Looking for… Act1

「お前っ!そうやって人をガンガン殴ったり、物を投げつけたりすんな!当たり所が悪くて記憶喪失になったどうするんだよ!」
「知った事か!ならば貴様のその態度を改めろ!」
「だからって置時計投げるかフツー!死ぬっての!」
「むしろ死ね!」
「あっ、そういう事言うんだ?!お前最悪!!このヒステリー男ッ!」
「黙れ凡骨がッ!!」
 

 切欠はいつもの些細な言い争いが始まりだった。口火がどこから切られたのかさえ分からないそれは、運悪く互いに虫の居所が悪かった所為で広い部屋に物が散乱する程の大騒動になってしまった。

 普段から口も悪ければ手も早い城之内と、それとは全く別の意味でこちらも口が悪く手も足も早い瀬人が本気になって喧嘩をすればそうなるのは最早必然で、彼等はここが室内だという事も忘れて盛大に遣り合っていたのだが、最後に瀬人が手にした剛三郎から無理やり押し付けられた、経済白書を片手で思い切り城之内の頭目がけて投げつけた所、ドカッ、と嫌な音がして不意にその場は不気味な位に静かになった。

 それまで行儀悪くソファーの上に仁王立ちになり瀬人から投げつけられる様々な凶器を手近にあったクッションで防ぎながら応戦していた城之内だったが、直前に飛んできた木工製の重厚な置時計を避けているうちに、頭の防御が疎かになっていたのだ。そこに間髪入れずに飛んで来たのは尤も大きく重たいソレである。

 そんなものが頭に直撃すればいかな城之内でも一溜まりもなかったのか衝撃にぐらりと傾いた身体ごとソファーへと倒れこんでしまう。ドサリと大きく響いたその音と共にピクリとも動かなくなってしまったその身体を見下ろして、そこで初めて瀬人は振り上げた右手はそのままにはっと我に返った。そして、恐る恐るソファーへと歩み寄る。

「おい、凡骨」

 倒れた拍子にぽすんと顔に被ってしまったらしいクッションを押しのけると、瀬人は幾分押さえた声で目を閉じている城之内の名を呼んでみる。しかし、勿論反応はない。さすがに不審に思い、乱れて目元に掛かる痛んだ金髪に指を伸ばしてかき上げてみるもののやはり無反応で。その拍子に目にした微妙に形が変わっている頭の側面を見た瞬間、瀬人はさっと血の気が引くのを感じた。

 頭に凶器が激突して意識不明で反応もなし。……これはもしや、マズイ事になってしまったのではないだろうか。というか確実にヤバイ。もしや死んだのではあるまいなッ?!そんな事を思い心で絶叫しつつも見た目だけは冷静に、それでも自然と額に浮かんでくる冷や汗を拭いもせずに瀬人は暫し呆然とその姿を見下ろしていた。

 ……普段はそんな事を「今」考えなくても、凶器を投げつけている時点でそうなる可能性に気付きそうなものだが、今まで何をやられても流血はあったものの気絶は無かった城之内の頑丈さが災いして、「これをしたら危ない」という意識が瀬人には欠けていたのだ。尤もそんな意識があったとしても、怒りにキレてしまえば我を忘れてしまうので殆ど無意味ではあったのだが。

 城之内の傍らに落ちて捲れている、黒皮の表紙が重々しい凶器となった本を忌々しく睨めつけながら瀬人はとにかくこの事態をなんとかしなければと、徐々に冷静さを失い始めた思考で考え始めた。と、とりあえず怪我をしたのだから医者か?!そうだ医者だ!というかその前に息があるのかコイツは?!

 瀬人は内ポケットに入ったままの携帯を片手で取り出しながら、不意に相手に息があるのかを確かめていなかった事を思い出し、金髪に触れたままだった右手をそっと口元へと近づける。途端に感じる生暖かい息の感触に一応呼吸はあるのだとほっと胸を撫で下ろし、とにかく磯野にでも連絡しようと携帯を弄ろうとした、その時だった。

 口元に置いた指先に微かな相手の震えが伝わって、ごそ、と動く気配がする。はっとして携帯を開いたまま、僅かに手を引っ込めて息を呑みつつその動向を伺っていると「……ん」と小さく声が漏れた。同時に眼前の眉がきつく寄せられる。意識を取り戻したか……?そう瀬人が思い、思わず顔を近づけると、城之内はそのまま僅かに呻き声を吐き出しながら、ゆっくりと目を開いた。

「城之内!」

 不意に叫んだ瀬人の声には無反応で、彼は焦点の合わない瞳を二三度瞬きしながら、困惑気味に視線を彷徨わせる。そして漸く眼前の瀬人を捉えると、これまた特に反応をせずにじっと様子を伺うように見つめているだけだった。その表情はまるで他人のようだった。

「おい、城之内。何を呆けている。しっかりしろ!」

 余りに長い間の沈黙に焦れてしまった瀬人はやってはいけないだろうとは思いつつ、正気づかせる為に幾分力を緩めて城之内の頬をペチペチと叩いてやる。それにやっと正気づいたのか彼は盛大に顔を歪めて「いてててて。なんだよもうすげー痛ぇ。死ぬっ」と呻くと、投げ出されたままだった腕を引き寄せて既に巨大なコブになっている頭を押さえている。直ぐ目の前に迫る瀬人の事などお構いなしのその態度に、些かムッとしたものの、こんな事を言う元気があるのなら大事には至らなかったのだろうと内心瀬人がほっと胸を撫で下ろしていた、その時だった。

 不意に顰め面のまま目を開けた城之内が頭のコブをさすりながら至近距離の瀬人へと目線を合わせて来た。少し鋭さを持った真っ直ぐなその眼差しに、さすがに悪い事をしたという自覚があった瀬人は、思わずギクリと背を跳ね上げ次に来るだろう罵詈雑言に備えて僅かに構えた。しかし、何時まで経っても城之内の口から瀬人に対する抗議は出て来なかった。代わりに注がれるのは怪訝な視線。まるで、物珍しげに凝視しているような、そんな顔だった。

「……城之内?」
「……あー、あのーえっと。一つ聞いていい?」
「……なんだ」
「あんた、誰?オレ、どうしたの?なんかすげー頭が痛いんだけど」
「どうしたって……何を言っている。貴様、ふざけているのか?」
「いや、至って真面目だけど。つか、人の事貴様呼ばわりすんなよ。お前、いつの時代の人間だ」
「何を今更。いつもそう呼んでいるだろう」
「いつもって何だよ。オレ、お前と会うの初めてだし。ていうかここ何処だ?!今日は遊戯とガッコに行って……放課後……あーそうそうモクバの所に遊びに行ったんだ!そいで……うっ、いてッ」
「凡骨!」
「っつー事はここはモクバの家かぁ。……となると、ますますお前誰よ?見慣れねぇ顔だけど、モクバの家に最初からいた?新しく入った使用人かなんか?」
「……おい、いい加減にふざけるのはやめろ。さすがにオレもやり過ぎたとは思っている。だから」
「だからふざけてねぇってば。お前何なの?つーかモクバは何処よ。人を呼んどいてどっかに行っちまうとか薄情な奴だよなー。あ、それはそうとお前今ぼんこつとか言ってたけど、何の事?」

 頭を押さえながら至って真面目な顔でさらりとそう言う城之内の顔を呆然と見返して、瀬人は今のやりとりが演技か否かを必死に見分けようとした。これまでも過去幾度か城之内の怒りメーターが振り切れた際、その怒りっぷりを表現すべく気が済むまで瀬人の事を徹底的に無視したり、その存在をまるでなかった風に振舞われたりした事があったからだ。大抵こちらも意地を張って同じように無視をし返して、持久戦に持ち込んだ挙句に折れて頭を下げてくるのは城之内の方だったが。

 しかし、今回の彼の反応はそれとはまた違う気がする。明らかに意図的にではなくごく自然に会話に応じ、時折こちらを見る眼差しには嘘が無い。本当に「誰だお前は」と全身から問いかけているようで、瀬人は背筋にぞくりと寒気を感じた。可笑しい。明らかに、こいつは可笑しい!

「まぁ、いいや。とにかくモクバが帰ってくるまで待ってようっと。ところで、お前の名前は何て言うの?」

 そんな瀬人の困惑など全く他人事で、持って生まれた楽観的思考をこんな時にも如何なく発揮した城之内は、実にあっけらかんとした様子で頭を庇いつつ笑顔でそんな事を言ってくる。やはりその様子に演技は感じられない。その事に密かに眩暈を感じつつ、瀬人は額を押さえて大きな溜息を吐きつつ、問われた事に対する答えを素直に返した。

「海馬瀬人だ。オレは貴様の言う『モクバ』の実の兄だ。よって、ここはオレの家だ」
「嘘言うなよ。モクバに兄ちゃんなんかいねぇだろ。大体お前全然似てねーじゃんか」
「!!……嘘など言うか!」
「お前、モクバが金持ちの息子だからって訳分かんねぇ事言って近づいてる変な奴の一人じゃないだろうな。さっきから態度がおかしいし……言葉遣いも変だしよー」
「ふざけるな!貴様、誰に向かってそんな事をッ!」
「あ?やんのかよ。言っとくけどオレ、喧嘩は強いぜ。向かうところ負け無しって奴だ」
「敵なしだろうが!馬鹿め!」
「うるせぇ!どっちでも一緒だろうが!!……って……くー駄目だ。頭いてぇ」
「………………」

 威勢良く言葉の応酬をしたと思えば、急に頭を抱えて呻くその姿に、瀬人は持って行き場のない怒りや困惑を持て余しながら、とりあえず一人では手に負えないと開いたまま放置していた携帯を握り直し、即座に磯野へ連絡した。打てば響く相手の対応に「なるべく急げ」との言葉を付け足して携帯をしまいこむ。その仕草を物珍しげにじっと眺めていた城之内は即座に「なんでお前磯野さんを呼び捨てにしてんだよ」とか、「何様だよ」とかぶつぶつと文句を言っていた。

 その様子からみるに、城之内は全ての記憶を失っていたり、混濁している訳ではないようだった。何故かは分からないが、その脳内から瀬人の事だけが綺麗さっぱり抜け落ちている。今までの言動が演技ではないのならそうとしか思えないのだ。

 そんなに都合のいい記憶喪失などあるのだろうか、それこそオカルトの域ではないか。瀬人は忌々しげにそう呟くと、最早相手をするのも疲れたと城之内から顔を背けてソファーに座り頭を抱えた。一体なんでこんな事に。否、元々は自分の所為ではあるのだけど。そんな後悔が後から後から溢れ出てこちらこそ頭が痛くなって来る。

 そんな瀬人の様子を当の城之内は物珍しげに眺めながら、へらりと笑った。その顔にさっきまでの剣呑さは何時の間にか薄れている。数秒経つとすぐに怒りを忘れる所も確かに城之内に違いなく、その暢気さが今は無性に腹立たしかった。

「なんかしんないけど、そんなに落ち込むなよ。元気出せ、な?」

 その言葉に「誰の所為だ!!演技はやめてむしろ貴様がオレに謝れ!」と怒鳴りつけてやりたかったが、その気力さえ今の瀬人にはなかった。何の悪意も下心も無い笑顔が眩しい。そんな顔は常の城之内には見られない。よって、この城之内は常とは違う城之内なのだ。

「えーっと、名前なんだっけ。瀬人だっけ?」

 貴様はオレの事をそんな風に呼んだ事はないだろうが馬鹿め。困った風に首を傾げながらそう声をかけて来る相手の顔を、瀬人はただじっと見つめた後、深い深い溜息を一つ吐いた。
「お前の妹の名前は?」
「静香。今は親が離婚して、別居してる」
「じゃ、いつも一緒にいる友達の名前」
「えーっと、遊戯に本田に、杏子。あ、あと獏良と御伽!そん位しかいねーかな。」
「今お前がやってるバイト」
「月から土までは朝から新聞配達だろ?夕方はゲーセンの店員、日曜日はビル掃除。休みはなし」
「今質問してるオレの事は?」
「海馬モクバ。海馬コーポレーション副社長。小学6年生。小生意気なガキ」
「余計な事言うなよ。そこまで分かってて、なんで兄サマ思い出さないんだよ」
「だからお前に兄ちゃんなんていねーって。嘘吐くなよ」
「じゃあ海馬コーポレーションの社長は誰だと思ってんだよ」
「ん?なんか知らんけど怖い顔したいかついおっさん。名前なんていうんだっけ?海馬剛三郎」
「剛三郎?!……いつの話だよ。なあ城之内、お前ホントにこの人誰だか分かんないのか?」
「瀬人だろ。海馬瀬人。でも誰だか知らねぇ」
「…………駄目だ兄サマ。嘘発見器に反応ないよ。城之内、嘘吐いてない」
「………………」
 

 はぁ、と大小さまざまな溜息が共鳴する中、瀬人はモクバの肩越しにきょとんとした顔をしている城之内を眺めていた。

 あれから直ぐに飛んで来た磯野に事情を説明し、外に遊びに出ていたモクバも呼び出して大騒ぎをしながら城之内を病院に連れて行き、一通りの治療やら検査やらを受けさせた後、全てに特に異常なしと言う結果に安堵しつつも、相変わらずピンポイント記憶喪失が治らないその様子に、瀬人は未だ一縷の望みである城之内の演技であるという可能性を捨てきれず、ついには嘘発見器を手配して実験してみたのだが、結果はやはり同じものだった。

 全ての質問に淀みなく正確な答えを返していく中で、瀬人に関する事だけは口ごもったり、「分かんねぇ」と顔を顰めたりする様を見るに付け、瀬人の中に言いようのない苛立ちとは違った感情がふつふつと沸いて来て、思わず拳を握り締めてしまう。

 出来るなら多分衝撃で眠ってしまったのだろう記憶細胞を叩き起こすべくその頭を思いきり殴りつけてやりたかったが、こうなった原因も暴力だった為にそうは行かず、持って行き場のない憤りは全て指先へと集中し痛い位だ。

 それらを全て間近で見ていた医者の見解によると、一時的なものであって時間の経過と共に元に戻るだろう、と楽観視する反面、些細な事なのでもしかしたらずっと思い出さないのかも知れない、とも言われてしまった。

 己の存在を記憶から消去される事のどこが些細な事だ!!と瀬人は内心酷く憤慨していたが、もしかしたら城之内に取っては自分の事等至極些細なものとして位置づけられていたのかも知れない。

 そう思うと、何故か酷く悲しいような複雑な気持ちになった。

「……医者も時間が経てば思い出すって言ってたし、そんなに心配する事ないよ、兄サマ。ほら、城之内って馬鹿だけど、物忘れはしないじゃん。どーでもいい記念日とか、色んなこと、ちゃんと覚えていたろ?」
「……そうだな」
「いい機会だからさ、始めに戻ってやり直してみたら?意外に新鮮で面白いかもしれないぜ?兄サマ達最近なーんかマンネリだーって言ってたじゃん。しょっちゅう喧嘩してさ、オレ、言わずにいたけどちょっと心配だったんだ」
「そう、なのか?」
「うん。だから、ね?」

 それはモクバなりの気遣いだったのだろう。医者の説明を聞きながら少しだけ青褪めていた顔色で無理やり笑顔を作り、くるりと瀬人を振り向いた彼はぎゅっと手を握り締めながら何度も「大丈夫」を繰り返した。何時の間にか疲れの為にだろうソファーに凭れて眠ってしまった城之内は、その体勢からか折角綺麗に巻かれていた包帯を盛大にずらしてすやすやと寝息を立てている。

 口の端から涎まで垂らして寝こけるその姿はいつもの彼そのもので、やはり奴は演技をしているのではないかとこの期に及んで思ってしまう。……暢気な顔をして人騒がせな凡骨め。人をだまして遊ぶのはやめて元に戻らんか!オレもいい加減腹に据えかねるぞ!そう内心叫んで見たものの、全ては空しく心の中に響くだけだ。

「とにかくオレ、一応遊戯達にメール送ってみる。兄サマ以外に関係なさそうって言っても、やっぱりちゃんと教えておいた方がいいと思うし」
「ああ、そうだな。宜しく頼む」
「じゃあ兄サマはこのまま城之内の傍にいてあげて。今日は……どうしようか?泊まらせる?あいつは元々泊まりに来たみたいだけど」
「……凡骨に任せればいいだろう。帰りたいなら帰ればいい」
「そっか、そうだね。じゃ、また後で」

 夕食の用意が出来たら呼びに来るね。そう言って部屋を出て行くモクバの足音を聞きながら、瀬人は漸く全てを吐き出すような深い深い溜息を吐いた。昼間の騒動から殆ど座りもしなかった身体はぐったりと重く、とてつもない疲労感が襲ってくる。ふと辺りを見渡せば、現場となったこの部屋は未だ物が散乱している酷い有様で、その殆どが自分が手当たり次第に投げつけた物だと気付いた瀬人は、特にする事もないのだからとのろのろと歩きながら床に転がった様々な物体を拾ってはテーブルの上に乗せ上げた。

 空になり衝突の為にひび割れているらしいコーヒーカップ、幾冊かの経済雑誌、ステンレス製のペン立て、花瓶、瀬人が常に所持している中身がたっぷり詰まった重い皮の鞄、靴、プライベート用の携帯電話、チェストに置かれていた置時計、スタンド、そして今回の出来事の要因となった分厚い経済白書。

 よくもまあコレだけの物体が散乱したものだと自分に呆れ返り、その殆どを身軽にかわしていた城之内にも再び苛立ちが沸き起こる。凡骨め、鞄辺りで降参していればこんな事にはならなかったものを。そんな理不尽かつ自分勝手な事を思いつつ、拾い上げたそれらを全て元の場所にきちんと戻す。瞬く間にほぼ元の状態に戻った部屋にほっと息を付き、いよいよする事がなくなった瀬人は身の置き場を考えつつその場に立ち尽くした。城之内は相変わらず良く眠っている。

「………………」

 特に考えもなく、瀬人は眠る城之内の傍へと歩みよる。そして一人が横になっていてもまだ十分余裕のある三人がけのソファーのその中央にある彼の頭の直ぐ横に腰を下ろすと、徐に微かに上下する体へと手を伸ばした。肩を掴み揺り起こしてやろうかと思ったが、目が覚めた途端また飛び出るだろう「お前、誰?」の言葉が胸に過ぎり、なんとなく躊躇してしまう。その一瞬の戸惑いを素直に表し空中に留まった瀬人の手は、そのままゆっくりと包帯が巻かれたままの頭に置かれ、特に外傷のない額へと触れた。常と同じ、熱い体温。指先に触れる荒れた金髪の感触。

 いつもならこんなことをすれば直ぐに飛び起きて「何?お前オレの寝込み襲おうと思ってたの?」なんてふざけた事を口走り、それを口実にベタベタとくっついてそのままなし崩しに事に及んだりしたものだった。この男は常に瀬人の気配にだけは敏感で、どんなに熟睡していても隣から抜け出そうとすれば目を覚まし、近くに寄れば何をしていても反応した。けれど今は、ぴたりと寄り添いしっかりと触れているのにも関わらず、そ知らぬフリで熟睡している。

 それがほんの少しだけ、悔しかった。

「凡骨」

 呼び慣れたその名を口にする。「凡骨って言うな!」の声を期待しつつ、もう一度。けれど、反応はない。

「………………」

 諦めのいい方ではない瀬人だったが、今この時ばかりは何をやっても駄目な気がして、そのまま手を引いてしまう。そしてもう幾度目か知れない溜息を吐きつつ、こうしていてもしょうがないと放り出したままだった仕事をするべく、近間のデスクに戻ろうとしたその時だった。不意に僅かに身じろいだ城之内が、鼻の下を指でこすり上げながら身を起こす。目が、覚めたらしい。

「……ふぁ……あれっ、オレ眠ってた?……またお前一人かよ。モクバは?」
「モクバなら、貴様のお友達に連絡を取ると言って出て行ったが?」
「え?連絡?なんで?……あー頭怪我したから?こんなん別に何でもねーのに。大げさだなぁ」
「今日は大事を取ってバイトは休んだ方がいい。連絡はしておいた」
「あ、そうなの?つか、なんでお前オレのバイトの事知ってんの?連絡とか、どーやって」
「少し携帯を拝借した。安心しろ、変なことはしていない」
「ふーん。それはそれはご丁寧にどうも。別に何か大事なデータが入ってるとかないから別にいーけどよ。で、その携帯はどこに……」
「ここだ。ほら、返すぞ」
「サンキュー。ついでだからメールとかチェックしよーかな。そういや昨日遊戯に返信してねーや。ついでに心配ねぇってメールしとこーかな」

 そんな事を言いながら特に変わった様子もなく瀬人から携帯を受け取った城之内は、鼻歌を歌いながら器用に指を動かしている。全く、人の気も知らないで暢気な男だ。殴りつけてやりたい。また握り締めた拳を振るわせつつ、瀬人は気力でその場から離れるとデスクへと向かってしまう。その後ろをいつもの様に鬱陶しさを全開にしてついてくるだろうかと僅かな期待をしたが、城之内に一切そんな素振りはみられなかった。落胆を胸底に押し込んで、瀬人はキーボードに手を触れる。

「えーっと遊戯遊戯……って、あれ?」

 そんな瀬人のことなどまるでお構いなしに携帯を操作していた城之内の指先がふと止まる。大分古い型になってしまい、少し暗くなってしまった液晶ディスプレイの中に現れた名前に少し驚いたからだ。他のカテゴリとは独立した、単独のフォルダの中に入っていたそれ。派手なブルーアイズのアイコンの横に表示されているのは『海馬』の文字。履歴を眺めると至極頻繁に現れるその名前に、城之内は僅かに目を見開いた。モクバのことかと思ったが、モクバは別にきちんと「モクバ」として表示されている。では、これは誰の事なのか。

「かいば……」

 ぽつりとそう呟いて、ごく自然に視線をあげる。その先には、見知らぬ『海馬瀬人』という男がいるだけだ。海馬瀬人、海馬、瀬人。なんだろう、全然知らない名前なのに、どこかなじみがあるような気がする。けれど、思い出せない。

「まぁ、いっか」

 深く考える事が嫌いな城之内は即座にその考えを外に放り出し、すぐさまメール画面に切り替えた。カチカチというボタンの音が、リズミカルに響くキーボードのタッチ音と重なって、至極軽快に部屋に響いた。