Act1 この可愛い子が、まさか

「おはようカイ!朝食出来てるけど、兄サマは?」
「おはようモクバ。瀬人なんだが……その……」
「?あれ、お前兄サマと一緒じゃなかったのかよ。兄サマ、どこか行ったの?」
「いや、それが」
「なんだよ歯切れ悪いな。居るのか居ないのかはっきりしろよ。あー!またお前兄サマにしつっこくして嫌われたんだろ!」
「なんでもオレの所為にするな。そうじゃない」
「じゃ、なんだよ」
「……とりあえず、一緒に来い」
「え?何?嫌だよオレ兄サマの寝室に入るの!見たくないし!」
「大丈夫だ。いいから来い」
「ちょ!お前持ち上げんなよ!卑怯だろ!こらっ!!」

 そう男が口にした瞬間、ひょいと首根っこを掴まれて荷持宜しく軽々と担ぎ上げられたモクバは、有無を言わさずそのまま寝室へと拉致される。

 兄達の夜事情を嫌という程分かっている彼は、その現場を目撃させられるのかとかなり警戒していたが、常日頃から軽い調子の男もそういう事に関しては常に配慮をしていたし(多分瀬人がそう徹底しているのだろう)、今もふざけた様子は微塵もない。

 故に本当に何事か起きてしまったのかと今度は別の意味で身構えたモクバだったが、男が寝室の扉を開けて中に入り、ベッドの上を指し示した瞬間、絶句した。

「……何『コレ』。兄サマは?」
「いないんだ」
「はい?」
「だから、瀬人がいない。変わりにここに眠っていたのが『コレ』だったのだ」
「ど、どういう事だよ?!え?兄サマは何処ッ!」
「オレが知りたい!瀬人は何処だ?」

 彼等が大騒ぎする目線の先、大の大人が二人寝てもまだ余裕のある豪奢な天蓋付きベッドの中央には、その大きさに対して余りにも不釣合いな膨らみがちょこんと存在していた。最上級の手触りを誇る暖かなブランケットの下にいるらしい『それ』は、男曰く『見知らぬ小さな子供』だと言うのだ。

 昨夜腕に抱いて眠ったのは確かに瀬人であった筈なのに、今朝起きてみたら、あのどこに転がっても目立ちそうな細長い身体は何処にも無く、変わりにこの子供が男の腕の中にいる体勢のままで、安らかな寝息を立てていたらしい。

 余りに余りな事態に一瞬何が起きたか分からなかった男は、その子供の事をよく調べもせずに部屋を飛び出し、たまたま朝食の用意が出来た事を知らせに来たモクバと運よく鉢合わせたのだ。そして、現在に至る。

「……どこからどう見ても小さな男の子だね。お前、心当たり無いのかよ。精霊界から連れて来たんじゃないの?」
「心当たりなどある訳無いだろう。あっちにはこんな子供はいない。お前は?」
「オレが知る訳ないだろ!大体この家にオレ以外に子供なんて………って、あれ?」
「?……どうかしたか?」
「……え、まさか違うよな。……でも……」

 男とそんな会話を交わしながらブランケットを巻くり上げ、何か不思議なものを見る様にしげしげとその『子供』を眺めていたモクバの動きが不意に止まった。そして、確かめる様にそっと髪をかきあげる。

 瞬間、何かを確信したようにモクバは一つ頷くと、酷くぎこちない動きで背後の男を振り向いた。  

「おいモクバ」
「……兄サマだ」
「何?」
「この子、兄サマだよ。だってほら、もうブカブカで全然役に立ってないけど、身体に巻きつかせてるのって兄サマのパジャマだし、それにここに薄い黒子もあるでしょ。間違いないよ」
「……そんな所に黒子などあったか?」
「あったの!ってお前は別に知らなくていいけど」
「よし、今度見てやる。他には何処にある?」
「そういうのは後にしてくんないかな。とにかく、この子がもし兄サマだとしたら一体なんだってこんな子供になっちゃったんだよ?!」
「オレに言われてもな。昨日は別に普通の事しかしてないぞ」
「……何が普通かは言わなくていいから。他に何か変わった事は?」
「特に覚えがない。ああ、でも最近変な所にゲートが出る様になったな。こちらの事情ではなくあちらの事情の様だが」
「ゲート?」
「精霊界と人間界を繋ぐモノだ。そう言えば昨日、この部屋に一瞬だが出現していた」
「それだよ!」
「だがそれと瀬人のこの状態とどう関係が……」
「関係なんてどうでもいいぜぃ!何か理由が欲しいだけだから!じゃあそういう事にしよう!決まり!」
「……決めていいものなのかそれは」

 事態が事態故にモクバも少しパニックになっているのか、いつもの冷静さは何処へやら殆ど投げやりに決めつけ、「とにかく兄サマを元に戻さなきゃ!」と原因すらも曖昧なのにも関わらず、そう口にしたその時だった。

 それまで、ぴくりとも動かずに眠っていた瀬人(仮)が漸く少し身じろいだと思った瞬間、急にむくりと起き上がり、ベッドサイドで顔を突き合わせていた二人を見上げた。

 まだ半分しか開いていないとろんとした眼差しを向けるその瞳は、酷く綺麗なクリアブルー。寝癖で少し跳ねてはいるもののさらりと揺れた栗色の髪と相まって、二人はそれを見た瞬間、確信した。この子は瀬人だ。間違いない、と。

「……あ、兄サマ?」
「……瀬人?」

 その確信に勇気づけられる形で彼等は思わず『彼』に向かって同時にそう声をかける。その様を寝起きのぼんやりとした顔で暫く見ていた『彼』は、ほんの少しの沈黙の後、困った様に小首を傾げてこう言った。

「……誰?」

 鈴を転がすような声、というのはこう言うのを言うのだろうか。広い広い寝室にやけに良く響いたその声と、その容姿に見合ったなんとも可愛らしい仕草に、年齢不詳の大男一名と、『彼』の弟である筈のKC副社長は同時にぐっと右手を握り締めて「くう〜っ!」と呻いてしまう。

「か、可愛い〜!可愛いよ兄サマ!どうしようカイ!」
「これは本当に瀬人なのかモクバ。有り得ない程愛らしいんだが!」
「兄サマだって子供の時は可愛かったに決まってるだろ!こんなにとは思わなかったけどさ!」
「しかし……おい、瀬人。お前、自分の名前が分かるか?オレの事と、こいつの事は覚えているか?」

 モクバがはっきりと思い出す事が出来るのは、瀬人がもう少し大きくなってからだ。全体的に『これ』よりは成長していて、考え方も表情も、もっと大人びていた気がする。モクバの前ではそう見せないように努めていたのか、あの頃の兄はこんな風に無防備な態度で人の前に大人しく座っていたり、可愛らしく小首を傾げる様など見た事がない。

 モクバに取って兄は最初から『完璧な』海馬瀬人だったのだ。

「兄サマっ!オレ、モクバだよ!兄サマの弟の!覚えてないの?!」
「…………?」
「首を振っているぞ。知らないんじゃないか?」
「えぇ?!」

 そんな記憶の中にすら存在しない兄の姿にモクバが戸惑っていると、その身体を押しのけるように男が身を乗り出し、子供を相手にするには少々ぶっきらぼうな物言いでとりあえず自分の疑問を口にしてみる。

 しかし、『彼』……十中八九瀬人らしいと判断されてしまった子供は不可思議な表情で顔を傾けるばかりだった。その様を少しだけ悲し気に見下ろして、モクバが頭を抱えそうになったその時だった。じっと見つめる瞳に不意に『ある事』を思い立ち、ポン、と手を鳴らして瀬人へとなるべく優しく訊ねてみる。

「……あ、待てよ。兄サマ、今幾つ?……って、兄サマじゃ分かんないか。えっと、君は何歳?」
「………………」
「5?……5歳という事か、モクバ?」
「やっぱり」
「何が、『やっぱり』なのだ」
「この兄サマ、多分、オレが生まれてくる前の兄サマだ。だからオレの事を知らないんだよ」
「ん?」
「ああもう!お前は難しい事考えなくていいから、ああそうかって納得してればいいの!」
「分かった」
「素直でよろしい。で、どうすんの?兄サマがこうなったのは、多少なりともお前が関わってるんだろ!」
「それはお前が勝手に決め付けただけで、実際どうかは知らないぞ」
「兄サマがずーっとこのままだったら海馬コーポレーションが潰れちゃうだろ?!なんとかしろよ!」
「なんとか、と言われてもな……なぁ、瀬人?」

 原因すら定かではないのに解決法など分かる訳がない。

 そう一人ぶつぶつと文句を言いながら、男は心底困り果てた顔で目の前にいる小さな存在に話しかけた。

 相変わらず口を開かない瀬人は、じっと伺う様に男の事を見ていたが別段警戒はしていないようだった。元より少し大きめだった瞳が尚更大きくなり、丸く柔らかな輪郭も相まって至極可愛らしい。静かすぎるその様子やあどけない表情に、これが本当に「あの」瀬人と同一人物かと疑わしくなる程愛らしい姿だった。  

「……何にやにやしてんだよ。真剣に考えてんのか?」
「勿論だ。瀬人の一大事なんだからな」
「その割にぜーんぜん焦ってないみたいだけど」
「お前もそうじゃないか」
「そんな事ないよ。ただ、兄サマ可愛いなぁって」
「うむ、可愛いな」
「抱っこしてみたいんだけど、させてくれるかな」
「オレが先だ」
「えー。じゃあジャンケンしようぜぃ。勝った方が先に抱っこするってのはどう?」
「よし。望む所だ!」

 その後、部屋には賑やかな「ジャンケンポン」のかけ声が響き渡り、その言葉とは裏腹に事態をちっとも深刻に考えていない二名が、瀬人の抱っこ権を奪うべく壮絶な争いを繰り広げた。そんな彼等を尻目に、その争いの中心人物である瀬人は、小さな欠伸を一つすると、再びブランケットの中へと潜り込み、安らかな寝息を立て始めるのだ。  

「オレの勝ちだぜぃ!って、兄サマ寝ちゃってるし!!」
「結局ほとんど話さなかったな。コレは本当に瀬人なのか?」
「寝起きの兄サマなんてこんなもんでしょ。お前が一番よく分かってるじゃん」
「あぁ、なるほど。確かに」
「もう一回眠って、次に起きたら元に戻ってるかもよ?寝かせておこうよ」
「……そんな単純なモノなのか?」
「わかんないけど」

 そうだったらいいなぁ…と半ば希望を込めて呟いたモクバの言葉は、残念ながら現実にはならなかった。

 数時間後。漸く起き出した瀬人を目の前に、二人は大きな溜息を一つ吐きながらも再び「可愛い」を連発し、目じりを下げて抱っこをさせろと息巻くのだが、それはまた別の話である。