天上の青

 窓の向こうは、抜けるような青空だった。雲一つない、どこまでもクリアな純然たる青。それを時折じっと眺めながら、海馬は小さな溜息を一つ吐くと、開いたままで見てもいなかった教科書を手に立ち上がった。淀みなく流れる流暢な英語がしんと静まり返った教室に響いては消えて行く。

 指名された頁を速やかに読み終えた彼は、賞賛を浴びせる教師の声に目だけで答えると、再び自席に腰を下ろし、外を見遣った。さわやかな初夏の風が微かに栗色の髪を撫でて吹き抜けて行く。手元の教科書がパラパラと音を立てて違う頁を開いても、その顔は再びそれに向けられる事はなかった。

 ……珍しい。上の空じゃねぇか。

 その様子を遠く離れた席からじっと観察していた城之内は、今日何度目か知れない不可思議な思いを胸に抱いて、そんな事を口にした。そう、今日は朝から「珍しい」の連続だった。その言葉は全て先程から彼が逐一観察している海馬へと掛かっている。

 まず、こんな時間からその姿を拝める事など滅多になかった。今は4時限目英語の授業で、それだけなら何も驚いたりはしないのだが、なんと彼は1時限目から、否むしろ今朝城之内が登校する前から既に教室にいたというのだ。

 常に重役出勤、重役退勤の彼にしてはそれは酷く珍しい事で、至極嬉しい反面何かあるのだろうかと心配した城之内が早速その事を訪ねてみると、返って来たのは普段通りの素気ない一言だった。

「別に。最近欠課が多かったからな。たまには出席時間稼ぎもいいだろうと思って。……何か文句があるのか」

 いや、文句はねぇけどよ。そう城之内が頭を掻きつつ応えると、彼は持って来た本に目線を落として、それきり口をきかなかった。これも普段と比べれば些か奇異な行動だった。いつもなら文句を言ったり、邪険に扱ったりしつつも全く無視をするという事はないからだ。

 なんでだろう、オレ何かしたっけ?そう首を捻りつつあれこれ考えを巡らせてみたものの思い当たる節はまるで無く、3時限目でとうとう根を上げ意を決して本人に直接問い質してみると、やっぱりその反応は薄かった。

「何でもない」
「や、何でもなくねーだろ。なんかお前超冷たいじゃん。オレなんかしたかよ」
「別に貴様に冷たくしているつもりはない」
「嘘吐け。じゃーなんで構ってくれねーんだよ」
「普段あれだけ構っているのに学校でも構わねばならんのか」
「そういう事言ってんじゃないの。ふつーにしてくれって言ってんの」
「今日はそういう気分ではない。オレに構うな」
「……なんかあったのか?」
「別に」

 もう煩い。そう言って直ぐ様そっぽを向いてしまったその横顔をしつこくじっと見つめても、やはりその顔は微動だに動かなかった。

 そして、今。

 授業には全く集中せずに空ばかり見ている海馬の目。思えば、今日は一日こんな感じだった。授業中は外ばかり見て、休み時間は本だけを見て、けれどその目を見れば文字を追ってなどいなかった。

 ぼんやりと空を見て、視線を落として時間を無為に過ごす海馬の姿。こんな彼の事は初めて見た。だからこそ、絶対何かあるに違いないと思ったのだ。けれど、それを知るには本人から教えて貰う以外に方法はない。だがこの様子では口など割らないだろう。折角学校へ来ていて多分最後までいるだろうに、この調子では一緒に帰るなんて事はまず出来そうにない。ああ、イライラする。

 そんな事を考えつつ、はぁっ、と溜息を吐いた瞬間、終業のチャイムが鳴り授業が終わってしまう。次の時間は昼休みだ。来ないと分かっているけど昼食に誘うべきか、それとも本人の気持ちを汲み取って、そっとしておくべきか。その二択を城之内が必死に選んでいると、当の本人がついと席を立ち、さっさと教室の外へと出てしまった。その手には何も持っている様には見えなかったから、帰宅するのではないという事は分ったが行き先が分からない。

 追いかけようか?そう思い、半分腰を浮かしかけたその時、不意に逆方向から名を呼ぶ声が聞こえた。視線を向けると、そこには弁当箱を手にした遊戯の姿があった。

「お昼だよ、城之内くん。ご飯食べにいこ?」
「ああうん。そうだな」
「海馬くんも誘おうと思ったんだけど、出て行っちゃったみたいだね。今日は朝から全然口もきかないし。やっぱり、色々と思い出しちゃってるのかなぁ」
「そー。あいつなーんかずっと不機嫌でさぁ。オレなんもしてねぇ筈なんだけど……って、え?お前、今なんてった?」
「え?やっぱり色々と思い出しちゃってるのかなぁ……って」
「何を?どういう意味だよ」
「あ、もしかして城之内くん、知らなかった?今日は、彼のお義父さんの一周忌なんだよ」
「?……お父さんって、海馬剛三郎?」
「うん。昨日の日曜日にKCで盛大な式をやったって、今日の新聞に載ってたから。確か今日が親族だけで法要するとかしないとか言ってたけど……海馬くんが学校にいるって事は……」
「…………だからか」
「何が?」
「あいつが今日ずっとぼんやりしてたの。なんか悩みごとでもあんのかなぁなんて思ってたけど、そういう訳だったんだな。悪い遊戯。オレちょっと行ってくる」
「どこに?海馬くんのところ?」
「うん。何所行ったか分かんねぇけど」
「海馬くんなら出てった方向からみて、屋上じゃないかな。携帯持ってたよ」
「わかった。サンキュ」

 昼は勝手に食っててくれ。立ち上がりざまにそう言うと、城之内は直ぐに教室を飛び出した。生徒で混み合う廊下を走り抜け、一気に階段を駆け上がる。そうして大して苦もなく一番上まで辿り着くと、そっと古びた鉄扉を押し開けた。

 今日は少し日差しが強く、外で食事をするには少々厳しい環境だった所為か人影は見当たらず、端に立っている少し色褪せたフェンスの傍に求めていた姿はあった。彼はグラウンドの方を向き、フェンスに身を凭れながら、何処か苛立った様子で声を荒げている。城之内に背を向けている状態故に、来訪者が来た事も分からずに延々と何事かを話していた。

「……だから、オレは行かないと言っている。昨日のアレで十分だろう?これ以上何を望むのだ」

「モクバは本人の意思に任せる。以上だ。もうこの件に関して連絡を寄こすな!鬱陶しい!」

 尖った声で次々と吐き出されるのは否定の言葉のみで、何がそんなに気に障るのか手持無沙汰な左手はフェンスを強く掴み締めたり、己の前髪をかき上げたりととかく忙しない。その仕草を眺めているだけで、相当苛立っている事が見て取れる。

 その姿は、あのぼんやりと空を眺める静かな様子とは対照的で、多分本人もその感情に振り回されているのだろう。最後の最後に大声で啖呵を切って、力任せに携帯を閉じた後、酷く疲れたように肩を落とす様を見ればよく分かる。

 話の内容は、多分、あの事だ。

 海馬が発していた言葉から大体の事を察した城之内は、意を決してその後ろ姿に近づいた。そして、わざとその体を抱き込む様に肩に手を回して体当たりする。

「かーいば!」
「!!……凡骨」
「何こんな所で電話越しに喧嘩してんの?お前、部下にはもそっと優しくしてやれよ。嫌われるぞ」
「何しに来た」
「何しにって。恋人とイチャイチャしに来ちゃダメなんですかね。それでなくても今日は構って貰ってないし?さみしーんです、オレ」
「知らん。オレに構うなと言った」
「一人になりたいのならなんで学校来たんだよ。会社にも家にも居たくない事情でもあったのか?」
「……何もない!」
「どうせ学校来たって授業中ぼんやりしてんじゃ意味ないだろ。空ばかり見ちゃってセンチメンタルな事で。お前には似合わねーぞ」
「余計な世話だ!」
「……声に出さないで、お祈りでもしてた?」
「……え?」
「今日命日なんだろ、オヤジさんの。……自殺したって言う」
「…………!!」

 城之内の存在を身をもって確認した瞬間から酷く強張った顔をしていた海馬は、突然放たれたその言葉に今度こそ驚愕して瞠目した。ひくり、と白い喉が震えて音を立てる。

「何故……」
「遊戯が言ってたから。新聞にも載ったんだってな。オレ、見てねぇから知らねぇけど」
「………………」
「だからお前、今日朝早くから学校に来てたんだな。どーせ法要に出席しろだの、墓参りしろだの言われたんだろ。全部逃げて来たのか。一応息子だった癖に」
「うるさい、貴様には関係ないだろうが!」
「関係あるんです。そーやって一人で空見あげる位なら、墓参りぐらい行けばいいじゃねぇか。色々思う事あるかもしんねぇけど、死んだ人間に罪はねーだろ」
「……別に、墓参りをしたくない訳じゃない」
「んじゃ、なんであんなに怒ったんだよ。あれ、電話の相手磯野さんだろ?どうせ行くんなら皆と一緒に行けばいいじゃん。変な意地張ってないで」
「………………」
「……やっぱ、行きにくいのか?お前にもそういうしおらしいとこあるんだな」

 海馬剛三郎が自殺したのは海馬が彼を追い詰め、追い落とした所為であると、伝え聞いた事がある。その事について本人とはあからさまに話をした事はなかったが、心のどこかに自責の念があるらしいという事は、なんとなく分かっていた。

 普段は全くそんなそぶりを見せず飄々とした態度を崩さない男だったが、親殺し子殺しの話には敏感だった。どこにでもある些細なニュースにも不快感を露にし、意図的に話題を逸らした。そして決まってどこか陰りのある表情を見せるのだ。

 今回の事も、海馬は何も墓参り自体を拒絶しているのではないのだろう。ただ、酷く後ろめたいのだ。自分が殺してしまったも同然の親の元に足を向ける事が出来ないと、そういう事なのだ。それ位は幾ら物分かりの悪い城之内でも読み取る事は出来る。その気持ちも、分からなくはない。けれど。

 ぼんやりと、一人空を眺めて思いを馳せる位なら。心に何か蟠りを残す位なら、どんなに辛くても行ってしまえばいいのだ。咎める者など誰もいない。

「それにしても、すげー綺麗な青空だよな。吸い込まれそう。今なら空も飛べるかもしんない。アイキャンフライ!ってな」
「一年前の今日も、天気は同じだった。雲一つない快晴で」
「そうだっけ?」
「たまに、思い出す」
「うん。だったら、思い出したついでに行ってやれよ。悪いと思ったんなら謝ってくれば?」
「嫌だ」
「オレも一緒に行ってやるから。あいつ、お前を苛めたから一回文句言ってやりたいと思ってたんだ」
「……死んだ人間に罪はないのではなかったか」
「それはそれ。これはこれ」

 だから、な?余計な事考えないで、軽い気持ちで出かけようぜ。花でも持って。

 そう言って、笑顔で手を差し伸べてくる城之内の顔を、暫し黙って見つめ続け、やがて海馬は握りしめた携帯を手に取り、軽く耳に押し当てた。そして、出たらしい相手の声を遮る様にこう言った。

「オレは個人的に行って来る。犬の散歩のついでにな」

 それだけを簡潔に告げてしまうと、海馬は携帯をポケットに押し込み城之内に向きなおる。そして、顔は無表情だったが、幾分柔らかめの声で「というわけだ。付き合え」と囁いた。

 それに、城之内が否と言うはずもない。
 

 頭上にはどこまでも綺麗な青空が広がっていた。墓参り日和だな、と呟くと、なんだそれは、と返って来る。握りしめた手は少し冷たくて。
 

「なぁ、花は派手なのにしようぜ。仏花ってオレ嫌いなんだ。持ち歩くの恥ずかしいじゃん」
「供え物に好きも嫌いもあるか、馬鹿が。それにあの男にそんなものが似合うと思うのか」
「考えるとウケるな」
「貴様、面白がってるだろう」
「いやいや、神妙な気持ちですよ」
「嘘吐け」
 

 天上の青。

 この空の向こうにいるあの男も、最後にはこんな青を拝んだのだろうかと海馬は思う。
 

 そして、誰にも聞こえない声で、小さく祈りの言葉を呟いた。