I believe

 天から降り落ちてくる細雪も。
 夜になると煌びやかに輝くイルミネーションも。
 プレゼントも笑顔も、皆硝子越しに眺めるだけの、クリスマス。
 
 サンタクロースは、どこにもいない。
 

 その時刻になると機械的に鳴るようにセットされているチャイムの音が大きく響いた。誰もいない教室にやけに反響したその音に、海馬は軽快に走らせていたシャープペンシルの動きを止め、ふと教室の隅にかけられた壁時計に視線を向ける。午後一時。後二時間で、社に戻らなければならない。

 彼の手元にあるのは今学期の学期末考査と実力テスト。例によってテスト当日に登校する事が出来なかった為、既に冬休みに入った今日、一人で追試と言う形を取らせて貰った。

 12月25日。世間ではクリスマスと言われる日。

 何を見ても聞いても楽しげな文字や音楽、映像が浮かぶその日に、一人誰もいない学校で机に向かう。そうでなくとも会社でパソコンに向かい仕事をこなす彼にとって、クリスマスなどと言う単語はただの文字の羅列に過ぎなかった。勿論その時期に合わせて、クリスマスプレゼント狙いの商売には情熱を傾けたが、ただそれだけの事だった。

 クリスマスプレゼント。サンタクロースからの贈り物。そんな言葉を目にしながら、海馬は興味なさ気に溜息を吐く。子供の頃からそうした暖かさなどには無縁だった彼は、世の中の誰もが知るサンタクロースと言うその存在をつい最近まで知らなかった。否、知ってはいたもののまるで興味がない故に認識をしていなかったと言った方がいい。

 いい子にしていれば、サンタクロースがプレゼントを枕元に置いてくれる。

 その昔、どこかで読んだ本に書いてあったその文章に、そんな経験のない自分は悪い子なのだろうかと漠然と思ったくらいだ。自分だけではなく、弟のモクバだって似たようなものだった。自分はともかく、モクバはとてもいい子なのに何故サンタクロースはこないのだろう。全世界平等を歌うその存在も所詮他の人間と同じ、欺瞞に満ちたものなのだ。そう思い、興味をなくした。それだけだった。今もその気持ちは変わらない。

 勿論今ではその存在は架空のものだとは知っている。否、最初からそうだとおぼろげに思っていた。施設での最後のクリスマスの日、はしゃぐ周囲の子供を眺めながらぽつりとそう口にした海馬に、夢の無い子供だと周囲は嘲笑めいた笑いと共に吐き捨てた。事実、そんな下らない夢など必要なかった。海馬の抱く「夢」は夢想ではなく、将来自分で掴み取る現実だったのだから。

 大体何がサンタクロースだ。海馬コーポレーションの社長となりプレゼント自体は数多く貰えるものの、損得無しのプレゼントなど貰った試しは無い。勿論それらを寄越すのは胸に何らかの野望を抱く鼻持ちならない大人ばかりで、添えられたクリスマスカードには印字されたメリークリスマスの文字と、違う方向に心が込められたプレゼントカードの内容としては余りにも相応しくない数行の言葉のみだ。こんなものが幸せを齎すなどとはお笑い草だ、全く馬鹿馬鹿しい。

 今日も今日とて、これが終われば社に戻り、通常通りの職務をこなし、夜は提携企業が主催するクリスマスパーティに出席しなければならない。世の中の浮かれ気分にさらに利潤を絡ませた下らない集まりになど参加したくは無かったが、社長という肩書きを持つ以上それも仕事の内である。

 後数時間後に吸わなければならない、酒とタバコと匂いの強い香水が混じった不快極まりない空気を思い、海馬は心底うんざりして、空白をびっしり埋め尽くした計算式で導かれた答えを書き殴る。余りにも強く書いた所為で芯が折れ、床に飛ぶ。しかし気にせず新たな芯を出し、次の問題に取り掛かる。

 考える時間は必要ない。必要なのは記憶を探り出す手間だけだ。今手元にある問題など、数年前に全て理解し終えてしまった。見ただけで答えは出る。むしろ自分が問題を作ってやりたいくらいだ。温過ぎる。こんな簡単な問題に10点や20点を取る輩の顔が見てみたい。……まぁ知り合いの殆どがそんな頭の程度だから、大体あんな顔なのだろうが。

 最後の問題を解き終えて、海馬はふっと息をつく。一番好きな理数系が終わってしまった。残すは語学系の二教科のみ。英語はともかく、答えに幅がある国語は少しだけ苦手だった。曖昧さを嫌う海馬は「そうとも取れる」系の答えを余りよしとしない。白か黒か、一かゼロか。彼が求め、答える回答はその二つのみだ。

 大体他人の文章を読んでその考えを推し量れという問題に難がある。その文章は書いたその本人にしか本当の意味は分からない。国語の問題だけではない。すべてがそうであるように。

 しかし、大抵の人間は曖昧さを好んでいる。はっきりさせるのが怖いとでもいうように、「そうとも取れる」答えを出し、逃げ道を残す。そのやり方は気に食わない。
 

『なんで?国語って楽じゃん。そうかなぁって思った事を書けば当たるんだもん。なんでもはっきりさせなくたって、僕はいいと思うけど』

 

 小さく嘆息し、国語の問題用紙を手にした時、ふと、遊戯の事を思い出した。他の教科は目も当てられない点数しか取れない彼だったが、どういう訳か国語の現代文だけはマシな点数を取っていた。それは一重に、彼の巧みな「そうとも取れる」答えが効を奏しているのだろう。

 優しさからくる曖昧さ。他人が遊戯を評する時、よくそんな言葉が使われる。そして彼ほど他人に勝手に内心を測られている人間もいないだろう。にこにことした笑みの裏には何があるのか、それは遊戯にしか分からない。けれど周囲はそれを勝手に優しさだと判断し、その態度に甘えている。それを海馬は何故か不快に思った。人の気持ちを勝手に決めるな、と。本人は何も考えていないようだが。

 はっきりさせなくていい。あやふやなままでいい。

 遊戯がその事を殊更言い始めたのは、心の住人である闇遊戯の存在を彼が強く意識しだした時だった。最初は彼を酷く恐れていた遊戯だったが、様々な経験を通し彼と共に生き、今ではなくてはならない相方として、共に一つの体を共有している。それは酷く異常な事で、永遠にそのままでもいられない事は誰の目から見ても明らかで、彼等の行きつく先には必ず別れが存在する。そう遊戯がはっきりと自覚した時、始めてその口からあの台詞が飛び出したのだ。

 それは、遊戯の願いなのかもしれない。全てが明確になってしまえば、導かれる答えは一かゼロだ。そして間違いなく、闇遊戯の存在はゼロになる。非現実的な人間は消えなければいけなくなる。それが怖いのだと彼は言う。だからこそ、曖昧なままでいい、わからなくていいと口にするのだ。

 下らん、と海馬は心の中で吐き捨てる。全てはあるべき場所に、あるがままに収まるのが世の常なのだ。その理から逃れる事など何人たりともできはしない。今は曖昧でもいずれは何もかもがはっきりとしてくるのだろう。それこそ、そう、サンタクロースのように。

 子供心に胸に描いたその存在は、直ぐに誰かが作った偶像だという事を知った。その瞬間から海馬の中からサンタクロースは消え失せ、クリスマスと言う日も意味が無くなった。今では面倒ごとが多い一年で尤も不快な日にすらなっている。現実はそんなものだ。

 けれど、と海馬は思う。

 自分はそうであっても、他人がそうあるべきとまでは思わなかった。信じたいと思うのならば信じればいい。幸福だと思うのならそれを噛み締めればいい。……ずっと共にありたいと願うのなら、その願いを持ち続けていればいい。そう、思った。

 手の下に敷いたままの問題用紙に目を落す。短くつまらない文章にざっと目を通しながら、「この作者の意図はこれのどれか」という問題に着手する。並べられた選択肢はどれも賛同出来なかったが、とりあえず一番近いだろうと思うものを選び取る。やはり下らない、そう思いながら次の設問に移ろうとしたその時、不意に誰もいないはずの教室内に大きな音が響いた。驚いて、顔をあげる。
 

「……か、海馬くん!」
 

 少しトーンの高い声が静かな空間に響き渡る。音を立てたのは教室後方にある入り口の扉だった。スライド式のそれは半分開かれ、その中心に私服姿の遊戯が立っている。彼もまさか教室に人がいるとは思わなかったのだろう。酷く驚いた顔をして、一番前の席に座る海馬を見つめている。

「遊戯」
「どうしたの?もう冬休みなのに学校なんか来て」
「試験をまだ受けてなかったからな」
「あ、そっか。海馬くん、今月全然来てなかったもんね」
「貴様は何をしに来た」
「僕?実は携帯を机の中に忘れちゃってて……昨日気づいて、取りに来たんだ」
「間抜けだな。携帯を持ち歩かなくてどうする」
「あはは、そうだよね。あ、と、ごめんちょっとだけいい?海馬くんの座ってる席、僕の席なんだ」
「………………」

 以前の遊戯の席は前から二番目の廊下側の席だった。何時の間に席替えをしたのだろう。近づいてくる遊戯の姿に、ゆるりと椅子を引いて席を立ちながら、海馬は自分が最後にこの教室に来た日にちを思い出そうとした。確かカレンダーは11月だった気もするが定かではない。

「あ、あったあった。よかったー」
「今度はきちんとポケットにでも入れておけ。凡骨のように首にぶら下げておいてもいいだろうがな」
「うん。気を付けるよ。……首には、千年パズルがあるからちょっと無理だけどさ」

 カチャ、と小さな音がして握り締められた遊戯の携帯とその胸に下がる千年パズルが触れ合った。その音に、海馬は今の自分の台詞を思い出し、少しだけぎくりとする。その首に下げろという事は、今の下げているものを外してしまう事が前提の話である。パズルを外す事、それは即ち闇遊戯との決別を意味する。

 勿論海馬はそんな深い意味を込めて口にしたわけではない。この携帯のようにしょっちゅう無くし物や忘れ物をする遊戯に対するアドバイスとして、身に付けておけと言ったまでだ。けれど、その本心を説明しない以上、遊戯には伝わらない。先程の国語と同じ、当人が口にしなければ他人に推し量りようもない事なのだ。多分今の台詞は遊戯にとってはマイナスに響いたのだろう。心なしか、表情が沈んで見える。

 そんなつもりはなかった。そう弁解したところでどうなるわけでもない。

「ねぇ、海馬くん」

 少し気まずさの漂う数秒間の沈黙の後、遊戯は表情をガラリと変えて海馬へと向き直った。仕草で座るようにと促し、海馬を元通り着席させると普段よりも大分近い位置で見詰め合う。握り締めたままだったシャープペンシルの先が机と当たってかちりと小さな音を立てた。

「今日さ、クリスマスでしょ。海馬くんは、何か予定があるの?」
「……予定とは?」
「え?ほら、クリスマスパーティとか。皆でケーキ買って、ご馳走食べて……」
「あるぞ。貴様が言うお友達同士でやるものとは規模が違う、古狸と女狐が集うクリスマスパーティとやらに出席しなければならない」
「………………」
「面倒で、今からうんざりしている。だからクリスマスは嫌いなんだ」
「海馬くん、クリスマス嫌いなんだ」
「ああ、大嫌いだな。ここで試験を受けているほうがよっぽどマシだ。特別に何かやろうなどと思う輩の気がしれない」

 最後は殆ど吐き捨てるようにそう言い、海馬は遊戯から顔を背けた。その口調はあからさまに八つ当たりだ。どうして遊戯に向けて不満めいた気持ちをぶつけようと思ったのか自分でもよく分からなかったが、彼の口から紡がれる「クリスマス」という単語がやけに気に障った。何がクリスマスだ。勝手に騒いで楽しめばいい。それについてこちらに水を向けてくるな。興味は無い。そうイライラする気持ちそのままに心の中で悪態をつく。

「僕はね、好きだよ、クリスマス。だって雰囲気が凄くいいよね。町も凄く綺麗になるし」
「貴様がクリスマスを好きだろうがなんだろうが、オレには関係ない。試験の邪魔だ。出て行け」
「サンタクロースも来てくれるしね」
「………………は?」
「あれ、海馬くんのところには来てくれないの?サンタクロース」

 海馬の不機嫌などもろともせず、勝手に話を続けていた遊戯の口から飛び出した一言に、海馬は思わず持っていたシャープペンシルを取り落としてしまう。机上に転がり、床に落ちてしまったそれに目もくれず、海馬は心底驚いて横に立つ遊戯の顔を見上げてしまった。ふざけているだろうと思った顔は意外にも真剣で、むしろその事に驚愕する。

「貴様、何を言っている?まさか本気でそんな事を口にしているわけじゃないだろうな」
「え?本気だけど……」
「サンタクロースだぞ?」
「うん。だからサンタクロースでしょ?」
「いるわけないだろう。何を寝ぼけたことを言っている。貴様幾つだ」
「君と同じ17だよ……って。寝ぼけてないってば。僕はいると思ってるの」
「その根拠はどこから……」
「海馬くんだって、いないっていう根拠はどこから出てくるのさ。世界中探してみた?」
「そういうレベルの問題か!」
「海馬くんっていっつもそうだよね。不思議なものは全部オカルトだって否定して、なかった事にしようとしてる」
「サンタクロースは作り話だ!」
「世の中には根拠とか科学的にとか、そんなものが通用しない出来事って沢山あるんだよ。もう一人の僕がいい証拠でしょ。君はその目で見てるはずだよ。獏良くんやマリクくんも。これは事実で、現実だよ」
「だから、それとこれとは話が違うだろう!」
「違わないよ。同じ次元でしょ。一つの身体に二つの人格、魂が宿る。そんな不思議なことが本当にあるんだもの。サンタクロースだっているよ、絶対。僕は、信じてる」

 ……やっぱり話がずれている。現実の話と空想の話をごちゃごちゃに語る遊戯の瞳は相変わらず真剣で、からかっている様子など微塵も無い。その事に、海馬は言いようの無い感情を覚えた。馬鹿馬鹿しさとか下らなさとか訳がわからなくて腹が立つとか、そういう類のものではなく、どこか切ない気持ちを。

 じっとこちらを見据える遊戯の瞳はほんの僅かに揺れていた。何故、そんな顔を見せるのか。蛍光灯の光を反射して煌く千年パズルが少し眩しい。

「……ごめん。ムキになっちゃった」
「………………」
「試験の邪魔してるよね。海馬くん、忙しそうだし。もう帰るよ」

 ゆっくりと顔を背け、遊戯は小さくそう呟くと、その言葉通り教室を去ろうと踵を返す。そして足元に落ちていた海馬のシャープペンシルを拾い上げ、小さく笑った。

「本当はどうかなんて、それこそ僕にはどうでもいい話なんだ」
「遊戯」
「僕は、ただ信じたいんだ。サンタクロースも、もう一人の僕の存在も……彼とずっと一緒にいられる事も」
「………………」
「はい、これ。試験頑張ってね。夜のパーティも……頑張って」
「貴様はこれからどうするんだ」
「僕?家で杏子とクリスマスパーティをやるよ。城之内くんや本田くんはバイトみたいだけどね」
「そうか」
「海馬くんも暇なら来てよ。そんな嫌な思いをするパーティなんかさ、途中ですっぽかしちゃえば?嫌いなんて言わないで、クリスマスは楽しまないと。一緒にいれば絶対楽しいよ」
「簡単に言うな。貴様とは違う」
「同じだよ。こうしてると、何も変わらないじゃん。制服着て、僕の机で試験受けてさ」

 ね、とシャープペンを渡すがてら、遊戯は軽く海馬の指先を握り締め、ぽん、と小さく肩を叩く。なれなれしく触るな!の声にも特に動じず、やはりあの柔らかな表情で微笑んでいる。その内心は、海馬にも分からない。分からないけれど、なんとなく、感じるような気がした。

 そのまま遊戯は背を向けて歩き出し、来た時同様後ろの入り口の扉を半分開けた。特に見送るつもりも無かったが、なんとなく振り向いてその姿を見つめた海馬に彼は真っ直ぐな視線を向ける。その大きな瞳をじっと見つめ、海馬は特にそんな気もなかったが、何故か思わずこう口にした。

「遊戯」
「何?」
「オレは、サンタクロースは信じない」
「……うん」
「だが、貴様の信じる心までは否定しない。勝手に信じているがいい」
「海馬く……」
「信じるものは救われる。どこかの馬鹿が言った言葉だ。貴様には似合いだろう」

 ふん、といつもの尊大な態度と共にそういい切った海馬の顔を、遊戯は思わず目を見開いて凝視してしまう。その視線を鬱陶しげに振り払い、海馬は早く行けとばかりに手を振った。その仕草に、言いようの無い嬉しさがこみ上げて、遊戯の口元に笑みが溢れる。ありがとう、そう言おうとして、それは上手く言葉にならず、仕方なく遊戯が発した言葉は、余りにもそれとはかけ離れたものだった。

「メリークリスマス海馬くん!」

 その声が教室から消える前に、扉は静かに閉ざされた。照れ隠しだろうか、特に必要も無いのに全速力で走る足音が遠く消えていく。広い空間に再び静寂が戻ってくる。

 そんな彼の様子に少しだけ愉快な気持ちになり、海馬は暫く誰もいなくなった場所を見つめていたが、やがて机に向き直り放置したままだった次の設問に取り掛かる。「主人公の気持ちを述べよ」と書かれた一文に「そんな事は分からない」と書こうとして留まった。もう一度文を読み返し、思いつく答えを書き記す。

 人の気持ちなんて誰にも分からない。けれど、信じることは出来るのだ。
 信じたからといって、願いがかなうわけでもないけれど。それでも、その思いは無駄じゃない。

 海馬はふとそう思い、先程よりは幾分軽くなった気持ちで、軽快にペンを走らせた。

 今日のパーティの、どこで抜け出してやろうかと考えながら。
 天から降り落ちてくる細雪も。
 夜になると煌びやかに輝くイルミネーションも。
 プレゼントも笑顔も、皆硝子越しに眺めるだけの、クリスマス。

 サンタクロースは、どこにもいない。

 けれど。

 どこかにいるのかもしれないと信じている馬鹿な男が一人いる。
 彼の願いは、真実には決してならない。
 

 ── それでも、彼は信じるのだ。永遠に、共に在る事を。