Act2 On the appointed day

 その空間へ一歩踏み込んだ瞬間、異様な視線が容赦なく降り注いだ。ありとあらゆる面で注目される事には慣れている筈なのに、それでもこの視線には妙な息苦しさを感じる。

 ……いや、息苦しさとは違う。これは違和感なのだ。そう心の中で呟きながら、海馬は何気ない顔をして開きっぱなしの扉を超えて中に入った。途端に聞こえてくる色めきだったざわめき声。一つ一つは酷くクリアに耳に届くのに、言葉として認識するまでには至らなかった。どうせ言われている事等分かっているから知る必要もない。そう自らに言い聞かせるとゆっくりとした足取りで歩んでいく。

 10月の第三水曜日。そう、今日は城之内と約束したあの水曜日だった。あれから海馬は文字通り山の様な仕事を寝食削って全てこなし、スケジュールを調整してなんとか学校に行く数時間を勝ち取ったのだ。何故たかが約束如きにそこまでする必要があるのか、真夜中に疲労に痛む目を押さえ度々首を傾げたりはしたものの、結局この場に来てしまった。約一ヶ月ぶりの教室は相変わらず窮屈で騒がしい。

 そういえば、この下らない約束事を結んだ相手である彼の顔が見当たらない。

 海馬は無意識にこの狭い空間で常に目立っているあの色彩を探して視線をさ迷わせた。ぐるりと室内を一周しそれらしきモノが見えない事にぴくりとこめかみが引きつる気がする。奥底から湧き上がる苛立ちを押し殺しその場に立ち止まった彼は、即座に左手の腕時計を確認した。時刻は午前8時5分、始業までは後25分ある。怒るのはまだ少し早いだろう。そう思い、深呼吸を一つして覚えた怒りを静めようとした、その時だった。

「……海馬くん?あ、やっぱり海馬くんだ。おはよう、久しぶりだね!」

 ぽん、と軽い衝撃が腰の辺りにあったかと思うと、明るい声が後ろから前へと回り込む。何事かと視線を落とすと、目の前に見慣れた顔が飛び込んできた。このクラスの中で海馬に気兼ねなく話しかける事が出来る……否、あらゆる意味で最も親しいとも言える間柄の遊戯である。

「……お、おはよう」

 勢いに飲まれてつい鸚鵡返しに挨拶を口にした海馬に、遊戯は一瞬目を丸くする。しかし、直ぐに「あ、ここは教室だっけ」と一人で呟き、やはりにっこりと笑って見せた。

 海馬は学校では極力目立つ事を嫌う為か寡黙な優等生を演じていた。校内ではプライベートで見せる傲慢不遜な態度は完全に形を潜め、品がよく常識的な普通よりも大分真面目な高校生そのもので、本来の姿を知らない人間はこれが海馬瀬人という少年だと思っている。遊戯も最初は彼をそう思っていた人間の一人で、その本性を目の当たりにした際は腰を抜かさんばかりに驚いたものである。

 しかし、長い間行動を共にするうちにそんな彼の態度にもすっかり慣れてしまい、今ではこの『優等生海馬瀬人』の姿に違和感を感じる様になってしまった。……慣れって怖いよね、と本人の前でぽつりと呟いたその声を海馬は今でもはっきりと覚えている。

 その遊戯は屈託のない笑みを崩す事無く口元に乗せ、海馬の返事など全く気にせず、今日はどうしたの?仕事は?海馬くんがいなくて最近は凄くつまらなかったんだよ?等と勝手にまくし立ててくる。遊戯のよく響く明るい声と、それに向き合い無言のまま立ち尽くす海馬の姿は、ただでさえ悪目立ちしている現状に更に追い討ちをかけたらしく、周囲の視線が突き刺さるようで居た堪れない。

 それについぞ耐えられなくなった海馬はそれらから避けるように身体をやや斜めにずらすと、未だ口を閉じる気配のない遊戯の腕を掴んで、徐に踵を返し教室の外へと連れ出した。そしてそのまま有無を言わせず比較的人の少ない屋上へと続く階段下の踊り場へ連れ込むと、大きな溜息と共に忌々しげに呟いた。

「貴様、教室内でオレに親し気に話しかけるな。居心地が悪い」
「えっ、なんで?クラスメイトに普通に挨拶して何が悪いのさ。皆、海馬くんが珍しいからちょっと見てるだけだよ?」
「それが不愉快だと言っている。鬱陶しい事この上ないわ」
「そんな事言っても……見ちゃ駄目だ!っては言えないし……」

 そう凄みのある声で言われても、遊戯はおどけて困ったなぁ、どうしようか?等というばかりで埒があかない。そんな彼の姿に早々に己の主張を通す事を諦めた海馬は心底うんざりした表情で、首を振りつつ吐き捨てた。

「……もういい。わかった。貴様にそれを期待しても無駄だという事がな」
「分かってくれてありがとう」
「そこで礼を言うな。意味がわからん」

 こいつと話をしていると頭が痛くなる。そう心の中で呟いて、海馬は相変わらず笑顔の絶えないその顔を見遣り、嘆息する。見る者が見れば大分不機嫌な様相だったが、遊戯相手にはそんなものは通用しない。逆にますます嬉しそうに一人盛り上がる彼の顔を、海馬は呆れたように見遣りながら再び腕時計を見ようと手をあげる。その瞬間、近間のスピーカーから10分前を告げる予鈴が大きく鳴り響いた。

「あれ、もうこんな時間だ。そろそろ席につかなくっちゃ」

 けたたましいその音に思わず顔を上げた遊戯に海馬はふと肝心な事を思い出した。そういえば城之内は教室に来ただろうか。遅刻早引けの常習犯であったが、最近は大抵この遊戯と共に登校しているのだと聞いた事がある。ならば、とっくにその姿が見えていいはずなのに、未だ気配すらも感じられない。まさかとは思うが、奴は学校には来ていないというのだろうか。

 そこまで考えて急に事の真相を知りたくなった海馬はここに来た時と同様、なんの前触れもなく先に立って教室へ帰ろうとする。そんな彼に遊戯は少しだけ驚いたものの、それもいつもの事だと特に気にせず後をついて行き、少し高い位置にあるその背を眺めながら歩いていく。そのまま無言で歩いていた二人だったが、途中何気なく目に入った他クラスの様子に、後ろを行く遊戯は不意にある事を思い出し、遠ざかる海馬に小さく声をかけた。

「あ、そうだ海馬くん。先週ね、席替えがあったんだ。全員総入れ替えで、前とは全然違う場所になったんだよ」
「知っている」
「え?知っているって……」
「オレは窓際の一番後ろの席だろう。凡骨の隣の、一番最悪の場所だ」
「どうして知ってるの?」
「凡骨から聞いた。あのお節介焼きはたかだか学校配布の資料を会社にまで押しかけてきて置いていったのだ。その際に勝手に下らん事をべらべらとほざいていったからな」
「へー。城之内くんが」
「それはそうと、今日はあの馬鹿面が見えないようだが、一体どうした。いつも貴様と共に登校するのではなかったか」

 何時の間にか立ち止まり、表面上はむっつりとした顔で後ろを振り返った海馬は漸く聞きたいと思っていた事を口にした。特に興味はないというスタンスを崩さずに訪ねたつもりだったが、上手く出来たかどうかは分からない。その問いに遊戯は一瞬至極複雑な表情を垣間見せたが、直ぐにまた笑みを見せるとやや声を潜めてこう答えた。

「城之内くんは昨日から風邪で休んでるんだ」
「何?まだそんなものが流行る様な時期ではないだろう」
「うん。でもなんかアルバイト先では流行ってて、見事に貰ってきちゃったんだって。今月はお金が足りないから休んでいられない、なんて頑張ってたんだけど。ついに昨日ダウンしちゃったってわけ」
「………………」
「もしかして海馬くん、何か約束でもしていたの?そういえば休む前の日まで城之内くん、凄く浮かれてたっけ」
「な、何を言っている。そんな事があるわけないだろう。ただ、気になったから聞いたまでだ。オレが今日学校に来たのはたまたまで、凡骨とは何の関係もない!」

 思わず力一杯否定して、逆におかしな印象を与えてしまったかも知れない。しかし、そんな事はどうでもよかった。そうかなぁ?と意味深に呟く遊戯の声も、もう耳に入っては来なかった。だからか……だからなのか。あの目に痛い脱色のし過ぎて痛んだ金髪が見つからなかったのは。そう内心の絶叫と共に無意識に握り締めた指先に力が入り、微かに震える。

 ── このオレと約束をした癖に、風邪で寝込んで学校に来られないだと?!情けないにも程がある!

 これは約束を反故にされてしまった怒りだ。そうに違いない。そんな事を必死に己に言い聞かせながらも存外衝撃を受けているらしい事に気づいて、更に愕然としてしまう。馬鹿な、そんな事はない。やはり誰に言うともなく必死にそう言い訳をしようとするものの、否定をする言葉をかけてくれる者もいなかった。全く馬鹿馬鹿しい。そうと知っていたならば、わざわざ時間を割いてまでこんな所に来る必要もなかったのに。

 胸中に渦巻く怒りを中心とした様々な感情を吐き出すべく、海馬は大きく息をつく。そして再び遊戯に背を向けて歩き出した。その足取りは、今までよりも幾分早い。それは何時の間にか鳴り出した本鈴の所為ではない事に海馬自身気づいていた。気づいていたけれど、気づかない振りをした。

 そのまま早足で教室に入り始めて座る窓際の席へと歩んで行き、無言のまま腰かける。少し離れた前の席につく遊戯の後姿を視界の中に入れながら、海馬は意識すまいとは思いつつ隣の空席へと目を向ける。誰もいないその場所は、確かに酷く空虚に見えた。あの日暗がりの中で聞こえた声が、頭の片隅から聞こえてくる。

『寂しいなーと思ってよ』

 余りにも頼りなく情けないその台詞に、海馬は軽く眉を寄せるとそれ以上その場所を見る事はしなかった。……凡骨め、絶対許さん。罰として本当に針を千本飲ませてやる。覚悟しろ。そう思い、再び握り締めた指先に力を込めていると前方の扉が開き、馴染みのない初老の男性教師が入って来た。

 どうやらそれがこのクラスの担任らしいが、係わり合いになる機会が少ないため、殆ど覚えていなかった。彼は教壇に上がるなり、目敏く窓際に座る海馬に目を付けると、珍しいじゃないか、元気にしていたかい?などと声をかけてきた。それにそつなく答えを返し、海馬は緩やかに瞳を伏せた。

 一時限目の授業が始まる。殆ど手付かずで新品同様の教科書を手に取ると、海馬は大きな溜息を吐く。外から降り注ぐ秋の日差しはまだ暖かく、暑ささえ感じられた。

 雨が降る気配は、まるでなかった。
「ねぇ、海馬くん。お昼どうするの?持ってきた?」

 四時限目終了のチャイムが鳴る前に早々と授業が終わってしまったらしい事を、海馬は目の前に現れた遊戯の笑顔で気づいた。今はなんの科目だったのかすら、手元に何時の間にか出していた教科書を見て始めて知る始末で、自分がいかに集中力を欠いていたか分かる。

 それに小さく舌打ちすると海馬は漸く顔を上げ、財布片手に購買部で熾烈なパンの争奪戦に向かう者や、向かいあって弁当を広げるクラスメイトの姿を眺めた。もう昼か、誰に言うともなくそうごちると彼は遊戯の目が届かない位置に手を隠し、鮮やかな手つきでメールを打ち始める。

「海馬くんったら」
「オレはもう帰る。元々半日の予定だった」
「えぇ?!もう?!午後の英語と体育は?!」
「……両方ともオレに必要だとは思えん」
「本当に帰るの?」
「ああ」

 じゃあ何しに学校にきたのさ?と問いかけてくる声を無視して海馬は机上の筆記用具等を鞄に収めると緩やかに席を立った。……本当に何をしに来たのだろう。いや、学校には勉強をしに来ているのだ。当たり前ではないか。それ以外の理由などあるわけがない。そう心の中で反論し、苛立ちを隠しもせずに踵を返す。

「じゃあ、次はいつ学校に来るの?」
「分からん。予定は未定だ」
「次は城之内くんと会えるといいね。その時は一緒にお弁当食べようよ。屋上で、結構気持ちがいいんだよ」
「誰が貴様等と共に昼食を取るか。鬱陶しい」
「海馬くんのお弁当ってすっごく豪華なものが一杯入ってそうで楽しみだなぁ」

 既に話題が『一緒にお弁当』から『海馬くんのお弁当』にシフトしてしまった遊戯の事は見向きもせず、海馬は早くこの息苦しい空間から抜け出したいと歩きだした。ふと、真っ直ぐに前を見据える視界の端に城之内の机が目に入った。無人のそこには午前の間に学習資料やら提出レポートの詳細等プリントが山のように置かれている。

「………………」

 暫しそれを眺めていた海馬は一瞬の躊躇の後、緩やかに辺りを見回し誰も自分に注目していない事を確認すると、机上にあるプリントの束を素早く手に取り、小脇に抱える。そして足早に教室を後にした。そのまま全く迷いなく昇降口へ向かい、外に出る。

 そして簡素な校門の陰に既に待機していた車に乗り込むと漸く大きく息をつき、手にした鞄を置くと、かなり嵩張っていたプリントを手に取り丁寧に揃えて纏め上げた。化学と数学の全国模試過去問題、現代文の感想レポートA45枚分、来週提出の論述課題の資料。どれも成績に大きく響く重要なもの。海馬が城之内から受け取ったプリント群と全く同じものだった。
 

『レポート期限内提出とは凄いな海馬くん。いつこれを手に入れたんだい?』
『ぼ……城之内くんが、先週家に届けてくれたんです』
『城之内が?!……珍しい事もあるもんだな。君達は仲が良かったのか?』
『仲がいい、という程でも……ない、と思います』
『そうか。でも正直助かったよ。オレも担任として君のところには行かなければならないと思っていたんだが、なかなかどうして海馬邸は敷居が高すぎてな。正直気後れしてしまう。……そうかー城之内がなぁ。今度から君に渡したいものは彼に頼むと確実だな』
 

 一時限目の授業の最後。今日までと定められていた課題の一つを他の生徒と共に提出に行った際、担任からこんな言葉をかけられた。たかだか学校の課題の提出程度で褒められるなど下らないと内心思いつつ聞き流していたのだが、その『たかだか学校の課題』を仕事の合間を縫って真剣にやってしまったのは自分だった。

 少し前までは学校側では海馬の事情を嫌という程知っている為、時たま顔を出し授業を受けているだけで良しとし、課題の提出までは強要はしなかった。確かに成績に左右されるものではあったが、テストをすれば校内では向かうところ敵無し、全国でも常に三本の指に入るその実力だけで評価など十分だった。その事は海馬自身もよく知っている。だから何故、こんなものに懸命になったのかが分からなかった。

「……あの凡骨風情が余計なものを持ち込むからだ」

 ぽつりとそう呟き、手にしたプリントを叩きつけるように鞄の上に置いてしまう。そんな海馬に前で大人しく待機していた運転手が、控えめに声をかけてきた。

「瀬人様、本日はどちらまで?社にお戻りになりますか、それともご自宅に?」
「そうだな。まだ時間が早いから、社に……」

 そこまで言いかけて、海馬はふと思いついた様に口を閉ざした。急に静かになった車内に、運転手が問うように視線を再び後ろに向けようとしたその時、海馬がちらりと下を見る。そして、我ながら呆れると言うかのように肩を竦め、再びはっきりした声でこう続けた。

「いや、その前に行くところがある。今から言う場所へ向かってくれ」
 ごろり、と幾度目かの寝返りを打つと、身体が布団からはみ出した。

 ひんやりと冷えた畳の温度が頬に触れると気持ちいい、などと暢気な事を思いつつも、上かけが肌蹴てしまった上半身は酷く寒い。くっそーさみぃ〜でも動けねぇ。そんな事を心の中で叫びつつ城之内は誰もいない部屋で一人、熱に浮かされた身体を投げ出していた。

 風邪だな、と思ったのは一昨日の新聞配達のバイト中だった。その日は早朝の冷たい空気がより厳しく感じ、ヘルメット越しに見える景色が歪んで見えて何か変だな、と思ったのだ。その事に気づいた途端凄まじいまでの悪寒と咳に見舞われ、彼は危うく人様の家の郵便受けの元で行き倒れる所だった。それをなんとか気力で乗り越えて、他の二つのバイトと学校に行って、殆どふらふらになって家のこの布団に倒れこんでそれきり動けなくなってしまったのだ。

 冷蔵庫すら空っぽの家に置き薬などと言う備えはある筈もなく、かといって外に出る元気もない。城之内に残された選択は大人しく寝ている事だけだった。額を冷やす気力もなく布団にくるまり、今に至る。

「……なっさけねぇ」

 カチコチと安物の目覚まし時計が時を刻む。真っ黒な文字盤の右下には日付と曜日がアナログで表示されていた。『wed』の三文字に心の底から溜息を吐く。水曜日。海馬と学校で会う約束した日。あんなに楽しみにしていたのに、当の自分が学校に行けない事態になってしまうとは。
 

 ── あいつ怒ってんだろうなぁ。約束破ったら針千本とか言っちまったし。こりゃ次に会ったらマジに飲まされっかも。あ、でもまてよ。そもそも海馬はオレとの約束なんてどうでもいいと思ってるかも知れねぇじゃねぇか。……それはそれですっげぇ寂しいよな。あーもう最低最悪。
 

 熱で弱った身体と心からあふれ出るのはそんなマイナスの感情ばかりで、考えれば考える程悪い方へと向かっていく。なんだか泣きたくなってきた。17にもなってこんな事で泣くなんてカッコ悪いけど、それでも哀しい気持ちは止められない。

 城之内は深く深く項垂れながら、重い身体を殆ど引きずるように敷布団の上に戻し、頭からすっぽりと上かけを被ってしまう。泣きたいとは思いつつ、そんなに簡単に涙など出るはずもなく、かといって悲しさからも逃れられない。熱い頬が上かけに暖められて余計に熱い。息も苦しい。もしかしたらこのまま死んでしまうのかと、少々大げさな事を劇的に考えていた矢先、遠くで扉が閉まる音がした。

 ボロアパートの鍵すら碌にかからない薄い鉄の扉は、静かに閉めても案外大きな音がする。ここ一週間ほど姿を見せない父親が帰って来たのだろうか。それにしては随分と上品な閉め方をする、等とぼんやりと思っていると、不意にすうっと頭の上に冷気を感じた。何事かと思い上かけを掴んでいた片手を上にあげると、いきなり手首を掴まれた。そして、これまたいきなり怒鳴り声が降って来たのだ。

「貴様、意識があるのなら何故返事をしない!!」

 その声はまるで重い鈍器のような衝撃を痛む頭に加えてくる。ガンガンと鳴り響く耳を押さえながら、城之内は一瞬ついぞ自分があの世へ行ってしまったのかと思った。それでなければこれは夢だ。こんな事はありえない。

 海馬が、この汚いボロアパートの一室に現れて、自分を思い切り見下ろしている事なんて。
 

 ── 絶対に、ありえないのだ。
「何を呆けているこの馬鹿が。いや、馬鹿は風邪をひかないと言うから貴様は馬鹿にも遠く及ばない凡骨か」
「……ちょ、お前…っ……なんっ……」
「フン、ついに人の言葉も話せなくなったか。哀れな奴だ」
「誰が哀れだ!……じゃない!!お前、なんでここにいるんだ!一体なんだってんだ!」

 がばりと上かけを跳ね飛ばし勢いよく起き上がった城之内は興奮状態のままそう叫び、ぜいぜいと喉を鳴らす。急に動いた所為でくらくらする頭を押え、それでも気力で体制を立て直して、未だ尊大に己を見下げる相手を睨みつける。畳の上にきっちりと正座して、怖い位の眼差しでこちらをみる青い瞳。それが細く眇められると、存外な迫力がある事を城之内は身をもって経験していた。

 その状態が数秒ほど続き、即座に目力負けをした城之内は悔しいながらも僅かに目を伏せなんなんだよ、と口内でぼやく。そして未だ握り締められたままだった手首を取り返そうと力をこめた、その時だった。伏せた目線の先にやけに見慣れた色彩が飛び込んでくる。それは自分の背後に投げ捨ててあるものと同じ色。紺の学ラン。……そう、海馬は学生服を着ていたのだ。

「……お前、その格好……もしや、今日学校に?」
「来週の水曜日、と言った筈だが」
「うん。約束した」
「約束ではない。オレがそう宣言しただけだ。宣言した手前、登校しなければと学校に行ってみれば、約束だと騒いだ人間がいなかった。一体どういう事なのか説明をして貰いたいものだな」

 一言一言力を込めて吐き出すようにそう口にする海馬の姿を、城之内は喜び半分恐怖半分で見遣っていた。前者は勿論彼が約束をきちんと実行してくれた事で、自分の事をそこまで無視はしていないのだという安堵感。後者はその約束を覚えていたという事はアレも覚えているのだろうという恐怖感だった。アレとは勿論、針千本である。

「…………それはですね社長」
「社長はやめろ。貴様、馬鹿の癖に風邪など引いて何をやっている。馬鹿は馬鹿らしく冬場でも半袖で過ごす位の気概を見せろ。情けないにも程がある」
「むちゃくちゃ言うなよ」

 反論の余地もなく小さな声でそう答えると、何故か自分も正座をしなくてはならないような気がして、城之内は無意識にぐちゃぐちゃになったシーツの上に正座した。……ああ、なんだってこんな事に。嬉しいけれど、とてつもなく悲しい。哀愁漂う胸中には今の季節と同じ、木枯らしが吹いていた。しかし、そんな相手の様子など全くお構いなしの海馬は、更に眉を吊り上げて言葉を続ける。

「ところで、約束はともかくとして、貴様自分の言った事は覚えているか?」
「はい?」
「あの時貴様は確かにオレに向かってこう言った筈だ。『嘘を吐いたら針千本だ』と」
「ゲッ!」
「よもや忘れたとは言うまい。オレは自ら言った言葉を実行しない男は大嫌いだ。よって、貴様に『約束』を果たして貰いに来たのだ」
「えぇ?!約束って……まさか、針千本?!」
「他に何がある」
「ちょ、ちょっと待て!オレは病人だぞ!熱が38度だぞ!最高記録は今朝の39.5度!!その可哀想な病人にマジでそんな事するつもりかよ!」
「問答無用。見苦しいぞ」

 やっぱりそう来るのかよ!つーかお前針千本も持ってるの?!

 そう心の中で絶叫し、城之内は慌てて正座を解いて海馬から逃げようと後ずさる。しかし、熱であまりよく動かない体はみっともなくもがくばかりで全く後ろへと進まない。じりじりと音がしそうなほどの迫力を湛えて眼前に迫る海馬に、城之内は自分の人生の終わりを知った。

「さぁ、男なら目を閉じて口を開けろ城之内!」

 にやり、と悪役さながらの笑みを浮かべるその顔に、城之内はもう抗う気力もなかった。

 針って刺さるとすっげぇ痛いよな。でも上手くやれば何処にも刺さらずに胃まで到達するかもしれない。でも胃で溶けるのか?しかも千本も!……こいつは鬼だ。綺麗な顔をして人を食らう鬼に違いない。ああ、母さん、静香。先立つ克也をお許し下さい。

「わかったよ!やってやるよ!」

 そう投げやりに叫ぶと城之内は観念して口を開け、目を閉じる。海馬の手にはご丁寧にケースごと持ってきたのか妙な音を立てるモノが握られていた。ゆっくりとその音が海馬の気配と共に近づいて、次の瞬間彼の右手が強く顎を押さえつけた。そして。

 ざらざらっと、カプセル状の錠剤が五つ、城之内の口の中へと放られる。

「んぐっ?!」
「そのまま飲み込め。水なしでも大丈夫なタイプだ」

 その言葉が終わる前に、城之内はごくっと音を立てて与えられた薬らしい物体を飲み込んでしまう。確かに苦さもまずさも感じなかった。……いや、しかし問題はそんな事ではなく。ほとんど呆けて至近距離にいる海馬を見上げた城之内に、当の本人は涼しい顔をして右手に持っていたピルケースらしい銀色の物体を枕元へと放った。カシャ、と軽い音がする。

「……針千本は?」
「貴様、本当に飲みたいのか?ならば揃えてやってもいいが」
「いいえっ!結構ですっ!」
「残りはここに置いておく。一週間分は入っているからそれで足りるだろう。貴様の事だから薬も飲まずごろごろ寝ているだろうと思っていたのだ」
「……これ、わざわざオレの為に?」
「勘違いするな。これはオレが常に所持している常備薬だ。生活習慣上一通りの薬は持ち歩けと言われているからな。それを分けてやっただけだ。後そこに、今日学校で渡されたプリントと昼食だったものも置いていく。締め切りが近いものが多いようだから、成績が足りない馬鹿はせいぜい死ぬ気でやるがいい」
「…………海馬」
「では、オレはもう行く。仕事を中断して登校した上に寄り道までしてしまったのだ。何かと滞っているからな。全く馬鹿馬鹿しい」

 顎を押えていた指先が緩やかに離れていくのが惜しいと思った。

 来た時と同じく唐突に海馬は立ち上がり、くるりと背を向ける。それきり無言のまま離れていくそれに急激な寂しさを感じた。けれど、一人でここに寝転がっていた時よりはずっといい。

 ギイ、と扉が開く音がした。それに慌てて声をあげる。

「海馬、サンキューな。オレ、今度は絶対約束やぶらねぇから」
「貴様のいう事など、もう信用などするものか」
「きっつー……」
「凡骨」
「……なんだよ」
「隣の席が空いているのは、確かに落ち着かないものだな」
「えっ」
「早く風邪知らずの馬鹿に戻れ。そうしたら、日よけになってやってもいい」

 それきり、声はしなくなった。いつ閉めたものか、扉が閉じる音すらしなかった。静かな部屋に一人きり。時計の音がやけに響く。

「馬鹿馬鹿ってうるせぇんだよ」

 そう一言呟くと、城之内は再び布団に横になりかけ布団を引き寄せた。すっかり冷たくなったそれに多少身体が震えたが、先程よりは大分マシになっていた。それは今与えられた薬の為なのか、それを所持していた本人の為なのか分からなかったが、どちらにしても海馬のお陰であるという事は明確だった。

「……サンキューな」

 もうここにはいない相手にもう一度心を込めてそう言うと、城之内は銀色のピルケースを握り締め、漸く穏やかな眠りにつく。

 カシャ、という小さな音に、とても優しい思いを感じた。