約束から始まる未来 Act2

「海馬くんは……誰が好きな人、いる?」
「……藪から棒に何の話だ?」
「あ、ごめん。ずっと気になってたから。今がチャンスかなぁって。丁度誰もいないし」
「こんな簡単な数式も解けずに唸ってると思いきや、貴様が考えていたのはそんな下らない事だったのか」
「下らないとか酷いなぁ。確かに考え事もしてたけど、この問題が解けないのはその所為じゃないよ。全然分からないんだ」
「授業をきちんと聞いてさえいれば簡単に解ける問題だと思うが」
「きちんと聞いてても解らないものは解らないのっ!もうっ、意地悪言ってないで教えてよ!君は先生に僕達の事を任されたんでしょ?責任があるんだからねっ!」
「……単位取得の為とは言え、面倒を押し付けられたものだ。貴様はまだしも、凡骨など速攻逃亡したではないか。後で首に縄でもかけて引き摺って来なければなるまい」
「……あー、えっと。城之内くんの事は許してあげて欲しいな」
「何故だ。バイトがあるからか?いかな理由があろうとも奴の逃亡を見逃してやる義理は無い」
「そうじゃなくって。えと、今日の事は僕が城之内くんに伝えなかったんだ」
「何?どういう意味だ?!」
「ご、ごめん。そんな怖い顔して迫らないで!……その、君と二人きりになりたかったんだ。だから、城之内くんには内緒にしてて……先生にはちゃんと言っとけって言われたんだけど」
「……訳が分からん。何故そんな事をする」
「だから、一番最初に聞いたでしょ?君には誰か好きな人がいるのって」
「は?話が全然繋がってないではないか!ふざけるな!」
「ふざけてないよ!僕の中ではちゃんと繋がってるの!……で、どうなの?」
「うるさい、貴様に答える必要は無い!!」
「僕はいるよ。夜も眠れなくなる程に好きな人が」
「……そんな事は聞いて…っ」
 

 ── 今、目の前に。
 

「好きだよ、海馬くん。君の事が、凄く、好き」
 

 カツン、と小さな音がして安いプラスチック製のシャープペンシルが床に転がる。一切の音が消えた教室内で、唯一耳に届いた響きはそんな何でもないものだった。けれど、その音は今でも鮮明に瀬人の記憶に残されている。

 始まりの音。予想だにしなかった未来への道が現れた音。

 いつの間にか近くに迫っていた、年齢の割に酷く幼い顔をしたクラスメイトの今まで観た事も無い様な真剣な顔が、強い眼差しが、余りの事態に絶句する瀬人の視界全てを支配していた。感覚を研ぎ澄ませれば吐息さえも感じられる距離。一体何が、そう思う前に机の上に無造作に置いたままだった左手に熱い手が触れた。そして長さの違う二つの指先が重なり合う。

 瞬間、大きな音がして瀬人の身体が反射的にそこから離れた。指先が空を切り、顔を仰け反らせた所為で僅かな乱れもなかった栗色の髪がふわりと舞う。元より傷だらけの床にもう一本、パイプ椅子の引き摺り痕が追加され、瀬人の内履きのゴム底がキュ、と耳障りな悲鳴をあげる。その当人も今にも叫び声を上げそうな顔をしていた。

「な、にを言っている?」

 ややあって、色々な感情が複雑に混じり合い、最終的に驚愕と憤怒が残った様な表情でじろりと遊戯を睨めつけた瀬人は、それとは裏腹にやけに掠れた声でそう口にする。そんな彼にこちらは至って平静な様子でその様を眺めていた遊戯は、全く悪びれもせずに「急にごめんね」と謝罪すると、全く表情を変えないままさらりと言った。

「……本当なんだ。僕は君が好きで。夜も眠れない程君の事ばかり考えてる」
「貴様、気でも狂ったのか?対象がおかしいだろう!」
「うん。僕も最初はそう思ったんだ。こんな事、おかしいんじゃないかって。だって海馬くんは男の子だし、友達って呼べる間柄でも無かったし、昔は酷い事もされたし……好きになる要素なんて全然ない」
「当たり前だ!」
「けど、好きになったんだ。理屈じゃなくって。傍に居たいなぁって思うし、君の事を知りたいとも思う。……何でって聞かないでね。理由、分かんないから」
「意味不明だ!」
「うん。僕もそう思う。そう思うんだけど……自分じゃもう何ともならないんだ。気持ちが暴走しちゃって止まらない」
「それで、この始末か」
「……そうみたい」
「馬鹿の考える事は良く分からん。いいか、忘れているようだから教えてやろう。人づてに聞いた話だが、貴様は確か真崎杏子に好意を持っているそうだな。ならば好き、という気持ちは今現在もそいつに向かっている筈だ。何故そこにオレが出て来る」
「杏子の事は好きだよ、勿論。でも、その『好き』と海馬くんに言った『好き』は違うんだ」
「当たり前だ。一緒にされてたまるか!」
「一々怒らないでよ。怒られたってどうしようもないんだからさ。あ、ちなみに逆だからね?」
「何がだ」
「杏子に対する『好き』と今僕が海馬くんに言った『好き』の意味。海馬くんが今考えてるのと多分、逆だから」
「………………?」
「杏子への『好き』は友達としての『好き』。海馬くんへの『好き』は恋愛感情込みの『好き』。……分かった?」
「はぁ?!ぎゃ、逆だろうが!」
「だから逆って言ったじゃん!!分かんないなぁもうっ!」
「開き直るな貴様!!この、変態が!!」
「変態って言わないでよ!傷つくでしょ!」
「やかましい!変態を変態と言って何が悪いのだ!何故よりによって貴様が……っ!怖気が走ったわ!!」
「ひど……っ!……でもいいよ。普通はそうだし。僕だって誰かに同じ事言われたら多分引いちゃうし」
「だったら…!」
「でも好きなんだ。好きで好きで、どうしようもない。苦しくて、切なくて、泣きたくなる」
「ちょ……ほ、本当に泣くな馬鹿がっ」
「だ、だって……ぅ……」

 もう僕だって一杯一杯だったんだ。

 消え入りそうな声でそう呟いた遊戯は、それきり唇を噛み締めてボロボロと涙を流し続けた。目の前に置かれた特別課題と称されたプリントの束に一つ、二つと大きな染みが出来て行き、慌てて瀬人が回避しなければそれは遊戯の涙でずぶ濡れになっていただろう。

 一体これは何事なんだ。何が起こった。訳が分からん。

 相変わらず頭の中は真っ白で事態が全く飲み込めない瀬人だったが、遊戯の言わんとしている事だけは嫌と言うほど理解した。目の前の男は自分の事が好きで、思いを告げた途端感極まって泣いてしまう程その想いは真剣だと言う事。何がどうなってそんな感情を呼び起こすに至ったのか、瀬人は勿論の事、当の本人にも分からないという至極複雑奇怪な現象だったが、現実にそうなのだからどうしようもない。

 けれど、どうしろと言うのだ、ソレを。いきなり告げられて大泣きされた所で瀬人にはどうする事も出来ない。

「……貴様の言いたい事は良く分かった。分かったが、今のオレはそれに対してどうこう出来る様な段階ではない」
「……うん。それは、勿論分かってる。君を困らせるつもりもないんだ。な、泣くつもりも全然なくって……今日だって本当は、ただ君に好きな人がいるかどうか、聞きたかっただけなんだ。……ごめん」
「聞いてどうするつもりだった」
「そ、それは……居ないって言われれば安心するし、いるって言われれば……ちょっと諦めがつくかも知れないし……」
「ふん、諦めるだと?何も聞かない内から勝手に泣いている様な奴にそんな真似が出来るものか」
「…………う〜……」
「唸るな。犬か貴様は。どうでもいいがその無様な顔を何とかしろ。仮にも好きな相手の前でさえまともに振舞えんようでは、貴様の想いなど一生成就などしないわ」
「ぶ、無様で悪かったね!どうせ僕は海馬くんと違ってカッコ良くなくってみっともない馬鹿男だよ!」
「……そこまで卑下するな。本当に阿呆だな」

 頬に幾筋もの涙の痕をつけて真っ赤な顔で睨み上げて来るその姿を見遣った瀬人は、先程の驚愕や憤怒をいつの間にか置き去りにして、本当に思わずと言った風に先程は全力で拒絶した目の前の身体に手を伸ばしてしまう。

 いつの間にかポケットに納めていたハンカチを取り出して、拭ってやるには些か乱暴な仕草で高級な素材で出来たそれを遊戯の顔に押し付けてやった彼は、遊戯が驚いて硬直しているのも構わずに顔全体にハンカチを滑らせると、ぽい、とそれを目の前に手の中に放ってやる。

「あっ……あの……海馬くん?」
「びしょびしょだ。くれてやる」
「……ありがとう。ちゃんと洗って返すよ。……でも、あの……」
「続きをするぞ。貴様が課題を終わらせないとオレも帰れん」
「あ、うん」
「それで、何が分からないのだ」
「こ、ここの問三なんだけど、使う公式を忘れちゃって……」
「成る程。では一度だけ説明してやるから全神経を集中させて聞け」
「はいっ」
「オレは今現在そういう意味で好きだと思える人間は皆無だ。無論貴様も含めてな。これからどうなるかは分からんが」
「はい……って、ええ?!」
「答えをやったのだから集中しろ!」
「しゅ、集中できません!」
「問答無用!」

 バシッと小気味いい音がして頭部に強烈な一撃を受けた遊戯だったが、瀬人から齎された少なからず希望のある答えに酷く幸せを感じてしまい、痛みなどまるで感じなかった。自然と緩んでしまう口元に再び左手が振り上げられたが、それが遊戯に振り下ろされる事はついぞなかった。
 

 五年前のもう秋も大分深まった、とある放課後の出来事。
 二人の距離がほんの少しだけ縮まったその日の事を、瀬人も、遊戯もつい昨日の事の様に覚えている。

 思えば本当に些細な出来事で。……けれど例えようも無い程大切な瞬間だった。

 好きだと言う言葉を初めて口にした日。想いを、伝えた日。伝えられた日。

 それからどうなるかなど全く予想が付かなかったが何故か遊戯は絶望だけは感じなかった。
 1パーセントでも望みがあればそれに向かって全力で突き進む。そんな強さを持つのは何も瀬人一人だけでは無かったのだ。
 

「ね。好きだよ」
「うるさい」
「いつか君も僕に好きだって言ってくれると嬉しいな」
「下らん希望を口にするな」
「海馬くんは過去の話には興味ないけど、未来の話には興味あるでしょ?だから僕はずっと未来の事を話し続けるよ。そして、いつも君の前にいる。振り返らなくてもいい様に」
「………………」
「あ、ちょっとクサかった?」
「……っ!真面目にやれッ!」
「真面目にやってるよー。ほら、出来たよ。君のお陰だね」
 

 涙で少し縒れてしまったプリントを持ち上げて見せつける様にひらひらさせた遊戯の顔は笑っていた。今泣いた烏がもう笑った。盛大な呆れの溜息と共にそんな言葉を思い出した瀬人は、それでも悪い気はしなかった。
 

 一年後、二年後、五年後、十年後。

 その時、オレ達はどうなっているのだろう。
 

「ね、一緒に帰ろうよ。ちょっとだけでいいから。僕、もっと海馬くんと話がしたい」
 

 そう言って手を差し伸べて来る遊戯は、確かに瀬人の目の前に立っていた。元々向かい合っていたのだからそうなるのは当然で何も珍しい事では無かったが、その姿に瀬人は何故か強く惹かれたのだ。

 好き、という感情が芽生えた訳では勿論ない。ただ、惹かれた。思わず、手を差し伸べてしまうほどに。
 

「海馬くんの手、冷たいね。これから冬になったら辛そうだなぁ」
 

 何気なくそう言って、まるで胸に抱く様に両手で優しく引き寄せるその仕草を、瀬人はただじっと見つめていた。何を言うでもなく、されるがままに任せながら。
 

 それが、全ての始まりだった。