First Step

「恋人になったところでキスもセックスもしない。モクバ以外の人間に触られたくない。それでも良ければ、付き合ってやる」
 

 ある春の日の学校の屋上で、オレは海馬に「好きだから付き合って欲しい」と告白してみた。その日は久しぶりの低温の日で学ランだけで外にいるのは少し厳しい陽気だった。そんな肌寒い日にも関わらず、海馬は常の指定席となっている屋上の給水塔の下に座り、何時もの様に持ち込んだノートパソコンを弄っていた。

 こいつは学校に来るといつもそうだ。授業時間以外は直ぐに教室を抜け出し、人気のないところで一人でいる。春から秋にかけては大抵ここで、冬だけはコンピューター室の一番隅の場所を陣取っている。職員室のすぐ隣の場所にあるから誰もそこには寄り付かない。人を避けるには絶好のポイントだった。

 一度だけ、オレは海馬に「なんでいつも一人でいんの?」と聞いてみた。まぁ奴の立場上、教室に居れば何かと騒がれるし、持ち込んだ仕事をするには一人の方が効率がいいんだろうけど。だからと言って、休憩時間の度にそんな逃げるように消える事はないんじゃないか。そう思いながら、海馬の答えを待っていると、奴は全く感情の篭らない声で「人が嫌いだからだ」と吐き捨てた。

 じゃあお前、なんで学校に来てんだよ?つか、社長でそれは不味くね?

 余りに余りな返答に少し突っ込んでやろうとちょっとだけ身を乗り出すと、奴はその分プラス余りあるほど身を引いて「近づくな!」と叫んだ挙句、「貴様には関係ない」と一言言うと、荷物を纏めて席を立って出て行ってしまった。……なんだあれ。

 けれどオレは海馬はがそうやって心底不愉快な顔をして逃げて行った事よりも、叫んだ声が少し震えていたのが気になった。

 思えばアレがオレが海馬に興味を持った切欠だったと思う。

 と……そんな過去話はコレ位にして。

 オレから余りにも唐突であっさりとした告白を受けた海馬は、数秒間固まった後「少し考えるからそこで待て」と口にした。

 ……いや、そこで待てって。犬じゃねぇんだからそれはないだろ、と思ったけど、どーせ一旦引いたって気になっちまうのは同じだし、次の時間は体育だったからサボっても問題ないし、オレはなんとなく食べるタイミングを失ってずっと持っていたままだった、昼食が入ったコンビニ袋を両手で持つと、その場に座って黙々と食べ始めた。

 その様子をなんとなくちらちら伺っているらしい海馬の視線が気になって、オレは3つ目のおにぎりを開封する手を止めると、多分断られるだろうなぁとは思っていたけれど、一応「食う?」と聞いてみた。案の定海馬は軽く首を横に振って拒否をしたけれど、やっぱりオレを見る事をやめなかった。

 おお、これって案外脈有りじゃね?だって嫌だったら顔をじっと見たりなんてしないもんな。そう内心嬉しく思いながら、おにぎりを口に放り込み、お茶を流し込んだその時だった。海馬が何かを決めたようにそれまで熱心に弄っていたノートパソコンのディスプレイを閉じてしまうと脇に退けた。そして、体ごとオレの方に向き直る。

「お、決まった?」
「貴様に一つ確認したいことがある」
「うん?なんだよ?」
「貴様の言う『好き』とは、お友達的な意味での『好き』なのか?」
「へ?どういう意味?」
「だから、遊戯や本田と同列の意味でなのか、と聞いている」
「あー……そういう事。違うぜ、同じなら付き合うとか言わねーだろ。そうじゃなくって、端的に言えば彼氏彼女みたいな関係になりたいんです。まぁ、恋人?」
「……恋人。オレは男だが」
「知ってるっつーの。でもしょーがないじゃん、好きなんだから。あ、もしかしてお前そういうの全然駄目な人?気持ち悪い?」
「駄目、というか……」
「というか、何よ。なんだよもうはっきりしねぇなぁ。OKなの?NOなの?どっち?」

 なんだか偉く遠まわしな言葉を口にする海馬に、オレは少しじれったくなって、焦らせちゃ悪いかな、と思いつつも早めに答えを貰える様にせっついてみる。

 まぁ殆ど駄目元だし、死んでも嫌だとか気色悪いとか言われたらさすがに諦めるけど、そうじゃなかったからここは一旦引いて再チャレンジするつもりだったから、別にそんなに迷わなくてもいいんだけど。でもここでそう言って「じゃあ断る」なんて話になったら切ないから、オレはじっと黙って待っていた。

 そんな感じでオレ達の間に妙な沈黙が下りて来てから数秒後。漸く開いた海馬の口から飛び出したのが、一番最初の殆ど衝撃的と言ってもいいあの台詞だったんだ。
 

 

「……え、と。それってどういう事?」
「言葉通りだ。貴様がそういうものをオレに求めているというのであれば、お門違いだ、と言っている」
「……そういう事が嫌って事は……要するにオレが嫌だって事?ぶっちゃけ断るって意味じゃん」
「違う」
「何が違うんだよ。だって、普通恋人って言ったらそういうのも込みって事ぐらい分かんだろ」
「だから、そういうのが無しでいいのなら了承すると言っているではないか。話の分からん奴だな」
「……キスとかエッチとか無しっていうんならそれは世間では友達って言うんです」
「そうなのか。では、それでもいいなら、という事にする」
「なんで?やっぱお前嫌なんじゃん。オレの事が」
「そうじゃないと言っている。貴様の事は別段嫌ってはいない」
「じゃ、どうして……」
「オレは前に言わなかったか?人が嫌いなんだと。それは貴様も例外ではない。男だろうが女だろうが無理なものは無理だ」
「……お前」
「今の条件をクリアできないのならもう金輪際オレに関わるのはやめて貰おうか。中途半端に期待を持たせるのも酷なのでな」
「………………」

 そう自分の言いたい事だけ口にすると、海馬はもう用はないとばかりに荷物を片付けて、さっさと屋上を去ろうとする。通学鞄を持っている事からこのまま帰っちまうつもりなんだろう。今日お前幾つ授業に出たよ。全く何しに来てるんだか。いや、つーかこの場合はそんな事はどうでもいいよな。あああもうどうしよう〜!

 海馬がテキパキと身支度を整えている間にオレは必死に考えた。好きな奴相手にしたい事を我慢するのは結構、というか大分辛いもんがあるけど、金輪際関わるな、と言われてしまうとそれは困る。決定的な事を言われたならまだしもそうじゃなく、可能性が1パーセントでもあるならそれに賭けたいと思っちまうのがギャンブラーの性で。悲しいかなその気質が十二分にあるオレはどうしても諦めきれなかった。

 だったら、答えは一つしかない。

「じゃ、じゃあ。今の所はそれでいいから付き合ってくれ。ただし、友達としてじゃなくてあくまで恋人で」
「……貴様、本気か?」
「うん、マジ。でも、お前ばっかり条件を出すってのはフェアじゃないから、オレもお前にお願いがある。……いい?」
「内容に寄っては考えてやらんでもない」
「じゃあ一つだけ。理由、教えてくれよ」
「……理由?」
「そう。お前がどうして人嫌いなのか、触られるのが嫌なのか。オレにも分かるように説明してくれたら、ちゃんと言う通りにする」
「……言う通りにって。だが貴様はオレに『恋人』を求めているのだろう?矛盾が生じているではないか」
「そうなんだけどさ」
「オレは、絶対にしないぞ。嫌なものは嫌だ」
「それは今のお前だからだろ。少しオレと付き合ってみ?考え方がきっと変わるから」
「……何故そう言い切れる。結局貴様も自分の思い通りに事を運びたいだけではないのか?他人なんてそんなものだ。だから嫌なのだ」
「オレ『も』?今までもそういう事があったって事かよ」
「………………」

 そうオレが何気なく口にすると、海馬は急に怖い顔になって口を噤んでしまった。

 その、表情。

 顔全体が何か恐ろしいものでも見たかのように引き攣って強張っているその顔は、一番初めにオレに至近距離まで迫られた時、大声を上げて身を引いた時と全く同じもので、普通のクラスメイトに向ける顔なんかじゃ決してない。

 まるで……そう、例えるならば、自分に敵意や悪意を抱いている人間に対する威嚇のような恐怖のような表情だった。オレは喧嘩相手にだってこんな顔をされた事はない。なのに海馬はオレにそれを向けて来る。嫌いじゃないと、付き合ってもいいとまで言った、その対象に。

「なんか良く分かんねぇけど、根が深そうだな。その人嫌い。……っていうかトラウマ?」
「ああ」
「その調子だと他人が全部敵に見えるんだろ、お前。その中で唯一そうじゃないって言えるのは、モクバだけって、そういう事か」
「そうだ」
「と言う事は、オレもお前にモクバと同じだけ心を許して貰えれば、触る事も出来る訳だ」
「無理だ」
「やってもみない内から即答すんなよ。オレはお前の敵じゃねーし。これから一番の味方になってやりたいってそう思ってるんだぜ?でも、多分お前は信じないだろうから、信じて貰えるように努力するわ」
「何を言われても無理なものは無理だ。……何故、そんな無駄な事をする」
「好きだから」
「好きだからって……」
「今のお前の事だけが好きで大事に思うんなら、オレはお前の言う事を聞いてやるべきかもしれない。けどさ、一生そのまんまでいる訳にもいかねぇだろ。人は一人では生きていけないんだぜ?モクバだって何時までもお前の傍にいる訳にもいかないし。そしたら、お前は本当に一人になっちまう。そんなの嫌だろ?オレは、今だけじゃなくって未来のお前の事も大事にしたいんだ」

 だから、オレを信じて欲しい。もし万が一にもお前を裏切るような真似をしたら容赦なく殴ってくれて構わないから。

 そうオレが持てる限りの真剣さでもってそう伝えると、海馬はじっと長い間黙ってオレの事を見つめていて、最後に、本当に最後に小さく頷いて立ち上がった。遠くで、5時限目終了のチャイムが鳴る。

「今度さ、お前の家に行ってもいい?あと、次学校に来たら一緒に昼飯食おうな!触んないけど、近くにいる位ならいいだろ?」

 そのまま、言葉も無しに歩き去ろうとするその背中に、オレは駄目押しとばかりにそう叫んだ。結局海馬はオレの言う事に反論らしい反論一つしなかった。それは要するに分かったと言っているのと同じ事で。約束は曖昧になっちまったけど、とりあえず付き合う事は決定したんだからこれ位はいいよなと、そう、思って。

 すると海馬は非常階段へと続く扉の前で一瞬だけ振り返り、聞き取れない程の小さな声で「好きにしろ」と答えてくれた。同時に響く重く鈍い開閉音が遠く聞こえる。

「……よっしゃあ!!」

 一人残されたオレは、全身で感じた嬉しさを表すために誰もいないのをいい事に一人盛大なガッツポーズを決めて大声でそう叫んだ。

 一瞬で玉砕するかと思った恋が、大分困難な形だけれど砕けずに残された事。しかも、無限の可能性を秘めて。

 あの白く細い指先や、見ただけで柔らかそうだと思える唇に触れる事が出来るのは何時になるか分からないけど。いつかきっと本当の『恋人』になれる事を信じて。っていうか、絶対になるけれど。

 抜けるような青空を眺めながら、オレは大きく頷いて、改めて「海馬、好きだ」と呟いた。
 

 長い長い道のりへと続く最初の一歩を踏み出したこの日は、多分一生忘れない。
 オレは夢と希望に溢れた凄く幸せな気持ちで海馬が消えた非常階段へと続く扉に向かって歩き出した。
 

 何時の日か、今日のこの瞬間が笑い話として話せるようになるといい。
 

 心の中でそう強く願いながら。