Ring

 最初その手を握った時、オレは思わず大声で悲鳴を上げてしまった事を覚えている。真っ白で骨の形がくっきりと分かる位細くて、華奢で冷たそうな指だなとは思ったけれど、まさかあんなに冷たいとは思わなかった。ほんと、氷に触ってるみてぇだった。これが冬なら何とも思わなかったんだろうけど、その日は初夏を迎えて急激に温度が上がり、外気温は30度を超える程の蒸し暑い日だったから余計に吃驚しちまったんだ。

『お前、なんでこんなに手が冷たいの?冷え症?』
『知らん、昔からだ。故に冬は寒くて眠れない事がある』
『今日なんかくそ暑いのにコレかよ……つかよく見たらお前学ラン着てんじゃん!暑くないのかよ!』
『適温だな。この位が丁度いい』
『……そ、そうなんだ』
『ああ』

 こっちは暑くてTシャツ一枚になってもさっぱり不快指数が下がらないのに、この分厚い学ランを着て丁度いいとか信じられねェ。でも、確かにその顔色は白いままだし。握った手は冷たいままだ。思わずオレは少し汗を掻いているもう片方の手も引き寄せて、両手でぎゅっと掴んでみた。けれど、なかなか体温が移らない。

 頑なだなー。ほんとこいつ、どこもかしこもこんなかよ。

 窓を全開にした教室の隅の席で燦々と輝く太陽の光と熱に喘ぎながら、オレはその只中で涼しげな表情をしているその顔を眺めつつ、なんとかしてこの冷たい男を温めてやりたいと必死になった。でもその時は目的を達成する事が出来なかった。途中で、チャイムに邪魔をされてしまったからだ。

『あー、ちくしょー。多分もうちょっとだったのに』
『何がだ』
『や、暖かくしてやろうかなーなんて』
『確かに貴様の手は熱いな。これほど熱を発散していれば腹も減る訳だ』
『あ、そういう事言う?』
『違うのか?』
『その通りだけど……あ、そうだ!お前、寒くて辛いんならオレが一緒に寝てやろうか?オレは逆に暑くて眠れないんだよ。な?丁度いいじゃん』
『何を訳のわからない事言っている。誰が男と共寝するか。良く考えろ阿呆が』
『えーなんで?親切心だぜ?利害も一致してるし、グッドアイデアだろ』
『断る』
『まぁそう言わずに』
『黙れ。とっとと自席に帰れ!』

 ……その時はこんな風に軽く(というか速攻)突っぱねられちまったんだけど。

 思えばこれがオレの青春の始まりだった気がする。男の手を握ってこれが青春だと自覚するのもどうかと思うけど、実際そうだったんだからしょうがない。そういう意味で、今海馬の手はオレの青春の象徴になってたりする。……どっちにしても変な話だなぁ、これ。

「改めて眺めてみると、お前って全然変わらねぇのな」
「……なんの話だ」
「暇だったからちょっと昔の事思い出してたんだけど、頭の中のお前と今目の前にいるお前、さっぱり姿変わんねぇの」
「そうか?」
「そう」
「まぁ確かに、変わらないとは良く言われるがな。大抵世辞だと思っていたが」
「それ絶対マジだぜ。オレが証明してやるよ」
「どちらにしてもオレには興味のない事だ。特に嬉しくも無い」
「そんなもんかねぇ。オレはそう言われたら嬉しいけど」
「貴様は変わったからだろうが」
「そーかも」

 あの時から既に十年の月日が経って、確かにオレは大分様変わりしちまった。度重なる肉体労働の結果、自分でも見事だと思える程逞しくなっちまって、昔懐かしい仲間と顔を合わせるとビビられる始末だ。今なら誰と喧嘩やっても勝てるかも。なーんてそんな気力もないけどさ。

 たまに自分でも鏡でじっくり眺めたりするけれど、見れば見る程かつてのオヤジとそっくりで、物凄く微妙な気分。あーどんだけ嫌っててもやっぱ親子なんだよなー当たり前だけど。

 対する目の前で淡々とキーボードを叩き続ける海馬は身長体重は勿論の事、体温から見かけまで全くもってさっぱり変わってなかった。一部では「KCは人間を若返らせる技術を持っている」なんてまことしやかに囁かれる始末だ。……そんな技術があったらとっくに商売にしてるだろうよ、こいつの事なら。技術云々とかそういう問題じゃなくて、こいつは元からこんなんなんです。むかつくけど。

 あーあ。なんて言いながらベッドの上で身を伸ばす。今日も汗まみれになって、一日良く働いた。全身汚れてた上に日に焼けて真っ黒で、ここに来た時に出迎えてくれたモクバに「どっちが表か裏かわかんないぜぃ」なんて言われてムカついたけど、シャワーを浴びて綺麗になってもあんま肌の色が変わらなかったからショックを受けた。

 今年は日差しが強いよなー皮膚癌とかになったりしねぇよな。そんな事を思いながら小麦色を通り越して茶色くなってきた手の甲を目の前にかざして眺めていたその時だった。明るい照明を受けてきらりと光ったモノに、オレはある事を思い出して口を開く。

「そういやさー。ついさっき気付いたんだけど」
「なんだ」
「オレ、指太くなったじゃん?」
「そうか?」
「そうなの。お前いつも握ってんだろ、分かんないのかよ」
「いつもは握ってない」
「そういう屁理屈は聞いてません。とにかく!指が太くなったの!」
「煩いな。それがどうしたのだ」
「これ、外れなくてさぁ。外して洗おうと思ったんだけど、思いっきり食い込んで全然取れねぇ」

 いいながらオレは身を起こしてそれを海馬に見せる為に、ゆっくりと然程遠くない海馬の机へと歩いて行く。そしてほれ、と件の『モノ』を目の前に掲げてやった。すると奴は一瞬何事かと眉を寄せ、それからオレの言った事に気付いてほんの少しだけ吹き出した。なんだこれは。面白そうにそこに手を伸ばして触れながらそう笑うその顔を、むっとした表情を作って睨み返す。

 本当は、ちっともむっとなんてしてねぇんだけど。

「ひでぇだろ、これ」
「確かに酷いな。どうしたらこんな風になるのだ」
「しらねぇよ!あーくそーもっと早く気付いてれば良かったー!」

 オレが海馬に見せたのは見事なまでに太くなった左手の薬指にがっちりと嵌って食いこんじまったプラチナのリング。これは確か20歳の時に色んな意味でのけじめをつける為に揃いで買って、喧嘩した時以外はずっと外さずに嵌めているものだ。

 今初めてこの事態に気付いたって事は最近は喧嘩もしてなかったって事なんだよな。嬉しい様な、そうでない様な……うーん、複雑。

 それはともあれこのリング、当時は見かけは勿論サイズにも殆ど差がなかった筈なのにオレだけ傷だらけのボロボロで。海馬のは新品同様、それ昨日買って来たんですか?なレベルだった。サイズに至っては、指に食いこんで回りもしないオレとは対照的に海馬のはちょっと余裕がある。

 現に奴はワザとらしくリングを外して、裏に刻まれたオレと海馬の名前がくっきりと残ってるのを見せつけてくる。全く同じものを作ったんだからこれにも当然それは刻まれているわけだけど、オレのはどうなってるか分からない。つーか外せないから見る事も出来ない。あーもー、酷過ぎる。情けない。

 ……まぁ、でも。

「外すつもりもないから、別にいいんだけど」
「そうなのか?」
「ちょ、なんでそういう切り返しするんだよ。ちょっとは喜べよ」
「何故オレが喜ばなくてはならないのだ」
「だって、オレは一生お前のものだって言ってるんだぜ?」
「だからそれの何が嬉しいのだ」
「あいたたた、そこかよ!」
「何か勘違いしているようだが、指輪が外せないのは貴様だけであってオレは何時でも外す事が出来るのだ。この事を良く肝に銘じておけ」
「10年外さなかったらこの先も外さないだろ普通」
「さて、どうだかな」
「お前も外せなくなればいいのに」
「馬鹿め、こんなもの取ろうと思えば幾らだって取れるわ。取ってやろうか?」
「あーいい。間に合ってます」
「ふん」
「20年経ったら作り直そうな。ボロボロじゃやだし」
「それまで生きていたらな」
「おま……まだ40代だろうがよ!」

 あーでも、その時まだ一緒にいたらな、とかじゃないんだ。本心がぽろっと素直に出ちゃいましたね。なんだかなー……こういうとこも、ほんとコイツ変わんねぇな。

「なぁ、ちょっとその指輪貸して」
「……貴様の手には嵌らないと思うが」
「馬鹿、そうじゃねぇよ。いいから貸せよ」
「壊すなよ」
「壊すかよ!!」

 なんだもうコイツ可愛くねぇ!!

 そう思い、オレは何時まで経っても意地悪気に海馬が右手に持っていた件のリングを取りあげると、親指と人差し指で持ち直して左手を差し出した。そんなオレの意図を悟ったのか、海馬も素直に手を差し出す。何時まで経っても変わらない細くて真っ白な、男としてはやけに華奢な指先。

 恭しく手に取ると、それはやっぱり氷の様に冷たかった。だけど、もう驚かない。

「教会でやってみたかったよなーこういうの」
「男二人でか?馬鹿馬鹿しい」
「おそろいの指輪作ってる時点で十分馬鹿馬鹿しいと思いますけど」
「それもそうだな」
「なぁ、キスしていい?」
「許可がなければ出来ない事なら最初からするな」
「……はいはい」

 この憎まれ口が治ってくれればもう少し友好な関係が築けると思うんだけど。そんな事を思いながらオレは改めて綺麗に元の位置に戻してやったリングごとその指先に口づけて、次に今のやりとりで少し緩んでいる唇にキスをした。これを初めて指に嵌めた、あの日の様に。
 

 キスをしながら握り締めた指先は、直ぐにオレの体温を吸収して熱くなる。
 それは冷たいリングをも温めて、オレに幸せを教えてくれた。

 左手に食い込んだ、ボロボロのプラチナリング。

 既に身体の一部になってしまったそれは……
 

 ……多分、一生外れる事はないだろう。