Act1 愛の楽園へご招待(Side.海馬/散)

「兄サマ、明日の会議の資料は?」
「今最終調整に入っているから少し待て。まだ二、三修正する事がある」
「えぇ?!昨日全部作り直したばっかりでしょ?もう直す所なんてないよ!」
「いや、ラボから上がって来たデーターがまだ不十分でな。もう一度精査して……」
「だーめッ!大体、明日の会議は兄サマが出るんじゃないんだから、兄サマが奮闘したってしょうがないでしょ?!」
「…………は?」
「え?」
「いや、何の事だ?」
「何の事って……もしかして兄サマ忘れてたの?今日は夜に会食があるからお昼過ぎには出かけるよって言ってたのに!昨日の夜だってオレ話したじゃん!兄サマ新聞読んでて聞いてなさそうだなぁと思ってたけど、本当に聞いてなかったんだ?!」
「……そ、それは否定しないが。しかし今日のスケジュールにはそんな事は一言も……」
「そりゃそうだよ。だってプライベートの会食だもん。オレも行くし」
「何?!何だそれは」
「ここからちょっと遠い所にある老舗の高級旅館なんだけどさ。すっごく雰囲気がいいんだって!楽しみだよねー」
「……いや、その、モクバ?」
「という訳だから、すぐその書類をそこに置いて行く準備して?出発は午後二時って言ってたのに兄サマがぐずぐずしてるからもう三時じゃん!ほらーもう早く早く!」

 そう言いながらモクバはオレの手の中から分厚い書類の束を奪い去り、バンッと音を立てて机上へと置いてしまうと、殆ど力任せに椅子から引きずり降ろして、ぐいぐいと腰の辺りを押して来た。その余りの剣幕にオレはそれ以上口を出す事も出来ずにただされるがままにコートを受け取り、腰からいつの間にか腕に移動した手に引かれて社長室を後にした。

 そのままの状態で長い廊下を闊歩し専用のエレベーターに乗り込んだ後もモクバは一人はしゃいだ様子を見せてあれこれと口にしていたが、オレに肝心な事を教えてはいなかった。……仕事ではなくプライベートな会食と言うが、相手は一体誰なのだろう?

 そもそもオレの預かり知らぬ所でそんな話が出ている等とは考えもしなかった。しかも重要な会議が組み込まれているスケジュールを捻じ曲げてまで付き合わなければならない相手など仕事以外では想像もつかない。更にモクバも共にとなると、ますます謎だ。一体誰なのだ。その人物とは。

「モクバ」
「なぁに兄サマ」
「会食は良く分かったのだが、相手は誰なのだ?」
「うん?」
「その、遠く離れた老舗の高級温泉旅館などに人を呼び付けてまで食事をしたいと言う不躾な輩は誰だと聞いているのだ」
「誰って。会ってみれば分かるよ。招待してくれたんだぜぃ」
「……会ってみればとかそういう問題ではなく、今知りたいのだが」
「あ、今更だけど泊まりだからね。だから明日の会議も重役連中主動になったんだぜぃ」
「は?誰がそんな事を許したのだ。と言うか泊まりだと?!」
「調整してくれたのは磯野だけど。もう話はついてるから心配ないぜぃ。そう言えばさ、この間浜崎から出てたトゥーンワールドをモチーフにしたテーマパークの事なんだけど、ペガサスがすごーく乗り気だったよ。兄サマも自分の好き嫌いは置いておいて、真剣に考えてみてよ。絶対にウケると思うよ」
「話を逸らすな!」
「そんなにカリカリしないでよ。最近兄サマ怒りっぽいぜぃ。だから皆今日の事に賛成してくれたんだよ」
「……皆?」
「静かな温泉でゆっくりしてさ、美味しい物でも食べてリフレッシュしようよ。今はそんなに切羽詰った仕事もないし、いいでしょたまには。それとも、兄サマはオレと一緒に温泉に行くの、嫌なの?」
「いや、そんな事は」
「だったら細かい事なんか気にする必要無いでしょ。兄サマはオレについて来てくれればいいんだよ」

 ね?とワザとらしくオレの顔を覗き込みながらそう言うモクバの無邪気な笑みを見つめながら、オレはそれ以上口を開く事はしなかったが、酷くあからさまな溜息を一つ吐いてやった。全く、訳が分からない。そもそもお前は細かい事と言うが、これから顔を突き合わせて食事をして翌日まで共にいなければならない相手が分からないのは細かい事か?!尤も重要な事だと思うのだが。

 ……まぁ、でもモクバを懐柔出来る位なのだから、あながち悪い輩でもないのだろう。そう言えば今ペガサスがどうとかと言っていたが、まさか奴ではないだろうな。あいつめ最近妙に日本にかぶれおって、和食や温泉がどうとか舞妓がどうとか妙な事を抜かしていたな。だとすればいかにも『日本』が味わえる、老舗の温泉旅館など打って付けではないか。こちらに来る等とは聞いていなかったが忍んでいるのであれば分からないのも無理はない。

 そう考えるとこの状態も少し合点が行く気がする。ペガサスなら仕事と言う名目よりもプライベートで、が常套句だし、モクバがオレに頑なに隠そうとするのも分からないではない。奴に大々的に誘われたのなら迷わず却下するからな、オレは。……だが、ペガサスにしては時期がおかしい。

「………………」
「兄サマ、顔が怖いよ?」
「誰がこんな顔をさせていると思っている」
「あはは。ごめんごめん。あ、外に磯野が待ってるから」
「何?何故磯野が待っているんだ?」
「運転手して貰うんだぜぃ。何処へ行くかとか、他の奴には内緒だから」

 ちょっと待て、お前話が矛盾してないか?先程は皆がどうとか言っていたではないか。皆が了承しているのなら隠す必要はないと思うのだが、その辺はどうなんだ。そもそも一日とは言えオレの所在が不明では困るのではないか?それとも、そんな事はどうでもいいのか?

「大丈夫だよ。磯野とオレが知ってるんだから十分でしょ」
「っ!人の心を勝手に読むな!」
「兄サマが分かり安過ぎるんだよ。あ、いたいた磯野!時間大分遅れちゃったから急がないとね!」
「はい、準備は出来ております。こちらへどうぞ」
「磯野!貴様〜!」
「はいはい、怒ってる暇ないから早く乗って」

 エレベーターホールを抜けて直ぐ、まるで計った様に外からやって来た磯野はオレには殆ど視線を寄こさず、モクバとサングラス越しのアイコンタクトをすると(そもそも出来ているのかは甚だ疑問だが)直ぐに踵を返して普段通りの機敏な動作でさっさと先に行ってしまう。

 どうやら奴もモクバと共謀して事情を知っているらしいが故に、その顔を見たら開口一番に問い詰めてやろうと密かに思っていたのだが、この場もモクバの恐るべき手際の良さであっさりと遮られてしまった。

 ここで磯野を捕まえる事が出来なければ、もうどうする事も出来ない。車内に入ってしまえば都合上後部座席と運転席は完全に仕切られてしまう為、話すにもスピーカー越しとなってしまい一苦労だからだ。当然その事はモクバも磯野も熟知している為、奴はさっさと車内へと乗り込んでしまい、オレもまた、モクバの手によって無理矢理シートに押し込まれてしまった。……これでは殆ど拉致ではないか。

「準備オッケー。出発進行だぜぃ!」
『では、発進致します。所要時間は二時間程度かと』
「………………」
「結構時間かかるね。兄サマ、珈琲かなんか飲む?」
「いらん」
「もー、すぐ怒るんだから。別に変な所に連れて行くんじゃないんだからそんなに警戒しないでよ」
「オレが警戒しているのは場所ではなく、迎える相手だ。何を考えてこんな」
「まぁまぁ。いっつも決められた事ばっかりじゃつまんないじゃん。ねー磯野」

 ── そういう問題ではないっ!

 殺気立ったオレの態度とは裏腹に至極お気楽な様子でのらりくらりと言葉を交わす二人にオレは声を大にしてそう怒鳴りつけてやりたかったが、この状態では何を言った所で効き目などない事は嫌という程分かっていたので、オレはせめてもの抵抗とばかりに一切口をきかずにいる事を選択した。

 ここ最近とある事情で殺人的なスケジュールをこなしていた為少々睡眠も不足している。いい機会だ、眠ってやれ。どうなろうと知った事か。

 そう一人心の中でブツブツと呟いていたオレは、口を閉ざすと同時に目も閉ざし、本格的に寝る体制に入った。隣でモクバが「あれ、兄サマ眠っちゃうの?」等と声をかけてくるが答えを返してやるゆとりもない。

「ま、いいけどね。オレも一緒に寝ちゃおうかな〜。でも、景色が凄い綺麗なのに勿体ないぜぃ」

 そう言いながら、それでも気分を害した様子は一切なく、モクバはやはり楽しそうに身体を弾ませて窓へと張り付き、未だ社を出たばかりで特に楽しくもない外の様子を眺めている様だった。景色が綺麗?知るか、そんな事。殆どふてくされた気分でそう声に出さずに吐き捨てて、オレは軽く腕を組んで少しだけ俯いた。隣から音程が微妙な鼻歌が聞こえて来る。

 リズムの一定しない不安定なそれを聞きながら、オレは不意にとある声を思い出した。
 

『あ、オレ今月ちょっと忙しくてさぁ。お前んとこ行く暇ないかも。バイト増やして大変なんだよねー』
『……学費の滞納か?それとも父親がまたどこぞで借金でもこさえて来たのか?』
『んーまぁ、そうじゃねぇんだけど、そんなとこ。オレだって色々あるんだよ。妙な詮索すんなよ』
『誰も貴様の事など気にかけてないわ。好きにすればいい』
『可愛くねーの。意外に寂しんぼうの癖によ。連絡しねーと拗ねるだろお前』
『やかましい』
『ま、とにかくそう言う訳だから、顔見せなくても怒らないでくれよ。別に浮気とかじゃねーから』
『誰がそんな下種な勘ぐりなどするか!』
『あはは。疑われないんならいーけどさ』
 

 丁度十月に入って直ぐの事だっただろうか。大抵月初めには必ず顔を見せる城之内が、今月に限って珍しく電話で連絡を寄こし、そんな事を言って来た。

 普通であれば「電話料金が掛かるからオレからは連絡しねぇ」と、勝手な事ばかり言っている癖にどういう事だと訝しむ暇もなく更なる不可解な宣言をされたものだから、オレの疑問は解消されないまま有耶無耶になってしまった。そしてその宣言通り、城之内は今月一度もオレの所に来ていない。それどころか大学にすら顔を出さなかった。

 何があってそんなに金が必要なのかは分からなかったが、詮索するなと釘を刺された手前こちらから何か言う事も憚られて、オレは密かにまんじりともしない日々を過ごしていた。が、奴の事で己のペースが乱されるのも悔しいので、邪魔されないいい機会だとばかりに過密スケジュールを組んで今日まで普段の倍以上の仕事をこなしてやり過ごしていたのだ。

 そこに来てこの突然の誘いである。これで不機嫌になるなと言う方がおかしい。

 何が温泉旅館だ馬鹿馬鹿しい。……どうせ行くのならば、得体の知れない相手と無駄な気遣いをして過ごすよりは、あの駄犬とじゃれていた方がよほど有益な気がする。

 どこぞの旅行会社が社に勝手に置いて行ったパンフレットを眺めながら「温泉とかいいよなー露天風呂でイチャイチャとかしてみてぇ!」と目を輝かせていた馬鹿面を思い出すと、何処か居心地の悪い気分になった。こんな事を今思い出した所でどうにかなる筈もない。

「…………はぁ」

 知らず零れた大きな溜息は、少し離れた場所に座っていたモクバにも聞こえてしまったらしい。モクバは窓に張り付いていた姿勢を直ぐに正してオレの傍までにじり寄り、じっとオレの様子を伺っている様だった。だが、オレにも意地があるのでそのまま取り繕う様に少し身動ぎをした後は頑なに沈黙を守っていた。そうしている内にやがて睡魔が訪れる。

 徐々に希薄になって行く意識の中で、再び不安定な鼻歌が聞こえた。しかしそれはオレの覚醒を促すものではなくまるで子守唄の様に更なる眠りの中へと導いていった。

 最後にモクバが磯野に向かって、酷く聞き慣れた名を口にしていた気がするが、それが誰なのかオレには分からずじまいだった。
「うっわー!凄いね兄サマ、まさに純和風!って感じ。もう紅葉の時期だから山も真赤だよ!」
「……そうだな。どうでもいい事だが」
「もーここまで来たんだからいい加減ご機嫌直してよ。今日泊まる所は兄サマが嫌いな他人が一杯いる所じゃなくってさ、静かな離れなんだって。立派な庭もあるっていうし、きっといい所だよ」

 車内で意識を失ってから数時間後、件の高級温泉旅館に辿り着いたオレ達は、すり漆の黒が古風な雰囲気を醸し出している少し薄暗い廊下を歩きながらそんな言葉を交わしていた。車を降りた瞬間からまるで遊園地に来たかの如くはしゃぎながら歩くモクバの後ろ姿を眺めながら、オレは既に声を上げて反応する気すら失せてぐるりと視線を間近にある大きな硝子戸の向こう側に巡らせた。

 なるほど、確かにここから見える景色は素晴らしい。四方を紅葉深い山に囲まれた静謐な雰囲気漂う温泉宿。直ぐ側に広がるのは昔ながら日本庭園で、ツツジの木の間に据えられた鹿脅しの清んだ音が聞こえて来る。……ふん、本日の『相手』のセンスは中々のものだと一応は認めてやる。が、それと正体を隠す事とはまた別の話だ。

 モクバは相変わらず得意気にオレの前を歩き、質問には一切答えない。オレがその事に関して口を開こうとすると、意図的に案内役の仲居に話しかけて避ける始末だ。……ここまで来たのならもう白状してもよさそうなものだが、それは向こうも同じらしい。

 まぁ確かに今更だ。後はどうにでもなるがいい。

 そう思い、ただひたすらに足を動かしていると、いつの間にか離れに着いていたらしい。離れにしては偉く豪奢な白木の玄関を潜り、中に入ると酷く落ち着いた空間が広がっていた。純和風の部屋など料亭で食事をする時位しかお目に掛かれない為珍しい訳ではないが、普段の生活からすれば異空間には違いない。現にモクバなどは物珍しそうに内部を見て回り「凄い!」を連発している。

 どうせ今日はここに泊まるのだろうからそんなに騒がなくてもいいだろうに。小煩いモクバにも愛想良く笑顔を見せている仲居が淹れてくれた茶に手を伸ばしながらそんな事を考えていると、不意に縁側で身を乗り出して外を見ていたモクバがピタリと止まり、くるりとオレの方を振り向いた。

「それじゃあ兄サマ。オレちょっと出て来るから」
「は?何処にだ」
「えっと、何処かな。これから連絡取るんだけど」
「何だそれは」
「とにかく、兄サマはここで待っててね。直ぐに来ると思うから」
「誰が」
「だから、今日兄サマをここに招待した相手だよ。本当は部屋で待ってる筈だったんだけど、オレ達が来るの遅くなっちゃったからその辺で時間潰してるのかも。……じゃ、そういう事だから!」
「おい、モクバ!」

 言うが早いがモクバは何時の間にか持っていた自分のスニーカーを放り投げ、縁側から外に出てしまうとそのまま振り向きもせずに駆け出して行ってしまう。一体これはどういう事なのだ?これから現れるだろう相手とモクバはそんな綿密な打ち合わせが出来るほど親しい人物なのだろうか。こんな高級旅館をセレクト出来る『誰か』。……やはりペガサスか、それともオレの知らない誰かなのか(モクバの交友関係は多岐に渡っている為オレには把握しきれない部分もある)考えれば考える程分からなくなってくる。

「……訳が分からん」

 一人になった気楽さからか、オレはついにぽつりとそうこぼしてしまう。そして長々とした深い溜息を吐き、まだ半分しか口を付けていなかった茶に、再び口を付けたその時だった。

 突然背後の玄関がガラリと開く音がした。板間との仕切り戸を閉めていなかった為、オレはビクリとして部屋から丸見えのその場所に思わず視線を送ってしまう。

「──── ?!」

 瞬間、余りの驚愕にオレは口に含んだ茶を危うく噴き出す所だった。しかし、間一髪の所で飲み込んで事無きを得る。ただし、代わりに湯呑を取り落としてしまった。し、仕方ないだろう、まさかこんな所で奴の……城之内の顔を見るとは思わなかったのだ。

 ── 全くの、予想外だ!!

「こんばんは、海馬社長。久しぶりだなぁ、元気してたぁ?」
「ぼ、凡骨?!貴様、何故ここにっ!」
「さー何故でしょー?その優秀な頭脳をフル活動させて考えてみてくれよ」
「……いや、無理だ」
「無理言うな。オレがここに来た時点で分かるだろフツー。今夜の『会食』の相手は、このオレなんですー。城之内チョイスの高級温泉旅館にようこそ〜!」
「………………」
「あ、やっぱり吃驚させ過ぎた?一応サプライズのつもりだったんだけど」

 参ったなぁ、と、ちっとも参ってなどいない声でそう呟く城之内の顔をオレはただ茫然と見返す事しか出来なかった。何がどうなってこんな事になっているのか未ださっぱり分からない。情けないだと?なんとでも言え。本当に……本当に驚いたのだ、オレは!

「ま、とりあえず無事顔を合わせる事も出来たし、ちょっとゆっくりしましょ」

 そう言って満面の笑みを浮かべて部屋に入って来る城之内を、オレはやはり無言のまま見つめる事しか出来なかった。
 

 転がった湯呑には幸いな事に一滴の茶も残っておらず、真新しい畳を汚す事は無かった。