約束から始まる未来 Act1

『君は何処に行ってもいい。何をしてもいい。誰を好きになってもいい。けれど……次に僕の所に来た時には、君を捕まえて二度と手を離さないから。誰がなんて言っても、君が嫌だと言っても、絶対に』

『その覚悟が出来たなら、戻って来て。僕は待ってる。出来ないならそう一言電話して。そしたら、きっと泣きながら諦めるから』
 

『好きだよ、海馬くん。僕は、君が好きなんだ。だから、約束して?』
 

『僕には君との距離なんて、関係ないから』
「兄サマ、引き継ぎは殆ど終了したよ。後は簡単な挨拶だけかな」
「お前の方の手続きはどうした。書類は全て提出したのか」
「うん!昨日卒業証明を貰って来た。必要単位はとっくに取ってたから。こっちはいいよね。全部単位制だから」
「そうだな」
「向こうに行ったら暫くは会社の方に専念出来るね。大学には行くつもりだからちょっとの間だけど」
「ならば最初からこちらに残れば良かったのだ。どうせ日本の大学には行かないのだろう?」
「勝手に決めないでくれる?まだ考え中だよ。兄サマこそ、もうこっちには戻って来ないつもりなんでしょ。身辺整理終わってるの?」
「それこそ勝手に決めるな。誰も戻らないとは言ってない」
「じゃあなんでニューヨークのマンションとロス郊外の別荘まで処分したのさ」
「別に深い意味はない」
「嘘吐きだなぁ、兄サマは。ま、いーけど」
 

 全面透明な硝子で作られた背後の壁から差し込む赤みの強いオレンジの光が溢れる中、紺のスーツを完璧に着こなした背の高い少年は、その身長とそれに付随して酷く大人びて見える顔を年相応に輝かせて微笑んだ。

 夕暮れの、海馬コーポレーションアメリカ支社最上階にある社長室。

 他の部屋とは比べ物にならない程豪奢で重厚なその空間は、常に瀬人が持ち込む書類や様々な商品の試作品などで溢れていたが今はそれらの影も形も無く、物が一切置かれていないやけにすっきりとしたデスクと、一対のソファーセット、そして空のキャビネット以外何も無かった。

 そこを長年愛用していた瀬人本人も今日限りでこの部屋を後にする。彼の目の前で笑っている少年と共に。
 

 彼等がこのアメリカの地に腰を据えてから既に五年の月日が経っていた。
 

 その間、瀬人は脳裏に描いていた壮大な計画の全てを恐るべき速さで実現し、既にこの地で彼が直々にやるべき事など殆ど残されてはいなかった。もう少し、後少し、地盤が強固に固まる迄は指揮を取って欲しいと周囲からの必死な懇願がなければもっと早くここを後にするつもりだった。けれど結局予想以上の時間がかかってしまった。

 たかが五年、と人は口にするかもしれない。しかし、瀬人にとっては一刻一秒が惜しい日々だった。こうしている間にも当然時は流れて行く。胸に抱く想いと共に。

「五年かぁ。結局兄サマは一回もあいつと連絡を取らなかったんだね」
「……なんの話だ」
「別に。オレの独り言だよ。兄サマ、ずっと一人で寂しく無かった?」
「そんな感情を持つ暇などあったと思うのか?」
「うーん、そうだね。確かに無かったかも。だって兄サマ、こっちに来てから日本に居た時以上に忙しくしてたもんね。何時寝てるの、って思った位」
「そんな事はない」
「無自覚って言うのが一番怖いんだよ。今だから言うけどさ、結構オレの所にヘルプコール来てたんだからね。知ってる?長期休暇取った連中、みーんな神経性胃炎で入院してたんだぜ。どれだけ兄サマが苛めたか分かるでしょ」
「苛めてなど無い」
「その兄サマだって何回過労でドクターストップ掛かったっけ?普通の人ならとっくに死んでるレベルだよ。周囲に意見を言える人間がいないって怖いよね。日本じゃこうはいかなかったと思うけど」
「………………」
「でも、それも全部……今日の日の為だったんだよね」
 

 一刻も早く、『あいつ』の所に帰る為に。
 

 最後は声に出さずにそう呟いて、モクバはいつの間にか自分よりも僅かに低い位置にある、白い顔を見下ろした。あれから五年という月日が経ったにも関わらず彼には少しの変化も見られない。

 故にモクバはこうして瀬人と見つめ合う時、本当は月日が経った事など夢の話に過ぎず、時など少しも動いてはいないのではないかと錯覚してしまう。けれど勿論そんなのはただの錯覚で、驚く程伸びてしまった自分の身長やアメリカ各地で人気を博している海馬ランドの輝かしい功績を見れば、嫌でも五年という年月が経過した事を思い知らされる。

 そう、確かに現実の時は流れている。

 けれど、目の前に佇む瀬人の『心の時』は、変わらない外見と共にやはり止まったままなのだ。
 

『……オレはお前に連絡を取ってもいいだろ?兄サマの事、教えてやるよ』
『ありがとうモクバくん。でも、海馬くんの事は何も教えてくれなくていいよ。僕にメールをくれるんなら、君の話だけをして欲しい』
『なんでだよ。兄サマの事、本当は心配してるんだろ?全然連絡を取らないなんて、なんでそんな馬鹿な事決めたんだよ?!』
『だって……電話でもメールでも、たった一言でも海馬くんの言葉を聞いてしまったら、じっとしていられなくなっちゃうもん。だから僕は、海馬くんが直接僕の所に会いに来てくれるまで全部我慢する事に決めたんだ』
『我慢なんかしなくたっていいじゃん。会いたい時は何時でも会いに来ればいいだろ?!時間とかお金とかの問題ならオレが幾らでも何とかしてやるよ!だから!』
『うん、でも……もう、決めたから』
『遊戯!』
『海馬くんも、それでいいって、そうしようって言ってくれたから』
 

 だから僕は、もう彼には会わない。

 そう言って、何時もと変わらない酷く優しい笑みを見せた遊戯の顔をモクバは今でも良く覚えている。

 旅立ちの数時間前、既に兄はアメリカへ向けて出発し、ニューヨークシティに降り立っている頃だった。瀬人との最後の時間を海馬邸ではない何処かで過ごしていたらしい遊戯はその足でモクバも見送る為に、町にある唯一の国際空港へとやって来ていた。

 専用機で発つモクバに取って出発時間などあって無い様なもので、いつそこから姿を消してもおかしくない状況だったが、何故か遊戯は正確にモクバの行動を把握して、無事別れの挨拶を交わす事が出来たのだ。大方、その情報源は瀬人から出たものだろうと思ったが、モクバは特にその事について触れる事は無かった。

『さようなら、モクバくん。元気でね』
『……兄サマにもちゃんとさよならしたのかよ』
『うん、したよ。笑顔でね』
『兄サマは、絶対日本に戻ってくるよ。だから、浮気すんなよ』
『しないよ。出来るわけないじゃん。僕は海馬くんの方が心配だなぁ』
『馬鹿』
『あはは、分かってる』

 寂しさを堪えた辛そうな顔で、それでも笑ってモクバを抱き締めて来たその身体からは、仄かに甘い……モクバにとっては馴染み深い『彼のものではない』匂いがした。

 大好きだった、兄の恋人。

 背を向けて歩き出すモクバに向かって、いつまでもいつまでも手を振っていた、どこか幼さが残るその姿。モクバにとってもあの会話とあの姿が武藤遊戯に関する記憶の最後だった。結局メールも電話も出来なかった。

 してしまったら、きっと彼との約束を破ってしまうだろうから。
 

「早く会いたいね」
 

 あの柔らかな笑顔に。心の底から安らげるような優しさに。

 勿論それは自分だけじゃなくて、隣に立つ瀬人の方が何倍もそう思っているだろうけど。
 

 モクバはそれきり何も言わずに無言のまま身体の向きを変え何処までもクリアな硝子の向こうに広がる赤い夕陽を見つめ続ける瀬人の姿を眺めていた。
 

 ── 出立の時刻まで、後少し。