Act3 Snow rain

 吐く息が白く大気に溶けていく。昨日から活躍し始めたダウンジャケットは酷く暖かく、冷たい空気の中を疾走するには丁度いい。ストックケースにはちきれる程入っていた今朝の朝刊は残すところ最後の一部だけになり、バイクを止めた城之内は目の前の自動販売機でホットコーヒーを一つ手に入れた。掌にじんわりと染みていく熱を頬に移す。冷たすぎるそこにコーヒーの熱は熱すぎた。

 白々と、夜が明けていく。

「今日は本当に雪降んのか?すっげぇいい天気じゃねぇか。やっぱオレって晴れ男だよな」

 嬉しそうにそう一人ごち、やや温んだコーヒーを一気に飲むと、城之内は再びバイクへと飛び乗った。季節はもう冬。今日明日中に初雪が降るでしょうと寝ぼけながら聞いた天気予報に訳もなく心が躍った。いや、本当は訳があるのだけど。

 エンジンをふかし、いざ出発という時になり、城之内はふと左手にまだ小銭入れを握り締めていた事に気づく。何やってんだとボヤキながら、それをジーンズのポケットに戻そうとしたその時、カシャ、と小さな音がした。驚いてそこに手を伸ばすと、なにやら堅い感触がある。その瞬間彼はあっ、と声を上げ、慌てて音の正体を引っ張り出した。

 眩しいほどの朝日の中、殆ど摘まむ様に持ち上げたそれは指先できらりと光り、城之内の目を射抜く。空っぽの銀のピルケース。蓋をあけるとご丁寧にも名前がフルネームで刻まれていた。それをしみじみ眺めながら、自然と緩む口元を引き締める。



『あ、そうそう城之内くん。明後日、海馬くんが学校に来るって言ってたよ。モクバくんから聞いたんだ』



 それは一昨日の夜の事。たまたまバイトの最中に出会った遊戯にその事を聞いた城之内は、持っていたプラカードを放り投げ、危うく大惨事を招く所だった。その後しこたま店長にどやされたが、そんな事はどうでも良かった。

 海馬が学校に来るのは実に一ヶ月半ぶりの事だった。その顔を見るのすら久しぶりだった。城之内が海馬の顔を見たのは、例の10月第三水曜。自分の方から約束をしたその日に、熱で寝込んで家でうなされていたあの日が最後だった。

 それ以来海馬のところに訪ねていく暇もなければ、向こうからコンタクトがある事も当然なかった。城之内はバイトバイトで時間を浪費し、空いた時間は留年の危機を脱する為に課題に明け暮れる日々が続いていたし、海馬はまず殆ど日本にいなかった。時たまテレビの画面を通してその姿を確認する事は出来ても、済ました顔で問われる事だけに淡々と答えるその声は酷く空しく耳に届いただけで、彼の背後に見える恐ろしく綺麗なニューヨークシティのきらめきが余計にその存在を遠く感じさせた。

 馬鹿とか阿呆とか、凡骨死ねとかなんでもいいから、直ぐ近くにいて目一杯怒鳴られたい。そんな事を思いつつ、毎日隣の空席を眺めているのも限界だった。オレは真性のマゾかもしんない、そうぽつりと訳は話さずその単語だけ友達に漏らしたところ、今更何言ってんだ、と帰ってきた。本当に全く今更な話だった。

 その海馬が、今日学校に姿を見せる。ただそれだけで、こんなにも幸せになれる自分は安い男だと思った。それでも、やっぱり嬉しいものは嬉しい。今度こそ風邪を引かないようにと昨日はいつもの倍暖かくして眠ったし、少しでも咳をする奴の傍には近寄らなかった。勿論事故も気を付けて安全運転を心がけた。何もかも完璧だった。

「よし!今日は一番乗りで教室に入ってやるぜ!」

 ピルケースをしまいこみそう大きく叫ぶと、バイクは爆音を立てて走り出した。遠くでどこかのオヤジの怒鳴り声が聞こえたが、そんな事はどうでも良かった。

 その顔を見る事が出来るまで、後数時間。こんなに学校を楽しみだと思った日は、人生で初めてだった。
「兄サマ、今日は雪が降るってニュースでやってたぜぃ。コート着て行った方がいいんじゃないの?」
「雪?」
「うん。ここ二三日、すっごく寒くてさ。クラスの奴等といつ雪が降るんだろうなって、ワクワクしてるんだ」

 今年は大きなスノーマンを作るんだ、目を青くしてさ、兄サマ仕様にしてあげる。銀色のフォークを無作法に振り回しながら、瞳をきらきらさせてそうはしゃぐモクバの顔をなんとはなしに見遣った後、海馬はふと目線を外に向けた。限りなく白に近い眩しい朝の光が青い色を見せ始めた空を明るく照らしていく。今日も天気になりそうだ。自分の雨男の効力なぞ、大した事はないらしい。そんな事を思いながら残り半分だった珈琲を飲み干した。

「では、学校へ行って来る」
「今日は早く帰ってくる?」
「どうだろうな。社に寄ってから帰るから、遅くなるかも知れない」
「えー今日こそ兄サマと一緒にご飯食べたかったのに。夜一人って寂しいんだぜ」
「……悪いなモクバ。明日こそは都合を付ける」
「無理しなくていいよ。オレの方こそ、我がまま言ってごめん」
「………………」
「もう慣れたから大丈夫。あ、でも帰ってきたら顔を見せてね」

 約束!とおどけて笑うモクバの顔を海馬は複雑な表情で見つめていた。

 寂しい。その言葉が海馬の胸を締め付ける。自分はそんなにも人に寂しい思いをさせているのだろうか。確かに同じ家で生活をしている癖に年中国内外へと出張したり、そうでなくても生活時間帯の食い違いで顔を合わせる事すら稀になってしまった弟には寂しい思いをさせているとの自覚がある。自分と顔を合わせる度に必要以上に喜ぶ事や、ぴたりと寄り添って離れない様子を見ても、それを顕著に感じるのだ。

 そして、もう一人。自分に向かって堂々と寂しいと口にしたあの男、城之内。モクバとは違い17にもなる癖に、恥ずかしげもなくそんな台詞を吐く事にその神経を疑ってしまう。男の癖に情けない。そう頭ごなしに怒鳴りつけても、一向に改善する気配はみられないようだった。

 何故、たかだかクラスメイトの一人に会えないだけで、あのような言い方をするのだろう。城之内には友達が沢山いる。いつも回りを人に囲まれ煩いほど騒いでいる癖に、自分一人が姿を見せないから寂しいとはどういう事なのか。その考えはよく分からない。

 海馬はきっちりと学生服を身につけ、滅多に手にしない皮製の鞄を手にすると玄関ホールへと歩んでいく。ずらりと居並ぶ使用人の顔を見向きもせず、登校用の車に乗り込むと小さな溜息を吐いた。滑り出すように前へ進む景色を特に興味なく眺めながら、海馬はふと腕時計に視線を落とす。

 一月半前も確か同じ事を繰り返した。モクバと穏やかに朝食をとり、慣れない服を着こんで余り気乗りがしないまま高校へ登校し、そしてあの黄色頭を探したのだ。結局あの日は城之内は欠席で校内で出会う事はなく、仕方なく家まで行ってしまったのだが。

 思えばどうしてあの時、家にまで押しかけようと思ったのだろう。帰り際につい手を伸ばしてしまったプリントを渡し、借りを返すつもりだったのか、それとも馬鹿でも風邪を引くという稀な例をその目で見届けてやろうと思ったのか。今となっては当時の気持ちは定かではない。

 鞄を探ると気づく、いつも二番目の内ポケットに入っているピルケース。今は代わりのケースが収められているそこを眺め、そういえばあれは城之内の枕元に投げるように置いてきたのだという事を思い出す。即効性のある高価な風邪薬だから直ぐに回復したに違いない。否、回復しなければよほどおかしな風邪を引いた事になる。……あれ以来、彼がどうなったのか知る術もなかった。尤も自分とは全く無関係の相手の様子など知る必要も無ければ、知ろうとも思わないが。

 そこまで考えて、海馬は知らず舌打ちをして顔を上げた。朝っぱらからあの男の事を考えるなどどうかしている。昨日の大企業との会談で、今日のKC株価はどこまで上がったか、気にしなければならないのはそちらの方だ。そう心の中で呟くと、屋敷から持ってきていた経済新聞を広げ見る。

 しかし、内容はまるで頭に入らなかった。
「城之内くん!今日は姿が見えないなーと思ったら。もう学校に来てたの?」
「よう遊戯。いやーバイトが思いの他早く方づいてよ。暇だったから来ちまった」
「なんかすっごく張り切ってるね。海馬くんが来るからかな?」
「ばっ……なんで海馬が関係あるんだよっ」
「だって昨日の様子を見てたら絶対にそう思うもん。分かりやすいなぁ、城之内くんは」

 本当に城之内くんって海馬くんの事好きだよね。ね、もう一人の僕?と千年パズルを見ながら口を開く遊戯に城之内は思い切り歪んでしまった顔を直す事も出来ずにそっぽを向いた。苦楽を共にした友人にはこうも簡単に人の心を読み込んでしまう力があるものなのか。そう思い自然と全く関係がない胸を隠す。そんな城之内に遊戯は口元に浮かべた笑みを深くした。

 別に友情があろうとなかろうとその態度では自分で大声で宣伝してるようなもんだよ、と言ってあげたい気がするけれど、見ていてとても面白いからそのままで放置する。意地が悪いぜ相棒、と闇遊戯の声がするが、そこは敢えて無視をした。けれど確かに余り意地悪をするのは良くないと思い直した彼は、未だ少しだけ慌てている城之内に違う話題を切り出した。

「そういえばこの前海馬くんが来た時に、今度は皆でお弁当食べようねって言ったんだ」
「あ?弁当??」
「うん。だって気にならない?海馬くんのお弁当。きっと高級料理屋の仕出し弁当かなんかなんだよ」
「……お前の想像ってすげーよな。めちゃくちゃ具体的だし。あ、でも海馬の弁当は和食仕出しじゃなかったぜ」
「だから、一緒に食べようって。一口貰えるかもしれないし!……って。え、なんで城之内くんが海馬くんのお弁当知ってるの?」
「いや、その……一回だけ……」

 施しを受けたことがあるんです、とはさすがに言えなかった。先月海馬が家を訪れた際、薬と共に置いていったのは『海馬の昼食』だったものだった。病人の口には少々重過ぎる中身だったが、わざわざお前の為に作らせた、なんて言われるよりは気分的には楽だった。あの薬にしたって、新しく購入されるものよりはずっといい。そんな城之内の心の負担を思いやったのかは知らないが、あの時の海馬は本当に彼なりに優しかったのだ。

 ……っていうか何故ここでお弁当。さすがの城之内もこの遊戯の話には少々引いた。まぁ、でも、確かに興味がなくはない。自分もあの出来事がなかったら遊戯同様好奇心丸出しで知りたがるだろう。弁当に、というよりも海馬関連のもの全てに興味があるのだ。それがどんなに些細な事でも見逃したくない。ましてや向こうは未知の世界の住人だ。気にするな、という方に無理がある。

 数千人の生徒を収納するこの学校よりも広い屋敷に暮らし、首が痛くなるほど馬鹿でかい会社を幾つも持って、自分の数倍の年齢の男を従え、既に意味があるものなのか分からないデータをなんなく読み解き活用する。

 遠いよなぁ……ついこの間押しかけていった社長室でふと思ったその気持ちは、会えない日々が続けば続くほど強くなった。遠いけれど、全く手が届かない訳じゃない。現に今日は触れる程近くまでやってくるのだ。自分と同じ制服を着て、授業を受けて、時間を共有する事が出来る。この空間にいる間は海馬は海馬社長ではなく海馬瀬人なのだ。そう考えると、なんとなく悲観ばかりもしていられない気がする。

「城之内くん?」
「………………」

 最後の一言を口にしたきりですっかり別世界にトリップしてしまっている城之内の事を眺めながら遊戯はこっそり肩を竦めた。…今のお弁当の話からどこまで発展していったんだろうね。溜息混じりにそう呟くと、彼は大分賑やかになって来た周囲を見回した。

 遠くの方から聞こえてくるおはようの声に、片手を上げておはようと返す。今日は寒いね。うん、雪降るって言ってたよ。ちょっと距離のある場所でそんな世間話を交わしていると、話し相手であるクラスメイトの背後、教室後部の扉が静かに開いた。そして、ゆっくりとした歩みで海馬が姿を現したのである。

「……あっ!」
「うわっ、なんだよ遊戯大声出して!」
「海馬くんが来たよ、城之内くん」
「えっ、あ、本当だ」
「ほら、窓際。自分の席についたみたい。城之内くんも席に戻れば?」
「お、おう」
「お弁当の件、海馬くんに話しておいてね。頑張って」

 頑張れって、一体何を頑張るんだよ。そうぶつぶつ口の中でいいながら、城之内は遊戯に見送られるまま、ほとんどおっかなびっくりと言った調子で自席へと近づいていく。

 きっちりと背を正し鞄から取り出したらしい教科書を机上に置き、暇つぶしだろう本を片手に視線を落とす海馬は勿論一ヶ月半前と代わりがなかったが、どことなく大人びて見える。けれど、身に付けている学生服の所為で、スーツを着ているあの時よりもずっと年相応に見えた。

 緊張の所為か手に妙な力が入ってしまい、普段通りに椅子を引いたはずがガタン、と大きな音を立ててしまう。その音に静かに本を読んでいた海馬の視線がゆっくりとこちらに向いた。酷く静かな二つの青い瞳に見つめられて、城之内は一瞬その場に固まってしまう。

 やべぇ、どうすりゃいいんだ?

 言いたい事はそれこそ数え切れない程あったのに、いざ本人を目の前にしてそれらは全て頭の中から吹き飛んでしまう。まずは先日のお礼を言うべきか、それとも今会えて嬉しいという事を伝えるべきか。それとももっと別の言葉か。様々な考えがぐるぐると頭の中を駆け巡り頭痛すら覚えてくる。とりあえず、この中途半端な体制をなんとかしようと一旦顔を背けて椅子に座り、改めて隣を見ようと顔を向けたその時だった。

「おはよう、『城之内くん』」

 キンと冷えた朝の空気と同じ様な余りにも清々しいその一言に、城之内の焦りは頂点に達した。思わず、自分でもおかしいと思うような上ずった声で、お、おはよぅ……と答えてしまう。なんだよその語尾の小ささ、気色わりぃな。とセルフツッコミもそこそこに漸く視線を彼に合わす。穏やかな、作り物の笑顔。テレビの向こう側で常に彼が見せている表情と同じものがそこにはあった。

「風邪は、もう大丈夫?」
「お、おう。お陰様であの後直ぐに全快して、次の日から無事バイトにも顔を出せた」
「そう。それは良かったね」
「あ、そういえばお前に借りてたピルケース、返さねぇとと思って持ってきたんだ。中身は全部つかっちまったんだけど。えーと、どこにしまったっけかな……あ、あったあった」

 ごそごそと制服のポケットを探り、忘れないようにとしっかりと入れていたそれを掴みだす。幾度も握り締めた所為でほんの僅かに表面が曇っているのを見つけさり気無く制服の裾で磨きあげると、微動だにせずにこちらを見ている海馬の方へと立ち上がり、わざわざ近づいてしっかりとその手に返却する。その瞬間、間近に迫った耳元に今までとはガラリと違う声が聞こえてきた。

「……馬鹿が無事に戻ったようで良かったな」
「!てめぇ、猫っ被りもいい加減にしやがれ、気色悪い」
「猫など被っていない。これが普通だ」
「嘘吐けよ……!」

 周囲には聞こえないよう極力押えた声でそう言い合う彼等は、教室の風景に溶け込んでいて特に注目はされていないようだった。その事を注意深く確認していた海馬は、にやりと口元に笑みを浮かべると勝ち誇ったように更に言葉を繋ぐ。

「まあ、約束破りの常習犯には何を言われても痛くも痒くも無いがな」
「なんだよそれ……反論できねぇけど」
「このピルケースは中身を補填してまた貴様にくれてやる。今度は病気でどうしようもありませんでした、は効かないと思え」
「はぁ?」
「分かったらとっとと離れろ。授業が始まる」

 近づきたいんだか離れたいんだか分からない言葉を勝手に吐くと、海馬はそれきりふいと横を向き、手にした本をしまってしまうと一時限目の準備をしている。……わけがわからん。素直にそうぼやきながら、城之内はしぶしぶ自席に腰を下ろし、同じ様に教科書を取り出した。

 ふと、今ではもう暑さではなく暖かさを感じる日差しが少し陰っている事に気づく。誘われるまま再び横をみると、そこには当然海馬の姿。今日は隣が空席じゃない、冬は少し肌寒いけどぽっかりと空間が空いているよりはずっといい。そんな事を考えて、城之内はふっと小さく笑みを漏らした。その様子をそれとなく見ていたのか、海馬はちらりと視線をこちらに遣し、口の形だけで「不気味な顔をやめろ」と言ってきた。

 不気味な顔で悪かったね。でも誰の所為でそんな顔になってると思ってんだ。そう心の中で思いつつ、城之内は一時限目の授業が始まる瞬間まで、その顔を崩さずにいた。
 いつも通り集中できない授業を終え、一時限目終了のチャイムと共に大きく伸びをした城之内は、隣で丁寧に教科書を片付ける海馬へと顔を向けると、そ知らぬふりをしているその横顔に向かって声をかけた。

「なぁ、『海馬くん』」
「……なんだ、『城之内くん』」
「今日いつまでいるんだよ」
「それが君とどんな関係が?」
「オレっていうより、遊戯がさ、屋上でお前と弁当開きしたいって。よく分かんねぇけどこの間そんな話をしたんだって?」
「……ああ。そういえば。ただ、僕は何も答えていないけど」
「……イライラすんなぁ、その話し方」
「人の言葉遣いにケチをつけないでくれないか」
「で、どうなんだよ」
「まだ決めていない」

 どう考えても人を小馬鹿にしている上から目線と、わざとらしい言葉遣いに先程の喜びは既に消えうせ、苛立ちでこめかみがひくつくがここはじっと我慢する。こんな下らない事で腹を立てている場合じゃないのだ。時間は無限じゃない。本当はもっと実のある話がしたいのに、何を話せばいいのか分からない。……一体何をやっているんだか。知らず零れ落ちる溜息に肩の力まで抜ける気がする。そんな城之内の様子を横目で見ながら、海馬は至極生真面目な顔のままこう言った。

「まあ、付き合ってやらないわけでもない」
「……うっわ、えっらそう」
「言い方を変えれば、きさ……城之内くんに付き合うのではなく、遊戯くんになら付き合ってやってもいい」
「へーへーそうですか。じゃー遊戯にそう言っとくぜ」

 ったく可愛くねぇ。つか、元々可愛くねぇけど。そうぶつぶつと呟きながら前で他の友達と談笑している遊戯の元へ向かう城之内の背中を海馬は静かに目線で追った。全くこれ程からかうのが面白い奴はそういない。そう考えて無意識に口の端がつり上がる。そのまま彼は次の授業で使う教科書を手に取った。

 近代日本史。黒を基調としたデザインセンスの頗る悪いその表紙を眺めながら、黒光りするそれの端に映った己の顔に海馬は一瞬目を瞠った。何故なら常に硬く引き結んでいる口元が微妙に歪んでいたからだ。勿論「歪んだ」という表現は海馬がそう感じていただけで、実際は酷く柔らかな表情で「微笑んでいた」のだが。海馬の頭はそれを微笑みと受け取る事は出来なかった。

(……何故、オレはこんな表情をしているんだ?)

 思わず表紙の中の自分を凝視して固まってしまう。自分の顔とはもう長い付き合いだが、こんな表情は近年目にする事はなかった。あのモクバにさえ「笑顔の似合う兄サマに戻って」といわれる始末なので、笑みの一つも見せた事はないのだろう。それなのに、どうしてこの場で自分は口元を歪めているのだろう。

「……お前、何伊藤博文とにらめっこしてんの?そんなに面白いか?このオッサン」

 暫らくの間そのままの状態で微動だにしなかった海馬に、何時の間に戻ってきたのか自席に腰を下ろした城之内が面白そうな口ぶりでそう声をかけて来る。その声に彼は慌てて表情を引き締め、少しだけ乱暴な動作で教科書を机上に投げ捨てる。その様をやはり興味深げに眺めていた城之内は、先程の海馬と同じ口の端を吊り上げた笑い顔で、さもいい所を見たと言わんばかりに言葉を続けた。

「お前でも、ぼーっとする事ってあるんだな。なんか貴重な感じ」
「誰もぼうっとなどしていない」
「してたじゃねぇか。ま、海外出張でご多忙の社長さんが疲れてねぇわけないよな。その辺は同情するぜ。あ、そうそう遊戯の奴凄く喜んでたぜ。たかだか弁当で可愛いよな、あいつ」

 その言葉が終わるか終わらないかの内に丁度よく二時限目のチャイムが鳴り、日本史の教師が入ってきた。それに合わせて即座に前に向き直ってしまった城之内の様子を視界の端に留めながら、海馬は再び小さく嘆息した。

 ……あの不自然な「歪み」が己の顔に発生したのはもしや隣にいるこの男の所為なのだろうか。長い間使われなかった筋肉を使った所為で、なんだか凄く疲れた気がする。しかし何故城之内関連で今までどんなに頑張っても自然と出る事がなかったそれが零れ落ちてしまったのだろう。何故?

 そう幾ら考えても答えなど出るはずはなく、ついにはその不可解さが苛立ちに変わってしまい先程の表情から一転、鬼の様な形相になっていたらしい。二時限目終了後、その事を目敏く見つけた城之内に鋭く突っ込まれ、更に増幅させた怒りを抱えたまま海馬の半日は過ぎて行った。
「よっしゃー!昼だ昼!!腹減ったー!」

 四時限目終了直後扉の向こうに教師が消えた瞬間、隣の席から奇声が上がった。未だ苛立ちが収まらない海馬はあれきり完全無視を通していたが、余りにも大きなその声に思わず顔ごと振り向いてしまう。しかし、声を上げた本人は気が付けば遊戯の元へと駆け寄っていて、そこには乱雑に引かれた椅子と散らかったままの机があるだけだった。

「………………」

 もう帰ってしまおうか。大体二人と仲良く弁当開きをする義理など自分にはないのだ。早く帰ってアメリカへ滞在していた期間に溜まっていた仕事を片付けなければならない。優先順位は、その他のスケジュールは。そんな事を考えながら海馬は即座に身支度を整え鞄を手に取ると、何よりも優秀な脳内スケジューラーを立ち上げて素早く情報を整理しようとしたその時だった。何時の間に戻ってきたのか城之内が進行方向に立ち塞がってこちらを睨んでいたのである。

「おい海馬。何帰り支度してんだ。約束を破る気か?」
「気が変わった。もう帰る」
「なんでだよ。さっきからブスっと黙ったまんまで。オレ何もしてねぇだろ」
「………………」

 そう。確かに城之内は何もしてはいないのだ。何もしてはいないのに、己のペースを乱されてしまったから嫌気が差したのだ。今思えばここ一月半の出来事の何もかもが腹立たしい。一刻も早くこの場から離れたい。何故か今日は息苦しくは感じない教室内。けれどなんとなく居心地が悪かった。

「そこをどけ、凡骨」

 周囲には響かないように低く、ドスさえ効いた声でそう唸る。それにも全く怯む事無く、城之内はわざと足を開いて行く手を阻んだ。

「嫌だね。折角のチャンスなのに」
「……チャンス?何がだ」
「どうしてもって言うんなら、オレもお前と一緒に帰る」
「は?何を言っている。出席日数と単位ギリギリの貴様がこれ以上サボればどうなると思う」
「間違いなく留年すんじゃねぇの」
「分かっているのなら下らん事をほざいてないでそこをどけ。遊戯と共に弁当でも何でも食べて来い」
「残念ながら、遊戯はちょっと前に呼び出しくらって出て行ったぜ。それをお前に言おうとしたら、こういう状況になっただけで」
「ならば余計にオレがいる必要はないだろう。いい加減にしないと蹴り飛ばすぞ」
「優等生の海馬くんがそんな事出来るわけないだろ。ここはお前のテリトリーじゃねーっての。……なぁ、なんで怒ってんの?折角学校に来てんのに楽しくなかった?」

 段々と勢いがなくなって行く相手の言葉に、さすがの海馬も態度をそれ以上硬化させる事は出来なかった。鞄に手をかけ、足を踏み出そうとした姿勢のまま眼前に立つ城之内を睨むことしか出来ない。まただ。またペースが乱されていく。この男は自分の口元を歪めただけではまだ足りず、言葉までも奪うつもりなのか。腹立たしい。けれど……そればかりでもない様な気がした。

 海馬の口から諦めの溜息が零れ落ちる。これ以上対峙してもお互いに一歩も引かないことぐらい分かっているので、ここは仕方なく折れてやる事にした。手にした鞄を机の横へと下げ戻し、どかりと勢いをつけて椅子に座る。殆ど投げやりな態度だったが、それでも城之内に取ってはいい結果だったらしい。

「よしよし。そうこなくっちゃ」

 何がよしよしだ。負け犬の癖に生意気な。

 そう言おうと海馬がきつく引き結んだ唇と開こうとしたその時、調子に乗った城之内は表情をがらりと変えてこの間の遊戯さながらに至極楽しそうな声でこう言った。

「じゃ、屋上に昼飯食いに行こうぜ海馬くん。さっき行くって言ったもんな」

 

2


 
「……遊戯がいないのに何故貴様と屋上に行かねばならない」

 思い通りの展開に機嫌よく差し出したはずの言葉の手は、即座に海馬の冷たい一言によって叩き落される事になる。折角いい感じだったのに、これじゃーさっきと同じじゃねぇか。何回同じ所をループすんだよオレ達は。城之内は内心そう毒づくと、再びひくつき始めたこめかみを押えながら、極力抑えた声で言葉を続ける。

「いーじゃん別に。ここで食うよりはいいだろ。ちょっと前までは気温も丁度よくって絶好の昼飯スポットだったけど、この寒さじゃ誰もこねぇしな。落ち着けるだろ」
「落ち着けるか」
「オレは落ち着けるの。あーもうぐだぐだ言ってねぇで早くしろよ。昼休み終わっちゃうだろ」
「貴様に命令される謂れはない」
「ったく面倒くせえな。じゃーお願いします。一緒にお弁当食べましょ?ね?」
「断る」
「お前なぁ!!」
「いちいち大声を出すな凡骨。注目される」
「お前の所為だっつーの。もういいから行くぞ。行くったら行く!」

 余りにも煮え切らない相手の態度についにキレた城之内は、更に何か言いかけた海馬を完全無視し、いきなりその腕を掴むと殆ど引きずるような形で歩き出した。

「……貴様、離せっ。離さんか!」
「そんな小声じゃ何を言っているのか聞こえませーん」
「凡骨!」

 響かないよう極力抑えたトーンでそう抗議する海馬の声は、賑やか過ぎる周囲の喧騒に紛れて殆ど耳に届かない。加えて掴まれた右手を引き戻そうと抵抗する力も人の目を気にしている所為で全く問題にならなかった。本人達のそんな必死な攻防戦は傍目からみれば非常に仲良く手を繋いでいるようにしか見えない。しかし幸いな事に、教室から屋上に続く廊下や階段に人影はまばらで、二人の姿は殆ど誰の目に止まる事はなかった。
 
 

「うわ、予想外に寒ぃ〜!さすがは12月……ジャケット着て来りゃ良かった」
「当たり前だ馬鹿が。今日は降雪だと言っていたからな。ほら見ろ、空も曇って来ている」
「マジかよ。やっぱ天気予報って当たんのな。オレの晴れ男パワーも冬には勝てねぇか。…そういや、この間お前が学校に来た日は晴れてたよな。お前の雨男効果もたかが知れてるって事だな」
「だからどうした」
「別にどうもしねぇけど」

 バタン、と重苦しい音を立てて階段へと続く扉を閉ざしてしまうと二人は吹きすさぶ冷たい風の中立ち尽くした。城之内は弁当と騒いだ割に何も持たずに来た事に今更ながらに気づいたが、元々弁当に固執していたのは遊戯の方なのでまぁいいか、と呟いただけで終了する。城之内の目的は弁当じゃない。海馬と二人きりになる事だった。

「凡骨。屋上に来たのはいいが、肝心の弁当がないようだが」

 ややあって海馬の方は当初の目的に気づいたのか、剣呑な眼差しをこちらに向けてそう口にする。勿論それは彼が弁当を食べたいから、というわけではなく弁当の為にここまで来たのにそのモノがないとはどういう事だ、という意味だった。いかに分かり辛い相手とは言えその位は察する事が出来る。城之内はそれにわざとらしく「ああ、忘れた」と答え、更に「まあいいじゃねぇか」と言い切った。海馬の眦が更につり上がる。

「ふざけるなよ」
「ふざけてなんかねぇよ。大体、弁当弁当って言ってたのは遊戯だろ。オレじゃねぇもん」
「だが、貴様がここに連れて来たんだろう。しかも無理矢理」
「オレにはオレの目的があんの」
「ならばその目的とやらをさっさと果たせ。無駄な時間を取らせるな」

 イライラした様子を隠しもせず、吹き付ける冬の風と同じ位冷たく凍った表情で仁王立ちしてそう息巻く海馬の顔を眺めながら、城之内はここに来て内心大きな溜息を吐いてしまう。

 なんだろうなぁ、殺伐としたこのムード。

 遊戯のお陰で……というか単なる偶然でこんな時間を持つ事が出来たものの、この調子では何を言っても聞き流される気がする。そんな事を脳内でぐるぐると考えていると、段々と海馬の目が据わり始めた。ブチ切れる直前の表情。早くしないと、本気で怒りをあらわにしてこの場を立ち去ってしまうだろう。

 けれど、こんなにも近くにいる。手を伸ばせばいつでも触れられる位近くに。

「……貴様、いい加減に!」
「海馬」
「なんだ!」
「好きだぜ」
「何?」
「だからぁ〜好きだって言ってんの。お前の事」

 瞬間、二人の間を一際強い風吹き抜けた。

 身体の芯から凍えるような冷たいそれは、目の前の海馬の表情まで凍らせてしまったかの様だった。風圧に乱れてしまった薄茶色の前髪が、大きく見開いた青い目を覆い隠す。海馬にとってその台詞は余りにも衝撃的なものだったのだろう。暫くの間、彼の唇は「何」の形のまま動かなかった。

「ずっとそう思ってたんだぜ。ただ、言わなかっただけで」
「……………………」
「言わなくてもいいかな、とも思ってたんだ。別に不都合はねぇし。でも、やっぱり言いたくなった」
「……何故だ」
「そん位好きになったから」
「意味がわからん」
「分かんねぇの?分かんねぇならお前はオレ以下だな」

 凡骨の下ってなんだ?犬の骨?ただの骨?そんな事をいつものヘラヘラした調子で話しながらも、海馬を見る城之内の目は真剣だった。真剣すぎて、嫌と言うほどその思いを感じる位に。

 ── ふざけるのも大概にしろ、気色悪い。貴様また熱でも出して頭がやられているだろう、正気に返れ!

 即座にそんな台詞が浮かんだが、海馬はそれを口に出すことが出来なかった。それどころかこの寒い外気の中立ち尽くしているのに、少しも寒く感じない事に気づいたのだ。その二つの考えに繋がりは当然ない。めちゃくちゃだ。常に理路整然とを心がけている己の思考のとんでもない混迷ぶりに海馬は驚愕し、困惑した。また、乱されている。本当に意味が分からない。いつものペースが掴めない。この何もかもが足りない凡骨ごときに。

 いや、凡骨だからこそ、なのかもしれない

「おーい、海馬くん?大丈夫?」

 己の思考に入り込んで長い間沈黙していた海馬に、痺れが切れたのか何故か一歩近づいた城之内がひらひらと目の前で手を振ってそう言った。大分間近に迫ったその顔には何時の間にか深い笑みが刻まれ、どことなく余裕すら感じられる。いや、それは余裕と言うよりは何かをやり遂げた達成感だった。

 その笑顔に、また乱されていく。

「黙れ」
「黙れって。で、お前の答えはどうなわけ?」
「……答えとは?」
「いや、さ。オレはお前に好きだっていったじゃん?」
「聞いてない」
「聞いてるって。三回は言ったぜ。それでも聞いてねぇって言うんならもう一回言う?十回言う?」
「煩い!」
「じゃ、静かにするから何か反応くれよ。煩いとか黙れとか意味が分からないとかじゃなく、正直に」

 正直に、に殊更力を込めてそう言った城之内の顔を、海馬は改めて凝視した。何処までもしまりのない間抜け面。頼みもしないのに勝手に社に押しかけて、勝手に約束だと騒ぎたて、勝手に熱を出して約束を破り、そしてまた勝手に好きだと言って、答えはどうかと迫ってくる。本当に、本当に勝手極まりない馬鹿男だ。犬にも劣る凡骨だ。けれど。

 けれど、からかうと顔が歪んでしまうほど面白く……そして、唯一このペースを乱してくる男。

 好きか嫌いか。そう問われたら……。
 

「……まぁ、嫌いではない」
 

 そう答えるしか、ないだろう。
 

「……なんだよそれ。はっきりしねぇなぁ」
「貴様は正直にと言った。オレはその通り答えたまでだ」
「あっそ。ま、いいか。要するにお前もオレが好きって事ね」
「言葉が理解出来ないほどの馬鹿か貴様」
「お前は人間だから知らねぇかもしんねぇけど、犬の言葉では『嫌いじゃない』は『好き』って事なんです、社長」
「社長はやめろ。馬鹿犬」
「三回廻ってワンしてやろうか?」
「やってみろ、蹴り飛ばしてやる」

 そう言って海馬が本当に片足を上げた途端、遠くで予鈴が鳴り響いた。時計を見ると、昼休み終了五分前。そろそろ教室に戻らないと欠席扱いになってしまう。

「あーあ、結局弁当食えなかったな。授業中腹鳴ったらどうしよう」
「安心しろ、盛大に笑ってやる」
「……化けの皮が剥がれてもいいならやってみろよ。優等生海馬くん。……とりあえずいこーぜ。マジ欠席になったらヤバイからさ」
「もう一年ぐらいじっくりと勉強してみたらどうだ。貴様にとってはその方がいいかもしれん」
「うるせ。お前だって出席日数足りないくせに」

 外は相変わらず冷たくて、既に指先の感覚もなくなっていた。けれど、城之内の心の中は酷く暖かく、満たされた気分だった。急ぎ足で歩き始めたその背後に感じる海馬の気配。がっしりと捕まえたわけではないけれど、指先位は触れたのだ。これで少しは遠くなくなる。

 錆ついた灰色の扉に手をかけ、中に入るために押し開く。ギィ、と鉄が軋む音が大きく響いた。その時だった。

「おい、凡骨」
「なんだよ」
「貴様が妙な事を言った所為で、雪が降り出したぞ」

 ほら、と海馬が外を指差すと、そこには確かに雪が舞っていた。何時の間にか強く吹きすさんだ風は止み、穏やかに降り落ちてくる。晴れでもなく、雨でもない。白い、粉雪。

「オレらが揃うと、雪が降んのかな。ほらさっきも言ったけど、オレは晴れ男で、お前雨男だし」
「……阿呆が何を言っている。その二つに関連性はない上に、もしそうだったとしても夏はどうなる。春は、秋は?」
「細かい事はいいじゃねぇか」
「フン、馬鹿と話していると頭が痛くなるからもう行く」

 聞こえよがしにそう毒づくと、海馬は扉を開けたまま立ち止まった城之内の横をすり抜けて一人先へ行ってしまう。足早に階段を下りていくその後姿に、城之内はもう一度背後を振り仰ぐと、ゆっくりと扉を閉めた。それと同時に大分離れた場所から怒鳴り声が聞こえてくる。

「凡骨!何をぐずぐずしている!」

 幾重にも反響するそれに慌てて駆け下りて行けば、声の主は踊り場で待っていた。さっさと先に行けばいいのに、意外と律儀に立ち尽くしている。

「顔が怖いぜ海馬くん。早く猫被れよ」
「やかましい」
「でも、オレはこっちの方が好きだけどな」
「つきあってられん」

 ふいっと顔を背けそれきり振り向きもせずに先を行く海馬の背を追いながら、城之内は一人ほくそ笑むと直ぐに走って後を追った。二人の距離は徐々に縮まり、やがて教室の前に行く頃にはゼロになる。

「オレはマジだからな」
「犬の言葉は理解できないと言っている」

 ガラリと開けた扉の向こうに見える二つの空席。その奥にちらつく硝子越しの細雪。海馬の身体が扉をすり抜けるその一瞬、城之内は彼の冷たい指先を握り締めた。
 

 12月1日。童実野町に初雪が観測されたその日の出来事は ──

 ── 後に、二人にとって、忘れられない記憶の一つとなる。