Act1 その猫の名前は?

 にゃあ、と小さな声がして、真っ白な毛の塊が膝の上へと飛び乗った。咄嗟に持っていた珈琲カップを避けようとしたが、それが逆に不味かった。ぱしゃりと小さな音がして、冷めた珈琲がスーツに散る。

 幸いな事に琥珀が散ったおろしたてのそれはいつもの白ではなく深いダークブルーだった為、染みが目立つような事はなかった。はぁ、と大きな溜息を吐きつつ、瀬人は近間にあったタオルで濡れた箇所を軽くふき取る。そして、着替える為に立ち上がろうとして留まった。

 染みが目立たなくてもクリーニングには出さなければならない。何故なら彼の膝には零れた珈琲だけではなく、白い毛が容赦なくこびりついてしまったからだ。

「貴様、何処に潜んでいた。モクバはどうした」

 瀬人はムッとした顔で未だ我が物顔で己の膝を陣取る白い塊……先日モクバがどこぞで拾ってきた子猫を見下げると、その首根っこを掴んで持ち上げた挙句にそんな言葉を口にする。

 その際小さな前足がガリ、と瀬人の手を引っ掻いてスーツに珈琲以外の染みがつく事になるのだが、それも既に日常茶飯事で怒る気にもなれなかった。勿論子猫はにゃあと小さく鳴くだけで瀬人の望む答えが返るわけもない。その事実に瀬人がもう一度溜息を吐こうとしたその時だった。

 バタン、と大きな音がして開かれた扉の向こうから瀬人が抱えている子猫の本来の飼い主である弟が飛び込んでくる。

「やっぱり兄サマの部屋にいた!もーすっごく探したんだぜぃ!……ってごめん、また引っ掻いちゃった?爪切るの忘れてて……こいつ、なんかオレよりも兄サマが好きみたいですぐこの部屋に入ってきちゃうんだ」
「嘘を吐け。オレは部屋を開け放しにする事などないぞ。お前が入れたんだろう」
「ち、違うよ」
「では、この部屋で何かしたな?」
「してないぜぃ」
「後ろめたい事がないならオレの目を見て言ってみろ」
「……昨日は兄サマのパソコンを借りて……自分の部屋まで帰るのが面倒くさかったから、兄サマのベッドで寝た」
「ほらみろ。大方こいつも共に寝て、そのまま忘れていったんだろうが。大分腹をすかせているようだぞ。飼い主失格だな」
「どうして分かるの?!」
「何もかもをそのままにして出て行けば誰だって分かるだろう。せめて分からないように元の状態に戻す位はしたらどうだ」
「あーそっかぁ。ちゃんとしたと思ったんだけどなぁ」
「とりあえず、こいつを忘れるようでは話にならんな」

 ずいっと最大の忘れものである子猫をモクバに突き出しながら、瀬人はそう言って鼻で笑う。そして彼は漸く椅子から立ち上がると、頭を掻きつつこちらを見あげるモクバへと近づいて、手の中の子猫を本来の持ち主へと返してやった。互いに傷だらけの両手が触れ合い、にゃあと小さな鳴き声がする。

「おいてけぼりにしてごめんな。今ミルクあげるから。ってなんだよーお前やっぱり兄サマが好きなのかよ」

 モクバの手の中に収まった子猫は、可愛らしくもがきながら名残惜しそうに目の前に立つ瀬人を見ている。真っ白な毛並みに澄んだ青の瞳。猫の種類など良く分からないが、家のものによればロシアンブルーの異種なのだという。
 

『こいつの目の色、兄サマの目と一緒じゃん?だからどうしても置いていけなくて……雨も降ってて凄く寒かったし。オレがちゃんと面倒をみるから、飼っていいでしょ?』
 

 そう言ってモクバがずぶ濡れになった子猫を抱えて社にやって来たのは、三週間前のとある平日の事だった。学校帰りに通学路の途中にある空き地の片隅で、今にも死にそうな声で鳴いていたからつい抱えて持ってきてしまったと言う。その時始めて見た子猫の姿は、長時間外界に放置されていた所為か毛はすっかり薄汚れて灰色に染まっていて、いかにも惨めったらしい姿だった。

 「こんな小汚い猫とオレを同一視するとは何事だ?!」と瀬人は内心酷く憤慨したが、上目遣いにこちらを見ながら目を潤ませて懇願する弟に勝てるわけもなく、仕方なく了承の意を示したのだ。尤もこれが弟の願いではなくても、両手の中に収まってしまう程の小さな子猫を、再び冷たい雨の中へ返して来いと言える程、瀬人は薄情ではなかったのだが。

 そんな訳でその日から海馬家の一員となった捨て猫は、モクバの……その文字の通り猫可愛がりの所為で元気に日々成長している。多少我侭なのが気になるが、犬と違って猫なのだからと、特に気にはしていなかった。動物好きという特徴は、何もモクバだけのものではなかったのだ。勿論モクバはそれをわかった上で兄の元へと子猫を連れて行ったのだが。
 

「それにしても……ほんっとこいつ兄サマに似てるよねー色合いが」
 

 結局そのまま瀬人の部屋に居座ってしまったモクバは、直ぐに用意させた小さなミルク皿と格闘している子猫を眺めながら、ぽつりとそんな事を呟いた。ほんの僅かの混じり気もない、真っ白な身体とまるで宝石のような輝きを放つ青い瞳。身体の割合に長い4本の足に、細い胴体。どこからどう見ても瀬人そのものだと彼は繰り返し口にする。

「……だから、どこが似ているのかオレにはさっぱりわからん」
「見た目もだけど、性格も凄く良く似てるぜぃ。すぐ人を引っ掻いたり噛みついたりするところとか。あと、こいつの運動能力凄いんだぜ。結構高い場所からでも平気で飛び降りるし、その逆で飛び乗るし」
「どういう意味だ」
「あれ?自覚ないんだ?ま、いいけど。すっごく可愛いよこいつ。名前どうしようかな」
「……三週間も経つのにまだ名前を決めていなかったのか」
「だってさーなかなか思い浮かばなくて……一つ付けたいのはあるんだけど、多分兄サマ怒るし」
「何故オレが怒る。名前くらい好きなのを付ければいいだろう」
「え?いいの?!」
「?ああ、別に……」
「じゃー決めた!」

 そう嬉しそうにはしゃぎながら、モクバは既に空になった皿をしつこく舐めている子猫を抱え上げ、「お前の名前、決まったぜぃ!」と口にする。それを特に感慨も無く眺めながら、瀬人はPC作業を再開した。その後、子猫の事はすっかり忘れていたのだが、今の返答が失策だった事に気づくのは大分後になってからだった。
 

 さすがの瀬人も予想だにしなかったのだ。

 モクバが子猫に『セト』という名前を付けた、などと言う事は。
 

 
 

「ねえ、兄サマ。セトが何処にいるか知らない?」
「は?」
「だから、セトだよ。子猫。目を離した隙にオレの部屋を飛び出しちゃって。兄サマの所に来ていないかなーって」
「いや、ここには多分いないが。それよりもモクバ、なんだその『セト』と言うのは」
「え?だから子猫の名前だってば。兄サマ付けていいって言ったじゃん」
「そんな事は言ってない。というか人の名前を勝手に付けるな」
「今更遅いよ。だってセト、名前呼ぶとオレのとこに来るもん。あ、磯野の『瀬人様』にも反応しちゃってるけど」
「おい!」
「別にいいじゃん、でもセトどこ行っちゃったのかなー厨房とかかな?もう一回探してくる!」

 言うが早いがモクバはまだ何か言い募ろうとした瀬人にくるりと背を向け、扉を開け放しにしたまま部屋を飛び出して行ってしまう。未だ状況がつかめない瀬人はただ呆然と椅子に座したままだったが、不意に事の重大さを理解してなんとか今からでも名前の変更をさせようと、モクバの後を追おうとしたその時だった。

 にゃあ、と小さな声がして、問題の『セト』が扉の影から顔を出す。『セト』は瀬人の顔を見るなり駆けてきて、立ち尽くす彼の足に飛びついた。ガリ、と小さな音がして爪がズボンの裾に引っかかり、瀬人の足にぶら下がる形となる。

「!!……せっ……貴様っ!」

 さすがに大っぴらに自分の名でもあるその単語を口にする事は憚られて瀬人の声は中途半端なところで飲み込まれてしまう。当の『セト』はすっかり瀬人にじゃれついている気分なのか尻尾を揺らめかせながらしっかりと足に張りついていて、それを邪険に振り払う事も出来ずに、彼は仕方なく身を屈めてその身体を片手で掴んだ。案の定噛み付かれ、手に真新しい傷が一つ刻まれる。

 怒ろうと思ったが、名前がネックとなって上手く言葉が出てこない。なぁ、モクバ。何故お前はオレの名前をこいつにつけたのだ。そんなにコレはオレに似ているか?名前を呼ばずにはいられないほど?

 全く迷惑甚だしい。迷惑なだけならまだしも紛らわしい。物凄く嫌な気分だ。こんな、掌に収まってしまうほど小さくて頼りない存在と自分が同等に扱われるなんて。そう瀬人が何時の間にかこちらを振り向き、凝視してくる『セト』と無言のまま睨み合っていた、その時だった。

 一通り探し回ったらしいモクバが再び部屋へと飛び込んできて、瀬人とその手に収まる『セト』を見て叫んだのだ。
 

「あー!やっぱり兄サマのところに来た!もー!セトッ!」
「……モクバ。その名前、なんとかならないのか?」
「あっ、ごめん。勿論兄サマに怒ってるんじゃないよ」
「そんな事は分かっている。頼むから名前を変えてくれ。紛らわしい」
「えー無理。セトだって、今から名前変わるの嫌だもんな?……ほら、嫌だって言ってるぜぃ」
「………………」
 

 だが、これではオレが叱られているみたいだ。そう瀬人は訴えたかったが、モクバの意識は既に『セト』に釘付けで、困惑する兄の事など眼中になかった。それを知ってか知らずか、『セト』は瀬人を仰ぎ見て、得意そうに一声鳴いた。

 忌々しい、瀬人は心底そう思ったが、何故かちっとも憎めなかった。

「もう、あんまりちょろちょろすると、首輪つけて繋いじゃうぜぃ。大人しくしてろよ?」
「……いや、モクバ。猫は犬ではないのだから、それはちょっと…」
「あ、そか。でもこいつ言う事聞かなくてさー!兄サマ、教育してやってよ」
「オレはこいつの飼い主ではない。お前がなんとかするべきだろう」
「駄目。だってこいつ可愛すぎるから怒れないんだ。ほんっと食べちゃいたいくらい可愛いんだぜぃ」
「……なんだそれは」
「だから名前も……なー?」
「………………!!」

 そう言って瀬人の手から奪った『セト』に、満面の笑みを見せるモクバに、瀬人は心底驚いて後ずさった。思わぬ所から知ってしまった弟の……本心だったらかなり危険なその想い。

 ちょっと待てモクバ、それはどういう意味だ?!

 そう彼に問い質したかったが、瀬人にはついぞその勇気が持てなかった。知ってしまったら大変な事になると、瀬人の脳内で盛大なエマージェンシーが鳴り響く。

「ね?だからいいでしょ。名前、変えなくても」

 何が「ね?」なのかは分からないが、これ以上突っ込んでも無駄だと悟った瀬人は、それ以上何も言えなかった。ま、まぁ、猫に名前を付けて可愛がる位なら……そう自身を無理矢理納得させ、それより深く考える事はやめてしまう。

 ただ、どこで弟の教育を間違えたのだろうと、それから暫く頭を悩ませる事になったのだが。
 

「セトーっ!」
 

 今日も元気に、己の名前が屋敷中に響き渡る。そして足元でにゃあと鳴く声がする。

 その二つの声を聞きながら、瀬人は至極複雑な気分で……深い深い溜息を一つ吐くのだ。