Act2 愛の楽園でご接待(Side.城之内/しげみ)

 オレと海馬が恋人として付き合い始めたのは、高校二年生の秋だった。
 一体何を間違えたのか…。それまで顔を合わせれば喧嘩ばっかりだった相手に恋をして、思い切って告ってみたら向こうも同じ気持ちだったとかいう奇跡があったりして、それ以来オレ達は恋人としての付き合いを続けている。力関係は五分五分…と思いたいところだけど、実際はそうはいかなくて。特に頭脳の面では海馬の世話になりっぱなしだった。
 高校入学以来ずっとオール赤点持ちだったオレを大学入試合格まで導いたのは、はっきり言って海馬の力のお陰だ。
 実は海馬には、付き合い始めてから即受験勉強の相手をして貰っていた。
 本当は高校卒業後は就職しようって決めていたんだ。親父の借金の事もあったし、バイトだけで生活費を捻出するのがどれほど大変なのか身を持って知っていたから、早い内に就職して金を貯めようって思ってた。だけど海馬がそれを反対した。あの時の会話は今でもよく覚えている。

『城之内。大学には行っておけ』
『えぇー…。オレ頭悪いし、大学は無理だって。それに借金とか生活費とか色々あるしさ、今は安定した収入が一番欲しいんだよ』
『貴様は本当に馬鹿だな。高卒と大卒との間には超えられない壁があるのだぞ。この先しっかりと確実に借金を返していきたいのなら、尚更大学には行っておいた方がいい。経営者としてのオレの言葉を信じろ』
『それは分かってるんだけどさー。オレの成績知ってるだろ?こんな頭で入れるところなんて無いってば』
『童実野大学だったら貴様の頭でも入れるぞ』
『あぁ、あそこね。確かに一番近くにあるし、行くならそこしか無いけどさ。それでもこの成績じゃな…』
『ならば成績を上げればいい』
『何簡単そうに言ってんだよ』
『簡単そうではない。簡単なんだ』
『何でよ』
『オレが教えてやるからだ』
『………。はい?』

 その後海馬は、時間があればオレの相手をしてずっと勉強を教えてくれた。ただでさえ会社経営で忙しいっていうのに、無い時間を捻り出して根気良く着実に課題を進めていく。オレの空っぽな頭でも理解出来るようになるべく分かり易く教えてくれて、そしてその結果はすぐに現れた。
 あっという間にオレの成績はメキメキと上がっていき、その事を海馬と共に実感するのが嬉しくて仕方が無かったくらいだ。

 そしてその年の春、オレは晴れて地元の童実野大学に現役合格する事が出来た。赤点続きだったこのオレが大学に現役合格したってだけでも奇跡だというのに、実は驚愕の事実はそれだけで収まらなかったんだ。
 何故か海馬がオレと同じ学科に入学していた…。
 オレは海馬はもっと頭のいい有名大学に行くもんだとばっかり思っていた。だってそうだろ?頭の出来の良さが全然違うんだからさ。オレが必死になって何とか受かったこの童実野大学なんて、奴にとっては幼稚園レベルのようなものだろう(言い過ぎでは無いと思う…)。学ぶものなんて何も無い癖に、奴はただ「日本での大学卒業の資格を取りたかった」とか何とか言って、オレと共に大学生活を送る事を決めたのだった。
 こうしてあれから一年半、オレ達はたまに喧嘩しつつも恋人としてそれなりに仲良くやって、共に大学へと通っている。
 困った事に海馬は自分のポケットマネーからオレの分の学費を貸し出そうとしていたらしいが(あくまで貸し出す辺りが経営者らしいと感心したけど)、流石にそこまでさせるのは忍びなかったので、学費に関しては自分で学生ローンを組んで事無きを得た。
 もう考えてみれば何から何まで世話になりっぱなしで、だからオレはいつか海馬に恩返しがしたいと思っていたんだ。
 大学入学一年目は慣れない生活に戸惑っていてそれどころじゃなかったけど、二年生になった今だったら生活に若干の余裕も出て来たし、高校生の頃には考えられなかった大人の対応とかも出来ると自負している。だから海馬の二十歳の誕生日に、物では無い『特別な時間』というプレゼントを贈ろうと決めたのもそういう経緯から考え付いたものだった。

 それは丁度一月前の事だった。残業をしていた海馬に会う為に海馬コーポレーション本社に立ち寄った時の事、社長室に置いてある接待用のテーブルの上に何枚かの薄っぺらい冊子が置いてあるのに気が付いた。何となく手にとって見てみると、それら全ては国内各地の高級温泉旅館のパンフレットだった。
 オレが「何これ?」と尋ねると、海馬はPCから目も離さずに「昼間営業に来たどこぞの旅行会社が『社員旅行にでもどうぞ』と勝手に置いていった」と言い捨てる。その『全く興味有りません』的な海馬の態度に、オレは密かにこの会社の社員に同情せざるを得なかった。
 社員旅行くらい連れてってやればいいのにと思いつつ、暇潰しにそれらをじっくりと読んでみる。秋が深まるこれからの季節に合わせて表紙の写真は美しい紅葉に彩られ、ページを捲れば格式有る旅館の外装や美味しそうな料理、それに気持ちの良さそうな温泉の写真がこれでもかと載っている。

「温泉とかいいよなー露天風呂でイチャイチャとかしてみてぇ!」

 思わずそう言ってみたら、海馬はオレの方をチラリと見て「フン、くだらん」と軽く答えてまた目線をPCへと戻してしまった。
 だけどオレは気付いていた。その目がちっとも『くだらない』とは思っていない事に。

 だからその時、オレは海馬に温泉旅行をプレゼントしようと決めたんだ。
 勿論ただの旅館じゃない。安い観光ホテルなんて海馬に対して失礼だからな。
 なるべく高級で古くて格式があって、眺めも最高で料理も美味しくて温泉が気持ち良くて、それから出来れば離れでゆっくり出来るところ。
 当たり前だけどそういう所は間違い無く宿泊費が高い。オレの日々のお小遣いでどうにかなるもんじゃない。
 そういう訳でオレはこの一ヶ月、とにかく必死になって働いた。いつものバイトは上司にお願いして労働時間を増やして貰い、暇な休日は短期でやれる肉体労働を入れて働きまくる。そんな事をすれば当然海馬と会う時間は無くなる訳だけど、そこら辺は誕生日プレゼントを贈る為には仕方無いと割り切った。
 海馬に会えないというのはオレにとっては物凄く寂しくて辛い事だったけど、いつも忙しい海馬にとっては一月くらい別に大した事でも無いだろう。意外と寂しがり屋で放って置くと拗ねたりもするけれど、仕事に集中すればオレの事なんて二の次になるなんていつもの事だったからだ。
 それでも一応と思って電話をかけてみたら、案の定特に文句も言われなかった。
 ちょっと愛が足りないとか思っちゃったけど、下手に詮索されるよりはマシだと思って割り切るしか無い。一ヶ月後に迫った海馬の誕生日に向かって全速力で突っ走る事しか、どうせオレには出来ないんだからな。

 こうしてせっせと働き続け、オレはいつもの倍の給料を手にする事が出来た。自分の計画を曲げない為に、旅館への予約はとっくに済ませてある。
 オレ達が住んでいる童実野町から車で二時間ちょっとの山の中。この辺りじゃ結構有名な温泉街で、古い歴史も持っている。
 そんな温泉街の中でオレが選んだ旅館は、それなりに古くからやっている老舗の高級旅館だった。人がざわつく温泉街の中心地ではなく、少し離れた静かな山間にポツンと建っている純和風の建物。庭も綺麗に手入れがされていて、派手さは無いけど『侘び寂び』っていうのかな。そういうのを感じさせられた。
 十月二十五日午後四時。少し早めに着いたオレは早々に浴衣に着替えて庭を見てくる事にした。流石に山の中だけあって浴衣だけでは寒かったから、上に茶羽織も着て下駄を履いて外に出る。
 玄関から表に出て、一度振り返ってみた。

「それにしても…。我ながら立派な宿を借りちまったな…」

 オレが予約した離れは、この宿でも特別に用意されてある場所だった。多分ホテルとかだったら『スイートルーム』にあたるって考えればいいのかもしれないけど、部屋の中身も外見もとにかく立派で感心せざるを得ない。
 何て言うのかな。綺麗なだけじゃないんだ。全ての作りに重厚な歴史の重みって奴を感じてしまう。話を聞くところによると建物自体が大正初期に建てられたものとかで、この辺りの重要文化財にまでなってしまっているらしい。
 そんな立派な離れを一介の大学生が借りられるかどうか心配だったんだけど、古い旅館の割りには堅苦しくなくて、電話予約であっという間に片が付いてしまった。一見さんお断りの宿じゃなくて、本当に良かったと思う。
 だからといって旅館のマナーを無視するのは大人としてどうかとも思うので、案内してくれた仲居さんに五千円程をぽち袋に入れて心付けとして渡しておいた。
 何かこういう事してると大人になったって感じがするよな。高校生じゃ絶対出来ない事だ。でもまぁ…懐は寂しくなっちまって、明日の夕食からはおかず無しになるのは決定なんだけど…。
 そんな事を考えつつ、下駄をカラコロ鳴らして庭を散歩していたら、袂に入れてあった携帯が震えて着信を伝えて来る。慌てて携帯を取り上げて電話に出てみると、相手はモクバだった。

『もしもし?城之内?』
「あぁ、オレだ。今どこら辺にいるの?」
『もう着いてるぜぃ。兄サマは部屋でお茶飲んでる』
「そうか。協力ありがとな」
『別に構わないよ。オレも兄サマにゆっくり休んで欲しかったし。今日も朝からずっと仕事してて、この調子だと多分自分の誕生日の事も忘れてるんじゃないかなぁ?』
「アイツらしいなぁ〜。でもその方がオレも驚かしがいがあるってもんだけどな」
『あはは。まぁ程々にしてあげてよ。それじゃオレはもう帰るからな。兄サマの事は宜しく頼んだぜぃ』
「うん、任せてよ。磯野さんにも宜しくな。本当はお前達にも、もっとゆっくりしていって欲しかったんだけど…」
『冗談言うなよな。恋人同士の邪魔をする程、オレも子供じゃないんだぜぃ?その代わり、明日何かお土産買ってきてよ。温泉饅頭とかでいいからさ』
「うん、分かった。何か買っていく。気を付けて帰れよな」
『大丈夫だってば。磯野の運転は完璧だぜぃ!』

 ぷつりと切れた携帯電話を眺め、オレは心からモクバと磯野さんに感謝した。
 実はなるべく海馬を驚かせたかったオレは、以前からこの計画をモクバと磯野さんにだけは話しておいた。驚かせたかったっていうのもあるし、仮にオレがこの計画を素直に海馬に打ち明けたとしても、仕事が忙しいとかの理由で速攻却下されるのが目に見えていたからだ。
 両手を合わせて協力をせがむオレに、モクバも磯野さんも二つ返事で了承してくれた。
 そうだよな。あの二人だって、海馬にはゆっくり休んで欲しいって常々思っていた筈なんだ。誕生日くらいは仕事から離れてゆったりとした時間を…と思っているのは、オレだけじゃなかったって事だ。
 携帯電話を再び袂に閉まって、オレはカラコロと離れに戻っていった。玄関のガラス戸を引いて中に入ると、居間でお茶を啜っていた海馬とバッチリ目が合ってしまう。久しぶりに見るその端正な顔がみるみる驚愕に彩られていくのが面白くて、オレは心底満足した。
 海馬が床に落とした湯飲みを拾ってテーブルの上に置き、オレも反対側に座り込む。そして別の新しい湯飲みを取り出して二人分のお茶を煎れ、片方は海馬の前に置き、もう片方は自分の前に持ってくる。温かく湯気が出ている湯飲みを持ち上げ一口飲んで、オレははぁ〜っと息を吐き出しつつ満足げに呟いた。

「いやー、落ち着くねぇ〜」
「落ち着くではないわ!!」

 案の定キレてしまった海馬が、テーブルの上を思いっきり手で叩いた。バンッと激しい音がして、空の方の湯飲みが一瞬宙に浮く。
 あーあー、そんなに思いっきり叩き付けたら掌痛いだろうに。

「これはどういう事なんだ…城之内」
「どういう事って?」
「今日の『会食』の相手がお前だって事についてだ!!しかも何だその格好は!!」
「これ? 温泉浴衣ですけど…、知らないの?」
「そういう事を聞いているんじゃないわ!!馬鹿者!!」

 色々と混乱してしまっているのだろう。相変わらずバンバンと掌でテーブルの上を叩きながら、顔を真っ赤にして怒鳴っている。
 久しぶりに顔を合わせたんだから怒り顔じゃなくて笑顔が見たいなーとは思うけど、まぁ…結果的に騙している事になるんだから、この場合は仕方が無いな。
 ちらりと腕時計を確認すると針は夕方の五時半を差している。オレは藤の籠に盛られた茶菓子を手に取りながら、なるべく暢気な声を出した。

「まぁまぁ、落ち着いて。あと三十分もすれば夕食が運ばれてくるから」
「これが落ち着いていられるか!!」
「たまにはいいだろ?こんな風にゆっくり過ごすのも。モクバだってずっと心配してたんだぜ。最近の兄サマは働き過ぎだって」
「何が働き過ぎだ!誰のせいだと思っている!!」
「ん?」
「あ…いや、何でも無い…」
「とにかくお前もいつまでもそんな格好してないでさ。温泉旅館でスーツとか堅苦し過ぎるだろ?早く浴衣に着替えて寛ぎなよ」
「断わる」
「何でよ」
「帰るからだ。オレにはまだやるべき仕事が残っている。会食の相手が大物かもしれないと思ったからこそ、黙ってここに来てやったのだ。相手が貴様だと分かったのなら、オレはもうここにいる必要が無い。だから帰る」
「そりゃ無理だ。お前は帰れないよ」
「は…?何故だ?」
「だって、モクバと磯野さん。もう帰っちゃったし」
「何だと!?」

 オレの言葉に海馬は慌てて立ち上がって、スーツの内ポケットから自分の携帯電話を取りだした。そしていくつかボタン操作をすると急いで耳に当てる。
 多分モクバに電話してんだろうけど、残念かな。オレと協力関係にあるモクバの電話には繋がらない筈だ。少なくてもモクバが社に帰り着くまでは、兄サマからの着信は拒否にしておくって言ってたからな。
 案の定電話が繋がらなかったのだろう。「くっ…!」と悔しそうに息を吐き出しつつ、海馬は携帯電話のフリップを閉じていた。
 携帯を強く握りしめ立ち尽くしたまま怒りに震えている海馬を余所目に、オレは奥の部屋の戸棚から海馬の分の浴衣を持ってくる。そして目の前に立ち手の中から携帯電話を取り上げて、代わりに浴衣と茶羽織を差しだした。

「はいこれ、浴衣。ちゃんとお前の体型の事は伝えてあるから、長さとかは大丈夫だと思うぜ」
「………」
「着替えないの?」
「………」
「着替えないとここで襲っちゃうよ?」
「な、何故そうなる!!」
「着替えるんだよな?」
「………っ」
「な?海馬?」
「くっ………!!」

 少し強めに名前を呼んでみせたら、物凄く悔しそうにしながら海馬はオレの手から浴衣を受け取った。受け取ったっつーよりは、奪い取ったって感じの方が近いかもしれないけど。

「そうそう、素直が一番」

 笑いながらそう告げたら即「煩い!!」と返事が返ってくる。そして海馬は浴衣と茶羽織を抱えて奥の部屋に入っていき、居間との間を隔てている襖をパシンと閉めた。
 ありゃりゃ、残念。是非とも着替えてるところを見たかったのに。
 でもまぁ…ここで覗きに行っちゃうとただでさえ悪い機嫌がより最悪になるだけだし、それに何より共に過ごせる時間はまだまだ一杯あるからな。
 ここは焦らずゆっくり待ちましょうと、オレは再び座り込んで温くなったお茶を口に含んだ。
 海馬が浴衣に着替える為に奥の部屋に籠もってから数分後、「失礼します」という声が玄関の方から聞こえてきた。その声に立ち上がって玄関に向かうと、そこに今日この場所を担当してくれる仲居さんが深々とお辞儀して立っていた。

「お食事をお持ちしました。テーブルの方に広げてしまっても宜しいですか?」
「あぁ、はい。お願いします」

 オレがそう答えると、仲居さんは他の何名かの人と一緒に、夕食が入った大きな器を持って部屋の中へと入っていく。そしてテーブルの側に膝を付くと、その器の中から次々とご馳走を並べていった。
 先付けや前菜から始まり、お造り、揚げ物、焼き物、蒸し物、小鉢や冷やし鉢に中皿料理、お寿司に椀物、更に白飯と香の物、おまけにデザートまで。ずらっと並べられた料理に唖然とする。あ、海馬の好きなステーキまである。超美味そう。
 別に全部食べなくてもいいんだろうけど、流石にこれは圧巻だなとオレは苦笑した。
 鍋物やステーキなんかは固形燃料に火を付けて熱々で食べられるようにしてくれて、お陰で部屋中に美味しそうな匂いが充満する。最後に頼んでいた冷酒とビールが側に置かれた。オレはまだ二十歳未満なんだけど、今日誕生日を迎えて二十歳になる海馬の為にってお願いしたら、それならば…とお酒を用意してくれたんだ。こういう時、誕生日が遅いと損だよな。同級生はもう既に堂々と酒飲んでるっていうのにさ。まぁとにかくこうして海馬にかこつけて公の場で酒を飲めるんだから、それはそれで良しとする事にする。
 オレが用意された料理や酒に満足しながら見詰めていると、全ての準備を終えた仲居さんが立ち上がって言った。

「それでは失礼致します。ごゆっくりどうぞ。八時くらいには片付けに参りますので」
「あぁ、はい。それくらいには風呂に行ってると思いますので、宜しくお願いします」

 再び深々とお辞儀をし、仲居さんは帰っていった。ガラガラと閉まった玄関の戸を確認して振り返ると、いつの間に出て来たのだろう。すっかり浴衣に着替えて寛いだ姿の海馬が突っ立っていた。見慣れぬ海馬の姿に、オレは思わず見惚れてしまう。
 スラッと背丈が高い海馬は、浴衣がよく似合うのだ。裾から出ている裸足の足とか白いくるぶしとかが、妙に色っぽく見えてドキリと胸が高鳴る。といっても今ここでは襲わないけどな。腹も減ってるし、風呂にも入りたい。海馬を襲うのは…それからだ。

「さて、それじゃぁ『会食』を始めようか」

 呆然と突っ立っている海馬にそう声をかけて、オレはわざと下座に座った。料理は向かい合わせになる形で置かれている為、これで海馬は必然的に上座に座る事になる。まぁそんな事しなくたって普段から慣れている海馬は、スタスタと勝手に上座に向かって歩いていったけどな。

「せっかくだから乾杯しよっか。ビールと冷酒、どっちがいい?」

 酒の入った籠を引き寄せると、海馬が渋々といった感じで「冷酒」と答えた。
 つかまだ機嫌悪いな…。早いとこご機嫌になって貰わないと、せっかくの誕生日プレゼントがパーになる。

「ほらお酒。ていうか、いい加減諦めて機嫌直してよ。せっかくの温泉だろ?」
「誰のせいでこんな気分になっていると思っているのだ…」
「ん?」
「この一ヶ月の間全く顔を見せないで何をやっているのかと思えば、突然こんな場所に現れたりしおって…っ!一体何を企んでいるのだ、城之内!!」
「企んでるって…。そんな、人聞きの悪い。別に何も企んでなんかいないぜ?」
「嘘を吐け。絶対何か裏があるに決まっている!」

 裏があるのは本当だけど、そこは「そんな事ないぜ?」って答えておいた。
 つーかコイツ、マジで自分の誕生日に気付いていないのな。今ここでネタバラししちゃうのは簡単だけど、こうなったらオレはとことん黙っている事にする。タイムリミットは日付が変わる午前零時。それまでに気付けなかったらネタバラししてやるよ。
 それまでは普通に温泉旅行を楽しんで貰おうと、オレは満面の笑みを浮かべて海馬の持つ杯に酒を注いでやる。一応形式だけは重んじるつもりらしく、海馬もオレのグラスにビールを注いでくれた。酒の入った器をお互いに持って軽く持ちあげる。

「はい、それじゃかんぱーい! せっかくの温泉なんだから、ゆっくり楽しもうなー」
「………」

 オレの問いかけに海馬は何も答えない。ただ漸く諦めが付いたのか、冷酒に口を付けて軽く溜息を吐いていたのがおかしかった。
「ふぃ〜! 食った食った!」

 並べられた料理を粗方食べて、オレは腹一杯になってその場にゴロリと横になった。見た目や匂いからして全ての料理が美味そうだったけど、味もそれを裏切らず、最高なものばかりだった。久しぶりの美味い料理に満足して、オレは畳の上に仰向けになって、自分の腹を擦っていた。
 海馬はそんなオレを目聡く睨み付けると「食べてすぐ横になると牛になるぞ、城之内」と声をかけてくる。だけど聞こえて来たその声が、随分穏やかに聞こえてオレは身体を起こした。
 殆どの料理を胃の中に収めてしまったオレとは違って、海馬は全体の三分の一程度しか食べていない。まぁ海馬は元々小食だし、そこは別に驚く事じゃ無いんだけどさ。未だにちびちびと冷酒を口にしている海馬の眉間の皺がいつの間にか無くなっているのに気が付いて、オレは目を瞠った。

 あれ…?上機嫌になってる…?

 思わずじっと海馬の事を見詰めると、それに気付いた海馬がオレに向かって「何だ?」と問いかける。その言葉にも先程までの険は感じられなかった。

「良かった。気に入ってくれたみたいだな」
「何がだ?」
「料理。美味かっただろ?」
「まぁな。流石に老舗旅館というところか。上品な味付けで好みだった」
「さっすが社長。舌肥えてんな」
「それは関係無いだろう。それに今日はお前も煩い口出しをしなかったしな」
「へ?口出し?」
「そうだ。いつも一緒に食事を取ると、やれもっと食べろだの、やれ残すとお百姓さんに怒られるだの、やれ野菜も食わないと身体に悪いだの、何かしらちくちく言ってくるだろう」
「そうだっけ?」
「そうだ。お陰でいつもそっちばっかり気になって、美味い料理も集中して食べる事が出来ん。なのに今日はどうしたんだ?殆ど残してるし野菜も余り食べなかったというのに、何も言ってこないな」
「そりゃそうさ。だって今日は…」
「今日は?」
「っ…とと。あ、いや、何でも無い。せっかく温泉でのんびり過ごそうって時に、あんまり口煩く言うのも何だと思ってさ」
「ふぅん…?そんなものか?」

 危なく「今日はお前の誕生日だから」って言いそうになっちまった。我ながら苦しい言い訳だったけど、何とか誤魔化されてくれた事にホッと胸を撫で下ろす。胸を撫で下ろすついでにパンパンに膨らんだ胃を擦って、そう言えば…と考え付いた。
 さっき旅館を彷徨いていた時に目に入ってきたもの。念の為仲居さんにも聞いてみたけど、使用は自由だって言ってたっけ。
 冷酒を綺麗に飲み干して、今は食後のお茶を飲んでいる海馬にオレはズリズリと近づいた。そして浴衣の袂をつんつんと引っ張る。

「何だ?」
「海馬、ピンポンしよう!」
「は?」

 湯飲みを持ったまま海馬が訝しげに眉を寄せた。だけど機嫌が悪くなった訳でも無さそうなので、オレはそのまま会話を続けてみる事にする。

「本館の方にさ、多目的室があったんだよ。そこに卓球台があって自由に使っていいらしいから、だからピンポンしよう」
「………。貴様…、何を言っている…」
「別に何も難しい事言ってないだろ。ピンポンしようって言ってるだけじゃん」
「何故温泉まで来てそんな事をせねばならんのだ」
「温泉だからだろ!」
「………は?」
「ったく!海馬は分かってないなぁ。温泉と来ればピンポン。ピンポンと来れば温泉。コレは常識でしょう」
「何故温泉と卓球を結びつけるのだ」
「卓球じゃないの。温泉にあるのはあくまでピンポン。まぁ…やる事は一緒だけどさ」

 袂をグイグイ引っ張りながらそんな事を言うオレに、海馬は呆れたような顔をして深い溜息を一つ吐いた。表情にはありありと『面倒臭い』という文字が見えるけど、ここで諦めちゃダメなんだ。今日は海馬と温泉旅館を満喫するって決めてたんだからな。
 細い手首をギュッと握って、オレは海馬を引っ張りあげるように一緒に立ち上がる。そして手首を握ったまま玄関に向かって歩き出した。当然のように海馬が抵抗してくるけど、そんなものは最初から分かりきっている事だし、軽く無視する事にする。

「は、離せ馬鹿!オレは行かないぞ」
「何で?」
「何でじゃないわ阿呆が!それこそ何故オレがそんな事をせねばならん!」
「………。はは〜ん…なるほど」
「………?」
「海馬くんはオレにピンポンで負けるのが怖いんですね?」
「なっ………!?」
「あぁ、そうなのかー。それじゃー仕方無いね。んじゃピンポンは無しで、部屋でゆっくり過ごしましょ」
「おい…凡骨…」
「ん〜?何?」
「今の言葉を訂正しろ…」
「はい?何の事かな?」
「とぼけるな!オレが負けるのが怖いだと…?そんな事は断じてない!!この海馬瀬人…、どんな勝負だろうが何でも真剣にやるのが信条だ!!ピンポンだろうが卓球だろうが何でも来い!!後悔するなよ、凡骨!!」

 よしオッケーと、オレは内心でニヤリと笑ってしまう。
 普段は物凄く頭のいい海馬も、いざ勝負事となると単純明快になるのは既に周知の事実。ここで焚きつけておけば簡単にピンポン勝負に乗ってくるのは分かりきっていた。
 もう本当に単純そのもの。海馬を乗り気にさせるなんて簡単簡単。
 でもさ、そんなところが可愛いって思うのはオレが馬鹿だからかな?まぁ馬鹿でも全然いいけどね。こんな風に海馬の事を可愛いって思えるのなら、オレはずっと馬鹿でも構わないんだ。
 すっかりやる気になった海馬にニッコリと微笑みかけて、オレはその手を引いて玄関まで行き、土間に降りて下駄を履いた。

「よし!それじゃぁ勝負だ、海馬」

 振り向いてそう告げたオレに、海馬がギラギラと瞳を輝かせながらコクリと一つ頷いた。
 二人で下駄をカラコロ鳴らしながら本館まで歩いて行き、そして入り口で今度はスリッパに履き替えて本館の奥まで進んでいった。途中で大浴場の前を通りかかって、温泉の効能が書かれた看板を二人して眺めてみる。
 泉質は、透明な単純温泉弱アルカリ性低張性高温泉。効用はストレス、神経痛、筋肉痛、五十肩、運動麻痺、関節のこわばり、打ち身、慢性消化器病、痔疾、病後回復期、疲労回復、健康増進、美肌効果等々…。
 すげー!!海馬にピッタリじゃん!!とオレは思わず感心してしまった。
 特にストレス、疲労回復、健康増進、美肌効果のところが素晴らし過ぎる。まさに海馬の為にあるような温泉だなこりゃ。あ、五十肩まである。海馬はまだ二十歳だけど、コイツの肩ってマジでガチガチなんだよな。この温泉で少し解れてくれればいいんだけど。
 そう思いながら横に突っ立っている海馬の顔を見てみたら、その顔は至極真剣だった。
 なるほど。自分の不健康ぶりは既に把握済みなのな。
 すっかり看板に見入っている海馬を「後で一緒に入ろうな」と宥めて、オレはそのまま廊下の奥へと進んでいった。この奥の方に目指す多目的室はある。他に使っている人がいるかもしれないからそっと部屋を覗いてみると、幸いな事に今は誰も使っていないらしい。広い部屋にポツンと卓球台が置かれて、横にある戸棚にはラケットも二本用意されていた。

「お、ラケットもちゃんと二本あるじゃん。ピンポン球も用意されてるし…。ペンホルダーとシェークハンド、どっちがいい?」
「シェーク」

 即座に返ってきた答えにオレは笑みを零す。
 まったく…。卓球なんてこれっぽっちも興味有りませんってな言動しておいて、知識だけはしっかり持ってやがるんだもんなぁ。本当に何の興味も無い奴だったら、二種類のラケットの違いなんて分からない筈だ。
 思った以上に面白い試合になりそうだと、俄然期待が高まってくる。

「ほら、シェーク…って…。何やってんのお前!?」

 海馬お望みのシェークハンドを手にとって、オレは笑顔のまま振り向き…、そしてそのまま固まってしまった。
 どうやら海馬は、いつの間にか本気でやる気になってしまっていたらしい。多分酒に酔っているせいでノリがいいってのもあるんだろうけど、その視線は真剣そのものだ。ていうかオレがツッコミたいのはそこでは無くて、むしろ海馬の格好が変化していた事に動揺してしまったのだ。
 オレがラケットに注視していたほんの数秒の間に、海馬は茶羽織を脱いで戸棚の上に脱ぎ捨て、更にはヒラヒラして邪魔な浴衣の袖をグルグルと肩まで巻き上げてしまっていた。

 つーかさ…、その格好はマズイよ…。
 何がマズイって、オレがマズイ。

 普段から袖の長い服を好む海馬の二の腕は、当たり前だけど全く日に当っていないから真っ白だ。まぁ恋人だからその腕が白いのはとっくに知っている事なんだけど、それでもこんな明るい電気の下で、ましてやこのような公の場でそれが晒された覚えは無い。
 細いながらもしっかりとした筋肉の付いた二の腕を惜しげも無く晒して、しかも準備体操のつもりなのか、腕をグルグルと回しちゃったりしてるもんだから脇の下まで丸見えだ。
 ただでさえこの一ヶ月は全く海馬の姿を見ていなかった為、その光景は予想以上にオレを刺激する。

「何をボーッとしているのだ、城之内。サーブはオレからでいいな?早くボールを寄越せ」
「あ…。う、うん…」

 海馬の催促にオレはピンポン球を放り投げながらも、その腕から視線を外す事が出来ない。
 どうしようこれ…。マジで美味そう。むしゃぶりつきたい…。
 知らず上がってくる息に思わずゴクリと喉を鳴らした時だった。ヒュンッという音と共に、オレの顔の横を何かが鋭い勢いで通り抜けていく。その何かが後ろの壁に跳ね返って、コンコンコン…と床に転がるのを見て慌てて前に向き直った。目の前には得意げな顔をした海馬がいて、その顔を見てオレは悟った。ピンポン勝負はとっくに始まっていたのだ。

「何を呆けておるのだ。試合はとっくに始まっているのだぞ…城之内?」

 フフンと実に上機嫌に笑った海馬は、床から拾い上げたピンポン球をラケットの上で跳ねさせつつ偉そうに口を開いた。そんな海馬に対して、オレもニヤリと笑ってみせる。

「この…、やりやがったな…。相手が構えて無いのにサーブを打つなんて、随分卑怯じゃないか」
「何が卑怯か。何に気を取られているか知らんが、ボーッとしている貴様が悪い」
「そんな事言ってると痛い目みるぜ、海馬」
「ほう…」
「悪いけどオレは経験者だからな。結構強いんだぜ?中学時代はよくダチと一緒に卓球で遊んでたりしてたからな」
「なるほど…。大した自信だな、城之内。だがオレもそう簡単にやられる訳にはいかん。この世のありとあらゆる勝負事で、このオレが負ける事等許される事では無いのだ!」

 腰に手を当てて偉そうにそんな事を言う海馬に、高校時代は遊戯にデュエルで負けまくってたじゃないか…とは口が裂けても言えなかった。その代わりオレも茶羽織を脱ぎ捨てて袖を捲り、口角を上げてラケットを構えながら挑発するように声をかける。

「オレだって負けるつもりなんてねーよ!ご託はいいから早く打ってきな!」
「いい度胸だ…。行くぞ、城之内!!」
「来い!!海馬!!」

 海馬が構えてオレに向かって鋭いサーブを打ってきた。オレはその球を見据えて、本気で打ち返す。
 遊びのつもりで誘ったピンポンが真剣勝負になるのは、実にあっという間の出来事だった…。
 
 数十分後。オレ達は二人して卓球台に凭れつつ、ゼーハーゼーハーと荒い息を吐いていた。
 ピンポン勝負はまさに接戦状態で、暫くはお互いに一歩も引かない試合が続いていた。ただ後半になって集中力の切れてきたオレがミスを連発するようになって、残念ながら僅差で海馬に負けてしまった。
 まぁ、これでいいんだろうけどな。今日は海馬の誕生日だから、勝負事はアイツに勝たせないと意味無いし。
 悔しいは悔しいんだけどさ。本気でやってこの結果だから、納得するしか無いってやつだ。

「ふぁー、あっちぃー…」

 持っていたラケットでパタパタと顔を仰いでいると、同じように汗びっしょりになっている海馬がちろりとオレの方を見てきた。上気した顔に流れる汗はまるで『あの時』の海馬を思い起こさせて、オレは慌てて首を振り、脳裏に浮かんだイメージを外へと追い出す。
 こんなところで欲情して襲ったりなんかしてみろ。二度と触らせて貰えなくなる。
 オレは一度大きく深呼吸をして、湧き上がる劣情を何とか押さえ込んだ。
 そして改めて振り返り、袖を下ろし身支度を整えながら額の汗を拭っている海馬に、にこやかな笑顔で話しかけた。

「お疲れ様。何か汗かいちまったな」
「貴様のせいで暑くて仕方がないわ…」

 如何にもウンザリといった感じで答えて来るけど、機嫌が悪くなっているどころかむしろ上機嫌なのは、その表情を見れば分かるってもんだ。
 海馬に慣れていない普通の人が見れば、絶対不機嫌だって思うんだろうけどな。オレだって伊達にコイツの恋人やってないんだぜ?
 自分と海馬の分のラケットを片付けながら、オレはクスリと笑って言った。

「でもいい汗かけただろ?たまにはこうやって身体動かすのもいいよな」
「フン…。まぁな」
「素直じゃねーなぁ。まぁいいけど。それじゃこれから汗流しにいこうぜ。風呂入るのにも丁度いい時間だし」
「ふぅん…」
「さっきの看板にも書いてあったけど、ここの温泉はマジで身体にいいらしいぜ。日頃の疲れも一発で取れるんじゃないか?露天風呂もあるらしいし、楽しみだなー。な、海馬」

 オレの言葉に海馬は一瞬何かを考えたようだったが、それでもコクリと頷いてくれる。
 そうそう、素直が一番だよねーと思いつつ、オレは海馬の手を取って大浴場へと足を進めていった。