Act6 First kiss #02

 後部座席の扉が開け放たれた瞬間に身体に纏わり付く生温かい湿った空気と雨の匂いに海馬は僅かに眉を潜めて溜息を吐いた。車を着けた場所が悪かったのか、眼下に見える大きな水溜りに描かれる波紋にますます降りる気を無くしつつ、運転手に促されるまま外に出る。

 相変わらずどんよりと曇った空。差しかけられた傘に降り落ちる雨音が煩わしい。

「行ってらっしゃいませ」

 己が濡れるのも構わずに頭を下げてそう口にした運転手に曖昧な返事を返し、校門へと向かう。丁度通学時間帯に当たってしまった所為で周囲には生徒の姿が多く、皆一様に物珍しげな顔をして海馬の事を見遣っていた。中には携帯を向けているものもいる。

 こんな光景は既に慣れたものだったが、今日は特に癇に触った。なるべく己の姿が見えない様、わざと傘を傾けて顔を隠しつつ足早に歩みを進める。新品同様の靴が泥の混じった水を被ったがそんな事はどうでも良かった。

「……くん。海馬くん!」

 後数歩で昇降口に辿り着くというその時、背後からやけに必死な様子で己を呼ぶ声が聞こえ、海馬は一瞬立ち止まる。そして嫌々ながら振り向くと、そこには息を切らせた様子の遊戯が立っていた。傘の柄を己の肩にかけ、少し折り曲げた膝に手を着いてゼイゼイと喉を鳴らしている。

「お、おはよ……。あー、やっと追い付いたぁ。もう、無視するなんて酷いよ」
「おはよう遊戯くん。こんな雨の中呼び止めて何の用?」
「用っていうか。海馬くんを外で見かけるのが珍しいから一緒に教室まで行きたいなーって思っただけ」
「そう」
「……あれ、なんか怒ってる?」
「別に怒ってなんかいないよ。ちなみに君の事は無視したんじゃないよ。気付かなかったんだ」
「……そうだろうとは思ったけどね。海馬くん、物凄いスピードで歩いてたもん。あれじゃあ人にぶつかったら相手が弾き飛ばされちゃうよ」
「その辺は上手くやるよ」
「そういう問題じゃないでしょ」
「なんでもいいけど、僕は早く教室に行きたいんだ。何故急いでいたか分かる?注目されたくないんだよ」

 口調とは裏腹の渋い顔で遊戯を睨みながら、海馬は彼に教えるようにちらりと周囲に視線を巡らす。それに遊戯も慌てて顔をあげると、確かに周りから注目を浴びていた。正確に言えば自分達ではなく、目の前の海馬にだが。すっかり失念していたが、自分が気軽に呼びとめたこの男は学校一の有名人だったのだ。そこかしこから上がる奇妙な声に海馬の眉間の皺が一段と深くなる。

「うわ、ごめん」
「分かったなら僕は行くよ」
「あ、待って待って。一緒に行こうよ!」

 遊戯は慌てて傘をたたみ、言葉通り先に行ってしまったつれない背を追いかける。人でごった返している昇降口は賑やかで狭苦しく、内履きを出すのも一苦労だったが、なんとか階段へと消えていこうとする背に追いついた。遊戯は少し小走りで数段かけ上がり、上から改めて海馬を見る。好都合にもそこには人気がなかったので、遊戯も安心して話しかける。

「朝からごめんね。海馬くんがこんなに早く登校するの珍しかったから、つい」
「ふん、こんな茶番も夏季休暇が始まるまでだ。最後の一週間位我慢してやる」
「その割には凄い顔してるけど……って、一週間?!まさか海馬くん期末考査まで毎日学校に来る予定なの?!」
「オレが真面目に登校したら悪いのか」
「悪いなんて言ってじゃないじゃん。でも、仕事とか、そういうのは……」
「貴様の知った事では無い。問題ないわ」
「そうなんだ。でも嬉しいなぁ。これから毎日海馬くんに会えるんだー。だから昨日城之内くんご機嫌だったんだね」
「奴があの調子なのはいつもの事だろうが」
「ここ最近はそうじゃなかったんだよ。君が全然学校に来ないから……あ、そういえば、ちゃんとメールアドレス、教えてあげた?」

 昨日の朝の落ち込みようは半端じゃなかったんだよ?なんかまるで僕が悪い事したみたいになっちゃってさ、気不味かったんだから!

 聞いてもいないのにぺらぺらとそう捲し立てる遊戯の声を聞きながら、海馬は制服のポケットに入れたままだった携帯の事を思い出す。結局あの後そのままにしてしまったが、その事について何か言われるのだろうか。尤も、下らない事なら相手をしないと言っているので、別に気を回す必要もなかったのだが。

「聞かれたので教えてやった。そうしたら早速どうでもいいメールを寄越して来たぞ」
「どうでもいいメール?」
「内容的には普段貴様が寄越すようなものと大差はないが。……奴はこんな事をしたくて不貞腐れていたのか?」
「あー……それは多分、最初だから当たり障りのない事から始めただけじゃないかなぁ。城之内くんにとっては君と繋がったって事が嬉しい訳だから……」
「ジャージを持ってこいの一言がか?相変わらず貴様等の考えは良く分からん」
「清々しいまでの業務連絡メールだね。城之内くん、可愛いなぁ」
「何が可愛いんだ。気色悪い」
「君には多分こういう気持ちは分かんないんだろうね。で?ジャージはちゃんと持って来たの?」
「それで忘れたら阿呆だろうが」
「今日は雨だから体育館でバスケかなぁ。僕、バスケよりサッカーの方が好きなんだけど」
「貴様の好みなぞ聞いてないわ。面倒臭くて、もう帰りたい」
「海馬くんって時々モクバくんよりも子供っぽい我が儘言うよね」

 いかにもうんざりだ、という顔をして先程の俊敏さとは一転して緩慢な動作で階段を上がる海馬の顔を見ながら遊戯は小さく肩を竦めた。同時に、ほんの少しだけ違和感を感じる。元々薄暗い階段ではあったが、それにしてはやけに顔色が悪く見えたからだ。彼の心が如実に表れた陰鬱な表情も相まって酷く気になった遊戯は素直にそれを口にする。

「それはそうと、海馬くん、なんか疲れてない?顔色、あんまり良くないみたいだけど。仕事が忙しいのに無理してるんじゃないよね?」
「余計な世話だ。問題ないと言っただろうが」
「光の加減かなぁ。暗くてよく分かんないけど」
「煩いな。まぁ、貴様の様な輩に付き纏われる事に疲れてはいるがな。仕事をしていた方が100倍マシだ」
「あ、酷いなぁその言い方。大体、君はまだ学生なんだからこれが当たり前なんだよ」
「モクバと同じ事を言うな」

 もう付き合ってられん、とばかりに海馬はそれまでののろのろとした動きを改めて、長い脚を駆使して階段を上がりきってしまうとそのままの歩調で教室へと歩いて行く。その後を再び追いかけた遊戯はそんなに機敏に動けるのなら今のは目の錯覚だったのかと思い直した。

 教室に入ると、笑顔の城之内が心底嬉しそうに海馬に声をかけていた。それにますます嫌そうな顔をする海馬の様子がおかしくて思わず笑ってしまう。

「おはよう、城之内くん!」
「おう!」
「今日も雨だね」
「そりゃ仕方ねーよ。コイツが来てんだからさ。一週間は諦めないとな」
「馴れ馴れしくコイツ呼ばわりしないでくれないか」
「お前まだそのスタンス崩さねーのな……」

 席に着く前に始業のチャイムが鳴り響く。
 今日も面白い一日になりそうだった。
 相変わらず、授業は酷く退屈だった。単調に流れる教師の声を聞きながら、海馬はただぼんやりと彼にはまるで用をなさない新品の教科書を眺めていた。公立の中でもレベルが尤も低い学校で教える程度の内容などゴミの様なものだ。まさに時間の無駄としか言いようが無かった。しかし如何に成績が良くても出席日数と言う壁がある以上、ここに通わなければならないのだ。理不尽なシステムだと憤ったものの、所属しているからには従わなければならない。

「………………」

 募る苛々に気分を変えようとただの文字の羅列に見える教科書から目を離し、目線だけで周囲を見遣る。案の定まともに授業を聞いている人間など一握りもいない。大抵は寝ているか密かに遊んでいるか内職をしている生徒ばかりで、全く誰の為の授業なのかと思わずにはいられなかった。勿論その不埒な生徒の中には自分も混ざっている事は承知している。せめて時間を潰せる仕事でもあれば良かったが、その肝心な仕事を禁止されているのでどうしようもなかった。手持無沙汰な状態は海馬をむしろ疲弊させる。

 帰りたい、と心の底からそう思った。モクバや遊戯の言う通り子供の我が儘以外の何物でもなかったが、そう切望する程海馬にとって今は無意味な時間だったのだ。

 昨日長時間寝てしまった所為で全く眠気を感じないが、目を瞑ってしまおうか。海馬が余りに進まない時計の針にいい加減辟易しながらそんな事を考えたその時、不意に机の片隅に置いていた携帯が静かにメールの着信を告げていた。二つ折りでは無いスマートフォン型のそれは即座に差し出し人の名前を表示する。

『katuya_j』

 未だ名前登録すら怠っていた男相手からの着信に思わず溜息が出そうになる。そして海馬は然程遠くもない場所に座っているその背を思い切り睨みつけた。机上に立てた辞書を使ったバリケードの影に隠れるように身を縮めているその様子はみっともない事この上ない。

 貴様の様な馬鹿こそ真面目に授業を受けんか、と心の中で呟いて、海馬は時間潰しの目的で携帯を手に取り中を見る。そこには如何にも頭の悪そうな文章が意味不明の絵文字や無駄な空白と共に綴られていた。要約すると『暇だから早く体育の時間来ねぇかな。ていうか腹減った』という内容だ。ちなみに体育の時間は次の四時限目である。

 ……昨今の男子学生のメールのやりとりはかくも下らないものなのかと目眩がする。大体仮にこれに返信するとして何を言えばいいのかと。こんな事は休憩時間にでも口で言えばいいだろう。というか、今まで散々言っていた気がするが、気の所為なのか?それとも馬鹿には言葉が通じないのだろうか。

 なんだか頭痛がして来た気がする。奴にメールアドレスなど教えなければ良かったと後悔しても、もう遅い。

「………………」

 仕方なく、海馬は大きな溜息を吐きつつ『馬鹿は真面目に授業を受けろ。以降下らん事には返信しない』とだけ打つと、携帯を机の上には置かずに中へとしまってしまう。酷く億劫な気分だった。
「よっしゃあああ!体育体育!とっとと着替えて体育館にいこーぜ!」
「ちょっと城之内、いきなり脱がないでよ!まだ女子がいるんだから!!」
「別に関係ねーだろ。むしろ目の保養になっちゃいますか?」
「バーカ、逆だって言ってんのよ。汚い物見せないでよ!」
「おま、この城之内様の裸を見て汚いたぁなんだ!」

 三時限目終了のチャイムが鳴り響きほぼ同時に授業を終えた教師がそそくさと教室を出て言った直後、待ってましたとばかりに城之内は立ち上がりロッカーへ飛んでいくと、無理矢理放りこんで潰れたスポーツバッグを引っ張り出し自席で豪快に着替え始めた。全てにおいて粗雑な印象のある男だったが、案の定バッグの中身を机上にぶちまけ、脱いだカッターシャツは皺になるのも構わずに丸めてバッグの中へと放りこんだ。そして上半身裸のままズボンのベルトを外そうとして周囲の女子から咎められた。

「見たくない!」「見ろなんて言ってねぇ!早く出てけよ!」という低レベルな言葉の応酬に、他の女子は笑いながら各々の着替えを手に移動し始め、男子は呆れたように肩を竦めた。全く、たかが着替えに一々騒がしい。そんなやりとりを特に眺めるでもなく視界に入れつつ、海馬は厭々ながら机の横にかけておいたジャージ入りのバッグを取り出した。年に数えるほどしか着用しないそれはとても三年生が着る物とは思えない程綺麗なままだ。

 周囲が着替え始めたのを見計らい、溜息を吐きながらシャツのボタンを外し始める。やる気はなかったが行動が素早いのが幸いして瞬く間に着替えてしまうと脱いだ制服をきちんと畳んで机の隅に置いておいた。その時、遠くの方から実に残念そうな声が聞こえて思わず顔を上げてしまう。声の主は勿論先程から喧しく騒いでいる城之内だ。

「あー!お前もう着替えちまったのかよ!はえーよ!っつーか何でズボン履いて上着なんて羽織ってんだよ見るだけで暑苦しいっつーの!脱げ脱げ!今の時期の体育館、何度だと思ってんだよ!」
「煩いな。別に関係ないだろう」
「そんなもん着てったってどーせ刈田に脱げって言われるって。置いてけ置いてけ」

 踵を履きつぶした体育シューズをバタバタと鳴らしながら何時の間にか目の前に来た城之内は、お節介にも折角閉めた上着のチャックを引き下ろし、強引に剥ぎ取ろうとする。それを身を引く事で回避しながら海馬は素早く机を周って移動しようと足を速めた。

 海馬の席から教室から出る為には後ろから出た方が早かったが、そこには城之内が立ちふさがっていた為、敢えて前の扉を目指す。途中未だもたもたと今更シューズの紐を結んでいる遊戯と目が合ったが、特に何も言わずに外に出た。途端に廊下にいた複数の生徒からぎょっとした視線を向けられてイラついたが、構わず堂々と歩いて行く。

「おいちょっと待てよ。先に行くなって!」

 ほどなくして、慌てて走って来た城之内に掴まって腕を捕られたが特に気にする事なく歩みを進める。触れられた箇所が少しだけ汗ばんでいて僅かに不快を感じたが振りほどく労力が無駄だった。スタスタと軽快に響く音に交る耳障りなバタバタ音。あからさまにざわめく声と注がれる視線。前髪に隠れて誰にも分からないが鬱陶しいと寄せる眉間の皺がこれでもかと深くなる。

 そんな彼の横顔を何時の間にか至近距離で眺めていた城之内はにやにやと締りのない笑みを浮かべて実に楽しそうに口を開いた。先程微妙に嫌がられ、拒絶された事などすっかり忘れて呑気なものである。

「さっすが有名人。めっちゃ注目されてんな。まー社長様のジャージ姿なんて珍しいからな。それ以前にこの格好じゃ嫌でも目を引くけどよ」
「喧しい。社長はやめろ」
「ま、オレとしても腕はともかく足とか晒して欲しくねーからいいんだけどよ」
「……何を言っている。意味が分からん」
「何で分かんねーんだよ。分かるだろ普通」
「全然分からん。……どうでもいいが手を離せ。暑い」
「やっぱ暑いんじゃねーか」
「貴様が暑苦しいと言っているのだ」

 やはりこいつに付き纏われるのは鬱陶しい。ただの移動に何故こんなに窮屈な思いをしなければならないのか。また覚える疲労に加えて温度管理のなされている教室を離れ徐々に湿った蒸し暑い空気が身を包むにつれ、海馬はうんざりしながらただひたすら足を動かした。なんだかイライラする。それは考えるまでもなく、人の言う事など全く聞きもせずに横に並んで嬉しそうに口を動かす隣の男の所為なのだが。

「そんなにしかめっつらすんなって。折角の体育なんだから楽しくやろーぜ。お前バスケ嫌いじゃないだろ?」
「授業の事を憂いているのではない。鬱陶しい約一名が不愉快なだけだ」
「それってもしかしなくてもオレの事?」
「察しがいいな。分かったなら離れろ」
「うーん。それは悪ぃけど無理だわ」
「何が無理だ」
「だって、お前が近くに居る時位一緒にいてーし。ましてや学校だろ?貴重じゃん」

 だから諦めろよ。

 海馬の抗議に城之内は不意にそれまでの笑顔を収めると言葉の軽さにそぐわない声でそう言って、結局離す素振りすら見せない右手にぎゅっと力を込めた。その瞬間「っつーかお前手首細くね?」などと余計な感想を述べて眉を寄せる。視界の端でくるくると変わる表情を最早なす術もなく受け止めていた海馬は、何時の間にか僅かに滲んできた額の汗を空いている指先で軽く拭った。それは自分では余り感じない体感的な暑さの所為なのか、はしゃいで落ち着かない城之内に対する苛立ちからくる体温の上昇の所為なのかよく分からなかった。

 大きく息を吐いて僅かに襟元を寛げる。

 ほんの少しだけ息苦しかった。


-- To be continued... --