Act6 First kiss

 しとしとと降り続く雨の音が賑やかな教室に響き渡る。開け放たれた窓の向こうから水分を過分に含んだ寒い風が入り込み、白いカーテンを揺らしていた。雨の匂いが人の多いその空間を更に息苦しく感じさせる。

 誰かが作ったセンスのないてるてる坊主がカーテンレールの影で揺れて、頭と胴が逆になっているその様に、机に突っ伏してだるい身体を持て余していた城之内は、一人小さな溜息を吐いていた。

「城之内くん。次の古典、宿題やってきた?」
「うー。宿題なんてあったっけ?してねぇ。っつーかこうじめじめしてっとやる気でねぇよ。バイトも憂鬱だし。早く雨止まねェかな」
「ほんと、今年の梅雨は長いよね。もう7月も半ばなのに毎日雨ばっかり。気温も全然上がんない。昨日もさ、朝は晴れてたから傘持たないで出かけたんだけど、夕方から凄いどしゃぶりが降ったでしょ。お陰で本屋で買った参考書、使う前にびしょびしょになっちゃって」
「参考書?なんだよ遊戯、お前受験生になるのか」
「まぁね。どこでもいいから大学位は行っておきたいなぁって」
「大学、かぁ……」

 高校生活でさえギリギリのオレには縁のない話だね。そう口内で呟くと、城之内は視線を目の前の遊戯から、重く厚い雲が垂れ込めた窓の外へと向けてしまう。未だしつこく降り続く霧雨は辺りの景色をぼんやりと霞ませて鬱陶しさに拍車をかけている。

 何処までも薄暗い空の下。方向的にこの窓とは反対側の街中にある一際目立つビルの中で、海馬もこの陰鬱な光景を見ているだろうか。ふとそんな事を思い、再び小さな溜息を吐く。

(最近、あいつの顔見てねぇなぁ……)

 何時の間にか月日は巡り、既に季節は初夏だった。学年が上がり、教室も変わり、勿論席も綺麗にシャッフルされてしまった今、海馬の席と城之内の席は大分離れた場所になってしまった。相変わらず、というよりも以前よりももっと遅刻早退が増えた海馬は、今度はより迅速にかつ周囲への迷惑を最小限に抑える為か、教室後部にある扉の前の席にされてしまい、居眠りと脱走の多い城之内はそれよりも三列ほど前の、ど真ん中の席になってしまった。

 けれどそれを憂う事も余り無かった。教室内で海馬の姿を拝む事が殆どなくなってしまったからだ。三年になり、通常の勉強よりも受験対策に力を入れ始めた授業など、今更受験とは無縁である彼には不必要で。学校もそれを分かっているのか以前のように定期的に学校に来いとは言わず、全国模試等校外のテストを受ける事や出席日数を補う為に出される課題を提出するだけでよしとされているようだった。
 

『オレ等が必死に受験勉強したり、受けたくねぇ授業受けたりしてんのに、なんであいつだけ特別扱いなわけ?やりすぎじゃね?社長だかなんだかしんねーけど、学生なら学校に来いってんだよ』

『校外のテストだけ受けさせるってのがやらしいよな。なんだかんだ言って、あいつ全国一だからその名前だけ欲しいんだろ、うちの高校は』

『出席日数足りないんなら普通は留年なのによ。金でも払ってんじゃねぇ?いいよなー金持ちは金で何でも解決出来てよ』

『でも高卒ってのもアレだよな。あいつ大学行くのかな』

『知らねぇ。他人の事なんかどうでもいいじゃん。まずてめぇの事をしっかり面倒みねーとな。あーもう勉強したくねぇ』
 

 そんな海馬の事を受験勉強に必死な面々が憂さ晴らしとばかりに陰口を叩いていたりしたが、それとは全く別の意味で城之内も彼の待遇に対して多少なりとも不満があった。それは勿論学校という二人が唯一共有出来る空間で残り少ない学生生活を共に過ごしたいという意図があっての事だが、勿論そんな些細な願いが叶うわけも無く、今日もこうして背後の無人の席を振り返る事もせずにがっくりと肩を落としている。

(高校を卒業したら、オレ達はどうなるんだろう。オレもあいつもバラバラの道を歩むんだろうか)

 未だ『クラスメイト』という繋がり以上のモノが何もない城之内にとって、それは小さな恐怖でもあった。恋人は勿論、友達でもない関係。あやふやなそれは去年の十月から数ヶ月の間に大分改善されては来たものの、ホワイトデーの時以降碌な接触も出来ていない今、そんな些細な出来事など、きっと海馬の膨大な記憶の奥底に押し込められて、消えてしまっただろう。

「……捕まえた、と思ったのになぁ」

 バレンタインのあの日。冷たい冬風に悴んだ指先に、チョコレートを口実にキスをして、ついでにその腕ごと強く抱き締めた。どこもかしこも冷え切っていた細い身体は、それでも夢でも幻でもなくしっかりと存在していて。舌先に感じた甘く、そして冷た過ぎるあの指先の感触と共に城之内の中に残り続けたのだ。今でも軽く目を閉じればあの時の全てが蘇ってくる。

 あれから瞬く間に時が過ぎて、春が来て桜も咲いては直ぐに散って、着慣れた学ランをしまって夏服に変わっても海馬との距離は縮まらなかった。時折、既に習慣になってしまったプリント届けに顔を出しはするものの、忙しいのか海馬が顔を見せる事は殆ど無く、大抵社員の誰かやモクバに預けて帰る事になってしまう。

 同じ学区内に住む、酷く狭い世界で暮らす者同士なのに。どうしてこんなに遠いのだろう。毎日日課のように見あげるKCを眺めながら、溜息の数だけが増えていく。

 そんな事を考えて、やけにくさくさした気分になってしまった城之内は、そろそろ始まる授業の準備をしようと身を起こし、モノであふれている机の中に手を突っ込む。そんな彼の仕草を未だ席に帰らず何故かこの場で古典の宿題をやっていた遊戯ははたと見つめて、不意に思い出したようにこんな事を口にした。

「あ、ねぇ、城之内くん。来週の夏休み前の遠足。隣の市の独楽島だって。あそこ受験の神様がいるじゃん。昨日の午後にお知らせのプリントが配られたんだよ。城之内くん、午後からサボりだったから知らないだろうけどさ」
「は?遠足?あーそういえばそんなんあったよなー。めんどくせぇ。大体夏休み前に遠足とかありえねぇだろ。どういう学校だ」
「んーでもさ、息抜きにって意味じゃないかな。最近皆ピリピリしてるし、来週から面談始まるからね」
「面談とかどーでもいいよ。どーせオヤジこねぇし。オレ進学しねぇし。あ、なぁ。この遠足、金要るの?」
「修学旅行とかじゃないからお金なんて要らないよ。一日だしね」
「そっかぁ」
「高校生活最後の遠足だからさ、皆で一緒に行きたいよね。海馬くんも来てくれればいいのに。海馬くん、臨海学校も修学旅行も来なかったから」
「……授業すら受けにこねぇ奴が遠足に来るかよ」
「遠足だからこそ来て欲しいんじゃん。ね、城之内くん。海馬くんを誘ってみてよ。このプリント持っていってさ。最後ぐらい皆で一緒に出かけようって」
「……え?な、なんでオレが……お前が言えばいいじゃん」
「あれ、こんな美味しい役、僕に譲ってくれるの?いいんなら僕、喜んで海馬くんの所へ行って来るけど」

 そしてバスでは隣に座ってねって予約しちゃうよ?

 にこりと笑ってそんな事を口にする遊戯の顔は、梅雨只中の鬱陶しさを払拭するほど朗らかで。その笑みが一瞬眩しく感じて、城之内は少しだけ焦りを感じた。この間のバレンタインの時に海馬にチョコレートを上げたと宣言していた位だ。この遊戯も確実に海馬に対して少なからず好意があるのだろう。今までは特に気付きもしなかったが、ここ最近彼と話をする度に何故か出てくる海馬の話題に、その事が少しずつ分かって来たのだ。

 可愛らしい顔をして、なかなか油断出来ない相手である。ここで自分がうんと言わなければ、確実に彼は自分の言った言葉を実行に移すのだろう。例えそれが単なる城之内への勇気付けの為の挑発だったとしても油断は大敵だ。何事にも絶対はない。

 城之内は未だ笑顔で自分を見つめるその顔を暫しじっと眺めた後、机の中に突っ込んだ手でその中でも一番上に押し込められていた藁半紙を引きずり出し、その中身をじっくりと読んだ。そして、ゆっくりと後ろを振り返ると無人の席を一瞥して、再び遊戯を軽く見あげる。手にした紙は、勿論件の遠足のお知らせだった。

「……分かった。これをあいつのとこに持って行って、言うだけ言ってみる。多分無理だろーけどな」
「うん。でもなるべく行くって言わせてね?僕、未だに海馬くんのお弁当食べてないんだからさ」
「お前はまだ海馬の弁当に拘ってんのかよ。案外しつこいなぁ」
「一回気になっちゃうとどうしてもね」
「そんなもんかね。お、チャイムなったぞ。席戻れ」
「あ、うん。じゃ、また後でね、城之内くん」

 賑やかな話し声に混じって聞こえてくる授業開始の合図と共に、くるりと背を向けて自席に帰っていく遊戯の後ろ姿を眺めながら、城之内はもう一度藁半紙に目を落とす。そして、数時間後に訪れるであろう海馬との対面に、少しだけ気持ちが上向いた。
 

 外には、相変わらず細かい霧雨が降り続いていた。
「ただいまー!兄サマ、これ、総務から預かったよ。はい」
「……なんだこれは。検査には通ったのか」
「うん、だから持って来たって。多分これ傘じゃないかなぁ。ほら、やっぱり。……贈り物?」
「知らん。その辺に置いておいてくれ。お前が使ってもいいぞ」
「こんなに大きな傘いらないよー紺色とか渋いし。大体オレ折り畳み持ってるもん。でもさぁ、毎日雨鬱陶しいよね。体育もさ、プール入れないんだぜぃ。傘持って通学するの面倒だしさぁ」
「そういう時期なのだから仕方ないだろう。そんなに嫌なら車で行けばいい」
「んー鬱陶しいだけで嫌じゃないぜぃ。こういう時外で仕事の奴とか大変だよね。あ、そういえば城之内とかどうしてるかな。あいつ新聞配達とかしてるんだっけ?」
「知らん。何故奴の話になる」
「最近顔見てないなーと思って。兄サマも会ってないでしょ」

 前は頻繁にKCにも顔出してたのにね。そう言うと、モクバは持参した傘を瀬人の机横にあるラックに立てかけて、鞄を携えたまま続きの部屋である副社長室へと消えていく。パタンと閉まる扉を横目で見た後、瀬人は大きく息を吐いて、背後の窓を見遣った。

 連日降り続く梅雨の雨に濡れて途切れる事の無い水滴を眺めながら、確かに鬱陶しい季節だと感じる。室内仕事ばかりで滅多に外になど出ない自分には天気など余り関係なかったが、モクバの言う通り外仕事をする人間にとってはこの雨は大分厄介なものだろう。

 そこまで意識を向けてしまうと、雨の日も雪の日も、たまには愚痴を言いながらバイトに学校に精を出す、あの男を思い出す。

「………………」

 そう言われてみれば最近その姿を殆ど見かけなくなった事に今更気づく。相変わらず定期的に学校のプリント等が手元に来る事からKC自体には顔を出しているようだが、幸か不幸かそれはたまたま瀬人が不在の時ばかりで顔を合わせる事など滅多になかった。

 学校へは三年になってからなど数える程しか行っていない。こちらも人気の無くなった放課後や早朝に仕事ついでに職員室に寄る程度で、授業をまともに受けた事など皆無だった。勿論教室内がどうなっているかなど知るべくもない。

『昨日さ、席替えがあって。オレ、お前の隣になっちゃったんだよね』

 半年以上前にこの場所で至極嬉しそうに口にしていた城之内の顔。結局あれから隣の席になど片手で足りる回数しか座らずに終わってしまった。学年も上がり教室の場所すら移動してしまった今は当然席などバラバラで、自分は昔と同じ様に廊下側の最後尾にでもされているのだろう。それに特に感慨などなかったが、席替えなど余り意味が無かったな、と妙な可笑しさが込み上げてくる。

 人に好きだとかなんだとか意味不明な事を、人の意思などお構いなしに好き勝手言っておいて、三年になったと同時に顔を見せなくなったあの男。所詮奴の言う『好き』など単なる一時的な感情だったのだろうか。

 瀬人にとってはそんなものなど最初からどうでも良かったが、頼みもしないのにしつこく通って来たり、聞きもしないのに言われ続けた台詞が聞こえなくなってしまうと、どうにも落ち着かない気分になる。元々曖昧さを嫌う瀬人だからこそどうしても気になってしまうのだ。
 

『好きだぜ』
 

 真っ直ぐに人を見て、無駄に笑顔さえ振りまいて、そんな台詞を口にする城之内の事を馬鹿な奴だ、と心底思う。けれど、そう思いつつこうして考えを廻らせてしまう自分も同じように馬鹿なのだろう。恋愛は愚か友情すらよく知らない瀬人にとって、今のこの感情は不可思議な現象としか捕らえる事が出来なかった。まぁ、どうでもいい事だが。そう呟いて流しているつもりなのにやはり気になる。

 瀬人は再び小さな溜息を一つ吐くと机に向き直り、途中だったデータ処理を再開する。自分以外誰も居ない部屋に、軽快なタッチ音が響き渡る。余りにも静かな空間で徐々に集中し始めた、その時だった。

 突然大きな着信音が響き、内線ランプが明滅する。何気なく受話器を取ると、電話は受付からだった。常と同じきびきびと話す彼女の声が発したのは、瀬人にとって余りにも偶然過ぎて酷く驚いた台詞だった。

『城之内克也様がお見えになっておりますが、お通ししますか?』
「……あー、あのぉ、えっと……久しぶり」
「何をしに来た」
「ちょ、ひでぇ。いきなりそんな態度かよ。元気だった?……って元気一杯ですね。そりゃ良かった。お前、三年になってから全然学校に顔出さねーんだもん」
「受験対策の為の授業など受けて何になる。オレには関係ない」
「そうだろうけどさ。高校生活も後ちょっとなんだし、出来るだけ来いよ」
「時間が勿体無い」
「そう言わずにさ。オレも寂しいし。席はもう離れちまったけど結構近いんだぜ。」
「………………」

 海馬の元に城之内の来訪が告げられてから十分後、その言葉通り社長室に一人で現れた彼は、数ヶ月前と同じ笑顔を多少の照れと共に見せつつ、幾分控えめに自席に座る海馬の前へとやって来た。

 この雨の中傘も差さずに来たのか全身ずぶ濡れで、べったりと額に張りついた前髪からは雨水が垂れている状態だ。全面濃い藍色の絨毯に覆われているお陰で目立たなかったが、きっと彼が立ち尽くしているその場には水溜りが出来ているのだろう。

 何もこんな日にわざわざここへなど来なければいいのに。その姿を見た瞬間海馬はそんな台詞を口にしようとして辛うじて飲み込んだ。それを言う前に相手の方から「何も今日来る必要もなかったんだけど」と言って来たからだ。

「まあ、夕方のバイトが休みだったからさ。用事はいつものプリント届けなんだけど」
「そんな事はどうでもいいが。貴様、傘はどうした。今朝は早朝から雨が降っていたと思うが、まさかこの雨の中家から傘も差さずに出かけると言う阿呆な事はしていないだろうな」
「あ?傘?一応持ってるけどボロ傘だからさ。差しても差さなくても一緒でよ。でもプリントはちゃーんとファイルに入ってるから濡れてねぇぜ。ご心配なく」
「……オレが気にしているのはそのどうでもいいプリントの事ではないんだが」
「えっ、じゃあもしかしてオレの事心配してくれてるとか?!海馬くんやっさしー!」
「ち、違う!誰が貴様の事など気にするか!用事はそれだけか、ならば帰れ」
「久しぶりに会ったクラスメイトに冷たい事言わないで。用事はそれだけなんだけど、重要なのはその中身なんです」
「中身?」
「そ。ちょっとそのファイル貸して。えっと……」

 そんな事を言いながら城之内は一度海馬に渡したプリント入りのファイルケースを取り上げて、ぎっしり詰った紙束の中から比較的新しい茶封筒を取り出した。封がされていないその中身を取り出して広げると、ずいっと海馬の前に突き出して見せる。

「これ、なんだけど」
「なんだこれは。……遠足のお知らせ……これが、どうした?」
「どうしたって。そのまんまだけど。お前も行かねぇ?高校生活最後の遠足。まあ実際は合格祈願らしいけど」
「は?」
「は?じゃなくってさ。一日位なんとかなるだろ」
「何故オレがこんなどうでもいい学校行事に参加しなければならない?授業さえも出る暇がない人間を捕まえて下らない事を言うな」
「そりゃー授業に比べたらどうでもいいかもしんねぇけど。折角高校に入ったんだからさ、思い出作りとかしたくねぇ?」
「別に。オレはそんなものの為に高校に行った訳じゃない」
「じゃーお願いする。一緒に行こうぜ。遊戯もさ、まーだお前の弁当に拘ってんだぜ。だからお前に是非来てくれって」
「………………」
「別に事前に出欠取るもんじゃねぇから焦る必要ないけどよ。出来るだけ時間調整してみてくれよ。な?」
「……オレは」

 プリントを無理矢理押し付けて、有無を言わさない口調でそう捲くし立てる城之内の顔は真剣で、海馬は突っぱねようと開きかけた口を幾度も閉ざす嵌めになる。何が遠足だ、子供じゃあるまいし馬鹿げている。そんな言葉が何度も頭の中でリピートしているのに何故か口にするのが難しい。こんな時ばかり海馬の呼吸と城之内の話す間合いが妙なシンクロを見せ、海馬は結局自分の言いたい事が言えないまま、渡されたプリントを握り締める事しか出来なかった。

「オレ、さ。一度でいいからお前とどっか出かけたいなーって。お前の思い出作りってより、オレが思い出作りたいってだけなんだけど。だって、もう直ぐ離れ離れになるじゃん?高校卒業したらお前は会社に専念するだろうし、オレも多分働くし。一緒にいる時間、なくなっちゃうだろ」
「……今までだってそうだっただろうが」
「うん。だけどクラスメイトじゃなくなれば、もうここに来る口実……ないからさ」
「そんなもの……」
「だから最後に、一日だけでいいから一緒にいようぜ。オレ、何も凄い無理な事言ってねぇだろ?」

 余りにも強く言い募るその顔が滑稽なほど真剣で、海馬はそれ以上反論する気にもなれなかった。最後の台詞に思わず息を飲んで固まってしまったその顔を城之内はどう取ったのか、彼は瞬時にその真剣さを解いてしまうと、いつもの気が抜けたようなへらへらとした笑みを浮かべ、じゃ、そういう事だから、と言いつつ踵を返す。何時の間にか雨脚が強まったのか、窓を叩く雨音が微かに響く。

「おい、凡骨」

 未だ湿り気を帯びて何時もよりもボリュームが足りない金色の頭頂部を呆然とした視線のまま眺めていた海馬は、ゆっくりと離れていくその後姿に思わず小さく声をかけた。特に用事があった訳ではないが、何となくそうしなければならない気分になったのだ。

 くるりと振り向く何気ない顔。呼び止めた手前、何か話しかけなければと思うのだが、本当に突発的な行動だった為、かける言葉が見つからない。少しの逡巡の後、海馬は不意に視界に入ったあるものに目をつけ、不思議そうな相手の視線を受けたままそれに手を伸ばした。そして徐に放り投げる。

 反射的に手を出した城之内の右手に狙ったかのように収まったそれは、先程モクバが持ってきた、少し大きめの濃い藍色の傘だった。

「うわっ!なんだよ!って……何、これ?」
「貴様はそれが何に見えるのだ」
「や、傘以外の何者でもないけどよ。で、何?」
「くれてやる」
「えっ、ちょ、こんなめっちゃ高級そうな傘いらねぇよ」
「どうせ貰いものだ。それにオレは傘など使わんからな。また全身ずぶ濡れでそこいら中を水浸しにされても迷惑だ」
「……い、いいのかぁ?くれるってんなら、貰っていくけど」
「いいと言っている。さっさと帰れ」
「サンキュー。じゃあ遠慮なく。あ、さっきの事ちゃんと考えておいてくれよ。また来るから」
「………………」

 まるで子供のようにぎゅっと強く傘の柄を握り締めて笑顔でそんな事を言う城之内に、海馬は今度こそ二の句を次ぐ事が出来なかった。何時もなら、来るな!と強く叫ぶ口が今日に限って堅く閉ざされたまま動かない。その様を特に気にせずに一瞥すると城之内は表情を崩すことのないまま、軽い足取りで社長室を後にする。

 再び静けさを取り戻した空間で、海馬は別にそうする必要もまるでないのに、暫くの間じっとその場に立ち尽くしていた。その手元には、例のプリントが少し皺の寄った状態で置かれている。

 海馬は何気なくそれを一瞥すると、丁寧に折り畳み再び茶封筒の中へと戻してしまう。しかし彼はそれをファイルケースの中には入れずに机の端に静かに置いて、手放した。

 

2


 
「兄サマ、仕事終わりそうなら一緒に……あれ。磯野、兄サマは?」
「瀬人様なら少しラボの方に顔を出して来ると仰られて出て行かれましたよ。一時間程経ちましたから、そろそろお帰りになるのでは?」
「あ、そうなんだ。兄サマ、仕事終わりそう?」
「今日はもう会議の予定もありませんし机上も片付いていますので、ご帰宅なさるおつもりでは?」
「そうだね。やったぁ!久しぶりに兄サマと夕食が食べれるぜぃ!ここで待ってようっと!」

 城之内が海馬の元へ訪れてから数時間後。その間ずっと隣の部屋に籠って仕事をしていたモクバは、書き上げた書類の束を綺麗に纏め上げ特製の封筒に入れてしまうと、瀬人へ提出する為に社長室へと顔を出した。

 するとそこにはつい先程まで山積みのファイルに埋もれてキーボードを打ち続けていた兄の姿はなく、代わりにすっきりと整頓された執務机と、その前に姿勢良く佇む磯野の姿があった。彼の手にも重厚な皮の表紙で出来た機密情報が詰まった特製ファイルが握られている。

 その様子に一瞬小首を傾げたモクバは、直ぐに磯野の傍に駆け寄り冒頭の台詞を口にした。それをサングラス越しに穏やかに見返しながら、磯野はファイルを整頓された机上の一番中央へと静かに乗せる。トン、と言うその音が明確に聞こえる程、室内は静かだった。雨はまだ音を立てて降り続いている。

「瀬人様をお呼びしましょうか?」
「んー別にいい。呼んだって来ないし。あんまり遅い様ならオレから行くよ」
「そうですか。確かに、その方が宜しいですね」
「それにしてもこんなに机が綺麗なのって久しぶりじゃない?一応一段落したんだね。ここん所凄かったし」
「予定が詰まっておりましたから」
「少しはのんびりできるかなぁ。全然学校も行ってないみたいだし、心配だよオレ。兄サマ、大学へは行かないのかな」
「どうでしょうか……学歴に拘る方ではありませんし」
「そりゃあもう社長だしさ、必要ないのかもしれないけど。学生時代って今しかないんだぜ。お前だって人並みに学校には行っただろ?」
「わ、私ですか?まぁ、一応」
「オレは普通に学校とか行かせて貰ってるからさ……兄サマにだって普通に学校に行って欲しいんだよ。高校までは無理だったけど。まだ大学があるんだから」
「中学校には一応普通に通っておられましたが……」
「あれで普通?!オレ、当時の兄サマが笑った所見た事ないんだけど!友達なんかも全然いなくってさ!」
「……いや、まぁ……そうですよね」
「オレが言いたいのは、通ってればいいって事じゃないんだよ。ちゃんと学生らしい生活をして欲しいって事。学校に行って、友達と遊んで……そんな普通の事がなんで出来ないんだろう」
「それは」
「環境がどうとか、そういうのはまた別だからね。昔はともかく、今は出来るんだから。それをしないのは兄サマの所為!オレ、一言言ってやろうかな。城之内なんかにもさ、来てくれてるのに全然会わなくて!」
「モ、モクバ様」
「もー!」
「城之内……様は今日いらっしゃいましたよ。そしてお会いになった様です」
「……えっ?」
「いつもの様にプリント類を届けに来たらしいのですが……あ、ほら、そこのファイルと封筒がそれですよ」
「あ、ほんとだ」

 眼下のモクバの言葉に一々律儀に答えを返しながら、磯野は証拠とばかりに物が少なくなった机の上の一番隅に置かれていたこの部屋には似合わない安っぽいプラスチックケースと、薄い茶封筒を指差した。それに瞬時に興味を示したモクバは手を伸ばしてその二つを取り上げて、「中を見てもいいかな」と呟きつつ、勝手に手を突っ込んでしまう。それを口先では咎めつつも制止する気はないのか、磯野は結局自分も少し興味を持ってモクバの手元を覗き込んだ。

 小さな手の中に次々と現れるのは、100以外の点数が付いていないテスト用紙と細々とした学校からの連絡、そして受験に対する案内等や大学のパンフレットなどだった。それら一つ一つを二人は感嘆の声を漏らしたり興味深げな目線で眺めながら検分し、元通りファイルの中に戻してしまうと、最後に残ったのは件の茶封筒だった。

 勿論躊躇なく中身を出し、少し皺になっている藁半紙で出来たプリントを丁寧に広げて見る。

「……遠足のお知らせ」
「遠足、ですか?」
「うん、受験祈願に独楽島だって。何時……って、来週じゃん!兄サマ、これ見たのかな?」
「ここにあるという事は、ご覧になったのではないですか?」
「……行くつもり、ないかな?」
「多分。今までの事を考えますと」
「……うん、ないよね……」

 はぁ、と二つ分の溜息が部屋に響いた。その温かな空気にモクバが手にしたプリントが揺れる。『学生最後の小旅行』そう書かれた文面がやけに大きく見える気がした。

「学生最後の小旅行、だって」
「そうですね」
「行けばいいのに」
「そうですね」
「強制的に行かせようか?」
「そうで……はい?」
「そうだよ!オレ達が兄サマを行くしかない状況に追い込んじゃえばいいんだよ!」
「えぇ?!」

 不意にプリントを握り締めながら、モクバが目を輝かせる。そうだ。本人に行く気がないのなら強制的に行かせればいいのだ。これまでずっと学生である事を放棄して来た瀬人に、最後くらい学生らしい事をさせてあげたい。それが例えただの自己満足であっても構わなかった。それに自分は何度も兄には言ったのだ。

 普通の人で居て欲しいと、ちゃんと学生らしくして欲しいと……何度も。

 だから、これ位の事はしてもいい筈なのだ。

「まず絶対この日に予定は入れないようにして、他のスケジュールも全部調整して完璧な空白を作りあげる。今日で一段落着いたって事は、今から仕事を入れなければ大丈夫でしょ?オレが代われるものは全部代わるし。出来るだろ?それ位」
「ま、まぁ、不可能ではないですが。しかし、瀬人様がなんと仰るか……」
「兄サマの意見なんて聞かなくていいぜぃ。普段あれだけ我儘を通してるんだから、一回位言う事を聞かせたってバチは当たんないって。お前だってそう思うだろ?」
「わ、私からは何とも申し上げられませんが……」
「よーし、そうと決まったら早速調整に入るぜぃ。兄サマが帰ってくる前に準備しちゃおう。いいな、磯野!」
「は、はぁ……」
「大丈夫だって!兄サマがなんか言ったら、オレが全部引き受けるからさ!いいからそこに座れよ」

 さ、早く早く!

 そう言ってプリントを片手に笑顔で手招きをして来るモクバに逆らう事は出来ず、磯野は乞われるままに指し示されたソファーへと座り、モクバと顔を突き合わせる形となる。そして「じゃーここの、ロス支局のM氏との面談は月末に伸ばして……」と真剣に話し出すその声に神妙に頷きながら、僅かに口元を綻ばせた。

 結局は、彼もモクバと同じ気持ちなのだ。

「では直ぐに手配致しましょう」
「うん、頼んだぜぃ、磯野!」

 数分後、全ての事柄について入念な打ち合わせをした二人は、同時に顔を上げて至極楽しそうな笑みを見せた。計画は完璧だ、これで彼はぐうの音も出ないだろう。そんな悪戯心にも似た愉快な感情を全面に押し出しながら、モクバは何気なさを装ってそのままソファーへと身を預け、磯野は直ぐに携帯を取り出していずこかへ連絡を取り始めた。時刻は午後7時半。いい加減、瀬人が戻って来る頃だ。

「兄サマ、絶対怒るね」
「覚悟の上なのでしょう」
「うん。っていうか、別に怒られても怖くないし」
「そう胸を張って言えるのは世界でただお一人、モクバ様だけですよ」
「えへへ。だろうね。あーなんか、とっても楽しみになって来たぜぃ」

 言いながらモクバは手にしていたプリントを丁寧に折り返し封筒へと戻してしまうと、再び机の元の位置へとそっと置いた。
 

 開封した痕跡などまるでないように、完璧に。
「……どういう事だ?」
「何が?」
「だから、これはどういう事だと聞いている」

 そう言って、一般社員には悪鬼の顔と呼ばれた空恐ろしい表情で瀬人はスケジュール管理専用のPDAをテーブルの上に叩き付けた。携帯とほぼ変わらない掌サイズのそれは、その衝撃に僅かに画面を揺らす事もなく、小さく弾んで座するモクバの前まで転がった。それを恭しく取り上げて、彼は殊更ゆっくりと顔をあげる。

 モクバと磯野がこの場所で密談的な事をしてから一時間後。漸くラボから帰って来た瀬人は机上にわざとらしく置かれていたPDAにざっと目を通し、そこに記憶されていた彼にとっては寝耳に水な情報に瞠目した。そして即座に磯野に連絡を取ったが繋がらず、その様子を何気ない顔で眺めつつ、平然と持ち込んだ課題をこなしていたモクバへと向き直る。磯野に分かる事は大抵モクバにも分かるからだ。

「これからのスケジュールの話?」
「そうだ」
「兄サマの見たままだと思うけど」
「だから、それを聞いているのだが。何故明日からのスケジュールが全て空白や随時に変わっている。確かオレの記憶では会談や会議がぎっしりと詰まっていた筈だが?」
「うん、凄かったね。吃驚しちゃった。今月は働き過ぎだよ」
「そんな事はどうでもいいだろう。オレが聞きたいのは」
「そのスケジュールは誰が消したのか。スケジュール自体は何処へ行ったのか、でしょ」
「そうだ」
「オレと磯野だよ。対外的なものは全部日付変更の連絡済。皆快く了解してくれたけど?」
「連絡済?!」
「こういうのは早い方がいいでしょ」
「早い方がって……ちょっと待て!お前達、誰の許可を得てそんな勝手な真似をしたのだ?!」
「許可なんか貰ってないよ。全部オレ達が判断してやったんだ」
「…………はぁ?」
「だって兄サマに聞いたって駄目って言うじゃん」
「当り前だろうが!」
「だったら勝手にやるしかないでしょ。オレの言ってる事、何か変かな」
「変と言うか、根本からおかしいだろうが!」
「さっきも言ったけど、兄サマは働き過ぎだよ。だから休みをとって貰う。副社長が社長の休みを調整して何が悪いのさ。オレ位しかこんな事出来ないでしょ」
「いや、だから……!」
「だからも何もないの。もう決まった事なんだから何言ったってしょうがないよ。諦めて」
「モクバ!」
「怒鳴ったって全然怖くないし。何でもいいから早く帰ろう。オレ、お腹ペコペコだぜぃ」

 そう言って、瀬人の怒りにも全く我関せずを貫き通したモクバは、手早くテーブルの上を片付けると、まるでスキップをする様な軽やかな足取りで隣室へと消えて行く。その後ろ姿を怒鳴った姿勢そのままで眺めていた瀬人は、瞬時に湧き上がった怒りの持って行き場をなくしてただ茫然と立ち尽くした。

 投げ捨てたPDAを拾って再度データを確認する。やはりそこにはほぼ空白となった後半のスケジュールが表示されているだけだった。そして、良く見てみれば随所にそれまで一つもなかった「学校」の文字が刻まれている。それは何故か先程流し見た城之内が持って来たプリントに書かれていた校内予定と合致していた。

 夏期休暇前の校内テスト、全国模試、瀬人には余り意味のない今後の進路における三者面談、そして例の旅行の日まで。

 そこまで確認し、瀬人は今更ながらに気が付いた。そして彼は素早く身を翻し机上に置かれていた分厚いファイルを手に取った。パラパラと中を捲り、微妙に順番が入れ替わっている事を確認し、更に茶封筒にも手を伸ばす。中味は丁寧に折り畳まれいかにも手を触れてなさそうに思えるが、封筒に入れる時に間違えたのか上下が入れ替わっていた。

 ……見られた。そう瀬人が気付いた時にはもう遅い。

「兄サマ、帰り支度出来た?」

 その時、丁度身支度を済ませたモクバが相変わらずの笑顔で入ってくる。それをギロリと睨め付けてもどこ吹く風、まるで口笛でも吹きそうな気配だ。そんな弟を怒りの籠った溜息と共に見下ろすと、瀬人は取り出したプリントをひらりと音を立てて翻し、先程のモクバの発言を考慮してなるべく抑えた口調で口を開いた。

「……モクバ、お前はこれを見たのか」

 それを見せた瞬間、瀬人はモクバが少なからず動揺したり反射的に謝ったりすると思っていた。しかしその予想に反して、彼はその笑顔に些かの変化も見せず、だからどうしたと言わんばかりにしれっとして答えを返す。

「うん、見たけど」
「で、このスケジュールに変更したと、そういう訳か」
「さすが兄サマ、察しが早いね!」
「そういう問題か!!」
「そういう問題だよ!!」
「何?!」

 なんとかして声を荒げるのを堪えようとしていた努力も空しく結局大声を上げてしまった瀬人に、対するモクバは意外にもそれよりも大きな声で答えを返した。そして抱えていた鞄をソファーに放り、まさに臨戦態勢といった風体で大分高い位置にある兄の顔を睨みあげる。モクバのこの逆ギレにも等しい突然の激昂に瀬人は心底驚いて……しかしそれを見せない様に表情を取り繕いつつ、大きく息を吸い込んだ相手の顔を見詰めていた。

「兄サマは学生でしょ!学校行かなくてどうするのさ?!このままじゃ卒業できなくて留年しちゃうんじゃないの?!」
「そんな訳あるか!」
「へー。この間警告書、貰ってなかったっけ?オレが何にも知らないと思ったら大間違いだぜぃ」
「な!?何故それをお前が知っている?!」
「兄サマがオレの事をなんでも知ってる様に、オレだって兄サマの事は何でも知る権利があるんだぜぃ。あ、三者面談には、磯野に行って貰うからね!」
「三者面談?!必要ない!!」
「何で?『保護者の方』って書いてあったじゃん」
「磯野はオレの保護者ではない!……って、そんな事はどうでもいい!今の論点はそこではない!」
「じゃあ、元に戻そうか。まず座って」
「何故座る必要がある」
「兄サマとこうやって話すと、オレの首が疲れるから」
「………………」

 早く帰りたいのではなかったか。それよりも話が重要だし。……そんな会話を交わした後、渋々モクバの意向に従った瀬人は、些か乱暴にソファーへと腰を降ろし、少し拗ねた風にそっぽを向いた。勿論本人にそのつもりはないのだろうが、極たまに見せる兄の年相応な仕草にモクバは密かに心の中でほくそ笑んだ。都合上声を荒げはしたものの、モクバの中に怒りはない。

 モクバは座り込んだ瀬人を満足げに見下ろすと、まるで自分が年長者のように膝に置かれた手に自らの手を重ね、口調まで変えて再びゆっくりと口を開いた。

「……兄サマのスケジュールを兄サマの了解なしに勝手に変えちゃった事は確かに悪かったと思うよ。でもさ、オレや磯野は意地悪や悪気があってやってる訳じゃないんだよ。分かるでしょ、その位。大体、兄サマはオレにはきっちりと学校に行かせる癖に自分はサボるとかズルイぜぃ」
「さ、サボってるんじゃないわ!オレは!」
「直ぐにやらなくていい事を抱え込んでしてるっていうのは、結局は学校に行きたくないからでしょ。そうじゃなければ時間調整なんて幾らでも出来るもんね。現に出来てるじゃん」
「……受験対策の為の授業など出ても出なくても同じだろうが」
「オレは兄サマに授業を受けて欲しいなんて一言も言ってないよ。学校に行って欲しいって言ってるんだ」
「それこそ、必要ない」
「なんで。高校生は今しかなれないんだよ?」
「そんなものはどうでも……!」
「どうでもよくないよ。後半年でしょ。最後の半年ぐらい『学生』やれば?言っとくけどオレは大学まで行こうと思ってるよ。オレは全然兄サマに追いつかないし……だから勉強一杯したいんだ」
「………………」
「兄サマだって行きたかったら大学でも大学院でも行けばいいんだよ。皆応援するよ?だからオレはこうだって決め付けないで、ちゃんと考えて……ね?」

 そう言って、まるで懇願する様に自分の顔を見上げてくるモクバの顔を、瀬人はただ反射的に上げた視線で見あげる事しか出来なかった。何故、突然こんな事を言い出したのか分からない。だが、その表情は恐ろしい程真剣だった。
 

 握り締められた指先が、微かに痛い。

 それきり言葉を交わさずに二人は暫く口を噤んだまま見つめ合った。

 

3


 
 次の日も朝からどんよりとした曇り空で生温かい雨が降っていた。常ならば酷く憂鬱なその天気も、今の城之内には大した憂いにもならなかった。何故なら彼の手には新品の大きな藍色の傘が握られており、軽快な音と共に大粒の雨からしっかり身を守ってくれているからだ。

 尤も、履き古したスニーカーからは容赦なく水が染み込んでこちらは不快感を拭えなかったが、そんなものは今の彼にとってはどうでも良かった。

 まるで鼻歌を歌いたくなるような上機嫌。
 今の城之内を表現するにはそんな言葉が似合いだろう。
 

「城之内くん、おはよう」
「あ、はよー。遊戯」
「今日も朝から雨だねぇ。こう毎日続くと嫌になっちゃうよ」
「今年は梅雨が明けねぇって言うしな。しょうがねぇよ。ま、暑いよりはいいんじゃね?」
「?」
「?……どうかしたか?」
「城之内くんこそどうしたの?」
「え?なんで?」
「なんでじゃないでしょ。だって、昨日まで雨は嫌だ憂鬱だって散々ボヤいてたじゃない」
「あれ、そうだっけ?」
「そうだよ〜」
「んじゃー撤回」
「なぁにそれ。何かあったの?」
「んーまぁな」

 そう言って今度こそ口笛を吹きだしてしまった城之内をたった今彼の元まで辿り着き、普段通りの挨拶を口にした遊戯は、どこか奇妙なモノを見る顔付きで凝視した。その様子は沈み込んでいた昨日とは変わっているどころか正反対だ。一体何があったんだろう……頭に疑問符を貼り付けながらとりあえずその外見から理由を探ろうと無遠慮にじろじろと横顔を眺めていると、ふとある事に気が付いた。

 城之内が握り締めている傘の柄がコンビニに売っている安いビニール傘のそれではなく、艶やかな木目がやけに上品などこからどう見ても高級なもの。そして高級から連想する事柄……というか人物は遊戯の脳内には一人しかいない。

「……海馬くん?」
「えっ」
「その傘、どう見ても城之内くんのものじゃないみたいだけど……昨日、海馬くんと会ったの?」

 脳裏に浮かんだ言葉をそのまま素直に吐き出すと案の定図星だったのか、目の前の顔は大げさに驚いた表情を見せて、ほんの僅かに眉尻を下げた。同時に強く握られる傘の柄を少し呆れた風に見返して、遊戯は心持ち城之内の側によると、更に内心を探る様にじっと目線を近づけてくる。それを些か居心地の悪い顔で受け止めて、城之内は少しだけ唇を尖らせながらも、存外素直に頷いた。

「そうだけど……何で海馬って分かるんだよ」
「だってそれすっごく高そうだし、それに青って海馬くんカラーじゃん」
「青じゃねぇもん。紺っていうか藍色だろこれは」
「どっちにしたって青系でしょ。その傘、貰ったの?」
「……貰ったっていうか、施されたっていうか……」
「だからご機嫌だったんだね。良く分かったよ」
「……ちぇ。そんなに分かりやすいかなぁ、オレ」
「分かるも何もバレバレだよ。で?海馬くん元気だった?旅行に来るって?」
「あーうん。元気は元気だったぜ。でも旅行は即拒否。まぁ分かってたけど」
「やっぱり」
「まぁでもまだ日にちあるし、諦めてはないんだけどよ」

 そう言ってくるりと傘を回した城之内は、再び途切れた口笛を再開させる。つい昨日まではこの世の終わりみたいな顔をして、降り続く雨を恨んでまでいた筈なのに、何があったかは知らないが、『海馬』を補填すると彼はこんなに元気になってしまうのだ。そこここに出来ている水溜まりを軽い足取りで避けて行くその後ろ姿に、遊戯はなんだか自分までも楽しくなってしまう。
 

 7月19日の海の日。独楽島までの受験祈願日帰り旅行。
 

 電車とバスと船を乗り継いで近場に行くだけの簡単な工程だったが、やはり学生最後となれば思い出深いものになるに違いない。そして、最後だからこそクラス全員で過ごしたいのだ。学校行事がある度に、一人だけ顔を見せない彼も一緒に。

「海馬くんが来ないとさ、人数が39人になるじゃん?席が一人余っちゃってさ、可哀想だよね。臨海学校の班分けも修学旅行の部屋割もグループ活動も、全部一人になる人が出て来ちゃう」
「ああ、うん。まー大抵オレか本田が一人だけどなー」
「海馬くんが来るとさ、ぴったり席が埋まるよね」
「そりゃそうだ」
「だから僕は、やっぱり海馬くんに来て欲しい。お弁当の事も勿論そうだけど、一緒の時間を過ごしたい。バスや普通の電車に乗る海馬くんって絶対面白いと思うし」
「ちょ、面白いって」
「それは冗談だけど、でもそう思うでしょ?僕達と一緒に集団で行動して同じ乗り物に乗って、同じものを見て食べて、騒げとは言わないけどそれなりに楽しく過ごせたら……」
「あいつがそれを楽しいと思うかは微妙だけどな」
「そんな事は分かってるよ。僕の希望!」
「はいはい」
「……メールしてみようかなぁ」
「メール?」
「うん。返事が全然返って来ないから最近は遠慮してたんだけど、城之内くんが会えたっていう事は、今はそんなに切羽詰まってないって事だよね?旅行に来てよって、僕からも言ってみようかなって」
「………………」

 言いながら、徐に携帯を取り出してフリップを開けた遊戯に、それまで機嫌よく相槌を打っていた城之内の顔が少しだけ曇った。海馬にメール。余りにも日常的で尚且つ簡単な通信手段であるそれを、自分は持っていなかった事に気付いたからだ。

 携帯番号とメールアドレスの交換。ただの知り合いとでさえもごく自然と行って来たその行為を、尤も繋がっていたいと思う相手としていなかったという事実。酷く些細な事だったが些細な事であるからこそ、城之内は今更ながらにかなり大きな衝撃を受けたのだ。こんなに気分のいい、最高な時間の真っ只中で。

「……そういやオレ、海馬と連絡取れる手段って何一つ持ってねぇや」
「え?メールとか携帯の番号とか、聞いてないの?」
「聞いてない」
「意外だなぁ。君達の仲だから、もうとっくにメールのやり取りとかしてると思ってたよ」
「ないない。……っつーか、今気付いたんだけど、さ」
 

 オレ達の仲って一体どんな仲だよ。あの頃から何も進展してねぇよ。
 

 一方的に相手の元に押しかけるだけの片思い。メールアドレスを貰う事にすら気付けなかった。
 

 浮かれた気分が急激に沈んで行く。それまで気分の問題で見事なまでに感じなかった雨の憂鬱や不快感が一気に戻って来た気がして、城之内は俯いて既にずぶ濡れになってしまったスニーカーへと目線を落とした。身体は大きな傘が守っていてくれたけれど、沁み込んでくる水の感触が酷く気持ち悪い。

「城之内くん?」

 メールを打ち終えたのか至極満足気な顔をして携帯を閉じ、先程と変わらない声のトーンで自分の名を呼ぶ遊戯の声に、城之内は直ぐに応える事は出来なかった。視界に入る、彼が最近買い替えたと言う紫の携帯がやけに羨ましく目に映った。馬鹿馬鹿しいとは思うけれど、一度波立った心はそう簡単には静まらない。
 

「言えばきっと教えてくれるよ。僕だって、教えてってお願いしたんだもの」
 

 慰めてくれるつもりなのだろう。幾分優しい声でそう口にする遊戯の言葉が終わる前に、遠くでチャイムの鳴る音がした。始業五分前の予鈴である。それに咄嗟に城之内の手を握り締めた遊戯は「早く」と一言言うと相手の了承を得ずに駆け出した。差した傘が邪魔で余り早く走れない。けれどタイミングが良かったと、彼は胸を撫で下ろした。
 

 校舎に着く頃には二人ともびしょ濡れで、まさに最悪な状態だった。城之内は手にした藍色の傘を素早く畳むと、傘立てには入れずにそのままの状態で握り締めたまま教室へと向かう。
 

 何故か、手放す気にはなれなかったのだ。
 分厚い遮光カーテンを少しだけ引き開けると、空が酷く暗かった。

 気密性の高いガラス窓の所為で外の音は全く聞こえなかったが、透明なそれに細かい水滴が付いている事から昨日の雨はまだ止んでいないのだろう。毎日毎日良く飽きもせずに降るものだ、鬱陶しい。そんな明らかに八つ当たりめいた事を思いながら開いたカーテンをそのままにして、瀬人はとりあえず顔でも洗おうと踵を返した。

 すると丁度そのタイミングで軽いノックが二度響き、入れと口にする前に身を滑らせる様にして静かな部屋にワゴンを押した瀬人付きのメイドが入って来る。陶器同士が触れ合うカチャリと言う涼やかな音と、鈴を転がすような「おはようございます、瀬人様」の声に普段通り視線を巡らせて、瀬人は思わず眉間に皺を寄せた。彼女が腕に抱えていたものを見咎めたからだ。

「なんだそれは」
「夏の制服です。去年は衣替えの時期に御登校なさらなかったのでシャツのサイズが違ってしまって。急いで仕立て直したんですよ」
「いや、オレが聞きたいのはそんな事ではなく……」
「半袖と長袖、どちらにします?着慣れているから長袖の方がいいかしら?」
「だから……」
「こちらに置いておきますので、早めにお召替えなさって下さいね。今珈琲の用意を致しますから」

 瀬人が不服を露わにする前に、彼の扱いに長けているベテランメイドはそう言ってにっこりと押しの強い笑顔を向ける。その笑顔の前では不平を述べても無駄だと知っている瀬人は、苦虫を噛み潰したような顔で置かれた制服を少々乱雑に取り上げて、大胆にもその場で手早く着替え始めた。それまで纏っていた薄いシルクの夜着を腹いせに放り投げても、彼女は何も言わずにそれを取り上げて丁寧に畳んでしまう。

 久しぶりに着る夏服の感触。色々考える手間が面倒なので適当に手にとって羽織ったらそれは半袖で、緩すぎて心もとない首元と中途半端に二の腕を覆う布の感触に心底微妙な気分になる。身軽過ぎて落ち着かない。けれど7月ももう半ばに入り、校則で上に夏季の間は学ランを着る事は許されないので、仕方なく我慢するしかない。

 その事実に知らず舌打ちをした瀬人は顔を洗う為にバスルームに向かい、やはりここでも盛大に苛立ちを募らせつつ、思わず水浸しにしてしまった前髪から滴を滴らせながら戻って来ると、既にブラシを持って待機していた彼女の前にどかりと腰を下ろし、やはり不機嫌に鼻を鳴らす。そんな彼の態度にも慣れきっている彼女は常と同じく柔らかな栗色の髪に丁寧にブラッシングを施し、乱れないように軽く整えた。

「前髪が少し邪魔になって来たかしら?」
「別に。特に不自由はしていない」
「あら瀬人様。童実野校の校則を御存じないんですの?男女共に前髪は目にかからない程度に……」
「校則?下らん。ヒトデ頭や金髪男がいる学校に校則もクソもあるか」
「まあ。いい加減ご機嫌を直して下さらないと、私がモクバ様に叱られてしまいます」
「お前もグルか。ふん、機嫌など直る訳なかろう。不愉快だ」
「そんなに学校がお嫌なんですの?」
「人を不登校児の様に言うな。そうではない。時間の無駄だと言ってるだけだ。あんな何の利益もないところに拘束されて無為な時を過ごすより、仕事をしていた方がずっと楽しいし、有益だ」
「学生時代が一番楽しいのに……」
「それはお前達の感覚だろう。オレは違う」

 そう言ってつん、とそっぽを向くその姿は常に大人びて見える瀬人の酷く子供染みた仕草で、それに彼の弟を重ね合わせてやはり兄弟だとメイドは一人納得してしまう。同時に昨夜、何故か真剣な表情で「明日兄サマを学校に行かせるから手伝って」と自分に支援を持ちかけて来たモクバの顔を思い出し、自然と笑みが零れてしまった。

 そう、外見に騙されがちだがこの子はまだ成人すらしていない子供なのだ。毎日顰め面をして強面の男達を引き連れて全世界をまたにかけて飛び回ったり、やけに着慣れてしまったスーツを纏って食えない大人達の相手をし続けるのはどう考えてもおかしい。現に学生服を身に着けた彼は年相応でなんだかとても可愛らしいのだ。

(モクバ様は、瀬人様のこんな姿を一日でも長く眺めていたいのね)

 思わず目さえ細めてそう心で呟く彼女に、相変わらず口をへの字にしていた瀬人は更に眉間の皺を深くして低く唸る。

「……何を笑っている」
「いいえ。何でも」
「嘘を吐け」
「でははっきりと申し上げます。瀬人様の制服姿が可愛いな、と思ったんです」
「……は?」
「私は、いつものスーツ姿より制服を着ている瀬人様の方が好きですわ」
「……それもモクバの入れ知恵か。つまらない事を言うな」
「あら、本心ですわ。携帯の待ち受けにしたい位」
「やめろ」
「今日は雨だからいいけれど、晴れた日には日焼け止めが必要ですわね。瀬人様は日焼けをすると赤くなるタイプですし。手配しておきますね」
「何を言っている?何故晴れの日まで心配する必要がある」
「何故って。これからずっと雨とは限らないでしょう?来週だって予報は晴れですもの」
「余計な世話だ。来週は仕事が立て込んでいる。学校にも何処にも行く気はない」
「でも、決まってしまったんでしょう?」
「決まってなどないわ!」
「モクバ様はすっかりその気になっていましたわ。観念なさいませ」

 さぁ、どうぞ。と目の前に入れた手の珈琲を静かに置いて、彼女は瀬人の顰め面など全く意に介さずにまるで幼子にする様に人よりも大分高い位置にある頭に手を乗せると、手慣れた動作で隣室のベッドのカバーやシーツを外して腕に持ち、最後に瀬人の夜着を抱えて戻って来る。そして既に空となった瀬人のカップに手を伸ばし、食堂に早めに来るようにと促した。

「モクバ様が首を長くして待ってらっしゃいますよ。今日は兄サマと一緒に登校するんだ!と張り切っていましたもの」
「……モクバは常に歩いて登校しているのではなかったか?」
「ええ。よくお友達が迎えに来て、楽しそうに御登校なさってますわ」
「そうか。友人が多い事はいい事だな」
「あら、瀬人様にもいらっしゃるでしょう?」
「何がだ」
「お友達ですよ。私は残念ながらお会い出来なかったけれど、磯野さんの話では去年の暮れに何度かいらしてたとか。城之内さん、だったかしら?」
「……城之内が『友達』だと?」
「あら、違うんですの?バレンタインに友チョコを渡した、とモクバ様からお聞きしましたけど」
「……なっ、あ、あれは違う!」
「なんにしても一度ちゃんとお会いしてみたいですわ。今度お連れ下さいませ」
「断る。奴とはお前が思っているような関係ではない」
「でも、クラスメイトなんでしょう?」
「ああ。『ただの』クラスメイトだ」
「だったら、御学友という点でお友達に変わりありませんわね」
「………………」
「あら、もうこんな時間。急いで下さいね」

 瀬人の言う事など殆ど聞く耳を持たず、一人楽しそうに笑いながら次々と言葉を発していた彼女は、目に止めた置時計が示す時間を見た瞬間、慌てて踵を返して部屋を出て行く。ベテランメイドが立てるにしては少々耳障りな音を遠くに聞きながら、瀬人は一人大きな溜息を吐いた後不満気な舌打ちを一つして立ち上がり、部屋のクローゼットの中に半ば放られていた通学用の鞄を見つけ出す。

 酷く気が進まなかったが「今日だけだ」と自分に言い聞かせ、瀬人は諦めてそれを抱えると自室を後にした。
「あ、兄サマおはよう!」
「おはようモクバ」
「兄サマの半袖凄く珍しいね。童実野高校の夏服ってこんなのだったっけ?」
「……さぁ。オレではなく美波に聞いたらどうだ」
「兄サマってばまだ拗ねてんの?往生際が悪いぜぃ。いい加減諦めなよ。変更したスケジュールはもう再修正きかないんだからさ」
「………………」
「それよりも、朝ご飯食べよう?美波に聞いたんなら分かってると思うけど、今日オレも車に乗って行くからさ」
「オレはそんなに信用がないのか。ここまで来たら逃げ出したりなどしない」
「そうじゃないよ。兄サマと一緒に登校したいの」
「お前には一緒に通学する友達がいるんじゃないのか。そちらはどうする」
「そんなの昨日の内に断ったから大丈夫だぜぃ。三人いるから一人位欠けたって問題ないし」
「……問題ないって」
「あいつらとは毎日顔を合わせるし、学校でも一緒だもん。でも兄サマとは本当にたまにしか出かけないし……チャンスは有効に使わないとね!」

 そんな事より早く朝食!と今にも飛び跳ねそうな勢いで瀬人の腕を掴んだモクバは、そのままぐいぐいと力任せに広いダイニングテーブルの中央まで歩んで行き、瀬人を強引に席に着かせると、自分も急いでその向かいに腰を下ろした。

 モクバが静かに椅子を引くと同時に近間に控えていた給仕が銀盆に乗せた朝食を運んでくる。その量は年齢に大分差異がある二人とも同じ量だった。ただ一つ違うのは飲み物が珈琲かオレンジジュースか、その一点だけである。

「……兄サマまたそれだけ?オレと同じ量しかないじゃん。そんなんじゃー給食の時間までお腹がすいちゃうよ」
「問題ない。大体オレは学校で昼は食べない」
「えぇ?!なんで?!お弁当持ってってるでしょ?アレはどうしてるのさ?」
「心配するな。無駄にはしていない」
「……なにそれ」
「そんな事より早く食べろ。今日は雨が降っているから道が混む」
「雨止まないよねー。いい加減梅雨もあけてると思うんだけどなぁ。まぁ今日は兄サマが学校に行くからだと思うけどね」
「オレが?……どういう意味だ」
「だって、兄サマ雨男じゃない。オレ、降るだろうなぁって思ってたよ」
「……ああ」
「昨日の傘、持ってくればよかったね。結構兄サマに似合ってたよ、あの色」

 忙しなく手を動かしつつそんな事を口にするモクバの声を聞きながら、瀬人は視界に嫌でも入るカーテンの引き開けられた硝子窓の向こう側の雨降る景色を意識した。相変わらずどんよりと暗い曇り空。防音処理が完璧に施された室内では全く聞こえないが、この量ではきっと音を立てて降り注いでいるのだろう。

 ここ最近ずっとこんな空だったから、モクバに言われるまで忘れていた。そう言えば、自分は雨男だったのだ。今となっては結構な過去になってしまったが、自らそんな事を口にした記憶がある。

 あれはそう、城之内がどういう訳か足繁くKCへと通う様になって大分経った頃だ。
 

『オレは雨男だから、貴様の思惑は外れると思うが』
 

 城之内が自分の隣の席になったと、どうでもいい報告をして来たあの日。『隣の席に誰もいないのは寂しい、それにお前が居ると日除けにもなるから学校へ来い』と要求され、その際に少しの皮肉を込めて言った一言がそれだった。その後数える程しか登校していないが、幸か不幸か今日の様に本格的な雨が降る事はなかった。それ故自分の雨男効果など大した事はないと思っていたのに。

 そんな事を思いながら視線を固定したまま暫く静止していると、その様子を不思議に思ったらしいモクバが、やや首を傾げつつ瀬人の事を見上げてくる。

「……?どうしたの?」
「いや、何でもない」
「そう?なんかぼうっとしてたみたいだけど」
「少しだけ考え事をしていただけだ。……そう言えば昨日の傘の事だが、あれはもうない。くれてやった」
「え?誰に?」
「たまたまやって来た凡骨にだ。殆どゴミの様な傘を差して来て濡れ鼠になっていたからな。余りに哀れだった故、恵んでやったのだ」
「そう言えば昨日城之内、来てたんだもんね。……ふーん?」
「……何だ?」
「城之内、喜んでたでしょ?」
「さぁな。奴が持つには上等な物をくれてやったのだ。悲しみはしないだろう」
「そうじゃなくってさぁ」
「?」
「兄サマから傘をプレゼントされて喜んでたでしょ、って事」
「は?プレゼント?不要物をくれてやっただけだが」
「それでも、元は兄サマのものなんだからそれはプレゼントって事になるんだよ」
「いや、それは違うだろう」
「同じだよ。でもそっかー。兄サマも自主的にそんな事をする様になったんだね。やっぱり、バレンタイン効果があったのかな?」
「さっきから何を訳の分からない事を言っている。オレは別に」
「今日は一日学校に居るんだからお弁当、持ってくよね?ちゃーんとお昼に食べて来なきゃ駄目だぜぃ。ちょっと大きめなの作って貰ってさ、皆で食べればいいよ。どうせ兄サマ殆ど食べないんだしさ」
「モクバ、人の話を」
「あ、濱口!兄サマのお弁当宜しくねー!」

 瀬人が口を挟む隙も与えず一人で楽しく話と食事を終えてしまったモクバは空になった食器を前に「ごちそうさま!」と元気に挨拶すると、慌ただしく席を立って直ぐ隣にある厨房へと駆けて行く。そして言葉通り瀬人の昼食を手配するべく料理長に纏わり付いた。

 その様子を半ば呆けて眺めていた瀬人は半分に割ったクロワッサンに再び手を伸ばす気にはなれず、殆ど冷めている珈琲を飲み干すと、頭痛を堪える様にこめかみに手をやった。そして小さく嘆息する。

「……頭が痛くなってきた。なんだあれは。新手の反抗期か?」
「モクバ様の仰る事の方が正しいと思いますわ、瀬人様」

 そうごちた瀬人に傍で控えていたメイドの一人が、それ以上触れられないだろう皿を下げて、いかにも可笑しいといった風に笑みを溢す。微かに空気を震わせるその笑い声にますます瀬人の機嫌は降下して、ついには完全に眉を寄せた渋面になってしまった。しかし誰一人としてそれを気にする者はいなかった。

「……どいつもこいつも何なのだ一体。……まぁいい。磯野はどうした」
「あら、今日は一日学生でしょう?ですからスケジュールの確認は必要ないと言って、磯野さんは先程早めに出社しましたわ」
「何?!」
「モクバ様もそれでいいと仰って」
「………………」
「珈琲のおかわりはいかがですか?」
「いらん。もう行く!」
「あ、待ってよ兄サマ!後3分!」

 何時からKCは社長が入れ替わったのだ?!と内心酷く憤慨しながら、それでも怒りの持って行き場がない瀬人は、せめて態度に表してやると言わんばかりに乱雑な動作で席を立つと、ずかずかと大股で食堂を出て行こうとする。そんな彼の姿を慌てて振り返り、先程の言葉通り常よりもやや大きめな弁当箱を料理長から受け取ったモクバは、まるでスキップでもしそうな勢いで、嬉しそうにその後を追いかけた。

「今日のお弁当、すっごく美味しそうだぜぃ。あーあ、オレも給食じゃなくてお弁当が食べたいなぁ」

 外に出る間際、相変わらずそっぽを向く瀬人に弾んだ声でそう話しかけているモクバの声を聞きながら、残されたメイド達は再び肩を震わせるほどの笑いを誘われ、暫く己の任務を遂行する事が出来ずにいた。
 

「お可愛らしいわね」
 

 ぽつりと呟かれたその言葉に、皆一様に首を縦に振るのだった。

 

4


 
 本鈴と同時に教室に滑り込むと、湿度の高い熱気が一気に身体を包み込んだ。それに只でさえ深刻な憂鬱度が格段にアップして、城之内は走った所為で額から流れ落ちて来た汗を拭いつつ自席へと少々乱雑に腰を下ろした。握り締めていた傘を机の端に立てかけると大きな溜息を吐きながら腕を伸ばし顔を伏せる。

 今朝の一件で今日はすっかりやる気を無くしてしまった。授業など受ける気には到底ならない。腕と同時に伸ばした足先には例の傘がこつんと当たり、パタパタと滴をまき散らす。今朝家を出るまではこの荒れた空模様でも気にする事なく酷く浮かれた気分でいられたのに、今やダメージは甚大だった。どう頑張っても浮上出来る気がしない。

(切ねぇなぁ……)

 深い呼吸に合わせて自然と肩が上下するのを感じながら、城之内は自然と己の胸の辺りを握り締める。顔を合わせる事すらなかった長い空白期間中には何とも思わなかった事が、昨日顔を見て言葉を交わした所為で一気に噴き出してしまったのかもしれない。

 ……思ったより自分はこの恋にのめり込んでいたのだ。あんな些細な事で、こんなにも胸を痛めるほど。

「……城之内くん」

 朝礼はとっくに開始されたのに、未だ担任が教室に来ない為、周囲は酷くざわついている。その騒ぎに乗じて近間の席にいた遊戯がシャープペンの後ろで城之内の背を突き、小さく声をかけて来た。それに億劫だと言う態度を崩しもせずに振り向くと、彼は酷く申し訳なさそうな顔で口を開いた。

「なんかごめん、僕の所為で嫌な気分にさせちゃって」
「え、なんでお前が謝るんだよ。関係ねぇよ」
「だって」
「オレが凹んでるのは、メアドや携帯番号の交換すら思い浮かばなかったてめぇに対してだから。お前は全然悪くねぇの」
「……でも」
「今度アイツにあったらさ、ちゃんと教えて貰うから」
「うん。……あ、でもね、誤解しないで欲しいんだけど、僕と海馬くんがしてたやりとりってデュエルの事とか学校の連絡とか、そういう事だけだからね?」
「なんで慌ててそんな事言うんだよ、わかってっし」
「……ご、ごめん」
「大体、仮にお前と海馬が学校やデュエル以外の事で楽しく話してたとしても、オレに断る必要なんかねぇじゃん。オレはまだ、あいつのダチにすらなってねぇんだし」
「………………」
「だから、気にすんなよ」

 そう言って後ろ手にひらひらを掌を振りながら、城之内は自分に対して唾を吐きたくなる。本当は酷く気にしているし、気にして欲しい。そうでなければこんな言葉を遊戯に投げつける訳がないのだ。完全なる八つ当たりじゃねぇか、見苦しい。そう思いつつも昂ぶった感情や痛む胸を抑える術は見つからない。

 内容がどんなものであれ、二人がメールのやりとりをしていた事自体に嫉妬している。そう、これは純然たる嫉妬なのだ。未だ自分のものにどころか距離を縮められた気もしない相手に対してそんな感情を抱く事自体間違っているとは分かっていたが、覚えてしまうものは仕方がない。

(……そっか、オレは海馬の事で嫉妬すら出来ないんだ)

 また新たな憂鬱の種を見つける。なんだか考えれば考えるほど不毛な状態に陥っていくようで、城之内はますます落ち込んでしまう。机にべったりと頬を付け完全に伏してしまった顔を今日はもう持ちあげる気力が湧かなかった。

 が、次の瞬間彼の憂鬱はすぐに消し飛ぶ事になる。
 

「海馬くん?!」
 

 驚いた所為か聊か上ずった遊戯の声に教室がざわめいた。控えめな音を立てて開閉したのは前ではなく後ろ側の扉だったのだ。余りにも予想外な出来事に「嘘だろ?!」と内心叫びつつ、それでも確かめずには居られなくて即座に身を起こして背後を振り返った城之内は、図らずもばっちりと合ってしまった目線に思わず悲鳴を上げそうになった。

 確かに常に人気がない教室の隅の席に見慣れない格好をした海馬が佇んでいたから。

「………………」

 当の本人は周囲の喧騒を一瞬鬱陶しそうな顔で受け止めた後、直ぐに平静さを装ってそつのない動きで静かに席に着くと、手際良く教科書類を机の中におさめて姿勢を正した。その顔を肩越しに凝視していると、僅かに眉を寄せて睨まれた。その顔からは何も読み取れない。

 お前、なんでいきなり学校に来たんだよ。

 突然の事態に動揺を隠しきれずやけに忙しなく窮屈な姿勢のまま身を乗り出し、声に出す訳にはいかないから口だけを分かる様に動かしてそう聞いてみるが、早々に視線を外されてしまった所為で伝わらない。もどかしさにいっそのこと席を立って行こうと思ったが、その企みは遅れてやって来た若い女性教諭に邪魔をされ、叶わなかった。甲高い彼女の声が高らかに教室中に響き渡る。

「少し遅れてしまったけど朝礼を始めます。今日の日直は誰だったかしら?」

 担任である若い女性教諭にその声に慌てて立ち上がった目の前の男子が勢い良く「起立!」と声を上げた。それに一斉に従う生徒に混じり、城之内はもう一度後ろをみたが、ついぞ海馬と目が合う事はなかった。
 

 

 一方。他の生徒に混じり、きちっと礼儀正しく朝の挨拶を行った海馬もその実複雑な気持ちを抱えていた。

 久しぶりに訪れた学校は相も変わらず人口密度が高い所為で空気は悪く、いい加減な清掃の所為で小汚く、無駄に騒がしかった。特に校門からこの教室に辿り着くまでの間に向けられた奇異の視線や訳の分からない黄色い声が至極不快で、何故己はこんな思いをしてまでこの場所に足を向けねばならないのだろうと、理不尽な怒りまで感じる始末だ。

 学ランがない所為でポケット不足の上半身にやはり苛立ちを募らせながら、仕方なくズボンに忍ばせたPDAを握り締めてその怒りをやり過ごした彼は、完全に周囲の事をシャットアウトし遊戯の声すら無視をして自席へと腰を下ろしたのだ。今日は一日この場所で過ごさなければならないのか。鞄に無理矢理入れられた弁当を思うにつけ、ますます気持ちが萎えてくる。

 無遠慮な視線を投げつけられたのはその矢先だった。余りにも鬱陶しいその眼差しにうんざりして顔を上げてみれば、そこには予想とは違う複雑奇怪な顔をした城之内の顔があった。それにどこか居心地の悪い思いをして直ぐに視線を反らしてしまったが、彼は相変わらずこちらを見ている様だった。
 

 なんなのだ、一体。

 声には出さずそうごちて、海馬は密かに舌打ちする。
 

 いつの間にか朝礼は終わり、人が動く気配がした。だが、直ぐに響いた一時限目のチャイムと、やってきた教師によって直ぐにそれは収まりを見せ、室内に静寂が戻って来る。

 俯いた顔を少しあげる。

 しかし前を見た目線の先には城之内の後頭部があるだけで、振り向く気配はなかった。

 それが何故か妙に気に障り、そんな自分に海馬は再び眉を顰めて小さな舌打ちを一つした。
「海馬っ!」

 古文教師が後ろ手に扉を閉めるのと、城之内が教室中に響く声でその名を呼び勢い込んで最後部にある海馬の席へと駆け出したのはほぼ同時だった。一気に喧騒に湧く教室内で一際騒がしい音を立てながら、彼は即座にいつの間にか綺麗に片づけられた机上に両手を付く。そしてずいと顔を近づけて口を開いた。

「お前、何で学校に来てんだよ。昨日はそんな事一言も言わなかったじゃねぇか!」
「……朝から大声で人の名前を呼ばないでくれないか。頭に響く」
「んな事はどうでもいいんだよ」
「良くないよ、不愉快だ。僕だって今日は学校になんて来る予定じゃなかったさ」
「はぁ?じゃ、なんで?」
「きさ……君の所為だぞ。あんなプリントを持って来るから」
「プリント?……ああ、昨日の奴か。でも旅行は来週だぜ?」
「旅行だけじゃないだろう?あのプリント群のお陰で夏季休暇までの校内スケジュールが全部知れてしまった」
「誰に?」
「モクバにだよ」

 だからこうして来たくもない学校に来る羽目になったんじゃないか。

 いかにも腹立たしいと言う気持ちを隠しもせず仏頂面でそう言い放った海馬は、深々と溜息を吐きながら迫る城之内の顔を仕草だけで追い返す。ただでさえ蒸し暑い教室内に湿度の上昇に一役買ってそうな男に近寄られては、ますます暑苦しい気がしたからだ。だが城之内は全く空気を読もうとせず、避けようとする手を更に避けて身を乗り出してくる。

「モクバに?」
「……ああ。それで仕事を取り上げられて今ここにいると言う訳さ」
「へぇ。あいつもまた思い切った事するなぁ。まぁでも、今週と来週を乗り切れば夏休みだからな。出席日数稼げって事か」
「有体に言えばそう言う事になるね」

 尤も弟から一番強く言われたのは出席日数などというおざなりな物ではなく、兄に普通の高校生らしくきちんとした学生生活を送って欲しいという要望だったのだが、そんな事はわざわざこの男に告げる必要はない。仮に伝わってしまったら、目を輝かせてモクバと結託するに違いないからだ。そんな想像するだけで面倒な事態を自ら招く必要はない。そう思い、海馬はそれきりまた口を噤んだ。その顔を城之内はじっと凝視する。やはり至極鬱陶しい。

「何」
「じゃあさ、夏休みまではマメに学校に来るって事?」
「なんとか回避したいけど、無理ならそうせざるを得ないだろうね。埋めていた予定を全部白紙に戻されてしまったんだ。また同じ様な予定を組み込む事は少し難しい……」
「マジで?!」

 思いもかけない海馬の言葉に城之内の興奮はさらに上昇する。思わず至近距離に相手がいるのに大声で叫んでしまい、海馬の渋面は元よりクラス中の注目を集めてしまった。一斉に注がれる視線に彼は少し様相を崩しながら「ごめん、なんでもねぇ」と周囲を見渡しつつ謝罪する。

 そんな城之内に業を煮やした形で海馬は先程とは別種の溜息を一つ吐くと、不本意ながらも自ら顔を近づけて、小声で本来の調子に戻して口を開いた。

(貴様先程からなんなのだ!突然の大声はやめろ!オレは学校で注視されるのが嫌いなんだ!)
(そう怒るなよー悪かったって。お前があんまり嬉しい事言うからつい興奮しちまって)
(嬉しい事だと?何か貴様にとって益になる事が今の会話の中であったのか?)
(だってお前学校来るって言ったじゃん。お前が学校にいるって事は、そんだけ一緒に居られるからな。超嬉しいぜ)
(……意味が分からん)
(別に分かんなくてもいいって)
(ふん)

 本当に嬉しくてたまらないのだろう。目の前の顔は常になくへらへらと締りがなく、どこか落ち着きなく揺れている。これでこいつが本物の犬だったら尻尾を振りまくるのだろうな、などと下らない事を思いながら、海馬はやはり苦い顔のまま少しだけ身を引いた。

 これから学校に来る度にこんな事を繰り返さなければならないのだろうか。疲れる。本当に疲れる。ただ、鬱陶しいとは思えど、さして悪い気はしなかった。そんな事を極自然に考えた自分に海馬はまた溜息を吐きたくなる。最近溜息を吐く回数が格段に増えたのはこの男の所為に違いない。

「……どした?なんか疲れた顔してっけど」
「ああ、目の前の君の所為でね」
「何でだよー。オレ何もしてねぇじゃん」
「傍に居られるだけで迷惑って事、考えないのかな」
「そこまで言うなよ。悲しくなるじゃん。だってさ、オレはお前の事が好……」
「声に出して言ったら教科書を顔面に叩きつけるよ」
「おっと、それは勘弁。あ、そう言えばお前に貰った傘、早速役に立ったぜ!アレ、結構デカイのな。二人位簡単に入っちまいそうだよな。やっぱ高級な物は違うよな〜。ありがとな!」
「……役に立ったのならなにより。ところで、そろそろ休憩時間が終わるみたいだけど。早く席に帰った方がいいんじゃない?」
「えー。そう邪険にするなよ。あ、今日って一日学校いんの?」
「……一応そのつもりだけど」
「じゃ、また後でな!あーなんで席離れてんだよ遠いなぁもう!」
「………………」

 最初から最後まで一人で盛り上がりまくった城之内は、それこそスキップをするような足取りで自席へと戻っていく。その背中を心底鬱陶しく睨んでいた海馬は、すっかり頭から抜け落ちていた時間割を確認すべく黒板横にある掲示板へと目線を移した。美術や音楽、体育など敢えて避けていた教科がずらっと並ぶ様に嫌気が差し、時折聞こえて来る城之内の耳障りな声も相まって、ますます逃げ出したい気分になる。尤も、逃げ出した所で他にする事もないのだから無駄な足掻きではあったのだが。

 再び口をついて出そうになる溜息を飲みこんで、海馬は諦めて鞄に詰め込んで来た課題の束を取り出した。次の時間は英文だ。黒板と教科書しかみないあの英語教師なら気にする必要はないだろう。そんな事を思いながらシャープペンを手に取り、紙の上を淀みなく滑らせる。

 不意に、机の横に下げていた鞄の中から小さなバイブ音が聞こえて来た。そう言えば携帯をしまい込んだままだった事を思い出し取り出して中を見ると、幾つかの仕事のメールに混じって一通のプライベートなメールが届いていた。差し出し人は武藤遊戯。着信時刻を見るとつい今しがた送られたものの様だった。

 同じ教室に居るのだから用があれば直接言って来い、と思いつつ城之内にべったりと貼り付かれていた事を考えるとそれも仕方ないだろうと気だるげにその中身を確認してみると、そこには酷く意外な事が書かれていた。

『海馬くん、城之内くんにメールアドレス教えてないの?城之内くん、今朝それで凄く落ち込んでたよ』

「は?」と思わず声を出しそうになるのを堪えつつ、海馬は携帯を握り締めたまま前方にいる遊戯と城之内の方を睨んだ。授業は既に始まっていたが、教師が来ない為顔を突き合わせて何事かを話しているその様を一瞥し、再び画面へと向き直る。

 一体、この男はなんの目的でこのような下らない情報をオレに寄越したのだろう。オレが城之内にメールアドレスを教えていない事で何か不利益でも生じたのだろうか。そもそも何故教える必要があるのだろうか。奴に乞われた訳でもあるまいし、全く持って余計な世話だ。意味が分からん。

 眉間に皺を寄せつつ、たっぷりと一分半そんな事を考えていた海馬は、怒りとも呆れともつかない吐息を一つ吐いて、己の心情を正直に遊戯へと送り付けた。関係ないだろう、下らん事でメールを寄越すな。そんなに必要なら貴様が勝手に教えればいいだろうが。というかそんな事は直接言って来い。

 沸々と沸き上がる感情そのままに鮮やかにボタンに指を滑らせた海馬は、以降携帯を放り投げ意識を課題へと戻して行く。全くどいつもこいつも過干渉過ぎるのだ。イライラする。昨夜からずっと付き纏ってくるあらゆる方向からのおしつけがましい言葉の数々に、元々堪忍袋の容量が小さい彼は我慢の限界を迎えつつあった。まだ初日の、しかも午前中であるにも関わらず、だ。

 再び、携帯が明滅する。幾ら遠ざけたと言っても狭い机上の端に置かれたそれは嫌が応にも目に入り、海馬の神経を更に逆撫でしたが敢えて無視をした。幸い、今日は時間だけはたっぷりある。用があれば空き時間にゆっくりと話せばいいのだ。特に自分から話したい事はなかったが、無視してこの状態が続くのは精神的にも宜しくない。

 はぁ、と肩を落として海馬がシャープペンを握り直そうとしたその時、教室に余り有難くない情報が飛び込んで来た。

「英語自習だってよー!」

 やけに嬉しそうに外から飛び込んで来た男子生徒の一言にクラス内は俄かに沸き立った。ガタガタと席を立つ音と同時に「静かにしなさいよ!見張りが来るわよ!」と牽制の声も飛ぶ。最悪だ。そう海馬が思った瞬間、視界の端にみっともなく着崩した制服の裾が映っていた。顔をあげると、想像通りの人物が何時の間にか本来の持ち主を追い出して前の席へと座っていた。満面の笑みと共に。

「自習とか超ラッキーだよなー!オレ、宿題やってなかったからマジ助かったぜ!」
「……また来たのか」
「そりゃ来るだろ。貴重な時間は無駄にしたくないし?」
「邪魔しないでくれないかな」
「お前だったらやりながらでもオレの相手位できんだろ?」

 物理的に邪魔はしねぇからどうぞお続けになって。

 そんな事をいけしゃあしゃあと口にしながら、城之内は組んだ腕の上に顎を乗せたこれまただらしない様相で海馬の前に居座った。この分では何をどう言おうとも退きはしないだろう。また一つ小さなイライラが海馬の中に蓄積したが仕方がないと諦めた。別に何をするでも無し、適当に相手をしていればいいのだろう。そう思って。

「今日雨だから屋上行けねぇな。つまんねぇ。つか、ここんとこずっと雨だったけどよ」
「梅雨なのだから仕方ないだろ」
「来週は晴れるといいけどな!あ、でもお前雨男だっけ?ヤバいなー」
「まだ行くとは一言も言ってないけど」
「でも行くだろ?モクバに仕組まれたんなら行くっきゃないって」

 やはり何が楽しいのか景気良くころころと笑う城之内を声だけで感じながら、海馬は無関心を装いつつ軽快に手を動かしていた。今朝は落ち込んでいたというが、全くそんな素振りなどないではないか馬鹿馬鹿しい。先程見た遊戯のメールを思い返しそんな事を考えていると、再び携帯が振動し会社からの着信であるブルーのランプが点滅した。流石にそれは無視出来ず、直ぐに手にとって指を滑らせると、目の前の男が息を飲む気配を感じた。そして同時に口元が引き締まる。

 着信の内容は単純な質問メールだった。それにそつなく答えを返し一呼吸置いた途端、急に黙ってしまった城之内が真面目な表情で海馬へと向き直る。そして、それまでのずうずうしさが嘘の様に、酷く遠慮がちな口調でこう言った。

「あのさー。お前のメアドと携帯番号、教えて欲しいんだけど」

 何故だ、必要ないだろう。

 海馬は反射的にそう言おうと口を開いたが、彼の意に反してその言葉は全く出ては来なかった。相手の余りにも真剣な顔に気押されてしまったからだ。自分でも馬鹿馬鹿しいと思わざるを得ないが、本当に茶化すような雰囲気ではなかったのだ。

 それは海馬に「好きだ」と告げたあの時と同じで。この短期間のうちにどこか遠くに追いやられていた空気を再び呼び覚ましていた。なんだか、酷く居心地が悪い。悪いけれども、嫌な気持ちにはならなかった。

「……携帯を寄越せ」

 程無くして、海馬は小さな溜息と共に右手を城之内の眼前に突き出した。それに慌てて自分の携帯を乗せ上げて来る城之内の顔を何とはなしに見詰めながら、大分型の古い傷だらけのそれを操作して、彼が欲していたらしい情報を入力して返してやった。ただそれだけの事に、城之内はまるで何かを達成したかの如くガッツポーズを決めて喜んでいた。「ありがとな!」の言葉付きで。

「な、たまにメールしてもいいか?」
「好きにすればいいだろう。ただし返信は期待するな。オレは忙しい」
「うん!」
「……何がそんなに嬉しいんだ」
「え、普通嬉しいだろ?」

 好きな子の連絡先をゲットするって恋愛の第一段階なんだぜ!

 海馬の感情を逆なでしないよう気を付けているつもりなのか、周囲に聞こえない位の小さな声でそう言った城之内は、昨日例の傘を手にした時と同じ様に自らの携帯をぎゅっと大事そうに握り締めていた。その仕草に海馬はほんの少しだけ蓄積していた苛立ちが緩和された様な気がした。その不可解な現象に自分自身で首を傾げつつ、再び課題へと向き直る。

 それから授業が終わるまで、二人はそうして他愛もない時間を過ごしていた。去年隣同士で並んでいた時よりもずっと楽しいと城之内は思った。

 尤も、海馬がそう思っているのかは、甚だ疑問だったけれど。

 

5


 
「兄サマただいまー!って、あれ?」

 モクバがそう言って部屋の扉を開けた瞬間彼を出迎えたのは、先に帰宅していた兄の優しい返答では無く、無人のデスクと耳が痛くなる程の静寂だった。

「……どこかに出かけたのかな?」

 予期しなかったその事態にモクバは最初の勢いを直ぐに収めそっと開け放った扉を閉めてしまうと、きょろきょろと広い部屋を見渡して首を傾げる。何故なら室内には煌々とした照明が灯っていたし、部屋中央にある瀬人が暇な時はいつも陣取っているソファーの下には今日持って行った筈の学生鞄が置かれていた。その真上のテーブルには手を付けた痕があるケーキ皿と彼お気に入りのティーカップ。

 これがここに置きっ放しにしてあると言う事は、瀬人が今しがたまでこの部屋にいた事と、何処にも出かけていないのは明白で、だからこそモクバは室内に人の気配がない事を不思議に思っていた。何故彼がそう思うのかと言うと、瀬人が不在なのであればメイドがテーブルの上をこのままにしている筈がないからだ。

 優秀な彼女達は主の行動を正確に把握していて、それを妨げる事が無い様最大限に注意を払って仕事をする。特に瀬人は余り構われるのが好きではないので、極力部屋に人を入れない様にしていた。だが、逆を言えば瀬人が部屋に居ない時はメイドの誰かが自由に出入りしている。故に主が不在でも人の気配がある事は不自然では無い。けれど今は人の気配もないのに灯りが点いている。そこがモクバには疑問だった。

 大体モクバがランドセルを背負ったまま自分の部屋よりも先にここに足を向けたのは、瀬人付きのメイドが「今日は瀬人様の方が先にお帰りになっていますよ」と教えてくれたからである。なのに当の瀬人が存在しないなど有り得ない。

「兄サマー?」

 もう一度名前を読んでみる。勿論瀬人とはかくれんぼをしているわけでは無いので、その呼びかけに答えが返ってくる筈も無かったが、何となく変な感じがしてモクバは室内を歩きまわった。仕事をした形跡もなければ、寛いだ形跡もない(一応出された飲み物には口を付けたみたいだが)。これも帰宅後の瀬人が取る行動としてはおかしなものだった。

 久しぶりに学校に行った所為で何かあったのだろうか。ふと、そんな考えが頭を過る。その瞬間モクバははたと思い付き、その部屋から続く寝室の扉へと走って行き、勢い良く開け放った。すると、予想はしていたものの、ある意味予想外の光景が飛び込んで来た。部屋の大部分を占める巨大なベッドの片隅に瀬人が転がっていたからだ。

「兄サマ?!」

 彼は着ている制服を着替えもせずに疲労困憊といった体で小さな寝息を立てていた。もしやまた体調でも崩したのかとモクバは慌てて駆け寄ってみたが、特に顔色に変化は無く、触れた掌も何時も通り冷たかった。どうやら彼は本気でここで惰眠を貪っているらしい。

「………………」

 暫しモクバは呆けたようにその光景を見遣っていたが、やがて思い返したように瀬人の掌に触れていた手を肩まで滑らせて、少し強めに揺すってみる。すると然程眠りが深くなかったのか、瀬人は僅かに顔を顰めた後、寝起きのぼんやりとした目でこちらを見た。それにモクバは漸く本来の目的を果たすべく、笑顔で「ただいま!」と答えてやった。

「おかえり……っ?!」
「おはよー兄サマ。お昼寝気持ち良かった?ベッドで寝ちゃうなんてらしくないね」

 そのモクバの言葉に、瀬人は漸く目を覚ましたのか、一瞬目を瞠ると慌てて身体を起こして少し乱れてしまった髪を手櫛で整える。そして些か呆然とした様子で、顔を覗き込んで来るモクバの事を見返していた。

「……オレは、ずっとここに?」
「さぁ、オレは今帰って来たばっかりだから良く分かんないけど」
「今、何時だ?」
「学校を出て来たのが5時半頃だったから6時過ぎじゃないかなぁ」
「なんだと……?」
「兄サマは何時に家に帰って来たのさ?」
「正確には把握していないが……4時過ぎだったと思う。着替えようと思って席を立ったまでは覚えているのだが」
「そのままここで寝ちゃったんだね。珍しいねー」
「………………」

 普段どれほど疲れていても帰宅したままの服装でベッドに転がり込むなどあってはならない事だった。しかし、己の身体を見返してみると、ボタンを外そうとした形跡はあるものの、着ているのは確かにカッタ―シャツと学校指定のスラックスで、それらは意識もせずに寝転がった所為で妙な皺が付いていた。信じられないと瀬人は額に手を当て、小さく呻く。

 確かに今日は久しぶりに登校し、滅多にない授業フルコンプ等をしたものだから疲れていたのは間違いない。だが、こんな風に己の習慣を全うできない程疲労しているとは思わなかった。実は今も何となく身体が重い。多少の転寝では回復出来なかったのだろう。どれだけダメージを受けているんだ、オレは。そう心の中で呟いた所で腹が立つばかりでどうしようもない。

「なんかすっごい疲れてるみたいだけど、久しぶりの学校で何かあった?オレ、兄サマが部屋に居なかったから、去年の冬みたいにまた風邪でも引いて倒れたんじゃないかと思って心配しちゃったよ。こんな所で寝てるんだもん」
「……いや、特に何も無かったのだが……」

 モクバのその言葉に瀬人が答えを返そうとしたその時だった。不意にサイドテーブルにあった携帯が大きく震える。仕事のメールでも来たのかと何気なく手を伸ばしフリップを開く前に、小型ディスプレイに表示されたメールアドレスに瀬人は僅かに背を強張らせた。

 未だ己の携帯には登録をしてない、元ネタが非常に分かり易い英数字のアドレスは、特に考えなくてもあの男のものだった。

 知らず魂さえも抜け出そうな盛大な溜息が瀬人の口から零れ落ちる。

「何?どうしたの?」
「モクバ、オレはどうしても後一週間、毎日学校に行かなければならないのか?」

 携帯を握り締めたままがっくりと肩を落とし、いきなり駄々をこねる小学生の様な言動をし始める瀬人に、モクバは驚いて彼の手の中にある携帯のディスプレイを見遣った。そこに合ったのは「katuya_j」の文字が含まれたメールアドレス。城之内だ。そう思った瞬間、モクバには兄の疲労の原因が分かってしまった。

 そして、今まで僅かに抱いていた不安が瞬く間に面白さにとって変わる。

「……城之内に学校で付き纏われたんでしょ?」
「凡骨だけにではない!」
「へぇ?遊戯達も?あの輪の中に放り込まれちゃったんだ?凄いね兄サマ!」
「何が凄いんだ!最悪だったわ!」
「何でそんなに嫌がるのさ。学校では普通の事だよ?皆と仲良く出来ていいじゃない」
「オレは別に誰とも仲良くしたくなどない。学生時代の人間関係など無意味だ」
「兄サマはそうかもしれないけどさ、皆はそうじゃないんだよ。なんの気兼ねもなく友達と遊んだり、恋愛したり、そういう楽しさって学生時代じゃないとなかなか味わえないんじゃないのかな?」
「友達?恋愛?……馬鹿馬鹿しい」
「まぁ、兄サマならそう言うとは思ってたけどね。でも今日は我慢して最後まで付き合ったんでしょ?偉いね」

 殆ど癇癪を起こしている兄の頭を、モクバはわざわざ背伸びをしてまで撫でてやった。勿論嫌がらせなので、渋い顔をされた所で痛くも痒くもない。にこにこと笑いながら自分にそんな真似をしてくる弟を恨めしそうに眺めながら、瀬人は口を尖らせつつ「何がそんなに楽しいんだ」と吐き捨てた。

「何回も言ってるでしょ。オレは、兄サマがそうやって学生らしくしてくれてるのが嬉しいんだよ」
「は?何処がだ?」
「大丈夫、毎日やってれば慣れるよ」
「冗談を言うな。こんな事、慣れたくもない」
「兄サマだって小さい頃は孤児院で皆と仲良くやってたじゃん。あれを思い出してみて?そうすれば、もっと楽になれると思うよ?」
「そんな事はもうとっくに忘れてしまった」
「忘れたんならオレが思い出させてあげるから。後、城之内の事なんだけどさ、あいつは悪気があって兄サマに付き纏ってるんじゃないんだから大目に見てあげなよ。チョコレート渡した仲でしょ」
「あれはお前がやれと言ったんだろうが」
「人の所為にしない。どうしても我慢出来なくなったら、オレが助けてあげるから。それまでもうちょっと頑張ってみて?」

 毎日こうやってお昼寝してもいいからさ。

 まるで自分が兄になったかのような態度でそんな事を言って来るモクバを、瀬人は不貞腐れた体で見遣った後、「もういい、着替える」と宣言して立ち上がる。そして一歩足を踏み出した途端、何の脈絡も無く明日の予定が脳裏に過った。確か、何時間目かに体育があるからジャージを持ってこいと言われた気がする。メールをするから、とも言っていた。その発言の主は勿論城之内克也である。

 瀬人は未だ握り締めたままだった携帯を一瞥し、ベッドの上に放り投げた。

 返信など返してやる気は毛頭なかった。
 翌日も、朝からずっと雨が降り続いていた。

 起きて早々カーテンを開け放して窓硝子を叩く横殴りの雨に肩を竦めた城之内だったが、気分は驚くほど軽かった。何故なら、今日も学校に行けば海馬に会える。昨日、返信が来るかと思って握り締めたまま眠ったらしい携帯は、大方の予想通り静かな沈黙を守っており、それすらも『あいつらしい』の一言で片付けてしまった。この雨もきっと彼が齎したに違いない。そう思うと何もかもが嬉しい。浮かれ調子の城之内には怖い物など何もない。

 しかし昨日は本当に楽しかった。結局一日中海馬に付き纏いあちこちと引き摺り回して、終始嫌な顔ばかりされていたものの、一度も逃げられはしなかった。尤も逃げようにも逃げられない状態ではあったのだが、あの我が儘の固まりの様な男が、我慢をして自分達の輪の中に入ってくれた事が城之内には例えようもなく嬉しい事だった。

 まぁ最後の方は流石にうんざりしたのか終始無言で反応すら乏しかったが、明日も来いよ!と力強く言った言葉に顰め面をしながらも頷いていたのだから、海馬の気分が最低を更新した訳でもないだろう。尤も何が最高で何が最低かは把握出来ていなかったが。

 新聞配達のアルバイトを辞めてからつい寝坊がちになっていた朝も、気分が違えば目覚ましさえ不要な実に爽やかな朝となる。例え音が煩いと感じるほどの大雨が降っていても、だ。

 今日はこんな雨だから体育は外ではなく中になるだろう。心配してた猛暑も一時的に和らいでいるし、何より日焼けをしないで済むのが有難い。勿論この場合の「心配」は全て自分では無く海馬の事である。そう言えば昨日アイツ半袖着てたよな。同じカッターシャツを着ているとは思えない程腕が細くってなんか不安になる。肌だって女子が真顔で凝視するほど真っ白で……(二人で並んでたら本田にオセロみたいだとからかわれた)。

「………………」

 そこまで考えて、城之内はさっさと思考を切りかえた。そうでなければ、ただでさえ窓を閉め切っていて暑い室温で少し汗が滲んでいるのに、余計に身体が熱くなりそうだったからだ。不謹慎だよな、不謹慎!そう心の中で呟いて城之内は漸く自室を抜け出すと、さっさと洗面所に行き勢い良く顔を洗った。余りに勢いが良過ぎて髪の毛さえもびしょびしょになってしまったが特に気にする事でもなかった。

 何せまだ登校時間までは十二分に余裕があるのだ。
「兄サマおはよー!今日も雨だね!」
「ああ、おはよう」
「やっぱり兄サマの雨男パワーは衰えてなかったかぁ。あ、でも台風来てるんだっけ?今年はちょっと早いよね」
「………………」
「……兄サマ、起きてる?」
「……起きている」
「昨日は寝過ぎて疲れちゃったんじゃないの?顔色あんまり良くないね」

 そう言ってわざわざ自分が座っていた席を立ち、近くに寄りつつ顔を覗き込んで来るモクバを避けつつ、瀬人はテーブルの上に置かれていた新聞を広げて、言外に会話を拒否しようとする。しかし弟はそんな兄の態度にも全く怯む様子が無く、逆にあれこれと話しかけて来る。仕方なくその顔を広げた新聞の隙間から眺めていた瀬人は、出された珈琲を片手にやはり大きな溜息を一つ吐いた。

 今日もまた、彼にとっては消耗戦となりそうな一日が始まるのだ。

 昨夜は、本当によく眠った。普段は睡眠など3時間有れば足りていたのに、昨日はなんだかんだと10時間近くも寝てしまった。お陰で全身が妙に重く、頭もスッキリしてるとは言い難い。疲労を回復する為の睡眠である筈なのに逆に蓄積してしまった感がある事に、瀬人はかなり腹立たしく思っていた。が、これは誰の所為でもなく己の行いの所為なので誰かに当たる事も出来ない。

 そつなく置かれた珈琲カップへと手を伸ばし、ゆっくりと嚥下する。心なしか珈琲の味まで変わった様に思える。なんだか、良くない事がありそうだ。窓硝子越しに降り注ぐ雨を睨みながら、瀬人は未だ着慣れないカッターシャツの襟元を緩めた。

「でも今日は雨とか残念だなぁ。夏休み前の最後のプールだったのにさ」
「プール?」
「うん。記録会やる予定だったんだ。オレ、自由形で学年トップなんだぜぃ!」
「そうか。流石だな」
「兄サマ達は?プール、ないの?」
「高校で水泳の授業など有る訳がないだろう。プールというものがあるにはあるが、精々部活動に使用される位だな」
「ふーん。夏のプールってすっごく気持ちいいのに残念だねー」

 そう言えば、少し前にモクバが屋敷にプールを作れと煩い事があった。広大な庭の一角に作る事は造作ないし、それ自体は別に何とも思わなかったが、その後に続いた「兄サマも一緒に泳ごうよ!」の言葉を聞いてから、その話題はスルーする事にした。何が悲しくてわざわざ疲れる水遊びをしなければならないのか。瀬人にはとんと理解出来ない事だった。ちなみに、カナヅチという訳では無い。

 そんな事を考えていると、話題が話題故に思いだしてしまったのか、モクバのプール熱に再び火が点いてしまった。キラキラとした大きな瞳を向けながら、すっかり忘れてしまっていた『あの言葉』をジャンプと共に言い始める。

「そう言えば、プール!ね、作っていいでしょ?家にあればさ、わざわざめちゃくちゃ混む町のプールとか海にいかなくってもいいしさ!」
「………………」
「兄サマだってたまには運動しないと病気になっちゃうよ?学校に行っただけであんなにぐったりしてるんだからさー」
「……作るのは構わんが、オレは付き合わんぞ」
「えー!なんでさ!オレは兄サマと一緒に泳ぎたいのに!」
「友達でも連れてくればいいだろうが。オレを巻き込むな」
「友達かぁ……それでもいいけど……でもやっぱり家のプールに家の人が入らないなんてヘンだよ。あ、じゃあ遊戯達誘う?」
「何故そうなる!却下だ!!」
「さぁさぁお二人とも、それ位になさって。朝食を召し上がって頂かないと遅刻してしまいますよ」

 全身をくまなく使って断固拒否を体現していた瀬人だったが、モクバはそんな兄の態度などどこ吹く風で「なんで」「どうして」を繰り返し、最後にはとんでもない事を言い出した。モクバの訳の分からない理屈に思わず大声を上げてしまった瀬人だったが、それを気まずく思う前にメイドが二人の間に割って入って、穏やかに朝食の席へ促した事から議論は中途半端に終了してしまった。

 その後のモクバはケロリとした様子で「兄サマ体操服、忘れないでね!」等と言いながら先に立って行ってしまう。その言葉に迅速に差し出された『それ』が入っているバッグを睨み、最後の足掻きとして今日は仕事の指示を受けるべく瀬人の元を訪れていた磯野に助けを求める。が、瀬人は磯野がモクバと結託しているという事実を完璧に失念していた。

 瀬人の言葉に彼は至極真面目な顔をして首を横に軽く振ると「瀬人様のここ一週間のお仕事は学校に行かれる事ですよ」と言い切り、軽く頭を下げるに留まった。