Act1 ほらこんなに漢らしいオレの恋人

「磯野!明日の会議の企画書はどうした!」
「も、申し訳ありません瀬人様。明日の朝までは必ず……」
「期日厳守だ!聞く耳持たんわ!脅しても構わん!とっとと行って奪い取って来い!」
「か、かしこまりましたっ!」
「歩くな!走って行けっ!」
「はいぃ!」

 オレがこの部屋の前に立った瞬間に聞こえたのは、分厚くて完璧な防音効果をもたらしている筈の扉の向こうから響いてくる耳を劈く様な海馬の怒号。続いてガシャン、と盛大に何かが割れる音。……あー、まーたやってるよ、なんて思いつつ金の取っ手に指先が触れる前にそれは内側から思い切り開かれて、蒼白な顔色の磯野が猛ダッシュで飛び出して来た。

 こりゃ武装が必要かな。いやでもまだ銃声は聞こえてこないし……『恋人』の部屋に訪ねるにしては偉く物騒な事を考えながらオレは恐る恐る開けられた衝撃で中途半端な位置に留まっていた扉の間から顔を覗かせて、超ご機嫌斜めな海馬くんにそっと声をかけてみた。

「……あの、入っても宜しいでしょうか」
「なんだ。凡骨か」
「うん。顔見に来ました」
「ふん、入れ」
「その前に、手に持ってるものを置いてくんないかなーなんて。刃物はヤバイよ刃物は」
「別に投げる為に持っている訳ではない。使っているだけだ」
「でもお前、持つと投げるだろ。怖いし」
「臆病な犬め」
「カップ粉々に砕いて何言ってんですかね。ったくこれで何個目よ。オレの一ヶ月分の食費を腹いせに投げるなんてとんでもない話だぜ。あんま磯野いじめるなよ。その内入院するぞあいつ」
「うるさい。貴様に指図される謂れはない」
「もー」

 言いながらオレは足元に散らばった陶器の欠片を踏まないように避けつつ、いつもの定位置にしてあるソファーに鞄と身体を放り投げ、『未だ怒り心頭です』と書いてある海馬の顔を見あげる。こいつは普通にしてると頗る美人さんだけど、怒るとまさに悪鬼だね。オレでもちょっと怖いなって思うんだから、子供が見たら泣くぞこれ。

 子供たちのアイドル海馬様が実は悪役も真っ青な鬼の形相をしてるなんてとてもじゃないけど見せられないね。新聞の一面を飾っちゃうかもしれないし。……でも最近その顔が癖になってる気がする。これが地顔になったら嫌だなぁ。

「何をじろじろ見ている」

 やっと手にしていたカッターナイフの刃をしまいこんで、ペン立てに立ててくれた海馬が不愉快さを隠しもしない声色でオレに凄む。……なんでオレ相手に喧嘩売ってんだよ。オレまだこの部屋に入って3分も経って無いんですけど。

 昔はこんな態度をされようもんならオレもキレて食ってかかっていったけれど、見かけの割に身体能力が神なこいつには敵わないと知ってからは、オレは心の面で神になろうと誓った。神っつーか菩薩様。そうでないと、とてもじゃないけどやってらんねぇ。

「好きな奴の顔をじっと見てちゃいけないんですかね。目の保養って言葉、知ってる?」
「鬱陶しいわ」
「なぁ、いい加減機嫌直して。珈琲淹れて来てあげるから。ついでにおまけもつけてやるよ」
「なんだおまけとは」
「それはお前決まってるだろ。愛のスキンシップです」

 まあぶっちゃけて言えばただチューしたいだけなんですけど。今のままだと唇や舌を噛まれたりすると悪いから(これは推測じゃなくってやられた事実があるもんだから始末に負えない)一応ご機嫌とりをしなければならない訳で。この数分の観察で海馬くんの怒り度は珈琲位で収まるかな、と思ったから珈琲を提案してみたわけだ。

 これも見誤ったら命取りだから慎重にしなければいけない。本気で機嫌が悪い時は飲食物での懐柔作戦は逆効果だからな。

 そんな訳で珈琲を提案したオレは「どうよ?」という意味を込めて海馬の顔を改めて見上げた。すると海馬くんはとても不満そうにオレを見返して鼻を鳴らす。

「違うな」
「ありゃ、違っちゃった?今回はビンゴだと思ったんだけど」
「順番が逆だ」
「あ、そっち?」
「貴様何年オレの犬をやっていると思っている」
「すみません、まだ若葉マークなもので」
「御託はいい。分かったのならさっさと行動に移せ」
「……手は空だよな?」
「今のところはな」

 でも手元にマウスやら万年筆やらがあるわけで、それらが飛んで来ない事をひそかに警戒しながら、オレは漸く席を立って海馬の所に歩いて行くと、自分から要求している癖に身体を動かしもしないその顔に手を伸ばすと、こっちを向く様にあくまで優しくその顎に手をかけた。

 その瞬間、机上に置かれていた白い両手がまるで最初から仕かけていた罠の様にオレの方に伸びてきて、がっしりと押さえつけられる。ちょ、痛い痛い!お前取っ組み合いの喧嘩じゃないんだからそんなに気合い入れなくたっていいって!!

 とオレが抗議するより早く、せっかちな海馬の唇はオレがわざわざ顔を寄せる必要もなく、勝手にオレの唇を塞いでくれた。それはもう思いっきり。

「……お前ってさぁ……なんでそうなわけ?」
「何か問題があるのか」
「や、別にないけど」
「無いのならとっとと珈琲を持って来い。3分以内だぞ」
「お、横暴過ぎる……」
「ちゃんと言う事を聞いたら褒美をくれてやらん事もない」
「ううう。……行って来ます」
「返事は」
「はい」

 なかなかに熱烈なキスを堪能した後、唇を濡らしたままでオレが素直に言う事に従うと、海馬は満足そうにニヤリと笑って(あくまでニヤリだ)、長い手足を見せつける様にゆっくりと組むと、ふんぞり返ってオレが部屋を出て行くのを眺めていた。そのポーズは言うまでもなく立派な女王様だ。

 オレはいつも不思議に思う。こんなに男らしいのに、なんでこいつは……オレにヤられてるんでしょうか。意味分かんねぇ。

「おい、犬」
「犬言うな」
「今日は一緒に寝てやってもいいぞ」
「なんで上から目線なんだよ」
「当たり前だ、貴様はオレに許しを乞う立場だろうが」
「……そうですね。ありがたく一緒に寝させて頂きます」

 くっそ、分かっちゃいるけどやっぱムカつく!許容できるけどムカつくもんはムカつくっ!今夜はぜってー泣かせてやるッ!!

 そんな出来もしない決意を固めつつ、女王様がお望みの珈琲を貰いに行こうとしたオレの背に飛んできたのは、とんでもなく理不尽な一言でした。

「3分経ったぞ。褒美は取り消しだ」
 

 ── 誰の所為だよちくしょう!呼び止めんな!!
 

 ……でも好きな事には変わりがない、今日この頃です。