苛々の理由

 城之内が定刻より少し遅れて教室に入ると、授業中にも関わらず、何故かクラス中が騒然としていた。殆ど習慣の様に確認した教室の隅の席は勿論蛻の殻で、いつもは教壇に立って憤然と説教を垂れて来る教師の姿もない。

 一体何事かと彼が訝しんでいると、その姿を見つけたらしい遊戯が慌てた風に飛んで来て、思わず、と言った風に制服の裾を掴み締めた。

「じょ、城之内くん!大変なんだ!」
「はよー遊戯。朝からなんか騒がしいけどどした?また三年が鉄パイプでも振り回した?それともヤクでも見つかった?最近多いよなーそう言うの」
「そんな暢気な事言ってる場合じゃないよ。この騒ぎの原因は海馬くんなんだ!」
「へ?海馬?……あいつまたヘリで学校のグラウンドに乗りつけたのか?」
「そんな事はもう慣れっこでしょ!そうじゃなくて!」
「いや、慣れっことかどういう学校だよ」
「とにかく、一緒に保健室に行く?多分もうそっちに言ってるだろうから」
「は?保健室?なんで?」
「なんでって、怪我してるからに決まってるじゃん」
「怪我ぁ?」

 顔を合わせて早々矢継ぎ早にそう口にする遊戯の顔を些か呆けて眺めながら、城之内は未だ良く飲みこめない事態にただ首を傾げるばかりだった。遊戯の話からすると朝から騒然としているこの空気、担任の教師がいないその訳も、全てその原因は海馬にあると言うのだ。

 元々、海馬と言う人間はただそこにいるだけで騒がれる存在だった。底辺から数えた方がいい公立の高校に通うには余り似つかわしくない高校生社長という肩書や、模試をすれば全国トップレベルの好成績、更に厭味な程見栄えのする容姿、そしてそれとは全く関係の無い破天荒な性格が時折一般人の度肝を抜いたりする故、彼の存在は常に騒ぎと共にあった。

 尤もそれはあくまで対外的な問題で、校内にいて他の生徒と同化して高校生をやっている時は非常に大人しやかで、むしろ別人のようだった。よって、時折通学方法で問題を起こす以外は至って真面目で、童実野高校の人間にとって彼は寡黙な優等生で通っている。ただし、メディア等で彼本来の姿も目にしている為、そのギャップに未だ慣れずにいる者が多数いると言う。主に女子学生の方だったが。

 一刻も早くとばかりに城之内の返事も聞かずにぐいぐいと腕を引いて後ろ側の扉を引き開けた遊戯は、一歩廊下に足を踏み出した途端いきなりぐるりと振り向いて「そこ、気を付けて!」と注意した。その声に城之内は思わずその場で飛びあがり、咄嗟に目線を下に向けると、成る程そこには血痕と思しき小さな赤い痕が点々と散っていた。

 ちょ、マジで流血か?!これ海馬の血か?!

 思わず息を飲んでその場に立ち尽くすと、それに気づいた遊戯が至極あっさりと肯定してくれた。

「そう、それ、海馬くんのだよ。彼がここに来た時凄かったんだから。もう女子が大騒ぎ」
「あいつ一体何やらかしたんだ?」
「よくわかんないけど、先生に連れて行かれたから……喧嘩、かなぁ?」
「えっ?喧嘩?あいつが喧嘩?!誰と?!つか、リアルファイト?!」
「それが分かんないから確かめに行くんだよ。心配だし」
「……怪我、酷いのか?」
「どうだろう?でも普通に教室まで来たんだから歩けない程じゃなかったんじゃないかな」
「つーか、なんでそんな状態でここまで来たんだあいつ」
「僕に聞かないでよ。……って、あ、先生!」

 件の騒ぎで騒然としている自分のクラスとは対照的に既に授業が始まっている他のクラスはひっそりと静まり返っていて、人気のない廊下に2人の足音だけが耳障りに響いて行く。

 保健室のある一階へは中央階段から降りた方が早いと足早にそこを目指して歩いていた2人だったが、丁度踊り場に出た所で下から上がって来た担任の教師と出くわした。元々余り愛想の良くない顔が盛大に歪んで見るからに不機嫌な様相をしている。彼は丁度対面で向かい合う形となった遊戯と城之内を睨めつけると、即座に噛みつくようにこう言った。

「おいお前等、授業中だぞ、何をやっている」
「えっとあの、僕達海馬くんが心配で……」
「おはよーセンセイ。朝からバカイバがなんかやらかしたよーで御苦労様でっす。つか、あいつ何やったの?」
「海馬?……ああ、海馬か。全くあいつの所為で朝から疲れたぞ。何を血迷ったか知らんが他校生徒と派手にやったらしくてな。救急車を呼ぶ事態になったからちょっとした騒ぎになったんだ」
「ゲッ、マジかよ。あいつどーしちゃったの?」
「全くな。これがお前ならまぁいつもの事かで済むんだがな。近頃はよくつるんでいるらしいじゃないか。お前の馬鹿が移ったのか?」
「ちょ、なんだよそれ!オレ関係ねーじゃん!!最近は大人しくしてるんだぜ?!」
「そ、それで先生。海馬くんは大丈夫なんですか?怪我してるみたいだったけど」
「ああ、多少かすり傷を負った程度でピンピンしてるぞ。あれだけの人数相手によくやったもんだ」
「ほんと?良かったぁ」
「とにかく、授業を始めるから教室に戻れ。海馬なら直に戻って来る」

 そう言って豪快な足音を立てて先に行ってしまった教師の背を見つめながら、二人は顔を見合わせた。ホントだったんだ……ぽつりとそう呟いた遊戯の言葉に城之内は「ごめん」と言ってついに駆けだしてしまう。階下に消え行こうとするその背を追う真似はせず、遊戯は控えめな声でこう言った。

「僕は教室に戻ってるね。海馬くんに宜しく。授業はどうするの?」
「分かんねぇ。行けたら行くし」
「そう。じゃあ教室で」
「おう」

 階段廊下に微かに響く遊戯の声を背にしながら、城之内は殆ど飛び降りる様に段差を駆け降りた。相変わらず静かな校内を疾走し、瞬く間に目当ての場所に辿り着いた彼は、一層ひっそりと静まり返っているその扉の前で暫し佇み、意を決して引き開けようとしたその時だった。

 丁度城之内が引き戸の取手に手をかけた瞬間、それはガラリと内側から開かれた。そして見慣れた白衣がひらりと視界の端に舞う。

「うわっ!」
「あら、城之内くん。今日は朝からサボりなの?」
「いきなり出てくんなよコマキ!ビビったろ!」
「養護教諭が保健室から出て来るのになんの不都合があるのかしら。それにちゃんと先生と呼びなさいって言ったでしょ。チクるわよ」
「それは勘弁。っつーか今日はサボりじゃねーの。こん中に海馬いる?」
「海馬くん?ああ、いるわよ。何か用?」
「用っつーか。様子見に来たんだけど。喧嘩して流血したって聞いたから」
「それを口実にサボりってわけね。良く分かったわ」
「だからそうじゃねーって!!コマキどっか行くんだろ?オレが代わりにいてやるから行って来ていーぜ」
「海馬くんならもう教室に帰るって言ってるわよ。まぁいいけど。私が帰ってくる前には帰りなさいね」
「はいはい」

 なるべくゆっくり帰って来てくれよ、と城之内が付け加えると、養護教諭であるコマキこと小松美紀教諭は白衣の裾を翻してさっさと歩き去ってしまう。その後ろ姿を見送る事もなく、城之内は飛び込むように保健室内へと足を踏み入れた。そしてぐるりと周囲を見渡そうとしたその時、「おい」とあらぬ方向から声が聞こえた。

 はっとしての方向を見ると、余りにも見慣れた男の余り見慣れない姿が飛び込んで来る。ぎょっとして城之内が一瞬固まると彼……海馬がベッドの上に不機嫌な様相で座っていた。

 彼は学校では余り乱す事のない学ランを珍しく傍に脱ぎすてて、カッターシャツ一枚で憮然としている。常に眩しい位に純白である筈のそれにはところどころに泥や血がついていて確かにその姿は一種異様なものだった。そしてその顔や手は汚れたシャツとは逆に真っ白で清潔そうなガーゼやら包帯やらが巻かれている。

「お前、どーしたのそれ」
「別に。何をしに来た」
「何をしにって。コマキとの会話聞いてただろ。様子見に来たんだよ。教室の前に血痕まで有ったから大怪我でもしてるんじゃないかと思ってさ。つかお前何やってんだよ。喧嘩したとかマジなの?」
「オレが喧嘩をしては悪いのか」
「悪かないけど今までこんな派手な奴一人でやったの初めてじゃん。……『喧嘩』じゃないのならそりゃ経験豊かだろうけどさ。今日はいつもの黒服いなかったのか?」
「………………」
「何ぶすくれてんだよ。あーあー商売道具に傷つけて。大丈夫なのかそれ」
「左手だ。問題ない。これでも加減してやったんだ」
「だろうね。お前の右手が出たら人死ぬもんな。って、そういう問題じゃないっての。何で喧嘩したかって聞いてんの」
「どうでもいいだろうが。貴様は教師か」
「センセイの尋問とオレの質問は全然意味も重みもちげーだろ。いいから訳言ってみろ」
「嫌だ」
「何で」
「煩い」
「……あのなぁ」

 それきり口を噤んで沈黙してしまった海馬を見下ろして、城之内は深い溜息を一つ吐く。

 遠くで一時限目終了のチャイムが鳴る。それでも海馬は口を開く事はなく、城之内はただ黙ってその様子を見守っていた。
「相手の言葉に腹が立って、気がついたら手が出ていた。それだけの話だ」
「はぁ?何それ、お前らしくねぇなぁ。虫の居所でも悪かったのか?つか、なんで今日一人だったんだよ。何処でやったの?」
「何処だろうな。裏門から大分離れた……隣町との境目辺りか。裏道があっただろう、あそこだ」
「ゲッ、そこって角川の連中の溜まり場じゃねーか。なんでそんなトコ行ったんだよ。用ねぇだろうが」
「そうなのか?というか、最終的にそこに行っただけで、絡まれたのは童実野校の近くだ」
「絡まれたって。なんかやったのか?それともお前ってだけで因縁付けられた?」
「さぁな。車で乗り付けたから目立ったのではないか。良くある話だろう」
「いや、それはないな。あいつらは不良には目を付けるけど優等生に目を付ける事なんてしねぇよ。カツアゲみてぇなのもやらねーし。ましてやお前みたいなやっかいな奴に絡んでくる訳ねぇもん」
「………………」
「なんで黙るんだよ。理由言う位簡単だろ?それとも、オレに言えない様な事されたとか言われたとかか?」
「別に」
「別に、は無し。お前の『別に』はなんかあったと同意語だから」

 長い沈黙の後、少しも目線を反らそうとしない城之内に折れたのか、海馬は疲れた様な溜息を一つ吐くと、普段よりも大分小さな声でぼそぼそとそう言った。それは彼が城之内に対して後ろめたい事がある時に取る行動の一つで、それを即座に見破った城之内は全く折れる様子が無く、ますます海馬へと詰め寄った。

 殆ど鼻先が触れ合う所まで近づいてキツイ眼差しで睨んでくる相手に、さしもの海馬も分が悪いと思ったのかやや身を引いて目を反らそうとする。しかし、そんな仕草を許す城之内でもなく、トドメとばかりに「言わないんならここで襲っちゃうけど」という理不尽極まりない台詞を吐き、尚且つ行動に起こそうとした為に結局海馬が口を開く事になるのだった。

「……最近オレの姿を良く見かける事に対して、ちょっと」
「ちょっとって何。つーかそれもしかしてお前に直接因縁つけたってより、オレ絡みでなんか言われたって事か?だってお前あいつらと今まで関わった事ねぇだろ?」
「貴様は関係ない。あくまで主語はオレだった」
「いや関係なくないだろ。思い当たるのそれしかねぇもん。最近相手してやってねーからケチつけてきやがったのか?でもなんで海馬に……オレそんなに目立つような事してねぇけど。お前のとこに行くのだって堂々とはしてねぇし」
「オレに聞くな」
「でもよ、なんでそんなの相手にしたんだよ。いつもスルーするじゃん」
「別にどうでもいいだろうが。少し苛立っていただけだ。他に言う事は何もないわ。オレは教室に戻る」
「え、授業出んの?家に帰ればいーじゃん」
「今日はモクバがいる。騒がれたくはないからこっちに来たのだ。それに連絡も行ってしまったしな」
「あ、なーる。だからお前その格好のまま学校に来たわけね。つか、今帰ろうが後で帰ろうがどっちにしても騒がれるじゃん」
「煩いな、放っておけ」
「機嫌悪いのは分かるけどそうつんけんすんなよ。モクバに騒がれたくなかったらそれこそオレと一緒に帰った方がいいじゃん。上手く言ってやるし」
「結構だ」

 至近距離でそんな問答を繰り返していた彼等だったが、以外にしぶとく話を反らし続ける海馬に杳として核心には近づけず城之内が苛立ち始めた時、不意にカツカツとヒールが床を叩く音がして城之内は仕方なく身を離した。その隙に海馬は即座に城之内から距離を取り、顔を反らす。それと同時にガラリと扉が開いて養護教諭が呆れた面持ちで入って来た。

「あっ、てめ、海馬ッ!」
「城之内くん、貴方まだいたの?!そんな所に座って、怪我人に乱暴してたんじゃないでしょうね?!」
「うおっ、コマキ!帰ってくるのはえーよ!」
「早いじゃないの。もう30分は経ってるわよ!大丈夫、海馬くん?俯いてるけどどこか痛むの?」
「………………」
「ちょ、お前!わざとらしく顔顰めてんじゃねーよ。オレ何もしてねーし!」
「嘘吐かない!もういいから貴方はさっさと教室に帰りなさい!」
「え?!ちょっと!オレまだ海馬に話があるんだけど!」
「問答無用!後にしなさい!」
「ちょ、まっ……うわっ!!……おい、コマキ!!」

 養護教諭のかつてない迫力に追い出されるのを回避しようと城之内が部屋奥へと逃げる前に、さり気なくそれを妨害する為に差し出された海馬の足に躓いてその場につんのめり、敢え無く首根っこを捕らえられてそのまま廊下にポイ捨てされてしまう。間髪入れずに閉じられた扉に慌てて縋りついても後の祭り。扉越しに返って来たのは「早く教室に帰りなさい!」との怒鳴り声だけだった。

「……ありえねぇ…なんでオレ悪者扱い?」

 硬く閉ざされた扉を前に城之内はそうぽつりと呟くと、このまま此処にいても何も進展がないと早々に悟り、仕方なく教室へ戻るべく踵を返す。

 その心中は、勿論穏やかではなかった。
 

 

「お帰り城之内くん。……あれ、海馬くんは?」
「知らねぇ。保健室追い出された。つか悪者扱いまでされたし!」
「え?なんで?っていうか、喧嘩の原因とか理由、分かったの?」
「それなんだよな。海馬にその事聞いたら、言いたくねぇのか言葉濁しやがってよ。最後にはコマキと一緒になってオレを追い出しに掛ったんだぜ?酷くねぇ?!大体喧嘩の理由なんて特に隠す事ねーじゃん。なんで言わねぇんだ」
「……うーん。よっぽどつまらない事だったのか。それとも逆に凄い理由だったのか……そのどっちかだよね」
「気になる」
「でも海馬くんって一回言わないって決めたら絶対に言わないからなぁ」
「あんましつこくすると逆ギレするしな」
「……怪我も大した事なかったし、この件に関してはもう諦めたら?」
「……だけどよー。どーもオレ絡みっぽいんだよなー。奴が喧嘩した相手ってオレがしょっ中やりあってる奴等だし。多分、だけど」
「そうなんだ」
「海馬個人の話だったら別にいいけど、オレが関係してるとすると、やっぱ無視できねぇじゃん?ああ見えてあいつ自分で喧嘩なんか絶対にしないんだぜ。いつもはオレに向かって「喧嘩は馬鹿のする事だ」なんて言ってんだから」
「その海馬くんが喧嘩したって事は、よっぽどの事があったんだろうねぇ」
「そう思うだろ?だから気になるんだよ」
「でも、海馬くん以外には分からないでしょ。理由なんて」
「そーなんだけどー」

 ああもうオレが苛々するっ!!

 あれから数分後。保健室から帰って来た城之内は、そう言って地団太を踏みながら遊戯相手に盛大な愚痴を零していた。自分は何一つ悪いことをしていないのに、悪者扱いにされた事にも腹が立ったが、何よりも海馬本人が件の喧嘩に対して頑なに口を閉ざしているのが気に入らなかった。

 彼の態度を見ていれば、事実とは違うと言う事は丸分かりで、彼本人も誤魔化しきれてないと分かっているからこそ、城之内を追い出しに掛ったのだ。都合が悪くなると直ぐ逃げる癖は、大分慣れた今でも健在だ。だからこそ、ますますその事実を知りたくなる。海馬が何かを隠すという事はよっぽどの事がない限りしないからだ。

 こう言う時、隠しごとが下手な奴を相手にするのは損だと思う。こちらが何も嗅ぎ取る事が出来なければ、遊戯の言う通りスルーする事も出来るのに。

「やっぱり気になって眠れねー。オレもう一回チャレンジすっかな」
「無理強いは止めた方がいいよ。今度は君達が喧嘩するよ」
「だってよー」
「僕が聞いて来てあげようか?」
「えっ、お前が?」
「うん。保健室を追い出されたのは城之内くんだからでしょ。僕だったら多分入れてくれると思うし。それに海馬くんも僕なら結構素直にしゃべってくれるかもしれないじゃん」
「……なんかその言い方がムカつく」
「事実でしょ」
「事実だけどよ」
「じゃあ、そうと決まれば早速。あ、次の体育はこの間体力測定しなかった人は絶対来いって言ってたよ。来ないと1だって。僕は終わったけど、城之内くん、サボってたよね?」
「ゲッ!そうだった!」
「僕は海馬くんの所に行ってくるから頑張って」
「うー。ちゃんと聞きだしてくれよ」
「任せてよ」

 話の流れで唐突にその役目を買って出た遊戯は、そう言って小さくウィンクすると悔しそうに顔を歪める城之内に背を向けて教室を出るべく歩き出す。その小さな後ろ姿を眺めながら、城之内は仕方なく次の授業の為にノロノロとした動作でロッカーに向かった。
「えっ?!海馬くん、もう帰っちゃったんですか?!」
「ええ。私が帰るように勧めたの。あのまま授業受けても集中できないでしょ」
「そうですかぁ……」
「それで、武藤くん。授業は?」
「えっ、あっ、自習です!」
「あら、そうだったかしら。その窓から見える生徒達は貴方のクラスメイトじゃないの?城之内くんの姿も見えるけど」
「……うぅ」
「人を口実にサボってばかりいないで、真面目に授業を受けなさい」
「別に口実にした訳じゃ……あの、先生。海馬くん、喧嘩の原因とか何か言ってませんでした?」
「さぁ。いつもはこんな事はしないんだけど、今日はつい、とか言ってたわよ。彼、見かけがああだし、優等生の方だから私もまさかと思ったし、本人も喧嘩は強くないって言ってたけど、相手は10人近く居たんですって?10人も伸しておいて強くないっていうのは嘘よねぇ」
「……うわ、大暴れ。さすが海馬くん」
「それ以外は特に話はしなかったわよ。後は個人的な事位かしら」
「そうですか……」
「人の喧嘩の理由なんてどうでもいいじゃない。男の子だもの、そういう時もあるんじゃないの?武藤くんだってあるでしょ。まぁ、だからって人に怪我をさせていいなんて事はないけど」
「僕は喧嘩はからっきしだからそんな事ないです。やられちゃうばっかりで」
「あらそう?結構貴方の事は耳にするけど。小柄なのに強いのねってたまに噂になってるわよ」
「あぁ、それはもう一人のボ……」
「え?」
「あっ、な、何でもないですッ!海馬くんがいないのなら、僕も授業に戻ります!」
「サボっちゃ駄目よ」
「はーい」

 遊戯が城之内に変わって海馬に喧嘩の理由の聞く為に保健室に向かうと、既にそこには彼の姿はなく、養護教諭が一人机に向かっているだけだった。彼女の話では海馬は城之内が保健室から出た直後、帰ると言って帰宅してしまったのだと言う。

 念の為に帰り際昇降口へ寄って行き彼の靴箱を確認した所、やはりそこには新品同様の真新しい内履きが置いてあり、彼がもう校内へ残っていない事を示していた。

 最後の手段として携帯へと連絡を取ってみたが、20コールを超えても出る気配がなく、もはや遊戯にはどうする事も出来なかった。仕方なく教室に取って返した彼は、授業が終わるのを待って帰って来た城之内に状況を報告し、ごめんと素直に謝った。

「えぇ?!もう帰ったぁ?!あいつ今日家にモクバがいるから帰らねぇって言ったのに!」
「電話もしてみたんだけど出ないんだ。多分海馬くんの事だから僕の事も予想してたのかも」
「くそー。ますます怪しいじゃねぇか」
「とりあえず、直接行ってみたら?家に帰らないって言うんならKCに行ってるんじゃないかな」
「だよな。速攻門前払いくらいそうだけど、行ってみっか」
「付き合う?」
「いんや。いい、一人で行く。途中まで一緒に帰ろうぜ」
「うん」

 そう言うと城之内は汗まみれのジャージを脱ぎ捨ててはぁ、と大きな溜息を吐いた。くっそー海馬の奴、行動があからさま過ぎんだよ!絶対理由を暴いてやる!そうぶつぶつと呟きながらちらりと前方にある時間割表を見た。

 今日サボれる授業は……と一つ一つ目で追っていくが、幸か不幸かどれも単位が危ういモノばかりだった。なんでこんな時ばっかりフルなんだよ!?そう嘆いてみても自業自得故にどうにもならない。

「つーか日が悪いよな、日が」
「今からすぐ行っても多分海馬くんは捕まらないから、逆に放課後の方がいいかも知れないよ?」
「そうかぁ?お前適当な事言ってねぇ?」
「言ってないよ。酷いなぁ」
「ちなみに、体力テストの結果どうだった?オレ海馬の所為で気が散って散々だった」
「僕はもう一人の僕にお願いしたからバッチリだったよ。こう言う時いいよね、運動神経のいい人が同居してるとさ」
「その手があったか。ズルイなぁもう」
「とりあえず、お昼食べようよ。今日は僕学食なんだ」
「おう、そうだな。体力つけとかねーとな」
「……なんで体力?」
「いや、なんとなく」

 こうなってくると持久戦も有り得るし。そう何気なく口にしてにやりと笑った城之内は、遊戯と共に昼食を取りに行くべく手早く着替え始めた。

 念の為一度携帯にかけてみたが、やはり繋がる事は無かった。
 

 
「あ、雨が降って来たよ。天気予報当たったね」
「うぇ〜マジか?傘持って来てねぇよ」
「大丈夫。僕持って来たから入れて行ってあげる」
「お、サンキュー。……って言いたいトコだけど、オレやっぱ行く所があるから一緒に帰れねぇわ。ごめんな」
「え、海馬くんの所に行くんじゃないの?」
「勿論行くつもりだけど、その前に現場に行ってみようと思って。海馬の喧嘩相手の溜まり場。あいつらめちゃくちゃにされたもんだから絶対また仕返ししてくるし。その前に釘刺しに行こうと思ってよ」
「えっ、喧嘩しに行くの?!駄目だよ城之内くん!」
「や、喧嘩も何もアタマは病院行き食らった筈だからいるのは1年のパシリ位だぜ。大丈夫」
「でも一人で行くのは危ないよ」
「今更今更。大体オレいっつも一人だし」
「駄目!危なくないんなら僕も一緒に行くよ!」
「それは駄目だ」
「なんで?危なくないなら連れていけるでしょ」
「……そうだけど、でも駄目だ。何があるか分かんねぇし」
「だったら僕も駄目って言うよ。そんな所だって知ってるのに行かせられないもん」
「………………」

 放課後HRが終わった後、2人は帰宅の準備をし終えて教室を出るだけの状態になってからそんな会話を交わしていた。あれから暫く気も漫ろに授業を受けながら、あれこれと今日の事について考えを巡らせていた城之内は、最後の授業終了間際とある事を思いついた。それは海馬が喧嘩をした理由を本人から聞き出すのではなく、相手であるらしい角川校の人間から聞けばいいのではないかという事。

 城之内の入学時から何かとトラブルの多かった角川校の主に不良と呼ばれる連中は、元々中学時代からの因縁相手で、事ある毎に城之内に喧嘩を仕かけて来る奴等だった。海馬は頑なに口を閉ざしていたが、角川が関わってくる事と言えば城之内関連なのは明白で、海馬と付き合いだしてから喧嘩の回数が激減した事を不審に思っているとの噂も耳にしていたから、多分どこかで自分と海馬の関係を聞きつけて、たまたま今日居合わせた海馬にちょっかいを出したに違いない。

 それは大半が城之内の推測で構成された考えだったが、どちらにしても角川の連中とは一度話をしなければと思っていた所だった。故に、今回の事はいい口実にもなる。

 それを素直に遊戯に告げた所、案の定猛反発を買ってしまった。キッと己を見上げて抗議をしてくるその眼差しを見つめながら、城之内は黙っていれば良かったと今更ながらに後悔した。しかし、もう口に出してしまった以上どうにもならない。

「……うーん。じゃあ、万が一ヤバい事になったら逃げるって約束出来るか?」
「いいよ。約束する」
「絶対だぞ」
「うん、絶対」
「じゃあしょうがねぇ。ついて来いよ。出しゃばっちゃ駄目だからな」
「分かってる!」
「……お前巻き込んだなんて海馬に知れたら殺されるなこりゃ。元々はあいつの所為だけどよ」

 遊戯との必死の攻防に結局根負けして仕方なく首を縦に振った城之内は、余り気乗りしないまま教室を後にした。

 降り出した雨は徐々にその雨脚を強めていた。どんよりと曇った空を廊下の窓から眺めながら、城之内はうんざりした顔をして今日何度目か知れない溜息を一つ吐いた。
「遊戯、傘寄こせよ。オレが持った方がいいだろ」
「あ、そうだね。はい」
「しっかしすげー雨だなー。遠くで雷鳴ってんじゃん」
「……こんな日に本当に角川校の人達、いるのかなぁ」
「多分いると思うぜ。あいつら行くとこねーからそこにたむろってる連中だからよ。あの裏道の奥に使われてない事務所だか小屋だかがあって、そこがアジトって感じかな」
「……アジト」
「怖いんなら帰ってもいいんだぜ」
「ううん、行く」
「お前って変な所に度胸があるよなぁ」
「もう一人の僕も何かあったら助けてくれるって言ってるし!」
「おーなら安心だな。んじゃ、行きますかねー」
「でも、極力喧嘩はしないでね」
「分かってるって!無茶はしねーよ」

 教室を出て数分後、昇降口に辿り着いた二人は、玄関扉の向こう側で激しく振り続ける雨を眺めながらうんざりした声を上げた。横殴りの雨が大きな硝子窓に降り注ぎ、幾筋もの水の流れを作っている。こんな日には親に迎えに来て貰う生徒も多いのか、校門の向こうでは頻繁に車が行き来していた。

 その光景を遠目に見つつ下駄箱から靴を取り出して履き替えた二人は、「よしっ!」と大きく気合いを入れると、扉を開けて外に出た。途端に全身に降りかかる雨にこれ傘って意味あるのか?とぼやきつつ、裏門の方へと回り込む。天気の所為か外には生徒の姿は殆ど無く、体育館と柔剣道場の明かりが煌々と辺りを照らしていた。

 それを横目に眺めながら、二人は特に言葉もなくぬかるんだ道を黙々と進み、錆びついた門を出て、件の裏道へと入っていく。周囲に次々と建っていく新興住宅街の丁度中心にあたるその場所は、昔風の家が立ち並び空き家や既に稼働してない製作所跡などが目立つ所だった。故に天気がいい日中でも僅かに薄暗く、人通りも少ない。不良達が腰を据えるにはなかなか快適な場所でもあった。

 城之内も昔は地域は違えど似たような雰囲気の場所を占領していた事があった為、そんな行動を取る輩の心理や行動パターンなどは熟知していた。今回の事も自らの経験から海馬が喧嘩をするに至った経緯を推し量ったに過ぎず、それに照らし合わせて今後どういう事になるかを想像し、今の行動に移っている。

 特に喧嘩好きで知られる角川の人間が、やられたらやられっ放しで済むという事はまずない。故に厄介な連中が病院行きになっている間に牽制をかけておこうと思ったのだ。……最も、それが功を奏すかは別の話だったが。

 コンクリートを弾く水飛沫で既に靴の中にまで水が染みわたり、びちゃびちゃと音がする。それを鬱陶しく思う余裕も今の城之内にはなく、その頭の中はじわじわと膨れ上がってきた海馬とやりあった相手への憤りで一杯だった。その怒りや苛立ちが表面にも表れて、かつての喧嘩一色だった頃の面影がくっきりと現われてしまった位に。

「城之内くん」
「あ?何?」
「顔が怖いよ。平常心平常心」
「わ、ヤベ。顔に出た?なんかもう段々ムカついて来て。全盛期に戻りそう、オレ。顔見た瞬間手が出そうだ」
「昔はそうだったの?」
「おう。っつーか喧嘩の時に話なんてしねぇもん。顔見たら即ぶん殴る。相手の口が利けなくなるまでボコボコにする。これ常識」
「……す、凄いね」
「今はそんな事しねぇよ?でも不良同士の喧嘩なんてそんなもんだ。……けど、今回は不良でもなんでもねぇ奴に手ぇ出しやがった。絶対に許さねぇ」

 そう言ってまるで牙を剥く様に口元を歪めた城之内の顔は、遊戯の知らない誰かの顔の様だった。余りにも凄みのあるその表情に彼はまともに目線を合わせる事が出来ず、心持ち体をも後ろにずらしてほんの僅かに距離を取った。城之内本人も「全盛期に戻りそう」と口にした事から、今まさにその状態にあるのだろう。

 触れるもの全てを破壊しそうな程の緊張と憤怒に塗れた気配。いつもの彼が惜しみなく振りまく、明るく屈託のない笑顔からは到底想像できない雰囲気に遊戯は心底圧倒されていた。

 『昔は大人でさえ手の付けられない札付きの不良だった』と言う当人及び本田の言葉を軽く受け止めていた遊戯だったが、実際こんな顔を目の当たりにするとそれは決して誇張でも何でもなかったという事を知る。それだけ、相手は城之内の事を怒らせてしまったのだ。

 この調子では暴力を振るわないで、という方が無理だろう。暴力を使わないのが無理なら、せめてこちらも相手も大怪我をするような事態だけは避けて欲しい。そう心の中で祈りながら、遊戯は些か早足で歩きだした城之内の後を駆け足でついて行った。

 やがて突然ぴたりと止まった彼の背中に衝突しそうになって寸での所で踏み止まる。眼前には大分朽ち果てた事務所のような建物があり、古ぼけて錆びついた扉は傾いて、完全に閉まっては居なかった。その扉を凝視して、城之内は遊戯に無言で傘を預ける。そして濡れそぼったそれを丁寧に畳む遊戯を振り返り、低い声でこう言った。

「ここだな。遊戯、お前はここで待ってろ。極力黙ってろよ。あと、ビビんな」
「わ、わかったよ」
「人の気配があんま感じられねぇから人数はいないって。じゃ、行くぜ」
「うん、気を付けて!」

 そう遊戯が口にして、城之内が一歩扉に近づいたその時瞬間、ガンっ!という派手な音と共にその扉は目の前から消えていた。同時に城之内の足が歩く為に地に戻されたのを見て、遊戯は彼が扉を蹴り開けたのだと言う事を知る。じょ、城之内くん、そう声をかけようとしたが、驚きに身が竦んで思う様に声が出ない。このままじゃ大参事だ。即座にそんな危機を感じた遊戯だったが、彼が再び城之内に声をかける前に、目の前の姿はもう室内へと消えていた。遠くで、微かな雷鳴が聞こえる。

「ちょっと邪魔するぜ。……ってこんだけかよ。頭は全部伸されちまったってか。なっさけねーの」
「?!てめ、城之内?!やっぱり来やがったか!」
「あら、お待ちかねだった?ダチに手ぇ出されてお礼に来なきゃ嘘でしょ?てめぇらオレに直接喧嘩吹っかけんならまだしも、周囲の人間にちょっかいかけるとかマジ頭イカれてんじゃねぇ?海馬に何しやがったんだ!」

 室内に入って早々その場にいた数人の少年が振り向く間もなく、城之内は傍にあった椅子を引き倒し、顔を斜に構えたままそう言った。思わずそれを凝視して固まってしまった角川校の制服を着た彼等は、余りに突然の恐ろしいまでの迫力を湛えた来訪者に怖気上がり、心持ち身を寄せつつ、けれども多少のプライドをかけて立ち上がり、同じ様に城之内を睨めつけた。

 彼等はガタイはいいものの些か迫力に欠ける所があり、それが城之内曰く下っ端の一年たる所以なのだろうが、それでも多少は名の通った集団だという自負があるのか、態度だけは偉く生意気だった。その中でも一番背の高い……これが現集団におけるボス的存在の少年なのか……が一歩前へ出て、まるで声量だけで相手を威嚇するが如く、声を張りあげる。

「しらねぇな。先輩のやった事だろ?オレ等には関係ねぇ」
「先輩のやった事はイコールテメーらの責任だっつーの、分かるよな?」
「分かんねーよ!っていうか、今朝の喧嘩はオレ等が先に手ぇ出したんじゃねぇぜ。海馬の奴が先に殴りかかって来たんだ!だから!」
「んな事は聞いてねーっての。あいつに手ぇ出させるような事言ったんだろ。何言ったんだよ。つか知ってんじゃねぇか」
「その場にいなくたって話位わかんだろ!」
「あ?てめぇのそのツラの傷新しいみてぇだけど?それでも知らねーってか?」
「………………」
「ざけんなよ!」
「うわっ!」

 少年が城之内と対峙している間、その背後にいた仲間達は、こっそりとそれぞれ武器の様なものを手元に引き寄せていた。それに当然気付いていた城之内は、間髪入れずにその場に合った錆びた消火器を彼らへと目がけて蹴り上げた。大分重量のある鉄の塊は、辛うじて避けた少年達の背後の壁に激突し、大きな亀裂と凹みを残してゴトリとその場に転がり落ちる。城之内の足の形に醜くひしゃげたそれは、彼等を威嚇するのには十分だった。

「テキトーな事言ってっと、お前等の顔も同じ様にしてやっからな。いいから言えよ。言わねぇんなら、言わせてやるぜ」
「………………」
「これでもオレ、大分譲歩してんだけど?」

 イライラと足元に転がった古い木製の机の足を踏み折って、城之内は尚も眦を吊り上げてそう声をあげる。これ以上沈黙を貫けば、今の台詞が現実のものとなるのは確実だった。その一部始終を扉の陰から眺めている遊戯は気が気ではない。

「城之内くん!」
「うるせぇ!」

 辛うじて呼ぶ事が出来たその名にも、彼は即座に振り払い、遊戯をも睨みつける。その眼差しは相手に向けるものとは迫力の質が異なっていたものの、どちらにしても完全にキレてしまった。こうなると、もう遊戯にはどうする事も出来ない。

「早く言えっつってんだよ!」

 無駄に広い室内に、城之内の声が木霊する。遊戯はその手が近間の金属に延びる前になんとか彼を引き止めようと、駆けだそうとしたその時だった。それまで、じっと無言の抗議をする様に口を開かなかった少年の一人が、小さくこう言ったのだ。
 

「先輩は、てめーが海馬の回りをうろちょろするのは金目当てだって、あいつにそう言ってやったんだよ!」
「何?」
「そしたらあいつ、最初はシカト決め込んでやがったのに、いきなり手を出して来やがって……!!」
 

 その先の言葉は激しい衝撃音に掻き消され、傍で聞いていた遊戯の耳には届かなかった。

 嫌な沈黙が場に満ちる。

 その余りにも重苦しく、張りつめたその空気を次に破ったのは、いつの間にか少年達の前で粉々に破壊された椅子の残骸が、床に散らばる音だった。
「……ほんっと馬鹿だなこいつ等。つーか海馬も馬鹿だ」
「じょ、城之内くん……大丈夫?」
「ん?あぁ、大丈夫大丈夫。つか、ごめん。オレがビビらせたな」
「そんなのはどうでもいいけど、血!血が出てる!」
「あー鉄パイプ掠ったから。こんなん大した事ねーよ」
「この人達は大丈夫かな……」
「オレにしてはすっげー手加減してやったから大丈夫だろ。ほっとけほっとけ」
「これで手加減……って」
「ちなみに海馬だって手加減してたんだぜ。左手っつってたし。まぁ基本的に右手は大事だから使わねーって言ってたけどな。奴が利き手でぶん殴ったら凄いぜ。絶対死ぬね」
「え?!だって相手の人救急車で運ばれたんでしょ?……なんかもう僕ついて行けない……」
「あはは。ついてこれる方がおかしーんだから気にすんな。しっかしあったまくんなぁ。もう一発蹴りいれてやんねーと気が済まねぇんだけど」
「も、もうやめてあげて。十分だから!」
「チッ」

 城之内と少年達が最後に言葉を交わしてから数分後、その場に立っている人間は城之内と遊戯だけになり、不明瞭な呻き声が雨音に交じって微かに耳に響くだけとなった。

 その一部始終を身を固くしてただ見る事だけしか出来なかった遊戯は、城之内が最後の一人を殴り飛ばし、肩で大きく息をついた所を見計らって飛び出して行き、それ以上の行動を阻止するべくひしとその体に抱きついて力を込めた。

 その瞬間漸く我に返ったらしい城之内はゆっくりと遊戯を振り向き、それまで見せていた牙剥き出しの空恐ろしい表情ではなく、いつものあっけらかんとした明るい顔に戻っていた。それに心底ほっと胸を撫で下ろしつつ、遊戯はポケットからハンカチを取り出して城之内の手に押し付けた。

 サンキュ、と言って彼の口元に押し当てられたそれは直ぐ様血と泥で汚れてしまった。洗って返すの言葉に別にいいと首を振る。

「それにしても、まさか海馬くんがそういう事で怒るなんて……」
「だからあいつも馬鹿だっつーんだよ。自分の事ならまだしもオレの悪口なんて言わせときゃいいんだ。別にどう思われたっていいんだしよ」
「でも、海馬くん的には君がそう思われるのが嫌だったんだよ」
「自分はあんだけ人の事馬鹿にしてるのにな。意味分かんねぇ。超くだらねーよ」
「自分で言うのと、人から言われるのでは違うでしょ。分かってる癖に」
「……うん」
「じゃ、早く行かなくちゃ。海馬くん逃げちゃうかもよ」
「……そーだな」
「傘貸そうか?」
「いらねぇ。お前もすぐ帰れよ。多分追いかけては来ないと思うけど、なるべく人通りの多いとこな」
「うん、大丈夫。いざとなったらもう一人の僕に代わって貰うから」
「そっか。じゃ、気を付けてな」
「城之内くんこそ、急ぎ過ぎて車に轢かれないようにね」
「ヤな事言うなよなぁ」

 最後に呆れた様に肩を竦めて口元に笑みを浮かべた城之内は、遊戯と共にその場から抜け出して元通りに扉を閉めてしまうと、未だ激しい雨が降り続く外へと駆け出した。

 本当は特に急ぐ必要など無く帰りも遊戯と一緒であっても何の問題も無かったのだが、事の真相を知ったからには一刻も早く海馬の元へと行きたかった。

 長く降り続く雨の所為で道路にはあちこちに水溜まりが出来、近くを通り抜ける車に派手に水をかけられたりしたのだが、元よりずぶ濡れになった所為で少しも気にする事はなく、彼はただひたすら走り続けた。途中にある歩道橋や信号機さえもどかしく、ほんの数秒のタイムロスがやけに大きく感じる。
 

『てめーが海馬の回りをうろちょろするのは金目当てだって、あいつにそう言ってやったんだよ!』

『そしたらあいつ、最初はシカト決め込んでやがったのに、いきなり手を出して来やがって』
 

 先程放たれた少年のその台詞が雨音に交じって耳奥に木霊する。何度思い返しても腹が立つ。その台詞を口にした相手にではない、そんな下らない言葉に挑発され、身体が資本の生活をしているにも関わらず怪我までしてやりあった海馬に対しての怒りだった。しかもそれを城之内に隠そうとした。何から何まで気に入らない。

 自分を庇ってくれた。彼なりに大切にしてくれているが故に罵られた事に対して激怒してくれた、それは勿論嬉しい事だし身に余る幸せだと思う。ただし、だからと言って喧嘩をしていいという法はない。一人か二人ならまだしも対集団とやり合うなんて馬鹿のする事だ。海馬の言葉を借りれば犬にも劣る行為だろう。

 もし先程の場に遊戯がいなければ、確実にもう一撃ずつお見舞いしてやったのに。そして病院行きになった奴らには後できっちり落とし前をつけてやるのだ、絶対に。二度と自分にも海馬にも手を出そうなんて気が起きない位に。

 ……あんな奴ら、いつもの様に鼻先であしらって、無視をすれば良かったのだ。常に口にしている「低能な人間とは口をきく気にもなれない」と言うその台詞を忠実に守っていれば良かったのだ。なのに……。

「あーもうっ!ほんっとに馬鹿野郎だぜ!」

 走りながら悶々とそんな事を考えていた城之内は、ついにそう声に出して叫んでしまう。すると、いつの間にか目的地へと辿り着いていたのか、あらぬ方からやけに聞きなれた声がした。

「……何をこんな所で喚いているのだ。城之内克也」
「うえっ?!あ、磯野!っつーかいつの間にかKC来てたんだ、オレ。すっげ」
「お前はその恰好で社内に入ろうと思ったのか?」
「あーうん。良く考えてなかったけど、マズイかな。雨の中来ちまって。つーか、海馬いる?」
「瀬人様なら確かに社内におられるが、何か用なのか?今日は誰も通すなと言われているが」
「あ、やっぱKCに逃げ込んでたか。まーあの顔じゃー人には会えねーよなぁ。……そういやお前は何があったか知ってんの?……知ってるよなぁ」
「まぁ、大体は。瀬人様にしては珍しい事だな。モクバ様にどう説明したものか悩んでいる所だ」
「そこなんだけど……奴の喧嘩の原因、オレなんだ。だからオレも一緒に海馬邸に帰った方がいいと思う。モクバに説明してやるよ」
「そうなのか?」
「うん。そーゆー訳だから海馬のとこに連れてって。お前が怒られない様にすっから」
「………………」

 まだ夕刻にも関わらず煌々とした明かりが煌くKCの玄関口で、奇妙な取り合わせの二人組は行き交う人々から奇異な視線を向けられつつ、暫しその場に立ち尽くしていた。口の端を僅かに腫らし全身ずぶ濡れの様相で、それでも至極真面目な顔でそう言い募る城之内に、磯野は暫し逡巡した後、仕方なくと言った風に肩を竦めてくるりと彼に背を向ける。そして小さくこう言った。

「仕方ない、瀬人様に会わせてやる。しかしその恰好では目立つ故、地下から行くぞ」
「サンキュー。恩に着るぜ」
「……それにしても瀬人様が他人の為に喧嘩とは……あの方もすっかり変られたようだ」
「だろうね。……ごめん」
「いや、私は好ましいと思う」
「えっ?!」
「今のはオフレコで頼む」
「……あーうん。つーか意外」
「あの方とてまだお前と同じ年だぞ。そういう面があってもいいだろう?」
「そう言われてみればそうだよなーでもお前が怒らなくて良かったー皆に白い目で見られたらオレ海馬邸の敷居跨げないじゃん」
「瀬人様が好んで傍に置かれるのだ。我々が異を唱える事が出来る訳があるまい」
「……そっかぁ」
「ただし、余り無茶な事はさせてくれるな」
「うん、分かってる。反省してます」

 ごめんなさい。そう言ってぺこりと小さく頭を下げる城之内を肩越しに振り返り、磯野は小さく笑って「分かればいい」と呟いた。

 二人分の足音が広い空間に木霊する。

 遠くでは、未だ大きく雨の音が響いていた。
 いつも正面から案内されて辿り着く時は簡単な気がした社長室への道のりも、今は酷く遠い様に感じられた。

 それすらも知らなかった地下の入口から社内へと入り込んだらしい磯野の後を続きながら、城之内は上ったり下りたりを繰り返し進んでいるのかはたまた後退しているのかすら分からずに、最後には迷路のような場所をぐるぐると回っている様な気さえした。

 彼は本当に自分を海馬のいる場所まで案内する気があるのだろうか?ほんの僅かに抱いてしまったその疑問を口にする前に、前方から声が聞こえる。

「この道は緊急用の脱出通路だからな。一度見た位では決して覚えられないようになっている。まぁ、時たま通路自体が形を変える故、覚える事すら無意味だがな」
「はぁ?!なんだそりゃ、厳重すぎるだろ。つか、お前は覚えてるの?」
「我々は……まぁごく一部の人間だが、それが分かる様になっているが、本当の意味で記憶しているのは瀬人様だけだ」
「……映画かよ」
「そうだな。一般人には映画の様に思えるだろうな。だが、それがあの方の『日常』だ。いつ何時、何があってもいい様にと万全の備えを期している」
「………………」
「基本的な生活が『こう』だろう?だから変わられた、と言ったのだ」
「……うん」

 映画みたいだ。もう一度そう心の中で繰り返す。

 貧相なボキャブラリーではこの不可思議な話をそうとしか表現できない。目の前で語る男の、全ての言葉が映画の中の話みたいだと城之内は思う。

 一般人から見た非現実が海馬にとっては現実で、自分にとっての現実が彼には非現実なものなのだろうか。毎日特に何も考える事無く学校に通い、生活の為にバイトに精を出し、時たま気に食わない奴と喧嘩をする。そのどれをとっても確かに彼の『日常』には当てはまらない。

 そんな日々の中で城之内という人間によって突然に訪れた、海馬にとっての『非現実』の連続を、彼はどう受け止めたのだろう。最初は鬱陶しいと嫌がられた。生きる世界が違うと拒絶された。それでも城之内は食い下がり、少しずつ彼の『日々』に潜り込んで侵食していったのだ。

 時折、本当にこれでいいのかと思う時も少なからずあったが、海馬が以前よりも明確に拒否の態度を示さなくなった為、こちらも遠慮は無くなった。だが、やはり心のどこかで後ろめたい気持ちもあった。本当は迷惑なのかもしれない、と思う時もあったのだ。

 けれど。

「この扉だ。見覚えがないかもしれんが、社長室へと繋がっている」
「えっ?」
「覚悟はいいか?」
「ちょ、怖い事言うなよ。大丈夫だって」
「そうかな。私は覚悟をしているがな」
「……巻き添え食らわせてごめんって」
「まぁいい。では、行くぞ」

 歩き回っている内にいつの間にか目的地に辿り着いたのか、足を止めた磯野が軽く城之内を振り返り、眼前に立塞がる扉を指差してそう口を開く。それはほぼ全ての出入り口が自動ドアの様式をとっている社内では珍しい、普通の取っ手付きの扉だった。ただし、厳重そうなデジタルロック付きではあったが

 この向こうにあの馬鹿がいるのか、家に帰れなくて会社で仕事とか本当にアホじゃねぇの。そう思うと再び沸々とした怒りが込み上げてくる。ヤバイ、このままで中に入った途端怒鳴り込んでしまいそうだ。そう思い、何度か深呼吸を繰り返した城之内は、堅く拳を握り締めたまま頷いた。それを見た磯野は手早く解除ナンバーを入力し、マイクの様なものに顔を近づけて声をあげる。

「瀬人様、磯野です」

 入れ、という声は聞こえなかった。が、磯野が頷き取っ手に手をかけ重々しく押しつけると、扉は簡単に内側に開かれた。その瞬間前にいたその体を押しのけて、城之内はまるで飛び込む様に中に入る。

「おい海馬!」
「……!凡骨?!磯野貴様ッ!今日は誰も通すなと言っておいた筈だ!」
「すみません瀬人様、これには訳が……」
「磯野は悪くねーよ。オレが無理言って頼んだんだ。お前にちょっと話があるんだけど」
「オレはない!磯野、こいつを摘みだせ!」
「あ、ごめん、磯野。もうここはいいから出てっていいぜ」
「はい、それでは」
「貴様何を勝手な事を言っている!というか待て磯野ッ!!」

 城之内が顔を出した瞬間、案の定火のついた様に怒鳴りだした海馬を無視する形で、城之内は磯野に素早く目配せし退出を促した。すると彼の方も事前の打ち合わせの通り、とばっちりを食わない内にと早々に退出してしまう。

 その様を見て更に怒りを募らせる海馬を逆にきつく睨みつけて、城之内は無言のまま彼との距離を縮めるべく、ずかずかと部屋の奥へ入って行く。二人の距離が大分近くになった所で、どことなく逃げ腰で不満を露にその様を見つめていた海馬が先に僅かな声を上げた。

「凡骨、貴様なんだその顔は」
「お前に言われたかないね。お前こそ喧嘩の理由言わなかったじゃん」
「………………」
「だからオレ、さっき奴等のとこに行って来たんだ」
「!!……何故」
「何故だぁ?お前が理由言いそうにねぇから、相手に聞いた方が早いと思ったからだよ。そしたらまぁ、くっだらない。お前、ほんとに馬鹿じゃねぇの?!あんまりムカついたからオレもひと暴れして来ちゃった」
「それでその顔か」
「かすり傷だし。こんなん怪我のうちに入んねーよ。つかそんな事より、オレめちゃくちゃ腹立ててんだけど、分かる?」
「……分からん」
「嘘吐け。分かるからお前も言わなかったんだろうが。オレが腹立てるって分かっててどうして手なんか出したんだよ?あんな馬鹿の言う事真面目に受け取ってキレるとかお前の方こそ大馬鹿だろ?!」
「馬鹿の分際で人を馬鹿呼ばわりするな」
「馬鹿を馬鹿と言って何が悪ぃんだよ。ったく学校には迷惑かける、仕事には支障をきたす、モクバには言い訳に困る。どうすんだよこれ?」
「うるさい」
「うるさいじゃねぇ!」

 言葉を交わしながらじりじりと距離を縮めて行った城之内は、ついぞ海馬が座るデスクの前へと歩み寄ると、両手を思い切り机の上に叩きつけてそう怒鳴った。ガン、という大きな衝撃音と共に、その上にあったペン立てや既に空になっていた珈琲カップが一瞬宙に浮き、そして倒れた。ザラザラと耳障りな音を立ててぶちまけられたペンやカッターが頭上の光を反射して鈍く光る。

 そんな惨事を引き起こした城之内は、その勢いのまま海馬を睨めつけると思いきや、深く項垂れた。ただし、それは脱力した動きではなく、相変わらず肩には強い力が入り、微かに腕が震えていた。

「………………」

 ずぶ濡れになった金髪の先からポタポタと滴がこぼれ落ち、硝子が張られた表面に小さな水溜りを作っていく。その頭がやけにゆっくりと持ちあがった。さしもの海馬もこれまでの城之内の迫力に圧倒され、机を叩かれた時点で一瞬身を竦め、目を瞠っていた。次は殴られる、留まりそうにもない相手の勢いに咄嗟にそう思い身を引こうとしたが、それより先に向けられた視線と紡がれた小さな声に、彼は別の意味で驚愕した。

「……ごめん。元はと言えばオレの所為だよな。本当にごめん」
「……は?」
「オレなんかと付き合わなきゃこんな事にはなんなかったのに。お前、やっぱ馬鹿だわ」

 極限まで力を込めていた両手の力を徐々に抜きながら、一度上げた視線を再び下げて、城之内はそう言った。その声に、数秒前までの迫力など欠片もなく、妙にしおたれたその態度に海馬は訳が分からずに僅かに首を傾ける。

 一体何を言っているのだこいつは、怒ったり謝ったり、訳が分からん。

 そんな気持ちを表情として素直に表した海馬は、どのような態度を取ればいいのか分からずに一瞬惑うと、とりあえず台詞の意図を汲み取ろうと、些か遠慮がちに口を開く。

「……今更何を言っている。殴られて頭がおかしくなったのか?」
「オレ、今回の事にめちゃくちゃ腹を立てたけど、それ以上にすげー嬉しかったんだぜ?オレの悪口言われて怒るなんて、大事にされてるなーってさ」
「勝手に話を作るな。貴様の所為でも為でもないと言っているだろうが」
「じゃあなんで手を出したんだよ。自分の事なんか何言われたって眉一つ動かさない癖に。喧嘩は馬鹿のする事だって、普段からめっちゃ毛嫌いしてた癖に」
「それは……だからたまたま苛々していただけで」
「お前の短気とヒステリーは24時間営業だろうが。『たまたま』なんてある訳ないだろ」
「だから!」
「いーからもう黙れ。嬉しいけどムカつくから。全部分かってるから」
「………………」
「ありがとな」
「……礼を言われる筋合いなどないわ!」
「オレが言いたいだけなんだから言わせろよ」
「………………」

 城之内の猛攻にすっかり口答えをする気力を奪われ酷くぶすくれた顔で黙り込んでしまった海馬に、はぁっ、と深く大きな溜息を一つ吐いて、城之内はいつの間にか大分近い距離にあった目の前の顔に手を伸ばし、少し腫れている頬には触れずに、代わりに柔らかな髪に手を差し入れた。そして緩やかに撫でつける。

 全く、本当に馬鹿だよな。何度も繰り返した台詞をまた呟きながら、感謝と慈しみの気持ちを表す様に幾度も幾度も繰り返した。

 本当はここでキスの一つでもしてやりたいと思ったが、どちらも口の端を腫らしている為それも叶わず、抱き締めるにも海馬の怪我が災いして思うように行かなかった。仕方なく、栗色の髪に唇を寄せる事で普通のキスの変わりをすると、未だ取れない不機嫌顔を見返して、城之内は小さく笑った。

「今後は絶対こういう事すんなよ。今度したら『オレが』ぶん殴ってやるからな。お前がオレの事を他人にどうこう言われたりすんのが嫌なのと同じで、オレもこういうの嫌なんだ。自分がされるのよりももっと嫌だ」
「ふん、貴様に命令される謂れはない」
「じゃーお願いでもいいから。そうじゃないとオレ、今までの十倍気ぃ使わないといけなくなるだろ」
「一番は貴様が喧嘩を止めればいいのだ」
「それはそうなんだけどー派手にやらかした癖に良く言うよ」

 10人とかどういう事だよ。お前もう社長やめてSPになれ。そんな事を言いながら肩を竦めた城之内の顔は、もうすっかり元の表情に戻っていた。我ながら単純だよな、そう小さく呟くと、濡れた髪をかきあげて脱力する。

「……短気は損気って良く言ったもんだよなー」
「馬鹿の癖に良く知っていたな」
「良く痛感するんで。お前もそうだろ?」
「今日はまさにそうだったな」
「反省しろ」
「貴様もな」
「痛い思いをするのは自分だしな」

 最後にそう言って笑い合い、二人は互いに呆れたように肩を竦めると、とりあえずモクバにどう申し開きをしたらいいかと言う事に話題の矛先を変えてしまう。

 数時間後、海馬邸に帰宅した彼等は予測通り、モクバに徹底的に叱られる事になるのだが、それでもその顔から笑みが絶える事は無かったと言う。
 

 ── この苛々は全て、貴方の為。