Please say I love you.

「……っ、ぐえっ!」

 突然腹部に激痛が走り、城之内は暗闇の中寝ていたその場からかなり思い切り突き飛ばされる。 爆睡していて脱力しきった身体は、その衝撃で柔らかなシーツの上を転がって、敢え無く下へと落下した。下、と言ってもその距離は存外遠い。

 何せ今時テレビの特集か高級ホテルのロイヤルスウィートでしかお目に掛れない様な豪奢な天蓋付きの巨大ベッドだ。思い切り飛び乗ると、まるでトランポリンの様に飛び跳ねてしまうスプリングの利き過ぎた分厚いマットレスの所為で、偉く高くなってしまった位置から落ちれば、それなりの衝撃を受ける。

 ドン、と鈍い音が響き、背中にも痛みが走り、思わず呻き声を上げてしまう。喧嘩の時でもこんな痛みは早々無いと思いつつ、城之内は痛む箇所を擦りながらゆっくりと身を起こした。ふわりと纏わりつく、落下の衝撃で巻き込んでしまった薄いブランケットの温かな感触が余計に悲しい。

「いってぇ……ったく!」

 床に座り込んだ姿勢のまま、ずるずると身体を引き摺る様に移動して、手探りでベッドの前方にある小さなスイッチに触れる。瞬間カチリと微かな音が響き、分厚い遮光カーテンのお陰で僅かな光も見えなかった室内が、淡いオレンジ色に染まった。その刹那、城之内の視界に飛び込んで来たのは今にも下に落ちそうになっている細長い身体。既に手足は大分はみ出していて、後数センチ動けばシチュエーション的には違えど城之内の二の舞だ。

 その身体の持ち主であり、この部屋の主でもあるその男の名前は海馬瀬人。更に説明を加えるなら城之内の恋人でもある。尤も、『恋人』だと思っているのは城之内のみであって、当の本人はそれを匂わす言葉すら口にした事はなかったが。

 ともあれ、こうして共寝をする仲なのには間違いない。
 ちなみに、今現在どちらも全裸である。

「………………」

 城之内の口から、魂までも抜けてしまいそうな程の盛大な溜息が零れ落ちる。この衝撃も光景も既に慣れたものだったが、だからと言って痛くない訳でも、疲れない訳でも無い。

 あーあ。自然と漏れ出てしまう声はそのままに彼はベッドの淵に手をかけつつ立ち上がり、その今にも落ちそうになっている身体に手を伸ばした。そしてまるで抱きあげる様に首筋と膝裏に手を入れて、自分の身体ごとベッドの奥へと押し戻す。

 んん、と小さな声が漏れて、秀麗な顔が微かに歪んだ。

(その顔をしたいのはオレの方だっての……)

 そう心の中で呟いて、城之内はふと思い付いた様に眼前にあるすらりと伸びた長い足と、その前にある己の腹部を交互に見た。城之内の身体をこの広大なベッドの端まで蹴り飛ばし、落下せしめたのはこの足だ。そして悲惨な事にそれは足だけに留まらず、寝ている海馬の全身は漏れなくかなりの威力を持った凶器だった。

 それにしても今日のはかなりのクリーンヒットだった。絶対後で痣になる。現に鍛えられたそこは未だにズキズキと鈍い痛みを発していて、癒す様に撫でても一向に収まる気配がない。こんな形をして力だけは馬鹿みたいに強いとか詐欺だろ絶対。つーか寝てる時まで大暴れたぁどういうこった。二十四時間の内五時間位は大人しくなれよ一体何だお前は。

 ……そう声に出して呪った所で肝心の相手には届かない。

 はあ、と再び溜息を吐いて床に落ちたブランケットを拾いあげる。その傍に同じ様に落ちている二人分のバスローブも拾おうとして、濡れたタオル地の感触に再びその場に放り出した。

 今更着ても着無くても一緒だ。特に至極安らかな顔で眠りに就いている海馬には。

 ちらりと見上げた置時計は既に二時を大きく過ぎていた。時間など気にしていなかったが、海馬と共にこの部屋に入ったのが日付が変わる直前で、いつもの通りの時間をかけて戯れていたとすれば、一時間も寝ていない。後二時間も経たない内に城之内の今日は始まる。

 新聞配達に始まって、合間に学生をやり、ゲームセンターの店員で終わる忙しい一日が。

「結局今日も二時間睡眠かー……辛ぇ」

 ここ最近はずっとこんな調子だった。バイトに明け暮れ、学業にも精を出すものの結果が得られず放課後を尽く潰されながら、合間を見て足繁く恋人の元へ通っていた。それは城之内が会いたいから、と言うのが主な理由だったが、それ以上に深刻な不安を抱えていたからだ。

 一方的な愛の告白から始まって、殆ど粘り勝ちした様なものだから、その関係は不安定極まりない。故に城之内は自由な時間を全て恋に注ぎ込んだ。もう少し気持ちが落ち着くまで、もう少し、海馬がオレの事を認めてくれるまでは、と。

 告白からキスまでは一ヶ月。それから約半年の時間を経て今の地位を強引に勝ち取った。最初は事が終わると直ぐに出て行け帰れと追い出されたものだが、漸く朝まで共に居る事が出来る様になった。同時にこの寝相の一件も含めまた別の問題も浮上したが、それはそれだ。とりあえず、順調に事は進んでいる。

 あくまで表面的には、順調に。

 ゆるりと、いつまた凶器に変わるか知れない身体を抱き締める。何度殴られても、蹴飛ばされても、城之内はこの身体を抱き締める事が好きだった。それまでいい加減な人生を送って来た自分が本気で欲しいと強く願い、手に入れたモノだった。例え全身傷だらけになろうとも、そう簡単には手放せない。

「好きだ」

 乱れた髪の合間に見える白い耳元に唇を寄せてそう呟く。それが何かの合図になったかの様に、衝撃や痛みで思い切り冴えていた意識が徐々に霞みがかって来る。互いの心音が何時しか一つのリズムになり、安らかな眠りが訪れる。

 尤も、何時まで続くかは分からないけれど。
 

 ── お前がオレをそれほど好きじゃなくても、オレはお前が大好きだ。だから、付き合って欲しい。

 ── 駄目って言われても困るんだけどさ。ほら、オレ諦め悪いじゃん?

 ── 恋人がアレならペットでもいいからさ、な、お願い。
 

 眠りの淵に、自分の情けない台詞が聞こえて来る。

 結局どの言葉にも海馬は首を縦に振る事はなかったが、こうして傍に居られるだけで幸せな事なのだろう。けれど一度位自分の気持ちを聞かせて欲しい。『好き』などという大それた言葉など臨んではいない。 ただどう思うのか、それだけが知りたかった。しかし、それすらも彼に対しては大き過ぎる願いなのかもしれない。

「おやすみ」

 とっくに寝入っている相手にそんな事を言うのも何だかおかしいと思いながらも、城之内は律儀にもそう口にして今度こそきつく瞳を閉じて顔を伏せた。
 

 腕の中の身体が窮屈そうに身動いでも、意識のある内は手放そうとはしなかった。
「お前って本物のマゾだよな。なんだその隈!そしてその痣!何プレイだよ」
「あぁ?!」
「あぁ?!じゃねぇっての。すげーぞそれ。いい加減にしないとそろそろ死ぬぞ?」
「こんなんで死ぬかよ、馬鹿」
「いや、マジな話。日々過酷な労働と苦手な学業でこれでもかって程身体と頭酷使してんのに、海馬のトコ行って癒されるどころかトドメ刺されてどうするよ。オチオチ寝てらんねぇとかないだろ普通。つーかありえねぇ!」
「うるせぇなぁ、ほっとけよ!」
「オレぁダチだから言ってんだぜ、城之内。未だ好きの一つも言われてねーんだろ?そんな不毛な恋やめちまえ。ま、ヤらしてくれるっつーんならヤっときゃいいけどよ」
「おい、それ以上言ったらマジで殴るぞ」
「勿論それは冗談だけどよ。心配してんのは本当だ。恋愛なんてよ、身を削ってまでするもんじゃねぇって言ってんの」
「リボンちゃん一つ口説き落とせない野郎に言われたかないね」
「お!言うねぇ、城之内くん。一つ、本日のサッカーでケリを付けさせて頂きましょうか?」
「遠慮するぜ。余計な体力を消耗したくないんでね」
「今日のご予定は?」
「いつものコース」
「またかよ!死ぬって!」
「死んだら考える」

 いやそれじゃ意味ねぇだろ!肩越しにそう叫ぶ本田の声を聞きながら、城之内は着かけた体操着代わりのTシャツを勢い良く頭から被って顔を上げた。その動きが存外激しかった所為か、視界が少し回って見える。

 胸元で捲れたシャツの下には予想通り例の衝撃が痣となってくっきりと残っていた。肩に付けられた爪痕よりもまだ明確なその痕跡に知らず目を細めて天を仰ぐ。

 三日前のあの日は、結局言葉を交わす事無く別れてしまった。それは勿論意図的にそうした訳ではなく、城之内のスケジュールの所為だったのだが、それでも僅かに寂しさを覚える。直接会って言葉を交わす以外メールも電話も何もなかった。したとしても、沈黙する相手に何を話したらいいのか分からず行き詰ってしまい、苦い気持ちを抱いたまま切るのが常だった。当然海馬からかけて来る事は無い。

 不毛な恋。分かってはいる。けれど止められないのだ。
 好きなのは自分。求めているのは自分。全て自分の独りよがりなのだから。

「城之内くん、早く行こう!」
「アンタ達何じゃれついてるのよ!もうチャイム鳴ってるわよ!」
「ヘイヘイ。まーお手々繋いで仲睦まじい事で。羨ましいなぁ、城之内?」  

 ニヤニヤとワザとらしい笑みを見せながら肩を組んでくる本田に釣られる様に視界を前方に向けると、確かにそこには羨ましいと思える光景が広がっていた。

 仲良く手を繋ぐ遊戯と杏子。既に周囲に恋人同士だと認識されている彼等は本当に幸せそうに顔を突き合わせて何やらこそこそと話をしている。そして先に行くとの言葉を残して早々に扉の向こうに消えてしまった。廊下に響き渡る軽い足音さえもリズミカルで楽し気に耳に届く。

「アレが恋人同士ってモンだろ、普通。お前のはそうは見えねぇんだよ。だから心配してる訳。OK?」

 ぐいと強く腕を引きながら分かった風な口をきく本田に、城之内は何か反論してやろうと口を開いて直ぐに閉ざした。

 何もかもコイツの言う通りだ。オレが求めているのはああいう関係。ベタベタ甘いという訳じゃないけれど、一緒に居て楽しいとか、幸せになれるような……そんな二人になれたらいいと思っていた。否、今も思っている。

 本田の腕がさらりと解かれ、盛大な靴音と共に離れて行く。早くしねーと置いてっちまうぞ!教室中に響く声に口の形だけで「おう」と答えた城之内は殆ど諦める様に首を振って、後を追って足を一歩踏み出した、その刹那。

 ……くらりと視界が揺れて足が縺れる。あ、ヤバい、と手近な所に捕まろうと伸ばした手は整然と置かれた机に掛り、傾いだ身体はガタリと音を立ててその場に崩れた。思わず目を閉じるとぐるぐると回る様な視界が消え、感覚だけが残る気がする。

 寝不足と過労、誰に言われるまでもなく自分が一番分かっていた。分かっていたけれど、改善する気がなかった。ただそれだけの話だ。

 気持ちが悪い、吐き気がする。

 誰もいない教室ではそんな小さな呟きなどカーテンの隙間から吹き込む風に紛れて消えてしまう。仕方なくその場に膝を着き、大きく息を吸い込んで吐き気に耐える。この衝動が落ち着いたら保健室にでも世話になろう。少し寝れば直ぐに治る。そして今日もあいつの所に行ける、大丈夫。

 そう思い本格的にそこに腰を落ち着け様としたその時だった。

「貴様、何をやっている」

 不意に思いがけない声が頭上から落ちて来て、目の前に青い何かが映り込む。それが遅れて教室にやって来た海馬の制服だという事に城之内が気付くのに、優に数十秒を要してしまった。海馬、そう唇が言葉を紡ぐ前に何かがパチンと弾ける音がする。

「気分でも悪いのか、犬。……おい、城之内!」

 焦った様な声が響くのと、城之内の意識が途切れるのはほぼ同時だった。全ての感覚が閉ざされる寸前、聞こえた『城之内』の声に、そう言えば初めて名前を呼んで貰ったのだと、そんなどうでもいい事に気が付いてしまう。

 けれど、その瞬間は酷く幸せだった。

 たった一度の奇跡でも。
 遠くで、人の声がする。少し高い女性の声と、何処か聞き慣れた低い声。何を話しているのか距離が少し遠過ぎてここまでは届かない。けれど、笑いが含まれていたからそんなに悪い事では無いのだろう。さらりと頬に触れる清潔なシーツ、少しごわついているけれど、決して不快では無いかけ布団の感触。

 あれ、オレどうして寝てるんだっけ?ここはどこだ?そんな些細な疑問にさえ答えをすぐに出す事は出来ず、もどかしい思いを抱えて身動ぎをする。すると、なんの前触れもなく額に冷たい指が触れた。細くて柔らかな、でもそれなりに骨ばった、知っている指だった。

 そう思った瞬間、閉じていた視界が一気に開け、白一色の部屋が目に入る。同時に慌てて身を起こそうとすると、それまで優しく触れていた筈だったその指が、そのまま力任せに額を抑え込み、それを阻止した。そして、強引に割り込んで来たのは、未だこの場に居る事が余り信じられない海馬の顔。

「………………っ!」
「なんだ凡骨、目が覚めたのか?」
「海馬っ!ちょ、ま、……えぇ?!」
「寝不足と極度の疲労だそうだ。頑丈な貴様にしては珍しい事だな」
「あ、やっぱり……って!そうじゃなくて!なんでお前がここにいるんだよ?!学校の保健室だろ、ここ!」
「そうだが、何か?」
「いや何かって!」
「時間が空いたので授業を受けに来たのだ。体育の授業だと知っていればもう少し遅く登校したのだが……まあいい。満更無駄でもなかったしな。まさか教室内で行き倒れを発見するとは思わなかったぞ」
「……お前がオレをここに?」
「他に誰がいる」
「そ、そうだよな。サンキュ」
「養護教諭は今しがた出て行った。寝ていれば治ると言ってな」
「だろうね」
「分かっているのなら寝ていろ」

 城之内の額を抑えたままそんな言葉を口にした海馬は、相手に起き上がる意思がない事を見極めると、ゆるりと指を外し姿勢を正した。

 そして近くにあったスチールキャビネットに置いていたらしいパソコンを膝に乗せて弄り始める。彼に立ち去る意思は無い様だった。今が何時か分からないが、体育の授業は確か二時限だったから、残りの授業を受ける事は十分に可能な筈なのに。

 グラウンドから聞こえて来る生徒の声やホイッスルと、傍で繰り返されるリズミカルなタッチ音。この二つの音だけが響く静かな保健室に二人きり。なにやら妙な光景だった。嬉しいけれど、少しだけ息苦しい。

「………………」

 城之内は目線だけを動かして隣にいる海馬を見る。どうして、今日に限って学校に来たのだろう。オレを助けてくれたのだろう。ここに居てくれるのだろう。何も、話さないのだろう。そして……オレを好きと言ってくれないのだろう。

 どんどんと横道に逸れる思考におかしいとは思いつつ、それでもこんなになるまで放っておいた身体と同じ様に止める事も出来ず、ただ黙ってそればかりを考える。

 お前が好きだ。恋人になりたい、手を繋ぎたい、抱き締めたい、抱き合いたい。全部叶っている筈なのに何処か遠いこの現状を改善したい。何を考えているのか、それが知りたい。

── お前は今、何を考えてる?

「なぁ、海馬」

 黙っている事など到底出来ず、思わず声を出してしまう。同時にゆるりと身体を起こした。視線が遠い、ただそれだけの理由で、未だ少しぐらつく身体をなんとか支えながら、パイプベッドの柵を背に上半身を固定する。

 どうせ答えてなどくれないだろう、分かっている。

── けれど、オレは。

「何だ?」
「オレさ、お前に聞きたい事があるんだ」
「奇遇だな。オレも貴様に聞きたい事がある」
「……え?何?」
「貴様から先に言え」
「や、お前から先に言えよ」
「オレは後でいい」
「オ、オレだって後でいいよ」
「いいから先に言え。大した事では無い」
「オレも大した事じゃ……」
「こういう場合は言い出した方が先に言うのが礼儀だろう」
「れ、礼儀?!」
「そうだ」
「……う。じゃ、じゃあ言うけど。またかって呆れたり、下らないって言い捨てたりすんなよ」
「面倒な男だな。内容を聞かなければ返事のしようがないだろうが」
「面倒って言うな!余計言い辛くなっただろ!」
「いいからさっさと言え」

 パタン、と小さな音がして、海馬が膝の上のパソコンを閉ざし、キャビネットに戻す。その動作に僅かな驚愕を覚えつつ、城之内は軽い深呼吸をした後、真っ直ぐにいつの間にか降りて来た青い目を見返した。こんな風に互いをきちんと見つめたのは告白した時以来だ。そんな事を思いながら、ゆっくりと口を開く。

「オレ、お前の事が好きだ。本当に好きなんだ」
「知っている。今更なんだ」
「本当に分かってんのか?マジなんだぞオレは」
「だから知っていると言っている」
「……うん、じゃあそれはいいとして。お前は?」
「何?」
「お前は、オレの事をどう思ってる?この関係をどう思ってる?」
「どう……って」
「今まで言わなかったけど……オレ、こう見えて結構不安に思ってんだ。お前、本当はオレと付き合うの嫌なんじゃないかとか、ただ面倒だから相手してるだけなんじゃないかとか」
「………………」
「そう思ってるのならそれで別にいい。や、良くはねぇけどそれを頭に入れて付き合うから……んでも、そうじゃねぇのなら。少しでも……オレの事が好きだって言うのなら、一回でいいから言葉にして言って欲しいんだ」
「……言葉で?」
「ああ、言葉で。一度もそういう事口にした事ねぇだろ、お前。オレが言いたかったのは、そういう事」

 そう最後まで言い切って、城之内は渇きかけた口内を潤す為に口を閉ざし、僅かに滲んだ唾液を飲み込んだ。そんな些細な音ですら拾える程に、声の消えた室内には静寂が訪れている。

 今の話を海馬はどう受け取ったのだろう。女々しい男の戯言だと内心鼻であしらっているだろうか。それとも少し位は受け止めて考えてくれているのだろうか。どちらにしても城之内にはその心の中は分からない。 変わらずじっと見つめているその顔には、感情など欠片程も現れていないからだ。

(何でもいいから答えをくれ)

 同じだけとは言わない。ほんの少しの好意でもいい。それだけでこの揺れる心は、少し疲弊した身体は直ぐに力を取り戻すから。

 長い沈黙がその場に満ちる。それになんだか居たたまれない気分になり、城之内は知らず目線を海馬から外し、少しだけ脇に反らせた。生ぬるい晩夏の風が二人の間を静かに吹き抜けて行く。まるで祈る様に頭さえも下げてしまった城之内を、相変わらず無表情で見詰めながら、問われた海馬は彼に気付かれない様にそっと小さな息を吐く。

 そして、城之内が望むものとは全く見当違いの台詞を口にした。

「……オレも、話をしていいか?今度はオレの番だ」
「……え?!ちょっと待てよ!答えは?まだお前の答え聞いてねぇんだけど!」
「それは後だ」
「はぁ?!」
「いいから聞け、城之内」

 ぴしゃりと、まるで言葉が物理的な力を持つかのように軽く城之内の口を塞いでしまった海馬は、そう口にしたにも関わらず暫しの間何かを思案している様だった。時折もの言いたげに口の端が動くのを、城之内が少しもどかしく思う様になった時、彼は余りにも予想外の言葉を口にした。

「貴様のこのザマは、オレの所為か?」
「……はい?」
「だから、貴様が教室で行き倒れる事になったのはオレの所為かと聞いている」
「……えっと、意味が良く分からねぇんだけど。それってどういう……?」

 鼻の頭に皺を寄せて、城之内が首を捻る。

 海馬の言いたい事が分らない。自分の問いに対する答えを後回しにするのと、唐突に持ち出して来たその話にどういう関係があるのだろうか。否、関係など無いかもしれない。海馬の思考回路は、城之内には到底計り知れないものだからだ。

「確かに、貴様は最近疲弊している様だった。表情に覇気が無かったしな」
「え?」
「それに、オレと眠ると良くは眠れないだろう?何度か起きていたのを知っている。知っていると言っても、その時々では無く翌朝の痕跡を見てだがな」
「こんせ……ちょ!」

 そう言うと海馬は、何の前触れもなく城之内の身体へと手を伸ばし、彼が着ていたTシャツを勢い良く捲り上げた。そして件の痣を光の元に晒してふん、と小さく鼻を鳴らす。

「……こ、これはその……あ、あの。えぇと……海馬のエッチ!」
「何を言っている。オレとてそこまで間抜けでは無い。自分の癖だ。自分が一番良く分かっている」
「わ、分かってるって。寝相の事?」
「……何故オレのベッドがキングサイズのダブルベッドか、考えた事は無かったのか?」
「金持ちって言うのは皆そういうもんだと思ってたから、特には……」
「ではオレが共寝を頑なに拒否していた理由は?なんだと思っていたのだ」
「……そ、それこそ、オレと寝るのが嫌なのかなぁって……だからオレ、お前がオレを追い出さなくなって凄く嬉しかったんだぜ。けどお前は相変わらず何も言わねぇし、態度は前と全然変わらないし……。だからなんか不安になって、足繁く通ってたんだけど」
「………………」
「いや、黙るなよ」
「………………」
「黙るなって」
「………………」
「何か言えよ。そりゃまぁ、ぶっちゃけお前の寝相すっごいし?安眠出来るかっつーとそうじゃないけど。でもやっぱ一緒に居たかったんだ。睡眠不足になっちまったのはマズかったけど、それはオレの体調管理の問題だし……だから、さ」

 とりあえず、何か言って?

 すっかり押し黙ってしまった相手を宥める様に、わざとらしく顔を覗き込んでそう声をかける。相変わらずの鉄面皮に表情はない。しかし、どこか気まずそうに視線を返してくるその瞳には、はっきりとした感情が滲んでいた。

「……馬鹿が」

 ややあって、ぽつりと独り言の様に呟かれたその言葉は、城之内の心に強く響いた。 そして、その後に続くやや長めの台詞に、全ての揺れも不安も一瞬に掻き消される事になる。

 いいタイミングで養護教諭が入って来なければ、そのまま押し倒してやりたいと思う程に。
「今日はこのままお前ん家に帰ろうぜ。会社、行かねぇんだろ」
「貴様は何を言っている。駄目に決まってるだろう。とっとと家に帰って大人しく寝ていろ。バイトも当分回数を減らせ。身体が資本の仕事をしている癖に、それにガタが来ているとは情けないにも程がある」
「えーでもよー家に居たって結局親父帰ってくるしー機嫌悪いと酒飲んで絡んで来るから休めねぇよ。だったら完全看護の海馬邸に居た方が良くね?」
「完全看護?誰が貴様の看護をするのだ」
「え?お前」
「寝言は寝て言え。誰がするか」
「あ、そういう事言うんだ?海馬くんってば薄情者。オレが一体誰の所為でこんなに痩せ衰えちまったと思ってんだよ?」
「誰が痩せ衰えていると?オレより余程肉付きがいいだろうが」
「肉付き言うな。まーなーお前貧相だしなーそれと比べられちゃあなー」
「黙れ」
「黙りません。なーなーマジで。折角愛を確かめ合ったんだし?このまま別れるなんて有り得ないじゃん。だからさぁ」
「……気色の悪い事を言うな!」
「そんな鳥肌立てて怒る事ないじゃん!酷ぇなぁもう」

 放課後。あれから暫くして授業に復帰した城之内と、結局最後まで付き合わされた海馬は、人気の無い教室でそれぞれ別の理由で課せられた課題を前に、静かに向かい合っていた。大きな窓の向こう側には既に沈みかけた太陽が赤々とした光を放っている。

 山と積み上げられたプリントを驚異の速さで埋めて行った海馬とは対照的に、城之内のプリントは真っ白だった。けれど、それも仕方がない。今の彼にはプリントに向ける集中力など欠片も残ってやしないのだ。 余りにも幸せ過ぎるこの時間を邪魔する事など誰も出来ない。

 そんな訳で、早々に白紙のプリントを纏め上げて裏返し、一番上の数学にシャープペンで『明日やる』と大きく書いて提出箱に入れてしまうと、城之内はそのまま席に座る事無く、大きな伸びをしながら未だ座する海馬の側に立った。そして「呆れた」と言わんばかりのその顔を覗き込み、まぁまぁと言いながら満面の笑みを見せた。

 だってお前の所為じゃん。

 小さくそう呟くと、元々不快そうな顔がますます歪む。けれど、どんな表情をしていても、その顔は綺麗だった。

 城之内が思わず見惚れ、恋をした顔だった。

「オレさぁ、やっぱお前の事好きだわ。普段から意地が悪くて可愛くなくても、口よりも先に手が出る程暴力的で、寝ると全身凶器になる様な危ない奴でも。すげぇ好き」
「……それはオレを馬鹿にしているのか」
「え?どこが?立派な愛の告白じゃん」
「それこそどこがだ!悪口を聞いている様にしか思えん!」
「悪口とか。好きだって言ってるじゃん」
「黙れ。それ以上口を開くな!」
「まぁそう言わずに聞いてよ。そして、オレにも言って」
「誰が言うか!」
「言ってくれよ。オレ馬鹿だから、ちゃんと言葉にしてくれないと分かんねぇんだ」
「知った事か!」
「好きだぜ」
「煩い!」
「ほれ、お前も言ってみ?さっきちゃーんと言えただろ?」
「オレは過去は振り返らない主義だ!」
「オレはめっちゃ過去に縋る男だから。ご愁傷様」

 ちゃんと言えたら、御褒美に一緒に寝てやるよ。本当は好きなんだろ?誰かと一緒に一つのベッドで眠ること。

 な?モクバにも拒否られた可哀想な海馬くん?

 いつの間にか酷く近くに顔を寄せ、吐息が触れる様な位置でそう口にする城之内の事を、海馬はついぞ押しのける事は出来なかった。数秒後、二人の距離は数ミリ単位を超越し、最終的にはゼロになる。

 重なった唇は直ぐに離れてしまったけれど。
 漸く繋がった気持ちは、そう簡単には離れない。
 

『……好きでなければ、誰が貴様ごときに全てを許すか。良く考えろ駄犬が!』
『うん。と言う事は、海馬はオレの事が好きなんだ?』
『……なっ、今言っただろう!』
『余計な言葉付け過ぎ。もっとシンプルにお願い』
『シ……シンプル?』
『そ。シンプル。好きってもう言いたくなければお前の得意な英語でもいいよ。アイラブユーって』
『ふざけるな!』
『生憎真剣なんだなーこれが』
 

 ほんの少し前に交わされたその会話に思わず笑みを深めると、眼下の顔がまた少し不機嫌な表情になり、「笑うな」と呻くような声が聞こえた。それは少しだけ掠れていて、城之内を更に喜ばせる事になるのだが、当の海馬にそんな事情が分かる筈もなかった。

「と言う事で。今日はオレ、海馬邸にお持ち帰り〜」
「勝手に決めるな!寝不足になる癖に!」
「んーそれなんだけど、お前が努力してみる気ない?オレ、協力するからさ」
「どうやって。無意識でする行動を制御出来れば世話ないわ」
「そこはオレの愛でなんとか。お前が暴れなくなるまでぎゅーっとしてやるよ」
「ふん、散々蹴り飛ばされた奴が今更何を言う」
「なぁにぃ?!蹴っ飛ばしてんのはお前だろ!」
「避ければいいだろうが!」
「無茶言うな!……あ、でも、それも有りだな」
「馬鹿が。無理に決まってるだろう」
「何でもかんでも無理とか言うなよ。出来るかもしれないだろ、愛があれば」
 

 ── だから、お願い。言葉にして。 
 

 Please say I love you.