Looking for… Act2

「そういえば今週のジャンプ、お前見てないって言ったろ?オレの部屋にあるから後で取りに来いよ」
「えっ、マジ?!最近漫画も全部紐閉じされてるだろ?だから立ち読みも出来なくってさぁ」
「ここ最近のなら全部取ってあるから皆持ってっていいぜぃ」
「やりー!サンキュー、モクバ」

 カチャカチャと食器が触れ合う音に混じって部屋に響く賑やかな笑い声。大小異なった顔をつき合せて楽しそうに彼等にとっては世間話だろうそれに興じているのは、結局海馬邸に泊り込む事になった城之内とモクバだった。

 何時もなら有無を言わさず瀬人の直ぐ横を陣取り、自分が食べるついでとばかりに食の細い瀬人に無理矢理フォークを突き出す真似をしてくる彼だったが、今日は至極あっさりと瀬人との間に一人分の椅子を挟んで座り、向かいにいるモクバと極普通に話し始めた。

 モクバも最初は瀬人を気遣って困惑気味に相手をしていたのだが、瀬人が目線で「気にするな」と伝えた為、それ以降殆ど瀬人を省みずに二人は会話をする事になったのだ。彼等がこうして瀬人には分からない話をする事など日常茶飯事で特に珍しい事ではない。ただ、常ならば強引にでも話に引きずり込もうとする城之内の声がないだけだ。

 別にどうという事はない。そう、心の中で誰に言うとも無く呟いて、瀬人は持ち込んだ数社の経済新聞を傍らに熟読していた。

「……なぁ、お前」

 やや暫くそうしていただろうか。皿の上の料理をあらかた食べ終え、既に3回はお代わりをした城之内が、分厚い肉の最後の一切れを口に入れつつ初めて隣に座る瀬人の事を振り向いた。その声に、なんだと答える言葉も言えずに瀬人は目線だけを上にあげると、無遠慮にこちらを覗きこんでくるその顔を眺めやる。

「今は夕メシの時間だろ。なんでお前はメシ食わねぇでそんなもん読んでんだ。マナー違反だろうが」
「……貴様にマナーうんぬんについて言われたくないわ」
「あ、そういう事言うのかよ。確かにオレ食べ方汚いけどさ、さすがにメシを目の前にして新聞読むとかそーゆー事はしないぜ。っつか、食べろよ。食べてから読め」
「食事はもう終了した」
「はぁ?!何処が?全然食ってねーじゃん。……ってもしや、この取り皿的小さい皿一枚とか……」
「そうだが、何か?」
「ばっ、少ねーよ!おまっ、これ、一口じゃねーか!」
「貴様の底なし胃袋と一緒にするな」
「いやそういう問題じゃなくってさ。モクバよりも少ないだろこれ。あいつとお前の身体比べてみろよ。だからこんなに貧相なんじゃないの、お前」
「貧相とはなんだ!」
「うん、すげー貧相。痩せ過ぎ。だから食え」

 城之内の度重なる問題発言に激昂した瀬人の怒鳴り声をもさらりとかわし、彼はそうあっさりと言うと持っていた自分のフォークで徐に瀬人の前にあった大皿から蒸し海老を一つ取り、ソースを絡めてずいと口元に差し出してくる。

 余りにも見慣れたその仕種に瀬人と、そしてさり気なくその様子をハラハラしながら見守っていたモクバは同時に瞠目し、訝しげな眼差しで城之内を凝視した。二つの異様な視線に晒されて、状況に気づいた城之内は、ふと首を傾げてみせる。

「?何だよ二人して固まって。どうかした?」
「じょ、城之内……お前……」
「あ?これもマナー違反?やっちゃ駄目?」
「や、そーじゃなくて。兄サマに……それ……」
「瀬人、こういうの嫌いなのか?オレ、しょっちゅうやってっから気になんねーんだけど。まあ何でもいいから食え。ソース垂れる!」

 慌てた顔で口元にまるで押し付けるようにクリームソースがべっとりとついた物体を突きつけられれば嫌でも口を開けざるを得ず、瀬人は急かす声に煽られるように思わず口を開けてしまう。

 間髪入れずにポイっと放り込まれた蒸し海老は、瀬人の口の容量を僅かに超越し咀嚼するのに非常に労力を要したが、必死に噛み砕いて飲み込んでしまう。仄かに甘いソースの味が口一杯に広がって一瞬噎せ返りそうになったが、咄嗟に飲んだ水で何とか事無きを得た。

「ありゃ、ちょっと大きかった?」
「っ、貴様っ!モノの大きさも考慮せずに人の口に放り込む馬鹿がいるか!」
「あはは、ごめんごめん。お前見かけによらず口ちっちぇーな。オレなら二個いっぺんはイケるね」
「兄サマ大丈夫?」
「んっ……ああ、なんとかな」

 ドンドンと胸を叩いて喉に詰ったらしいそれを上手く胃に収める事に成功した瀬人は、キッと城之内を睨んで、もう一口水を飲む。その様を特に悪びれもせずに眺めつつ、城之内は口元に笑みを浮かべ、「じゃー今度はお前の口に合わせてやるよ」なんて言いながら、不器用にナイフを使って切り分けている。

 実に楽しそうにその作業に没頭する様子を未だ呆けたように眺めながら、海馬兄弟はふと互いに顔を見合わせて多分同じ疑問を頭に過ぎらせた。しかし、ちょっとした行動の違いからそれはあくまで城之内の『普通の』行動であって『思い出した』ものではない事を知る。それに大いに落胆した二人は、はぁ、と大きな溜息を吐き先程とは違った哀れみにも似た眼差しを城之内に送るのだった。
 
 

「ご馳走様っ!相変わらずお前んちのメシ超うめぇや!」
「あーもうこんな時間だ。これからどーする?オレはもう寝る時間だけど……」
「オレも、なんだかもー疲れたし、風呂入らせて貰って、もう寝てもいい?」
「あ、うん。じゃあ部屋に……」
「や、いいよ、オレ部屋分かってるし。案内してくんなくても」
「え?」
「え?なんで?いつもの部屋だろ?二階の一番端の部屋」
「え、あ、そ、そうだけど……そこは兄サマの……」
「じゃ、遠慮なく。なんかあったら部屋電で連絡すっから。二人ともおやすみー」

 時間的には普段と殆ど変わりはなかったが、何故か酷く長いように感じた食事の時間が終わり、見事綺麗に空になった皿の前で行儀良く挨拶を終了した城之内は、口を手で隠しもせずに大欠伸を一つすると、そんな事を口にした。その言葉に、そういえば城之内の宿泊部屋を何処にするかを決めていなかった二人は、咄嗟に近間の客間へと案内しようと思ったが、それより一瞬早く城之内はいつもの習慣とばかりに堂々と、確かに彼が普段泊まりこんでいる瀬人の部屋を名指ししたのだ。

 それが瀬人の部屋で、自分が彼の恋人だからそこに泊まっているんだという事実を勿論すっかり忘れている城之内は、いかにもそこが自分の部屋と言わんばかりにさっさと背を向けて食堂を出て行ってしまう。まさかそう来るとは思わなかった二人は、目の前で賑やかに閉じられてしまった扉を前に、ただ呆然と立ち尽くすのみだった。

「……なんか、本当に『兄サマの事だけ』忘れてるんだね。他は嫌味なほどしっかり身についてるのにさ……」
「凡骨め。訳が分からんぞ」
「で、どうする兄サマ。まさかあの城之内と一緒に寝るなんて事、出来ないよね?」
「無理だな。……仕方が無い。オレが客間で……」
「えー。そんなの変だよ。あ!じゃあさ、オレの部屋で一緒に寝ようよ!こんな時でもないと兄サマと一緒になんて眠れないし!」
「お前の部屋にか」
「そうそう。久しぶりに一緒にお風呂も入ろうぜぃ!兄サマも今日は色々あって疲れただろうし、どうせ仕事も出来ないでしょ。……ね?」

 そう言って何故か至極嬉しそうに手を握り締めてくるモクバの顔を見返しながら、瀬人は曖昧に頷いて見せた。そうだ。どうせ一人になったところで余計な事を考えて眠れなくなるだけだ。だったら、モクバの言う通り気を紛らわせる為にも二人で居た方がいいかもしれない。そう言われて見れば兄弟で夜まで共に居る事など本当に久しぶりだったという事に今更ながらに気づく。

「では……そう、するか」
「うんっ!」

 やったぁ!兄サマと一緒にお風呂だ!そう言ってはしゃぎながら早く行こうと手を引いてくるモクバに合わせる形で瀬人は重たい足を引きずりながら食堂を後にした。

 一瞬ふっと視線を自分の部屋の方向に向けてみたが、階が違うその部屋が見える筈も無かった。
「……はぁっ」

 カチコチと置時計の秒を刻む音がする。広すぎる寝室内にやけに大きく響き渡るそれに重なるように、城之内の溜息も空に解ける。静かだ、本当に、静か過ぎる。ごろりと横になった、人がゆうに三人は眠れるだろう巨大な寝台に沈み込んだ彼の意識は、疲れて眠気を訴える身体に反してやけにはっきりと保たれていた。そんな自分の様子にもどかしさを覚えながら、何をするでもなく天井を見あげる。

「広い部屋だよなー」

 上に向かって手を伸ばし、ぽつりと呟いたその言葉も直ぐに消える。そう、本当に広過ぎるほどに広い部屋だ。この部屋の1.5倍の面積を持つ隣の私室を通らなければ来る事が出来ない奥まった寝室。ホテルのスウィートなんて勿論泊まった事などないが、イメージ的にはきっとこんなもんだろうと思ってしまう。それほどまでに今城之内が存在するこの場所は広かった。

 勿論その辺の屋敷には遠く及ばない程全体が大き過ぎる海馬邸だったが、その中でもこの部屋は特別で快適だ。例えるならそう、VIPルームとでも言うべきか。他の部屋とは到底比べ物にならない別の雰囲気がある。

 そんな部屋に何故自分が当たり前のように存在しているのか、城之内は今更ながら少しだけ疑問だった。けれど確かに自分がこの屋敷に泊まる時はこの部屋に入り浸り、このベッドで快適な睡眠を貪っている筈なのだ。

 この寝室にも隣の回廊と繋がっている私室もきっちりと鍵が閉まるようにはなっているが、その鍵を閉めた事も開けた事も城之内はない。どんなに遅くても、例え早朝でもいつでもその扉は自分の事を受け入れるべく開いているのだ。それに鍵のありかなど城之内は知らない。かけ方すら、知らなかった。

(……たかが客間にしては偉く豪華で、厳重な癖に無防備じゃねぇか?この部屋)

 清潔なブルーの上かけの上に無造作に寝転がり、広すぎる故に身の置き場に困ってごろごろと転がりながら、そんな事を思う。普通一人寝の場合、寝台など真ん中に陣取るものだが、何故か枕は二つ。中央はちょうど切れ目になっていて、居心地が余り良くなかった。

 金持ちのベッド等と言うものは、一人用の枕が2.3個あるものなんだろうと特に気はしなったが、よくよく考えてみれば一人で寝るのならそれはおかしな話である。まあでも、人の家の枕の事情など詮索するだけ無駄な事だし、どうでもいい事だ。つか、なんでオレそんな事ばっかり気になるんだろう。意味分かんねぇ。内心呟く声に自分自身で苦笑する。

 再び、大きな溜息が零れ落ちる。一人が酷く退屈だった。
 

「とりあえず、宣言どおり風呂入って寝るかなー」
 

 一人きりの空間ではその声に答える声など存在せず空しく響くそれに小さく舌打ちすると、城之内はさっさと寝台を降りて勝手知ったる他人の家とばかりに、寝室内に装備されている簡易バスルームへと足を伸ばす。簡易と言っても規模が違うそれは、城之内が常に通う銭湯にも似た広さを誇っているのだが、すっかり慣れてしまった彼には最早驚きも何もなかった。

 脱衣所に入り、服を脱いで脇の籠に丸めて勢い良く放ってしまう。常と同じ動作だったが、ぽい、と靴下を投げた時点で何故かギクリとして思わず背後を振り返った。勿論そこには誰もいない。当たり前だ、ここには城之内一人しかいない。近くにある全身が映り込む大きな鏡の中にも全裸の城之内が一人立ち尽くすだけだ。

 そんな事は分かっている。分かっているけれど、何故か振り返ってしまったのだ。

 服を丸めて放り投げるな!誰かに、そう言われた気がして。
 

「?……あれ。何やってんだオレ」
 

 鏡越しに後ろを見た体制のまま僅かに首を傾げた城之内は、訳が分からない自分の行動に疑問を覚えつつ浴室内に足を踏み入れる。いつでも温かな湯が張ってある湯船へと飛び込んでやっぱり広いそこに足を伸ばして座ってしまうと口元まで沈み込んだ。

 鼻腔を擽る甘い花に似た香り。入浴剤……否、バスオイル、とでも言うのだろうがほんのりと薄い桃色に揺らめく湯に溶けているらしいその香りはどこか覚えがあるものだった。ただし、こんな湯から立ち上る芳香ではなく、もっと近くで。しかも温かな感触と、微かに違う生々しい人の匂いと共に香っていたような……でも、何処で?誰から?自分から?

 ぱしゃりと湯を跳ね上げて片手を出す。指先からぽたぽたと雫が垂れる様を暫し眺め、その意味のなさに嘆息すると、今度は悪戯に両手を組んで水鉄砲を作り誰もいない空間に狙いを定めて湯を発射する。いつもならそれが凄く楽しい気がするのに、今日はだた空しいだけだ。当たり前だ、一人でこんな事をして何が楽しいのか。オレってすげぇアホかも。そう思いつつもやめられない。

 普段なら、そこに瀬人がいるのだ。意味も無く頭を濡らす事を嫌う彼のその嫌がる様が面白くて、城之内は常に目の前にソレがあると無意味に湯をかけたくなってしまう。手で水鉄砲を作って、上手く頭を目かけて発射すると物凄く怒られる。それがまた楽しいのだ。

 お返しにその数倍の量を頭から勢い良くかけられても、ただ笑いが出るだけでなんとも思わない。たかが風呂の時間でも二人で入ればその楽しさは格別だ。まるで子供のようだと思いながらも、別に誰が見ているわけでもあるまいし、楽しければそれでいーじゃん、と毎回同じ事を繰り返す。そんな日常の一コマを城之内の身体だけが覚えていたのだ。

 一通り虚しい一人遊びを終えてしまうと、城之内は妙な脱力感を覚えつつ、湯から上がりシャワーを浴びて浴室を後にする。棚にきちんと置かれている真っ白なバスローブを拝借し、自分が纏うには少し長過ぎる裾にぎょっとする。

 客の部屋で、しかも泊まる人間が城之内と決まっているのならこんなミスはしないはずだ。そう思いつつもたまには間違える事もあるんだろうともう深くは考えず、城之内はそのまま再びベッドに戻ってしまうと、何もかもを放棄するように眠りにつく。

 部屋には、相変わらず置時計の音だけが静かに響いていた。
「ぅわっ!そーいえばオレ片付けの途中だったぜぃ!ちょっと待ってて兄サマッ」
「オレは別に構わないが?」
「で、でも。ちょっとヒドいからこの部屋で待っててよ。すぐだから」
「?……ああ、そこまで言うのなら」

 城之内が瀬人の部屋で自らの無意識の行動に首を傾げているのと同時刻。瀬人はモクバと共に、モクバの部屋へとやって来ていた。

 瀬人の部屋と構造はほぼ一緒で面積だけが大分狭いその部屋は、ゲームやらおもちゃやら漫画やらで溢れ返り、一種の遊戯室的な賑やかさだ。無駄なものがなく整然としている瀬人の部屋とはいかにも対照的なその様子をぐるりと見回し、瀬人はモクバらしいとくすりと笑う。

 ちなみにそれは、対象がモクバだからそう思うのであり、元来瀬人は神経質なまでの整理整頓魔だ。それを嫌というほど分かっているモクバだからこそ、この部屋よりもまだ散らかっている隣の寝室に瀬人を入れる事が出来ないのだ。

 別にそんなのはどうでもいいのに。色々な疲労も相まって、心底そう思い口にも出した瀬人だったが、頑なに拒否する弟に応戦する気力もなく、結局言われた通り私室のソファーに座って待つ事にする。

 瀬人のその様子をしっかりと見届けたモクバは「直ぐ終わるから!」と言うと、即座に寝室に引っ込んでしまう。ガチャガチャと派手に聞こえる音から、大方慌ててクロゼットなり寝台の下なりに放り込んでいるのだろうが、壊れない程度に扱えよ、と瀬人は大きな溜息を吐いた。

 ソファーにぐったりと背を預け、天井を見あげる。

 そう言えば、城之内の家に行くといつもこんな感じだった事を思い出す。彼の場合は主に瀬人に見られたくは無いAVだのエロ本の類だのを隠す為に待たされるのだが、その隠し方がまた下手だから直ぐに瀬人の目に触れてしまう。

 どうでもいいが本よりもまず使用済みのティッシュをなんとかしろ、とゴミ箱の横に転がっているそれを眺め、心底呆れて中途半端に綺麗になった室内に足を踏み入れるのが常で、自分の隠し方が下手で見つかってしまう癖に、興味を持って瀬人が押入れからはみ出ている雑誌を手に取ったりすると烈火のごとく怒るのだ。

 まあ、モクバと城之内を一緒にしたら、余りにもモクバが気の毒だが。

 そう思い一人苦笑すると瀬人は緩やかに体勢を戻して息を吐く。その瞬間、偶然にも目の前のテーブルでがさりと音がして、少し高く積んであったらしい漫画雑誌が斜めに崩れた。

 一冊が大分分厚いそれは、表紙のタイトル文字をみるにさっきモクバと城之内が話していた『ジャンプ』とやらだろう。たまにM&W関係で記事を出したりするそれの中身をしっかりとみた事はなかったが、大半が青少年向けの漫画で構成された代物だという事は知っていた。

 そして、それを城之内がとても好んで読んでいた事も。

「………………」

 一番上の一冊を手に取り、パラパラと捲る。中身はほぼ連載もので、見ても内容がさっぱり分からないものだらけだったが、確か何とか言う漫画に出てくる女キャラの格好が凄いとか、巨乳なのが好みで、とか、そんな下品極まりない事を嬉しそうに口にしていた事を思い出す。

 AV(主に巨乳シリーズ)だのエロ本(主に外国系)だの巨乳だのの話を聞く度に、瀬人は「そんなに巨乳がよければ巨乳の女と付き合えばいいのではないか」と内心思い、たまに口に出すのだが、城之内はしれっと「それはそれ。お前はお前」ときっぱり言い、鮮やかにスルーするのだ。

 それでもやっぱり、見るもの買うものは全て巨乳系で、町を歩けば目敏くそういう女を振り返るその行動を見る度に瀬人はかなり苛立っていたのだ。別にソレが好きなのはどうでもいい。が、男の恋人の前であからさまにそれを出すなと言っているのだ。

 しかし本人に悪気がない以上、無意識のそれを直せと言うのも難しく、結局は瀬人が苦労をして流す事になるのだが、精神衛生上かなり宜しくないのは事実だった。

 余りにも馬鹿馬鹿しい、心底そう思い瀬人は持っていた雑誌を叩きつけるようにテーブルに戻してしまう。少し力を入れた所為で皺になってしまった表紙を一瞥し、何時の間にか静かになった隣の部屋を眺めやる。すると、やや暫くして汗を拭いながらモクバが漸く顔を出して手招いた。

「ごめんごめん兄サマ。終わったよ。オレすっごく汗かいちゃったからお風呂はいろ!」
「……汗を流してまで必死に何を片付けたのだ」
「ん?ゲームとかだよ。踏んづけて壊れちゃったりすると、困るしね」
「そうか」
「兄サマのパジャマとかは持って来て貰うから、先に入っててよ。オレ、ついでだからそこのジャンプ纏めるから」
「城之内にやるとか言ってたこれか」
「そうそう」

 じゃ、先に行ってて!そう言って瀬人の背中をぐいぐい押して寝室内部にある浴室にモクバは彼を押し込めるように入れてしまうと、改めて片付けたはずのそこをぐるりと見渡す。何も落ちてない、うん。大丈夫だぜぃ!そう呟くと言葉通りジャンプを纏めるべく少し大きな紙袋を抱えて隣室へと消えてしまう。

 しんと静かになった部屋の中、見かけだけは綺麗になったベッドの足の下から、少しだけ覗いているのは、ど派手な表紙のいかにもな『オトナ向け』雑誌。

 城之内から借り受けたそれを必死に隠す為に奮闘をしていたのだが、詰めが甘いモクバだった。
「じゃ、オレ、城之内を起こしてくる。兄サマ、今日はどうするの?」
「……一応奴を学校には連れて行こうと思う。後は遊戯にでも任せればいいだろう」
「あー。じゃあ制服を取りにいかないと駄目だよね。待ってて。オレ、あいつを引っ張って行くから」
「いや、いい。ついでだからオレが部屋に行って奴を叩き出す事にする。モクバは先に食堂へ行ってくれ」
「……大丈夫?」
「何がだ。ただ部屋から追い出すだけだろう?」
「そうだけど……。でも、分かったぜぃ。じゃ、先に行ってるね」
「ああ」

 次の日の朝。憎らしい程に晴れ渡った空にゆるりと上って来る朝日が燦々と降り注ぐ室内で、片方はすっきり爽快の顔をし、もう片方は十分に寝たのにも関わらず疲労の色が取れていない顔を付き合わせた兄弟は、常よりも少し早い時間に起き出してそんな事を口にしていた。

 その対照的な様子は勿論久しぶりの兄サマとの共寝に快適な睡眠を貪ったモクバと、昨日の出来事が未だ心に重くのしかかり十二分に眠れなかった瀬人の違いなのだが、どちらも互いのその様子が良く分かる故に特にその事については突っ込む事はしなかった。

 けれどほんの少しだけ上を見上げて兄を心配するモクバに、瀬人は僅かに口元を緩めて大丈夫と呟いた。本当は全然大丈夫ではなかったのだが、それ以外に口にする事が出来なかったとも言う。

 瀬人はモクバからは見えないように小さな溜息を一つ吐くと、くるりと踵を返して、自室に戻る為にこの部屋を後にする。モクバの部屋と瀬人の部屋とはまず階が違い、移動するには少し時間が掛かるのだが、早足で向かった所為で然程時間は掛からずに瀬人は自室の前に立つ事となる。

 防音処理が完璧になされたその部屋は、当然中の音などまるで聞こえず、城之内が起きているのかは分からない。しかし、普段から寝汚いあの男の事だから、多分まだ夢の中だろうと瀬人は特にノックもせずに入り慣れたその部屋に勢い良く侵入した。その時だった。

「ん?あ、おはよう瀬人。何だよお前人の部屋に無言で入って来たりして!着替えとかしてたらどうすんだよ」
「?!凡骨、貴様、もう起きて……」
「あ……うん。なんか知らねーけど昨日あんま眠れなくてよ。朝もすんごく早く目が覚めちまって、二度寝しようと思っても出来なかったから、起きてた」
「そうか」
「で?どした?朝メシかなんか?今日オレ学校だから一回家に帰りたいんだけど。制服とか鞄とか家だし」
「それは心配ない。車で貴様の家に寄ってやる」
「あ、そう?じゃー頼むわ。……えっと、食堂に行ってればいいのか?」
「ああ。モクバが待っている」
「あっそ。んじゃ行きますかねー。お前もくんだろ?」
「オレは元々朝食は食べない」
「駄目だ」
「は?」
「朝メシ食わねぇとか駄目に決まってんだろ。絶対来いよ。直ぐだからな」
「………………」
「来なかったら迎えにくっから。早くな!」

 大音量で流れるテレビの音よりもまだ大きい声で、そう瀬人に向かって言い放つと、城之内は何もかもを投げっぱなしでさっさと部屋を出てしまう。相手が起きている事すら予想外で、その事にまず驚いてしまった瀬人はその驚愕から立ち直る前に消えてしまった相手の居た場所をじっと凝視したまま、立ち尽くしてしまう。

 一晩空けたその部屋は、どこをどうしたらこの物の無い部屋でこんな有様になるのか瀬人には全く理解できない程酷い散らかりようで、普段なら怒鳴りつけてやる所だったが今はその気力すらも沸いて来ない。ソファーに放られたままのバスローブを摘み上げ、その丈を確認するとそれはまさに瀬人のもので、置き場が微妙に違う自分のものの在り処はさすがに分からなかったのかと、軽く鼻を鳴らして放り投げた。

 付けっぱなしのテレビを消し、空となってテーブルの上に放置されていた、室内冷蔵庫に常に置かれているミネラルウォーターのペットボトルをゴミ箱に入れ、城之内が何時だったか持ち込んでそのまま放置してあった漫画を元の場所に戻し部屋をあらかた片付けてしまうと、瀬人は漸くクロゼットに手をかけ滅多に取り出さない制服と、登校用の鞄を手にする。

 手早くシャツと学ランを身に着け、鞄を手にしたまま部屋を出ようとしたその時、不意に進路方向の床の上に城之内の鞄が落ちていた。見慣れた少し古いそれを無言のまま拾い上げ、自分の鞄と共に持つと瀬人は自室を後にする。程なくして直ぐに食堂に辿りついた彼は、昨夜と同じ至極なごやかな雰囲気で会話を楽しんでいた二人の横に一応腰をおろした。

「兄サマお帰りなさい!」
「おっそいなー瀬人。オレ、もうちょっとでお前を迎えに……って。え?なんでお前童実野高校の制服着てんだよ?」
「城之内。兄サマはお前のクラスメイトなんだぜぃ。同じ制服を着てるのは当たり前だろ!」
「えっ、マジで?オレ知らねぇよ、こんな奴!つか同い年?!」
「こんな奴とはなんだ!」
「や、だってよー普通クラスメイトの顔位覚えんだろ。お前の事なんて教室で見た事ねぇもん」
「……あー、兄サマ、あんまり学校行かないから」
「不登校か!」
「違うわ!もういいっ!さっさと朝食を食べんか!貴様の家に寄る時間を考慮しなければならないのだ。早くしろ!」
「なんだよ。そんなに怒る事ねぇだろ。朝メシだってお前の事待っててやったのに……」
「やかましいっ!」
「に、兄サマ……相手は記憶喪失者なんだからさ……」
「………………」

 余りに余りな城之内の発言に先程までの大人しさは何処へやら速攻キレてしまった瀬人に、モクバは必死に宥めすかしつつ、「もー城之内も素にも程があるだろ!」と内心叫んだ。瀬人は怒り狂ってはいるもののその実結構傷ついたりしているのだ。これ以上傷を抉る真似はしないで欲しい。そうは思ってもどうにもならない事ではあるのだが。

「と、とにかく、朝ごはん食べようぜぃ。いっただきまーす」

 早朝の爽やかさから一転、偉く不穏な色を纏い始めた食卓に、それを払拭するべく、モクバは努めて明るくそう言って朝食に手を伸ばした。