絶対不可侵の左手

「……前々から思ってたんだけどさ、何で駄目なんだよ」

 カチコチと近間にある置き時計の動く音が、静かすぎる室内に響いている。KC社内では取り扱う商品の性質故か最先端技術がこれでもかと使用されている事に対して、この部屋は中世のお貴族様が寝る部屋か、と思う程時代から逆行した作りになっている。

 勿論それは巨大邸宅の一部分のみで、他の部屋は最新ホテル顔負けのデザインとシステムを兼ね備えたスタイリッシュ極まりないものだったりするのだが、海馬が好んで居つくのは古めかしい雰囲気が漂うこの部屋だった。

 天蓋付きの、大の大人が三人は余裕で寝転がる事が出来る重厚なベッド。恐ろしいほど肌触りのいい白いシルクのシーツと、それと揃いの上かけに身を包み、素肌を寄せて後は眠りにつくだけの時間。

 直ぐ横であからさまに疲れた顔をして瞳を閉じている海馬の顔を見下ろしながら、洗いたてで未だ生乾きの髪に触れる。しっとりと指先に絡むそれを頭皮の温かさと共に堪能しながら何度も何度も繰り返していると、さすがに鬱陶しくなったのか、上かけの中から伸びてきた右手に手首を掴まれてしまった。

 眠いなら寝ればいいのに、と思いつつしつこくやり過ぎると本気で怒る時があるので、ここは素直に手を止める。ゆるりとその髪の中から指を引き抜くと、満足したのか手首を掴んでいた指先の力が抜けていく。その感覚に城之内はふとある事を思い出し、それを素直に口にした。冒頭の台詞はここに繋がる。

「なぁ、なんで?」
「……何がだ」
「何で、触らせてくんないの?」

 囁くような城之内の声に、もうこのまま眠るだけだと完全に閉ざされていた海馬の瞳が薄らと開かれる。仄白いヘッドランプの光を受けて暗闇でも鮮明に見える青は、主語を抜いたその台詞に問うように幾度か瞬きをして、城之内の言葉を待つ。未だ触れたままの右手。既に少し冷たいその指先を逆に捕らえ、城之内はもう一度同じ台詞を口にした。

「……どこの、話だ?貴様がオレの身体で触れていない箇所なんてあるのか」
「いや、それはないんだけど」
「では、何の話だ」
「左手」
「左手?」
「そう、その左手。触ろうとすると嫌がるだろ。ちゃんと知ってるんだからな。それは、なんでって聞いてんだ」

 ただ抱き合う事も、キスも、セックスも許すくせに。何故かその左手だけは触れようとするとするりと逃げていく。右手も左手ほど頻度は高くないものの、やはり触れられるのは余り好きじゃないらしい。普通の恋人ならごく当たり前にするだろう手を繋ぐ行為、というのを彼等は殆どした事はなかった。それに順じて、行為の最中に指先を絡めあうという事もしなかった。掴もうとすると、その指先は巧みに逃げてシーツや城之内の手以外の部分に縋ってしまう。それは何故なのか。

 ただの癖ならそれでもいい。けれど理由があるのなら、知りたかった。

「何か意味があんの?……その、トラウマとか」
「………………」
「そういうのがあるんなら、気を付ける。けど、そうじゃねぇのなら、触りたいなーって。オレ、手ぇ握ったりするの結構好きなんだよね。繋がってるって感じするじゃん」

 握り締めた指の感触。そこから伝わる暖かな体温。恋人と言う関係を築く上で尤も初歩的で確実なそれを城之内は常に好んだ。だからこれまで何か物足りないと思っていたのだ。別にそれが必要という訳ではない。けれど、出来ればそうしたいのだ。

「………………」

 何時の間にかただ柔らかく掴まれていた指先が、徐々にきつく握り締められていく。その力と熱さを感じながら、海馬はただ無言で自身を見つめてくる城之内を見返し、指先の体温を感じていた。

 この体温は、嫌いじゃない。握り締めた力の感覚も、嫌いじゃない。手を繋ぐのは嫌ではないのだ。物理的な面で何か問題があるわけじゃない。問題は、この心だ。
 

 ── 兄サマ。
 

 記憶の中で、か細い声がそう己を呼ぶ。同時に細く小さな指が左手を握り締める。少し湿った、暖かな子供の手。この家に来る前も来た後も、この左手を掴むその小さな手があった。

 絶対離れないで、ずっと一緒にいて。兄サマと離れるなんて嫌だ。絶対嫌だ。泣きながら何度も何度もそう言って、決して離れる事がなかったその手の持ち主は、今も時折そう言って手を握り締めてくる。昔と違って大分大きく強くなったその指先の力は痛い位だ。

 それでも、互いに安堵する。
 繋がっていると、ここにいると……分かるから。

 モクバ。かけ替えのない唯一の家族。何よりも大事な宝物。他にどんなに好きなものが現れても、これだけは別格だ。その証としてこの左手だけは誰にもやらない、他の部分は全てくれてやってもいい。けれど、これだけは。
 

「手、だけは」
「え?」
「左手だけは、貴様にもやれない。だから、余り触られたくない」
「……どういう意味だよ」
「言葉通りだ。それ以外の部分は好きにさせているのだから、文句はないだろう」
 

 城之内の手の中からまたするりと海馬の手が逃げていく。ゆるりと空を舞うそれは、上かけの中に戻る事はなく何時の間にか現れた左手と共に城之内の肩に触れる。そして、持ち上がる上半身と共に首に絡んだ。する、と上かけが下に滑り、白く適度に筋肉のついた素肌が露になる。視線がそれに釘付けになる前に、唇が塞がれた。無遠慮に入り込んでくる舌に驚く間もなく夢中になる。

 海馬の男としてのプライド、その想い、柔らかな舌、口の端から零れる唾液、体温、首に縋る指の力、どこまでも滑らかな皮膚の、熱い内部の感触。

 確かにこれらは全て城之内のものだった。誰にも与えられる事のない唯一の。それ以上を望んだら、彼の持ち得る全てのものを望んだら、それこそ相当の贅沢者だ。殺されても文句は言えない。

 けれど。やっぱり、上げないと言われれば欲しくなるのも人間の性で。

「文句はないけどさ、ちょっと不満だ」

 つい、そんな事を口にしてしまう。

「満足してしまったら堕落するだけだ。その位で丁度いい」
「そういうもんかね」
「そういうものだ」
「オレはお前に全部やるぜ。……といっても、いらねーだろうけど」
「言われなくとも奪ってやる。全てをな」

 貴様、誰を相手にしていると思っている。

 キスの合間に僅かに目を潤ませて、上気した頬でそんな事を言われても、迫力なんてあるわけがなく。折角綺麗に洗い流した身体を、再び汗まみれにする事になるのだけど。

 城之内の唇が海馬の唇以外の場所にもキスをして、侵略を開始する。しかし、左手には触れてこなかった。一応、言う事は聞いてくれるらしい。その事に、海馬は直ぐに気づいて深く安堵し、同時に彼への愛情をまた少し深めてしまう。
 

 ── 絶対不可侵の左手。
 

 それは、恋人にも譲れない……大切な、血の聖域。