Act3 愛の楽園でお戯れ(Side.海馬/散)

「八時かぁ……微妙な時間帯だよなぁ。人あんまり居ないといいけど」
「何を一人ブツブツ言っているのだ。というか、何も持って来ていないぞ」
「あ?お風呂セットの事?大丈夫大丈夫。ここはさぁ、備品はぜーんぶその場所に揃ってるんだぜ。使いたい放題って奴だ。部屋にあるのは部屋で使うだろ?それでも三セット位あるんだから太っ腹だよなー」
「そうなのか」
「その辺の安旅館と違ってサービス満点だぜ。この浴衣だって男はそうでもねぇけど女物はすげぇ一杯種類があるんだぜ。外人も結構来るからお前みたいなデカイ奴のもふつーにあるし。質もいいし」

 世の中やっぱり金だよなー。あー贅沢贅沢。

 そんな事を言いつつ組んだ掌を後頭部に当てて鼻歌まで歌いながら先を行く城之内の背を眺めながら、オレは未だ額に滲んでいた汗を手の甲で拭いつつ、少し熱も落ち着いて冷えて来た身体を包む様に捲った袖を元に戻し、先程脱ぎ捨てた茶羽織を肩にかけた。

 久しぶりに身体を動かした所為か何処となく手足が軋む気がする。慢性的な運動不足だな。まぁ普段はそれなりに適度な『運動』をしているが、ここ一月ほどそれも無かったしな。…………って、何を想像しているのだオレは。馬鹿馬鹿しい。

 気を逸らす為に大きな深呼吸を一つして手足の疲労を取る為に歩きながら密かに伸びをすると、遠くの方からか細い三味線の音が響いている事に気付く。

 なるほど、高級旅館と言えば利用する客もそれなりだ。大音響で下手くそなカラオケを歌いまくり、自席どころか周辺の座敷にまで迷惑をかけるような低俗な輩は少ないのだろう。静けさを好むオレにとってこの環境は最適だ。広過ぎない空間、明る過ぎない照明、そして適度な人の入りは心を落ち着かせる。

 このレベルの温泉旅館となると宿泊料はざっと見積もってホテルのスウィートルーム位か。凡骨にしては随分と奮発したものだ。しかしただでさえ余裕のない生活を送っている癖にこんな所に小旅行などどう言う風の吹きまわしだ?まさかこの格式高い旅館のペア宿泊券でも当てたとか、そういうオチなのか?だが、それにしては旅館側の対応が普通過ぎる。……という事はやはり身銭を切って用意したと言う事なのだろうか。

 ……一体、何の為に?

 パタパタとスリッパの音を響かせながらオレがそんな事をやや真剣な顔で考えていると、不意に先を行く城之内が立ち止まり「そういえばさぁ」と間の抜けた声を出した。オレ達の他に行きかう人のいない廊下にはその声がやけに大きく響き渡る。

「お前、大浴場って入った事あんの?」
「どういう意味だ?」
「いや、お前がああいうでっかい風呂に他人と一緒に入るとかあんま想像できねぇからさ」
「……言われてみれば物心付いてからは経験がないな。昔はあったのかもしれんが、記憶にない」
「修学旅行とかことごとく無視だったもんなー」
「ふん、あんなものは時間の無駄だ。ただの遊びではないか」
「そりゃそうだけどさ。あれだって社会経験なんだぜ?お前はああいう楽しさを知らないから社員を旅行に連れて行こうっていう優しさが持てねぇんだ。KCって給料いい割に福利厚生がイマイチだよなー慰安旅行位連れてってやれよ」
「煩い。余計な世話だ」
「仕事に精を出すにはそういうご褒美も必要なんだぜ。ここなんかどうよ?童実野からそう遠くないし、豪華だし料理も美味いし、最高じゃね?お勧めしますよ、社長さん」
「貴様は旅行会社の回し者か」
「個人的な意見を口にしてるだけですー。お、着いた着いた。あっちゃー結構人いるなぁ」

 ゆったりと歩きながら二人でそんな他愛もない話をしている内にいつの間にか目的地へと辿り着いたらしい。城之内は先程も見かけた『男湯』と書かれた鮮やかな藍色の暖簾に直ぐに首を突っ込むと、少しだけ残念そうな声を上げてオレの方を振り返った。……貸し切りではない大浴場なのだから人がいるのは当たり前だと思うのだが、何故残念そうな声を出す。

 そう思いながらオレはやはり先程も凝視してしまった温泉の効能について羅列されている看板を再び見たり、その横にかけてある『大浴場--午後十二時〜午前零時まで男湯。他女湯』と書かれた木札を何気なく眺めていたが、直ぐに城之内に手を引かれ無理矢理中へと連れ込まれた。途端に水気の多く含んだ暖かな空気が全身を包み込む。

「ま、貸切じゃないからしょうがないよなーあ、そこ段差あるから足元気を付けろよ」
「スリッパ位揃えんか、みっともない。皆ちゃんと下足棚に入れているではないか」
「えー面倒臭い」
「面倒臭いではない。自分のスリッパを他人に履かれたりしたら嫌ではないのか」
「そんなん気にした事ねぇし。神経質だなー海馬くんは。大体置いた場所なんて覚えてねぇし」
「何の為のナンバリングだと思っているのだ。貴様本当に大学生か」
「あーもー煩いなー折角の温泉なんだからお小言は無しにしよーぜ。とりあえず、こっちこっち」

 貴様結局脱ぎ捨てるのか!パタパタと目の前に放られたスリッパを拾い上げ、揃えて自分の分と隣同士に収納すると、ずらりと並べられた籠入りの棚をぐるりと見廻しながら場所を物色していたらしい城之内に手招かれた。

 広い脱衣所の中で尤も隅に位置するその場所は、隣に置かれた体重計が死角となって比較的目立ちにくい。歩いて行くといつの間にかタオルを二セット携えた城之内がさっさと浴衣を脱ぎ捨てて腰タオル一枚になり、オレを待つ間暇なのか「体重が気になる」と言って体重計に上がっていた。「うわ!」という叫び声に増えたのか減ったのか気になりつつ、オレも腰帯をスルリと解く。

「昨日の時点では結構痩せたと思ったんだけどなー今日のご馳走で元に戻ってやんの」
「そんなに急に体重が増えるか」
「他の奴はどうか知らねぇけど、オレは結構ダイレクトだぜ。お陰でアップダウンが激しいったら」
「見た目が変わらないのだからどうでもいいだろうが、そんなもの」
「そうなんだけどーやっぱお年頃だから気になるでしょ。……というか、お前はどうなのよ」
「別に、特に変わりはない」

 でも体脂肪は減ったぜ。ラッキーなどと言いつつ満足気に体重計を降りた城之内は、何故か意味有り気な笑みを見せてくるりとこちらを振り向きじろじろと人の全身を眺め見た。その余りに不躾な視線に、脱ぎかけた浴衣を思わず着てしまったオレは無意識にその視線を除けるべく一歩後ろに下がってしまう。

 なんだその目は!気色悪いわ!

「ふーん。そういう割にはなーんか脇腹辺りが心もとなく見えたんですけど?」
「き、気の所為だ。何をじろじろ見ている。用意が出来たのならさっさと先に入らんか!」

 どこからどう見てもいい事を考えてなさそうな顔を思い切り近づけて、さも面白いものを見つけたと言わんばかりにニヤリと笑って見せた城之内は、いつの間にか伸ばした手でがっちりとオレの腕を押さえ付けて、予想通りの言葉を口にする。

「か・い・ば。体重計、乗ってみ?」
「…………断る」
「特に変わりがないんだろ。だったら乗れるよな?」
「人の事はどうでもいいだろうが。放っておけ!」
「そんなに大騒ぎしなくても。放っておけないから言ってるんです。いつもは頻繁にチェック出来るけど、最近してなかったもんなー。仕事ばっかしてたって言うし。さっきも余り食ってなかったしー」
「………………」

 マズイ。非常にマズイ。実際のところどうなのか正確な所は分からないが、確かにオレはこの一ヶ月まともな食生活をしていなかった。食生活どころか生活そのものがまともじゃなかった。ただでさえエネルギーを貯め込めない体質なのに、そんな日々を過ごしていれば中身が目減りするのは当たり前で……多分、多分だが、減って……。

 普段から体調管理には口煩いコイツにそんな現状を知られた日には何を言われるか分かったものではない。ここは三十六計逃げるに如かずだ。さっさと腕を振り解いて浴場に……とオレが思った時にはもう遅かった。

「お前が乗らないなら乗せちゃうよ。よいしょ」
「ちょ?!持ちあげる馬鹿が何処にいるッ!」
「簡単に持ちあがっちゃってるし。駄目だねこりゃ。つーかお前機械の上で暴れんなよ。はい、大人しくしてー?」

 オレの腕を掴んだままいつの間にか至近距離に近づいていた城之内が、至極素早い動作でさっとオレの両脇の下に手を潜らせたと思った瞬間、まるで子供にするようにそのまま力を込めてひょいと軽々しく持ちあげると、荷物か何かの様に件の体重計にオレの身体を乗せ上げた。デジタル式のそれは直ぐに計測を開始し、10秒後如何にも機械的に見える表示板に驚くべき数字を叩き出した。

 それをじぃっと覗き込んでいた城之内の頭が大げさに仰け反って、再び戻る。

「…………うわー!なんだこれ悲惨だなー!」
「おい」
「折角の温泉旅行だからって甘くしたオレが間違ってました。明日の朝は飯三杯食え」
「食べられるかッ!」
「だってお前コレはヤバいだろ。オレ以下って一体何事?オレ達身長差何センチあると思ってんのよ?」
「………………」
「体脂肪だって何コレ?冬越せねーな。凍死するぜ」
「よ、余計な世話だ!」
「まぁお前の場合筋肉あるからまだマシだけど、それにしたってないよなーやっぱオレがちゃーんと監視してないと駄目だな、うん」
「何を偉そうに。……もういいだろうが、さっさと行け!」
「一緒に入ろうって言ったじゃん。待ってやってんだぜオレは。早くしろよ」
「ならば邪魔をするな!」
「はいはい」
「じろじろ見るな!」
「何を今更……あーでもお前腰タオルじゃちょっとヤバいかも。女の子みたく胸から巻いた方がいいんじゃね」
「は?」
「だって上半身がエロ……や。何でもありません。準備出来たかー?」
「ああ」
「じゃ、行きましょうかね。滑り易いから気を付けろよ」

 風呂場ですっ転んで大開脚とか良くある話だからさ。

 キヒヒ、と未だ中高生レベルの品のない笑いを洩らしながら、何故かオレの腕を離さずに城之内は先に立って擦り硝子で出来た巨大な入り口扉へと歩いて行く。ギィ、と重厚な音がしてゆっくりと開かれたその向こう側は白い湯煙に隠れて余り良く見えなかった。
「うわ、結構広いな!」

 子供の様にはしゃぎながらペタペタと足音を響かせて中に入って行く城之内の後に続きながら室内に入りぐるりと内部を見渡すと、確かに酷く広い空間が目の間に広がった。

 ざっと見渡して見える限りでも、大の大人が優に数十人は入れる大浴槽を中心に右隅には小さな風呂が二つ。目を凝らしてみると電気風呂と水風呂、と書いてある。そのすぐ傍にはサウナへと続く扉があり、なるほど水風呂はそれの付属なのだろう。そして逆側の隅に所謂ジャグジーの様な泡風呂と打たせ湯があり、その横の硝子扉から外に出ると大きな露天風呂があるらしい。そのどれにも数人の年齢が様々な他の客の姿があり、一人静かに長湯を楽しんでいる者や、浴槽の淵に腰かけて知り合い同士で他愛もない世間話に花を咲かせていたりする。

「何真剣な顔して観察してんの?とりあえず体洗おうぜ。つーかそんな所に突っ立ってんなよ、目立つだろ」

 なかなか種類があるなと密かに感心していると、城之内がそう言ってぐい、と腕を引いて来る。それに任せるがままについて行くと確かに微妙な視線を感じた。人の視線に晒される事など日常茶飯事過ぎて今更全く気にならないが、隣の城之内はそうでもないらしい。

 隅の洗い場に行く間も「じろじろ見んな!」と先程のオレの様な剣幕で一人怒っている。別に見られた所で何かが減る訳でもあるまいし、普段は好んで裸体を晒す癖に意味が分からん。大体貴様それ程繊細な神経をしていたか?

「イライラすんなぁ」
「何をごちゃごちゃ言っている。身体が冷えるぞ。さっさとしろ」
「だあって、あいつらこっち見てるんだぜ?」
「別に見られていようがどうという事は無いだろうが」
「オレは別にどうって事ないけどさ」
「ならいいではないか。気にするな」
「……お前、気になんねぇの?つか、気付かねぇの?」
「全然。というか、気付くとは何だ」
「……これだからなー困るよなー」
「何が」
「ま、いいや。オレがガードしてやりゃーいい話だし。あ、お背中流しましょうか?」
「結構だ」
「ちぇ」

 なんだか良く分からない事を言ってくる城之内を無視する形で、オレはさっさと近間にある洗髪剤を手に取って、素早く頭を洗ってしまう。風呂にゆっくり入るという習慣がない故にそのスピードは城之内よりも大分早い。モクバに良く「兄サマは烏の行水よりもまだ早いね」と称賛だか批難だかよく分からないコメントを貰うのだが、早く洗おうが遅く洗おうが特に変わりはないのでこのスタイルは長い間崩れる事はなかった。

 古風な温泉旅館故にシャワーは設置されておらず、桧製の湯桶に湯を貯めて頭からザブリと被る。一気に前に垂れ下った邪魔な髪をかき上げながら続けて身体も洗おうとボディソープに手を伸ばすと、指先が触れる寸前でさっと城之内が横取りした。なんだ!と声には出さず視線を送ると、手に容器を持った状態で同じように髪の泡を洗い流した城之内が呆れた様に口を開いた。

「お前って見かけによらずそういうとこ雑だよなーもっとこう自分の体を丁寧に扱おうって気はないのかね。頭もそうやってゴシゴシ洗うと頭皮痛むんだぜ。静香が言ってた」
「女ではあるまいし、風呂に時間をかけるなど勿体無いだろうが」
「まー普段はそうかもしんないけど、ここは温泉だぜ?時間は余るほどあるんだし、も少しゆったりしろよ。オレが落ち着かないじゃん」
「知った事か」
「大体、同時に洗い終わらねぇと一緒の行動が出来ないだろー」
「何故何から何まで共に行動しなければならないのだ。好きにすればいいだろうが、鬱陶しい」
「駄目。だってお前危ないし」
「だから何がだ!」
「んじゃ、そーっとお前の隣りに座ってるおっさんの事見てみ?オレの言ってる事分かるから」
「は……?」
「いいからいいからそーっとだぞ」

 いつの間にかオレと膝が触れ合う程近くに身体を寄せて来た城之内が、周囲に聞こえない様にわざと小声でこそこそとそんな事を言う。それに従うのも癪だったが、言う通りの行動をしないと何処までもしつこく食い下がるのは目に見えているので、仕方なくオレは少しだけ顔を動かして窺う様に城之内の示す『隣』にちらりと目を向けて見た。すると、微妙にズレはしていたが、隣の人間と思い切り視線がかち合ってしまう。

「?!」
「ほらな。じーっと見られてるだろ。お前、全く気付いてねぇみたいだったけど、あいつさっきからぜーんぜん手を動かしてないんだぜ。あの腰タオル取ったらすごい事になってそうだよなー」
「……ど、どういう意味だ」
「どういう意味って、分かる癖に。ちなみにオレも結構ヤバイわけだけど。触ってみる?」
「ふざけるな!」
「あはは。ここ、共同の大浴場で良かったなぁ。ま、とにかく温泉に浸かりに行きましょ。やっぱり体洗ってやるよ」
「いいと言っている!触るなっ!ソレを寄こせっ」
「うわっ!いってっ!!おま……これはないだろっ!」
「喧しいっ!」

 言いながらニヤニヤと頬を緩ませる城之内の手の中にあるボディソープをわざと奴の顔に激突する様に奪い去り、中身を掌にぶちまけたオレはやはり普段と同じく乱雑な仕草で全身を洗い終えると、再び湯を被って全ての工程を完了させてしまう。

 その後さっさと立ち上がり何処へ行こうかと思案するオレにそれに慌てた奴が「ちょ、ちょっと待てって!」等と言いながら、先程までの呑気さは何処へやら盛大に泡を周りに飛び散らせながら背にスポンジを滑らせていた。……何が丁寧にだ。聞いて呆れるわ。

 その間も四方から視線を向けられている事は分かっていたが、やはりどうとも思わなかった。
「お、今露天風呂誰もいないぜ?チャンスだな」
「オレは電気風呂と打たせ湯が気になるのだが」
「電気風呂は先客がいるし、打たせ湯なんてお前、背中真っ赤になるぜ?」
「そういうものなのだからいいだろうが」
「駄目駄目。皮膚が丈夫じゃない奴は痛いだけだし」
「勝手に決め付けるな」
「そうだって。オレはお前よりもお前の事知ってんだから素直に言う事聞け」
「………………」
「今日は月が綺麗だぜー。最高の露天風呂日和だな!」
「……そんな日和があるのか」
「一々ツッコむの、やめて下さる?」

 結局、城之内から離れて先に行こうとした途端腰タオルをがっちりと掴まれてしまい、一人で先に行動する事が出来なかったオレは、しぶしぶ奴に付き合う形で擦り硝子製の扉の向こうにある露天風呂へとやって来た。

 下一面に敷き詰められた石畳と、四方を高い竹の生垣で囲まれたいかにも自然を強調したそこは、なみなみと注がれる湯が溢れて温かく濡れている。今は誰もいない風呂の中には頭上に浮かぶ月が揺れながら映し出され、何とも情緒豊かな雰囲気を醸し出していた。

 尤も、静謐な雰囲気など特に頓着せず「すげー!」と騒ぎながら湯に飛び込む相手が一緒では、そんなものに浸る時間などほんの僅かも無かったが。

「貴様の所為で風情が台無しだ」
「あ?なんか言った?」
「……何でもない」
「ここ、一応外なんだから早く入れよ。寒いだろ」
「騒ぐな、煩い」
「大人ぶっちゃって。ちょっと先に年……」
「何か言ったか」
「いいえ何も。ほれ、早くしろよ。そこは浅いから」
「見れば分かるわ!」

 何でこいつは一々口を挟むのだ!貴様はオレの保護者か何かか?!

 そんな事を苛立たしげに思いながら、オレは敢えてゆっくりとした動作で奴が両手両足を伸ばして寛いでいるその脇から湯の中に足を踏み入れると、腰に巻いていたタオルを取り去って丁寧に折り畳みながら静かにその場に座り込んだ。腰かける為だろうか、その場所は他よりも一段高い。

 そんなオレの事をいつの間にか全身を湯に沈め泳ぐような素振りを見せて眺めていた城之内が、ニヤリと笑ってこう言った。

「あ、今すっげーいい眺めだった。アングルがヤバい」
「……どこを見て言っている貴様。湯の中で泳ぐな」
「誰も見てないしいーじゃん。気持ちいいなぁ」
「そういう問題ではない。みっともないからやめろと言っている」
「悔しかったらお前も泳げば?」
「誰が悔しいか!沈めるぞ!」
「それは勘弁。分かりました。今やめますー」
「今時モクバでもやらんわ、そんな事」
「だぁって。大人しくしてらんないんだもん」
「何故だ」
「何故ってお前……さっきから言ってるじゃん、ヤバイって」
「何が……!!」

 泳ぐのを止めたと思ったら今度は風呂底に寝そべる様な形でオレを見上げて来た城之内は、含みのある物言いでそう言った後、「ほれ」と言って身を起こした。本当にこいつの言う事は訳が分からんと思いつつ、何気なく視線をそこに落とすと思わずオレは目を瞠った。何故なら……と言うかこんな事を説明するのも憚れるのだが……奴が勝手に『興奮』していたからだ。

 僅かな照明と月明かりしかないこの状態ではあからさまに見える事はなかったが、それでもはっきりと分かってしまう。

「き、貴様っ、何だそれは?!」
「やー。何と言っても一ヶ月ぶりですから、体は正直なもので。一緒にお風呂とかクるでしょ普通。お前妙に色っぽいし。エロいし」
「馬鹿か!さっさと収めんかっ!」
「いや収めろったって、こればっかりはどうにも。どうしようこのまんまじゃ出られない〜」
「オレの知った事か!今この場で何かしてみろ。そこの岩に顔面を叩きつけてやるからな」
「こわっ!お前マジでやりそう」
「当たり前だ!」
「でもさ、こんな状態で興奮するなってのも無理だと思わねぇ?温泉だぜ?裸だぜ?どうしようもないじゃんか」
「………………」

 男湯に入ってそんな下らん事を言う阿呆は貴様だけだ!変態め!

 そう容赦なく心の中ではなく口に出して罵ってやると、それでも特にダメージを受けた様子もなく、城之内は「酷いっ!」なんてワザとらしく嘆きながら、オレのいる方へと近づいて来た。

 ……なんだか、嫌な予感がする。こいつが何かしでかす前に逃げた方が得策だろうか、そう思い近づいてくる奴からじりじりと身を離しながら傍に置いていたタオルを手に立ち上がろうとしたその時だった。がくん、と一瞬妙な衝撃か体中に伝わったと思った瞬間、足首に強い圧迫感を感じた。もしやこいつ、足を掴んだか?!そう思うより先にざばりと音を立てて身を起こした城之内の腕が、オレの肩を捕まえる。

「!!ちょ……貴様何をやって!」
「しーッ!大騒ぎすると人が来ちまうだろ?」
「むしろ来て欲しいわ!こんな所で盛るな犬がッ!」
「まぁまぁ、何もここでヤろうとか、そういう無茶な事は言わないから」
「既に臨戦態勢に入っている奴の言う事など、説得力の欠片もない……っ!」

 いつの間にかオレが座っている一段高い石の腰かけの上に両膝を付いて、オレの上に覆い被さる様な体制になっていた城之内は、熱い湯の所為なのか、それとも自身の興奮状態の所為なのか頬を赤く上気させてやや上ずった声でそう言って来る。

 じょ、冗談じゃないぞこの発情犬が!ここは個室ではないのだぞ、公共の浴場だ!硝子一枚隔てた向こう側には他の入浴客が存在しているこの状況で一体何を考えている!ただでさえいらぬ注目を集めているらしいのに、こんな所を目撃されたら居られなくなるだろうが!!

 徐々に迫って来る顔を片手でぐいぐいと押し返しながら、オレは我ながら尤もだと頷ける理由を滔々と口にしてなんとか城之内を思い留まらせようとしたが、駄犬の前では人間の理屈は全く通用しなかった。奴は口を尖らせながら「んな事分かってるよ」と呟いて、それでもどうしようもないと子供以下の駄々を捏ねると、オレの掌のバリケードを突破して耳元に唇を寄せてこう言った。
 

「な、キスだけだから。今日まだなんもしてないじゃん」
 

 ……キスだけで止まった事があるのか、貴様はっ!
 

「……ほんっとうにそれだけか」
「勿論。流石のオレもそんなスリリングな事したくないし」
「この体勢自体に問題があるとは思わないのか」
「んーギリギリ見えるか見えないか、だからいいんじゃね?」
「いい訳あるかっ!」
「はいはい。いいから大人しくして」

 ぽたぽたと城之内の前髪から冷えた湯が滴って鬱陶しい。どうせここで必死に拒否しようとも、己の希望が叶えられない限りは粘り続けるつもりなのだろう。……というか太腿に当たってるぞ貴様!

 オレは、暫しの沈黙の後ぐるりと頭を巡らせて少し離れた場所にある大浴場へと繋がる扉を凝視して人の気配がない事を再三確認すると、大きな溜息を吐きながら自ら目の前にある頭を引き寄せた。ここで奴に主導権を与えたら最後、如何な状況に陥ろうとも目的を遂行する事は分かっていたので、オレなりの防止策を取らなければならない。

 ゆっくりと、唇を重ね合わせる。

 僅かに揺れる体が立てる小さな水音に、オレもほんの少しだけ頬が熱くなる様な気がした。
 じわりと額に汗が滲む。半身だけだがオレにしては長く湯に浸かっていた所為で少しのぼせたのかもしれない。口に触れる城之内の唇は季節柄荒れ始めて、舌で辿るとカサついた表面に少しだけ痛みを感じる。「リップとか女みてーでカッコ悪いじゃん」等と何故か偉そうに踏ん反り返るその姿に「される身にもなってみろ」と切り返した所、最近ではいかにも薬用で無味無臭のものを使用しているらしい。その姿を想像すると少しだけ笑える気がする。

「……何笑ってんだよ」

 一頻り人の口内を堪能して、幾分満足気な表情をして顔を離した城之内はつ、と糸を引いた己の口を軽く拭い、そんな事を言って訝し気に見返して来る。それに「別に」と素っ気なく答えると、オレは奴の身体から手を離し、右手で額を拭って「熱い」と訴えた。

「半身浴で10分も入ってねーのにのぼせるとか何事だよ。ここの温泉お前の体にいいもんばっか入ってんだからちゃんと肩まで浸かれ」
「のぼせたら意味が無いだろうが」
「それはそうだけどさぁ」
「で、上がれるようになったのか?」
「なると思う?やっぱ抜かないと……」
「気合いでなんとかしろ」
「気合いでなんとかなるもんかよ!お前も同じ男なら分かるだろーが!」
「分からんな。そもそもこんな場所で興奮などしない」
「誰の所為だと思ってんだよ!」
「人の所為にするな。いいから退け、熱いっ!」
「ぎゃあっ!」

 そう言うとオレは少し意地が悪いと思いつつ、目の前の身体を両手で思い切り湯の中に叩き落してやった。派手な水音を響かせて背中から落ちた奴の格好は無様以外の何物でもないが見ていて少しだけ心が和んだ。確かに、温泉は癒されるな。そう何となく呟いたオレの声に、即座に「そういう癒され方をするんじゃねぇ!」と文句が飛ぶ。

「ったく、ガキなんだからよ!」
「貴様にだけは言われたくないわ」
「でも今のショックでちょっと縮んだかも」
「良かったな。今の内に上ったらどうだ」
「……そうする。手、貸してくれよ」
「そうやってオレを湯の中に引きずり込もうという魂胆だろうが、そうは行くか。見え見えなんだ貴様は」
「ちぇー」

 全身湯に浸かった所為で頭の先までずぶ濡れになってしまった奴は、ブツブツと文句を言いながら先に出てしまう。それをきちんと見届けた後、オレも緩やかな動作で立ち上がり石畳に足を上げた、その時だった。

「──── っ?!」

 やはり少しのぼせていたのか一瞬ぐらりと身体が揺れて足がふらつく。普通のタイルならまだしもこんな岩場で倒れたら事だろうと何処か冷静に思っていた矢先、直ぐに腕を掴まれた。が、支えるタイミングが悪かったのか、オレの身体はそのまま踏み止まれず、思い切りその腕を掴んだ男……十中八九城之内だろうが……の肩口にぶつかってしまう。

 くそっ、やはり貴様の所為だ!己の失態は棚に上げてそう言ってやろうとオレが顔をあげると……そこにいたのは城之内ではなかった。咄嗟に息を飲んだオレの耳に飛び込んで来たのは、片言から一歩前進したレベルの微妙な日本語。

「…………あ」
「危なかったですね。大丈夫ですか?」

 オレよりも少し上背があるその人物の目はこの薄暗さの中でもはっきりと分かる程青い。……外人か。この位の体格ならオレの頭が相手の肩口に当たるのも分かる気がする。少し驚いた所為で城之内ではないが僅かに状態が回復したオレは、彼に普通に軽く礼を言ってその場を離れた。

 先程浴場内でオレの事を見ていたらしい客どもと違い、彼はあっさりとしたもので英語で二、三言他愛もない台詞を口にした後はさっさと露天風呂に足を踏み入れてしまった。

 ともあれ、『すっ転んで大開脚』や『流血沙汰』にならなくて良かったとほっと胸を撫で下ろしていると、バンッ!と大きな音がして大浴場の扉が開かれたと思いきや、先に行っていたらしい城之内が凄い形相で戻って来た。それに呆れたオレが「子供ではあるまいし、風呂で走るな」と言う前に、奴は偉く憤慨した様子でオレに食って掛かって来た。

「城之内、貴様自分で気を付けろと言っておいて、こんな場所で……」
「おい海馬ッ!お前、何やってんだよ!」
「……?何だ?」
「今あのガイジンに何かされてなかったか?!」
「…………はぁ?貴様、何を言っている。こんな場所で人に何かしようと思うのは貴様だけだ」
「お、オレだってお前以外に何かしようなんて思わねーよ!」
「そういう問題ではない。……今のはふらついた所を支えて貰っただけだ、しつこいな。大体誰の所為でのぼせたと思っているのだ」
「………………」
「とにかく行くぞ」

 言いながら未だ背後を気にして首を伸ばす城之内の背を押して、今度はオレがこいつを連れて行く形で中へと入る。全く、肝心な時に先に消えていた癖に何を訳の分からん難癖を付けて来るのだこいつは。大体、オレとてアレが他人だとは思わなかったわ。というか元はと言えばやはり貴様が悪いのだろうが!

 そんな事を思いながら上がり湯を浴びる為に再び洗い場に行き、桶一杯分の湯を浴びると黙りこくったままの城之内はそのままにさっさと先に行ってしまう。大騒ぎしたと思ったら今度は拗ねるのか。全くどっちがガキなのだ。付き合ってられん。

 ……そうは言っても、こんな所に来てまで仲違いをするのも馬鹿馬鹿しい。さてどうしたものか……。

 先に閉ざしてしまった入口扉を振り返りながらオレは脱衣籠の前に立ち、バスタオルで軽く身体を拭いつつ次に奴が来た時に何と言ってやろうか考えていたその時だった。相変わらずむすっとした表情で浴場から出て来た城之内は、少し足早にこちらにやって来て自分の脱衣籠の前に立つと、特に言葉を発さずに同じ様にバスタオルを手に取り、身体の水分を適当に拭うとさっさと浴衣を羽織ってしまう。

 濡れたままでは離れに帰るまでに風邪を引くぞ。そう言おうとして口を開きかけた瞬間、それを遮る様に「ごめん」と小さな声が聞こえて来た。は?ごめんだと?こいつが先に謝る等、どういう風の吹き回しだ?明日雪でも降るのではないか?(そうは言ってもここは山間部にある為、あながち珍しい事ではないが)やはり何か企んでいるのか?……思わず浮かんでしまった至極尤もな疑問に、オレはつい口に出して呟いてしまった。

「……不気味だ」
「お前っ、人が謝ってるのに何だよその言い方はッ!」
「だってそうだろう?普段は自主的に謝ったりなどしない癖に」
「……今日は特別なのッ!こんなくだらねー事で喧嘩とかしたくないし!」
「別にオレは怒ってはいないが」
「オレだって怒ってないけど……とにかく、ごめんなさい!もうこの話は無しッ!」

 自分から散々喚いておいて勝手に収束するな。やっぱり意味が分からん。けれどまぁ、無駄な争いをする必要が無くなった事はいい事だ。今日は今日はと先程からやけに今日を強調しているが、己の憤りさえ我慢させる何かが今日にはあるのだろうか。それとも高級温泉旅館などに来ているから多少の事は我慢しなければと言う事なのだろうか。……尤も先程の『あれ』からしてとても紳士的に振舞っているとは思えないがな。

 浴衣と茶羽織をきちんと羽織り、未だ水気の多い髪を拭きながら隣の城之内を盗み見る。そんなオレの視線に気付いているのか奴は直ぐにくるりとこちらを向き、覗き込む様に顔を妙に近づけると、つい今しがたの自分の行動をすっかり忘れているのか「ちゃんと髪乾かせよ」とまたもや保護者然として言ってくる。

「そっちにドライヤーあるからさ、使って行こうぜ。オレがやってやるよ」
「別にいい」
「そう言わないで。今日はオレ、お前を接待するつもりで来たんだから」
「……接待?」
「そう、ご接待」

 ……その割には接待人としてまるで駄目な行動が多かった気がするが、それはまぁこいつに言っても仕方がないだろう。何時もなら思うがままに発散するあれこれを我慢しただけでも褒めてやるべきなのかも知れない。……ふん、オレも大分甘くなったものだ。これでは飼い主失格だな。少し気持ちを引き締めるべきか。……けれど。

「はい、ここに座って。ついでに肩もお揉みしますよー!」

 楽しそうにそう言って、笑顔でドライヤーを握り締めるその顔を見ていると……やはり、心が和んでしまって。

 別にいいか、と思ってしまうのだ。

 

2


 
「乳液だの化粧水だの女は大変だなー」
「……貴様、女用のアメニティ用品で何をしている」
「えっ?や、別に何もしてねぇよ。ただ見てるだけ。こういうの、普段の生活では見ないから興味あるじゃん」
「………………」
「何引いてんだよ。化粧したいとかそういう興味じゃないっつーの。大体今の時代男でも『お肌のお手入れ』には気を使うんだぜ。オレのダチもさ、女並に男用基礎化粧品揃えてる奴がいたりして。まぁ、お前は関係ねーかもしんないけど。……髪乾いた?」
「ああ」
「んじゃ、そろそろ帰ろうぜ。あ、風呂上りのビールとかどうよ。こっから離れまで結構距離があるから少しでも体温めて行った方が良くねぇ?」
「貴様先程太ったとか太らないとか大騒ぎしていなかったか」
「まぁまぁ。それはそれ、これはこれだぜ」

 人の髪にはやけに注意を払う癖に自分は大雑把にドライヤーを当て、ボサボサになった髪を手櫛で整えながら、城之内は巨大な洗面台の端に置かれていた化粧水やら乳液やらを幾つか手に取って観察していた。男女入れ替え制の為か随所に女が使うらしい小物が配置されていて、『ご自由にお使い下さい』などと書かれている。

 ……やけに顔が真剣だが、本気で興味があるのではないだろうな。薬用のリップクリームでさえ嫌がっていた癖にどういう心境の変化なのだ。ますます不気味だ。まぁ、自分で勝手にする分には特に問題ないが、奴はオレにも強要して来る時があるからやっかいだ。

 最近は少し成長したのか突飛な行動も常識外れの言動も大分減っては来たものの、それでも完全に無くなった訳ではないので(先程の一件もそうだったが)注意をしなければならない。……尤も注意をした所で避けられないものは避けられないのだが。

 完全に水分が取れて軽くなった髪をかき上げつつ、使用済みのタオルを蓋付のリネン籠へと放り込むと、いつの間にか鏡の前から自動販売機の傍へと移動していた城之内と目が合ってしまう。

「お前はどうするー?」
「いらん」
「じゃ、ミネラルウォーターにする?どっちにしても水分は取った方がいいぜ。のぼせたんだし。……温泉の定番って言えば珈琲牛乳だけど、お前腹壊すしな」
「分かっているなら言うな」
「城之内流温泉の楽しみ方をお伝えしてるだけです。んじゃ、はい。オレはやっぱりビールにしよっと」

 オレに定番のミネラルウォーターを渡し自らは生意気にもビールを手に取った城之内は、機嫌良くプルタブを引き開けて一気に呷る。ごくごくと景気良く喉を鳴らして飲み込む様をやや呆れて眺めながら、オレもペットボトルのキャップを開けつつ何気なく「何がビールだ。まだ未成年の癖に」と口にしたら、奴は何故か一瞬ギクリとした顔をして缶を傾ける手を止めてしまった。……?今の発言に何か問題があったのだろうか。

「何だ」
「あー……えっと、その。お前気づ……何でもない」
「心配せずとも貴様の飲酒喫煙などとうにお見通しだ。今更どうこう言うつもりは無い」
「ひっでぇ!お前、なんか誤解してるみたいだけど、オレ今は結構真面目なんだぜ?周りの奴等がやってても我慢してるし!」
「どうだかな。目の前でビールの缶をしっかり握りしめて言われてもな」
「今日は特別なの!こう言う時位いいだろ!」
「だから何も悪いとは言っていないだろうが。勝手に一人で興奮するな」

 だって海馬が悪いだろ、変な事言うから!

 そんな事を一人大きな声で愚痴りながら早々に飲み干してしまったらしいビールを手放し、城之内は浴衣の前合わせを少し緩めると手でバタバタと自分の顔を扇いでいた。元より湯上り直後で暑いのにアルコールを摂取して更に体温が上がったのだろう。さすが回復効果の高い温泉だ。湯から上がって大分経つのに二人とも未だ額に汗をかいている。この持続性の温熱効果が疲労回復に役立つのだろう。常ならば風呂に入っても手足の先が冷たいままのオレの身体も、持っているボトルの冷たさが心地いいと思えるほど温かい。

「あっちーな。これじゃー湯ざめの心配なさそうだ」
「そうだな」
「お前もまだ顔赤いぜ。いかにも風呂入った!って感じでいいな。いつもは顔色も変わんないし、水でも浴びてんじゃねぇかって程冷たいもんな」

 言いながら、ゆっくりとこちらに伸ばしてくる城之内の指先をオレはただ黙って見つめながら、未だ底の方に残っていたミネラルウォーターを最後まで口に含んだ。最初は冷たかったそれも時間が経った所為で少し生温く、体温を下げるには至らない。もう少し水分が欲しいと思ったが余り飲み過ぎて冷えても困るし、何より人の頬に勝手に触れて来た城之内がそのまま首に手を回して来たので、水分の追加補充は諦めた。

 そのまま何の前触れも無く極自然に唇を重ねられて、冷たかった口内は一気に奴の熱に浸食され、苦いビールの味が舌を刺す。脱衣所には二人きり、背後の大扉が開く事も人が近づく気配すらない。それを十二分に知っているのか、城之内はオレのボトルを握る手を強く掴み、角度を変えて深く舌を絡ませて来る。

「……っ……ふ…っ」

 湿度の高い部屋の空気と二人の身体が発する熱が混じり合い、酷く暑い。いつの間にかオレも両手を目の前の首に巻き付けて少し積極的に甘い口付けに没頭した。先程は奴を散々変態だ発情犬だと罵ったが、オレとて目に見える形では現さなかったものの、無関心ではいられなかった。一ヶ月『おあづけ』を食らったのはこいつ一人では無い。だから、場所さえわきまえれば……。

「──── っ?!」

 不意にギィ、と大きな音がして大浴場へと続く扉が開かれた。大量の湯気と共にこちらに足を踏み入れて来たのは、先程中にいたような気がする先客の一人。彼と目が合う前に、瞬時に城之内と離れたオレは奴が少し調子に乗って乱して来た浴衣の合わせや裾を手早く直すと、取り繕う様に持っていたボトルを握り潰し、指定の場所へと放り投げた。そして、やや不満そうな、それでも十分口元を緩めている城之内に向かって「行くぞ」と短く声をかける。

「やっぱり、人が来る場所じゃ駄目だなー。結構いいトコだったのに」

 オレがくるりと背を向け、先に立って歩き出すと、背後で城之内があーあ、と言いながらそんな事を呟いた。そして少し小走りでオレに追いつき、先程のやけに真剣味のある表情をあっさりと収め(……余談だがこいつはセックスの時は何故か非常に真面目に……というか大人びて見える)「スリッパ何処に置いたっけ?」などと間抜けな声をあげる。それに溜息と共に答えながら、オレは先程揃えてやったスリッパを二つ放り投げ、さっさと足を通すとこの場を後にするべく、一歩前へ踏み出した。

 が、その瞬間、同じ様に床に足をついた城之内が「ちょっと待て」と声をかけて来る。なんだ、と声をあげる前に奴はニッといかにも面白いと言う笑みを浮かべて人差し指でオレの口元を指差した。
 

「お前の唇、オレので濡れたまんま。やーらしー」
 

 ……勿論速攻浴衣の袖で拭ったのは言うまでも無い。
「んー外に出るとやっぱちょっと寒いかな。大丈夫か?」
「まだ館内だろうが。全く寒くないわ」
「じゃあいいけど。あ、そう言えば離れまで行く途中にさ、ちょっと回り道するとすっごい綺麗な庭があるんだぜ。余裕があんなら行ってみねぇ?」
「庭?」
「そうそう。つーかその庭を中心に複数の離れが点在してるって感じなんだけど」
「ほう」
「お前を待ってる時にさ、暇だったから一人でぐるっと散歩してみたんだけど、結構いい感じなんだよね。まぁ庭の良し悪しなんてオレにはさっぱり分かんねぇけど、昼間でも雰囲気あったから、夜なんてもっとイイかもよ。お月さんも綺麗だしさぁ」

 なぁなぁ、だから行こうぜ。

 本館の長い廊下をゆったりと歩きながら、風呂上りの一杯の所為かやけに上機嫌で先を行く城之内が、途中くるりとこちらを振り変えつつ、そんな事を言って来た。ここに至るまでも途中でやれ土産を買えだの腹が減っただの喧しく、貴様は小学生かと一喝してもさっぱり効き目がなかった。それどころか強引に手まで繋いでますますご機嫌な様子で廊下の中央を闊歩する始末だ。全く手に負えない。

 まぁでも、オレ達の他には遠くに人影が見える程度だからこれ位は構わないだろう。先程すれ違った仲居が一瞬驚いた様にオレ達の顔を凝視したが、城之内の様子から酔ってふざけている様にしか見えなかったらしい。……例え酔っていても普通は指を絡め合わせる様な手の繋ぎ方はしないがな。「ごゆっくり」の声に誤魔化し笑いで応えつつさり気無く城之内の手の甲を抓り上げてやったが、どこ吹く風だった。

 離れへ向かう道へと続く大扉を開けると、途端に冷たい冷気が全身を包み込んだ。都会の淀んだそれとは違い自然に浄化された清らかな空気は、それを取り込む己の体までもクリアにしていく様で至極心地がいい。久しく自然と触れ合っていなかった所為か、この場にいるだけで何処か心が癒される気がする。室内に比べて大分気温が低い様だが、温泉効果が持続しているのかはたまた酔っぱらいと密着している所為か余り寒くは感じなかった。

 家族連れがいるのだろうか、遠くの方で賑やかな子供の声が聞こえる。

「なんかスゲー気持ちがいいな!季節がずれちまってるけど、夕涼みしてるみたい」
「『夕涼み』というには寒すぎるがな」
「……ヤバいかな。やっぱ一回部屋に帰ってもう一枚羽織って来る?」
「まぁ、少し位なら大丈夫なのではないか。貴様は熱い位だ」
「うん、オレはマジ丁度いい感じ。んじゃ、寒くなったらあっためてやるから言ってくれな」

 扉前にある淡い橙色をした光の中で、その言葉と同じく無邪気な笑顔でそう言った城之内はつっかけていた下駄の爪先を二三度石段の上に叩きつけると、絡めた指先に改めて力を入れてゆっくりと歩き出した。カラ、コロン、と下駄特有の澄んだ響きが静けさの漂う夜の中に消えて行く。

 空に浮かぶ明るい月と随所に点在している灯篭の明かりを頼りに少し苔生した石畳の上を進んで行く。ゆっくりと首を巡らすと豪奢な、それでいて自然を切り取ったかのような絶妙な造形の松の木や四季の花々、そして今が一番見ごろであり、目に見える景色全体を赤く染めあげる紅葉の木が、夜風に揺られてさやさやと音を立てている。それを演出する照明も決して派手ではなく、全体の雰囲気を上手く纏め上げていた。

「この庭は池泉山水庭園って言ってメインが向こうにある大池で、そこに流れ込む小川は後ろの山に繋がってて、その水は日本三大名水の一つなんだって。作者は江戸時代の……なんだったか忘れたけど有名な庭師で、春になると今はただの枯れ木になってるあの桜が一斉に咲いて物凄く綺麗なんだぜ」

 それらを心の底から楽しんで眺めていると、隣の城之内がまるで自分の所有物の様に自慢気に解説して来る。尤も、その内容はどう考えても件のパンフレットを丸暗記したものだったが、それでも自分の為にこうして色々と楽しませようと努力してくれている事は純粋に嬉しいと思った。……例えその解説が間違いだらけであったとしても。

 相変わらず響く澄んだ下駄の音が耳に心地いい。もう少し早い季節ならば虫の声の一つでも聴けたのかも知れないが、冬にさしかかるこの季節では聞こえる音と言えば葉擦れの音と庭内をぐるりと巡る小川を流れる水音位で本当に静かだった。二人で他愛もない話をしながら見慣れた離れの屋根が視界の端に見えたと思った刹那、不意にばしゃん、と派手な音が響いた。そして頬に微かな飛沫を感じる。

「冷てぇっ!何だ今の?!」
「鯉だな。その陰に池がある」
「えっ?あ、ホントだ。すげー!でっかくて派手な鯉だなー!これ何て言うんだっけ。錦鯉?」
「他の鯉もいるようだが、貴様が指しているのは錦鯉だ」
「ふーん。夜だっつーのに元気だなぁ。な、もうちょっと近くで見たいんだけど」
「そこから下に降りられるのではないか?」

 丁度木の陰になり余り良く見えなかったが、石畳の道から少し外れた所にある飛び石型の石段の下に、大きな池があった。そこにある一際大きな石燈籠の光の中にゆらゆらと揺れるのは様々な色をした鯉の姿。さすが高級旅館が所有するだけあって、どれもこれも値を付ければ数百万は下らない見事なものだ。その大きな身を持て余す様に澄んだ水の中を泳ぎ回り、時折戯れるかの様に跳ね上がる。先程飛沫が上がったのは多分その所為なのだろう。

 オレはこんな鯉など料亭などで嫌と言う程見慣れているが、普段余り目にする事の無い城之内は酷く興味を惹かれたらしく、こんな覗き込む様な姿勢ではなく、直に触りたいとまで言い出した。幾ら酔っているとは言えこの寒いのに水に手を突っ込むなど馬鹿のやる事だと窘めたが、余り聞く気は無いらしく、早く早くと手を引いてさっさと石段を駆け下りて行く。

 足場が余り良くない為、転んでも事だと思ったオレは、比較的慎重にその動きに付いて行きながら奴と共に池の淵まで足を進めた。近くにある人工の小滝から落ちる水音が耳に心地いい。

 しかし、水場の近くに来ると流石に身体が冷えて来る。時折跳ねる水飛沫と足元からじわじわと感じる冷気にオレは「寒い」と無意識に口にした。その声に熱心に鯉を見つめていた城之内の顔がつい、と上がる。

「寒い?」
「……少しだけな。水の傍だからだ。我慢出来ない程ではない」
「まだお前の手、暖かいもんな。さすが温泉、効果抜群だぜ。でも風邪引くと悪いからちょっと離れるか。あそこに丁度座る所があるし」
「そんなに気に入ったのか、鯉が」
「んー鯉っつーよりも、このシチュエーションが」
「何?」
「まぁまぁ。もうちょっと自然を楽しみましょ」

 そう言うと城之内はあっさりと池の淵から身を引き、少し離れた場所にある休息用の四阿へと向かう。今時珍しい茅葺の屋根が目を引くそこには少し大きめの座面に畳が配された椅子があり、城之内はそこに勢い良く腰を下ろすと、オレにも隣に座る様にと強く手を引いて来た。

 指先が繋がっているこの状況では抗っても無駄な事なので、仕方なく意に従って少し間を開けて隣に座ってやる。するとそれが少し不満だったのか城之内は「おい」と小さく声を上げて自ら密着する様に身体を寄せて来た。そしてゆっくりと絡めていた指を外してしまう。

「離れたら寒いだろー」
「寒いのなら部屋に帰ればいいだろうが」
「嫌だ。部屋からじゃここ見れないじゃん。こんなに綺麗なのに」

 相変わらず良く分からない駄々を捏ねながらさり気なくオレの肩を抱き込んで来た城之内は首に額を寄せる様な真似をしてふう、と小さな溜息を吐く。仄かに湿って温かい、未だ強くアルコールの匂いがするそれを直に肌で受け止めながら、訝しげに眼下の顔を見下ろした。その時だった。

「海馬」

 低い囁きと共に首の後ろを通って肩を抱えていた腕がぐい、と強くオレの身体を引き寄せ、同時に唇が塞がれる。キスをされたのだと気付いた頃には舌先が既に口内に滑り込み、歯列をなぞってオレの舌へと絡んで来た。先程よりもずっと深い口付け。息を継ごうと僅かに口を開くと、より一層近づいてもっと奥を探ろうとする。

「……んっ」

 声が漏れる。鼻先同士がぶつからない様上手く角度を変えながら浅い呼吸を繰り返して、何度も何度も繰り返す。生温かい唾液が顎を伝い、首元に糸を引きながら落ちて行こうと気にせずに城之内は、そしてオレは、互いの身体を強く掴んで唇同士を触れ合わせた。
 

 ばしゃん、と再び大きな水音が闇に響く。
 

「……なぁ、駄目?オレ、離れまで待てないんだけど」

 息が上がり、少し忙しなく肩が上下する段になって、漸く城之内が鼻に掛った甘い吐息以外の声を出した。濡れた唇を拭う事もせず少したどたどしさを感じる口調でそんな事を言われた所でオレにはどうする事も出来ない。

 ……どうせ何を言った所で、得られる答えなどただ一つだ。

「……人の気配に、きちんと気を配るのなら」
「うん」
「……それと、なるべく手短に」
「分かった」

 どの道そうは持ちそうもない。ずっと我慢してたから。

 本当に嬉しそうに笑いながらそう言った城之内は少しの間何かを考えていたが、徐に顔を上げて強く抱いていたオレの肩を離して少し深く椅子に座り直した。その仕草を特に何も言わずに眺めていると、奴はぽん、と己の膝を叩いて「ここ」と一言口にした。ここって……貴様の膝の上に乗れと言うのか?そう問う様に見つめると、至極あっさりと首が上下する。

「こんな所に寝っ転がるの嫌だろ?寒いから少しでもくっついてた方がいいし。最近してないからいいかなーって。オレ、結構好きなんだ。だから、な?」

 そう言って手を引いて来るその動きに特に抗う理由も無いので、オレは素直に頷いて穿いていた下駄をその場に投げ捨てるとゆっくりと、座する奴の膝の上に跨る形で腰を下ろした。カタン、と二つの下駄が石の上に転がる音が妙に大きく聞こえる。腰元に掌の感触。ゆるゆると撫で擦るその動きに、寒さを感じていた身体が急速に温まって行く気がした。吐息が、やけに近い。
 

 オレの顔が、奴の顔に濃い影を落としている。

 再び近づく唇が濡れた音と共にまた深く重なり合うまで、そう時間はかからなかった。
 触れた肌から伝わる熱とは裏腹に外気に晒される箇所は酷く寒い。

 小さな戯れを繰り返しながら身体の線を確かめる様に動いていた城之内の指先は、緩やかに背を這い上がり首筋に触れて後ろ髪を掻き乱す様に強く掴み、その力に押されて一瞬歯がかち合いびくりとする。それに漸く唇に執着する事を諦めた奴は、名残惜しげに舌先で上顎を一舐めするとゆっくりと顔を離した。それにいつの間にか閉じていた目を開けると、下から見上げて来る眼差しとぴたりと合う。

 仄明るい月明かりと少し離れた場所にある小さな灯りに照らされて少し色が薄く見える人懐こそうな大きな瞳は、今は薄く細められどこか眩しそうにオレを見る。久しぶりに見た『男』の顔。自然と速まる呼吸を抑える様にオレは深く大きな息を吐いた。その吐息が、眼前の厚い前髪を微かに揺らす。

 その間、ほんの数秒だっただろうか。気が付けば見つめていた顔が視界から消え、耳元に小さな痛みを感じた。耳朶に噛みつかれたのだと思う前にその痛みは少し移動し、今度はその下、丁度髪に隠れる所に吸い付かれる。

 一瞬の痛みがじわりと熱さに代わり、それが収まる頃には違う場所に同じ痛みを感じる。吸うだけでは芸が無いと思っているのか、舌先と歯を使って舐めたり噛んだり、それをしている時の相手の様子は真剣そのものだ。口にしているこの身が特に美味いわけでも自分に心地良さを齎すものでもない筈なのに何故そんなに熱心に人の身体に執着するのか、と尋ねた所「うん?仮にオレが犬だったとしたらお前はほねっこだから」と全く意味の分からない言葉が帰って来た。

 ……なんだそれは。ほねっことはあれか。駄犬が何時までも飽きずに噛んだり舐めたりして手放さず、最終的には寝る場所まで持ち込んでずっと咥えている骨を模した犬用ガムの事か。ますます意味不明だ。というか、そんなものに例えるな。失礼な!

『まぁ、それは半分冗談だけど。それだけ好きって事ですよ。お前が溶けたり減ったりしなければ四六時中舐めててもいいんだけど、さすがにねー。だからこう言う時位は許してよ』

 その後へらりと笑ってさらっと凄い事を言ってのけた城之内の頭を思い切り殴りつけた様な気がする。あれは何時の事だっただろう。そんなに昔では無い様な気がするし、さりとてそう新しい記憶でも無い。というか、今こんな事を考えている場合なのか。襟を大きく広げられ、そこから入り込む冷気に身を震わせながら、オレは溜息とも吐息ともつかない短い息をそっと吐く。

「何考えてんの」
「……別に」
「久しぶりだから緊張してるとか」
「……それは無い」
「そう?オレはちょっと緊張してるけどな。外でやんのもあんまないし」

 そんな事を言いながらも動きを止める気配はない。何時も思うがこいつは頭が悪い割に案外器用だ。オレは会話に集中すると手元が疎かになる事があるのだが、城之内はどんなに口を動かそうが手が止まると言う事はない。ただし、どちらともこういう場面に限っての話だが。

 余りにも慣れた感覚に半ば陶然としてそんなどうでもいい事を考えていると、鎖骨の辺りが生温かく、そして冷やりとした。舌が掠めて離れて行く感覚。つい先刻まで首にあった温かな舌先はいつの間にか少し下に降りて来て、筋を通って浮き出た骨を辿り、胸元へと落ちて来る。そしてオレは余り好きでは無いが、奴は好きだと言って憚らない(それもどうかと思うが)胸先に頬を寄せ、わざと触れずにふ、と息をかけて来た。それだけなのに、一瞬肩が跳ね上がる。

 肌に触れている奴の頬が嬉しそうに持ち上がるのを感じた。しまった、と思う前に指先が伸びて来る。

「……っ!」
「お前、嫌がる割にここ凄い感じるよな。まだ何もしてませんけど。息だけで硬くなっちゃいます?」
「う、うるさい。……んっ!」
「オレとしてはやーらかい時も好きなんだけど、寝てる時位しか触れないしなぁ」
「な、何?!貴様、無抵抗の人間に、っそんな不埒な真似をしているというのかっ」
「不埒って、触る位いいじゃん。お前も良く触ってる癖に」
「さ、触ってないわ」
「嘘吐け。知らないと思ったら大間違いだぞ。オレの朝立ちの何分の一かはお前の所為なんだからな。こないだなんか萎えてた奴すっげー珍しそうに握ってた癖に」
「ちょ……んんっ!」
「だからお互い様だろ。オレ的には悪戯大歓迎ですけどね」

 ま、その後ちゃんと責任取ってくれる事前提で。

 ニヤニヤと本当に嬉しそうに笑いながら城之内がそう口にするのと同時に、両胸にやや強い痛みを感じた。片方には歯を立てられ、もう片方は指先できつく抓まれた所為だ。ぎゅ、と音がするほど抓り上げられ思わず大きな声が出そうになり、慌てて何となく城之内の肩を掴んでいた手で口を塞ぐ。痛い。けれど、これが痛感だけではない事をオレはとうに知っている。

「── うっ、く!」
「何だよ口塞ぐなよー。まぁでもここ外だし、後で部屋で一杯鳴いてくれんなら別にいいけど」

 誰が鳴くか!阿呆が!

 強く弄られた所為でじわじわと痛みを感じて来るそこを幾度か捏ねあげられ、熱を持ち始めた頃を見計らいやんわりと食まれてしまう。過敏になって来た所にそんな事をされれば必要以上に感じてしまうのは当たり前で、それだけでも十分なのに更に飴でも舐められる様に舌先で転がされてしまってはもう成す術も無い。

 城之内も呼吸をしなければならないので、時折口を離して息を吸う際にわざと音を立てるのがたまらなく恥ずかしい。呼吸が苦しい。口に当てた掌にはだらしなくもオレが零した唾液が流れ落ちるほど溢れていた。

「も……そこは……やめ…っ!」
「なんで?気持ち良さそうじゃん」
「そ、いう、問題ではない!」
「お前絶対乳首だけでイケるって。試してみる?」
「んぁっ……手短にと、言った、はずだっ!」
「おねだりするにしてももうちょっと可愛く言ってくれてもいいんじゃないかと……イテッ!」

 何時まで経ってもそこから手を離そうとしない城之内に半ば怒りを感じたオレはわざと唾液塗れの手の方で眼下の額を叩いてやる。濡れていた所為でやや鈍い音を響かせた事にやや満足気に口角を上げた瞬間、全く予想だにしない所に痛みを感じた。

 ひっ、と息を飲み、全身が総毛立つ。思わず城之内の額を打ち据えた手をずるりと滑らし、そのまま首の後ろに回して縋り付いた。それまで胸元をさ迷っていた筈の掌が、突然下腹部の熱を掴み、先端をきつく握り締めたからだ。自然と下がった頭は奴の肩口に擦り付く様に落ちて留まり、肩に辛うじて掛っていた浴衣が滑り落ちて腰元で重なり合う。同時に肌を伝う汗が夜風に晒され少しだけ身震いした。しかし、全く寒くは無かった。

「……ぅ…あっ!……き、貴様、いきなり…っ!」
「普通『触るよー』なんて予告するかよ。てか、何これトロトロじゃん。そんなに気持ち良かった?」
「………………」
「お前オレの事散々変態だのなんだの言うけど、お前の方がよっぽどエッチだと思いますよ、海馬くん?オレ、さっき勃ったけどこんなにはしてないもんなー」
「だ、黙れ馬鹿。い……っ!爪を立てるな!」
「こうされんの好きな癖に。ちょっと痛い方が気持ちいいもんな」
「勝手な事を言うな!……んんっ、……くっ、ぅ……あ、あっ!」
「海馬、あんまり大きい声出すと、周りに響くかもよ?」
「── っ?!」
「ま、オレは別にいいけどねー」

 実に嬉しそうに喉奥で笑う城之内の声が肩口に頭を押し付けている所為でダイレクトに耳に響いて羞恥を倍増させる。先端に深く爪を食い込ませたまま、残りの指と空いていた片方の手を使って器用に刺激して来るその動きに、オレは成す術もなく翻弄される他なかった。

 裏筋をなぞる様に辿られたかと思いきや、強く上下に擦り上げられ、くびれ部分をぎゅ、と強く握られるとどうしようもない熱が身内から沸き上がって来る。先端に触れている城之内の爪先は言うまでも無くオレの出した物でドロドロだった。まだイッてもいないのに濡らし過ぎ、と含み笑いと共にそう揶揄されても勿論反論など出来はしない。

「……んぁっ……ふっ……う、あ、…あっ、も…っ」
「イきたい?」
「……う……んっ!」
「じゃあ、イッてもいいけど、声出すなよ。近く、人通ってる」
「な、に……っ?!」
「耳澄ましてみ。ほら……」

 グチッ、と一際いやらしい音を立ててオレを握り締めた城之内は、その動きに一際大きく跳ね上がったオレの身体を抱き締めて、耳元でとんでも無い事を口にする。直接弄られる事の気持ち良さと、早く熱を吐き出したい苦しさで半ば朦朧として奴の動きを受け止めていたオレは、その一言で急に我に返り身を強張らせた。吐く息と激しく脈打つ自分の鼓動が煩いほど耳に届く。それに混じり込む様に、確かにこの場とは違う所から音が聞こえた。

 微かな話し声と不規則な下駄の音。静かになった所為で急に取り戻した自然の音に混じって届くそれは、やけに大きく聞こえる気がする。

「じょ、城之内ッ!」
「しっ。大丈夫、此処まで来ないって。つーか、オレ達だって上から見た時、ここ見えなかったじゃん。階段だってお前が見つけなきゃオレ知らなかったし」
「そういう問題か!万が一という事あるだろうが……は、離れろっ!」
「この状態で離れるとか冗談言うなよ。ま、そん時はそん時じゃね?とりあえず浴衣だけ戻しといてやるからそんなにビビんなよ」

 そう言うと奴はオレを掴んだ手はそのままに、もう片方の手で先程滑り落ちたオレの浴衣を掴んで申し訳程度に肩にかける。これで、一応体裁的には酷いものでは無くなったが、どちらにしても何をしているかなど分かってしまう。じわりと、額に快楽の為ではない汗が滲む。もし、誰かに見られたら……その時こそ本気で羞恥で死ねそうだ。露出の趣味はオレには無い。

 しかし、こんな時なのに奴は指先の力を緩めようとしない。オレが少しでも腰を引く素振りを見せると強く力を込めて来る為自力で逃げる事さえ出来ない。その度に強い快感が襲ってくるのにも辟易した。そんなものに感じてる場合か。非常事態なんだぞ今は。── だが、そうは言っても。

 ……そんな事を思いながら緊張と恐怖に顔を伏せ、身を縮めて浅い呼吸を繰り返していたオレは、ただひたすら近間にいるらしい泊まり客が早くこの場を立ち去ってくれる事を願っていた。が、無情にも遠くに聞こえていた筈の『それ』は段々とこちらに近づいて来る様だ。……不味い。本気で不味い。これはやはりどこかに身を隠した方がいい。そう瞬時に判断したオレは、城之内にその旨を伝えようと顔を上げかけた、その時だった。

「──── ひっ!?き、貴様何をやって…!」
「や、体勢的に辛すぎるんで、ちょっと」
「ちょ、ちょっとじゃないわ。待て……っ!」
「お前もさすがにそのまんまじゃ苦しいだろ。出しちゃえば」
「……馬鹿を言うなっ!……うっ、く!……はなっ…!」
「オレの肩噛んでてもいいから一回イッて。我慢は良くないぜ」

 言いながら奴は煽る様に掴んでいたオレのものを先程よりも強く扱き上げ、あろう事か浴衣の裾から手を差し入れて後ろに触れる。無意識に腰が揺れ、抗議する為に開きかけた口はもうまともな言葉を紡げない。腰から下の力が抜け、衝動が湧きあがる。直ぐ近くに他人の気配がするというのに。下駄の音がより一層大きく聞こえて来るのに。

 ……も、駄目、だ。限界だ……!

「海馬」
「……っく!……ふっ……んん──ッ!」
「いてっ!……!」

 ぎゅ、と強く眉を寄せ、歯に力を入れたい衝動を堪えながら身を震わせる。射精の瞬間、奴の言葉に従って目の前の肩口に顔を押し付けたオレは、丁度当たった鎖骨の辺りに噛みついて声が上がらない様その場所そのものではなく、そこにあった奴の浴衣を噛み締めて喉奥からせり上がってくるそれを必死に堪えた。

 腹の辺りに体温以上の熱を感じ、喪失感と共に身体が弛緩する。口を離すと噛んでいた布が多量の水分で濡れて目の前の肌に張り付き、その陰にやや深い歯型が見えた。初めに噛んだ時の勢いがあり過ぎたのだろう。だが、謝る気はさらさらない。

「っは……!はぁ、……は……こ、のッ!」
「ホントに噛んだよこの人は。まぁでもよしよし、一杯出たなぁ。溜まってただろ」
「………………」
「そんなに睨むなって。スリリングで良かったんじゃないの?つか、さっきの奴等もう行っちまったぜ。まぁこっから先はオレ達の離れしかないしな。セーフセーフ」
「セーフではないわ!この変態が!もうこんな場所でするのはごめんだ。帰るぞ!」
「人が傍にいるのに遠慮なく出しちゃった人が何言ってんのかね。ほら、凄いぜ。手ぇベトベト」
「!!な、舐めるな!」
「だって勿体ないじゃん?お前のだし。美味いし」

 夜目にもはっきりと分かる城之内の手に派手に飛び散ったオレの精液を奴はわざと見せつける様に口に含んで、相変わらず嬉しそうに笑いながら舐め取って行く。……それもいつもの事だったが、どうにもオレには理解出来ない。そんなものは喜んで口に含む物じゃない。ましてや美味いとか不味いとか、余計な感想を述べるな気色悪い!

「やな顔しちゃって。お前だって飲むだろふつーに」

 そ、それはものの次いでだ。好きで飲んでるんじゃないわ!大体、あんなもの美味くも……!ま、まぁ、騒ぐほど不味いものでも……ない気はするが。

 ちゅ、と小さな音がして、城之内が己の口に含んでいた精液塗れの指を取り出し、俯き加減だったオレの頬に触れる。夜風に当たって直ぐに冷たくなるそれは少しだけ強引にオレの顎を掴んで自分の方へと引き寄せた。伸ばされる舌。舐め上げられる唇。いつの間にか掴まれた手が奴の下腹部へと導かれる。

 思わず引こうとした手は許されず、指先に熱が触れた。間近にあった顔に唇を塞がれて避ける間も無く絡められる。腰に直に感じる指の感触。強く掴まれれば逃げられない。

「こんな状態で、部屋まで歩いて帰れるなんて、本気で思ってねぇよな?」

 いや、思っている。オレは今直ぐにでもこの場を離れて、もう少し集中できる環境で……。

「もう誰も来ねぇよ」

 囁きに、抗おうと言う気持ちが萎える。腰元に、熱が溜まる。触れられている掌が意図的に肌をなぞり、爪を立てる。力を失っていた筈のオレ自身が首を擡げるのを感じた。駄目だ、もう動けない。

 つ、と内股を伝う生温かい感触に、オレは自然と震える息を一つ吐くと、自ら城之内に口付けた。
「もうちょっと広いとお前にも色々やって貰うんだけど、それは後でいいや」

 軽く唇を触れ合わせるだけのキスをして、城之内はそう言いながら片手を自らの袂の中へと差し入れて何やらごそごそと探りだした。その間にも裾から差し入れられた指は比較的柔らかな内股を辿り、ゆるゆるとした動きで勃ち上がる熱の奥、今はまだ閉ざされたままの後孔の淵へと辿り着く。

 先程オレが放った精液は城之内の掌と互いの浴衣に飛び散ってしまった為、後ろに伝い落ちるまでは至らなかった。その大半を舐め取ってしまった今、そこを濡らすための用意は何もない。

「んっ……」
「乾いたまま此処触られるとさ、なんかくすぐったくって気持ち良くねぇ?」
「……し、知るか、そんな事」
「今の事聞いてんだよ。どうよ」
「気色悪いわ!……っうぁっ!」
「あ、ここはやっぱ気持ちいいんだ。女もこの辺いいって言うもんな」
「へ、んな風に……っ、さわるなっ!」
「や、気持ち良くするとまた濡れるかなーと思って。さっきのオレ舐めちゃったから無くなったもんな。……まぁ、オレが寝転がって舐めてやってもいいけど」
「死んでも遠慮する!」
「シックスナインとか平気でする奴が今更恥ずかしがってもね。嫌ならしょうがないけど」

 城之内の指先が、乾いた淵を擽る様になぞり上げ、その上の蟻の門渡りや双球などを弄びながらぶつぶつとそんな事を言う。ね、寝転がって舐めるだと?!考えただけでゾッとするわ。どういう神経を持ったらそんな事を平気で言えるようになれるのだ。大体そこは舐める様な場所じゃない!尤も前だとて舐めたり口に含んだりするようなモノではないのだが、それはそれだ。

 しかし、女ではないのだからそんな事をしていても自然と濡れる訳でも無し、どうすると言うのだ。少しずつ先走りが溢れて来てはいるがまだ十分潤うまでは至らない。面倒だからそのまま入れるとか言うのではないだろうな。尤も、奴がそんな性急な真似をする筈も無い事は嫌と言うほど確信しているが。

 オレが後孔にむずがゆさにも似た微妙な感覚を覚えながらそんな事を考えていたその時だった。目の前でやや下を向いてオレの身体をまさぐっていた城之内が、顔を上げてオレの目を覗き込む様に視線を合わせて来た。なんだ、と掠れた声で文句を言うと、先程からごそごそと浴衣の中に突っ込んでいた左手を取り出して、何故か得意気にニヤリと笑う。

「やっぱオレって超準備いいよな。これなーんだ?」
「これ……って、貴様、もしや!」

 ちゃぷん、と小さな水音を響かせて目の前に掲げられた奴の左手。骨ばった大きなそれが握り締めていたのは……奴が持つには余りにも不釣り合いな、液体の入った白い半透明の小瓶だった。どこかで見た事のある形状だと一瞬凝視してしまったが、『それ』は紛れも無く先程奴が熱心に眺めていた女性用のアメニティ用品の一つ。こいつは初めからそのつもりであそこにあった物を吟味していたのだ。

「そのもしやです。さっきの脱衣所でくすねてきました。もしかしたらいるかなーなんて」
「……では、先程アレを真剣に見ていたのは……!」
「ガン見してたのは、どれが一番乾きにくくて使えるかなって考えてたから。これ、潤い重視のローションだから結構イイと思うぜ」
「………………」
「あれ、感心し過ぎて声も出ない?」
「あ、呆れているのだ馬鹿がッ!」
「なんだよーこうして役に立ったんだからいーじゃん」
「そういう事を言っているんじゃない!」
「一つ失敗したのはゴム持ってくるの忘れたこ……」
「だ、黙れ馬鹿が」
「でも部屋にも温泉あるしいいよな別に」
「黙れと言っている!」

 本当にこいつは正真正銘の馬鹿としか言いようがない。その用意周到さを何故他に生かせないのか理解が出来んわ!

「そう怒るなよ。お前だってちょっとは期待しただろ?」
「す、するかそんなもの」
「その割にはここでヤるの案外あっさりOKしたよな」
「……うるさいっ!」
「と言う事は、海馬もしたかったって事だ。オレと一緒じゃん」
「ち、ちがっ……一緒にするな!」
「一緒だって。前はトロトロにして、こっちだって早く触って欲しくてひくひくさせてる癖に。口では何言っても身体は正直ってね」
「……う」
「一ヶ月だもんなー。禁欲生活って結構辛いな」

 誰の所為でそんな生活を送る羽目になったと思っているのだこの駄犬が!そう怒鳴りつけてやりたい所だったが、奴が余りにもいやらしい手つきで後ろに触れて来るものだから、口内に唾液が溜まりそれを飲み込むだけで精一杯だった。じれったい。するなら早くして欲しい。知らず沸き上がる気持ちに呼応するように身体が震える。

 瞬間パチンと何かが弾ける音がした。見れば城之内の手に握られていた小瓶の蓋が開いていて、とろりとした中身が目の前を伝い落ちて行く。薄い乳白色のそれは少しだけ甘い香りがして、余計に頭の芯を痺れさせる。

「これ、結構いい匂いするな。お前に合うかも」

 くん、と小さく匂いを嗅いで、城之内は指先に絡めたそれを殊更ゆっくりとした動きでオレの背後へと持っていく。乾いたそこに冷やりとした奇妙な感覚。馴染ませるように何度も擦り上げられる。ん、と鼻に掛った声が漏れた。酷く甘ったるいその声は自らの身体に火を点ける。

 ぞくりと、背に何かが走った気がした。それに唇を噛み締める。けれど、それも直ぐに我慢出来なくなるのだろう。

 余りにも……気持ちが良過ぎて。
 ぬるりという感触と共に奥に指が入って来る。言われてみれば確かに一月ぶりなのだ。それにも増して仕事仕事で己の身体を顧みる事もなかった故、気付かない内に奴の言葉を借りれば『溜まっていた』のだろうか。

 ……昔は一月や二月期間が空いた所で特に気になどしなかったが、今では無意識に苛立ちを感じる様になってしまった。くそ、どれもこれも全部こいつの所為だ。せめて強く睨み付けてやりたかったが、後ろを探られ軽い吐き気と共に浮かび上がる生理的な涙を滲ませた状態では多分逆効果にしかならない。

 その証拠にオレの顔を見ている奴の笑みが深くなる。同時に指が容赦なく根元まで入り込んで来る。

「── ふっ、……あっ!」
「久しぶりだからちょっとアレかな。キツイかな?」
「し、知るか……ッ……そ、んな事っ。…んっ」
「まぁ指一本じゃね。余裕だしね」

 差し込んだ指を器用に回しながら内部を探る様にゆるゆると動かしてくる。入れられる瞬間こそ少しだけ軋んだものの、直ぐに馴染んでむず痒い様な微妙な快感を覚えて来た。確かにこれ位は辛くはない。だが余裕とか余裕じゃないとか、何故貴様が決めるのだ。大体普段からそんな事はお構い無しだろうが。何故今日に限って一々手順を踏もうとするのか理解出来ない。

「っ!……あぁっ!」
「今日は一応サービスするから」
「な……ん、のだ!」
「うん?なるべくお前のペースに合わせてあげようかなぁ、と」
「余計な、世話……っ!」
「だっていっつも勝手に進めて怒られるからさ。オレも少し考えた訳。って、うわっ!」

 貴様が勝手に進めるペースがオレのペースだ馬鹿め!と言うか誰の所為でそうなったと思っているのだ!

 労わると言うよりはむしろ自分が楽しんでいる様な緩い指の動きに図らずも焦れてしまったオレは、じわじわと感じ始める快感の為にいつの間にか震えていた手で目の前にあった城之内のモノを握り込み、指先に力を込めた。芯が入った様に硬く反り返り、先走りに濡れたそれは熱く脈打ち、今にも爆ぜそうな状態だ。確かめる様に僅かに手を上下させると、呻く様な声が聞こえる。……先程卑猥な言葉で人を散々笑っていた癖に、こいつも似た様なものではないか。ふ、と僅かに鼻先で笑ってやると、城之内はやや慌てた様に身じろいで口を開く。

「ちょ、お前っ……いきなり握るとかっ」
「フン、貴様とて、先程予告などするかと偉ぶっていたではないか」

 全く己の事を棚に上げてよくもいけしゃあしゃあとそんな事が言えるものだ。そう続けざまに言ってやり、先刻奴にされた通りオレも手中のモノに爪でも立ててやろうとしたその時だった。それまで不意打ちにやや息を詰めていた城之内が深い嘆息と共につい、とわざとらしく顔をあげる。そして唇が触れるか否かの位置までそれを近づけると、あぁ、と何か得心した様な声を上げニッ、と小憎らしい笑みを見せた。

「要するに、お前はオレに反撃したいわけ?」
「別に、そんなつもりはない」

 本当は多少なりとそのつもりなのだが、出来ない場合が多いのでここは少しだけ引いておく。が、そんな考えさえ奴にはとうにお見通しで、結局無駄な抵抗に終わるのだ。

「ふーん。まぁ別にいいけどー……」
「……ひっ!」
「どっちが弱み握ってるかよーく考えた方がいいんじゃねーの。あ、そのまんまやってくれてていいよ。気持ちいいから」

 何?!と思う前に中に入っていた指がいきなり増やされ、急に強く突き上げられた。油断していた所に突然訪れた衝撃に、思わず息を飲み身体を硬直させてしまう。っくそ、一瞬忘れていたがこれでは体勢がかなり不利だ。このままでは思う様に力が入らないどころか逆に抜けてしまう。

「……う……くっ!」
「この後に及んで我慢するとか、可愛いなぁ」

 うるさい、何とでも言え!オレはそう心の中で悪態を付きながら、せめて大声を上げない様唇だけは強く閉ざし、せめて一矢報いる為に奴を握る右手と自然と縋る体勢になった厚い肩口を掴む指先に思い切り力を込めた。それは結果的に奴を喜ばせるにしかならないのだが、この際そんな事はどうでも良かった。もう何に対して意地を張っているのか分からない。意地を張っているのかどうかさえ曖昧だ。

 ただ分かるのは、指先を通して伝わる興奮と中を探る指が確実に齎してくる快感だけ。粘着質な水音と互いの荒い吐息とが混じり合い、夜の静寂を淫蕩にかき乱していく。先程背にかけられていた筈の浴衣は既に滑り落ち、オレは殆ど全裸状態だった。今度こそ誰か人が通ったらおしまいだ。誤魔化す事もやり過ごす事も出来ない。途中で止める事も……出来はしない。

「はっ…あっ、ぁ……も、うっ!」

 結局大した反撃も出来ないまま城之内の片手に翻弄され、ガクガクと膝が震える。自分の力で膝立ちする気力さえ奪われて、オレは仕方なく城之内のモノから手を離し、両手で眼前の首を掻き抱いて奥を抉る指から逃げる様に腰を引いた。その行動の意味を嫌と言うほど理解している奴は素直に指を止めて、笑いをおさめないままだったが至極優しい口調で「あ、限界?もう欲しい?」と囁いて来る。

 何時もならここで羞恥が先に立ち、違うだのうるさいだの言ってしまうのだが、今日は奴の妙な態度につられてか、オレも少し素直になってしまった。

「……っ、欲し、い!」
「じゃあ、キスしてよ」
「……っな、に?」
「お前から、オレにキスして」

 殆ど触れ合う様な位置にある唇が、大きく動いてはっきりとそんな事を口にする。思わぬ台詞にはっとしていつの間にか閉じていた目を開けると、そこには一瞬にして笑みを取り去った真剣な、そして少し必死な奴の顔があった。押えようと努力しているものの、合間に紡ぐその呼吸は僅かに荒い。

 我慢出来ないのはこいつも一緒か。

 先程触れた火傷しそうに熱い奴のものを思い出し、何故か少しだけ嬉しくなる。その喜びをそのままに、オレはもう何も言わずに目の前の唇に噛みつく様なキスをした。歯列をなぞり、差し出された舌を絡め、躊躇なく唾液を啜る。

 そして、自ら一度手放した城之内の熱を掴んで支え、己の奥に押し当てると、震える膝の力を徐々に抜きながら身の内に迎え入れた。多少の痛みときつい圧迫感に一瞬躊躇するが、慣れた身体は直ぐに全てを受け入れる。

「い……ぁっ、んぁっ!」
「っ!……スゲ……ッ!」
「んっ、ふ……う……っ!」

 体勢の所為か、それとも散々焦らされた所為か日が開いた割に意外にあっさりと全てを収めたそこは、図らずも強くひく付いて、予想以上の心地良さを齎してくる。鼓動に合わせてオレも奴も強く脈を打つ。触れ合った場所から伝わる体温が酷く熱い。掴み締める指先や受け入れた場所が僅かに痛い。痛い、けれどそれが例えようも無く心地良かった。

 それは、何もオレだけではなく。

「……苦しくねぇ?」
「……だい、じょ……あぁっ!」
「わり。っ……やっぱ、今は我慢、できねぇや。後でもっとゆっくりやろう、な」

 謝罪と共にオレの腰を掴み上げ、前に触れながら身勝手に動きだした城之内も同じなのだと、再び触れて来る唇を感じながら、オレは力一杯その肩に縋りつき、喉奥からせり上がる悲鳴の様な声を奴の口内へと吐き出した。

 背後で、鯉が跳ねる音がする。

 あんなに興味深気にその様を眺めていた城之内も、今はオレの事しか見ていなかった。