があるなら教えて。出来るだけ努力するから」

 城之内くんの様な事は出来ないけれど、僕なりに考えるから。

 僕がそう言うと海馬くんは少しだけ眉を寄せて不思議そうな顔をした。そして小さな声で「別に無い」と短く答える。

「誰かと自分を比較するのは止せ。無駄な事だ」
「うん、でも……」
「奴の戯言に耳を貸す必要などない。もう関係ないのだからな」

 そう。君を捨てた彼の言葉なんて、本当はどうでもいい事なんだ。けれど、僕と君はいつも心のどこかで彼の事を考えている。ほんの数分言葉を交わしただけのあの時間にこんなにも動揺する位に。

「そうだね、ごめん。おやすみなさい」

 それ以上話す事はないと閉じてしまったその瞼に口付けながら、僕はいつの間にか痛み出した胸を押さえながら投げ出されていた海馬くんの手を握り締めた。今、確かにこの手は繋がっているのに何処か遠い場所に居る様な気がしたからだ。

 関係がないと言い張る君。

 けれど、後数時間もすればその頬は涙に濡れている。翌朝それに気付かせないよう、僕がどれだけ苦労をしているか知りもしないで。

 寝息を立て始めた彼を起こす事が無いように空いた手でそっと頬に触れる。

 僕も、泣きたい気分だった。