A rabid dog

 あるドッグスポーツの世界大会会場で衝撃的な事件が起こった。

 数種目で見事優勝を勝ち取った薄茶色の毛並みが美しいベルジアン・シェパード・ドッグ・タービュレンが、表彰式終了直後、飼い主の喉笛を噛み切って絶命させた。華やかだった祝賀会場は一転して血の惨劇の場となり、集まった数百人の来賓や見物客を驚愕させたと言う。

 画面一杯に広がった凄惨な現場映像。白いタイル調の床には未だ生々しい血の跡が残っていた。

「……うえぇ、こんな映像ゴールデンタイムに流すなよな。メシがまずくなる」

 広い室内の中央奥にある巨大スクリーンの前、大きな革張りのソファーの隅にだらし無く寝そべっていた城之内は、飲んでいたコーラ入りのカップを片手にそうぼやいた。何時の間にか脱ぎ散らかした靴は少し離れた床の上にバラバラに転がり、持ってきた鞄も上着も近くにあるテーブルの上に放置されている。その側には自前で購入したらしいハンバーガーの包み紙が無造作に捨てられていた。

 こんな風に彼が優雅に寛いでいる場所は勿論自宅ではない。その広い部屋の主は城之内の直ぐ横で(と言っても二人の間には人二人分くらいの空間があるのだが)、小型のノートパソコンを操っていた。常に使うデスクトップPCよりも幾分軽いキーボードのタッチ音は大分低めにしている為、スクリーンの音声を妨げる事は無く、熱心に画面に見入っている彼……海馬の耳にも十分に入っているはずだった。しかし彼は相変わらず無表情で、手を止める事は一切ない。

 ズズッと最後の一滴まで飲み干して空になったカップをまたテーブルの上に放り投げた城之内は、だるそうなかけ声と共に起き上がり一応ソファーに座る形で落ち着いた。そして熱心に眺めていたスクリーンから目を離し、未だ微動だにしない海馬の方を見ると心持ち距離を縮めてこう話しかけてきた。

「今日新聞にも書いてあったけど。この犬はさ、血統は良くないけど物凄くいい素質を持ってたんだと。んで、なんとしてもこいつで世界を取りたいって思っちまったんだな。飼い主は、それはもう鬼のようにこいつをしごいてここまで育て上げたわけだ。そのやり方は殆ど虐待で、後一歩の所で動物愛護団体から訴えられる所だったと」
「ほう」
「そんなにまでして勝ち取った世界一なのに夢が叶った途端、当の犬にがぶりとやられちまったってわけ」
「詳しいな」
「オレ、犬好きだからさ。ついこういうの見ちまうの」
「犬が犬を好きとはな」
「オレは犬じゃねーっての」

 お前もしつこいなぁ。そう口を尖らせて呟く城之内の顔を、海馬は始めて画面から顔を背けて見下ろした。口の端にデミグラスソースがついたまま、得意満面な表情で口を開くその姿を凝視して、再び画面へと視線を戻す。そんな態度に「なんだよー」と不満気な声が聞こえたが、敢えてそれは無視をした。

 目の前を高速で流れるデータに目を通しながら、海馬はスクリーンで相変わらず流れる優勝犬の事を考えていた。城之内の言葉には特に興味なさ気に答えを返してはいたものの、詳細を知れば知るほどその犬の命運が誰かに似ている、と思ったからだ。

 画面を睨む視界の端に見える金メダルを首に下げ誇らしげに立つ姿。自慢げな表情で側に立つ飼い主の手には、犬の毛色と同じ茶色の首輪が握られていた。それに繋がる太いリード、訓練用の皮の鞭。…それらのモノから導き出されるものは、ただ一つだ。

 思い出したくもない忌まわしい記憶。この家に引取られてから数年間、海馬は剛三郎の手によって、教育という名の虐待にも等しい行為を受けていた。海馬が記憶する限り、そこには愛情を初めとするあらゆる情など存在してはいなかった。ただひたすら海馬コーポレーション維持拡大の為、海馬を利用したに過ぎないのだ。真実はどうであれ、昔も今も海馬はそうとしか考えられない。

 あの時の自分はまさに犬だ。同じ首輪を嵌め、リードで机に拘束され、耐えず響く鞭の音に身を竦めた。豪華な食事や暖かなベッドを与えられはしたものの、そんなものとは比較にならないほど惨めな気分を味わった。辛く苦しい日々だった。しかし、大いなる目的と守るべき者の為必死に生きた。耐えて耐えて耐え抜いた結果、全てを手に入れた。そして。
 

 ── あの優勝犬と同じ様に、主人の喉笛を掻き切ったのだ。
 

 

「……ひでぇ話だよな」

 ぽつりと、再びスクリーンを見つめていた城之内が呟いた。眉間に深く皺を寄せ、悲しみとも怒りともつかない顔で首を振る。

 彼が『酷い』と評したのは、犬をそこまで追い詰めた主人なのか。それとも主人を絶命させた犬なのか。それを剛三郎と自分に置き換え、海馬は自然と動きを止めた指先を握りしめ、唇を噛み締める。普通に考えれば、飼い主の手を噛んだ犬に咎があるのが当たり前なのだ。ましてやその命まで奪うなど、あってはならない事だった。犬は犬らしく従順に人間に従っていればいい。

 しかし、自分は犬ではなく人間だ。人間の手で己の所有物たる証の首輪を付けられる謂れはない。けれど、幾ら人だからとて、やはり他人の命を奪う事はしてはならないはずだった。それが例え、自分で手を下したわけではなくとも。

「貴様は、どちらが酷いと思う」
「ん?」
「犬を虐待した主人か、主人を殺した犬か。どちらに同情を寄せるかと聞いている」

 不意にやや伏せられた城之内の横顔に、そんな言葉をかけてみた。スクリーンの中では既に別の話題に切り替わり、どこぞの有名人が下らない話題に翻弄される様が面白おかしく流されていた。折角あの話が終了し、重苦しい雰囲気がなくなったのに、蒸し返してしまったのは失策だったろうか。突然の問いに暫し黙り込んだ相手の様子に、海馬がそう思い始めたその時だった。

「どっちがっていうんじゃねぇよ。この出来事そのものがひでぇなって言ってんの。どうして、こんな風になっちまったんだろうって」
「………………」
「けど、そんなのこの主人と犬にしか分かんねぇ事だし。オレがここで考えたってどうしようもないじゃんか」
「それは、そうだが」
「でもさ」
「でも、なんだ」
「この犬のこれからが凄く気になる。世界一優秀だけれど、主人を殺した『狂犬』だぜ。引き取り手がなかったらこのまま殺されちまうんだろうな」
「……そうだな」

 主人を殺した狂犬。引き取り手がなかったら、行く末は死しかない。栄誉を手に入れたものの、主人の命を奪った犬が辿る末路。……それと同じ、自分の未来。

 海馬は僅かに強張った顔で背後にある硝子窓の向こうに広がるどこまでも美しい夜景を見た。ほぼ最上階に位置するこの階から、あの男は落ちていった。敗者の末路。あてつけの自殺。貴様の未来も同じものだと、直前に投げつけられた悲鳴にも似た言葉が鮮明に蘇る。……その遠い記憶の中の剛三郎に、自分の姿が重なって見えた気がした。
 

 

「オレの所に来ればいいのにな、あの犬」

 不意に、ぽつりと城之内が呟いた。その声に海馬がはっとして目線を戻すと、何時の間にか至近距離にその姿が存在していた。不自然に歪んでいた彼の口元には普段の笑みが戻り、酷く優しい表情を見せている。しかしじっとこちらを見つめる瞳には、僅かに……ほんの僅かに憐憫の情が滲んでいた。

 あの犬の話題と海馬の態度。その二つのキーワードから、彼は何かを感じ取ったのだろう。口には出さないが、仕草で分かる。何時の間にか離れていた距離を縮め、大好きな番組が始まったスクリーンに見向きもせず、既に終わったはずの話題を引き伸ばす。

「何故」
「すごく可愛がってやれるから」
「喉笛を掻き切られるかもしれない狂犬をか」
「狂犬だって、最初から狂犬だったわけじゃあるまいし、愛情をかけてやればそんな事絶対しねぇよ。それに……本当は、そんなつもりなかったのかもしれないだろ。まさか死ぬなんて、思いもしなかったかもしれない」
「何故言い切れる」
「うん?何故って言われても困るけど。敢えていうなら同じ犬だから?」
「犬じゃないとわめいていた癖に」
「そうだけど、さ」

 ゆっくりと、城之内の指先が伸びてくる。頬に触れるかと思ったそれは、一瞬小さな戸惑いを見せた後、少し上にある海馬の頭へと落ちてきた。そして、まるで犬にするように、がしがしと髪をかき回す。

「!!貴様、何をやっている!」
「ん?よしよしって、なでてやってんの。狂犬を愛犬に変える第一歩な。愛情を注いであげましょう」
「オレは犬じゃない。犬は貴様だ!」
「じゃー犬同士仲良くやろうぜ。じゃれあいっこする?」
「するか!手を離せ!!噛みつくぞ!!」
「噛み癖は良くないな。どうせするなら唇にしてくれ」
「いっぺん死ね!」
「愛犬を残して死ねません」

 乱れに乱れた髪の中から離れた手はもう片方の手と共に、何時の間にか海馬の頬を包んでいた。相変わらず「よしよし」などといいながら、なだめるように、慈しむ様に撫で摩る。その暖かな温度に、優しい仕草に、『狂犬』と称された海馬は噛みつくことも忘れてただ、大人しく目を閉じた。同時に閉ざした唇に、掠めるようなキスが落ちてくる。

 主人を噛み殺した優秀で哀れな犬の末路。
 それは決して、不幸と決まったわけではないらしい。

「だから、な?オレのところに来いよ。可愛がってやるからさ。首輪とリードと鞭の変わりに、愛情をあげるから」
「それはあの犬に言っているのか?」
「まあ、どっちにも、かな」
 

 あの犬にも、城之内のような男が見つかればいい。

 馬鹿だけど、どうしようもなく頼りないけど、確かに愛情だけは有り余る程注いでくれる。
 

 ── こんな主人に、出会う事が出来ればいい。