Act1 もう限界

「まだ終わらないぞ。黙って待ってろ」
「……うーん。そう言ってもう1時間経つんだけどなぁ。いい加減パソコンをやめて、僕の相手をしてくれない?」
「つまらないなら帰ればいい。勝手に押しかけて来て邪魔をしたのは貴様だろう」
「あ、邪魔って言うんだ。君がメールをくれたから飛んできたのに」
「………………」
「折角、三週間ぶりに、会いに来たのに」

 そういう事言うんだ。酷いよ、海馬くん。

 そう口を尖らして、遊戯は大人しく座っていたソファーから立ち上がる。前のテーブルに置かれた白い珈琲カップと可愛らしい白い皿はとっくの昔に空になっていて、放置された菓子の包み紙がその動きに合わせてふわりと揺れる。

 そんな遊戯の様子にも特に頓着した様子はなく、海馬は相変わらず目の前のPC画面に釘付けだった。多少は気配に気付いているのか、先程よりも少し落ち着かない様子ではあったが衰えない指先のスピードに、遊戯は密かに溜息を吐く。けれど、決して落胆はせずに、静かに海馬の元まで歩んでいった。そんな彼の姿に、漸く海馬の視線がこちらを見る。

「……なんだ」
「もう、海馬くんが構ってくれないなら、僕が構っちゃうからね」
「だから、オレは今忙しいと……」
「だからは僕の台詞でしょ。だったらどうしてメールをくれたの?僕が邪魔なら『帰る』メール、寄越さないで黙ってれば良かったでしょ」
「……それは貴様が」
「うん、僕が海馬くんに言ったんだよね。帰ってくる時はちゃんと教えてって。でも、今まではそんなメール、くれた事なかったじゃない。どうして今日はメールを送ってくれたの?」

 ほんの数ミリずつ海馬との距離を縮めながら、しかし決してその身体には触れずに遊戯はそう問いかける。特に詰問しているつもりはないが、この一時間の間に溜め込んだ不満がつい表に出てしまい、普段よりも少しきつい口調になってしまった。そんな遊戯を、海馬は僅かに驚いた顔をして眺めている。

 夕闇が部屋のトーンを徐々に落とし、こちらを見る白い顔が既に灯されたデスクライトの青白い明りに照らされて至極はっきりと目に映る。どんな表情をしていても、やっぱり目の前の顔は凄く綺麗で。三週間ぶりにやっと間近で見る事が出来たそれに、遊戯は自分が今何をしていたかも忘れてつい見とれてしまう。

 三週間。……そう。海馬の長期海外出張のお陰で、二人がこうして互いの顔を見つめるのは本当に三週間ぶりの事だった。そして恋人になってから三週間も離れていたのは、その実始めての事だったのだ。

 主に海馬が鬱陶しがる為、メールも電話も全くマメじゃない二人だったから、その顔は勿論声も一切聞く事はなく、ニ週間を過ぎた頃には出立前に送られてきた素っ気無い三行の文章にまで恋焦がれ、遊戯は寂しくてもう限界だ、と思っていた……そんな時だったのだ。
 

 海馬から『今日帰る』と、実に簡潔なメールが舞い込んできたのは。
 

「ねぇ、海馬くん」
「……なんだ」
「僕ね、すっごく寂しかったんだ。こんなに長く君に会えないのって、始めてだったから。寂しくて寂しくて、ウサギみたいに死んじゃうとこだった」
「何を下らない事を言っている」
「海馬くんは?」
「何?」
「海馬くんは僕に会えなくて、寂しくなかったの?こうして僕が会いに来てるのに、凄く素っ気無くってさ。邪魔者扱いして」
「……邪魔者になんか」
「じゃ、本当は、寂しかったんだ?」
「ふざけるな!別にオレは寂しくなど!」
「あ、そ。そういう事言うんだ。じゃあ僕、このまま君を置いて帰ってもいいって事だよね。さっきも帰れって言ってたし」
「………………」

 ほんの少し意地悪な気持ちを抱きながら、遊戯はそう言って拗ねてみせる。こんなに近くにいるのに未だ指先一つ触れないで、吐息が触れるか触れないかの微妙な位置で決して手を伸ばさずに遊戯はそう口にする。途端に海馬の眉が僅かに動き、表情が変化する。夜の闇に沈んで行く所為だけではないその沈鬱な眼差しに、遊戯は心でやっぱり小さな溜息を吐く。そして声に出さずにこう呟いた。
 

 ああもう、素直じゃないんだから。
 

 そう、彼はいつもそうなのだ。本当は海馬だって遊戯と同じく会えない事を寂しく思っていた筈で。その証拠に普段は滅多に寄越さないメールが今日に限ってちゃんと送られてきた。たった一言、しかも酷く素っ気無いつまらない文面だったけれど、その数文字で遊戯には全て分かったのだ。小さなディスプレイの中に文字として表示されていなくても、その文を送った時の海馬の気持ちが見えていたから。

 帰ってくるから、会いに来い。……そう言っているのが分かっていたから。

 だからこそ、遊戯は今日の予定を全てキャンセルして、取るものも取らず海馬の元へとやって来たのだ。自分の顔を見た瞬間、熱烈とまでは行かなくても普段よりは少し友好的に出迎えてくれるんじゃないかと多少の期待をしながら、学校から真っ直ぐに、早足で。

 けれど、目を輝かせて扉を開けた自分を待っていたのは、普段と全く変わらない飄々とした態度の海馬瀬人で。自分でメールをした癖に「何をしに来た」と言わんばかりに抑揚のない声で、今手放せない仕事をしているから少し待ってろと言い捨て、菓子と珈琲を与えたきり放置したのだ。この、顔は綺麗だけれど……全く可愛げのない恋人は。

 そんな態度をされてしまったら、少し意地悪をしたくなるのも仕方がない。

 そう思いつつもその言動の端々からあのメールと同じ見える形で表現できない海馬の気持ちが伝わってきて、遊戯は肩を竦めたい気分になる。そんなある種の諦めめいた気持ちが先程の「素直じゃないんだから」には含まれている。

 そう、本当に素直じゃないのだ。何時の間にか縋るような眼差しに変わっている目の前の瞳も、きゅっと結ばれたままの唇も。その全てで遊戯の台詞を肯定しているのに、それをはっきりと分かる言葉にはしてくれない。
 

「ズルイなぁ、海馬くん」
 

 不意に遊戯の唇から、そんな声が漏れ出てしまう。本当は、口にするつもりなどなかったのに、海馬の顔を見ながら色々なことを考えていたら、つい口をついて出てしまったのだ。あっ、と思って慌てて唇を閉ざしたけれど、もう遅い。その言葉にあからさまに変化した顔に遊戯はすぐに後悔して取り繕おうとしたが、その後あっさりと諦めてしまう。

 だって、それは本心なのだ。心の底からそう思ったことなのだ。我慢して我慢して、何も言わずに済まそうと思ったけれど、これまで蓄積された寂しさも相まって、もう限界だった。限界ついでに、今全部言ってしまおう。そう、思った。

「何が、ズルイのだ」
「うん、海馬くんはズルイよ。だって、絶対海馬くんも寂しいはずなのに、何にも言わないんだもん。そんな目をしてさ、僕が折れるのを待ってるだけじゃん」
「………………」
「今までは我慢してたけど、僕、もう我慢しないよ。ちゃんと海馬くんが『僕に会えなくて寂しかった。会いたかった』って言ってくれるまで、お帰りって言ってあげないから」

 この距離だって、このままだよ?

 その声なき声に、キーボード上で何時の間にか静止していた細い指先が僅かに強張る。遊戯の言葉はちゃんと海馬の心に届いているのだ。その証拠に寂しげな表情から一転して羞恥と怒りがない交ぜになった目の前の顔は、ほとんどやり込められる形となった遊戯をしっかりと見下ろしていて。悔しそうに噛み締められた唇が、僅かに震える。

 けれど、やはり海馬も色々と限界だったのだろう。

 普段ならば決して折れない意地っ張りなその心は、遊戯の攻撃にあっさりと硬化を解き、伏せられた瞳と共に白旗をあげる。

 ゆっくりと……本当にゆっくりと先程とはまるで違う、遊戯を睨む為ではなく見つめる為に上げられた白い顔は、深い溜息を一つ吐いた後、緩やかに遊戯の元へと降りてくる。頑なにキーボードから離れなかった指先も、何時の間にか許可もなしに些か頼りない肩を抱き、強く引き寄せた。そして。

 耳元で、小さく遊戯が言えと言った言葉を囁いた。

 常日頃の声からは想像も出来ない、か細く掠れた声だったけれど、それでもしっかりと遊戯の耳に、心に……海馬の言葉は届いたのだ。

 半ば奇跡にも近いその貴重な一言に、遊戯は漸く海馬に心からの笑みを見せて、彼もまたずっと焦がれていた細く大きなその身体に手を伸ばし、力の限りに抱きしめた。そしてお返しとばかりに酷く近い位置にある形のいい耳元で、最大限の優しさを込めて、こう言った。
 

「お帰りなさい、海馬くん」
 

 それから互いに限界だった二人は、その気持ちを行動で示すべくつまらないその部屋を抜け出して、離れていた時を埋めるように思い切り抱き合うのだ。
 

 疲れ果て、最後にもう一度「寂しかった」と口にして、眠りにつくまで。