Act4 Slight fever

「ねえ兄サマ、なんか顔色悪くない?今日学校で何かあったの?」
「学校で……いや、何も、ない。あるわけがないだろう」
「そんなにムキになる事ないじゃん。ちょっとおでこ貸して」
「何故だ」
「いいからそこに座って。ちょっと動かないでね……うーん、やっぱり熱があるみたいだけど。オレよりもあっついぜぃ。ほら、首のとこも」
「…………熱?」
「今日は寒かったからなぁ。だからコート着て行った方がいいって言ったのに。言う事聞かないんだもんな」
「………………」
「早く横になった方がいいよ。オレ、メイドに言って薬とか貰ってきてあげるから」

 ね、と有無を言わせない調子でそう言うと、モクバは直ぐに瀬人の額に触れるために足を乗り上げていたソファーから飛び降りると部屋の外へと駆け出していった。ぱたぱたと軽い足音が徐々に遠ざかっていくのを聞きながら、瀬人は深い溜息を吐くと未だ着込んだままの紺の学ランを脱いでしまおうと立ち上がろうとする。

 その瞬間、くらりと視界が揺れて浮きかけた身体は再びソファーへと沈み込んだ。ズキズキと頭の芯が痛む気がする。モクバの言う通り、風邪でも引いたのかもしれない。そう思うと、酷く顔が熱く、それに反して身体にぞくぞくと寒気が襲って来るようだった。一旦気づいてしまうとその変化は凄まじい。

「……くそっ、あの凡骨風情め。奴が屋上などに誘い出すからこんな事になるのだっ」

 今日はやる事が山ほどあるのに、ふざけるな!そう無意識に口から吐き出した悪態に知らず怒りを覚えながら、瀬人は些か乱暴な仕草で窮屈な制服を脱ぎ捨て、幾分楽な部屋着に着替える。

 この調子では起きている事は困難だとは分かっていたが、学校に行く為にびっしりと詰まったスケジュールに無理矢理穴を抉じ開けたのだ。その皺寄せは解消しなければならない。そうしないと、全てが行き詰ってしまうからだ。

 瀬人は殆ど気力でソファーから立ち上がり、クローゼットから一枚分厚い上着を取り出して肩に羽織った。身体が震えるほど感じる悪寒対策のためだったが、身内から襲ってくるそれに当然意味はなかった。けれど、そんな事に構ってはいられない。

 眩む視界を忌々しく思いつつなんとかパソコンのあるデスクまで辿りつくと電源を付け、ディスプレイを凝視した。立ち上がり青く明滅するそれに吐き気がしたが、やはり気力で堪えて向き合った。

 アメリカで極秘裏に進めて来たプロジェクトの本格始動。今冬のクリスマス商戦への対策。ソリッドヴィジョンのバージョンアッププログラムの構築……どれも期限が短いものばかりで余裕など一欠けらもない。

 まるで追われる様にキーボードを操りながら、瀬人は目の前を流れていくデーターを凝視する。視界がぶれ情報を入手するのにいつもの数倍時間がかかったがなんとか今日の分まで追いつくと、頭の中でそれらを整理し、自分とそれ以外の人間が手がける事を区分けして、指示を出そうと電話を取った。

 しかし内線を押し、即座に答えた部下の一人に言葉をかけようとして、出来なかった。変わりに飛び出したのは、激しい咳の衝動だけ。そして何時の間にか、声まで出なくなっていたのだ。

 マズイ、と思った時にはもう遅かった。

 ガシャリと派手な音がしてコードレスの受話器が瀬人の手から落下し、床に転がる。そのまま瀬人もぱたりと力を失って机上に伏した。床の上から事態を把握しきれない部下の必死な叫び声が聞こえる。しかし、その声は既に意識を失った瀬人には届かなかった。

「兄サマ、薬貰ってきたから早く……」

 暫しの沈黙の後、漸く帰ってきたモクバが部屋の扉を勢い良く開く。彼はその言葉通りメイドに貰ってきたのだろう薬を手にして今日は直ぐに寝るようにと言いに来たのだ。しかし、扉を開いた途端目に飛び込んできた光景にその勢いは完全に殺がれ、絶句する。

「兄サマ?!ちょっと、しっかりしてよ、兄サマ!」

 慌てて駆け寄って、ぐったりと机に伏すその手を取った瞬間、モクバの口から悲鳴にも近い声が上がる。彼はすぐ様転がった受話器を拾いあげると、未だ切る事無く瀬人の名を呼ぶ部下の声を遮り、磯野を呼んで!!と怒鳴りつけた。
 

 
 

『だからぁ〜好きだって言ってんの。お前の事』

 瀬人の意識が外界と完全に遮断される直前、静けさの中でつい数時間前に投げつけられた城之内の間抜けな言葉が聞こえてくる。殆ど無理矢理付き合わされる事になったあの寒い屋上で、彼が瀬人に向かって口にしたのはそんな下らない告白だった。そして畳みかけるようにお前はどうなんだと押し付けられた。

『……まぁ、嫌いではない』

 何をわけの分からない事を、と思いつつ。そこに嫌悪だけはなかった為、つい曖昧な返事を返してしまった。どうして即座に嫌いだと切って捨てなかったのか、それは瀬人にも分からない。

 それにしても、何もあんな場所で言う事もないだろうに。貴様のお陰で縁のない風邪まで引いたわ!忌々しい、どうしてくれようあの雑魚を……!

 そんな事を思いながら、瀬人はついにその意識をも失って、本格的に倒れてしまう。
 モクバの声も、その後大げさな程に騒いだ周囲の声も、自分の身に施された処置も何もかも分からずに、瀬人は深い眠りの中で、
 

 ── 覚えていろ、城之内。とだけ呟いた。
「流行性感冒だって。ようするにインフルエンザだね。兄サマ、アメリカで貰ってきたでしょ」
「そんなわけあるか」
「だって、まだ日本で流行ってないタイプの奴って言ってたよ。第一号かも」
「……屋上で長時間吹き曝しにあった所為ではないのか」
「え?なんか言った?」
「いや、別に。それよりモクバ。インフルエンザならお前はここにいない方がいい。感染るぞ」
「オレなら大丈夫だぜぃ。今年の予防接種ばっちり受けたし、兄サマみたく弱ってないし」
「……なんだ、その弱ってるとは」
「インフルエンザっていうのは免疫力の低い人間からかかってくものなんだって先生が言ってたし。兄サマ、働きすぎて疲れてたんじゃないの?そういえば全然休みなかったって言ってたもんな」
「別に、そんな事はない」
「丁度よかったじゃん。お休み貰ったと思ってゆっくりすれば。仕事の方は磯野に上手くやるように言っておくからさ。そこにあるパソコンと書類は没収するから。熱下がるまで何もしちゃ駄目だぜぃ」

 じゃ、そういう事で。と口にしながら先程からやけに嬉しそうにベッドサイドではしゃいでいたモクバは、瀬人が寝ながらでも出来るようにと持ち込ませた仕事道具を予め用意していたらしいワゴンの上へと乗せ上げてしまう。傍に控えていたメイドの一人にそれを自分の部屋まで持っていくようにと指示しながら、モクバはやはりにっこりと口元に笑みを浮かべて一旦立ち上がった椅子に再び腰かけた。

「兄サマは大変だけど、オレは兄サマと一緒にいられるからすっごく嬉しいよ。今日、オレここに泊まるから」
「……いや、いい。幾ら予防をしたからと言って、絶対感染らないとも限らんからな」
「感染ったら感染ったでいいもん」
「モクバ」
「いいでしょ。オレ、一ヶ月ずっと一人だったんだぜ?こんな機会って滅多にないし……ね?兄サマ」

 折角同じ家にいるのに、バラバラじゃ寂しいよ。そう言って殆ど懇願し始めたモクバをこれ以上退ける気力は瀬人にはもう残っていなかった。呼吸をするだけで酷い息苦しさを感じるこの状態では何者をも拒めはしない。もう疲れた、好きにしてくれ。そう途切れ途切れに口にした瀬人に、モクバはやはり嬉しそうに「うん、好きにする。ここにいて兄サマの看病をするよ!」と応えた。

 オレが熱を出して寝込むのがそんなに嬉しいのかモクバ。お前には情けと言うものがないのか?オレはお前をそんな薄情な人間に育てたつもりはない。……そう心の中でボヤキながら、それでも何故か悪い気はしなかった。上かけの上に放り出されるように置かれた瀬人の手を握り締めてくる、いつもは大分暖かいと感じる指先は、今はひやりとしてとても心地がいい。

 その指先の温度に、瀬人はふと再び昼間の事を思い出した。
 ほんの一瞬、この手を握り締めた、あの指先の事を。

 ── だから何故今奴の事を思い出すのだ!

 そう心の中でキレたところでそれをどうにかしてくれる人間などいやしない。

 瀬人は身体に篭った熱い熱を吐き出すように、大きな吐息を一つ吐いた。そう言えば、あの男には明日も学校へ行くからと言ってしまった。別に今日の事があったからというわけではなく、今学期の期末考査が日程の関係で受けられない為、一人で先に受けさせて貰う事になっていたからだ。それさえ終えれば後は仕事に専念出来るはずだった。それなのに、こんな事になってしまうとは。

 余計な事を言わなければ良かったと、瀬人は心底後悔をした。

 大体何故あの男に自分の登校日程を知らせなければならないのか。10月のあの日以来何故かそうしなければならないような気がして、自然と口を滑らせてしまったのだ。全く、自分の間抜けさ加減には呆れ返る。

『マジで?お前二日連続で学校くんの?すっげぇ!じゃあ明日こそ一緒に弁当食おうな!』

 それでも、その不本意な一言に対して目をキラキラ輝かせて喜ぶその様はどこか憎めない気がして、まあ仕方ないという気分にさせられた。それこそ、不本意な話だったが。

 明日もし顔を見せなかったら、城之内は自分に何かあったと勘ぐってここまで来てしまうだろうか。何もなくても勝手に押しかけてくる男である。熱を出して寝込んでいるなどと知ったらそれこそ大騒ぎで飛んでくるかもしれない。それはちょっと……嫌、大分鬱陶しい気がした。想像するだけで良くなるものも悪くなるような、そんな憂鬱感に捕らわれる。

 そんな事にならないためにも工作をしなければならないと瀬人は思った。幸い理由は幾らでもある。一番無難なのは急な仕事が入った、これだろう。大体無理して学校に顔を出す必要など全く無いのだ。テストの日程なら変えればいい。それ以外で学校に行く理由など今のところ何もないのだから。

 とりあえず、担任にメールを打とう。明日はいけなくなったので、日程を変更して下さい。この一言を送れば事足りる。後は遊戯にでも同じ内容を送信すればいいのだ。そもそも瀬人は遊戯にしかメールアドレスを教えていないから、必然的にメッセンジャーは遊戯になる。彼も城之内同様瀬人の連続登校を喜んだ一人だから、明日休むのメールを送っても不自然ではないだろう。そう、頭の中で理屈を通し、瀬人は早速それを実行しようとする。

 熱に浮かされた身体では既に目を開けるのすら億劫だったが、何がなんでもこれだけはしておかなければ、と気力を振り絞って意識を浮上させる。結構な苦労をして目を開けて携帯のありかを探すが見つからない。ここには持ち込まれていないのだろうか。そう思い小さく溜息を吐くと、瀬人は未だ手を握り締めたまま、退屈しのぎだろう本を読み始めていたモクバの名を呼んだ。

「……モクバ」
「うん?何、兄サマ。どうかした?」
「オレの、携帯は?」
「携帯?ああ、携帯なら多分書斎に置きっぱなしだぜぃ。まだ制服の中にでも入ってるんじゃないの?」
「……すまないが、持ってきてくれないか。メールを打ちたい」
「だーめ!」
「何?」
「だから駄目。全部駄目っていったでしょ。メールも駄目に決まってんじゃん」
「……明日の事を連絡したいだけだ」
「じゃーオレが打ってあげるよ。誰に、どういう内容を打てばいいの?」

 なんとしても兄を休ませたいという一心か、モクバは瀬人の要求を全て却下すると、そんな事を言いだした。その提案に瀬人は一瞬目を瞠ったが、抵抗しても無駄な事を先程嫌と知ったため、比較的素直に頷いた。特に重要な内容でもないし、とにかく自分が明日休むという事さえ伝わればいいと、そう思ったのだ。

「……では、オレの担任と遊戯に明日は欠席するという連絡をしてくれ」
「明日学校行く予定だったんだ。了解。担任のメールアドレスは何で入ってる?」
「……多分、そのまま「担任」になってると思う」
「兄サマって結構その辺適当だよね。えーと、後遊戯ね。なんで遊戯?」
「一応明日も行くと言ってしまったからだ。その辺はどうでもいい……あ、理由は、急な仕事だと入れておいてくれ。余計な事は一切書くな」
「仕事?インフルエンザにかかりました、じゃなく?」
「そんな事書いてみろ。面倒くさい事になる」
「……ふーん」
「……頼んだぞ」
「はーい。じゃ、大人しく寝ててね。兄サマ」

 メールメール、と口ずさみながら部屋を出て行くモクバの後姿を見送る前に、瀬人は力尽きたように僅かに浮かせた頭を枕に戻した。モクバは自分の言うことは必ず聞く、心配ない。そう一人安堵し、今度こそ何も考えずに眠りに付こうと姿勢を楽にし、瀬人は大きく息を吐いて目を閉じる。直ぐに訪れた眠気に彼はそのまま身を委ねた。

 しかし、瀬人の安堵は弟のメールによって、あっさりと覆される事になるのである。
 

── 遊戯へ。兄サマはインフルエンザにかかったから明日学校に行けないぜぃ。お前も気を付けろよ。<モクバ>

 

2


 
「……うっわさっぶい。死ぬ!ありえねぇ」

 身を切るような冬風が剥き出しの手や頬を嬲って吹き抜けていく。限界まで身を縮こまらせ、体温を保つ為に忙しなくその場で足踏みをしても一向に改善しないその寒さに、城之内は今日の弁当代でもある500円から泣く泣く120円を投資して暖かいコーヒーを手に入れた。プルトップを空けた瞬間白い湯気をくゆらせたそれに口をつけ、喉元を通り過ぎていく熱さにほっと一息付きながら、彼はどんよりと曇った空とそこから降り落ちてくる雪を眺めていた。

 足元は既に真っ白で、この冬の為に気張って新調した黒のブーツが既に半分めり込んでいる。この時期に足元が埋る程の降雪は珍しく、やっぱり昨日のアレが雪おこしになったのではないかと、そんな馬鹿な事を考えてしまう。

『好きだぜ』

 その一言を口にするのにどれだけ長い時間をかけたのか、相手である海馬には絶対に分からないだろう。特に分かって貰う必要もなかったが、冗談や気の迷いの類でない事だけは念を押しておかなければならないと思った。

 昨日の海馬の態度を見るに、どうにもこちらの発言を信用している素振りはなく、馬鹿がまた世迷言を吐いている、位の認識しかなさそうだった。城之内にとっては一世一代の、清水のなんとかから飛び降りる勢いで口にした告白をそんな風にスルーされたら悲しすぎる。受け入れられるにしろ拒否されるにしろまずは信用が第一だった。

(……と言っても、既に約束破りの烙印押されてっしな。こりゃ難しいかも)

 10月の第3水曜日。忘れもしないあの日。成り行きで取り交わした約束を海馬は忠実に守ってくれた。にも関わらず自分は情けなくも熱を出してその日学校に来る事が出来なかったのだ。不測の事態とは言え、殆ど強引に取り付けた約束を反故にしたのはさすがにまずかったと、大分時の経った今でも苦々しく思い出してしまう。

 けれど、悪い事ばかりでもなかったのだ。あの日、海馬はわざわざ城之内の家まで足を運び、かなりぞんざいな態度であったが、薬や食事を提供してくれたのだ。あの時の彼の行為は一人寂しく熱に魘されかなり弱っていた心と身体をとても楽にしてくれた。辛かったけれど、一瞬凄く幸せだと思ったのだ。……思えばあれが決定打になったと言っても過言ではない。

 はぁ、という盛大な溜息と共に白い塊が眼前を曇らせた。手にした既に空っぽの缶はすっかり冷え切っていて、折角暖めたはずの指先がまた悴んで来る。缶をゴミ箱に投げ捨て、両手に息を吹きかけて暖めながら、城之内はちらりと左腕の腕時計を眺めた。8時10分。いつもならとっくに遊戯が姿を見せている時間だ。こんな寒い日だから寝坊でもしてるのだろうか。そう思いつつ特に気にせずまた空を見る。空を見れば考えてしまうのは昨日の事で。

『……明日も来る。期末考査を前倒しして受けねばならないのでな』

 別れ際、酷くぶっきらぼうにそう言ってそっぽを向いた海馬の顔。特にこちらから尋ねたわけでもないのに親切にもそんな事を教えてくれたのだ。それに思わず喜びをあらわにすると、海馬は怪訝な顔をして首を傾げていたが、別段不機嫌な様子はなかった。と言う事は、少なくても普通に付き合う気はあるらしい。そうでなければ、わざわざ言わなくてもいい予定を口にしたりはしないはずだ。今までだってそんな事はあの10月の第2週しかなかったのだから。

 そう考えると強ち未来はそう暗いものでもないらしい。大体思ったよりも海馬は気難しい人間ではなかった。その事はこの数ヶ月で自分が一番良く知っている。後は自分が唯一誇れる粘り強さで押していくしかない。そうしよう。そう密かに決意をすると、城之内は再び腕時計に目をやった。まだ遊戯の姿はない。いい加減迎えにいったほうがいいのかと思い始めたその時、背後から本田がこの雪の中ふらつく自転車を操ってやって来た。

「おーい城之内ぃ〜」
「……お前この雪の中チャリこいで来るなよ。余計遅いんじゃねぇの?」
「オレも今そう思ったとこだ」
「おせぇよ、馬鹿」
「うるせぇな。ああ、そんな事より。今日は遊戯、休みだって言ってたぜ。風邪引いたとかなんとか……杏子がそう言ってた。お前が待ってるだろーと思って知らせに来てやったんだぞ」
「あ?休み?」
「そうそう。だから早く行こうぜ。急がねーと遅刻すっぞ」

 ふーやれやれ、と高校生らしからぬオヤジ臭い溜息を吐きながら、本田は殆ど用を成さなかった自転車から降りて、小脇に抱えつつ早く行くぞと急かして来る。それに後ろ髪を引かれる思いで遊戯の家がある方向を振り返りつつ、城之内は先を行く本田の後ろを早足でついていった。

(遊戯今日も来れねぇのか、あいつよっぽど海馬の弁当と運がないんだなきっと)

 昨日の昼休み終了後、しょんぼりと席に着き恨めしそうにこちらを見ていたあの視線は忘れられない。その後オレ達も昼飯は食い損ねたと必死でフォローに回ったものの、余り効果はなかったらしい。「明日こそ絶対ね!」と殆ど喧嘩腰だろそれ、な台詞を残して去っていった後姿がなんだか物悲しく思い出される。

「………………」

 遊戯には気の毒だが、今日彼がいないと言う事は海馬と二人きりになるチャンスが増えたという事で。告白の次の日と言うタイミング的にはかなり美味しい今日という日をなんとしても有効活用しなければならない。よっし、このチャンスは絶対生かすぜ城之内。遊戯の屍を超えていけ!と一人意味不明な事を呟きながら自然とスピードの上がる足も気に留めずに、彼はひたすらいつもはただ憂鬱なだけの学校へと向かったのである。
「おはよう城之内!ギリギリね〜やっぱり遊戯を待ってたんだ?」
「おう。さすがにちょっと遅いと思ってたけどよ」
「ごめんごめん。私てっきりあんたには連絡行ってると思ったのよ」
「あー最近オレの携帯電源入れてねーからな」
「使えないわねーなんの為の携帯よ」
「別にいいだろ。困ってねぇし」

 教室に着いて早々、二人の姿を見て駆け寄ってきた杏子を適当にあしらいながら城之内は浮かれる気持ちを抑えつついの一番に視線を自席の横へと走らせ、常と同じく空席である事に目を瞠った。それが普段の日ならば特に問題はない。けれど、今日は海馬がわざわざ登校する、と宣言した日なのだ。それなのに何故姿が見えないのだろう。

「………………」

 ぽっかりと空いた窓際の二席を眺めながら、城之内は暫し無言でその場に立ち尽くした。途端に途切れてしまった会話に杏子が不思議そうに顔を覗き込んでくる。

「……?どうしたの?」
「あ、いや。姿が見えねぇなぁ、と思って」
「誰の?」
「海馬」
「海馬くん?……昨日来たばっかりじゃない。当分来ないわよきっと」

 杏子にとっては思いもかけない言葉だったのだろう。彼女はきゅっと眉を寄せていかにも不可解だといった表情を見せた。そりゃそーだよな。お前にとっては本当にどうでもいい話だもんな。そう心の中で呟いて、城之内はそのまま杏子に背を向けて、さっさと自席へと歩いていった。同時に本鈴も鳴り響く。もしかしたらギリギリに来るかもしれないと、扉の方を注視してみたが、前後どちらも開く気配はなかった。

「……なんだよ。来ねぇじゃん」

 思わず愚痴めいた言葉が唇から零れ落ちる。落胆する気持ちのまま城之内は鞄を机の上に無造作に投げ捨てて、やや乱雑な仕草でどかりと椅子に腰を下ろした。つい昨日、すぐ横を見れば視界に入った長身が、影も形もない事実。一昨日まではそれが当たり前だったのに、今は何故こんなに寂しく目に映るのだろう。

 程なくして、いつもの様に担任がやって来てHRが始まった。出席を取る際に彼の口から遊戯の欠席は伝えられたものの、海馬に関しては特に触れる事はない。欠席が常の彼の扱いなどそれが普通だった。普段なら特に気にする必要もなかったが、今日は特別な日である。どうしても納得のいかない城之内はHR終了後即座に担任の元に駆けつけ、その理由をそれとなく聞いてみた。すると担任は、僅かに怪訝な顔を見せた後、至って普通にこう返してきたのである。

「海馬?ああ、確かに今日試験の前倒しで来るとか言っていたんだが、急な仕事で欠席すると昨日メールが来た。それが、どうかしたか?」
「仕事?」
「それ以外には特に何もなかったぞ。なんだ、またプリントでも持っていってやるのか?お前等最近仲がいいな。M&Wで友情でも芽生えたか」
「……や、そんなんじゃねぇけどよ」
「期末考査関連のプリントは今日も出る筈だから暇ならまた持って行ってやってくれよ。ついでに次の登校日は何時になるか聞いてきてくれ」
「オレは海馬のお使いじゃねーっての」

 言うだけ言って授業の為に去ってしまった担任の後姿を眺めながら、城之内は肩を落とす程の深い溜息を吐いていた。離れた場所で本田の呼ぶ声がするが、振り向く気力もない。昨日が昨日ゆえに僅かな期待をしていた分落胆は大きく、ちょっとやそっとでは立ち直れなかった。今日の欠席が故意であろうとなかろうと、自分が最優先ではなかったと言う事実は変わらない。

 やっぱり、オレが思ってる程あいつはオレには関心なんてないし、優しくもマメでもないんだろうな。そう思うと折角幸せだと浮かれていた気持ちが一気に沈む。

「おいっ城之内!てめぇ返事しやがれ!」
「……今それ所じゃねーんだよ!」
「あぁ?なんか急にご機嫌ナナメじゃないの」
「ほっとけよ」
「な、今日遊戯んとこ見舞い行くだろ?杏子は行くって言ってっけど。お前はどうする?」
「見舞い〜?お前、オレん時には来なかったじゃねぇかよ!」
「そうだっけ?んなスネんなよ。今度ぶっ倒れたら必ず行ってやっから。林檎持って」
「いい。お前の顔見ると治るもんも治らなくなりそうだし」
「なんだとコラ!」
「ちょっとあんた達!次は選択授業でしょ、早く移動しなさいよ!」

 無駄に絡んでくる本田を全力で振り解きながら、城之内は次の授業である体育に出席すると言って上着と鞄を持ってその場から駆け出した。勿論、授業に出席するつもりなどさらさらなく、行き先は出入りがバレにくい職員用出入り口。幸いな事に授業が別の本田も杏子も追って来る様子はなく、丁度良く始業時間と被った為人気のないそこを難なく通り抜け外へ出た。

 外では相変わらず細雪が降っていて身に染みるような寒さを感じる。海馬がこない、ただそれだけの事なのにこんなにもやる気をなくしてしまった自分に苦笑が漏れる。……この調子でオレ卒業できんのかなぁ。ぽつりと呟いた言葉はやけに大きく耳に届いた。今日で落す単位は幾つ、と指折り数えつつそれでも足は学校から離れていく。

 振り向いても視界に校舎が入らない場所に来て、城之内は始めてゆるりと立ち止まり、ポケットの中をまさぐった。そして、文字通り携帯するだけで何の役にも立たない携帯を取り出して、何日ぶりかに電源を入れる。途端に舞い込んでくる幾つかのメールは全て無視し新規画面を立ちあげると、彼は徐に短いメール文を作成した。

 ── 今から見舞いに行く。リンゴは無しだけど。

 打ったメールは即座に遊戯の元へと送信された。送信しましたの画面を満足気に眺め、直ぐにまた電源を切ってポケットに入れてしまうと、城之内は幾分軽い足取りで再び雪道を歩き出した。

 ほんの少しだけ、寂しい気分だった。
「……兄サマ。オレ、学校に行かないで、今日一日そばにいようか?」
「……何を馬鹿な事を言っている」
「だって、兄サマ寂しいじゃん。熱も全然下がらないし」
「寂しいわけないだろう。……いいから行け、遅刻するぞ」
「でも……」
「モクバ」

 強くその名を呼んだ途端、瀬人は激しい咳にみまわれる。昨夜からしつこく続くその咳によって腹筋は既に常にない程疲労していて、痛みすら感じていた。最近病気らしい病気を一切経験していなかった瀬人は、突然訪れた悪性のインフルエンザに対抗する術を全く身に着けてはいなかった。結果、夜通し体内のウイルスに翻弄され、まだ発症してから一日だと言うのにその身体はすっかり憔悴しきっていた。モクバが心配するのも無理はない。

 しかし自分の為に彼の生活に支障が出る事を一番厭っていた瀬人は、不安げにベッドサイドに佇み己の手を握るその身体を突き放そうと必死だった。それでなくても一晩中つき合わせてしまったのだ。これ以上迷惑をかけるわけにはいかなかった。

「……オレは、お前が、学校に行ってくれた方が……気が休まる」
「またそんな事言う。嘘ばっかり」
「……本当だ。押し付けられるのが嫌なら、言い方を変える。……頼むから、学校へ行ってくれ」
「………………」

 最後は殆ど懇願だった。さすが二人は血の繋がった兄弟である。相手をやり込めるそのやり口は驚く程酷似していた。モクバは何時にない瀬人の熱に潤んだ真剣な眼差しと、力が入らないなりにも精一杯自分の手から逃れようとしている指先に、ついに肩を竦めると、大きな溜息と共に「……わかったよ」と口にした。

「じゃあ、学校に行って来る。直ぐに帰ってくるから。それまで、頑張ってね、兄サマ」
「ああ」
「オレがいないからって、仕事持ち込んじゃ絶対駄目だからね。尤も、兄サマには触れないところに書類、全部隠しちゃったけど」
「………………」
「誰か側にいるように言おうか?」
「いい。一人の方が楽だ」
「苦しくなったら直ぐに誰か呼ぶんだぜ?兄サマは変に我慢するから悪いんだ」
「……分かってる」

 汗で頬に張りついた髪を指先でかきあげながら、モクバは念を押すように何度も同じ言葉を繰り返した。……これでは、どちらが兄で、どちらが弟か分からない。

 瀬人はまるで自分のものではないような重い腕を苦心して持ちあげると、やはりぐずぐずとその場を去ろうとしないモクバの手を掴んで引き離す。その仕草に、漸く諦めがついたのか、モクバは緩慢な動作でくるりと踵を返すと、やや早足で部屋を出て行った。いつもよりも10分のタイムロスがあったのだ。

 徐々に遠ざかっていく聞き慣れた足音を耳にしながら、瀬人は漸く深く大きな溜息を吐き、目を閉じた。熱や咳で蓄積した疲労が全身にのしかかり、ずっと横になったままだというのに、普段の倍身体が重い。少しでも動かすと節々の痛みが襲ってきて身動きすら取れない。

 たかがインフルエンザと侮るなかれ、その脅威を身を持って体験した瀬人は、来年から少し真面目に予防対策を講じようと今更ながら思案した。

「………………」

 それにしても、静かだった。たった今まで二人でいた部屋に一人取り残された形となった瀬人は急激に音の無くなった室内に耳を傾け、その静けさに嘆息する。眠る以外する事のない退屈な時間。近くにある置時計の秒針だけが無音の空間に響く唯一の音だった。その静寂を破るかのように、時たま煩わしい咳の衝動が訪れる。その繰り返し。

 いい加減辟易して、既に温み用の成さなくなった額のタオルを毟り取り、瀬人は身を縮めて自身の汗で湿ってしまった場所から少し移動した。冷やりとしたシーツが火照った身体を優しく包み、その心地よさに僅かに顔の筋肉が弛緩する。それでも、苦しい事には代わりがなかった。

 熱が出るとは、こんなにも辛いものだっただろうか。

 久しく忘れていたこの感覚に、今まで比較的健康だったらしい我が身を思いながら、瀬人は薄目を開けて誰もいなくなったベッドサイドの少し高い子供用の椅子を見つめる。そこにはつい先程までモクバがずっと居続けて、あれこれと献身的に世話をしてくれていた。

 多分殆ど眠っていないのではないだろうか。あれでは学校で居眠りをしてしまうかもしれない。可哀想な事をした。弱った心の中に浮かぶのはそんな罪悪めいた感情ばかりで、暗い気持ちをますます暗くしていくようで。本当に情けないと、とどめとばかりに己を嘲り、暖かな羽布団を顔まで被った。

『だって、兄サマ寂しいじゃん』

 こうして一人でいると、寂しいというより憂鬱だった。他に気を向ける対象がないから自らが抱える痛みや苦しさと向き合うしか術はない。咳き込んだり呻いたりしたところで手を差し伸べてくれる人間はいないのだ。そんなドス暗い気分に頭まで漬かって、いい加減悲しくなってきた所に、ふとある記憶が蘇る。

 部屋の隅で、同じように布団を頭から被り、身を縮めて息を潜めていた奴の事を。

 ……あの男も、あの時こんな気分だったのだろうか。

 返事がない事に即座に頭に血が上り、他人の家だというのに勝手に上がりこんでそれらしき物体を目にした瞬間、考える間もなく妙な形に膨らんだ布団を捲り上げたあの時。一番最初に見た城之内の顔は、今にも泣きそうな、なんとも情けない顔をしていたのだ。その情けない顔が、自分の姿を捉えた瞬間驚きに変わり、そしてどことなくほっとした表情に変わった。

 その後即座に怒鳴りつけてしまった所為で直ぐにそれは消えてしまったのだが、あれはまるで救いの神を見た哀れな民そのものだった。思わず、普段はモクバ相手にしか出すことのない「優しくしてやろう」という気持ちが少し沸いてしまった位に。

「……だから、なんだというのだ」

 そこまで考えて、思わず呆れた声が吐き出される。そう、あの時自分がそんな気持ちになった事がなんだというのだろう。今の自分が、あの時の城之内だとでも言いたいのか。そしてあの時の自分のように、誰かに……誰とは言わないが誰かに、来て欲しいとでも言うのだろうか。全く馬鹿馬鹿しい。どうかしている。誰にいうともない自己弁護が瀬人の心の中で繰り返される。

 これは熱があるせいだ。そうに違いない。

 何時の間にか瀬人の内心を満たしていた、そんな情けない考えを一掃すべく、全てを『熱の所為』の一言で片付けてしまうと、瀬人はこれ以上何も考えずに眠りに付こうと、再びきつく目を閉じて、思考も閉ざした。

 小さく聞こえる秒針の音が、徐々に遠くなっていく。これでやっと眠りにつける。そう思い瀬人は心の底から安堵した。けれど同時に、少しだけ寂しいと思った。

 ほんの、少しだけ。

 

3


 
「……城之内くん!学校は?」
「今日は雪降って面倒だったからサボった。なんだ結構元気じゃん、遊戯」
「うん。熱もちょっとしかないんだけど、こんな天気だから大事を取りなさいって、母さんが」
「そりゃ尤もだ。酷くなったら大変だもんな」
「えっと、お茶でも飲む?そこの林檎食べてもいいよ。僕もういらないから」
「見舞いに来た人間に気ぃ使うなよ。寝てろ。すぐ帰っから」
「あ、ごめんね。でも城之内くんが来てくれてよかった。午後からは母さんが帰ってくるって言ったけど、一人じゃ退屈だし、ちょっと寂しいし」
「だよなー熱出た時ってなーんかこう気弱になるっつーか、心細くなるんだよな。分かる分かる。じゃオレ、お前の母さんが来るまでいてやるよ」
「母さんが帰ってきたらお昼ご飯作って貰えばいいよ。城之内くんの為なら張り切って作ると思うよ」
「……お前、オレが昼飯たかりにきたみたいな言い方すんなよ。参ったなぁもう」

 うんうん、と頷きながら遊戯が座るベッドの横に椅子を引き寄せて腰をかけた城之内は、勧められた小皿に手を伸ばし綺麗に切り分けられた林檎を一つ摘まんだ。風邪を引いた時に一番好まれる尤もポピュラーな果物。しゃく、という小気味いい音と共に口の中に広がる甘酸っぱい果汁は今年に入って始めて口にするもので、冬の到来を改めて感じさせられる。普段は面倒で皮ごと噛りつくのだが、やはり林檎はウサギ型が一番だ、などと思ってしまう。

 遠い昔、自分がまだ母親と暮らしていた頃、冬になると食後に当たり前のように差し出されたそれを懐かしく思い出しながら、城之内は一つ、また一つと消費し、最後には皿の上は空になった。

「あ、やべ。マジで全部食っちまった」
「いいよ。美味しかった?」
「うん。美味かった……病人の食いモン奪うなんてイヤシイ奴だよな、オレ。なんか悲しー」
「なんでさ。もう一人の僕もさっき勝手に蜜柑食べてたけど」
「そういや、こういう時あいつってやっぱ出て来ねぇの?」
「好き好んで苦しい思いはしたくないんじゃないかなぁ。大体冬はあんまり出てこないよ。寒いのはいやなんだって」
「そっか。エジプト人だもんな。でもいいよなーそういうの。辛い時や苦しい時はさっと奥にひっこめるんだもんな」
「たまに変わってくれる時もあるよ。結構優しいんだ、もう一人の僕」

 へぇ、まああいつもお前の事大事にしてるもんな。羨ましいぜ。そう何とはなしに呟きながら、城之内は隣の遊戯から少し離れた場所にあるカーテンを開け放した窓を見遣った。相変わらず灰色一色に染まった空には雪がちらつき、見るからに寒そうな冬空だ。

 手前の家が邪魔をして良くは見えなかったが、この方角の遥か彼方には確か海馬コーポレーションがある。デザイン的にはどうみても異様な童実野町のシンボル的建物にも、この雪は積もっているのだろうか。去年の冬まで余り気にした事がなかったから実際はどうか分からない。今度よく見ておかなければ。そこまで考えて、知らず大きな溜息を吐く。

 こんな時まで思い出すのはやっぱり海馬の事で、これだけ見事に約束を破られておきながらも余り怒りは湧いてこない。ただ、酷く残念なのだ。残念で、悲しくて、落ち込んでしまうほどに。

 そんな城之内の事を遊戯はベッドの中から密かに眺めていた。

 彼が『お見舞い』と称して自分の元にやって来たのは実はこれが始めてだった。今までだって何度も遊戯は風邪だの腹痛だの、果ては単純に登校拒否だの、色々と理由をつけて休んでいたのだ。その時はメールで気遣わしげな言葉をくれたけれど、様子を伺いに来る事など決してなかった。それが当たり前だと思ったからこそ、遊戯も城之内が熱で寝込んでいると知っても見舞いに行こうとはしなかったのだ。

 それなのに今日は、学校を休んでまで自分の所に来てくれた。勿論純粋に見舞いをする気持ちもあったのだろう。けれど、決してそれだけではないのだ。現に目の前で外を見つめる城之内の表情はこの雪空と同じで灰色に曇っていて、言葉にもなんとなく覇気がない。多分何か、彼がここまで落ち込むような何かがあって、それでここに足を向けたのだろう。気づいてしまえばその態度は凄く分かりやすい。

 今現在の城之内の頭を占めているのは多分100パーセント海馬の事だ。他の友人は誰も気づいてはいないし、本人の口から聞く事はなくても、言葉の端々や態度でそれが嫌と言うほど分かってしまう。大体自分の口から海馬の情報を聞いた時のあの喜び様を見てもそうだ。あれでそうでないと言う方が難しい。

 顔を合わせれば憎まれ口の叩き合いしかしていなかった彼等と言うか『彼一人』が、何時の間にそんな感情を持つようになったのだろう。実は自分も本当に密やかにではあったが海馬に好意を持っていた遊戯は、ほんの少しだけ驚いたのだ。

 けれど、自分はあくまで恋愛ではない純粋な好意であって、城之内と同じ土俵に立つつもりはないし、海馬と同じ位城之内の事も好きなので、単純にこの二人が仲良くしてくれる事は嬉しかった。その間にちょこっと入れて貰えるだけで幸せだった。そう、今の所は。

 今日だって、本当は三人仲良くお弁当を食べるはずだったのだ。けれど、こんな事になってしまって、またお流れになったのだ。本当に自分はタイミングが悪い。昨日だって、たまたま忘れていた提出物について昼休みに呼び出されてしまったし……なんだかなぁもう。悲しいよ。そう思いつつ、内心密かに項垂れようとしたその時だった。遊戯の脳裏にある一通のメールが蘇る。
 

── 遊戯へ。兄サマはインフルエンザにかかったから明日学校に行けないぜぃ。お前も気を付けろよ。
 

 そう。そうなのだ。確か昨日の夜遅く、モクバの名前でそんな内容が届いていた。それを見た瞬間遊戯は「海馬くんもかぁ…」と独り言まで呟いたのだ。海馬はインフルエンザに罹って学校に行けない。だから今日は城之内も顔を見ていない事になる。という事は、城之内の落ち込みの原因は……まさにそこにあるのではないだろうか。

(だから城之内くん、すっごく落ち込んでるんだ)

 多分城之内は一度学校には行ったのだろう。そして隣の空席を見て肩を落として帰ってきてしまったのだろう。落ち込んだ気分で一人家に帰るのも嫌だから、口実を持って遊戯の所へやって来たのだろう。そう考えると、彼の行動と今の様子にも頷ける。

 城之内には海馬が病気で休んだ事を知る術がなかったのだ。何故ならそれを知っているのは自分だけで、その自分が彼に伝えてはいなかったのだから。悪い事をしたなと思う反面、遊戯の心にはほんの僅かな優越感があった。もし自分がここで彼に真実を伝えなければ、このまま彼らは少しだけずれてしまうのかもしれない。海馬に明確な答えが出ていない分、あわよくば城之内を出し抜く事だってできるのだ。

 けれど、遊戯はすぐにその考えを打ち消した。そんな事をしたって誰の得にもならないのだ。勿論、自分の得にさえ。

(本当は、ちょっとだけ残念だけど……ね)

 やっぱり、彼等には仲良くして欲しい。仲良く喧嘩して、笑い合って、楽しい毎日を送って欲しい。その方が自分もきっと楽しいのだろう。多分、絶対そうに違いない。

 結構な時間をかけて心の中でそう潔く結論付けた遊戯は、未だ黙りこくって外を見ている城之内を改めて見上げながら小さな深呼吸を一つして、口を開いた。

「ねぇ、城之内くん」
「へ?あ、ああ。なんか言ったか?」
「今日、本当は学校に行ったんでしょ」
「え?」
「海馬くんがいなかったからがっかりして帰ってきちゃったの?」
「………………」
「やっぱり。そうだって、顔に書いてある」

 くすっと小さな笑い声と共に、少しだけ楽しそうにそう口にする遊戯の顔を、城之内は驚いて見つめ返した。……一体、彼は何を言っているのだろう。どうして、何もかもを見ていたような口ぶりで話をするのだろう。どうして。

 風邪を引いた遊戯のために些か湿度が高く設定されているその部屋で、城之内はゴクリ、と生唾を飲み込んだ。何も後ろめたい事はないはずなのに、何故か背中に汗が流れる。じっとこちらを見る大きな瞳を見ていると、もしかしたら彼には何もかもがお見通しなのではないかという錯覚に陥ってしまう。……実際、何もかも知られてしまっているのだが。

「ゆ、遊戯……」
「ごめんね。僕が朝、城之内くんに会えなかったから」
「何言ってんだよ」

 動揺で相手の名前以外の言葉はひっこみ、声は僅かに掠れてしまう。何やってんだオレは。一体どうすりゃいいんだ。大体何に動揺してんだ。……そんなわけの分からない焦りの気持ちがぐるぐると頭の中を駆け巡り、城之内は一人勝手に窮地に陥っていく。そんな城之内の様子を知ってか知らずか、遊戯はやけに落ち着いた様子で口元に笑みを浮かべると、城之内をしっかりと見据えた。そしてさらりと驚愕の事実を口にしたのである。

「あのね、海馬くん、インフルエンザなんだって」
「はい?」
「昨日、モクバくんからメールがあったんだ。だから、今日学校に行けないって」
「学校に、行けない?仕事じゃなくて、インフルエンザ?!」
「うん。だから、ごめん。本当は僕が城之内くんに伝えてあげなきゃいけなかったんだけど、僕も休んじゃったから」
「……マジで?」
「嘘吐いてどうするのさ」
「………………」

 酷いなぁ、城之内くん。そう少しだけ拗ねた口調で口を尖らせる遊戯の声を遠くに聞きながら、城之内は大きな驚きと希望を胸に抱いた。

 海馬は、自分との約束を反故にしたわけではなかったのだ。一番初めに約束したあの日の自分のように、体調を崩して来る事が出来なかった。態とじゃない、どうしようもなかったのだ。まさか海馬に限ってそんな事が在る筈もないとは思っていたが、何事にも絶対という言葉はない。

 城之内は遊戯に視線を合わせつつ、既に気持ちは別の場所へと向けていた。インフルエンザで寝込んでいるのであれば、思ったよりもずっと大変で辛い思いをしているだろう。まだ日本で流行っているという噂はないが、海外を飛び回る彼の事だ、きっとどこかで拾ってきたのかもしれない。

 昨日はそんな素振りは欠片も見せなかったが、元来インフルエンザとはそういうものだ。兆候が一切なく、急激な高熱に見舞われる。ああ、それを知っていれば屋上になんか誘わなかったのに。大人しく教室で、きっちり昼食を取らせてやったのに。悪い事をした。

 城之内は知らず顔を顰め、目まぐるしく頭を過ぎる昨日の出来事を思い返していると、不意にぽん、と背を叩く手があった。驚いて顔をあげると、そこには先程と同じ顔で遊戯がにこやかに笑っていた。微熱の所為で少しだけ火照った頬が、柔らかな表情を更に柔和に見せている。

「母さんのお昼は諦めて、行って上げて」
「えっ?」
「海馬くんのとこ。きっと一人で寂しいと思うよ」
「……寂しいわけねぇだろ。あの家にどんくらい人がいると思ってんだよ」
「人がいればいいってものじゃないでしょ。そんな事、分かってる癖に」

 背に触れる手が酷く暖かい。遊戯の言いたい事は痛いほどく分かっていた。そして自分もそうしたい気持ちで一杯だった。けれど、口をついて出てくるのはなんとも素っ気無い台詞だけだった。

 実際、海馬邸には使用人が腐るほどいる。必要とあらば何でも揃う。勿論優秀な医者だって即座に飛んでくるだろう。自分とは違いどんな病気に罹ったところで、心配する必要などまるでないのだ。

 そう……自分とは、違って。

 本心は違うところにあると自分では分かっていてもなかなか素直に出てこない。大体今は遊戯の見舞いに来ているのであって、海馬の事は関係ない。当たり前だろ、当たり前じゃないか。何を馬鹿なことを言ってるんだ。そう必死に己の心に言い聞かせるものの、ざわめく気持ちを抑えることはできなかった。その様子が、自然と顔にも出てしまう。

 そんな城之内の気持ちを誰よりもよく知っている遊戯は、強情なその顔を眺めながら内心小さな溜息を吐いた。そして、本当に自分はお人よしだと思いつつ、城之内に触れる手に力を込めて、もう一度強くこう言った。

「いいから」
「……な、なんだよ」
「『熱の時は心細くなる』って、城之内くんが言ったんだよ。皆、そうなんじゃないの?」
「だけど」
「城之内くんがいかないんなら、僕、海馬くんにメールするよ。『城之内くんは僕のところにはお見舞いに来てくれたよ』って。それでもいいの?さすがの海馬くんも、ちょっと悲しむと思うけどなー」
「うっ……」
「僕ならもう大丈夫。明日ちゃんと学校にも行くし。だからもう帰って、城之内くん」

 とん、と触れていた手が、城之内の背を押した。その小さな衝撃に押されるように、城之内は漸く椅子から立ち上がり、少し高くなった位置から遊戯を見下ろした。罰の悪そうな、酷く収まりの悪い顔を見せながら。

「ごめん」
「なんで謝るのさ。来てくれてありがとう。あ、帰りにじーちゃんから林檎と蜜柑貰ってって。お土産に」
「……だからオレはたかりじゃねーって」
「お弁当の約束は守ってね。楽しみにしてるんだから」
「お前もしつこいなぁ。わかったわかった。……早く治せよ」
「うん。城之内くんこそ、海馬くんにインフルエンザ、移されないようにね」
「まだ行くって決めてねーけど」
「はいはい」

 ベッドの上からひらひらと手を振る遊戯に見送られつつ、城之内はのろのろとした動作で狭い部屋を出て、傾斜が少し急な階段を下りていく。その足取りはかなり緩やかだったけれど、迷いはなかった。玄関に辿り着くまでにジャケットを着込みマフラーを巻いて、襲い来る冷気に対して身構える。そして勢いよくスライド式のドアを押し開けた。

 雪は、先程よりも少し小ぶりになっていた。目的の場所まではこの家から徒歩30分。少し時間がかかるけれど、仕方ない。

 城之内は気持ちやや早足で半分溶けて重くなった雪の中を歩き出した。
 熱で魘されているだろう、彼の為に。

 

4


 
「…………………」

 目の前に聳える巨大な鉄の門を前に、城之内は暫し無言で立ち尽くしていた。強固に閉ざされているその向こうに見えるのは、その辺の施設すら遠く及ばない広大な大邸宅。過去に一度だけ訪れた事のある海馬邸は、当時となんら変わりなく圧倒的な存在感を持って佇んでいた。

 あの時は遊戯達と共に訪れた為特にどうとも思わなかったが、こうして一人で来てみると殆ど一つの城のように見えるその佇まいにやはり腰が引けてしまう。KC本社には比較的気軽に出入りしていた城之内も、その実ここに単独で訪れるのは初めてだった。

 門の前に辿りついて数分、彼は門柱の隣にあるインターフォンらしき機械をちらちらと眺めながらどうしようかと逡巡していたが、吹き付ける風の冷たさに意を決して備え付けのモニタの前へと立とうとした時、不意に聞き慣れた声が城之内の名を呼んだ。慌ててその発声源に目を向けると、丁度立とうとしていたモニタの向こう側にいつもの同じ様相の磯野の顔が映っていた。

「うわ、磯野!」
『そこにいらっしゃるのは城之内様ですか?瀬人様に何か御用でも?』
「ああ、うん。まぁ……」
『社に先に行かれたのならお分かりかと思いますが、生憎瀬人様は本日体調を崩してお休みになっておられますが』
「あー知ってる。だからその……見舞いに来たんだ」
『はい?』
「あいつが寝込んでるって聞いたから、見舞いに来た。入れてくんねぇ?」

 いつもの調子でついそう口にしてしまい、黙り込んだ磯野に一瞬冷やりとする。しかし、直ぐに磯野は「かしこまりました。少々お待ち下さい」と言ってモニタの前から姿を消した。 待てと言われれば素直に待つしか術はない城之内は、寒空の下で掌に息を吹きかけつつ待っていると、ギィ、と鉄同士が擦れる鈍い音がして、閉ざされていた門が人の手を介さずにゆっくりと開き始め、城之内を招く形で留まった。

(開けてくれたって事は、入っていいっつー事だよな)

 そう思い、やはりおっかなびっくりと言った足取りで、城之内は綺麗に雪が溶かされた小道を進んでいく。途中前方から黒い人影が現れてやや早足でこちらに向かって歩んできた。良く注意して見るまでもなく人影の正体は先程モニタ越しに対応してくれた磯野で、彼は城之内の姿を見つけると、軽く頭を下げて出迎える。

「わざわざ申し訳ありません」
「いや、オレの方こそ勝手に来てわりぃ。あいつ、どうしてる?」
「お一人でお休みになっておられますが……瀬人様のご病名をご存知ですか?」
「うん、知ってる。インフルエンザだろ」
「はい。ですので、瀬人様のお部屋にお招きする事は……」
「あ、大丈夫大丈夫。オレ、感染んねぇから」
「ですが、私が瀬人様から叱られます」
「そんなん無視していいって。上手くやっからさ。なぁ、頼むよ磯野。ちょっとだけだから」

 絶対お前には迷惑かけないから、と何度も頭を下げて頼み込む城之内の様子に磯野はそれ以上駄目だと突っぱねるわけにも行かず、酷く困った顔を見せつつも小さく頷いて背を向けた。暗に了承した、という意思表示であるその態度に城之内は密やかにほくそ笑むと、足取りも幾分軽く先を行く磯野について行く。

 彼の後に続いて入った海馬家内部は前に来た時と同じ、相変わらず無駄に豪華で荘厳だった。最先端の技術や現代的なデザインを好む海馬にはまるで似つかわしくない雰囲気だったが、敢えて変えないという事は何か意味があるのかもしれない。

 そんな事を思いつつ、歩いていく先々ですれ違う使用人らしき人々に不可思議な表情で出迎えられた城之内は、もしかしたら自分はどこか異空間にでも紛れ込んでしまったのではないか、という錯覚に陥った。それほどまでに海馬邸という場所は城之内にとっては異色な場所だったのだ。

 こんなに巨大で大勢の人間がいるにも関わらず、余りにもひっそりとした屋敷内。存在する人数と建物の大きさが比例しない所為なのかもしれないが、こう静かだとなんとなく寂しい気分になる。回廊を眩しく照らす煌びやかな灯りを一つ一つ眺めながら城之内は先ほど遊戯の言った台詞を思い出し、一人密かに頷いた。

(……これなら隣の部屋の物音が筒抜けなオレの部屋の方がよっぽど賑やかだぜ)

 知らず小さく溜息を吐きながらそんな事を考えていると、先を行く磯野が漸く立ち止まる気配を見せた。気がつくとそこは大きな突き当たりで、他の場所とは些か違う雰囲気の扉が一つ存在していた。いかにも屋敷の主の部屋です、な様相に城之内は磯野に招かれる前に自ら進んでその扉の前へと立った。そして何か言おうとする彼の声を視線で封じ、無言のまま頷いて手をあげる。

「ここまででいいや。サンキュー」
「お取次ぎしなくて大丈夫ですか?」
「いい。どうせ寝てるんだろ。なんかあったら呼ぶから」
「はい」

 体面上「ごゆっくり」とは口にせず、磯野は軽く頭を下げると踵を返して立ち去ってしまう。遠ざかる規則正しい足音を背に聞きながら、城之内は意を決して銀製の取っ手に手をかけ極力音を立てないように引き開けた。途端に通常よりも大分暖かな部屋の空気が芯まで冷えていた身体を包み込む。

 自分が通る隙間分だけ空けていた扉を閉めると、そこは一層静かだった。明るい回廊とは逆にカーテンを閉め切り、明度を落とした室内は少し薄暗く、よく目を凝らさないと内部の様子が見え難い始末だ。思わず入り口で立ち尽くし、ぐるりとその内部を見回した城之内は、一人部屋にしては広すぎるその中央奥に鎮座する大きなベッドに目を留めた。

 大の大人が三人寝てもまだ余裕がありそうなそれのやや左寄りの位置に、丁度人一人分の膨らみがある。おそらくそれが海馬なのだろう。鞄を側のソファーに放り、ゆっくりと近づいていく。そしてベッドサイドに置かれている少し座る位置の高い椅子を静かに避けて、城之内はそっと様子を伺う様に覗き込んだ。

「………………」

 柔らかな羽枕と羽布団に殆ど隠れて見えないが、そこには確かに海馬のものである薄茶色の髪が見えていた。穏やかな、とはとても言い難い速さで上下する肩部分であろう場所に注視し、これじゃあ息苦しいんじゃねぇのか?と思う気持ちそのままに、ゆるりとした動作ですっぽりと全身を隠している羽布団を少し下にずらした。その瞬間途端に現れた横顔にぎょっとする。

 普段は殆ど色味の無い白い頬は高熱の為に見事なまでに紅潮し、苦しいのか極限まで眉を寄せた顰め面で浅い呼吸を繰り返すその姿は、昨日見たはずの彼とは余りにもかけ離れていて、思わず一歩後ろに後ずさった。

 汗で額に張りついた髪が頬と同じく朱を刷いた目元を覆いつつ乱れているその様子に、城之内は不謹慎ながら全く別の意味でドキリとする。何故か何か見てはいけないものを見たような、そんな感覚に陥ってしまう。

 ── なんつーか……これって、あれだよなぁ。

 己の内心の台詞ながらも激しく言葉を濁しながらそう思った城之内は、即座に病人相手に何考えてんだ。と否定する。そう、今はこんな姿に見入っている場合じゃないのだ。海馬の意向なのは重々承知しているが、あれだけ沢山の使用人がいて病人をこんな状態で放置しているのはかなり問題なのではないだろうか。

 そんな事を思いながら城之内は海馬の顔の直ぐ横に落ちている温んだタオルを拾い上げ、近間にあったサイドテーブルに置かれていた銀の洗面器の中に放り込む。その水自体何時置かれたものか知らないが、高い室温の所為で余り冷たいとは言い難いそれに、大きな溜息を一つ吐いた。

 その横に水差しと共に置かれた薬らしき包みにも手をつけた様子は無い。幾ら完璧に処方されたものでも、飲まなければ意味が無いのだ。このままでは治るものも治らないだろう。

 あの海馬の事だから、たかがインフルエンザとは言え、それこそ一流の病院にひけを取らない完璧な治療と看護がなされていると思っていた。けれど実際は誰もいない部屋で傍にいる人間もなく、ひたすら寝ることで回復を待っていた自分と何も変わりはしない状況だった。

 苦しい身体を抱えて、静か過ぎる部屋に一人きり。
 部屋が広過ぎる分、それは余計に寂しい事の様に思えた。

 とにかくこの状態をなんとかしてやろうと、城之内は着ていた学ランまで脱いで放り、白いシャツを腕まくりして洗面器の中に沈むタオルを手に取った。少し緩めに絞り、丁寧に折り畳む。こう言った事は比較的慣れている故にその手つきは至極鮮やかだ。

 僅かに残る水気はそのままにタオルを手に海馬に向き直った彼は、再び隠れてしまいそうな顔を布団を下げる事によって留めると、前髪を避けてタオルを額に押し当てようとした、その時だった。

 それまで比較的大人しく眠っていた海馬が身を屈めて激しく咳き込んだのだ。

 聞いているこちらの方が苦しくなるようなその咳は静かな室内に大きく響き、余計に酷い印象を与えてくる。瞬間、手にしたタオルはそのままに城之内は殆ど反射的に布団の中に手を突っ込んで震える海馬の背を摩ってやる。効果があるかどうかは甚だ疑問だったが、何故かそうせずにはいられなかった。

「海馬!」

 思わず叫んでしまったその名に、手に触れた身体がびくりと大きく反応する。そして体勢の所為で何時の間にかとても近くにあった海馬の瞳が、ほんの僅かに開いたのだ。焦点の全く合わないそれは、二三度瞬きを繰り返し、何かを探すように空をさ迷う。そして、漸く己の上に殆ど覆いかぶさるように存在する城之内の姿を認めたようだった。

 刹那、声にならない声が、海馬の喉奥から聞こえてくる。

「……えーと、あの……」

 余りに突然の出来事に二人はその体制のまま暫く固まっていた。

 その状態は、海馬に二度目の咳の衝動が起こるまでの数分間、微動だにせずに続いていたのだ。
「だ、大丈夫かよ。尋常じゃねぇだろその咳」
「……何故ここにいる……貴様何時の間に……っ……」
「苦しいんならしゃべんない方がいいぜ。落ち着かねぇ内は黙ってろよ」
「質問にっ……答えろ!」

 台詞の合間に盛大な咳を交えながら、それでも必死にこの状況に対する説明を求めてくる海馬に、城之内は初めの驚きはどこへやら、やや呆れた様子で肩を竦めた。

 咳をする度に顔を顰めて両手で腹部を抑える様子を見るに、彼はどうやら一晩中この咳に苦しめられ、内部どころか外部にまで影響を及ぼしたらしい。自分も過去に一度酷い風邪を引いた時に喉よりも腹の筋肉痛に苦しんだ経験がある為、その辛さはよく分かる。

 一瞬、背中よりも腹部を摩ってやった方がいいのか?という考えが過ぎったが、流石にそれはちょっとマズイだろうと思い直す。何も疚しい気持ちがあるわけではないが、何事も限度というものがある。

 本来なら海馬としてはこの様な状況に置かれている事自体信じられない気持ちで一杯なのだろうが、生憎それを正確に指摘出来る気力は残っていないらしく、ただ単純に「何故お前がここにいる」という尤も基礎的な疑問を投げつけるだけに留まっていた。

 本当なら「傍によるな」だの、「触るな」だのという付加的な言葉がついてもいい筈なのに、背にしっかりと触れている手や、今にも触れそうなほど近くにある顔については特に何も言わなかった。尤も、言える状況ではないのかも知れないが。

「水でも飲む?」
「……だから!」
「細かい事は気にすんなよ。別にいいだろ」
「気にするわ!……貴様、誰の許可を得て……!」
「お前だって人んちに許可なしで入り込んで布団引っぺがしただろうが。お互い様だろ」
「………………!」
「まあ、そんな事はどうでもいいけどよ。あんまり興奮してそれ以上体力減らさない方がいいぜ。なんか限界っぽいし」

 その言葉通り、城之内が強引に手を割り込ませた所為で僅かに乱れた羽布団の合間からしっかり見えた海馬は確かに限界に近かった。勿論それを視覚で確認するまでも無く、殆ど力が入っていない身体の様子や、呼吸をする度に聞こえる雑音や、叫んでも全く張りがなく語尾が途切れてしまう程の掠れ声を聞くだけで、どれだけ体力を消耗しているか分かるというものだ。

 本人もそれを嫌という程自覚はしているのだろう。普段なら即座に否定して「ふざけるな!」と始まる反論は帰って来ず、悔しそうな顔をして唇を歪めるだけで留まった。その様子を間近で凝視してしまった城之内は、先程の真摯な態度は何処へやら、ほんの少しだけ「あ、なんか可愛い」と思ってしまう。

 ……だからそんな場合じゃないんだって。即座に心で己をそう諌めても、余り目立つ効果はない。

「……ならば帰れ」

 一瞬の間の後、呼吸が整わず喘ぐ様な声で海馬がそう口にした。同時に僅かに顔を持ち上げて、キッ!と音がしそうな程鋭い眼差しで睨みあげる様子に、城之内は再び肩を竦めて嘆息する。

「帰るわけないじゃん。折角来たのに。お前、馬鹿だろ」
「……貴様がそこにいるだけで体力を消耗する!それに……これは風邪ではない、インフルエンザだ。貴様みたいな軟弱な男など即座に感染って病院行きになるぞ」
「ひでぇ、軟弱とか言うなっつーの。オレは元来すっげぇ丈夫な男なんだぜ」
「嘘を吐け……流行る時期でもないのに風邪を引いた男が軟弱でないのならなんだと言うのだ」
「古い話持ち出すなよな」
「……持ち出したのは貴様だ!」

 最後に一言そう声を張り上げて、海馬はふっと気力が切れたように再び枕の中に頭を沈めた。既に顔を持ちあげる力すら残っていないらしい。呼吸に合わせて忙しなく上下する肩に心底呆れつつ城之内は、絶対に帰れねぇ、つか、死んでも帰らねぇ、と心の中で言い切った。こんな状態の彼を放っておいていけるものか。好きとか嫌いとか、そういう感情を抜きにしたって、それは人間として問題があるだろう。

「オレ、帰らないから」
「……な!」
「古い話を持ち出したついでに言っとくけど、お前あん時オレに優しくしてくれたじゃん。あの恩返しがしたいわけ」
「!あれは」
「だから、ここにいる。モクバが帰ってくるまでの間でも、ここにいてやる」
「……誰も頼んでなど……!」
「お前の意思はどうでもいいの。オレが居たいっつってんだから、好きにさせろよ。嫌なら自力で追い出してみれば?できねーだろうけど」

 な、海馬くん?とばかりに触れっぱなしだった背中をぽんぽん、と二度叩き。何故か偉く勝ち誇った様子でそう口にした城之内の事を、海馬は半ば呆然と見上げていた。

 ……一体この男は何を言っているのか。大体まだここに来れた理由すら聞いていないというのに、何を勝手に話を進めているのだろうか。恩返し?いてやる?誰が?何処に?

 それでなくとも慣れない熱で殆ど朦朧としている頭に更なる追い討ちをかけられれば、いかに海馬と言えどまともに返答など出来なくなる。彼は暫くの間、あ……だの、う……だの、言葉にならない呻き声を上げていたが、こちらをじっと見つめて反らそうとしない琥珀色の瞳に殆ど根負けした形で黙り込んでしまった。

「………………」
「あ、諦めた?」
「……うるさい、出て行け」
「諦めたんだろ?」
「………………」

 この調子では何を言っても態と己の都合のいい方にしか解釈せず、のらりくらりと切り返し続けて結局は居座るつもりなのだろう。これ以上付き合うだけ時間と体力の無駄だ。そう海馬が本当の意味で諦めるまでの5分間、城之内は粘り続けた。そして、ついに視線を反らし大きく溜息を吐いた海馬に、勝った!と心の中でガッツポーズを決めた。病人相手の持久戦などたかが知れている。

「……暇人が。学校はどうした」
「学校どころじゃねーだろ。お前だってあの日早引けした癖に」
「……だから過去の事は持ち出すな」

 二ヶ月前の事など、とっくに忘れたわ。そう小さな声で呟いて、海馬は今度こそ心底「疲れた」と口にして、殆ど気力で開いていた瞳を閉じて口も閉ざした。ついでに城之内の方を向いていた身体を反転し、背を向ける。

 再び室内に静寂が戻ってくる。相変わらず聞こえる置時計の秒針の音。静かだ……本当に静か過ぎる。

 けれど……近くに。否、少し丸めた背中に、暖かな掌の感触があった。今は静かだけれど、一人ではない。

 一人では、ないのだ。

 

5


 
 どれ位時間が経ったのか。

 夢も観ずに存外深く眠れた、と感じた海馬は熱を持って重い瞼を僅かに開けると、ゆっくりと視線を空にさ迷わせた。何時の間にか仰向けに眠っていたらしく、瞳に映ったのは見慣れた天井。微かに身じろいだ際に額から少しずれた濡れタオルは、僅かに温んではいたものの取り替えてからそう時間は経過していない様だった。

 誰がそのタオルを、と考えるまでもない。先程突然現れて勝手な主張を捲くし立てたあの男しかいないのだろう。ゆるゆるとまるで労わる様に震える背に触れていた彼の暖かな手は、今はシーツの上に片方だけ出ている海馬の手を握り締めている。少しだけ汗ばんだその感触に海馬がその方向を見遣ると、驚いた事にその手の持ち主は羽布団に突っ伏して心地良さそうに眠っていた。

「………………」

 ── 一体、何をやっているのだこいつは。

 寝苦しい体勢にも関わらず、どこか幸せそうな表情をしてすうすう寝息を立てているその顔を眺めつつ、海馬は密かに溜息を吐く。人の家で即座に眠りこけてしまう程疲れているのであれば、わざわざここになど来る必要はなかったのだ。むしろ、何故来たのかが分からない。

 やはり学校に行くと言って行かなかった事を不審に思ったのだろうか。だが、そんな事は今までも当たり前で……いや、「行く」と宣言して行かなかったのは初めてではあるけれど。
 

『古い話を持ち出したついでに言っとくけど、お前あん時オレに優しくしてくれたじゃん。あの恩返しがしたいわけ』
 

 古い話。一月半前の10月第3水曜日。
 忘れたと口にはしたが、その実忘れるわけが無い。しっかりと、嫌という程覚えている。

 あの日、確かに自分は同じ様に風邪で学校を欠席した城之内の元につい訪れて、熱に喘ぐその姿を拝んだ後、鞄に常備している風邪薬とその日の自分の昼食を置いて来た。それらは全て当然の事ながら彼の為に用意したというものではなく、偶然持っていたから与えたまでだ。

 その一連の行動に他意はなく、特に優しくしたという覚えも無い。まあ、少しは同情もしたし普段から比較すればやや態度を軟化させてはいたが、少なくてもこんな風に世話を焼いたり相手の事を気遣ったりなど微塵もしていないのだ。むしろ病人相手に起こした行動としては最悪の部類に入るだろう。それに恩を感じるなど馬鹿馬鹿しい。

 あの時の自分の態度のどこをどう穿って評すれば「優しくしてくれた」になるだろうか。もしかしてこの男はあんなものでも「優しい」と感じるような特殊な感覚を持っているのだろうか。だとすればやっぱり相当の馬鹿に違いない。いや、馬鹿だ。断言する。

 大体、あの後自分に対して告白などと言う愚かしい真似までしてのけたのだ。言わずにはいられなかったと言って、真剣な顔をして。

『好きだぜ』

 普段の軽々しい言動に混ぜて不意に投げつけられた、その言葉。聞き慣れないその単語を余りにも突然押し付けられて、どうしたらいいかわからずとりあえず他の情報と共に頭の片隅に入れるだけに留めておいた。一日経った今でも海馬の脳内でたまに再生されるその単語は、城之内の声で響くただの台詞で、意味もなければ何らかの感情が揺さぶられる事も無い。

 けれど、熱に浮かされた身で他にする事も無く、事あるごとに繰り返し響いてくるそれと真面目に向き合っているうちに、少しずつその意味さえも辞書のそれであるが認識できるようになり、こうして本人が目の前に現れた瞬間やけに現実味を帯びてすとん、と胸に入って来た。単なる記憶の一部ではなく、気持ちを僅かに揺らすような言葉として。

 眠っているはずなのに、強く握り締めてくる指の力。

 昨日の一瞬では分からなかった、自身の指より少し堅く、労働の為に傷ついてかさついたそれは、一晩ずっと離れずにいたモクバの細く柔らかい指とは比べ物にならなくて。

 本気、だと言った。本気でお前が好きなんだと。

 本気だからこそ、こうしてここにいるのだろう。風邪ならともかく悪性のインフルエンザを患っている人間の側に。本人の意向も聞かず勝手にここにいると言い張り、面倒な看病すらも進んでやって、挙句の果てに嬉しそうに人の指を握り締め、眠っている。

 その気持ちを海馬は全く理解できなかった。理解できないけれど、格別不快や嫌悪は感じなかった。城之内の告白に素直に出てきた「嫌いではない」というその返答よりも適切なものは今のところ浮かばなかったけれど。

 その感情は、常に好きと嫌いにはっきり分かれる海馬の思考の中で特別な位置を獲得したのだ。

「──── っ!」

 不意に、忘れかけていた咳の衝動がこみあげる。今ここで激しい咳をしてしまっては、眼下の城之内が目を覚ましてしまう。何故か強くそう思い、咄嗟に口を押さえて抵抗してみるものの、堪えれば堪える程苦しくなる。結局最初の一咳が切欠で、呼吸困難になるほど盛大な咳をしてしまった。ごほっ、と喉が鳴る度に既に疲弊しきった腹筋や胸郭が激しく震える。

「!……海馬っ!?」

 その少し横で眠っていた城之内は、当然その衝撃で目覚めてしまった。熟睡顔から一転し、驚いたようにがばりと起き上がった彼は、我慢していた分しつこいぐらいに繰り返される咳と殆ど格闘していた海馬の肩を掴み、背を摩ろうと手を伸ばす。

 間近に迫った酷く真剣なその顔を、苦しさの為に涙で滲んだ視界で捕らえた海馬は、即座に感じた背を摩る手の感触につい先程まで直接触れ合っていたあの指先を思い出し、決して不快ではないが、なんとなく居心地の悪い気分になった。

「おい、大丈夫かよ?!」

 呼びかけにも、応える余裕がない位に。
「わりぃ、オレ何時の間にか眠っちまってた。なんかこの部屋すげぇ暖かくって、気持ちよくって」
「………………」
「お前も咳落ち着いて静かに寝てたから、つい。ごめん。……もう平気か?苦しくねぇか?」

 呼びかけにも全く答えず、ただ下から見あげるだけの海馬の態度をどういう意味で取ったのか、城之内は突然酷く申し訳ないという表情を作り、そんな謝罪の言葉を口にした。背に回した手を外す事も無く、更に海馬の額から落ちかけていたタオルを気にしてやはり優しく取りあげる。

 ったくそんなに睨むなよ、悪かったって言ってるだろ。そうぶつぶつと呟きながら城之内は漸く身体を離して席を立つ。途端に響く水音に、彼が温んだタオルを冷やし直している事は直ぐにわかった。その後ろ姿を眺めながら、海馬はつい今しがた感じた居心地の悪さが更に増していくような気がした。

 勿論無言の視線は城之内が寝ていた事を責めているわけではない。むしろ、いたたまれなかったのだ。自分は彼に恩を売るような真似をしてなどいないのに、余りにも熱心に気にかけるから。オレが好きでしている事なんだ、と言われた所でやはりそう簡単に受け入れられるものではない。

 何者にも対等、もしくは己が勝利したいその性質故か、この間の優しさとは程遠い行為とこれとを同等に扱う事など出来なかった。尤も勝負事ではないものにその理論が通せるかはまた別の話ではあったが。

「しっかし全然熱下がんねぇなぁ。薬飲まなきゃ駄目だろ、これは」

 海馬がそんな考え事をしているうちに、何時の間にか額には冷やりとした感覚が戻り、頬にかさついた城之内の指が触れていた。再び間近に戻っていた顔は少し怒ったような、困惑したような表情をしている。本気で自分を心配しているのだろう、彼はちらちらと飲まずに放置した薬を眺めながら独り言めいた台詞を口にする。

 もういい、帰ってくれ。

 やはり黙ったまま眼前の顔を見つめながら、海馬はいつその台詞を口にしようかと考え始めた。これ以上世話を焼かれたら、むしろ苦痛になる。多分、このプライドに傷がつく。だから、帰って欲しい。仄かな焦りと共に心の中で繰り返すものの、不思議な事にその意思に反して己の唇は全く動いてはくれなかった。

 何故だ?簡単な事だろう?たった一言言えばいいだけの話なのに。

 そう思ってもやはりぴくりとも動かない。仰向けに固まったその顔はただ城之内の顔に向き合ったまま、瞳を瞬かせるだけに留まっている。

「やっぱ、どっか苦しいのか?」
「………………」
「言ってくれないと、オレ、エスパーじゃないから分かんねぇんだけど」
「………………」
「なぁ」

 余りにも無言を貫き通す海馬にそろそろ途方に暮れ始めた、とばかりに城之内が言葉を続ける。今だ、このタイミングだ。ここで言わないと、後でもっと言えなくなる。何故か分からないがそう思った海馬は漸く腹を決め、忙しない呼吸を繰り返すだけだった口で一瞬小さな深呼吸をすると、ぼんやりと見つめるだけだった瞳にも力を込めて、城之内を睨み上げた。

 そして、残った力を最大限に使ってきっぱりとこう言ったのだ。

「帰れ」
「…………!」
「もういい、帰ってくれ」

 きちんと準備を整えた所為か、意外にも強く大きく響いたその声は、予想以上に城之内を驚かせた様だった。困惑顔から一転、驚愕に目を瞠ったその顔を眺めながら、海馬の心を満たしたのは己の意思が伝わったという満足感よりも後悔にも似た小さな痛みだった。

 その痛みの意味はよく分からなかったが、これでもういたたまれない思いをする事はない。そう思うと、少しだけ気が楽になるような気がした。

 ……気が、しただけだったが。
 

 
 

 部屋には、暫しの沈黙が訪れた。

 海馬の言葉に少しの間固まっていた城之内はゆっくりと身体を起こし、海馬の頬から指を離した。ここまできっぱり言ってやったのだ。空気が読める男なら、大人しくこれで帰るだろう。それでいい。そうしてくれれば、今日の事はあの日と同じ程度で収まるのだ。何も引け目を感じる事は無い。内心そう己に言い聞かせるが如く繰り返し、ベッドサイドに立ち尽くしている城之内に背を向ける。彼は何を考えているのか、それきり動こうとはしなかった。

「何をしている。早く出て行け」

 無意識に目を閉じ表情を隠すように少し布団を顔に被せながら、海馬は追い討ちをかける様にそう言う。そこにいられるだけで迷惑なのだ。それは本当だ。動いたためにずれたタオルが運よく目元に覆い被さる。これで、自分がどんな顔をしているかなど分からない。

 折角献身的な看病をしてやったのに、すげなく追い返す真似をしている男にまだ何かあるのだろうか。いいから早く腹を立ててここから立ち去れ。それも出来ないほど馬鹿なのか。殆ど願うようにそう思っていると、漸く背後の城之内が動く気配を見せた。そうだ、それでいい。心の声がそう呟く。

 海馬は布団の中に隠れてしまった口元にちっとも満足ではない満足の笑みを無理矢理浮かべると、再び眠ってしまおうとそればかりを考えて、ただ無心になる為に耳をも閉ざす。

 けれど実際部屋の物音は聞こえていて、緩やかな動作で城之内がベッドを離れ、ソファーに置いたのだろう自分の持ち物を探る様子は手に取るように分かっていた。ぐずぐずするな!と苛立つ気持ちとは裏腹に、彼はやけにゆっくりと何かをしている。多分、身支度なのだろう。

 程なくして、特に言葉も無く城之内の気配が部屋から消えた。パタン、と小さく扉の閉まる音と共に部屋にはまた静寂が戻ってきた。漸く、これで心置きなく過ごす事が出来る。相変わらず身体は辛いし、どうにも釈然としない気持ちを抱えているけれど、あの居心地の悪さだけはなくなるはずだ。

 そう思い、海馬は大きな息を一つ付き、意識を深くに沈めようとした。

 うとうとと眠気が襲いふっと意識が途切れる瞬間、海馬は今は何も触れているはずのない背を意識して、知らず小さな舌打ちをした。
『もういい、帰ってくれ』
 

 その言葉を耳にした刹那、城之内は「あ、やっぱりまずかったかな」という思いに捕らわれた。

 当然だ。強引に部屋に居座り有無を言わせず看病させろと息巻いた人間が、病人を差し置いて暢気に眠ってしまうなど間抜けにも程がある。

 まるで親の敵とでも言わんばかりの鋭い眼差しでこちらを睨み、唇を噛み締める海馬の顔を眺めながら、城之内は背につうっと冷や汗が流れ落ちるのを感じていた。

 この目は本気だ。本気で嫌がっている。

 思わず覆い被さる形だった身体を離し、体温を測る為に伸ばしていた手を引っ込める。それを合図にするかのように、海馬は直ぐに背を向けた。ごそ、と小さな音がして布団を少し上へあげる。その拍子に僅かに額のタオルがずれ、目元を隠す。あ、ヤバイ。と声に出さずにそういうと直してやろうと手を伸ばしかけて留まった。今それをしたら、更に怒らせるだけのような気がしたからだ。

「何をしている。早く出て行け」

 案の定、何時までも動かない自分に焦れたような声が飛んでくる。布団に阻まれ少しくぐもった、先程よりも調子の弱いその声。自然と意識してしまうタオルに、少し前に見た咳の為に僅かに潤んだ瞳を思い出し、城之内は立ち尽くしたまま暫し考えていた。
 

 ……やっぱり、ここに一人にはしておけねぇ。
 

 数秒後、特に長く考える事もなく余りにもあっさりと結論は出てしまう。

 何を言われても、嫌がられても、そんなのは今更だった。大体既に一度断られて、それでもここにいると宣言したのだ。何を遠慮する事があるのだろう。文句なら病気が治った時に幾らでも聞いてやればいい。償えと言うのなら償ってやってもいい。

 でも今は、今だけは何があっても側にいてやりたいのだ。今にも死にそうな顔と声で苦しげに身を丸めている海馬の側に。もしかしたら海馬は自分のこの行動を「好き」と言ったあの言葉の延長で捕らえているのかもしれない。恩を売って、振り向かせようとしているんじゃないかと、警戒しているのかもしれない。だとしたら、それはちょっと悲しい話だ。

 確かに好きだからこそ何かをしてやりたいという気持ちはある。けれどその見返りにその気も無いのに好きになれ、というつもりは毛頭無かった。大体これは普通の恋愛じゃない。困難さは嫌という程理解している。否、困難だからこそ、言葉としては不適切かもしれないが燃えるのだ。

 難しいゲームに挑む楽しさのような、そんな高揚感が城之内の胸を満たす。人生をも左右しかねない恋という現象をゲームに例えられたら流石の海馬も不愉快に思うかも知れないが。

 それはともかく。そんな純粋で楽しいであろう恋に姑息な手段や卑怯な裏技などは必要ないのだ。正々堂々、自分の力で少しずつ勝ち取っていく。そこが最高に面白いのだ。だからこれは手段ではない。衝動だ。そうせずにはいられないという心からの気持ちなのだ。それが好意の押し付けだろうが自己満足だろうが構わない。誤解されるのは嫌だけれど、そんな危惧も後回しだ。

 そう決めてしまえば、後は行動あるのみだ。開き直った城之内様を舐めんじゃねぇぞ。……そんな事を考えながら城之内はとりあえずベッドから離れてしまう。

 多分側で気配が感じるのさえ今は嫌なのだろう。だったら離れていればいい。眠ってしまえばこっちのものだ。再び近づいて何をしようが、気づく事は無い。勿論ヨコシマな考えなど一切なく、純粋に看病をしてやりたいだけなのだが。

 動かなくなった背後の気配を感じながら、城之内はとりあえず今日一日はここに居ようと、ソファーに放り投げたジャケットを手に取り、ポケットから携帯を取り出した。電源を入れてメールを立ち上げ、バイト先に「急用のため、明日は休むんでよろしく」とだけ打ち込んで送信する。これで何も心配するものは無くなった。家に帰らないのはいつもの事だ。どうでもいい。

 送信完了の文字が明滅した画面を見つめ、城之内はふとその右下にある時間表示に目をやった。午後三時。何時の間にかそんな時間になっている。確か昼になる大分前に遊戯の家を出た筈だから正味五時間近くは経っているという事だ。

(……腹減ったなぁ)

 時刻を意識した途端急に感じる空腹感に、城之内は思わず一人苦笑した。やっぱオレってゲンキンだよな、そう思いながらちょっと恥ずかしいけれど昼食の無心をしてくるべきかと思案したその時、城之内の視線は携帯から海馬の横にある薬の包みに移される。

 そういえば自分がここに来てからこの方、海馬は一切何も口にしていなかった。薬も全く減っていない状況で昨日の夜から寝込んだというのであれば、彼はもしかしたら昨日の朝以来食事らしい食事をしていないのかもしれない。だからこそ、これ程までに体力を消耗しているのだろう。

 自分はともかく、海馬には何か食べさせるべきだ。そして、何がなんでも薬を飲んで貰わなければ。

 即座にそう思った城之内は先程宣言した通り磯野にその旨を伝えに行くべく、海馬の部屋を後にした。本当は磯野に繋がる直通の通信システムがあったのだが、彼がそんなものの存在を知る筈もない。

 部屋を出た城之内は、近間にいたメイドを一人捕まえて磯野はどこかと聞いてみる。やはり一瞬不可解な顔で城之内を見つめた彼女は、それでも丁寧に磯野がいる部屋まで案内をしてくれた。

 

6


 
「城之内様!御呼び下さればこちらから…」
「や、呼び出し方とかわかんなかったし」
「もうお帰りになるんですか?瀬人様は?」
「海馬なら大人しく寝てると思うぜ。あ、オレまだ帰んねぇから。もしかしたら泊まるかも」
「え?!」
「だってアレをほっとけねぇだろ。寝てたって治るもんじゃねぇしよ。なんで誰も側にいねぇんだよ。あいつが嫌がるのか?」
「……瀬人様は昔から人を側に置かれるのを頑なに拒否なさいますので。モクバ様以外は……」
「そんな我侭真面目に聞いてっからあんな風になるんだろ。ったくどうしようもねぇな。こんだけ人数がいたって全く役に立たねぇじゃん」
「あの、それで、城之内様は何も?」
「あ?言われたぜ。「帰れ」「早く出て行け」。でもそんなもん無視する。オレはあいつの使用人じゃないから言う事聞く義理ないもんな」
「……はぁ」

 まあそれはともかく、悪ぃけど腹減ったんでなんか食わせて貰っていいかな?と生真面目な顔から一転、少し照れくさそうにそう言う城之内を磯野はやや面食らって凝視した。つい先程突然やって来たこの来訪者は、海馬の顔を見たら直ぐに帰ると思っていたのだが、意外な事にあれから五時間、あの部屋に篭りきりだったらしい。

 今しがた口にした通り海馬は極度の人嫌いな所があり、必要がなければ滅多に他人を寄せ付けるような事はしない。それは幼い頃からずっと仕えている使用人ですら変わりはなく、余程心を許した人間でなければ側にいる事は勿論、同室に存在されるだけで嫌がるのだ。

 身の回りの事や必要最低限の事は人を使わずに全て自分でやってしまう程徹底している彼が、赤の他人の、ましてや普段から口汚く罵っている相手と長時間同部屋にいたという事実。それだけで磯野には十分驚きの対象だった。ましてや泊まるなどとは前代未聞の話である。驚愕するなという方がおかしいだろう。

 それにしても……前々から思っていたが、この城之内という少年は何が目的で足しげく海馬の元に通うのだろうか。その昔遊戯と共にこの屋敷に訪れた頃は、海馬の事を心底嫌悪しているような、そんな言動しか耳にした事はなかった。

 それがデュエリストキングダムから帰還後、ちょくちょく社に顔を見せるようになり、今では何時の間にか単独で家に来るまでになっていた。特にそれがいい事とも悪い事とも思わなかったが、今までが今までだけに磯野は不可思議な印象を拭えずにいたのだ。

 それでも、主である海馬本人が特に何も言わなければ口を挟むのは筋違いだ。そう直ぐに思い直した磯野は改めて城之内に向き直り、彼の要求を聞いてやろうと素直に耳を傾けた。

「昼食なら直ぐにご用意できますが……何が宜しいですか?」
「庶民の口に合うもんならなんでもいいです。贅沢は言いません。あ、それよりも、海馬にも何か用意してやって。メシ食わないと薬、飲めねぇだろ」
「ですが瀬人様は……」
「だーかーらー、我侭聞いてたら埒開かないんだって。あいつ、何なら食うの?お粥とかスープとか?あんま想像できないけど」
「……料理長に相談してみます」

 殆ど城之内の言う事に従う形で磯野は即座に調理場に連絡を取り、昼食を用意するよう簡潔に依頼する。その姿を何とはなしに眺めていた城之内は、ふとある事を思い出し、磯野の声を遮ってそのメニューの中に一つだけ追加して貰う様言い添えた。
「あー食った食った。下手なレストランよりうめぇよ、これ。なんかタダで食うの悪い気がする」
「恐れ入ります」
「んで、これが海馬のな?」
「はい。私が部屋までお持ち致します」
「あ、いいいい。オレ持ってく。ついでだし」
「では、よろしくお願い致します。外に磯野が待っておりますので」
「はいよ」

 よいしょ、と小さなかけ声と共に揃いの蓋がついた銀のトレイを持ち上げた城之内はそのまま食堂を後にし、先導する磯野の後についてイマイチよく分からない屋敷の構造を頑張って記憶しながら、海馬の部屋に戻ってくる。

 磯野に扉を開けて貰い再び入室したその部屋は、相変わらず静かで暖かかった。ベッドを見ると、部屋を出た時と全く変わらない光景が目に入る。刹那、静寂の中にまたもや激しい咳が響いた。その状況に城之内は今日何度目か知れない深い溜息を吐く。

(……何が「帰れ」だか。苦しそうな咳しやがって)

 大股でベッドサイドに歩み寄りトレイを横に置いてしまうと、城之内は改めて眠る海馬の顔を覗き込んだ。先程ずれてしまったタオルは案の定シーツの上に落ちていて全く意味を成さない状況で、これだからほっとけねぇんだ、と思わず口をついて出てしまう。

 ついでにちらりと見た置時計の針は午後四時半を回った所で、一眠りするには丁度いい時間だった。これなら、起こしても問題はないだろう。起きた瞬間、驚愕か罵倒かそのどちらかの反応が返ってくる事を覚悟しつつ、城之内は慎重に海馬へと手を伸ばした。

 出来るだけ、そっと。
『……ば。海馬!』
 

 遠くで決して聞こえる筈の無い声が聞こえる。余り現実味の無いその音声は、扉一枚隔てた向こうから聞こえて来るような、不確かな響きを連れていた。
 

『起きろってば!』
 

 声が、幾重にも木霊する。海馬は思わず夢の中でさえ舌打ちし、その声の主であるあの男の顔を思い出しながら苛立ちを募らせた。
 

 ── ああ煩い。折角姿が消えて楽になったと思ったのに、貴様今度は夢にまで出てくるつもりか。いい加減にしろこの馬鹿が!
 

 未だ微睡みの只中にいる海馬はそう心の中で罵りつつ、夢ならば無視するまでだと半分目覚めかけた意識を再び深く沈めようとした。しかし、それでもしつこく己の名を呼ぶ声にその試みは全く思い通りにはいかず、逆に徐々にクリアになってくる。

 遠かった声が何時の間にか間近で聞こえ、身体の一部に自分とは違う他人の体温を感じた瞬間、海馬は殆ど無理矢理目覚めを余儀なくされた。

 もう眠ってなど、いられなかったのだ。

「──── っ!」

「お、起きた起きた。お前さー折角オレが乗せたタオル、落してんじゃ意味ねぇだろ。全くこんなに看病のし甲斐がない病人始めて見たぜ」

 勢いよく開いた海馬の瞳に飛び込んできたもの。それは今しがたしつこく聞こえていた声の主、城之内の顔だった。彼は目を開けた海馬の姿を見るや酷く嬉しそうな顔をして声を上げ、先程と全く変わらない態度で、どこか苦しくねぇ?と訪ねてくる。

 ……おかしい、この男は確かに先程自分の言葉に従って部屋を出て行った筈だ。ここにいる訳は無い。なのにどうして、何一つ変わらない顔で自分を見下げているのだろう、意味が分からない。

 殆ど混乱状態に陥った海馬は、眼前の男に対してどう反応したらいいのかわからず、とりあえず一番最初に戻って「何故ここにいる」と聞こうと思った。

 しかし、長時間水分も無しに息苦しさから口呼吸でいた彼の喉はカラカラで、声を出そうとしても直ぐには出てこなかった。

「……き……さ、ま!」
「あ、声掠れた?そういや水分取らせるの忘れたっけ。本当はポカリとかアクエリとかがいいんだろうけど……この家になさそうだよなー。モクバ、持ってねぇかな」
「………………!!」
「いて!爪立てんな!なんだよ!」

 漸く搾り出した声にも全く反応を返そうとはせず、勝手に独り言を呟いている城之内にいい加減焦れた海馬は、肩に触れていた彼の手に叫ぶ代わりに思い切り爪を立てた。既に制御のきかない身体では力の入れ具合などわからず、意外にも強く引っ掻いてしまったらしい。ガリ、と嫌な音がする。

 それに思わず顔を顰め、飛びのいた城之内を即座に睨みつけ、海馬は目線だけで「何故貴様がここにいる」と、聞いてみた。多分伝わらないだろうと思ったが、意外にも察しがいい城之内は、掻かれた手の甲を撫でながら、少しだけむっとした表情で答えを返す。

「オレ、帰るって言ってないじゃん。帰るつもりもないし。最初から居座るって宣言しただろ?」
「………………」
「お前の意思は関係ないとも言ったよな。だから、そんな顔をしたって無意味なんです、海馬くん」
「………………」
「オレをここから追い出す方法は一つ。完璧に治せとは言わねぇけど、せめてその尋常じゃない熱を下げる事。そしたら、直ぐに帰ってやるよ」
「…………か…」
「勝手は最初からなんで、今更言われても何とも思いません。もうバイト先には連絡入れちまったし、磯野にも今日泊まるかもって宣言したし、オレを邪魔するものはなーんにもないんだぜ。あ、モクバは分かんねぇけど」
「………………」
「そういうわけだから。オレを追い出したかったら、逆に大人しくオレのいう事を聞いていた方が楽だぜ。これでも親父相手にしてっからこういうの慣れてんだ。だから、な?」

 この場には決してそぐわない嫌味な程爽やかな笑顔を浮かべて、城之内は海馬の反論や反抗を全て封じるべくそう言った。余りにも予想外な展開に、声すら出ない海馬は殆ど呆然とその顔を見あげるしか術はなかった。

「じゃ、とりあえず。メシ食って薬な。ちゃーんと準備してやったから」

 看病だというのに何故か妙に浮かれた声でそう言うと、城之内はもはや海馬の意思を確認する事すらせずに、勝手に事を進め始めた。海馬は食事の用意をすると言って徐に離れ行く彼の手をもう一度思い切り引っ掻いてやろうかと思ったが、生憎それはするりと逃げてしまい、思い通りにはいかなかった。
「支えてやっから身体起こせ。あ、爪立てんなよ。あれ結構痛ぇから。……しっかしお前汗かかないなー。こういう時って汗かかないと駄目なんじゃねぇ?」

 海馬の無言の抗議ももろともせず、殆どその意思を無視する形で城之内は相手が抵抗出来る状態ではない事をいい事に、さっさと仰向けに横たわる背の下に腕を入れて、軽々とその上半身を掬いあげる。その仕草に海馬はもはや何も言う気力も抗う力も無く、なされるがままに身を起こした。急に変わった視点と体勢にくらりと視界が歪んで目を閉じる。湿ってやや重くなった前髪がその顔を隠すように振り落ちて来た。

「あ、急に起きるとくらくらするか。っと、あぶねっ」

 ぐらりと傾ぐ海馬の頭を寄せた肩で辛うじて受け止めて、城之内はその顔を覗き込みつつ何時の間にか手にしていたグラスの中身が零れないよう気を配る。緩やかに肩で持ち上げて、海馬が自力で首を固定できるまで少し待つと、彼は徐にその眼前に水入りグラスを差し出した。

「とりあえずはい、水。零すなよ。……おい、こん位全部飲め」

 力のない両手で辛うじてグラスを掴むと、震えるそれを堪えながら海馬は水を一口二口と飲み込んだ。そしてグラスを城之内に押し返そうとして、留められた。言葉通り、全部飲めという事らしい。空になるまで口元から退けなさそうなその気配に海馬は仕方なくそれから一気に残り半分を飲み干した。

 ごくり、という音が部屋に微かに響き渡る。途端に軽い咳が出て、渇ききった喉が少し潤された事を感じた海馬はあ、と小さく声を出した。やはり掠れてはいたものの、なんとか聞き取れるレベルだと判断した彼は、即座にグラスを下げる為に離れた城之内に向き直り、漸く己の声で言葉を発する事に成功したのだ。

「……凡骨」
「お、声出たじゃん。良かったな」
「良かった、ではない。オレは帰れと言ったんだ」
「うん。で、オレは帰らないって言ったんだけど。たった今」
「そんな事はどうでもいい。ここはオレの家だ。貴様はただの客……いや、侵入者だろう。オレが帰れと言ったら帰るのが道理だろうが」
「道理とか、難しい事分かんねぇからそんな事知らね。お前ほんっと諦め悪いよな。オレと一緒じゃん。案外気があうんじゃねぇ?」
「貴様と一緒にするな……!」

 会話が続くと内容が内容故に、そして病の所為だろうか感情のコントロールがきかずつい興奮気味になる海馬だったが、疲労した身体はその興奮度合いについていけず、息が上がり咳が出る。それが酷くもどかしく、苛立たしい。

「興奮すると身体に悪いぜ。落ち着けよ」
「だから誰の所為で……!」

 そんな自分に怒りもせずに落ち着いて対峙する城之内の態度が更に癪に障って、海馬は持って行き様のない怒りを持て余し、少々乱雑な態度で自身の身体に触れる腕を振り払った。再び軽い眩暈が起こるがそんな事は気にしていられない。

 流石の城之内もこれには少しカチンと来たのだろう。柔らかだった表情が僅かに引き締まり、目を眇めて海馬を睨んだ。その眼差しに一瞬海馬ははっとする。けれど、直ぐにそれが己の望む事だったと思い直し、逆にこちらから睨み返す。微妙な距離で起こった奇妙な睨み合い。その合間に聞こえる海馬の荒い息遣いが痛々しい。

「そんなに嫌なのかよ」

 ややあって、肩で大きく息をついた城之内が口を開く。トーンの下がったその声に、海馬は僅かに身を引いて、それでも睨みつける視線を外さない。……嫌なのは世話を焼かれる事そのものではなく、貸しを作るのが嫌なのだ。こんな事を受け入れたら均衡を保っていた関係が対等ではなくなってしまう。この男はどうしてそれが分からないのだろう。

 海馬はそれを言葉で説明しようとしたものの、熱の所為で頭が上手く廻らずどう言えば城之内に伝わるのかわからなかった。仕方なく、説明できるまで考えようと思っていた矢先、城之内は二度目の溜息と共に一旦離れていた筈の距離を再び縮めた。驚いた海馬に気にする風もなく、更に顔まで近づけてくる。

「お前、誤解してるかもしれねぇけど。オレ、何か裏があってここまで来たんじゃないぜ。確かにお前に昨日好きだって言ったし、勿論今もそう思ってる。けど、だからってこんな事で点数稼ぎしようとか、そういうんじゃねぇから」
「……点数稼ぎ?」
「オレがお前に何かしてやりたいってのは、純粋なキモチなわけ。やりたくてしょうがないの。だから、これ位させてくれよ」
「………………」
「これだけ言ってもまだ信用なんねぇかなぁ。オレ約束破りはやったけど嘘はつかねぇって!」

 あーくそ、後はなんて言ったらいいんだよ。そう口にしつつ苛立ったようにがしがしと髪を掻き混ぜながら、城之内は海馬に向けた視線を外して空を睨む。その顔を未だ睨んだ目付きのまま眺めていた海馬は、たった今聞かされた思いもかけない言葉に愕然としていた。

 違う、そうではない。問題なのはそんな次元の高い話ではなく。

 ……というかそんな事は考えてもみなかった。確かに、言われてみればそういう風に取れる事もあるだろう。ここまでしてやった見返りとして少しくらい譲歩してくれてもいいじゃないか。いや、して欲しい。するべきだ。仕事上そんな事を言う輩と嫌という程付き合ってきた。付き合ってきた筈なのに、何故か今はその可能性を全く考えていなかった。

 相手が城之内だったから多少見縊っている感はある。けれど、そんなつまらない感情ではなく、もっと深い、根本的な所で彼に限ってはそんな事があるはずがないだろうと無意識に信じていたのだ。だから、城之内の口からその可能性を疑っているのではないかと言われた今、酷く驚いてしまったのだ。凡骨でもそんな事を考える頭はあるのかと、変なところで関心をしてしまう。

 馬鹿だな。

 海馬は心の中でそう呟く。そんな空気を少しでも感じたら、どんな手段を講じてもこの部屋から叩き出してやるところだ。そうできないのは城之内が彼の言う通り、純粋に心から自分を心配していて、見返りも何もなしにわざわざ時間と労力を駆使してまで看病をするというその気持ちを嫌という程感じるからだ。

 これが暇人の道楽というのならこれ程までに拒否はしない。そうではなく、金銭的に逼迫した毎日を強いられている男だからこそ気になるのだ。彼の時間はただの時間じゃない。そのまま生活にダイレクトに影響する大切なものだ。バイトが嫌だとか辛いとか、金がないとかその口から嫌という程勝手に聞かされて来た身である。彼にとって命と同じ位大事であろう金をこんな事で捨てさせてしまっては、無関心ではいられなくなる。

 海馬は自分が機械のように不必要なものは即座に切り捨てられる冷徹さを持っていない事をよく分かっていた。だから城之内のその行為が、裏があってする事以上に性質が悪いと感じるのだ。

「なぁ、海馬」

 海馬の答えがないのが不安になったのか、少しだけ控えめな声で名を呼ばれる。それに意を決したように、海馬は漸くとりあえず何かいわなければと口を開いた。上手くいけば今度こそ退けられるかもしれないから、と。……しかし、それはやはり失敗に終わってしまうのだ。

「……馬鹿め。そんな事は分かっている」
「へ?」
「貴様程度の頭で、そんな計算高い事が出来ない事など分かっている、と言ったのだ。……大体この程度の事でオレの貴様への気持ちが変わるとでも思っているのか」
「……いや、思ってねぇけど」
「なら、下らん事をほざいていないで、ここを出て行け。何度も言わせるな」
「じゃあ、なんで?」
「は?」
「なんでお前そんなにオレの事嫌がんの?」
「しつこいし、鬱陶しいからだ。貴様がここにいると気が休まらないし、治るものも治らない」
「オレがいなくたって治らない癖に。薬も飲まないで、咳ばっかしててよ」
「それは……」

 それに、オレがいたって寝てたじゃん。休めただろ。そう立て続けに捲くし立てられて、海馬は既に言葉が詰まってしまう。城之内は海馬の思いをまるでわからず、海馬は城之内の言う事が分かっていて、口先だけごまかして応戦しているのだから立場的に非常に不利だ。それは分かっている。けれど、直接的な事を言いたくもない。言ってしまえば、逆に気遣わせる事になるかもしれないのだ。余計ややこしくなる。

 ああ、やっぱり面倒くさい。どうしてこんな奴に関わってしまったのだろう。

 未だ口論を続けながら海馬はほぼ自棄になり、思い切り根本的な部分に対して内心文句を言い始めたその時だった。

「わかった」
「?……何が、わかった?」
「いや、分かんねぇけど」
「……訳の分からないことを言うな」
「ごちゃごちゃ言い始めるとお前煩いから、もうこの話はここでおしまい!オレは帰らない。お前が嫌がってもやる事はやる。それで決めた」
「き、決めたって、貴様!」
「だって、結局何言われてもオレ出て行かねーし。時間の無駄じゃね?お前が疲れるだけだぜ。疲れて寝ちまえばこっちのモンだし、どっちに転んでもオレには不都合ねぇもん」
「凡骨!」
「いいからいいから。あんまり煩いとオレも考えるぜ。好きって気持ちを行動に移しちゃおうかなーとか、さ」
「!!…………」

 何時の間にか海馬の頬を両手で包み今にも吐息が感じられそうな位置まで顔を近づけた城之内は、口元に笑みを浮かべてそんな事を言う。確かに笑ってはいたものの、眼差しは昨日の屋上でみたそれと同じく真剣だった。一歩間違えればそれこそ彼の言葉通りになるのではないかと思ってしまう程。

 余りにも近いその距離に、一瞬だけ警戒し身を強張らせた海馬に、城之内は今度は声を立てて笑いながら「うそうそ」と手を離した。けれど、やっぱりその目は嘘を吐いてはいなかった。言葉通り、彼は嘘がつけない男だった。

「もーお前がごねるからメシ食わせらんねぇじゃん。冷めるだろ。折角暖かいの作ってもらったのに」

 はぁ、と再び大きな溜息を吐いて、城之内は今度こそ、と口にしながら持ってきたトレイに手を伸ばす。自然と向けられる事になったその背中に、海馬はもう帰れという気にはなれなかった。

 

7


 
 触れた頬が酷く温かいと思った。

 高熱が出ているのだから、それはともすれば熱いくらいで、少しだけ開いた唇からはひっきりなしに浅い呼吸が繰り返されている。その様を間近に、本当に間近に見てしまって城之内は思わず内心「これはヤバイ」と思ってしまった。

 咄嗟に口から出た台詞はただの悪ノリを装った軽口で、海馬だけではなく自分をごまかすためにそう言ったのだが、本当は強く思ってしまったのだ。

 何も唇とは言わないから、その顔のどこかに……唇を押し当てたいと。

 病人相手に、とか、まだ相手の気持ちは全然自分に向いてない、とか、城之内がその行為を遂行するには余りにも困難な理由が目白押しで、基本的にこの手の事に関しては真面目さを謳っている彼には、それらを全て投げ打ってまで降って沸いたように覚えた衝動を解消する事がどうしても出来なかったのだ。

 聞くものが聞けば「なっさけねー。それでも男か!」と罵られそうではあるが、本当に好きだからこそルールに則り、正攻法で行きたいのだ。そうでなければ、つい今しがたこの口から発した言葉が全て軽いものになってしまう。

 好かれたいが為に看病するわけではないと言っておきながら、相手に抵抗する気力がないのをいい事に関係を一歩進めてしまったら、それこそ嘘吐きの卑怯者という事になる。それだけは何としても避けたかった。あくまで自分は恋愛に対しては真面目で紳士的でありたいのだ。それがただの理想だとしても。

 海馬の視線を背中に受けながら、今の事で少し赤くなってしまった頬をぺちぺちと叩き、トレイに被せられた銀製の蓋を取る。中には海馬が比較的多く口にするというスープに殆ど溶けるまで煮込んだ野菜を浮かべたものと、城之内が提案したものが入っている蓋付きの陶器の器。そして蜂蜜をたっぷり溶かしたレモネード。

 陶器以外はまだしっかりと暖かく、口にする分には丁度いい温度になっている事を確かめると、城之内はスープ皿を小さな銀盆と共に取りあげると海馬へと振り返る。何も言わずそれをただ眺めていた海馬の顔を比較的見ないようにして、安定を確かめるようにそっと彼の膝の上にそれを置いた。

 煮込み野菜の仄かな香りが柔らかく鼻腔を擽る。

「野菜入ってっけど、殆どとろけてるし。スープだから食えるだろ。こん位食えば薬飲めるから」
「…………量が多い」
「多くない。丸一日何も食べてないんだから食え。食わないっていうんならオレがあーんってしてやろうか」
「余計な世話だ。誰が」
「じゃ、大人しく食えよ。はいスプーン」

 人が何かをする度に文句しか言えないのかね、この口は。そうボヤキながらやはり親切にスプーンを取って、海馬の手に押し付ける。それに心底仕方ないという顔をして、海馬はのろのろと右手に握り締めたスプーンをスープ皿に放り込み、中身を掬って持ち上げようとした。しかし。

 カシャン、と小さな音がして、それは即座に皿の中に戻ってしまう。

「あ」
「……もしかして、スプーン持つ力も失せたとか。お前どんだけ限界なんだよ」
「ち、違う。手が滑っただけだ」
「そうかぁ?なんか震えてっけど」
「やかましい。人の食事する様をじっと見るな」
「だって零したりしたらマズイだろ。まだ熱いし」

 そのやり取りの合間にもう一度海馬がチャレンジするも、やはり指先に力が入らないのか再び音を立ててスプーンが落ちる。その様に、二人は同時に溜息を吐き、それぞれ対照的な顔を見せた。海馬は勿論忌々しいという不機嫌顔で、城之内は何故かちょっとだけ嬉しそうな笑顔。

「しょうがねぇなぁ」

 城之内の口からその顔と同じく嬉しそうな声が出た。それに海馬が抗議しようと口を開く前に、彼の手が落ちたスプーンを拾い上げ、ついでに皿まで持ち上げて、にいっと口元で大きく笑う。

「やっぱ食べさせてやるよ。はい口開けて」
「……貴様、心底楽しんでいるだろう」
「いやいやとんでもない。心配で心配で胸も潰れそうなだけです」
「嘘吐け」
「嘘じゃないって。いいから早く口開けろって、冷めるだろ」

 食わないと薬飲めないし、薬飲まないとオレは出て行かないぜ?そう畳みかけるように口にすると海馬は渋々……本当に渋々顔を歪めてほんの僅かに口を開けた。全く非協力的だぜ、と思いつつ城之内はその口にスープを掬ったスプーンを近づけて傾けた。即座に海馬はこくり、と小さく嚥下する。

「食べさせてるっていうより、なんか餌付けしてるみてぇ」
「し、失礼な事を言うな!」
「美味い?」
「我が家のシェフが作るものに不味いものなどあるわけがなかろう」
「そりゃそーだ。さっきの昼飯、死ぬ程美味かったし。お前毎日あんなの食ってんのかよ。超羨ましいんだけど。オレなら風邪引いたってバリバリ食うね。そういやお前に貰った弁当、あの日のうちに食ったしな」
「……貴様ならそうだろうな」
「こんなに美味いもん、ちゃんと食わないとバチが当たるぜ。はい、ちゃっちゃと食べる!」

 そう言いながら城之内は再びスプーンを海馬に運ぶ。海馬はそれを喉に流し込む。殆ど共同作業と言ってもいいそれは数分後に全て終了してしまった。城之内は空になった皿を満足気に振ってみせ、トレイに戻してしまうと、次に例の陶器を手に取った。落さないように蓋を取り、スープと同じ様に海馬の眼前へと持ってくる。

「なんだこれは」
「なんだって。林檎だけど。すった奴」
「すった?」
「あれ、お前これ知らないんだ。風邪を引くとよく母親なんかがやってくれるんだぜ。普通に剥いて切っただけじゃ食べにくいから細かくすって、上からレモンかけて色変わんねぇようにしてさ。オレもよく作って貰った」
「……ふぅん」
「遊戯ん家でさ、林檎食ってすっごい美味かったから思い出したんだ。あ、知ってっか?あいつも今日風邪引いて学校休んでさ、家で寝込んでるんだぜ。まあお前よりは元気だったけど」
「遊戯が?」
「そ。流行ってんのかもしんねぇな。昨日一緒に屋上に行かなくてよかったかも」

 ま、そんな事より、はい口開けて。先程よりも小ぶりのスプーンにすり林檎とやらを掬い上げて、城之内の手が口元まで寄って来る。既に慣れてきたその行為を特に躊躇無く受け入れながら、海馬はふと考えた。

 もし遊戯があの時共に屋上に来ていたら、城之内からの告白はなかったかもしれない。好き、というその気持ちを知る事はなかったのかもしれない。好きだと言われなかったら、今のこの状態もなかっただろうか。今日の数時間も経験しなくて済んだろうか。そう思ったが、即座にその考えは自分自身によって否定された。

 好きだという気持ちを知らなくても、きっとこの男はこの場に来たのだろう。それとこれとは話が違うと本人も口にしているし、実際行動を見ていればそれは嫌という程感じてしまった。未だ遠い距離だった時から特に用もないのに頻繁に社に顔を出していた男である。好きとか嫌いとか、そんな感情を見せる見せないはお構いなしに、ただ側に寄ってきたのだ。昔も、今も。

「お、偉い。全部食ったじゃん!美味かった?」
「……いちいち聞くな」
「じゃー後は薬だけな。このレモネードもついでに飲め。喉にいいんだぜ」
「……そんなに詳しいのなら何故自分の時にはそれを生かさない」
「だって面倒くさいじゃん。オレは我慢できるし」
「……馬鹿だな」
「馬鹿で結構。あ、カップは自分で持てる?手、添えてやろうか?」

 何時の間にか城之内の手には陶器の変わりにカップがあり、片手には薬である数種類の錠剤とカプセルを持っていた。それを落さないように海馬の手に移し、飲むように促すと、海馬は即座にそれらを一纏めにして飲み込んだ。そして直ぐにカップに口付ける。既に生温くなったレモネードを殆ど一気に飲み干すと口の中に刺す様なすっぱさと溶け切れなかった蜂蜜の甘さが残った。それに僅かに顔を顰めたものの、これで全て終了したのだ。海馬は、そして城之内は二人同時に満足気な溜息を吐き、そしてやはり同時に顔を見合わせる。

「なんか一仕事したってカンジ。ただメシ食わせただけなのに」
「……くだらん。お節介焼きめ」
「はいはいなんとでも。じゃー横になって下さい。後は寝てれば治ります」
「煩い。目的は達成しただろう。早く帰れ」
「あれ?まだ言いますか。オレ、『お前の熱が下がったら』って言わなかったっけ?まだまだ先は長いですよ」
「………………」

 はぁ、とあからさまに大きな溜息を吐いて、海馬はうんざりした顔を見せつつ横になり目を閉じた。気のせいか先程よりは幾分体がマシになった感じがする。そんなに早く薬が効くわけもないので、これは気分の問題なのだろう。そうに違いない。

 額に冷やりとした感覚が触れる。城之内が再び濡れタオルでも乗せ上げたのだろう。ずれない様に掌で押さえつけ、しばしそれは動かない。……視線を感じる。けれど、前よりは左程気にならなかった。呼吸が段々と腹式に変化する。緩やかに、眠気が襲う。

「オレ、ここにいるから。明日の朝まで、ここにいる。モクバも今日は寝かせてやりたいしな。ずっと看病してたんだろ?」

 何も言っても聞いてもいないのに、城之内が耳元で囁いた。何を言っている。早く帰れと言っているのにまだそんな事を言うのか。そう反論したいけれど、唇が動かない。

「幾らお前でもやっぱ一人は寂しいもんな。そうだろ?……熱がある時位寂しいって言ってみろよ」

 そんな事はあるわけない。勝手に決めるな。勝手に……。
 

「……聞いてねぇかもしんないけど。やっぱり好きだぜ、海馬くん」
 

 最後にそれで締めるか、この馬鹿が。

 そう海馬が思うと同時に、その意識は眠りについた。
 全ての感覚が閉ざされる瞬間、手を握り締められた気がするが、確かめる暇はなかった。
 

 
 

 その夜、海馬は夢を見た。
 その夢の中でも、城之内は同じことを言ってきた。否、同じ事ばかりではなく、余計な一言まで付け加えて。
 

 ── 好きだぜ、海馬。お前は?オレの事どう思ってる?
 

 その問いに、海馬は応える事は出来なかった。けれど「嫌いではない」という言葉も出てこなかった。
 

 好き、なのだろうか。まだよく分からない。
 よく分からないけれど、確実に……何かが変わった気がした。
 

 もう体は苦しくなかった。咳もそうは出なかった。

 掌に触れる彼の指先。その温度は、変わらない。
「お、お前熱大分下がったじゃん。よかったなぁ!」

 翌朝、耳元で大きく響いたその声に起こされて、海馬ははっと目を覚ました。そこには相変わらず笑顔の城之内がいて、彼が言葉通り朝までここにいた事を証明していた。ほんの僅か、目の下に薄らと出来た隈らしき影に、彼が一睡もしていなかった事を感じ、閉口する。

「馬鹿だな」

 思わず出てしまったのは、朝の挨拶や感謝の言葉以前に、口慣れたその一言。けれど、本心でもあった。こいつは本当に馬鹿な男だ。呆れるほどに……馬鹿な男だと。そう、思ったから。

「あ、ひでぇ。献身的な看病をしてくれたクラスメイトにそんな事言う?」
「クラスメイト?……そうか、貴様はクラスメイトか。……そうだな」
「え?なんか違うカテゴリにいれてくれんの?」
「入れるか馬鹿。貴様は永遠にクラスメイトだ」
「マジで〜?今から作ってくれよ。恋人カテゴリとかさぁ。そこに名前入れて」
「作らないし、入れない」
「入れてって。看病したじゃん」
「そういう目的ではないと自分で言ったんだろうが!……ああもう煩い!薬も飲んだ、熱も下がった!もう用はないだろう。早く出て行け!」
「……そうだよなぁ。一応全部クリアしちゃったもんなぁ。しょーがない、学校行くかぁ」

 海馬の言葉に、意外に素直に引き下がると、そう言って城之内は既に自分の場所として確保していたベッドサイドから離れていく。今度は本当に帰るつもりで身支度をしているのか、がさごそとコートを羽織る音が聞こえた。その音にほんの少しだけ、視線を向ける。身を起こして、立ち上がる城之内の姿を追う。

「じゃ、帰るわ。熱下がったからって無理しないで今日も寝てろよ。またくっから」
「来なくていい」
「遠慮すんなって」
「遠慮じゃない。本当に来なくていい!」
「いいからいいから」
「人の話を聞け!!」
「またな、海馬くん。お大事に」

 最後に嫌味なほどにっこりと微笑んで、扉の向こうに消えていくその姿を海馬はもう追う事はせず、彼に言われた通りゆっくりと養生すべく、再びベッドに横になった。既に平熱に近い額にはもう濡れタオルは必要なかったが、何故かそれが少しだけ寂しいと思った。それに気づいて、僅かに頬が熱くなった。全くどうかしている。

 熱はすっかり引いたはずなのに、心の片隅は未だとても暖かかった。それはまるでいつまで経っても引かない微熱のように、長い間海馬の体温をほんの少し上げていたという。
 

『好きだぜ、海馬』
 

 一昨日の事なのに何故か遠い昔に聞いた台詞のように酷く懐かしく感じながらその言葉を思い出した。後数日で、冬休みが始まる。

 次に学校で会えるのはいつだろうか。そんな事を考えながら、海馬は再び眠りにつく。

 その日も外には雪が降っていた。
 

 ── もうすぐ、新しい年が訪れようとしていた。