Mind to mind

 男が未だ明りの漏れるその部屋に足を踏み入れると、カタカタと無機質な音が響いていた。

 時刻は既に午前3時を廻っている。普通の人間ならば眠りの只中にいる時間だ。なのにこの部屋の主、未だ17歳の若き当主海馬瀬人は、うず高く積みあがった書類の合間から覗かせた顔を顰めつつ、懸命にディスプレイを睨んでいる。

 薄い画面が放つほの白い光が瀬人の顔に柔らかに反射して、この数日間ずっとこの状態を保ち続け、既に色みの無くなった頬をぼんやりと照らし出す。幾ら精神力が強い人間でも肉体を酷使し続ければガタが来る。眠気覚ましの珈琲と僅かな軽食しか口にしない状況で何十時間も意識を保ち続けている事は、いかに常人よりも多少の融通がきく瀬人でも無理があった。

 現に常には射るような視線を放つ瞳は、流れ行くデータを力なく映し出すだけで覇気がなく、間断なく動く器用な指先もスピードが大分鈍っていた。どこからどう見ても限界だった。
 

「おい、瀬人」
 

 男は、己が侵入したことすら気付かないその身体に思わず声をかけた。部屋に響き渡る同質の声に瀬人の眉がぴくりと動く。しかし、顔を上げようとはしなかった。

「お前、まだこんな事をやっているのか。今何時だと思っている」
「……非ィ科学的男か。何をしに来た」
「何をしにとはご挨拶だな。オレがどうしてここに来たのか、一番分かっているのはお前じゃないのか?」
「……モクバか」
「いや。オレはオレの意思で来ている。大事なオレのオリジナルが、過労で倒れでもしたら困るんでな」
「戯言をほざくな。邪魔をするなら出て行け」
「出て行ってやるから少し休め。お前、自分の顔を鏡で見たか?酷い顔色をしているぞ」
「ふん、余計な世話だ。何も分からん貴様に指図される謂れはない。体調には問題ない。オレに構うな」
「問題ない、だと?」
「ああ」
「とてもそうは見えないがな」
「!煩い!黙れっ!」

 バシ、と大きな音がして、机上に無造作に置かれていたファイルの一つが瀬人の手によって投げつけられ、何時の間にか室内の中央まで歩み佇んでいた男の肩で弾け飛ぶ。それを微動だにせず受け止めた男は口元に苦い笑みを浮かべて床に落ちたそれを拾い上げ、その衝撃で中の止め具が外れ四散した書類を掻き集めた。

 瀬人は、その仕草をただ黙って見つめている。
 男の長い髪が重力に従って流れ落ち、動きに合わせてさらりと揺れた。

 何気ないその仕草に、部屋の空気が僅かに冷える。

「その様子じゃ、神経も参っているようだな。こんな状態ではお前のみならず周囲に迷惑をかける事になる。いいから休め」
「煩いと言っているだろう!」
「……ではせめてそこではなくソファーにかけろ。少しは身体が休まる」
「誰が貴様の言う事など……!」
「いいから聞け。お前がこちらに来たら、オレも自室に帰る」
「………………」
「睨んでも無駄だ。まずPCを預かろう」
「勝手に触るな!!」
「何もしない。いいからここへ座れ」

 そう男は口にすると、言葉通り直ぐに瀬人のデスク上から小型のノートパソコンを取り上げて、近間の大きなソファー前のテーブルの上に置く。それにさも忌々しいという思いを隠しもせず、わざと大きく舌打ちをした瀬人は、仕方なく男の言葉に従って長時間占拠していた椅子から立ち上がり、ソファーへと腰かけた。

 目に痛い程の純白のそれは、溜息混じりに身を預ける瀬人の身体に僅かに軋んだ音を立てる。その場に落ち着く間もなく瀬人はPCを引き寄せて中断していた作業を再開した。

 資料を捲る手が震えている。

 当初は言葉通り、瀬人が場所を移動したら部屋を出て行こうと思っていた男だったが、ごく間近に見た彼の余りの状態の悪さに、即座にその考えを改める。やはり、瀬人にはしっかりとした休息が必要だ。そう決断した男は反発されるのを覚悟の上で、無駄とは分かりつつももう一度声をかけた。

「瀬人」
「なんだまだここにいたのか。オレは貴様の言う事を聞いてやっただろう。もう用はない筈だ。出て行け」
「やはり黙認できないな。仕事をやめて一度睡眠を取れ」
「断ると言っている。これ以上しつこいと叩き出すぞ」
「………………」

 言いながらデスクの上に積みあがった資料を取ろうと手を伸ばしつつ立ち上がった瀬人の身体がふらり、とよろめく。ソファーから立ち上がった瞬間に自覚した眩暈にそれでも気力で持ち堪え様としたが無駄な足掻きだった。敢え無くその場に屑折れそうになった細い身体を、すかさず強い腕が捉える。

 がっしりと腹部を支えたその腕は、そのまま難なく瀬人の身体を持ち上げた。青い瞳が、驚愕に見開かれる。

「貴様!何をする!」
「言っても分からない人間には実力行使しかないだろう」
「ふざけるな!!手を離せ!」
「嫌なら自力で振り解いてみるんだな。そんな弱い抵抗じゃ、オレの腕一本動かす事はできないぞ」
「……くっ……!貴様、何処へ……っ!」

 言葉とは裏腹の至極優しい、けれど強引な腕が捕らえた身体をそのまま強く抱きしめて、男は常よりも大分弱い抵抗を封じ、危なげない足取りで歩き出す。そして有無を言わさず隣室の扉を蹴り開けて、現れた豪奢な寝台の上にその身体を放った。スプリングの利いたマットレスが、衝撃に息を飲む瀬人を柔らかに受け止め、ついで上に圧し掛かってきた男の重みをも受けてギシリと軋む。

「休む気がないんだろう?ならば、オレが休ませてやろう」
「な、にを……」
「強情を張り続けるとどういう事になるかその身体に教えてやる」
「!……やめっ……!」

 僅かに怒気の孕んだ低い掠れ声が、近づいた唇と共に落ちてくる。何時の間にか覆い被さる形で瀬人を寝台に押さえつけた男は、そう言って口の端に鮮やかな笑みを浮かべた。

 シュル、と布が擦れる音がして、瀬人の首から一本のタイが抜き取られる。そして何時の間にか一つに纏め上げ片手で強く押さえつけていた瀬人の両手を、手にした鮮やかな青のそれで器用に縛り上げ、固く結んだ。

 思わぬ拘束に瀬人の喉奥から引きつった声が上がる。

「その身体では抵抗も出来ないだろうが、念の為だ。たまにはこういうのもいいだろう?」
「………………!」
「どうして欲しい?気絶するまでめちゃくちゃに突きあげるか?……それとも、気が狂うほど焦らして、疲れ果てさせてやろうか」
「き、さま……」
「オレはお前だ、瀬人。火をつけるとどうなるか、一番良く分かっているだろう。尤も、お前にはこの部分がもう欠落してしまったみたいだがな。心のパズルと言ったか?お前が最後まで探していた一欠片……元はオレが今見せているサディズムだったそれの変わりに、お前が自身で作り出し、はめ込んだのが弟への愛情だ。打ち捨てられたオレは、それでも消える事無くこうしてお前の元へと還って来ている」
「何を訳の分からない事を!腕を解け!」
「煩い口は塞がなければ分からないか?」
「黙れ!こんなふざけた茶番はやめろ!オレに……ん……っ!」

 さらりと、男の髪が頬に触れ、蒼い布で隠された瞳が間近に迫る。近い、そう瀬人が思った瞬間、唇が強引に塞がれた。体温の低い瀬人よりもまだ冷たいそれは、直ぐに察して固く閉ざそうとした瀬人の口を容赦なく抉じ開け、舌を捻じ込んだ。

 途端に拒絶するように奥に逃げる彼の動きを許さず、強引に絡んで、息をつく暇もなく口内を蹂躙する。呼吸すら出来ないその激しさに、瀬人の身体が僅かに震え始めた頃、漸くそれは距離をとった。ほんの僅か……未だ濃い唾液で繋がったまま。空に留まる。

「……っあ、……はっ……はぁっ……」

 呼吸が整わず、激しく喘ぎながら瀬人は薄く目を開けて男を睨んだ。生理的な涙が長い睫を濡らし、ぼんやりと蒼い瞳を滲ませている。その様を表情一つ変えずに見下ろして、男は瀬人の口の端から流れ落ちた唾液を指先で掬い上げ、舐め上げた。

「苦しいか?」
「………………」
「オレの言う事を素直に聞けば、苦しい思いをする事もなかったのにな?」
「う、るさい……っ」
「これでもオレは本当に心配しているんだぞ?お前は自分の限界を知らな過ぎる」
「心配っ……して、いるのなら、……こんな事は今すぐにやめろ!」
「それは出来ない相談だ、瀬人。忘れていたが、もう一週間ほど、お前に触れていなかったからな」
「な、に?」
「先程の問いに答えていないぞ。どちらがいい?選ばせてやる」
「………………」
「ふ、そうか。……強情など何の特にもならない事を教えてやる」

 言葉とは裏腹の至極緩慢な動きで男の指が瀬人の首元へと伸びる。糊の利いた薄いシャツの第一ボタンに手をかけ、そこをいじるように指の腹で撫であげる。外す気もなくただ弄ぶように繰り返すその動きに瀬人が僅かに身を捩った瞬間、その指先が全てのボタンを千切り取る様に勢い良くシャツを割った。あっと言う間の出来事だった。

 白いボタンが弾け飛び、その一つが小さな音を立てて床へと落ちる。

「────っ!!」
「これでもオレは怒っているんでな。優しくなどしてやらない」
「……いっ……ぁ!」

 そう低い声が耳元に落ちると同時に耳朶に痛みが走った。一瞬顔を顰めた瀬人の様子を見逃さず、男が傷一つないそこを柔らかに吸い上げれば、途端に色の混じった悲鳴が上がる。徐々に上気していく白い肌を触感でも確かめながら、男は既に抵抗する気力がない縛られたままの彼の両手首から片手を外した。キシリと布の擦れ合う音がする。

「お前は相変わらず肉がないな、瀬人。だから、凡骨ごときに貧相だと笑われるのだ」
「きッ……貴様には関係の、ない、事だろう!」
「抱き心地が悪いという点では関係がある。片腕で持ち上げられたくなければ、もう少し食べるんだな」
「ほざけ!」
「やれやれ……元気だな」
「……あ!……やめっ!」

 最初の苛立ちから来る凶暴な感情は少し成りを潜め、やや呆れた気持ちになりつつも、男は動きをやめる事はせずに、眼前に曝された薄い肌に唇を寄せては強く吸い上げ、瀬人に耐え難い疼痛を与えていく。染み一つない柔らかな白に、色鮮やかに残されていく鬱血の跡に、更に指を滑らせて擦り上げながらその中に密かに存在していた乳首をも舐めあげる。

「!ひっ……!あァっ!」 

 白桃色したそれが固くしこり、はっきりと自己主張を始めた頃、緩やかに唇で挟んで歯をあわせる。瞬間、びくりと瀬人の背が跳ね上がり、瞳が大きく見開いた。しかしそれは直ぐに強く眇められ、唇を噛み締める。

 どんな状況下にあっても決して怯む事のない眼差しと、何処までも強情なその態度は男の征服欲を掻き立てた。濡れた唇から吐き出される拒絶の言葉は、それすらも甘い喘ぎ声にしかならない。男はそんな己を常軌を逸したナルシストだと心の中で嘲りつつも、目の前の身体を手放す事は出来なかった。
 

 より強く、もっと強く、抱きしめたいと、そう思った。
 

「嫌だという割りに、お前は素直だ。本当は、こういうのが好きなんだろう?普段よりも感じてるじゃないか」
「なっ……!戯言を……!」
「前も後ろもとろけさせて言う台詞ではないな。ほら」
「んあぁ!……やっ……ふ、うっ……」
「どの口もだらしないな瀬人。さっきの勢いはどうした?」

 何時の間にか下腹部へと滑り込んだ指先が、くちゅりと淫猥な音を立てて奥へと飲み込まれる。同時に痛いほど立ち上がった瀬人自身をきつく握り締め、男は口元を歪ませながらそう揶揄した。けれどその仕草に余裕はもう存在せず、自ら膝まで引き下ろしたスラックスが邪魔をして、瀬人が上手く足を広げる事が出来ない状況に焦れ、瀬人に触れていた手でそれを勢い良く取り去って、外へと放った。

 そしてすかさず閉じようとする太股を押さえつけ、膝裏を掴んで押し広げる。

「!!……なっ!!はっ………離っ……!」
「この位解れていれば、もう前戯は必要ないだろう?多少痛みがある方が、お前は喜ぶ」
「……やっ……ふざけ……っ、るなっ!……あッ!」
「お前がその身体を粗末に扱うなら、オレが大切にしてやる義理はない。そうだろう?」

 言いながら、瀬人の内部に捻じ込まれていた男の指がわざとゆっくりと抜き出され、濡れたそれを口に含む。その仕草を強い嫌悪を持って見つめていた瀬人に見せ付けるように笑ってやると、男は上体を倒し、指を舐めたその舌で、瀬人の唇を舐め上げた。舌を入れ、唾液を注ぐ。激しく逃れようとする顔を掴んでより深く口付ける。

「……んっ……んぅっ……や、……嫌だ!」
「お前の味だろう。嫌がるな」
「こ、ろして、やるっ!」
「自分自身をか?」
「貴様と、オレは違う!」
「同じだ」
「違う!!」
「同じだよ。オレ達は、元は一つだ」
「……いっ……あぁっ!」
「一つに、なろうぜ、瀬人」
「ひっ!……ぐっ………はっ………あぁああああ!」 

 男の唇が離れたのと、瀬人が強い痛みを伴った衝撃を受けたのは同時だった。汗に滑る肌がぶつかり合い、音にならない音を立てて、瀬人のきつい肉が男を全て飲み込んでいく。縛られたままの両手は襲い来る痛みにただ強く握り締め、耐えるしか術はなく、半開きになった口からは絶叫にも似た悲鳴が鋭くあがった。

 一瞬にして緊張に塗れたその身体を、男はきつくかき抱く。

 やがて緩やかに動き出した男の動きに合わせて瀬人は自らも腰を振り、耐え難い痛みを散らそうと懸命に男の動きを追い始めた。戒められた手首が痛い。眼前で揺れる男の身体にしがみつく事すら出来ない。もっと言いたい事があったのに、喘ぎ声に邪魔をされて言葉を紡ぐ事も出来ない。

 涙が、ただ頬を熱く濡らす。しゃくりあげる声と共に、男の名を呼ぶ。
 

「あ、んっ!……はぁっ……あぁっ……──── っ!」
 

 紡がれたその声に、男は一瞬だけ顔を歪めた後、一際大きく瀬人の身体を貫いて、己の精をその最奥に叩き付けた。同時に瀬人自身も弾け、生暖かい白濁が男の腹に、頬に散る。
 

 唇にも飛んだそれを、赤い舌で舐め取って、男は強く腕の中の身体を抱きしめた。
 

 ── 言葉もなく、強く。
「……本当は、こんなつもりはなかったんだがな……」
「……フン、どうだか」
「つもりはなかったんだが、お前が余りにも強情を張るから、つい、な」
「……オレの所為にするな」
「元はと言えばお前の所為だ。自分の身体を大事しないからそうなる」
「……別にオレがオレの身体をどうしようと勝手だろう。貴様には関係ない」
「いや、あるぞ」
「オリジナルだからか」
「そうじゃない。……お前は」
「?……なんだ」
「いや、いい。疲れているところを余計に疲れさせて悪かった。もう一眠りした方がいい」
「……貴様の指図は受けないと言った」
「いいから眠れ」
「………………」

 洗い立ての髪に優しく指を滑らせると、眼下の身体は諦めたように弛緩して、小さな吐息を一つ吐く。やがて緩やかに繰り返される寝息に、彼が眠りについた事を知り、男は天を振り仰いで嘆息した。

 あの後、男の目論見通り意識を失ってしまった瀬人を、そのまま寝台に落ち着かせて数時間。気付けば外は太陽の光に満たされていた。その光が強く室内に差し込む正午になって、漸く一度目を覚ました瀬人に、多少の気まずさを覚えながら謝罪をした男は、強い一瞥と「もういい」という一言で許しを得て、そのまま入浴まで手伝わされた。そして今、再び深い眠りについた彼を見つめている。

 シーツの上に投げ出された、白い手首に残る僅かな擦過傷に、少しだけ胸が痛む。

 始まりは、大切にしたいという気持ちだった。けれど、男がしてしまったのは、それとは裏腹な、傷つける行為だった。

 苦い笑みが口の端に浮かぶ。

「……悪かった」

 小さく放った謝罪の言葉は、眠る瀬人には届いていないのだろう。けれど。

「………………」

 男は、徐に瀬人の手首を取り上げて、赤紫に変化した肌に口付けた。癒すように、何度も。

 その時だった。

 握り締めた瀬人の手首がぴくりと反応し、力なく預けられたままだったその掌が男の頬に伸ばされる。
 

「……オレは、分かっていた」
「………………!!」
「……貴様に言われなくても、分かっていた」
「瀬人」
「……ただ、意地になっていた。それだけだ」
 

 刹那、ぱたりと瀬人の手がシーツに落ちる。言いたい事だけ口にした彼は、すぐまた眠りの世界へと旅立ってしまったらしい。男は、ただ呆然とすうすうと寝息を立てる瀬人の顔を見下ろしていた。今耳に届いた台詞の意味を、考えながら。
 

「……そうか。ならば、いい」
 

 そう、分かっているのなら、それでいいのだ。ただの意地っぱりならば……慣れている。何にそんなに意地になっていたのかは分からないが。これに懲りたのならもう同じ事は繰り返さないだろう。優秀な学習能力を誇る瀬人の事だ。その点は心配ない。
 

「まぁ、出来れば。誰にも、自分の身体にも迷惑が掛らない意地の張り方をして欲しいものだがな」
 

 ぽつりとそう呟いて、男は今度は彼の唇に、小さなキスを一つ落した。
 即座に手で擦り取られてしまったけれど。構わない。

 瀬人が起きたら、夜までの残りの時間を何をして過ごそうか。

 そんな事を考えながら、男は緩やかに寝台から立ち上がる。
 モクバに、もう大丈夫だと伝えに行くために。

 男の足音が広い室内から消えていくその瞬間、眠りの淵にいる瀬人が、小さく何かを呟いた。
 

 ── それは、『愛』のつく好意的な言葉だったが、男には当然聞こえる筈もなかった。