Act5 Fingertip
「今年は絶対オレが勝つからな!城之内!」
「……あん?何の話だよ」
「決まってんだろ!明日が何の日か知らねぇわけじゃないだろうな?」
「えーと、実力テスト?お前勉強もしてない癖にオレに勝とうってか?」
「はぁ?テスト?馬ッ鹿お前、何寝ぼけた事言ってんだ!バレンタインだよバ・レ・ン・タ・イ・ン。一年で一番盛り上がる日じゃねぇか!去年はお前に数で負けちまったがなぁ、質は断然オレの方が上回ってたんだ。今年はバイト先に一杯女の子がいるし、両方オレが勝つからな!」
「……あー……バレンタインかぁ」
「……なんだよその気の抜けた声。やる気あんのか?!もしや、勝者の余裕って奴じゃねぇだろうな」
「いや。そんなんじゃねぇけど。ま、頑張って、本田くん」
「てめー!馬鹿にしやがって!」
「馬鹿にしてねぇって。今年はモテモテだといいですね」
「やっぱり馬鹿にしてるじゃねぇか!」
「してないしてない」
ちらちらと雪が舞う、2月の第二月曜日。
今年は昨年の倍以上の降雪量で、連日大雪注意報が出される程、よく雪が降る毎日だった。ひらひらと手を振って一人ヒートアップする本田をあしらいながら、城之内は後残り15分となった昼休みを惜しみつつ、自席へと戻って行く。
教室の一番後ろの、窓際から二番目の席。昨年10月に実施された席替えから約4ヶ月。その間、隣の席が埋まったのは三本の指で数えられる程度でしかない。今年に至っては一度も隣の席の持ち主である彼……海馬は教室に姿を現してはいなかった。
ちらりと今日も変わらず空席のそこを眺め、城之内は溜息を吐く。海馬と最後に顔を合わせたのは、去年の冬休み前の数日で、しかも場所は海馬邸だった。
城之内が海馬に思い切って告白をした当日。それ以前に滞在していたニューヨークで悪性のインフルエンザを貰ってきてしまったらしい彼は、見事に発症して寝込んでしまったのだ。遊戯を通じてそれを知った城之内はこれ幸いに……という訳ではないが、勢い込んで海馬邸に乗り込んで行き、本人の意向をまるで無視する形で献身的な看病をしてやったのだ。
その甲斐もあって海馬の病状は程なく回復し、翌日には熱も下がり、翌々日にはベッドから起き上がり自宅で仕事が出来るまでになった。とりあえず発症から回復までの三日間、お見舞いを口実に海馬邸に足繁く通った城之内だったが、海馬が全快し仕事復帰をしてしまってからは彼が家にいる事など殆どなく、城之内も城之内で追試やら冬休みを返上してのバイトやらで、全く時間が取れなくなってしまった。
そして、今に至る。
「一ヶ月半かぁ……」
ぽつりと呟き、再び溜息。相変わらず眺めている隣の机には、この一ヶ月の間に配布されたプリントが束になって詰め込まれていた。そろそろ本人に渡してやらないと、追加分が入らなくなりそうだ。
そうだ。またこれを置きに行ってやればいいんだ。いい口実があるじゃねぇか。
そう思った城之内は徐に手を伸ばし、机の中に詰め込まれていたそれを引っ張り出して適当に上下を揃え、何かのお知らせのプリントが入っていた大き目の封筒にまとめて放り込んだ。それを今度は自分の鞄に押し込める。
現在やっているバイトは毎日の新聞配達と、祝日のビル掃除。放課後はほぼ暇な毎日だった。思い立ったら吉日って言うし、明日テストだけど、今日奴のところに行ってやろう。よし決めた!心の中で一人そう決意すると、城之内は午後からの授業に備えようと残りの数分を睡眠に充てるべく、組んだ腕を枕にして机の上に突っ伏した。途端に暗くなる視界にふと先程の本田の言葉が甦る。
『バレンタインだよバ・レ・ン・タ・イ・ン。一年で一番盛り上がる日じゃねぇか!』
今日は2月13日。明日は確かに彼の言う通り、バレンタインデーだ。
今までは毎年「今年は幾つ貰えるか」を友達同士で競い合い、14日の朝にはドキドキしながら周囲を伺い、靴箱やロッカー、果ては机の中まで朝一番に手を突っ込み、チョコレートが入っているかどうかの確認作業を怠らなかった。確かにある意味一年の中で一番盛り上がる日というのは間違いない。
けれど、今年は違う。
そんな日がある事すらすっかり忘れてしまう位バレンタインなどと言う物はどうでも良くなっていたのだ。世間一般のバレンタインは女が好きな男にチョコレートを渡すもの。男が好きな自分には全く持って関係ない。彼が自分に寄越すなどは天地がひっくり返ってもありえない事だった。
大体まだ二人の関係はそこまで到達していない。海馬に至っては城之内を好きか嫌いかすら曖昧なのだ。どうしようもない。
去年までは確実に楽しみだったバレンタイン。けれど今はもし誰か女の子からチョコレートを貰ってしまったら、断らなければならないのだ。毎回結構な数のチョコレートとそれに付随した告白を受けるその日は、城之内に取ってかなり迷惑な、面倒臭い日になりそうだった。
それを考えると、逆に気分が重くなる。今からそんな事を考えて憂鬱になるなんて、凄い贅沢な話だと思いながらも、そう悩まずにはいられなかった。
「……あー……面倒くせぇ」
思わず起き上がり、声に出してそう言ってしまった城之内の横を偶然通りかかった遊戯がちらりと見遣って、小さく笑った。その笑みは、城之内が何に対してそう言ったのか「知ってるよ」と言わんばかりの思わせぶりな笑みだった。
「な、なんだよ遊戯」
「明日は別の意味でサバイバルだね、城之内くん?ちゃんと言わなくちゃ駄目だよ。もう好きな子がいるからって。そうじゃないと、女の子達が可哀想だよ」
「そ、そんな事、わざわざ言う必要はねぇだろ」
「僕だったら言うけどなぁ。あ、でもチョコレートは欲しいから、黙ってるかな?」
「お前はそういう奴だよ」
「でもさ、問題なのは僕等じゃなくって、海馬くんの方だよね?」
「え?」
「海馬くんの事だもん、物凄い数のチョコレート、貰ってるんじゃないかなぁ」
城之内くんもそう思うでしょ?なんてにこやかな笑みを崩さずにそう水を向けてくる遊戯の顔を眺めながら、城之内は今まで全く思いもしなかったその事に、今更ながらに大きな衝撃を受けていた。
そうだ、問題なのは自分の方ではないのだ。
大企業の、見目もいい高校生社長である海馬本人の事情をすっかり忘れていたのだ。
彼の事だから遊戯の言う通り、それこそ数え切れない程のチョコレートと……告白を受けているかもしれない。いや、絶対受けている。これはヤバイ。
「あの、城之内くん?」
「そっちの事を完全に忘れてたぜ……」
「そっちって、どっち?」
「そーだよな。あんなに美味しい男を世の女どもが放っておくわけがないんだよな!」
「美味しいって……その表現はちょっと」
「だってそうだろ?顔はまあまあ、金はある、既に社長!どんだけ美味しいんだよ!」
「そ、そうだけど」
「やべぇ。どうしよう遊戯?!」
「どうしようって……僕に言われても」
城之内くん、僕は一応君のライバルなんだけど。
思わず出そうになった言葉を飲み込んで、遊戯は辛うじて口元に残っていた笑みを取り戻そうと必死になったが、目の前でヒートする相手を前にしてはなかなか上手く行かなかった。それでも、湧き上がる複雑な感情を必死に押さえ込み、遊戯は未だ一人で大騒ぎしている城之内を少し落ち着かせようと口を開きかけたその時、幸か不幸か午後の授業開始を知らせるチャイムが鳴った。
「あ、先生が来ちゃう。席に着かないと!」
「おい待てよ遊戯!」
「それは城之内くんの問題でしょ。自分でなんとかしなよ」
「えぇ?!冷てぇなぁ……」
「とりあえず、城之内くんも一枚噛んでみたら?バレンタイン」
「へ?」
「今はね、同性同士でもチョコレートを送るんだよ。色んな意味でね」
席に帰り際、振り返りつつそう口にした遊戯の声に、城之内はぽかんとした顔のまま、その言葉の意味を考えてみた。
バレンタインの、チョコレート。男だからといって、貰うばかりとは……限らない?
「授業を始めるぞー!おい城之内!お前教科書も出さないで何やってんだ!さっさと準備しろ!」
何時の間にか教壇の上に立った教師からそう一喝されても、城之内は暫くその顔のまま動かなかった。
そんな彼の頭に直ぐに白いチョークが飛んできて、午後の授業は速やかに開始された。
「あれ、城之内?久しぶりー!」
「うわっ、モクバ!お前も今帰りか?」
「うん。今日は真っ直ぐこっちに来たんだぜぃ。家にいても暇だしさぁ。兄サマに会いに来たのか?」
「へ?ああ、うん。……特に何も言わねーで来ちまったけど、海馬いるかな?」
「多分今日は会議もないはずだからいると思うけど……連れてってやろうか?」
「わりぃな。磯野捕まえるまでが大変でよ」
「お前どーみても社内では浮いちゃうもんなぁ。今度兄サマに頼んでICカード作って貰えよ。だと自由に出入り出来るから」
「いやぁ、さすがにそりゃ駄目だろ」
「なんで?別に兄サマはお前が来る事、嫌がってないぜ?この前だって追い返さなかったじゃん」
「…………え?」
「あ、正面からじゃ面倒臭いから幹部用の入り口使おうぜ。社長室にも近いし」
白い雪を踏みしめながら些か弾んだ足取りでそう言いながら先を行くモクバの背中を眺めながら、城之内は思わずその場に立ち止まってしまう。一時期よりは日が長くなり5時をまわった今でも外は大分明るく、外灯無しでもその姿は良く見える。
放課後、遊戯達の「ゲーセンに寄って行こうよ」の誘いを断って、城之内は予定通り、一人KC本社へと足を向けた。学校から徒歩で向かうには大分距離があったが、電車やバスを乗り継いで行くのも面倒だと、軽いジョギングがてら自力でやって来たのだ。
何処から見ても目立ち過ぎる巨大なビルは、既に馴染みのものとなった今でもやはり圧倒的な存在感を持って城之内の前に立ちはだかる。その巨大なビルの最上階近くにある社長室に腰を据える相手に挑もうと言うのだから、ある種無謀だと言われても仕方がない。
けれど、全く脈がないわけでもないらしい今の状態を鑑みればそんな事には腰を引いてなどいられない。
思わず真下から思い切り上を眺めてしまい、少々首が痛いな……なんて思い始めた頃、既に大分先に行ってしまったモクバが焦れた様に城之内の名前を呼んだ。
「おい城之内!何してんだよ!こっちこっち!」
少しだけ眉を寄せて兄譲りの尊大な態度でそう言い放った彼に、城之内は慌てて顔を元に戻し、立ち止まって手招くモクバの元へと走っていく。
何やってんだよ。もうそんなに珍しくもなくなった癖に。……なんて口を尖らせながら、生意気にも顎で前の扉を示してモクバは再び歩き始める。今度は大人しくその直ぐ後ろをついて行った城之内は、揺れる小さな背中を眺めながら、今し方彼の口から聞かされた台詞を頭の中で反駁していた。
『なんで?別に兄サマはお前が来る事、嫌がってないぜ?』
モクバから齎されたこの何気ない一言に、城之内は酷く動揺した。勿論それはモクバの見解であって、海馬本人からそれなりのリアクションがあったわけでも、好意的な言動を目の当たりにしたわけでもない為、真実は分からない。けれどモクバがあんな事を口にするという事は、少なくても他人の目から見ればそう見えると言う事なのだ。その事だけでもかなり進歩したと言わざるを得ない。
(ま、こっから先が物凄く難しい気がすっけどな)
はぁ、と小さな溜息を吐き、無言のまま足を進める。前方ではモクバがなにやらタッチパネルを操作し、数枚のカードを駆使してゲートを開いているようだったが、仮に自分が彼と同じ権利を与えられたところで、数十桁にも及ぶセキュリティコードやどれもこれも似たようなICカード群を間違えずに使う事など出来なさそうだった。
「はい、このカードをそこのリーダーに差し込んで。解除時間3秒だからもたもたすんなよ」
「3秒?!」
「ただゲート潜るだけで何十秒もいらないだろ。それに、後ろからくっついて来られたら困るしな」
「まぁ、そうだけどよ……」
「じゃ、お前が先に行けよ」
とん、とモクバの手に背を押された城之内は、言われた通りカードリーダーに手渡されたカードを差し込んで、瞬間開いたゲートに身を滑り込ませる。途端に妙な電子音が響き通過が成功した事を知る、次いでモクバも難なく潜り抜け、二人は無事社内へと入り込む事が出来た。
「このエレベーターは社長室のある高層階に直結してるんだぜぃ。幹部連中しか使わないし、誰も通さないで兄サマにこっそりと会いに行くにはいいかもな」
「べ、別にそんな必要はねぇよ」
「そうかぁ?いちいち受付通すの面倒じゃん」
お前、面倒臭いのが好きなの?変わった奴。
そういいながらやはり先に立って歩き、エレベーターに乗り込むモクバの背中を追いながら、城之内はやはり面食らってその姿を眺めていた。
こいつ知らないフリしてっけど、もしかしたらオレが海馬の事を好きなの知ってんのか?……そう城之内が訝しんでしまう程、いちいちモクバの発言は心臓に悪いのだ。知られたからと言って城之内本人が困ることは余り無いのだが、その事によってモクバの兄に対する心象を悪くするのだけは避けたかった。
「それにしても、お前が兄サマに会いに来るのって何時以来だっけ?」
「うん?海馬が熱出して寝込んで以来だけど」
「ああそっか。あの時はびっくりしたぜぃ。学校から帰って来たら、お前が兄サマの部屋に入り浸ってんだもん。でもお陰で兄サマ早く治ったし。兄サマって一回寝込むとなかなか治らないんだけど、お前どういう魔法使ったんだよ」
「いや?特には……」
「とにかく、あの時はありがとな!また頼むよ」
「早々海馬も寝込んでらんねぇだろ。あーいうのは普段の生活がモノを言うんだぜ。それはお前の管轄だろうが」
「えーだって兄サマ、オレの言う事なんて聞いてるフリしてるだけで、ちっとも聞いてくれないんだぜ。でもわかった、ちゃんと言っとく。……あ、着いたぜぃ。降りるからな」
モクバの言葉と同時に開かれる扉に城之内は即座に足を進め、余り居心地の良くなかった二人きりの空間から逃げ出すように広い廊下へと踏み出した。
遠くで足早に行き交うスーツ姿の社員以外に人気の無いそこはやはり異空間で、既に何度も来ている筈なのに一瞬気後れしてしまう。けれど直ぐに先を促すモクバの声に我を取り戻し、城之内は気を取り直して先へ進もうと身体の向きを少し変えた瞬間、とあるものを目にして絶句した。
「うわっ、なんだあれ?!」
「うん?どうかしたのか?」
「あの、社長室の向こうにあるダンボールの山……あれ、何だよ?」
「へ?ああ、アレかぁ。明日バレンタインだろ?兄サマ宛にチョコレートが一杯来てんだよ。社長室横の保管庫に入りきらなくってさ、外に出してるみたい」
「はぁ?!あれ、全部チョコレートだって言うのかよ?……まだ前日だぜ?!」
「当日に一気に来たら困るだろ。毎年の事だぜぃ」
「……桁が違い過ぎる……」
「お前兄サマをなんだと何だと思ってるんだよ。世界の海馬コーポレーションの社長サマだぜぃ!」
「………………」
そりゃ分かってるよ……分かってるけど……予想外過ぎる。
廊下の隅に無造作に詰まれたダンボールの山を見つめながら、城之内はただただ呆然とその場に立ち尽くした。
2
「兄サマただいま〜!」
「おかえりモクバ」
「今日は外すっごく寒いよ。今夜も雪降るかもしれないって。だから早く帰ろうよ」
「そうだな」
城之内が廊下でダンボールの山に唖然としていると、何時の間にか開かれた扉の向こうからそんな声が聞こえて来た。1ヵ月半ぶりに聞くその声はモクバを相手にしている事を考慮しても酷く優しく、そして同時に懐かしいと思った。
たかが一月半、と思っていたが、自分の与り知らない自分は大分その声や姿に焦がれていた事を知る。……こりゃ重症かも、とぽつりと内心呟きながら、城之内はいつ彼等の前に姿を現そうかと、そのタイミングを計っていた。
自分が姿を現した瞬間盛大に曇りそうな顔を思い浮かべるだけで、心が萎えてしまう。モクバぁ、お前気をきかせてオレを連れて来たって言えよ。出て行き辛いだろ。そう思い焦れてそっと様子を伺おうとしたその時、突然目の前に海馬の顔が現れたのだ。
「おい」
「うわぁっ?!」
「貴様、こんなところで何をしている。入るなら入らんか」
「か、海馬っ!?お前、急に目の前に現れんなッ!!」
「オレがオレの部屋の扉から顔を出す事の何が悪い。いいから入れ。貴様がここにいると扉が閉まらない」
いきなり城之内の前に立ちはだかった部屋の主は、特に態度の変化を見せず先程の声とは一変した低くつっけんどんな様子でそう口にすると、即座にくるりと背を向けて室内へと消えていく。
慌ててその後を追うように社長室に入室した城之内は颯爽とした歩みで元の居場所だったのだろうデスクへと戻り、即座に腰をかけ尊大な態度で足を組んでこちらを見た海馬から大分離れた場所で立ち止まった。
その状態でいきなり目線が勝ち合ってしまった彼は、余りに突然の事に思わず視線を逸らしてしまい、つい先程まで話していたらしいモクバの姿を探してしまう。しかし、あんなに楽しそうに兄と話していたその姿は見当たらず、どこをどう見ても室内には海馬しかいなかった。仕方なく恐る恐る顔を合わせて見れば、相手はこちらに問うような視線を向けたまま、片眉を上げていた。
「モクバは?」
「モクバ?隣の部屋に行ったが」
「隣の部屋?」
「この部屋の隣は副社長室だ。貴様、何度も来ていてそれすら記憶できないのか」
「あ、そうなんですか。気づきませんでした」
「それよりも、貴様は何をしに来た。オレに用があるのではなかったのか」
「へ?あーうん。まぁ、いつものプリント届けなんだけどよ」
「この雪の中それだけの為にわざわざご苦労な事だ。寄越すならとっとと寄越せ」
「何だよその偉そうな言い方。お前、なんか態度に磨きが掛かってねぇ?」
「別に普通だ」
フン、とやはり偉そうに鼻を鳴らして、徐に手を差し伸べてくるその顔を今度はしっかり睨みながら、城之内は鞄の中に放り込んできた書類がギッシリ詰まった封筒を取り出して押し付けるように手渡した。受け取った途端それを無造作に机の端に放った海馬は、直ぐに視線を正面のパソコンへ戻し、キーボードに指を滑らせた。
「ちょ、それで終わりですか?」
「貴様の用はそれだけなのだろう?」
「そ、そうだけどよ。もっとこうなんて言うか……なんかないのかよ」
「礼でも言って欲しいのか?貴様が勝手にした事に」
「うっわー!超むかつく。お前寝込んでた時の方が絶対いい。もう一回寝込め!」
余りに余りな対応に、思わず頭に浮かんだままの事を口にしてしまった城之内は、言ってから「しまった」と後悔した。何故なら、今の一言で特に表情に変化が無かった海馬の顔が、傍から見てもはっきりと分かるほど顰められたからだ。
多分一月半前の出来事は、海馬にとっては余り思い出したくない事なのだろう。城之内に取っては不愉快どころか美味しい、とも言える記憶だったが、何から何まで不本意尽くしだった彼にとっては既に忘れたい記憶なのかもしれない。
「なんだよ」
「そんな昔の事は口にするな」
「昔じゃねぇだろ。まだ一月半だぜ」
「………………」
「もしかしてお前全部無かった事にしようとか思ってんじゃないだろうな?大変残念ながらそんな訳にはいかないのです、海馬くん」
思い切り図星だったのだろう、途端に黙り込んでしまった海馬に、こちらは一転勢い込んで身を乗り出してまでそう言った。それに顰め面をますます顰めて、海馬は鬱陶しそうに身を引く。その眼差しには先程のようなある種攻撃的な色は消え、熱が出ていたあの時の様な幾ら睨まれても痛くも痒くもないものに変わっていた。
やはり彼は、意図的にあのような態度を取っていたのだ。
「オレは過去は振り返らない主義だからな」
「あっそ。オレは過去もひっくるめて大事にする主義だから」
「鬱陶しい事この上ないな」
「何とでもお好きにどーぞ。ところで、お前さっき何をしに来たって聞いたけど。プリント届けは建前で、本当は海馬くんに会いに来たんです」
「だから、何の用だと聞いている」
「さり気無くスルーすんな!あーもう用がなくちゃ来ちゃいけないのかよ」
「当たり前だ」
「っかー!ああ言えばこう言う!ほんと小憎らしいなお前っ!学校や仕事先で猫被ってんの全部ばらしてやりてぇ」
「やってみろ。誰も貴様の言う事など聞かないだろうしな」
「はっ、随分な自信がおありのようで。よし、じゃー今度やってやる」
「失敗して貴様が生徒指導室送りにならないようにな」
「お構いなく。慣れてますから」
ほんっとイラつくなコイツ!
そう思う気持ちを遠慮なく顔に出しながら、城之内は一向に意味を成さない会話に終止符を打つべく黙りこんだ。違う、こんな事を言いに来たんじゃない。これじゃーまるで喧嘩ふっかけに来てるだけじゃねぇか、前と同じだろ。……それを何よりもよく分かってはいるものの、どうしても本人を目の前にしてしまうと穏やかならぬ気持ちになるのは仕方のない事で……。
駄目だ駄目だ。ここはまず深呼吸。
と、際限なくヒートアップする様相を一旦落ち着かせようと、城之内は一人こっそりとニ、三度深呼吸を繰り返した。お陰で、少しだけ頭が冷えてくる。
「フン、何でもいいがオレは忙しい。邪魔をするなら帰れ」
そんな相手の様子を知ってか知らずか、こちらも少し態度を押えた海馬が再びパソコンに向き直ろうとしたその時、城之内は漸くこの部屋を訪れた一番の理由を思い出し、ふと何気なく口を開いた。
「仕事しながらでいいからよ。一つ聞きたい事があるんだけど」
「なんだ」
「……廊下にまで溢れまくってるあのチョコレートの山。あれ、どうすんの?」
「チョコレート?……ああ、毎年のアレか。どうするとは?」
「いや、だってあんなん食いきれないだろ」
「大抵は施設に配ってしまうが……欲しければくれてやるぞ。持って行け」
「持って行けって……」
余りに素っ気無く言い捨てられたその言葉に、城之内は思わず大きな溜息を吐いてしまう。彼に初めからデリカシーなど求めてはいなかったが、さすがにこれは酷い回答なのではないだろうか。勿論、城之内が聞きたいのはチョコレートの行方などではなく、あれと共に送られて来たのだろう『気持ち』に対しての海馬の見解なのだが、それをどう尋ねたらいいのかその方法が分からない。
あの中に所謂本命って奴があるのかどうか。もしくは海馬がチョコレートを欲しいと思っている相手はいるのか。……考えれば簡単な事だが、口にするのは難しい。
暫しの間、城之内は言葉を選ぶべく黙り込んで思案していた。
その姿を海馬が何気なく伺っている事に、彼は全く気づかなかった。
「兄サマ、またダンボールが5個ぐらい外にあるんだけど、何処に置いとく?保管室にはもう入らないんだけど」
「……研究室横の倉庫は?まだ余裕があった筈だが」
「あ、そっか。オッケー。……あ、河豚田?研究フロアの倉庫が空いてるって。うん。どの位余裕あるかもついでに調べて来て、まだ今日12日だし明日と明後日が一番多いから。そうそう。じゃ、頼んだぜぃ」
時は少し遡り、一日前の2月12日……日曜日の事である。
休日にも関わらず会社で仕事をしていた瀬人の元へ退屈だからとやってきていたモクバは、社に入った途端目にしたこの時期特有のダンボールの山に目を留め、瀬人に向かってそう訪ねた。それに素っ気無く帰ってきた返答に、そのダンボールの移動について話をしていた携帯に向かって言われた事をそのまま伝えた後、彼は相手の返答に満足そうに頷くと、パチンと音を立ててそれを閉めた。
そのままくるりと後ろのソファーに座す瀬人を振り返り、歩み寄って直ぐ隣に弾みをつけて腰を下ろすと、モクバは満面の笑みを湛えて兄を見あげる。
「やっぱり兄サマは凄いや。毎年毎年一杯バレンタインのチョコレート貰うもんな。どれもこれもすっごい高級なもんばっかりだぜ?さっきざっと見たらR社やU社の社長さんとか、アメリカの……なんだっけ?ほら、KCのCMに出てくれたハリウッド女優……名前忘れちゃったけど、愛を込めて、とかなんとか書かれたカードもあったぜぃ」
「下らん。あんなもの、製菓会社のバレンタイン商戦に躍らされているだけではないか。毎年毎年よくも飽きずに横流しされるだけのチョコレートなど送って来るものだ。悪い意味で関心するわ」
「兄サマ、甘いもの嫌いじゃないじゃん。一つくらい食べればいいのに。どれもすっごく美味しいぜ」
「いらん。送り主の正体すらわからん怪しい物体を口にする気などない」
「……怪しい物体って。チョコレートだってば。そういや兄サマ、学校の女の子からも貰ってなかったっけ?わざわざ会社に届けてくれたりさ」
「はっ!それが嫌でわざと14日は登校を避けているのに。空気の読めない女は願い下げだ。社員にはそれを徹底しているから、去年は社員からのチョコレートはゼロだった。実に清々しい。今年も是非そうであって欲しいものだな」
「ああもう……ダメだこりゃ」
はぁ、と小さな溜息を吐くと、モクバは少し離れた場所にある開封済みのダンボール箱に視線を送る。蓋を開けた途端弾ける位ぎっしり詰め込まれた中身は全て瀬人宛のバレンタインのチョコレートだ。同じ様な中身のダンボールは普段は資料の保管場所になっている部屋に所狭しと重ねられ、既に飽和状態。まだ2日前の12日だというのに大変な騒ぎである。
毎年チョコレートを貰えるか貰えないかの瀬戸際で苦悩をしている男連中には余りにも羨まし過ぎる話なのだが、当の本人は大迷惑だと言って憚らず、この世の中からプレゼントなどと言う風習はなくなってしまえばいい、と毎年苦い顔で吐き捨てるのだ。
何故バレンタインではなくプレゼントなのかと言うと、少し前のクリスマスでも似たような現象が起こるからだ。欲しくもないプレゼントの山に囲まれて、それでも礼儀として「ありがとうございます」といわなければならない理不尽さ。そういう意味で瀬人は冬は嫌いだと豪語する。
「兄サマは贅沢だよ。世の中には一つもチョコレートもプレゼントも貰えない奴だっているのにさ」
「……だから貰ったものは全て有効活用しているだろう」
「それはそうだけど。でも、贈った人にしたらちょっと悲しいと思うよ。見返り目当ての連中はまあ置いておいて、本当に兄サマが好きでプレゼントやチョコレートをくれた人が可哀想だよ」
「フン。可哀想だと?そういうのを好意の押し付けというのだ。知らない人間から好きだと言われたところで嬉しくもなんともない」
「…………兄サマって一生恋愛できなさそうだね」
「だからどうした」
「どうもしないけどさぁ」
呟きながらモクバは再び溜息を吐く。目の前にある、綺麗にラッピングされたチョコレートも、一枚一枚丁寧に書かれたメッセージカードも、瀬人に取っては『他人から押し付けられた怪しい物体』にしか映らないのだろう。
自分がもし瀬人に恋心を抱く女の子の一人だと仮定して、好意を示す手段として瀬人に心を込めて贈ったプレゼントがそんな認識の上で触られもしなかったら、心底悲しくなる。モクバ自身はどちらかと言えば人の心に配慮するタイプな為、余計に瀬人の態度は冷たいと思えるのだ。
尤もそれは生まれつきのものではなく、彼の成長過程に置いてそうならざるを得ない経験をしたからだ、とおぼろげには知っているのだが。
『瀬人様は……多少人間不信なところがございますから』
何時だったか、思い余ったモクバが磯野に瀬人の事を相談したところ、彼が言い難そうにそう言って瀬人を擁護していたのを思い出す。
……人間不信って。社長になったからにはそんな事言っていられないんじゃないの?だって社長って一番他人と関わらなきゃいけない仕事じゃない。ああ、だから社長になったばかりの頃は、よく熱を出したり体調を崩してたりしてたのか。
磯野と話をしながらモクバは漠然とそう思い、人知れず苦労をしていたのだろう瀬人の事を思い遣ったものだった。それから大分時が経ち、滅多な事で瀬人が体調を崩すことなど無くなったが、それに比例するように他人に対する態度が硬化していったのも事実だった。恐らく、そうする事で己を守っているのだろう。余りやり過ぎて敵を作らなければいいのだけど。……モクバの心配は後を絶たない。
不意に彼は視線をダンボールから隣の瀬人へとゆるりと移す。無表情で組んだ足の上に乗せた小型のノートパソコンを巧みに操り、高速で流れるデータを目で追っているその姿を凝視しながら、前よりもまた少し細くなった顎のラインや、キーボードを叩く白い手に必要以上にはっきりと骨や血管が透けて見える様に眉を寄せる。
12月の中旬に悪性のインフルエンザで寝込んだのが祟って仕事が立て込んでしまい、あれからまた碌に休む暇もない日々が続いていたのだ。あの時は3日で事が済んだから良かったものの、年末のただでさえ忙しい時期にそれ以上の休息は社の死活問題だった。本当に良かったと思う。
(……そういえば、あの時は城之内が来てくれたんだっけ)
当時の事は一月半経った今でもつい数分前の出来事のように良く覚えている。
前日から寝込んでしまった瀬人の看病でほぼ一睡もしないまま学校に行ったモクバは一日中眠気と戦いながら、酷い咳をして苦しんでいた瀬人の事を心配していた。授業が終わり掃除もそこそこに帰ろうと思ったら、不運な事にその日に限ってクラスで話があるとかで居残りを強要され、学校を出たのは日もすっかり落ちたほぼ夜に近い夕方だったのだ。
慌てて普段は呼ばない迎えの車まで手配して家に帰ってみれば、ずっと自分が座っていた場所に城之内が陣取っていて、大人しく眠っている瀬人の額に濡れタオルをのせ上げている所だった。彼はモクバを見た途端「勝手に上がっちまって悪かったな。でもお前の兄サマと磯野の許可は貰ってるからよ。今晩一晩ここにいるから」と言って何故か嬉しそうに笑っていた。
その後も手を出そうとする自分を制し「お前疲れてるんだから今日は寝ろよ」なんて言いながらその場所を譲ろうとはしなかった。
仕方なくその様子を少し離れたところで見守っていると、咳をすれば即座に立ち上がって背をさすってやったり、時折水を飲ませるために起こしたりと、どこからどうみても献身的な完全看護である。瀬人も瀬人で、驚いた事に城之内のやる事に一切抵抗したりはせずに大人しく従っている様だった。尤も、既に抵抗できる気力が残っていなかったのかも知れないが。
長年勤めたメイドでさえも、同じ部屋に長時間居座られる事を嫌がる瀬人が、城之内が側にいる事に何の異議も唱えずにいた事。モクバ以外には絶対に触らせる事が無い身体に触れても拒絶する素振りが無かった事。……それはとても不可思議なものとしてモクバの記憶に残ったのだ。
その後も瀬人が完全に回復するまで彼は正味3日間海馬邸に通ってきた。その間、瀬人は迷惑そうに顔を歪めていたが、決して力ずくで追い出そうとはせず、「煩い、邪魔だ帰れ」と口先だけで言うに留まった。あんな風に他人と気軽に接する瀬人を見たのは始めてだった。
(兄サマは、城之内の事を友達って思ってるのかな)
相変わらずパソコンから目を離さない瀬人を盗み見ながら、モクバは何とはなしにそう思う。城之内がどういう意図で瀬人の元に通うのかは分からないが、少なくても何らかの好意があるからなのだろう。
自分だってしょっちゅう遊ぶ友達は沢山いて、その中の誰かが風邪を引いて寝込めば何かお土産を持ってお見舞いに行くぐらいはするだろう。……泊りがけで看病まではしないだろうが。
瀬人の、他人に対する態度が硬化していく中で、ただ一人どんな形であれ相手をされている城之内。そういう人間が一人でもいるという事実に、モクバは他人事ながら少しだけ嬉しかった。出来ればもう少し沢山の人に優しくなって欲しいけれど、とりあえず今はこれで十分だ。
そう思い、モクバは無意識に口元を緩めてしまう。それに漸くその視線に気づいた瀬人が、いかにも不思議だ、と言った表情で眼下の顔に視線を移した。リズミカルに響いていたタッチ音が急に消える。
「モクバ」
「ひゃっ!……あ、え?何?兄サマ」
「……何故人の顔を見てにやけている」
「えっ?オレ、にやにやしてた?」
「今もしている」
「えぇ?!ううん、なんでもない。なんでもないからっ!」
「……おかしな奴だな。つまらなければ帰ればいい」
「そんな事ないよ。兄サマの側にいたいし。邪魔してごめん。仕事、続けていいよ」
「………………?」
慌ててそう答え、瀬人の視線から逃げるようにソファーから飛び降りてしまったモクバは、特に考えも無く、先程から注視していたダンボールの元に歩み寄り、何気なく手を伸ばし中身を一つ一つ取り出して眺めていた。別に興味があるわけでもなかったが、他にする事がないのだから仕方が無い。
赤やピンク・金や銀などの煌びやかな包装紙に包まれたチョコレート。その送り主の殆どが女性名だ。当たり前だ。バレンタインは女が好きな男にチョコレートをあげる日だ。昔からそういわれているし、CMでもそのイメージで流れている。モクバ自身、毎年学校の女子から数多くのチョコレートと勇気のあるものからは告白も受けているので、やはりそういうものだと思っていた。
今年は幾つ貰えるかな、兄サマには全然敵わないけど、オレだって結構モテるんだぜぃ。クラスでは一番だったしさ。兄サマにその事を自慢したら笑われるかなぁ……。
そんな事を思いながら次々と中身を物色していたモクバだったが、不意にポケットの中に入れた携帯が震え、着信があった事を知る。モクバは手にしたチョコレートをまた一つ床に置いてしまうとポケットの中から震えるそれを引っ張り出してディスプレイを眺める。そこには学校の友達からのメール着信が一件とあり、モクバは何気なく中身を見た。その瞬間「しまった!」と声が上がる。
そのメールには、こんな一文が書かれていた。
── 今日約束してた買い物に行けなくなった。悪いけど、お前一人で行ってきて。
「そんな約束してたっけ。すっかり忘れてた」
後ろの瀬人に聞こえないように、小さな声でそう呟くと、モクバは「了解」とだけ書いた返信を即座に送る。そう言えば日曜日の今日、彼ととある物を買う為に出かける約束をしていたのだ。元々余り気乗りはしなかったから丁度良かった。そんな事を思いつつ、携帯をポケットにしまう。そしてモクバは再びチョコレートを手にしようとして、ふとある事を思いついた。
(そうだ。兄サマに『これ』をさせてみようかな。兄サマのことだからまだアイツにお礼とか言ってないだろうし、丁度いいかも)
にやり、とモクバの口元に笑みが浮かぶ。そして彼は徐に後ろを振り返り、熱心に仕事を続ける瀬人の名を呼んだ。それに直ぐこちらに向けられた白い顔に、モクバは満面の笑みを浮かべながらこう言ったのだ。
「ねぇ、兄サマ。仕事が一段落したらつきあってよ。オレ、チョコレート買いに行きたいんだ」
3
「……は?チョコレート?何故?……お前は男だろう?」
モクバの余りに唐突な一言に瀬人は一瞬固まって、暫し絶句していたが、直ぐに疑問を多分に含んだ声が返ってきた。手はキーボードに置かれたまま首を傾げてモクバを凝視するその顔をやはり笑顔のまま見返して、モクバは弾んだ声で言葉を続けた。
「兄サマ知らないの?今バレンタインデーは女の子だけの日じゃないんだぜぃ」
「どういう意味だ」
「今はね、男同士や女同士でもチョコレートを贈りあうんだって。友チョコっていうんだ。友達に感謝の気持ちを込めて贈るってね」
「……そ、そうなのか?」
「今日友達とそれを買いに行く約束をしていたんだけど、友達が駄目になったっていうからさ。兄サマ一緒に行こうよ」
「いや、それは分かったのだが。オレは関係ないだろう」
「え、関係なくないよ。だって兄サマもあげる人いるでしょ?ついでだし」
「あげる人?……そんな人間がいるわけないだろう。どうしてオレが」
「いるじゃん、城之内」
「何?!凡骨だと?何故奴の名前がそこで出てくる!」
バチン!と大きな音がして瀬人の膝の上のノートパソコンが乱暴に閉ざされる。思いがけない名前を聞いた瀬人が勢い余って開いたディスプレイ上部に手を叩きつけてしまい、そのまま力任せに押し付けてしまったのだ。ピーという小さなエラー音が響き渡るが、そんな事など気にする余裕は彼にはない。
何故、モクバの口から城之内の名前が出て来なければならないのか……予想外にも程がある。幸か不幸か瀬人には、城之内が泊った日の後半部分は殆ど記憶が無く、モクバが彼の献身的な看病の様子をずっと見ていた事など知る由もなかった。
勿論モクバは純粋に今瀬人に説明した通り「友達に感謝の気持ちを込めて贈るチョコレート」という意味で言っているのだが、それがイマイチ理解できない瀬人にとっては、城之内に告白された事も相まって『そういう意味で』瀬人にチョコレートを贈れ、と指示されている様に聞こえてしまった。瀬人の過剰反応は「モクバが何故その事を知っている?!」という盛大な勘違いから起きたものだったのだ。
……しかし、幸いな事にその誤解は次のモクバの台詞で直ぐに解く事が出来たのだが。
「そうだよ。インフルエンザの時看病して貰ったんだからさ、感謝のついでにあげたらいいじゃん、チョコレート」
「……感謝?」
「うん。どうせ兄サマお礼も何も言ってないんでしょ」
「………………」
確かに、あれ以来顔は愚か連絡すら取っていないのだから、お礼など言う機会はなかった。そもそもその必要があると言う事すら頭に無かった。大体あれは城之内か勝手にした事だ。何度も迷惑だ、帰れと言い続けたにも関わらず、ずっと居座り続けたのだ。
その後も来るなと言うのにやって来てあれこれと煩く世話を焼いた。何故、その事に礼など言わなければならないのだろう。まあ……けれど、確かにモクバの言う通り、世話をかけた事は事実なのだから減るわけでもあるまいし、一言くらいなら礼を言ってやってもいい様な気はした。気は、したのだが。
それを何も『バレンタインのチョコレート』に変えなくてもいいのではないだろうか。まかり間違えば、今の自分の様に盛大な勘違いをされてしまうのかもしれないのだ。ましてや相手は自分に好意を持っている人間である。渡りに船とならないとも限らない。
あの一件後、瀬人の中で城之内に対する感情は告白された当初よりは多少……本当に多少はいい方向に傾いてはいるものの、『好き』という二文字には到底届かない。大体友達という認識すらないのだ。それを華麗に飛び越えて一気にどうこうなるなどありえない。
……そんな事を短い沈黙の間にぐるぐると考えていた瀬人だったが、ね?と可愛らしく言いながら身体ごと迫ってくるモクバに瀬人が逆らえる訳もなかった。殆ど剣幕に押し切られる形で頷いてしまった彼に、モクバは心底嬉しそうに立ち上がる。
「じゃ、丁度パソコンも閉めたところだし、これから行こっか?兄サマ目立つから格好を考えた方がいいよ」
「……わざわざ買いに行かなくても、その辺のダンボールから適当に見繕ってやれば……」
「だーめ!お礼の気持ちを人のチョコでしようなんてセコイぜぃ!」
「セコイって……」
「もー兄サマ往生際悪すぎ!別に恥ずかしい事するんじゃないんだから大丈夫だって!早く早く!」
結局、業を煮やしたモクバの強行手段により、瀬人は成す術もなく城之内に贈る為のチョコレートを買いに行く嵌めになった。
「えっとこれで全部かなぁ。7,8……うん。全部あるぜぃ。さ、帰ろう兄サマ」
何故、こんな事に。
モクバの横で、巷ではかなりメジャーなチョコレート専門店のオリジナル紙バックを握りしめた瀬人はそう呟くと額を軽く指で押えてそう呻いた。
同じ店に実は杏子の姿もあったのだが、幸いな事に二人が顔を合わせる事はなく、瀬人は無事知り合いの誰にも発見されず、社まで帰り着く事が出来たのである。
「……あの、さ」
「……何だ」
「あのダンボールの山の中に……いや、多分それはそれで違う場所にきちんと置いておくんだろうけど……」
「……?何の話だ?」
「お前は、本当にチョコレートが欲しい相手とか、いるの?所謂本命って奴」
「……本命?」
「そう、本命。意味わかんだろ」
長い沈黙の後、城之内は漸く意を決して重い口を開いた。こんな事を自分が聞くのは筋違いだと分かってはいても、どうしても聞かずには居られなかった。途端に再び部屋が静寂に包まれる。
海馬はそれまでまるで城之内がいないかの様にパソコンに目を留めたままだったが、今の言葉を聞いた瞬間驚いたように、けれど決して頑なな態度は崩さずにゆっくりと城之内の顔を見上げた。外はすっかり暗くなり、手元のデスクライトの光だけがぼんやりと辺りを照らし、眼下にあるその顔の……中でも瞳の青色がやけに目立つ。
……余計な事を聞かきゃよかった。
余りに長い無言の時に城之内が意気消沈しかけたその頃、不意に海馬の視線が反らされ、小さな溜息が聞こえた。そして静かな声が返ってくる。
「いる、と言ったら、貴様の中で何かが変わるのか?」
「えっ」
「どんな返答をしても変わるものがないのであれば、聞くだけ無駄だと思わないか?」
「どういう意味だよ」
「自分で考えろ」
「分かんねぇから教えろ」
「答えを聞くのが早過ぎる」
「考える時間が勿体ねぇもん。なぁ、どういう意味?」
ずい、と少しだけ顔を近づけて殆ど尋問のようにそう聞いてくる城之内に、海馬はやはり視線は合わさず再び溜息を吐いた。次いで本当に分からないのか、ともう一度確認してくる。それに城之内はうん、と素直に答えると、早く教えろ、と畳みかけた。
「……オレに貴様の言う『本命』がいたとして、貴様の気持ちは変わるものなのか、と聞いている。端的に言えば、そう言えば諦めるのか、と」
「あ、そういう事。当然諦めるわけないじゃん。お前に好きな奴が居たとしてもオレはお前が好きだ」
「……だから、無駄だろうと言ったのだ。よって今の質問に答える気はない」
「えーそれでもさー気になるじゃねぇか。マジどうなのよそこの所」
「煩い。これ以上貴様と話す気はない」
「海馬くん、教えてよ」
「早く出て行け。オレも今日は早く帰りたい。仕事の邪魔だ」
バサリと机上のブックエンドから取り上げた分厚いバインダーを別の位置に投げ出して、海馬は少し苛立たし気にそう言い放った。明らかに下降している機嫌にこれ以上粘ってもいい結果は得られないと判断した城之内は、名残惜しさを全面に出しつつも仕方なく今日の所はここで引き下がる事にした。
折角一ヶ月半ぶりに会えたのだからもっと沢山色んな話をしたいと思ったけれど、海馬の方はそのつもりが全くないのだ。その証拠にいつまで経っても動かない自分にギロリと鋭い眼差しを向けて、声にも出さずに「さっさとしろ」と言ってくる。
あーもーやっぱり可愛くねぇ。一月半前のあの出来事が嘘みたいだ。あんなに近づけたと思ったのにやっぱり直ぐに遠ざかる。指先だけじゃなくてもっと確かな所まで掴んでおかないといずれは離れてしまいそうだ。……そんな事を思いながら、城之内はまた暫く見られなくなるだろうその姿を見納めとばかりに凝視して、潔く彼に背を向けようとした。
が、その時。その視界の端に、至極不可解なものが映りこんだのである。
「……あ」
「何だ、煩いぞ」
「いや……なんでもねぇ。じゃ、オレもう帰るから。無理しねぇようにしろよ。そしてたまには学校に来い。三学期、終わっちまうぞ」
その台詞とは全く違う言葉が飛び出してきそうになるのを必死に堪えて、城之内は当初の予定通り、それ以上海馬の顔を見もせずにくるりと踵を返して部屋の入り口まで歩いて行った。気配で背後を伺っても海馬の様子は変わらないようだった。深呼吸をして、何も言わずに部屋を出る。自動扉が僅かな音を立てて開き、城之内の後ろでピタリと閉じた。
その瞬間、思わず彼はその場にしゃがみこんでしまう。
「……なんだよ、あれ」
磨き上げられた鏡のように綺麗な床の上に映る自分の顔。回廊のライトが眩く反射して目に痛く、微かに顰めた筈の表情は想像以上に歪んで見えた。
海馬が座す社長椅子の背後にある黒いシンプルなキャビネット。その上段部分に、城之内はあるものを見つけてしまった。多分海馬は隠しているつもりだったのだろうが、資料か何かを取り出した際に置き位置がずれてしまったのだろう。辛うじてガラス際に斜めに映ったそれは、見る者が見れば直ぐに分かる。
城之内には殆ど縁はないが名前と外装だけはよく知っている、有名チョコレート専門店のロゴが入った紙バッグ。中身は勿論チョコレート以外の何者でもない。
そんなものが、社長室のキャビネットに密やかに置かれていた事実。あの無造作に詰まれたダンボールの中とはあからさまに別扱いの、チョコレート。その意味は、嫌と言うほど分かる。
「なんだよ。本命……いるんじゃねぇか。大事にあんなところに隠しやがって」
ぽつりと呟いたその言葉に、自分が酷く傷ついた。いるならいると言えよ。心の準備が出来るから。でもあんな曖昧な言い方でかわされた挙句にこの仕打ちでは、余計に痛い。分かっていたつもりだったけれど、事実を目の当たりにしてしまうと落ち込みも倍増してしまう。
そういえば、「お前からチョコが欲しいんだけど」って言うのも忘れた。もうダメだ。なんかもう……ダメかもしんない。そう呟いて城之内は重く圧し掛かる憂鬱な気分に頭のてっぺんまで漬かってしまう。
後ろの扉一枚を隔てて好きな相手がそこにいるのに。何故かとても遠く感じる。自分で出てきた筈なのに、海馬のテリトリーから力任せに追い出され、彼の手で音を立てて扉を閉ざされてしまったみたいで酷く悲しかった。
今日という日に来なければ良かった。後悔をしても、もう遅い。
城之内は、ここが会社だという事すら忘れて、暫くそこを動く事が出来なかった。
数分後、偶然副社長室から出てきたモクバに声をかけられるまで、ずっとその場にしゃがみこんだままだった。
「ねぇ、兄サマ。城之内に何か言った?」
「……何か、とは?特に何も言ってはいないが」
「本当に?なんかすっごく落ち込んで帰って行ったみたいだけど」
「落ち込んで?」
「うん。だって今オレが副社長室から廊下に出たら、城之内がそこのドアの前でしゃがみこんでたんだぜ?どうしたのって聞いたんだけど、首だけ振って出て行っちゃった」
「なんだそれは」
「だから、兄サマがいつもの調子でキツイ事でも言っちゃったんじゃないかなって」
「何故オレの所為にする。オレは奴には何もしていない」
「えーそうかなぁ。絶対兄サマの所為だと思うんだけど。あ、そう言えば昨日買ったチョコレート、ちゃんと上げた?明日は会えそうにないんでしょ?」
「いや」
「ダメじゃん!何の為に買ったんだよ!もうっ!」
これだから兄サマはっ!と何時もよりも多少強い調子でそう捲くし立てるモクバの声を聞きながら、瀬人は今しがた弟から聞いた言葉に考えを巡らせた。自分の前では特に変化を見せなかったあの男が、この部屋から出た途端に落ち込んでしまったその理由は、当然瀬人には分からなかった。
まさか彼が、己の背後にあるキャビネットのチョコレートを……勿論それは昨日モクバと一緒に購入した『城之内に渡す為』のものだったのだが……を偶然発見してしまい、その意味を勘違いして一人落ち込んでいる事など想像すら出来なかったのだ。
(何か、奴にとって酷く傷つくような言葉を口にしてしまったのだろうか……?)
そう一人首を傾げてみても、思い当たる事など何もない。
「兄サマは、ちょっと人に冷たすぎるよ」
不意に、今まで何事かを言い続けていたモクバが、ガラリと口調を変えてそう言った。滅多に聞く事のない僅かに怒りの入ったその声に、少しだけ面食らった瀬人が今度はしっかりモクバを見据えると、彼はきつく眉を寄せながら腰に手を当て身を乗り出して更に口を開いた。
「折角兄サマに対して凄く親切にしてくれたのに、どうしてそういう事をするのさ。兄サマにとっては大した事じゃないかもしれないし、逆に迷惑になったのかもしれないけどさ。城之内は一生懸命だったよ。オレ、吃驚したんだ」
「………………」
「だから、そのチョコレートを上げて、ちゃんとありがとうって言わなきゃダメだよ。そんな事ばかりしてると、城之内も離れていっちゃうよ。それでもいいの?」
「モクバ」
「オレ、兄サマにもちゃんと友達とか作って欲しい。普通の人で居て欲しいんだ」
最後は殆ど詰め寄る形でそう口にするモクバの顔を半ば呆然と見遣りながら、瀬人は思わず大きな溜息を吐きそうになり、気力で堪えた。
おいモクバ……普通の人で居て欲しいと言うが。城之内と仲良くするという事は所謂普通の人がする事ではなく、結果的に普通の人ではなくなるという事なんだが。
そう内心呟きながら、瀬人は軽く頭を抱えたい気分になる。これまでの二人の軌跡や細かい事情を全く知らないモクバにそんな事を言える筈もなく、また知られたら知られたで悩みの種になりそうなこの事をどう処理をしたらいいか、瀬人には既に分からなくなっていた。
モクバが言うように「友達」にならもう少し違った接し方が出来るのかもしれない。けれど、相手が望んでいるのは友達よりも更に上レベルの関係で、こちらの言動がいつどう相手に影響するか分からない状態なのだ。不用意に好意を見せたりするのは得策ではない。
けれどどんな手段を使っても遠ざけたいとも思わないのだ。少なくても嫌いではない。かと言って好きと言うまでには達していない。余りにも複雑なこの心をどこに収めれば「普通」になれるのだろうか。
ただ、一つだけ言える事がある。
決して、傷つけたいわけではないのだと。
「明日……」
「明日、何?」
「学校へ、行く……から。その時にソレを持っていく。それで文句はないだろう」
「え?ちゃんと渡しに行くんだ?」
「そうしないとお前が怒るんだろうが」
「オレを言い訳にしないでよね。でも、それなら安心した!うん、ちゃんと渡して、お礼を言ってね?約束だよ」
「……約束、か」
「そう。後でちゃんと城之内に確認するからね」
学校になど全く行く予定がなかったのだが、こうなれば仕方ない。瀬人としても城之内の落ち込みの要因が全く気にならない訳でもなかった。自分の所為ならば何かしら改善策を用意しなければならないし、違うのならそれはそれで安心できる。どちらにしても彼に会う事は必要だった。
漸く見れたモクバの笑い顔に、ほっと胸を撫で下ろしながら、瀬人は急遽変更された予定にあわせてスケジュールを組み直すべく、再びパソコンに向き直った。
常よりも少し速めにキーボードを操りながら彼はふと、そんな自分の考えに一人密かに驚いていた。
また少し、何かが変わっていく。
明確にこれとは表現できない何かがほんの少しだけ、変わっていくのを感じていた。
4
下駄箱を開けると、三つ小さな箱がころりと落ちてきた。
ピンクの包装紙に真っ赤なリボン。リボンの間には『ずっと前から好きでした』と書かれた小さなメッセージカードが一枚。それをざっと見遣った後城之内はフンと小さく鼻を鳴らすと、それらを無造作に鞄の中に放り込んだ。元々弁当とカードとバイトのシフト表しか入っていないその中には、登校中に数人の女子に押し付けられた同じようなモノが数多く入っていたが、特にどうとも思わなかった。
去年まではその一つ一つに小躍りせんばかりに喜んでいたのに、今年は一つ貰う度に何故か憂鬱な気分になった。その原因は自分が嫌という程分かっている。
社長室に置かれていた、たった一つのチョコレート。
あんな小さな紙バッグ一つで人間はこんなにも落ち込めるものかと思う程、城之内は落ち込んでいた。くだらねぇ、と何度も一蹴しようとしたけれど、出来なかった。
「おい城之内!首尾はどうよ?」
のろのろと既に潰れた内ズックに足を通し、少し膨らんだ鞄を引っ下げて教室へと向かおうとしたその時、聞きなれた大きな声と共にドン、と背中に衝撃が訪れた。ついでがっしり肩を組んでくる冷たい手に顔を顰めながら城之内はおざなりに答えを返す。
「あー?現時点で10個」
「はぁ?!10個?!……ま、負けた」
「オレに勝とうなんて10年早いっての。肩離せよ、鬱陶しい」
「おやおや?去年の初動記録更新したってのにあんまり嬉しそうじゃないっスね。こりゃお目当ての子からは貰えなかったと見た!」
「うるせぇよ。教室行くぞ」
「おーこわっ。でもよ城之内、バレンタインはまだ始まったばかりだぜ。落ち込むのはまだ早いんじゃねぇの?」
「………………」
うるせぇ。オレのバレンタインは昨日でとっくに終わっちまったんだよ、ふざけんな。
そう声を大にして怒鳴りつけてやりたかったが、声をかけてきた彼……本田に当たるのは筋違いだ。そう思った城之内はそれでも怒りに沸騰しそうな頭をなんとか落ち着ける為に一つ大きな息を吐き出すと、肩に回された本田の腕を振り解き一人さっさと先へ行く。
本当に気分が悪い。もう今日は午前中でフケてしまおうか。そんな事を思いながら、常よりも大分重い足取りで教室へ向かう。項垂れて歩いている所為で途中すれ違うクラスメートにおはようすら返さずに、僅かに隙間が空いたスライド式の扉に手をかけて引き開け、一歩足を踏み出したその時だった。
トン、という軽い衝撃が俯いてやや下を向いていた額を襲った。多分教室内から出てこようとした人物とぶつかってしまったのだろう。足元ばかりを眺めていて、前を全く見ていなかったから、気がつかなかったのだ。
「あ、わり」
そう言って顔を上げぶつかった相手の横を通り過ぎようとした刹那、城之内は一瞬ぎょっとして固まった。何故なら上げられた視界の端に、信じられない人物の顔が写りこんだからだ。
そこに立って、城之内を冷ややかに見下すその人物。……それは、城之内の憂鬱の原因となっていた海馬その人だった。
「──っ!か……」
「痛いな。人が大勢居る場所では前を見て歩け」
「おまっ……えぇ?!なんでここに?!」
「オレが今日学校に来てはいけない理由があるのか」
「いや、だってっ、……昨日そんな事言ってなかったしっ……!」
「何故いちいち貴様にオレの登校日を知らせなければならない。いいからそこをどけ、邪魔だ」
「………………」
言いながら、ぐい、と海馬に肩を押され強制的に脇に避けられてしまった城之内は、すれ違っていく薄い肩を追うように目線をゆるりと背後に向ける。その視線を感じたのか、海馬も一瞬振り向いて城之内を見た。ただそれも一秒未満の出来事だった。
「ビ、ビビったぁ……マジかよ」
余りの衝撃にへなへなとその場に座り込んでしまいそうになるのを辛うじて堪え、些かふらつく足取りで自席へと向かう。隣である海馬の席には確かに彼が登校した形跡である真新しい黒革の鞄や筆記用具がきちんと揃えて置かれていた。
その更に奥、城之内から見て反対側の机の側面に付けられているフックには何やら紙袋らしき物が下がっており、辛うじて見える中身はその形状から察するに、城之内の鞄の中に入っているものと同じ物体の様だった。
……やっぱりあいつも学校の女から貰ったりすんのか。そんな当たり前な感慨を抱きながらとりあえず席に着き、一時限目の数学の教科書を引っ張り出す。その時、机の中に違和感を感じ手を突っ込んでみると、そこにも可愛らしい包装紙にくるまれたアレが詰まっていた。この時点で数としては新記録達成だった。
「あ、城之内くんおはよう!」
「おう遊戯。はよー」
「ね、吃驚したよね」
「あ?何が?」
「何って……君の隣の席の人だよ。まさか今日来るなんて思わなかったよね。城之内くんは知ってた?」
「いや、全然。だからすげービビってる。一体どういう風の吹き回しだ?」
「バレンタインだから……って事はないよね?」
「それは絶対にありえねぇ。学校ではむしろ嫌がんだろそういう事は。お前の言う通り、あいつ山程チョコレート貰ってたぜ。大半が義理だろうけどよ」
「やっぱりね。じゃ、城之内くんは?」
「へ?オレも一応貰ってるけど、それなりに」
「そうじゃないよ。城之内くんは、結局海馬くんにチョコレート上げないの?って事。昨日言ったじゃん」
「……ああ、上げねぇよ」
「なんで?こういう時にアピールしておかなきゃ駄目じゃん。僕はちゃんと昨日買ってきたよ」
「えっ?!」
「勿論『友チョコ』だけどね。城之内くんにも、はい」
そう言って、遊戯が差し出してきたのは、その辺のコンビニに売っている少し大きめなキットカット一箱だった。一応箱自体がバレンタイン仕様にはなっていたが、華やかな包装紙にも包まれる事はなく、本当に普段通りのモノだった。
「……サンキュー」
「海馬くんもちゃんと貰ってくれたよ。多分食べてはくれないだろうけどね。ありがとうって言われちゃった」
「………………」
言いながら照れくさそうにえへ、と笑う遊戯の顔を眺め見ながら、城之内は胸にちくりと痛みを感じた。それは自分に向かって言われたことなど無い「ありがとう」の言葉を向けられた遊戯に対する小さな嫉妬なのか、それとももう海馬には他に『本命』がいて、そいつからしっかりチョコレートを貰っているんだという事実を知らない彼への燐憐の情なのか……それは良く分からなかった。
「あ、そろそろ授業が始まっちゃうね。席に着かないと」
それきり反応の無くなった城之内の様子にも気にする事はなく、遊戯は慌てて自席へと走っていく。その姿をなんとは無しに眺めながら、城之内は新たに出現したチョコレートを鞄の中に押し込むと、筆箱からシャープペンを取り出して手持ち無沙汰にくるくると回し始めた。何かをしていないと落ち着かなかったからだ。
不意に校内に始業5分前の予鈴が鳴り響き、周囲が急に慌しくなる。ガタガタと椅子を引いて席に着くクラスメイトを眺めているとすっと後ろを何かが通る気配がし、次いで隣の席でも椅子を引く音がした。
海馬が帰ってきた!そう思い何故か恐る恐る視線を隣に向けると、案の定そこには普段と同じ無表情の海馬が教科書を取り出して静かに眺めている。パラパラとページを捲る音がやけに大きく聞こえ、城之内は暫しその姿に見入っていた。ふと、その視線を感じたのか海馬の顔がややこちら側に向けられる。
「何を見ている」
「……べ、別に見てなんかねぇよ」
「こっちを見ないでくれないか。僕は見られると気が散るんだ」
「……この期に及んでその言葉遣いに戻すのね。お前ってほんっと……」
「あぁ、そうだ、城之内くん」
「…………人の話は最後まで聞けよ」
「後で、屋上まで来てくれないか。昼休みの時でいい」
「は?なんで?」
「言いたい事があるから」
「今ここで言えねぇ事かよ」
「ああ」
「………………」
言いたい事だけさっさと言い切ってしまうと、海馬は再び目線を教科書に戻してしまう。やや俯き加減のその顔にさらりと髪が零れ落ち、表情すらよく見えなくなった。
── 話って、なんだよ。ここでは言えない話って。
ごくり、と小さく城之内の喉が鳴った。あの海馬がわざわざ学校に来た理由は、もしかしたらこの『話』にあるのではないかとごく自然にそう思ったからだ。そしてその話は……昨日見てしまったアレを考えるに、決して城之内に取ってはいい話ではない。絶対そうとはまだ言い切れないが、多分……ほぼ99%そうなのだろう。
背に冷たい汗が伝う。教室内を暖める温風ヒーターは窓際の足元に設置されていて決して寒くはない筈なのに、何故か酷い寒気を感じた。それが心の奥底からくる冷気だという事は分かっている。
一体昼の時間に屋上で、海馬はオレに何を告げるんだろう。昨日のオレが見てしまった秘密を自分の口から説明して、もう我慢も限界に達したから二度と近づくなとでも言うつもりだろうか。そんなにキツクはなくても、似たような事を言われるに決まっている。
何しろ海馬には好きな人間が存在しているのだ。自分の直ぐ傍の、振り返れば見える場所に置いておくほど大事にしているあのチョコレートを贈った人間が。
思いを廻らせれば廻らせる程、どんどん悪い方向へ突き進んでいく思考にいい加減嫌気が差し、城之内は午前中ずっと、今までの学生生活の中で一番真面目に授業へと耳を傾けた。内容は分からなくても真剣に教師の言葉を追っていけば、少なくても余計な事を考える余裕はないからだ。
時折伺うように隣の海馬の顔を盗み見たけれど、ついぞ答えは返ってこなかった。
そして時間は無情にも過ぎて行き、ついに運命の昼休み。
慌しく教科書を片付けながら城之内は素早く海馬に顔を向け、「どうすんの?」と聞いてみた。そんな相手の様子を特に気にするでもなく、海馬は無表情で立ち上がるとすれ違いざまに城之内の耳元に顔を寄せ、「先に行っていろ。オレは後から行く」と囁いて立ち去った。何故、とか、どの位待てば、とか言う前にその背中は廊下へと消えていく。
仕方なく城之内は大きな溜息を吐いて、今度は前回の教訓を生かしコートを羽織ると席を立った。途中昼食に誘う仲間の声が聞こえたが、ちょっと出てくる、と返して足早に教室を出る。「なんだよー」の声に混じって、遊戯の意味ありげな視線が外へ行く城之内の背に向けられたが、彼は全く気が付かなかった。
賑やかな廊下をすり抜けて階段を駆け上がり、一月半前に告白をしたあの場所へと辿りつく。重い鉄の扉を開けると二月の風が頬に刺すような冷たさを残し、吹き抜けて髪を乱した。雪は降ってはいなかった。
「こんな所に呼び出しやがって。また風邪でも引いたらどうすんだ」
はぁ、と大きな溜息を吐くと、白い息が直ぐに流れた。張り巡らされたフェンスに身を凭せかけ、遅れてやってくるだろう海馬が現れる筈の錆びついた扉を凝視する。あの扉が開いた瞬間、どんな顔をして彼を迎えればいいのかわからなかった。
何も聞かない内に「お前の言いたい事はわかった。みなまで言うな!」なんて言えないし、かといって何も知らないふりをしてへらへら笑顔を浮かべる余裕もなかった。
ああもう何でもいいから早く来て、言いたい事を言ってくれよ。心臓がもたねぇよ。内心そう毒づきながら、城之内は冷気を少しでも遮断するように、空いたコートの襟をかき寄せる。
その時だった。
ギィ、と耳障りな音がして、重い扉が内側から開かれる。瞬間緊張して身を強張らせた城之内の視界に、ゆっくりと海馬が姿を現した。彼は前回の教訓を全く生かさずこの寒さの中何も羽織らず、教室内にいた時と同じ学ランだけという格好だった。
「馬鹿!お前寒いじゃねぇか!何で何も着て来ねぇんだ!」
見ているだけでこちらが寒くなるようなその姿を見た途端、城之内の体から緊張がふっと抜け出し、思わずそんな声を上げてしまう。しかし海馬はその怒鳴り声も意に介さず、扉が閉まると同時にそれに寄りかかるように身を預けると、真っ直ぐに城之内を見た。そして間髪入れずに口を開く。
「そんな所に立っていないで、こっちに来い」
「だから人の話を聞けって!」
「いいから」
「なんだよ!」
「早くしろ!」
何でお前最初からそんなに喧嘩腰なんだよ!
そう喉元まで出かかった言葉を飲み込んで城之内は渋々フェンスから身を離すと、要望通り出入り口である扉から離れようとしない彼の元へと近づいていく。その様を、まるで睨むかのように目を細めて見つめていた海馬だったが、城之内が後数歩で手が届くという所まで来た瞬間「そこで止まれ!」と鋭く言った。
パタ、という城之内のゴム底がコンクリートを打つ音が大きく響く。
その、刹那。
さり気なく後ろに隠されていたらしい海馬の右手が、緩やかに上げられたと思った途端、城之内に向かって小さな何かが放られた。緩く弧を描いてコンクリートへと落ちていくそれを反射的に手を伸ばしてキャッチする。カサ、と小さな音がして自分の掌に納まったそれを何気なく城之内が見た瞬間、その目はこれでもかと大きく見開かれた。
何気なく受け止めた、その物体。
それは、城之内が昨日海馬の部屋で見た、あのチョコレートが入った紙バッグだったのだ。
「……えぇ?!」
「貴様にやる」
「はぁ?!だって、これっ……チョ、チョコレートだろ?!」
「そうだが、何か?」
「何かじゃねぇって!何でこれをオレに寄越すんだ。大体これっ……お前の部屋にあった奴だろ!!」
「何故知っている」
「何故って……っ!そりゃ昨日見たからって……えええ?!まさかこれお前が買ったのかよ?!」
「………………」
「そこで黙んな!」
何時の間にかきつく指先で握り締めてしまい少しよれてしまった、城之内を不幸のどん底に叩き落した有名専門店の紙袋。海馬が誰かから贈られた『本命』だと思っていたそれが、まさか海馬本人が『誰かに贈る為に買ったもの』だったとは、想像だにしなかった。
当然だろう。あの海馬瀬人が……誰かの為にモノを。ましてやチョコレートを買うなんて。一体誰が想像できるというのか。
「なんか、オレ……どう反応したらいいか分かんねぇんだけど……本当にオレにくれんの?この、『バレンタインのチョコレート』を?」
「………………」
「だから黙んなって」
「………………」
あーもーなんだよこいつ意味分かんねぇ。人にチョコレートを投げつけておいて、それがどういう意味のものなのかも説明しないでだんまりってありえるのか?……内心そう途方に暮れながら、城之内は暫し頑なに閉ざされてしまった彼の口をどうやって開かせようかと思案した。
ああ、でも……と、城之内は思う。
海馬がわざわざ今日という日にチョコレートをくれたという事は、バレンタインである事は間違いないのだ。本人もそれを分かっているからこそ、敢えて口を開かないのだろう。大体彼が言える筈も無いのだ。
バレンタインだから、チョコレートをお前にやる、なんて言う事は。
「……ま、黙ってても別にいいけど。オレはかなり好意的に解釈するぜ。今日って日にコレを寄越したって事は、そういう意味だよな?ちょっと調子に乗ってもいいよな?」
な?海馬くん?
そう言って至極嬉しそうな笑みを見せ、城之内は手の中の紙バッグを早速暴きにかかる。丁寧に包まれた包装紙を適当に破り、現れた黒い光沢のある箱をバッグの中で開いた。中にはちゃんとした一口大のチョコレートが12個、綺麗に仕切られて入っていた。
早速その一つを摘まんで持ちあげる。そのまま食べてしまおうと口元まで持って来た途端、それまで黙っていた海馬が先程の勢いはそのままに小さく低い声でこう言ったのだ。
「勘違いはするな。それは、女が贈るチョコレートとは意味が異なる」
「はい?」
「だから、それは別にオレが貴様を好きだからやるのではないと言っている。去年の冬に貴様には一応世話になったから……その礼だ」
「礼って……」
「分かったか!」
そんなにムキになって言わなくても、と城之内が呆れる程海馬は真剣にそう叫んだ。寒さのためかそれともいかに海馬でもこの状況には少し照れがあったのか、やや紅潮している白い頬が余りにも鮮やかに見えて、城之内は思わず凝視してしまう。
同時に、自分は今物凄く幸せだ、と思ったのだ。
どんな理由があろうとも、『本命』にチョコレートを貰う事が出来たのだから。
「はいはい、分かりましたよっと。海馬くんはオレの事が大好きだって事がね」
「き、貴様!全然分かってないではないか!……こうなるからオレは嫌だと言ったんだ!なのにモクバが!」
「人の所為にすんなよ。モクバか誰か知らねーけど、このチョコを買ってオレに投げたのはお前だろ。という事は全部お前の意思だって事だぜ。言い訳は見苦しいからもう黙れ」
「な……っ!」
「とりあえず、何でもいいけど頂きまーす。オレ、ここのチョコ大好きなんだよなー。高くって買えねーからいつも指銜えて見てるんだけどよ。……うん、やっぱすげー美味い!最高!」
言いながら城之内は既に摘み上げていたブロック型の生チョコレートを一つ、口に放る。舌にのった瞬間、直ぐに溶けて消えてしまうそれは、言葉通りとてもとても美味しかった。やっぱり、値段に見合っただけの事はある。けれどそれ以上に……海馬がくれたものだからこそ、凄く美味しく感じるのだ。そうに違いない、と彼は笑った。
もう一つ、と手を伸ばそうとして、城之内はそれをただ呆然と眺めているだけの海馬にふと気づき、気まずそうに反らされている視線を幸いに心持ち近づきながら、既に手にした二つ目のチョコレートを目の前に掲げ、笑顔を崩さずに口を開く。
「お前も食べてみる?」
「は?……いや、いい。いらない」
「自分が買ったモノがどれだけのもんか食べてみるのもいいかもよ?」
「いいと言っている。大体それはオレが貴様にやったものだ」
「うん。だから貰ったオレが一緒に食べようって言ってんの。お礼のつもりなんだろ?だったら相手の言う事を一つ位聞いてくれるのが筋ってもんじゃねぇの?大体まだオレ、お前にありがとうって言われてないし」
「……言って欲しいのか」
「いや。別に。そんなん言ってくれなくていいから、これ食べてみて」
「………………」
「一個だけでいいから。ほら」
言いながら、ずいっと海馬の前に手にしたチョコレートを近づける。それに「これを食べれば、もう帰ってもいいのか」と律儀に聞いてくる彼に、なんだそれ、と思いながら城之内は頷いた。すると渋々海馬の細い指先が伸びて来て、城之内の手からチョコレートを掴み取り、口に放った。
「美味い?」
「普通のチョコレートだな」
「お前は口が肥えてるからなー何食っても大した事ねぇんだろ」
「では、もう行ってもいいか」
「本気でこれで終わりですか」
「そう言った」
「じゃ、最後に一つだけ」
先程までの動揺は何処へやらチョコレートのお陰で冷静さが戻ったのか、飄々とした態度になった海馬の顔を真正面から見つめると、城之内は「何が?」と不思議そうに呟いた彼の指先を素早く捕まえて、その先端に口付けた。
否、正確に言えばその指先に僅かについた、チョコレートを舌で舐め取ったのだ。
そして、そのまま眼前の身体を引き寄せて、抱きしめた。
「── なっ!貴様!」
「美味いチョコレートありがとな。これは、お前の『礼』を受け取った印。プラスおまけ」
「ふざけるなっ!離せっ!」
「指真っ赤にしちゃって寒いんだろ?風邪引かないようにあっためてやるよ」
「余計な世話だ!」
「引いたら引いたで、また看病しに行ってやるけどさ」
そんな事を言いながらぎゅっと力任せに抱きしめられて、海馬は最初こそその腕を振り解こうと抵抗してみたものの、確かに暖かなその感触についに身動きすらやめてしまった。城之内の舌が触れ、僅かに湿った指先は吹き付ける冷気に冷やされて既に感覚が無くなっていた。
けれど、酷く熱いと思った。
今感じている温度ではなく既に数秒前の過去になってしまった……彼の唇の温度が、酷く熱かった、と。
「………………」
海馬がそんな事を真顔で考えているのと同時刻。本当はここでキスの一つでもしてやりたいけれどそれはまだ早いかな、と城之内は珍しく自制していた。
今はこれだけで十分なのだ。バレンタインの日にチョコレートを貰って、その指先にキスをして、もう簡単な事では離れないようにきつく抱きしめる事が出来た事。それだけで。
未だ海馬を抱きしめたまま、そんな感慨に浸っていると、遠くで昼休み終了のチャイムが鳴る。
「また、弁当食べる時間なくなっちまった」
「そのチョコレートで我慢しろ」
「色気ねぇなぁ」
「色気なぞ必要ないだろう」
「ま、そうだけど。……キスしていい?」
「断る。オレはまだ貴様の事をなんとも思っていない」
「……そうですか」
「そうだ」
「好きですよ」
「聞き飽きた。もう離れろ、教室に帰る」
「つれないなぁ、海馬くん……」
でも、やっぱり好きで。凄く好きで。
出来ればいつまでもこうしていたいと思ったけれど。
城之内は諦めて強く力を込めていた腕を解放し、途端に背を向けるその姿をじっと見つめた。腕に、そして掌に残る体温が、扉の向こうに素っ気無く消えて行くその身体を見失っても、寂しくないと教えてくれる。
2/14のバレンタイン。
城之内は、何よりも嬉しいチョコレートを握り締めて、海馬の後を追うように教室へ向かうべく駆け出した。そして席についても視線すらを寄越さない隣の席の『海馬くん』をちらりと見遣り、満足気な笑みを浮かべた。
帰り際に「気持ちが悪い」と嫌がられたけれど、そんな事はどうでも良かった。自分にこんな顔をさせているのは、他ならぬ海馬本人なのだから、と。
まだ外には冷たい風が吹いていても、彼の心には既に春が訪れようとしていた。
ほんの少しだけ……早い、春が。


