Act1 Next wednesday

 かたかたと無機質な音が静か過ぎる室内に響いていた。完璧に磨かれて埃一つないブラインドの向こう側は既に夕暮れで、赤々とした太陽が高層ビルの間を窮屈そうに落ちていく。

 今頃あいつらは何をしてるだろう。近くに迫った実力テストに備えて近間のファミレスに集って勉強道具を広げて馬鹿話に興じているのかもしれない。学習強化週間、なんて言って置いてそれが名目通りの効果を齎した事等一度もない癖に全く暇な奴ばっかりだ。

 お前もと誘われたけれど、生憎明日の朝は三時起きで新聞配達。出来れば早く帰って眠りにつきたい。来月の学園祭の準備に追われ今日も一日くたくただ。それなのに、何故オレはこんな所にいるのだろう。

 数分前にこの部屋を訪れた一応来客という立場である城之内はそんな事を特に何をするでもなくぼうっと考えていた。そんな彼の様子に直ぐ近くにいた「かたかた」の正体がやや凄みのある声を投げてくる。

「用がないのならとっとと出て行け。気が散る」

 視線は目の前の大画面液晶ディスプレイから離しもせず、見た目には憤然とした様子でそう口にしたのはこの部屋の主である海馬だった。

 彼はブラインド越しに差し込む夕日のオレンジの光にその身を染め、机上を埋め尽くした書類と分野別に整理してあるファイルの中から無駄な動きなく必要な資料を取り出しながら、やや離れた位置に立ち動く事のない城之内に焦れた様に、もう一度同じ言葉を繰り返す。先程よりも更に凄みを増した声に、言われた城之内は呆れたように肩を竦めた。

「それがわざわざ時間を割いて届けものをしてくれたクラスメイトに言う言葉ですか、社長」
「煩い、社長はやめろ」
「だって社長だろ」
「黙れ凡骨。もう一度だけ言う。邪魔するのなら帰れ。貴様、明日も朝が早いだとかなんだとか愚痴っているのなら何故ここに居座る」

 相変わらず視線は向けないままに、苛立ちを隠しもせずそう捲し立てる海馬の顔を、城之内はもう何も言わずに見つめていた。無言なのは問われた事に対して答える言葉を持たないからではなく、口にした時点でハイスピードで動くその指の動きを止めてしまうかもしれない、と思ったからだ。勿論、それは城之内の希望的観測であり、実際どうであるかはわからなかったが。

 それにしても、約1.5メートル先のデザイン的なフォルムが一際目立つデスクに座し、パソコンを前に白スーツを寸分の隙もなく着こなしたその姿を眺めていると、彼が自分と同じ高校に通うクラスメイトだという事実が俄かに信じ難くなる。

 若干17歳にして世界的大企業の社長を務め、経営のみならず商品開発でも第一線を担う彼の事を誰もが別世界の住人だと言って憚らない。彼自身も周囲と自分との違いを十二分に理解しているのか、そう言われる事に対してなんの興味も反応も示した事がなかった。最もそんな事に気を取られている余裕も元から持ち合わせてはいなかったのだが。

 登校には黒塗りのリムジンは当たり前、時間に余裕がない時など自家用ヘリで校庭や屋上に勝手に乗り付けた事もある破天荒さとは裏腹に、一歩そこから足を踏み出せば窮屈な学ランをこのスーツと同じく僅かの乱れもなく着用し、他の学生と同じ様に自席について授業を受け、休み時間には全て異国語で辞書並みの分厚さがあったが普通の本らしきものを読んでいる。その彼と目の前の彼との差は鮮やかだ。

 ああしてっと、こいつも普通の高校生に見えるんだけどな。

 そんな事を思いながらそれ以上及言されない事をいい事に、近間の恐ろしく座り心地のいい革張りのソファーへと腰を落ち着けた。ギシリ、と耳障りな音がしてそれきりまた静かになる。

 城之内がここ、海馬コーポレーション本社にある社長室へやって来たのは、溜まりに溜まった授業その他で配布されたプリントを届ける為だった。最初は週に数回顔を出していた海馬も近頃では月に一度顔を出すか出さないかになってしまった。なんでもアメリカの支店を増やすだとかヨーロッパの方へも進出するとか、随分と壮大な計画があるらしい。小難しい事はよく分からないので聞き流していたが、兎に角忙しいという事だけは見て取れた。

 そんなに忙しく、また必要もないのなら一般の高校へなど通わなければいいのにと思わなくも無いが、そうなってしまうと困るのは他でもない自分自身である。彼がクラスメイトでなくなってしまったら、都市の中でも一際目立つこのビルの最上階、何十ものゲートとセキュリティを抜けて辿りつかなければならないこの部屋にも容易に足を踏み入れることが出来なくなる。最も、プリント届けのおつかい程度で堂々と入り込めている事実を考えれば、そんな名目などあって無き様なものなのだが。

 それでも。そうでもなければ、気軽に会いにも来れないのだ。「たかがクラスメイト」の価値などその程度に過ぎない。これが友人やそれ以上の関係ならもう少し楽なのに、生憎海馬にその様に認識されているかどうかはわからなかった。いや、多分されていないだろう。

 はぁ。と溜息が零れ落ちる。その小さな呼吸音を耳聡く聞き取ったのか、海馬は初めてディスプレイから顔を上げ、こちらを見た。デスクとソファーの位置の差から、大分上部から見下ろされる形となる。

 ……遠いよなぁ。そう声を出さずに呟くと、彼は片眉を上げて殆ど馬鹿にしたような視線を投げてくる。それ以上話もしなければ動きもしない城之内に直ぐに興味を失ったのか直ぐ様また顔を戻した彼に、今度は声に出してこう言った。

「なぁ、海馬」
「なんだ。邪魔をするなと言っているだろう」
「お前、学生なんだから学校来いよ。プリントを届けにくるオレの身にもなってくれ」
「嫌なら来なればいいだろう。好き好んで来ている癖に、余計な事を口にするな。オレが学校に来ようが来るまいが貴様には関係あるまい」

 まさに一刀両断。取りつく島もないその言い草に、いつもなら黙り込んでしまう城之内だったが、今日は何故か食い下がりたくなった。ここに訪れたもう一つの理由。昨日起こった奇跡について、報告しなければならないと思ったからだ。海馬本人には全くどうでもいい事であったが、城之内に取ってはその出来事は何にも勝る幸運だった。自然と、口元がにやけてしまう位の。

 一旦言葉を止めた城之内にやはり冷たい視線を向けたままの海馬は、知らず小さな溜息を一つ吐くと、再び視線を画面上に流れるデータに移そうとした。その時だった。何故か得意気に顎を上げ、えへんと大げさに咳をすると、城之内はやや興奮したような声でこう言った。

「それが、そうでもないんだよなー昨日さ、席替えがあって。オレ、お前の隣になっちゃったんだよね」
「それがどうした」
「今度の席は超狙ってた一番後ろの窓際の席で。お前が一番端、オレがその隣なのな。で、ラッキーなんて思ってたんだけど、これがまた日差しがきついのなんの、寝ようと思っても眠れねーの。そこでオレは思ったわけ。お前が隣にいれば……」
「日よけに出来るとかいう下らん事をほざいたら叩き出すぞ」
「ご名答」

 そう答えた瞬間、ひゅっ、という風を切る音と共に銀色のボールペンらしき物体が城之内の頬を掠め、床に弾んで転がった。元々当てる気などなかったのだろうが、耳に感じた鋭い空気の流れに皮膚が少しだけ粟立った。

「ってめぇ!人に向かってペンを投げるな、あぶねぇだろうが!目に刺さったらどうすんだ!!」
「フン、物を碌に見もしない凡骨風情の目が片方潰れたとて困りはせんだろう。このオレを日よけにしようとするなどずうずうしいにも程がある」
「お前なぁ……なんでも物事を真正面から取りすぎなんだっつーの。ちょっとは頭を働かせろよ」
「貴様に言われたくないわ」
「そうじゃなくってさぁ」

 そう。そうではないのだ。言いたい事はそんな下らない事ではなく。

「寂しいなーと思ってよ。隣がいつも空席だと」

 その一言を聞いた瞬間、こちらを睨み据える顔が歪んだ気がした。迷惑なのかそうじゃないのか、不機嫌にしか見えないその表情からは読み取れない。

 ── けれど、オレはマジでそう思うんだぜ?だって当然だろ、好きな奴の隣に座れて、嬉しくない奴がいるかよ。その位分かれよ、空気読めこの野郎。

 ちらりと投げる視線にそんな思いを乗せて、ペンを避けた為に微妙にずらした顔を再び海馬のほうに向けてやる。相変わらず顔の変わらない相手に落胆するも、そういう人間だと分かっているのでどうしようもない。けれど、これは一言言ってやらなければ気が済まなかった。

「オレがわざわざ学校帰りにここに来るの、お前はなんだと思ってるわけ?オレだって勤労学生で暇じゃないんです、社長」
「………………」
「お前さっき用がないなら帰れ、なんて言ったけど。オレにはちゃんと用があるから来てるんです。お分かり?」
「気色の悪い話し方をするな。頭の悪さが露呈しているぞ」
「ほっとけよ。とにかくそういうわけだから、暇が無くても学校に来いよな。出来れば、日差しの強い日に。お前もうちょっと焼けた方が健康的でいいぜ」

 そう一言余計な事まで口にすると、色々な事にすっかり諦めてしまった城之内は漸くソファーから腰を上げた。そして海馬のプリントと自分の財布以外何も入っていなかった鞄を手に取り肩にかける。

「じゃ、そういう事で。次は学校で会える事を楽しみにしているぜ『海馬くん』。お前の学ラン姿って死ぬほど似合わねぇけど、そのスーツ姿よりは好きだぜ、オレ」
「やかましい」
「じゃあな」

 再び突き刺さる鋭い視線を避けるように、くるりと背を向けるとひらひら手を振って歩き出す。背後で僅かに動く気配を感じ、再びペンが飛んでくる恐怖に僅かに身を竦めたが、幸い扉に辿りつくまで何か物が投げつけられる事はなかった。

 最後にもう一度何か言った方がいいのかと思い直し、振り向こうと立ち止まる。しかし、結局言う台詞が思いつかず、自動開閉機能が作動する位置までもう一歩踏み出した。音も無く左右に開くそれを無言で潜り抜けようとしたその時、背後から物の変わりにぶっきらぼうな一言が投げつけられた。

「来週の水曜だな。オレは雨男だから、貴様の思惑は外れると思うが」

 フン、といつもの悪態と共に告げられたその台詞に、城之内は背を向けたまま微笑んで、小指を立てた右手を掲げてみせた。

「約束だぜ。嘘吐いたら針千本な」
「勝手に決めるな。貴様が飲め」
「なんでオレが飲まなきゃなんねーのよ」
「煩い。とっとと出て行け」
「はいはい」

 室内はもう暗く、足元すら見え難い。振り向いてもきっとその顔は良く見えないだろう。でもまあいいや、来週明るい場所で嫌という程見えるだろうし。そう口に出さずに呟くと、城之内は来た時よりも幾分軽い足どりで広すぎて眩暈がする回廊を歩き出した。

 来週の水曜は出来れば晴れになりますように。

 心の中で密かに願いをこめながら。